1章 旅立つ者・思案する者
何かを正しく認識し、対応策を決めるためには、正しく事象を見極めなければならない。
そのためには、自分の肌で感じなければ。旅立つ者の真理はどこに?
世界地図を広げると、一番最初に目に入る巨大な大陸──セルギナ。
大小の国が散らばる中に、四つの大国がある。玉の瑰国、木の栖国、海の涛国、絹の継国。それぞれに守護神を祀り、神殿が国教として権力を持つ。
数多くの玉泉を擁するここ瑰国では【大地母神・イシュリーン】を守護神とし、その神殿を中心とした大都市が出来上がっていた。国民の心の支えとなる、宗教の都・宗都サンガル。
もちろん、信仰が限定されている訳ではないので、イシュリーンのもの以外の神殿もある。中心地に近いほど、信徒が多い。
「一体どこから、こんなに人が出てくるのかねぇ?」
大神官の私室から、美しく舗装された街並みを見下ろし、一人の青年が呟いた。
「何かおっしゃいましたか? トウージュ王弟殿下」
大神官のリュヒターが執務机から顔を挙げて尋ねた。トウージュは肩をすくめると、何でもないと手を振り、リュヒターを見る。
「それで何か掴めたか?」
手元の書類に視線を戻しながら、リュヒターは長いため息を吐いた。
「このところ国内で続いている変死についてですな。我がイシュリーン神殿でも色々と探ってはいるのですが、まだ手がかりすら掴めない状態で」
「国内最大の情報量を持つ、イシュリーン神殿でもか──」
二人が頭を悩ませているのは、このところ瑰国内を騒がせている、変死事件についてだ。
死亡しているのは老若男女を問わず、場所柄的にも共通点はない。ただ、いずれも眠っている間の事であり、外傷もない。初めは流行り病かとも思われたのだが、どうやらそういったモノではないらしい。
「エルキリュースが神狂いでもされたか」
トウージュが疲れたように口を開く。
「殿下。ご冗談でも、そのような事を口にされますな。仮にも相手は『神』なのですぞ」
リュヒターが恐れ多いと、素早く印を切る。
世界に広く伝わる神話では、エルキリュースは眠りと夢の神だ。
主神“秘められたる御名”ラングマールの息子でもあり娘でもある神。夢を喰うと言う伝説の獣・ドラムーナを従がえ、夢魔・バフォナを狩る。
「そういえば、エルキリュース神殿はどうなのだ?」
今さらな質問に、リュヒターは渋い顔をした。
「あちらも独自の調査をしているようですが。我が神殿よりも影響が大きいでしょう。なんせ、眠るのが怖いんですからな」
「しかし、エルキリュース神殿には夢幻鏡があるだろう? あの『夢渡り』を可能にするという至宝が!」
リュヒターのすっかり薄くなってしまった頭を睨み付けながら、トウージュは声を大きくした。
「ありませんよ」
次の言葉を口にしようと息を継いだところに、サラリとリュヒターが答える。
「──え?」
「ないんです、夢幻鏡。現在、エルキリュース神殿には。もちろん確認済みです」
握り締めた拳を、力なく両脇に垂らす。
「はあぁ──」
大神官は執務机を離れ、トウージュに深々と礼をする。
「トウージュ王弟殿下。誠に申し訳ございませんが、午後の典礼がありますので……」
「ん。邪魔をしたな」
自ら扉を開きトウージュを送り出しながら、リュヒターは思い出したようにその背中に声をかけた。
「そう言えば、エルキリュースの巫女が一名、“夢織り”として神殿を出たようですよ」
しかし、それがどういう意味を持つのか、二人には判らなかった。
**
「なあ、主殿」
昼下がりの街道を、アイヒナがムッツリと歩いている。
食料が残り少ないわけでも、路銀が心許ないわけでもない。
「吾は思うのだがな、主殿よ。最近の夢魔はアレだな」
アイヒナの肩より一段低い所で声は続く。
「質が落ちて、一向に腹がくちくならん。ここらでこう、デカい奴をだな──」
「やかましいぞ、闇姫」
とうとう我慢できずにアイヒナが口を開く。
「黙って聞いておれば、ベラベラとよく働く口だな! お前のソレはっ!」
怒鳴り返したその先にいるのは、一頭の黒狼だった。ただ、瞳だけが燃えるように紅い。
「大体、そのナリでしゃべるな。誰かに見られたらどうする」
怒りにまかせて大股で歩むアイヒナは銀の髪を布でまとめ、肩にリュートを入れた袋と荷物を掛けている。
瑰国はセルギナ大陸の北に位置しているため、夏は短く冬が長い。季節は秋。旅するには最も適した時期ではあるが、風は早くも冷たい。ずり下がったマントと荷物をゆすり上げ、金の瞳で連れの黒狼を睨み付ける。
「しゃべるのなら、人になれ!」
知らない人が聞いたら、神経を疑われてしまいそうな事を叫んでいるアイヒナの目前で、黒狼の姿がたちまち人型に変わっていく。
「これでよろしいのかな、主殿よ?」
街道を渡る風に長い黒髪を流し、紅眼を細めて言葉を紡いだのは、黒い衣装に身を包んだ女性だ。しかも、すこぶるつきの美女。
「それでな、先程の続きなのだが。やはり仕事をする以上、吾としてもそれなりの報酬が欲しいと思うわけだ──」
延々と続く彼女の言葉に、アイヒナは頭を抱えた。
「うるさい。頼むから少し静かにしてくれ、闇姫」
獣がしゃべり、姿を変える。そのような不思議に、驚きもしないアイヒナの正体とは──。
「神代のエルキリュースが従がえたドラムーナも、こんな奴だったのか?」
**
まだ世界が熟していなかった神代の時代。いずこかより現出した神“秘められたる御名”ラングマールが、力を持った言葉で世界を創り上げた。
何もなかった世界を整えるために、主神は自らの力を使って神々を生み出した。
天空神シャーリハーンとその妻、大地母神イシュリーン。水を司るケシュと、その巡り会う事のない恋人、火神ネフティ。孤独の神・風神バルメッサと荒ぶる神・海神メライーサの兄弟。芸術神ミュールと背中を合わせた美神フォルンの姉妹。
天空神は太陽神トラバルーナと月神リュスの二柱の神を、大地母神は豊穣神アルスメナと死神ラ・ズーを生み出した。
そして力を使い果たした主神の身の虚ろより暗黒神アーカバルが生まれ、ため息の中から眠りと夢の神エルキリュースが生まれた。
神々を生み出した疲労により、主神ラングマールは世界を去り、最期の時まで目覚める事はない。
セルギナ大陸に広く伝わる神話である。
各国はそれぞれ、自国の風土や産業に関わる神を守護神として祀り、その神殿を中心とした都市を持っている。
瑰国なら『宗都サンガル』であるし、他の四大国ならば、栖なら『聖都マシューン』、涛なら『教都リュシューン』、継ならば『天都バルガン』である。もちろん他の神殿もあるが、中心となるのは守護神殿だ。ただし、主神ラングマールの神殿はない。彼の神が“秘されている”からである。アイヒナの口にしたエルキリュースの神殿もサンガルにある。
三月ほど前まではエルキリュース神殿の巫女だったアイヒナが、今は旅人となっているその訳は──彼女の連れにあった。
悪夢を喰い、夢魔・バフォナを狩る伝説の獣・ドラムーナ。
ところがアイヒナは、その「伝説」のドラムーナと出会ってしまったのだ。
神殿には両性神エルキリュースの吐息で出来たといわれる至宝・夢幻鏡があった。三年に一度、巫女の位を問うために行う祭りの席で、その夢幻鏡からドラムーナが現れエルキリュースの神託を告げた。
『吾は闇姫。夢の神エルキリュースよりの神託を告げる。この神殿で一番のリュートの弾き手を示すが良い。その者に夢幻鏡を与え、探索の旅へと出すのだ』
そして選ばれたのが、アイヒナだった。
**
「何で私なんだ? 他にもリュートの弾き手はいただろう?」
歩きながらアイヒナがぶつぶつと呟く。
「そもそもお前、あれは詐欺だ。何だって、こんな大事な探索の旅を、一介の巫女にさせるんだ? それこそ、夢長様にでも任せるか、もっと力のある姉巫女様達でもいいじゃないか。リュートが上手いというだけの理由じゃ納得がいかん」
隣を歩きながら闇姫が反論してくる。
「理由は主殿が一番良くご存知だろう。あえて言わせてもらえるなら、決定権は吾にはなかったのだからな。吾はエルキリュースに従がったまでぞ。主殿のリュートを気に入ったは、彼の神。今さら吾に文句を言ったところで、どうにもなるまいに──」
ああ言えば、こう言う。ぐったりと脱力したアイヒナは口をつぐんだ。
気付けば太陽は大きく傾いている。
「……これは野宿だな」
ポツリとこぼした言葉に、闇姫が答える。
「吾としては、人間がおる場所の方が良いのだがな。野宿ではバフォナにありつけぬではないか、主殿よ」
右手で額を押さえると、主は食いしばった歯の隙間から声を絞り出した。
「頼む──。しゃべるな」