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夢幻の瞳 現の涙  作者: 橘 伊津姫
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17章 妖魔の支配する街・ウィルカ

アーカバルの企みの根源を探るため、アイヒナと闇姫は珠春宮の膝元・ウィルカの街を訪ねる。

そこで彼女達が見たものは、活気に溢れ笑顔で生活する人々。

しかし街は、静かに人外の者達に侵食されていた。


 王都ハディースの北、ウィルカの街に入ったアイヒナは、大気中に漂うそこはかとない違和感を肌に感じていた。ピリピリと微かに肌を刺す、ごくごくわずかな不快感。

「どうやら私は、歓迎されていないようだな」

「ああ、そのようじゃ。そちこちからバフォナの匂いがプンプンしてくるわ」

 足元に落ちた彼女の影から、アイヒナにしか届かない闇姫の答え。

 ぐるりと見回してみれば、街の人々は活気に満ちて明るい。だがその明るさは、どこか躁的そうてきな騒がしさだ。通りを歩きながら、他の地区に比べて治療院の設立作業が進んでいない事に、アイヒナは気が付いた。作業されている建物も、申しわけ程度に手が着けられている状態である。

「これは、どこかで話を聞いた方が良さそうだな」

 露店の立ち並ぶ通りの一角に、果物を搾って飲ませる店を見つけて入って行った。通りを見渡せるその店の入口付近の席に着いたアイヒナは、店員に飲み物を頼んだ。

 陽光は温かいが、肌に感じる風は確実に冷たくなっている。店員が差し出したカップには、搾ったレモンの果汁にハチミツを加え、熱い湯で割ったものが入っていた。一口すすると、身体中に心地良い熱が広がった。

「ああ、美味しい」

 思わずこぼれたその言葉に、若い店員はニッコリと笑った。まだ少年とも言える店員に笑いかけると、彼は真っ赤になって客の顔に見とれた。

「この街は活気があって、いい感じだね」

 アイヒナのかけた言葉に、ハッと我に帰った店員はモゴモゴと口を動かした。

 闇姫が見たら『シャッキリせんか!』とか何とか怒鳴りつけそうだな。そんな事を思いながら、アイヒナは店員に語りかけた。

「私は各地を旅して回っているんだが、この街ほど活気のある所は珍しい。さぞかし、御領主が立派なのだろうな」

 通りを眺め渡しながらアイヒナが言うと、ようやく普通に口が動くようになったらしい店員が話しに乗ってきた。

「ええ。ターニヤ様は、本当にご立派な方です。前領主のソキア様の時は、正直、あまり住みいい街じゃありませんでしたけど」

「ほう。現領主のターニヤ様とは、見事な手腕の持主なのだろう」

 自分の街を住み良くしてくれた領主、その領主をほめられて悪い気はしないのだろう。店員はますます饒舌じょうぜつになっていった。

「そりゃあ、そうですよ。ソキア様が亡くなった時だって、自分の事は後回しにして街のために働かれたんですから。パーティルローサが何も出来ないうちにターニヤ様は病で親を亡くした子供のために、孤児院を設立なさったりして」

「孤児院?」

「ええ。両親を『眠り病』で失った子供達が大勢いたんです。その子供達を孤児院で預って、働き口を世話したりしてるんですよ」

「成る程、働き口ですか……。ちなみに、どちらの方へ?」

「実はですね。ノーヴィア公爵様が、ターニヤ様の孤児院の噂を聞きつけて、援助を申し出てくださったんですよ。おかげで子供達も、安心して暮らせるようになりました」

 そこで店に入ってきた客に呼ばれ、店員はアイヒナの側から去って行った。

「ノーヴィア公が絡んだか──」

 足元から闇姫の声が答えた。

「実に興味深い話じゃな。もう少し、聞いて回ってみるか?」

「その必要がありそうだな」

 代金をテーブルの上に置き、アイヒナは店を出た。闇姫は相変わらず、主人の影に潜んだままである。これだけ夢魔の気配が強いと、闇姫の意識に関わらず、力が暴走してしまう可能性があるのだ。本能のみで暴れる闇姫は、さすがのアイヒナでも止められない。

 露店の途切れた一角に、通行人が休めるようにベンチが設えてある。陽光を遮る木陰を作る張り出した枝は、今はまばらに葉を残しているだけだ。

「これだけ数が多いと、うかつに呪歌じゅかを紡ぐわけにもいかんな。情報を集める目的だけにしておいた方が良さそうだ」

 荷袋からリュートを取り出すと、弦の調律を始める。組んだ足の上にリュートを固定すると、高く和音をかき鳴らした。路行く人達の足が止まり、視線が集まる。目を閉じたアイヒナの紅唇から、朗々とした声が流れ出た。


 ──湖のほとり 緑の丘の森に住む

   純潔の乙女が恋をした

   森の奥深く 人を寄せ付けぬ

   神秘を宿した美しい獣

   白銀の毛並み 漆黒の瞳

   額に輝く 長き角

   流れる絹の尾を持つ

   麗しの獣 一角獣──


 アイヒナの歌声に人垣が出来る。いつもは隣にいて、軽妙な語り口で客を沸かせる闇姫も、少し離れた所で彼女を見守ってくれているトウージュの姿もない。一人。一人だ。確かに闇姫は、アイヒナの影の中にいる。会話をする事も可能ではある。だが、ここで歌っているアイヒナは、一人だ。無意識に人垣に二人の姿を探してしまう。果たして自分は旅に出て、闇姫とトウージュと出会った事で強くなったのか、弱くなったのか。

 そのような想いは、アイヒナの歌声に切ない色を添え、哀愁漂うバラッドに臨場感を与えていた。

 乙女の命を救うために、その神秘の角を失った一角獣は森の奥深くへと姿を消した。後に残された乙女はそれからも一角獣を愛し続け、一生純潔を守り通した。変わらぬ愛を見届けた湖に風が吹き渡り、アイヒナは締めくくりの和音を奏でた。

 余韻が消えた瞬間、周囲から雷鳴のような拍手が沸きあがった。歌いながら自分の世界に浸っていたアイヒナは、突然の拍手に驚いて目を開いた。周りに人がいる事を、すっかり失念していたのだ。

「いや、素晴らしい」

「良い歌声をお持ちだ」

 曲に聞きほれていた人々から、口々に賞賛の声がもれた。

「ありがとうございます。お耳汚しではございますが、よろしければ、もう一曲」

 アイヒナは微笑むと、リュートをかき鳴らした。先程のもの悲しい曲とは打って変わり、ウキウキと踊り出したくなるような明るい曲だ。


 ──ガルバンチュアラの山の上

   笛吹き男は目を覚まし

   笛を吹き吹き 歩き出す

   オイラの大事な ヒツジはどこだ

   おいしいチーズを作るんだ

   美味いミルクも飲みてえな

   オイラのヒツジは どこ行った?──


 陽気なアイヒナの歌声に合わせて、観客からも歌う声が聞こえてきた。


 ──小屋の裏から聞こえてくるぞ

   笛吹き男のヒツジの声が

   誰か何とかしてくれよ

   あいつの笛は 困りもの

   下手くそな曲をピーヒャラと

   おかげでミルクも出やしない──


 自然と手拍子が沸き起こり、人々は楽しげに体を揺らして歌っている。アイヒナは、そんな人々の姿を、注意深く見回した。一体この中にいるどれだけの人間が、バフォナの種を植え付けられているのだろうか。バフォナが顕在化したとしても、見た目の容姿が人間と著しく異なる訳ではない。バフォナ自身がその正体を明かし、異能の力を振るう時に、人の肉体もそれに相応しく変貌するのだ。


 ──ヒツジは笛から逃げ回る

   笛はヒツジを追いかける

   オイラのミルク オイラのチーズ

   笛吹き男は気付かない

   下手くそな笛を ピーヒャラリ

   オイラの笛は世界一

   なんてめでたい その頭──


 リュートに合わせて陽気に歌い騒ぐ人々を、建物の陰から見つめている者達がいる。無表情で冷たい目をした少年達だ。鋭い視線で人垣の中心にいるアイヒナを見据えていた少年は、ギクッとして身を引いた。ほんの一瞬ではあるが、夢を司る神の巫女・夢織り(エルーシャ)と目が合ったように気がしたのだ。

 まさか。これだけの距離をとり、気配も絶っているのに、気が付いたというのか? 否、そんなはずはない──。リーダー格らしき少年は考え込んでいたが、やがて、連れの少年達に向かってうなずいた。音もなく、その場にいた者達が移動を開始する。

 アイヒナは街の人々と談笑しながら、少年達が潜んでいた建物の方へチラッと視線を投げかけた。相手がどれだけ気配を絶ったつもりでいても、夢魔の匂いを嗅ぎ付ける闇姫をごまかす事は出来ない。ましてや、覚醒している夢魔を闇姫に察知するなと言う方が難しい。影の中に身を隠している闇姫が、いち早くバフォナの気配を感じ取り主人に伝えたのだ。

 放っておいても、相手の行く先は二つに一つだ。領主の屋敷か、噂の孤児院だろう。敵の陣地に乗り込む前に、出来る限りの情報が欲しい。アイヒナは人垣をグルリと見回すと、声をかけた。

「ああ。本当にこの街は活気があって良い所ですね。先程ちらりと伺ったのですが、こちらの街はノーヴィア公爵様が何かと援助して下さっているとか。大したものです」

 彼女のその言葉に、街の住人達は待ってましたとばかりに、一斉に街の自慢話を始めた。わいわいと四方八方から押し寄せる言葉の波に、アイヒナは閉口した。少しだけ、腰が引けている。それ程に人々の勢いはすごかった。

 これは、本気であと二人分の耳が欲しい。アイヒナは切実に、闇姫とトウージュの存在を恋しく思った。


**


「やはりやって来たか」

 館の一室で報告を受けたターニヤは、立ち上がると窓辺に歩み寄る。玻璃はりから見下ろす街並みは、王都ハディースのいずれの地区よりも活気に満ちている。病で親を失った子達のための孤児院。万が一発症した時に患者を収容するための施設。ノーヴィア公爵からの、金銭的・人的支援。それらのおかげで、街の人々の心は現国王から離れている。バフォナの種を飲み、すでに定着している者達も増えた。裏から手を回し入手した多数の武器と共に、ノーヴィア公爵領入りしている。

「ここで私が夢織り(エルーシャ)に討たれたら、街にいる人間共は何と思うかしら。国王よりも信用のあるウィルカの領主、ターニヤ・フィルナ・ヴァルドが神殿の巫女に殺される。素敵な演出ではなくて?」

 振り返ったターニヤは、酷薄な笑みを浮かべている。

今際いまわきわに、感動的な言葉でも残せば完璧だな」

 腕を組んで壁に寄りかかっていた家令が、楽しそうに言葉をつなげた。

「『ああ、皆さん! 彼女を責めないで! これは彼女の意志ではありません。彼女は神殿と、そして国に命じられただけなのです』とね!」

「ウィルカの街のために尽くした、領主ソキアの妻、ターニヤ・フィルナ・ヴァルド。人々にその信用在るを妬まれて、国王に討たれる──。ですか。面白いシナリオですね」

 夢織りの到着を知らせた少年が、冷たく呟いた。

「そう。そして反逆の烽火のろしは、ここから、このウィルカの街から上がるの。ノーヴィア公爵であるサマル・ビュイクが現国王をしいするための」

 街の人間達は信じている。たとえ国の中央が救ってくれなくとも、ターニヤが必ず何とかして自分達を救ってくれるはずだと。また、ターニヤとその仲間も、人間達にそう思わせるように仕向けてきた。

「いまやウィルカの権力者の半数は、我等の言いなりだ」

「そして残りの半分も──。すでに我等の仲間」

 ターニヤ達は時間をかけ、街の権力者を抱き込んで行った。少しでも自分達の計画に難色を示す者には、容赦なくバフォナの種を植え付けていった。おかげで、今やターニヤ達の思惑を邪魔しようなどと考える者はいない。

「サマルが大義の旗印を挙げるための、この国に混乱を招き災厄をもたらすための捨石に、私は喜んでなりましょうとも」

「御主様が復活を果たされるために」

 控えていた少年に視線を移し、ターニヤは笑いさえ含んで口を開いた。

「何もせずとも、あの夢織りは我等の前にやって来る。それまで、せいぜい好きにさせてやろう」

 少年もニヤリと笑って同意を示した。

「判りました。ただ、動きだけは見張らせておきましょう」

「ええ、そうしておいて」 怪人達のはかりごとは続く。


**


「はあ──」

 宿に着き荷物を下ろしたアイヒナは、疲れの溜まった手足を伸ばした。長い髪をまとめていた頭布を解き、頭を振って髪と頭皮の間の熱を逃がす。

 ホトホトと、控え目にドアを叩く音がする。アイヒナが返事をすると、一人の中年女性が遠慮がちに顔を覗かせた。

「お客さん。湯殿の準備が出来たんだが、いかがかと思ってね」

 女性は、宿の主人の妻だ。

「こちらには、湯殿があるのか。すごいな」

 思わずこぼれた感想に、女性は自慢気に微笑んだ。

「ウィルカでも、湯殿のある宿は少ないね。うちのその中でも、一番広いんだ。今の時間なら、まだ他のお客は入ってないからゆっくりできるよ」

 長旅を続ける身にとって、たらいに張った湯ではなく、ゆったりと全身を浸せる湯殿を使える機会はそうそうあるものではない。女性の勧めに、ありがたく湯殿を使わせてもらう事にした。

 案内された湯殿は、帳場の奥を抜けた離れになっていた。中に誰も入っていないことを確認し、アイヒナは衣服を脱ぐ。浴衣よくいを羽織ると、入口を隔てているドアを開けた。とたんに、立ち込める湯気と湿った熱い空気が押し寄せてくる。滑りやすくなっている板張りの床を、注意しながら歩いて行く。岩を削り出して造られた湯舟には、魚の形をした噴出口から湯が絶え間なく流れ込んでいる。

 一段高くなった場所に積まれていた桶で湯を汲み上げ、足元に流しかけて温度を確かめてみる。ゆっくりと湯の中に身を沈めれば、身体の隅々にまで染み渡る熱が心地良い。湯舟の縁に身体を預け、アイヒナは深々と息を吐いた。

「闇姫、お前もどうだ。今なら、誰もいないぞ」

 両手に湯をすくいながら、己の影に潜む相棒に声をかけた。一瞬ざわりと水面が揺れ、ザブリと湯が盛り上がった。

「ぷっは──」

 顔を出したのは、長い黒髪を湯に散らした闇姫だ。

「これだけたっぷりと湯を使えるのは、滅多にない事だからな。うむ。心地良い」

「──って、お前。湯に浸かっている時くらい、その衣服を消したらどうだ?」

 そう言われて、闇姫は紅眼で自分の姿を見下ろした。揺れる湯の下に見えるのは、いつもの黒い装束だ。

「おかしいか?」

「おかしいだろう。着衣のままで湯に浸かるっていうのは、あり得ないぞ」

「仕方あるまい。これはわれの毛皮なのじゃから」

 不満そうに口を尖らせて、闇姫は主人に答えを返した。最近ではどうも忘れがちになってしまうのだが、闇姫の場合、身につけている衣服は実際の服ではない。彼女の本来の姿である、巨大な黒狼の毛皮が変じたものなのだ。

「ああ──そうか。そうだったな」

 苦笑してアイヒナが告げると、闇姫はトプンッと湯舟に潜る。次に顔を出した時には、闇姫の姿は本来の黒狼になっている。

「これで良かろう?」

「そういう問題でもないんだがな……」

 しばらくの間、主従は存分に湯を楽しんだ。

「お客さん、湯加減はいかがかね?」

 不意に入口から声をかけられ、アイヒナは少なからず驚いた。温かな湯に浸る事で、緊張感まで緩んでしまったと言うのか。

「ええ、大変いいお湯です」

 浴衣よくいをかき合わせ、胸の刺青を隠す。

「それならちょいと、背中でも流して差し上げましょうかね」

「えっ、いえ、結構です」

「まあまあ、そう遠慮せずに」

 否、ただの遠慮ではない。アイヒナには、自分の身体を見られる訳にはいかない理由が存在するのだ。

「いえ、本当に。遠慮なんかじゃないですし、もう出ますから」

 慌てるアイヒナの返事に構いもせず、湯殿の入口を開けて女性が入ってくる。闇姫はすでに姿を消している。アイヒナはどうしようもなく、湯舟に深く身を沈めた。

「あらあら、お客さん。女同士なのに、何をそんなに恥ずかしがっておられるかね」

 宿屋の女房は湯舟の縁を回り、自分に背を向けているアイヒナの後ろに立った。

「それとも──」

 わずかな違和感に、アイヒナの眉根が寄せられた。

「見せられない理由でも、あるのかね?」

 ──それは、どちらが早かったのか……。アイヒナの首筋目掛けて走る緑色の閃光。そして、それを阻むように湯舟の中から伸びた、漆黒の輝き。

 ギイィィンッ!

 耳障りな音を立てて、緑色の刃が弾き飛ばされた。闇姫の変じた黒剣の柄を握り締め、アイヒナは湯のしずく雫をまとわりつかせて立ち上がった。身体のラインにピッタリ張り付いた浴衣から、わずかに五色の刺青が透けて見える。

「湯に浸かって、ご自慢の勘も鈍ったようだな」

 皮肉を込めて放たれた言葉に、アイヒナは苦笑するしかない。

「ああ、確かにそのようだ。正直、気付くのが遅ければ危なかった。以後、気を付けるとしよう」

 黒剣についた水滴を払い除け、アイヒナはチキリと構え直す。

「さあ、それはどうだろう。貴様に『以後』は来ないかも知れんぞ」

 背中の皮膚を突き破り、緑色をした四本のカマキリのような鎌を生やした元・宿屋の女房が告げた。

「私の名はランゲル。初めまして、夢織り(エルーシャ)。そして、さらばだ!」

 ぐんっと鎌が伸び、アイヒナに向かって四方から襲い掛かってきた。黒剣をふるって応戦するアイヒナだが、湯舟の中では足にまとわりつく湯の抵抗で、いつのもように素早く動く事が出来ない。しかも上下左右から繰り出されるバフォナの攻撃に、神意を降ろすための印を切る余裕もない。

「それそれ、どうした? これまで数え切れぬ程の夢魔を平らげて来たのだろう? それしきの力量で、御主様に盾突こうと言うのか。笑わせるな、れ者め!」

 ランゲルは憎憎し気に吐き捨てる。上段二本の鎌が、彼女の胴体を輪切りにせんと左右から迫った。緑色の凶刃が、アイヒナの細い身体を捕えたかに見えた瞬間──。

「なにぃぃっ!?」

 驚きに目を見開く夢魔の眼前を、不自然な長さに断ち切られた神殿の巫女の銀色をした髪の残滓ざんしが流れた。

 思い切り深く沈み込んだアイヒナは、湯舟の底を勢い良く蹴り付けた。派手な水しぶきを撒き散らし跳躍した彼女の白い足が、交差したランゲルの二本の鎌を踏み付け、さらに高く飛ぶ。湯殿の天上をかすめ、アイヒナは洗い場の床に着地した。姿勢を低くしたまま、黒剣をしっかりと固定して突っ込んで行く。

 真っ直ぐに伸ばされた切っ先を下段二本の鎌で弾き、上段二本の鎌を振り下ろしてくる。返す刀でそれをしのぎ、足許に力を込めた瞬間……。

「──!?」

 水分を含んだ板張りの床の上で、アイヒナの足が滑った。とっさに膝をつき、転倒する事だけは免れたが、崩れた姿勢はどうしようもない。勝利を確信した笑みが、ランゲルの顔に刻まれた。四本の凶刃がアイヒナを床に縫い止めようと、上下左右からうなりを上げて襲い掛かってきた。

 だがその攻撃に、ほんのわずかな隙が生じた。勝ったと思ったが故の慢心か。無防備にさらけ出された本体の心臓を、アイヒナの投じた巨大な黒剣が貫いていたのだ。

「が……はっ!」

 信じられないと目を見開いた夢魔は、そのまま勢い良く床に崩れ落ちた。スピードを殺し切れなかったランゲルの四本の鎌が、急所を庇うアイヒナの腕を切り裂いていった。

 闇姫の変じたドラムーナの黒剣は、容赦なくバフォナの命をすすって行く。緑色をした異形の鎌は、徐々に、解けるように形をなくしていった。荒い息を繰り返しながら、アイヒナも立ち上がる。浴衣はあちこち切り裂かれ、湯ではなく汗で身体に張り付いている。濡れた布地が、アイヒナから熱を問答無用で奪い取っていく。

 今は穏やかな表情を浮かべ、意識を失くして倒れている女性の傍らに立ち、その胸に突き立った黒剣を抜き取る。足許の影に黒剣を落とすと、音もなく沈み込んでいき、すぐに黒装束の美女となって現れる。

「融合して間もなかったようだな。無事にバフォナを消し去る事が出来た」

 女性の胸は、規則正しく上下している。

「だが、融合の進んでいる者も多いだろう。私はどれだけの人を救えて、どれだけの人を救えないのだろう──」

 憂いを含ませた表情で、ポツリとアイヒナが呟いた。闇姫が主人に言葉をかけようとした途端、形の良い眉を寄せてクシャミをした。

「っくしゅん!」

 ブルッと震えて肩を抱く。

「大丈夫か、主殿。そのままでは風邪をひいてしまうぞ」

 心配そうにアイヒナを覗き込む闇姫に、アイヒナは苦笑して答えを返す。

「とは言うものの、この人をこのままにしておく訳にもいかないだろう」

 確かにその通りだ。バフォナを抜き取られた人間は、記憶が混濁する傾向にある。それでなくともパニックを起こしやすい状況下にある人物を、湯殿に置き去りにする訳にもいかないだろう。

「仕方がないの」

 闇姫は肩をすくめると、倒れている女性を担ぎ上げた。

「吾がこの者を、いずこかの部屋に寝かせてくるとしよう。主殿は湯に浸かって、身体を温め直すが良かろう」

「ああ、そうしてもらえると助かる。だがこの状態は、お前にも辛いだろう。早く戻って来い」

「そうさせてもらうとしよう」

 スタスタと入口の扉を開けて歩き出しながら、闇姫は背中越しに手を振った。そんなドラムーナを、アイヒナの連続クシャミが見送った。

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