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夢幻の瞳 現の涙  作者: 橘 伊津姫
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20章 トウージュ・決意新たに

旅先でアイヒナからの報せを受取ったトウージュは、その内容に動揺する。

時間はあまり残されていない。昼に夜に馬を走らせ、彼は王都を目指す。

そこで瑰国の王弟殿下が目にした、耳にしたことは、彼にどのような決断を迫るのか?

 街道にけたたましい、馬の蹄の音が響き渡る。

 アイヒナからの鳩が届けた情報は、トウージュに大きな衝撃をもたらした。

『ウィルカの領主、やはり夢魔なり。これを倒すも、ウィルカの領内に叛乱の火種まかれたり。ノーヴィア公爵が王都に向けて、挙兵する可能性あり。急ぎ珠春宮に戻られたし』

 小さくたたまれた羊皮紙の最後に、彼女の几帳面な文字でこう記されていた。

『私の力が足りず、すまない』

 なぜ? とも思う。烽火ほうかを避ける事は、出来なかったのか、と──。そう考えて、トウージュは自分の考えを恥じた。あのアイヒナが、何も考えなかったはずがない。相手が相手だ。ウィルカの街や王都、あるいは瑰全体を質に取る事だってするだろう。そうなった時、果たして己ならばどうするか? 彼女は決して、自分の使命の事だけを優先したりはしない。ギリギリまで悩んでの決断だったに違いないだろう。ならば──。

「ならば俺は、その決断を信じるまでだ」

 手紙には、パーティルローサとエルキリュース神殿にも報せを送ったとある。リュフォンとアイナセリョースの許に事態の情報が届けば、トウージュが戻るまでの時間を有効に使ってくれるはずだ。

 今はただ、一刻でも早くパーティルローサへ、兄の許へ戻る事だけを考えよう。

 焦る心を抑え、トウージュは手綱を握る手に力を込めた。


**


「ウィルカで、治療院が住人達に襲撃されたという報せが入りました。制止に入った黒官こっかんに対して、投石があったようにも報告されております」

 国王の寝所で宰相からの報告を受けたアイナセリョースは、疲れたように額に手を当てると、深々と息を吐いた。

「恐れていた事が、とうとう現実になってしまいましたわね──」

 痛々しい様子の王妃を気遣って、イルネア・エメスが声をかけた。

「大丈夫なの、アイナセリョース。顔色が良くないわ」

「ええ、大丈夫です。ありがとうございます、イルネア。こんな時ですもの。わたくしがしっかりしなくては」

 気丈に振る舞うアイナセリョースに、イルネアは言葉を続けようとして──結局、口を閉じた。そんな二人の姿を見て、ベッドの中の若き王は思う。

 辛いのは、イルネアも同じだ。ウィルカの街で民衆が蜂起した。それは取りも直さず、夫であるサマル・ビュイク・ノーヴィアが国王である甥に向かって兵を挙げた、と言う事だ。この後の続く悲劇を思えば、コルウィンやアイナセリョース以上に胸が痛むだろう。

 それらの感情を押し殺し、今目の前に差し迫った危機に立ち向かおうとする二人の女性に、コルウェンは己の不甲斐無さを痛感した。

「ともかく、事の次第を神殿の巫女が報せてくれたのは、我等にとって不幸中の幸い。騒ぎが大きくなる前に、何とか手を打たねばなりますまい」

 エルキリュースの巫女からの手紙をたたみ直し、リュフォンは室内に揃った顔触れを見回した。

「この書簡によりますれば、トウージュ殿下もこちらへお戻りになっておられるようです。殿下がお戻りになられるまでに、我々に出来る事をしていきましょう」

「うむ。リュフォンの言う通りだな。苦しい胸の内を明かしてくれた、エルキリュースの巫女のためにも。我等は、この報せを無駄にしてはならぬ」

 ベッドから半身を起こした国王の言葉に、王妃、前王妹、宰相は表情を引き締めた。

「我等の勝手な政治の思惑に、罪のない国民を巻き込む訳にはいかぬ」

「サマル・ビュイクの動向は?」

 イルネアがリュフォンに向かって問いかけた。

「はい。こちらの放った密偵によれば、ノーヴィア公は領内に留まっておいでです。屋敷への人の出入りが激しくなってきておりますので、本格的な挙兵までそれ程の時は残されておらぬかと」

 そう答えた宰相は、痛ましげに公爵夫人を見つめた。イルネア・エメスは、未だにサマル・ビュイクと離縁してはいない。このままノーヴィア公爵が兵を出せば、もちろんイルネアも息子のティルスも罪の問われる事になる。

「イルネア様……。こんな時にとは思いますが、やはり、ノーヴィア公爵家とは縁をお切りになられた方が……」

 心配そうな視線がイルネア・エメスに集中する。国王の寝所に差し込む光を背に受け、影になった彼女の表情はうかがい知れない。

「お心遣い、ありがたく存じます。陛下にも、妃殿下にも、わたくしの今後の処遇について、お心を煩わせてしまいまして。ですが、今は我が身の身の保身よりも、国の大事を優先しなくては。今回のサマルの事につきましても、もとはと言えば、夫を止められなかったわたくしの責任。ならば、わたくし一人が責めを逃れる訳にはまいりませぬ」

「しかしそれでは、幼いティルス・グラルも罪に問われる事になってしまいますわ」

「ええ。ティルスの事を考えれば、胸が痛みます。しかし公爵家の跡取りとして生まれた以上、負わねばならない責任がございます。それは幼きと言えど、ないがしろにしていいものではありますまい」

 そこにあるのは、公爵家を支え続けてきた妻としての、幼子を想い導く母としての、そして、国を担う王家の人間としての決意。イルネアの強い想いを目の当たりにして、それ以上の言葉をかける事は誰にも出来なかった。

「そうだな。全てが終わったら──そうしたら、ゆっくり考える時間があるだろう。それまでは保留という事だ。確かに、今優先されるべきは民の安全と、叛徒はんとへの対応。王都の他の三地区の動向は?」

「はい。今のところ、目立った動きはないようです。しかし、ノーヴィア公率いる叛徒の群を目にすれば、人心がどのように動くかは想像に難くありません」

 王都の地図を広げて、ウィルカの街を指でなぞりながら、アイナセリョースが口を開いた。

「現在ウィルカの治療院に遣わしている者達を、一旦こちらへ戻しましょう。薬師はこれからも必要になります。この騒ぎの後には、必ず彼等の力を借りる事になるのですから」

「御意」

「万が一にも気持ちを操られた人々が、誰かを傷つけたりする事のないようにせねば。彼等に罪はないのだからな」

「早速、そのように取り計らいます」

 リュフォンは頭を下げると、手続きを進めるために王の寝所を退がった。

 ベッドの中で軽く咳込んでいる国王に、手ずから淹れた薬湯を渡すと、部屋の窓を開けて空気を入れ替えようと王妃は立ち上がった。

「神殿にも、これと同じ報せが届いているのでしょうか?」

 イルネアがワゴンに用意されていた茶器で、自分とアイナセリョースの茶を淹れる。ささくれ立った気持ちを穏やかに静めてくれる効能があるはずの香茶も、さすがに瑰を支える二人の女性の心を和ませる事はなかった。

「わたくし達は、少しでも相手より先んじているのでしょうか……?」

 臣や民達には見せた事のない、否、何があっても見せてはならない、不安そうな王妃の顔。

「トウージュ殿が届けてくださった報せを、わたくし達は活かせているのかしら……」

「あの者は……薬師のカーティは、抜け目のない人物です。わずかでも、あの者と過ごした事のある人間であれば、判ります。あの者は──あれは、とても冷たく残酷な顔を持つ、何か得体の知れないモノです。わたくし達が知りえている事ならば、相手も知っていると思って間違いはないでしょう」

 白地に金の装飾を施されたカップを両手で包み、そこから伝わる温もりを感じる。まるで凍えてしまった自分の体を、両手の間の小さなカップから伝わる頼りない温度で温めようとしているかのようだ。

「それでも──。それでも、わたくし達は守らなければなりません。瑰を、この国に住む者全ての命を、わたくし達は託されたのですから」

 己に言い聞かせるように、アイナセリョースはカーテンを握り締めて呟いた。

「まったく……余は役に立たぬ国王だな。自分の治める国の一大事だと言うのに、先頭に立って指揮をとる事も出来ぬ。皆を救う事が出来るのであれば、余は玉座など、くれてやっても構わぬというのに……」

 力なく自嘲の表情で、コルウィンが口を開いた。上掛けの上で握り締められた両手は、白く色が変っている。

「陛下、それだけはなりませぬ。何があっても、玉座をサマルに渡してはならぬと、神殿の巫女も申しております。サマルなどに玉座を渡しては、それこそカーティの思う壺。決してそれだけはなりませぬ」

 まなじりを吊り上げ、イルネア・エメスが年若い甥の考えを退けた。

「何のために、巫女殿やトウージュ殿下が奔走ほんそうなさっておられるのです。陛下がそのようにお心弱くあられては、初めから負けを認めているようなものでございますわ」

 叔母からの厳しい言葉に、コルウィンは苦笑した。

「変りませんね、叔母上。幼い頃は、トウージュと二人で良く叱られたものだ。この年になって、叔母上から叱って頂けるとは思いもしませんでしたよ」

 喉に絡んだしつこい痰を振り切るように、二、三度咳込むと、静かに顔を挙げた。自分の裡にある弱さと迷いを見据え、決意を固めた国王の顔がそこにはある。

「いかに叔父上と言えど、国を荒らし戦禍を招こうとする者を、このまま見逃す訳にはいかぬ。間もなくトウージュも珠春宮に戻るだろう。それまでに、我等にできる事をするのだ」

「御意にございます」

「かしこまりまして」

 瑰国を支える二本の柱、王妃アイナセリョースと公爵夫人イルネア・エメスは、王の言葉に優雅に頭を下げた。


**


 匠都ホルテスから、真っ直ぐに王都を目指す。

 日を徹し夜を費やし、トウージュは馬を走らせて来たが、ついに人も馬も疲労で動けなくなってしまった。

 とにかく目についた宿に馬を止めると、フラつく足で文字通り転がり込んだ。

「オ、オヤジ……水を……水をくれ」

 カウンターにもたれかかり、宿の主人が慌てて差し出してくれたカップを奪い取るようにして一息にあおった。

「は、ふー。助かった……オヤジ、少し休ませて欲しいんだが、部屋はあるかな?」

 やつれてヨレヨレのトウージュの姿に、主人も哀れをもよおしたのであろう。すぐに部屋と湯を用意すると伝えた。

「あとそれから、表に馬がいるんだが、水と飼い葉を頼む。俺にも何かもらえるか?」

 それだけを口にすると、トウージュは力尽きたようにカウンターから滑り落ちた。

「お、お客さん! 大丈夫かい、あんた?」

「俺より、馬を……」

「自分よりも馬の心配をするなんざ、お客さん、余程の馬好きかい?」

 這いずって何とか食堂の椅子に辿り着くと、坐面によじ登って息を吐いた。

「いや、そういう訳じゃないんだ。随分と無理をさせたからな。休んだら、また頑張ってもらわないといけないんだ」

 突っ伏したテーブルからわずかに顔を挙げ、宿の主人に告げた。しかし、馬の心配をする前に、トウージュ自身もボロボロだ。

「おーい、トム! 表の馬を厩舎に連れてって、水と飼い葉をやっといてくれ!」

 ちょうど階段を降りて来た息子らしき少年に、前掛けを締め直しながら主人は言いつけると、急いで厨房へ入って行った。

 しばらくすると、皿とジョッキを持った主人がトウージュの前に立った。

「ほいよ、お客さん。急いで作ったから、こんなモンしかねえが、食ってくんな」

 テーブルの上に出された皿には、スライスしたパンの間に野菜と肉をはさんだものが載っている。ジョッキの中身は酒ではなく澄んだ液体で、清々しいライムの香りがする。

「そんなヨレヨレの状態じゃ、かえって酒は毒だからな。良く冷えた水に、ライムの果汁を合わせたもんだ。疲れた体にゃ、それが一番さ」

 一口含むと、口腔一杯に豊かなライムの香りが広がる。乾いていた体中の細胞に、水分が浸透していくのが分かる気がした。

「ああ、美味い。こんなに美味い水は、初めて飲んだよ」

「だろう? この辺りの水は、昔から名水だってんで有名なのさ。最高の水が湧く泉があってね。山脈の雪解け水が、地下を流れているんだ」

 宿の主人は、水を褒められた事が嬉しかったらしい。顔をほころばせて、自慢を始めた。

 側のテーブルにいた者達も、ジョッキを掲げて口々に自慢をし始めた。

「国王様だって、こんなに美味い水は飲んじゃいねえだろうよ」

「違ェねえや」

「この水は、俺達の街の誇りだもんなぁ」

「けどよぉ……」

 その中の一人が沈んだ声を出した。

「戦が始まったら、俺達の泉も荒らされちまうんだろうなぁ」

 途端に、男たちの顔付きが変った。

「まったく、何考えてやがんだろうな、貴族の連中は。ようやく眠り病が落ち着いて、安心して眠れるようになったってぇのに」

「ふん。貴族なんて、そんなもんさ。俺等平民の事なんざ、虫ケラ以下にしか思ってねえんだろ」

 苦々しく吐き捨て、男はジョッキをあおった。

「国民からむしり取った税金で贅沢三昧しておいて、自分の都合で戦を起こし、そのために俺達に死ねと言う。一体、貴族様ってのは何モンなんだろうな」

 やはり叛乱の噂は、ここまで届いている。人心が不安と恐怖に揺れ動き、様々な流言が飛び交っているのだ。

(これは、一刻も早く王宮に帰り着かなくては。不安にかられた者達が、ノーヴィア公爵に賛同する可能性もあるかもしれない)

 だが、いくら心が急いても、体が回復しなければどうしようもない。馬もここで休ませてやらなくては、残りわずかも走れまい。

「大丈夫だあな。いざという時には、国王様が何とかして下さる。だからワシ達は、戦いを仕掛けようとしている連中の話に、惑わされないようにすりゃいいんさ」

 厨房の奥から樽を運んで来た老人が、嘆く男達を諭すように静かに言葉をはさんだ。

「そんな事言ってもよ、父っつぁん……」

「当代の国王様は真面目な方だ。ワシ達の事を忘れて、戦争を始めるような方じゃねぇよ」

 空き樽を店の外に運ぶのだろう。宿の主人の父親とおぼしき老人は、ゆっくりとした歩調でテーブルの間を進む。

 ジョッキの縁に口をつけたトウージュの耳に、老人の小さな声が届いた。

「トウージュ王弟殿下でございますね。身分をお隠しとお見受け致しましたので、礼はとりませぬ。お許しを」

 突然の事に驚きながらも、それを顔には出さず、トウージュも小声で応じた。

「俺の事を知っているのか?」

「はい。四年前の国王様の国内視察の折り、同行なさっておいでの殿下をお見かけ致しました。それでお顔を覚えていたのです」

「俺に何か伝えたい事があるのか?」

「どうか国王様にお伝え下さい。この街は大丈夫です。いかに反乱者が攻め入ろうとも、決して国王様を裏切る事はございません、と」

「……陛下への御伝言、確かに預った。必ず陛下にお伝えする」

「有難う存じます。直に言葉を交わします御無礼、何とぞ御容赦を」

「構わぬ。気にするな」

 老人はわずかに頭を下げると、再び樽を抱えて歩き出した。トウージュも表情を変えずに食事を終え、テーブルを立った。

 用意されていた部屋に入ったトウージュは、旅装のまま寝台に倒れ込んだ。疲労と睡魔が波のように押し寄せ、彼の全身を包み込む。

 朦朧もうろうとするトウージュの脳裏に、先程の老人の言葉が浮かんだ。

『国王様を裏切る事はありません』

 皮肉なものだな、とトウージュは思う。王都に近い程、人の心は国王から離れている。それとは逆に、中央から遠くなるにつれ、人々は国王への忠心を見せる。

 やはり、権力の近さと関係があるのかも知れない。なる程、中央から離れた土地に住む者にとって、貴族達の利権争いなどどうでもいい事なのだ。あるのは、ただひたすらに、国王への信仰にも似た忠誠心。

「彼等の暮らしを……壊す訳には……」

「いかない」と言う呟きは、そのまま寝息の中に紛れてしまった。


**


 夢も見ず、泥のように眠ったトウージュは、すっきりとした頭で目覚めた。

 まだ幾分疲れは残っているものの、昨日のように動けなくなることはないだろう。

 井戸の冷たい水で顔を洗うと、体もシャンとした気がする。

 食堂では宿の主人が、早発ちの客のために朝食を用意していた。

「おや、お早うございます。良くお休みになれましたかな?」

 にこやかに声をかけてくる主人に勧められて、トウージュはテーブルに着いた。

「夕べは、大したモンが出せなかったんでね。その様子からすると、今日も大変な一日になりそうなんでしょうよ。しっかり食って、体力つけてもらわにゃ」

 そう言って、テーブルの上に朝食にしては豪勢なメニューを並べていく。

 産み立て卵のチーズオムレツに、野菜サラダ、バターに焼き立てのパン。新鮮なカブのスープ、あぶったベーコン、香りのいいコーヒー。

「おおっ、こりゃ美味そうだ」

 食事に含まれる『生命の源』が、トウージュの体の隅々に行き渡るのが感じられるようだ。

「夕べあの後、父っつぁんから聞きましたよ。お客さんは大事なご用で、王都まで急ぎで行きなさるって。だから明日の朝は、うんと精のつくモンを用意しろって言いつかったんですよ」

 主人は前掛けで手を拭きながらやって来ると、空いた皿を片付けながらトウージュに語った。

「それは……。気を使わせてしまって、悪かったかな」

 彼が恐縮すると、主人はカラカラと笑って手を振った。

「なぁに、大した手間じゃねえんで、気にしなさらず。それより、急いで出立なさるご予定なんでしょう? 馬の用意をしておきますんで」

「ああ、お願いする」

 皿を抱えて厨房へ戻る主人の背中を見送り、トウージュはテーブルから離れた。

 部屋に戻り、放り出してあった荷物をまとめる。とは言っても、それ程荷物がある訳でもない。

 麻袋から財布を取り出し、中身を確認する。旅装を整えて階下に降りると、昨夜、馬の世話をしてくれたトムと呼ばれた男の子が、食堂の掃除をしていた。

「えーと、そこの君。支払をしてしまいたいんだが──」

 テーブルの下を掃いていた少年は、トウージュの声に上体を起こそうとして、椅子につまづいてバランスを崩した。

「おおっと! 大丈夫かい?」

 駆け寄ったトウージュが、すんでのところでトム少年を抱き止めた。

「悪かったな、急に声をかけて。驚いたか?」

「す、すみません。大丈夫です」

 照れたように笑うと、ちょっと待ってて下さいね、と言い置いて外へ駆けて行く。待つ事しばし、開け放たれたドアから主人が入って来た。

「お待たせしちまって」

 ニコニコとやって来た宿の主人に支払を済ませ、荷物を抱えて馬が用意されている厩舎へと向かった。だが、トウージュはいぶかしげに厩舎の中をキョロキョロと見回した。

「あれ? 俺の馬は?」

 夕べ宿の前まで乗り付け、預けたはずの馬が見当たらない。

「親父さん、俺の馬がいないんだけど?」

 後ろにいるはずの主人を振り返ると、目の前に支度を整えた馬を牽いてニコニコと笑顔でトウージュを見ている姿があった。

「いやあ、驚かそうと思ってね。お客さんから預った馬は、疲れがたたったのか、足を痛めてしまいまして。急ぎの旅には耐えられそうにないってんで、今朝早く、父っつぁんが馬市で選んできたんですよ」

 くつわを牽かれた青毛の若駒は、首を振って、走り出したい気持ちを抑えているように見えた。

「いい馬だ。だけどいいのか、こんな事してもらって? 代価を払いたいけど、生憎と持ち合わせがないから、何も渡せないしなぁ」

 戸惑ってしまったトウージュが、頭をかきながら困り顔で言うと、主人が表情と口調を改めて語り始めた。

「代価なんて、何もいらねえですわ。夕べ、父っつぁんから聞きました。ご身分を隠しておいでなので、礼をとっては逆にご迷惑になると言われたので、このまんまで申し訳ねえです。あの馬じゃ歩く事は出来ても、走る事は無理ですわ。どうぞ遠慮なく、この馬を使って下さいまし。そいでどうか、戦を止めて下さいまし。お願いします」

 深々と頭を垂れる。その姿にトウージュは何も言う事が出来なくなった。

 これから始まろうとしている戦は、この国に住み、生活している人々にとって何の関係もないものだ。

 国王位を奪わんと目論み、兵を挙げて謀叛を企てるノーヴィア公。そして、それを後ろで操り、己を縛る封印を解こうと画策するカーティ、否、邪神アーカバル。

 彼等の思惑は、ただこの国に混乱を引き起こす事のみ。穏やかに、慎ましやかに暮らす人々の上に、炎とわざわいしかもたらさない。今、目の前で頭を下げている男の上にも、酒を酌み交わしながら笑い合っていた、昨夜の男達の上にも、そして彼等が『誇り』と胸を張った泉の上にも、間違いなく降りかかるのだ。

「──戦なんか……。戦なんか、起こさせない。そのために行くんだ。絶対に間に合って見せる」

 それは王族としての矜持。守らねばならぬもののある、人としての信念。

「どうぞ、この馬を。お願いします。この街を、この国を、守ってくださいまし」

 再度、深々と頭を下げた主人の手を、トウージュはしっかりと握った。

「約束する。きっと守るから」

 きつく握り合わせていた手から、手綱がトウージュに引き継がれた。それは、国を託されたと同じ事。

 瑰国の王子を背に乗せた馬は、有り余る力を示したくて、しきりと地面をかいている。もう主人は何も言わなかった。トウージュも語る言葉はすでにない。無言で視線を交わすと、青毛の脇に拍車を当てた。

 背中に宿の主人の真摯な想いを負って、トウージュは街道をひた走る。

 絶対に間に合わせなければならない。自分が守るのは『国』ではない。そこに暮らす多くの『人』の過ごす日々。

「間に合わせて見せるさ」

 食い縛った歯の間から、絞り出すように発せられた言葉。それこそが、トウージュの真実。

 瑰国の王弟殿下を乗せて、まるで風のように青毛は疾走する。

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