23章 決戦の地・オーガスベル
ついに国王軍がオーガスベルへ行軍を開始した。
対峙する両陣営に緊張が漂う。
太陽神の黄金の舟が中空にかかる時、避けようもない戦いが始まる。
ライナス元帥が編成した国王軍が、オーガスベルへ向かって行軍を開始した。
王都ハディースを出て東へ五日。瑰国を南北に横切るクレイモア山脈の麓。うっそうと茂る木立ちが開けると、目の前に広がるのは膝丈まである草原と湿地だ。
人里からは離れ、国王軍と反乱軍がぶつかり合っても里が荒らされる心配はない。そのためにも、このオーガスベル以外の地で戦が始まる事だけは避けたかったのだ。
オーガスベルへの道すがら、近隣の住民達が国王軍への参加を求めて集って来た。ライナスはトウージュから指示されていた通り、女性と成人に達していない若者は送り返した。国王軍に参加する事を許された者は、行軍の最中に適正を判断した大佐達によって組み分けされ、手渡された武器の訓練をする事になった。とは言っても、元々は田畑を耕す農夫であったり、商いをする商人であった者達だ。戦いに参加するとは言え、これまで剣を手にした事もない素人を最前線に立たせる訳にはいかない。
視力の良い者には小型の弓を与え、的を狙う練習をさせた。それ以外の者に与えられたのは、スリングと呼ばれる投石器だ。柔らかくなめした細長い革紐で、中央がやや幅広になっている。中央部に石などを包み、紐の両端を握って頭上で振り回して使用するものだ。これならば、武器に不慣れな市民達にも扱えるだろう。
そして、もう一つ。戦場をオーガスベルに定めた理由があった。オーガスベルの平原は、草地、林、岩地、湿地が混在している珍しい土地だ。そのため、一見すると戦場には不向きに思える。トウージュが将軍達の反対を押し切り、この地を選んだ理由もそこにあった。岩地や湿地のために、大型の兵器である破城槌や投石器を運び込む事が難しいのだ。これらの城攻めの兵器を、何としても王都へ運び込ませる訳には行かない。
病み上がりであるコルウィンは、家臣達の制止を振り切り先頭に立った。
『国を、民を守るための戦いである。王である余が一人、安穏としている訳にはいかぬ』
そう言われてしまっては、誰も国王を止める言葉を持たなかった。
国王が自ら軍を率いて戦場へ向かう。当然のように、トウージュもコルウィンに従ってオーガスベルへ赴くつもりでいた。しかし兄王からの思わぬ反対にあい、それは実現しなかった。
「なぜです、兄上? どうして一緒に行ってはならないのですか?」
まさか反対されるとは思っていなかったトウージュは、ショックのあまり顔面蒼白になっている。
「どうぞ俺も、オーガスベルへお連れ下さい。俺の剣は、この国と兄上をお守りするためにあるのです」
だが弟の言葉にも、兄は首を縦に振らなかった。
「許せ、トウージュ。お前の気持ちは、本当に嬉しい。だがそれでも、オーガスベルへお前を連れて行く訳にはいかぬのだ」
「どうしてですか!?」
「お前にはここ珠春宮に残り、城を守ってもらわねばならぬ。余も王妃も、そして叔母上も戦場へ出向く。城を空にする訳にはいかぬのだ。ウィルカの街には、いまだに不穏な風が吹いておる。余が戦場にいる間、背後を守ってくれる信用できる者が、どうしても必要なのだ」
コルウィンの留守中、パーティルローサには近衛隊と二小中隊が残る事になっている。ウィルカの住人達の事だけを考えるならば、残された兵力だけで十分である。その事を兄王に告げると、コルウィンは優しく笑んで弟に言った。
「兄を困らせないでおくれ、弟よ。確かにお前の言う通りかも知れぬ。だが、考えてみるが良い。これまでの報せから思えば、そのカーティとか申す女薬師が大人しく勝敗の結果に従うとも思えん」
カーティの存在を兄に指摘され、トウージュは言葉を飲み込み、表情を引き締めた。
「余は前線にて国を守る。お前は後方で城と王座を守る。余には、お前以上に頼める者を思い付く事が出来ぬ」
考えてみれば分かる事だ。カーティであり、アーカバルである敵にとって、本来、戦の勝敗など関係はない。相手にとって関心があるのは、瑰国の王座が空になる事だ。何と言っても、己の魂の破片が封印されており、王家直系の血筋を持つ者以外がその王座に就けば、封印の力は効力を失うのだから。
アーカバルの手下に煽動された、ウィルカの街の住人達の事もある。パーティルローサの警備が手薄になるこの機を、奴等が見逃すはずもない。城に残る兵達を指揮する者が必要だ。
「判りました、兄上。お言葉通り、俺はここに残って城を守ります。兄上が背中を気にせず、目の前の戦いに専念できるように」
「頼むぞ、トウージュ。同じ戦場には立てずとも、我等の心は共にある。余は余の戦いを、お前はお前の戦いを勝ち抜こうぞ」
甲冑に身を固めた兄と、トウージュは抱擁を交わした。触れ合う虚ろな金属音が無粋に響いたが、兄弟の心を伝えるには充分だった。
パーティルローサを出た兄コルウィンは東へ向かい、残った弟トウージュは城を守る。背中に弟の視線を受けながら、コルウィンはオーガスベルへ馬を進めた。彼の隣で轡を並べるのは、革の胴鎧で身に包んだ王妃のアイナセリョースだ。
「陛下、お加減はいかがですか?」
長い髪を編み込み、頭に巻きつけたアイナセリョースは少し幼く見えた。
「ああ、心配はいらぬ。これまでにない程、気分が良いのだ。今から戦に赴く事を思えば、少々不謹慎な程にな」
確かに、城の居室にある時よりも、具合は良さそうに見える。馬を進めながら、コルウィンの頬には笑みが浮かんでいる。
「不思議な気持ちだ。これから危険な戦場に出向こうと言うのに、清々しさすら感じる。今まで頭の上にのしかかっていた、重苦しい何かが取り払われたようだ」
「陛下のそのように晴れやかなお顔、拝見するのは久し振りですわ」
「きっと、王座に未練が無くなったからであろう。余はこの戦で、命を落とすやも知れぬ。だが瑰の国は、トウージュがきっと導いてくれるはずだ」
二人の後ろから馬を進めていたイルネアが、呆れ気味に声をかけた。
「陛下。戦から戻られぬ事を前提にお話をされていますわ。命をかけるお覚悟は素晴らしい事ですが、生きて戻る強い思いがなければ、勝てる戦も勝てなくなってしまいます」
その言葉の中に含まれた叱責に、コルウィンは表情を改めて答えた。
「いかにも、叔母上の申される通りだ。我等は勝つために、戦に赴く。負ける訳にはいかぬのだからな。気を引き締めてかからねば」
馬上から後方を振り返れば、そこには国王の旗印を掲げた兵士達が付き従う。そしてその兵士達の大半は、戦い方も知らぬ平民なのだ。
「余には、この者達を無事に家族の元へ返す、その責任があるのだな。皆が、己と、己の大切に思う者のために戦地へ向かう。一人でも多く連れ帰るためにも、余は死ぬ訳にはいかぬ」
オーガスベルは人の手の入っていない土地だ。開拓するには、手間がかかり過ぎる。うっそうと茂る木立ちの奥に天幕を張り、コルウィンは将軍達を集めて綿密な打ち合せを行い、新米の兵卒らを鼓舞して回った。その精力的な動きは、病弱な国王の姿を知るものにとって、ひどくハラハラさせられるものであり、眩いものでもあった。
木々の間を透かして見れば、草原を挟んで敵側にも何やら動きがあるのが分かる。
「いよいよだな」
生粋の軍人であるライナスは、王弟トウージュ・ラムナ・イルス・瑰の立てた作戦に沿って兵士達を配置して行った。
トウージュの提示した作戦を聞いた時、ライナスは正直、あり得ない話だと思った。戦を生業とする兵士達と、神殿を警護する僧兵、武器を手にした事すらない市民達。これらの集団をまとめる事は、一見、不可能に思えたからだ。だが話を聞いて、ライナスは考えを改めた。それぞれがピタリとくる配置であり、役割を与えられていた。作戦そのものも斬新なもので、これまで正面からぶつかり合う戦法しか知らなかった将軍達は、かなり驚いたようだった。もちろんライナスも例外ではない。
しかし実際にオーガスベルの地に立ったライナスは、トウージュの作戦の有効性に確信を持った。
地形と兵士の特性を最大限に活かす戦略を、トウージュ・ラムナ・イルス・瑰は与えてくれたのだ。それは、既成の概念に捕われない、トウージュだからこそ立てられた作戦なのだろう。
王妃アイナセリョースと、前王妹であり現ノーヴィア公爵夫人であるイルネアが設けた治療用の天幕の周囲に、警護のために兵士と僧兵の一団を配すると、ライナスは空を仰いだ。
冬特有の澄んだ空を渡る太陽神トラバルーナの黄金の舟が、中空にさしかかろうとしている。戦の作法にのっとれば、双方の使者が戦場の中央に進み出、お互いの剣を合わせる。その使者が両陣営に戻り付いた時をもって、開戦の合図とするのだ。
伝令の一人が左手に瑰国王家の旗、玉を抱く四葉の翼を持つ王冠を戴いた鷲の紋章を掲げ、開戦の使者である肩章をなびかせながら、戦場の中央へ馬を進めた。同じようにノーヴィア公爵軍からも、開戦の使者が進み出る。
本来であれば、このまま剣を交差させるだけなのだが、国王軍の使者は旗竿をあぶみに固定すると、胸元から書簡を取り出した。
「瑰国国王コルウィン・イルス・ダルム・瑰の御名において、ここに勅旨を申し渡す。本日この時をもってサマル・ビュイク・ノーヴィアの爵位を剥奪し、瑰国王座に対する反逆者としてこれを討つものなり。また、サマル・ビュイクに従う者達も同じく、その爵位を剥奪し反逆者とするものである」
朗々と勅書を読み上げた使者は書簡を巻き取り、相手方の使者に差出した。書簡を手渡し、剣を合わせると、双方の使者は馬首を返して互いの陣営へと駆け戻った。
「愚昧なる王、コルウィンよ。瑰国に住まう多くの者が、そなたが玉座にある事に不満を持っている事を知るが良い。無駄に抗い、血を流さずとも、そなたが素直に王位を退けば済む話。あくまで年長者に逆らうと言うのであれば、力を持って悪政を正してくれよう」
サマル・ビュイクは使者から書簡を受け取ると、それを広げて剣で貫き、高々と掲げて嘲笑った。
「力なき王よ。正義の前に頭を垂れるが良い。己の不甲斐無さを悔やめ!」
冷笑を浮かべてコルウィンを挑発するサマルに向かって、醒めた表情をした国王が言った。これまで誰も聞いた事もないような、氷のような声で。
「弱い犬ほど良く吠える、と言うが、それは真のようだ。なにやらキャンキャンと騒がしい」
風に乗り、己の陣営に届くコルウィンの声に、サマル・ビュイクの顔が強張った。自分の絶対的な優位を信じて疑う事をしなかった者が、初めて何か間違いを犯したかも知れないと不安を抱いた瞬間である。
「余は前国王より王座を譲り受けた、正統なる瑰の国主である。汝は余の叔母であるイルネア・エメスとの婚姻により王家の末席に籍を受けたに過ぎぬ。最早その方は爵位を剥奪され、公爵ではない。ただの無頼者である。公爵家は我が叔母イルネア・エメスを後見とし、ティルス・グラルに与える。汝には、もう何も残ってはおらぬぞ。公爵の地位も、家族も、玉座もだ。そしてこれより汝の命も、その方の手の内より零れ落ちるであろう」
厳かに告げられた国王の言葉に、サマルの顔は怒りでドス黒く変化し、額に血管が浮かび上がった。
「大人しく聞いておれば、世迷い事をベラベラと。若輩者が生意気な事をほざきよって。ええい、無駄話は終いじゃ。コルウィンの首を取れ! 正義は我等にあるぞ!」
血走った目で、上ずった声で、サマル・ビュイクは付き従う者達に命令を下した。ただ恐怖でもってのみサマルに従う、地方貴族達とその兵士団に。
サマル・ビュイクの叛乱軍が動き出したのを見て、コルウィンも静かに剣を振り下ろす。最前列に配されていた弩隊が、敵陣から攻め来る人馬に向かって矢を放った。
血腥い午後の始まりである。