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夢幻の瞳 現の涙  作者: 橘 伊津姫
17/33

16章 始まりの地へ・匠都ホステル

「眠り病」が最初に認められた場所。それは匠都ホルテス。

アーカバルの思惑を挫く材料を探すために、トウージュはアイヒナ・闇姫と別れて行動する。

彼の見つける「真実」とは?

「アイヒナ、鳩が来たぞ」

 宿の食堂で遅い朝食を摂っていたアイヒナの所に、羊皮紙の切れ端を手にしたトウージュがやって来た。食後の香茶を楽しんでいたアイヒナが顔を上げる。御前会議の様子をパーティルローサに問い合わせてもらっていたのだ。

「闇姫発案の治療院設立は受理されたぞ。総責任者は、イルネア・エメス・ノーヴィア。俺の叔母にあたる女性で、現在のノーヴィア公爵夫人だ。彼女は信用できる」

「そうか。では、治療院に関しては珠春宮しゅしゅんぐうに任せて良さそうだな。しかしノーヴィア公爵と言えば、例のアレだろう。夫人が側で目を光らせておかなくていいのか?」

 アイヒナの質問ももっともだ。リュフォンから送られてきた手紙に、トウージュはざっと目を走らせる。

「ん。サマル・ビュイク・ノーヴィアについては、王宮から密偵が出ている。リュフォンの話によれば、叔母上は御前会議の前に、義姉上にサマル・ビュイクの謀反を告げたらしい。そうなればむしろ、叔母上はサマル・ビュイクと一緒にいない方がいいだろう、という判断だそうだ。それに、治療院設立というような大きな事業には、女性の細やかな采配さいはいが必要だからな」

「なるほどな。身の安全も保証出来るという訳か。一石二鳥だな」

 いつの間にか二階から降りて来た闇姫が、テーブルに着きながら相槌を打った。

「トウージュ殿。頼んでおいた事はどうだ? 聞いておいてもらえただろうか?」

 アイヒナに注いでもらった香茶で喉を湿すと、改めて羊皮紙に視線を戻した。

「ああ。御前会議の直前になって代理をたてた人物がいないか、という事だったよな?」

 指で紙面を辿っていく。

「どうしても外せない事情や健康上の理由意外で会議を欠席したのは、ウィルカの領主だったソキア・ベルドアの妻、ターニア・ベルドアだけだ。出席の旨、届けが出されていたが、パーティルローサに入城してすぐに具合が悪くなったらしい」

「一人だけか。急に具合が悪くなったんだな?」

 再度トウージュに確認する。

「詳しい事は判らないけどな。直前になって御前会議を欠席したのは、ターニア・ベルドア一人だけだ」

「そうか」

 アイヒナは形の良いアゴに手を当てて考え込んだ。

「──闇姫。イシュリーン神殿から返事はあったか?」

 珠春宮だけではなく、宗都サンガルのイシュリーン神殿にも何かを尋ねていたようだ。

「それで大神官殿は何と?」

 テーブルにあるポットから自分のカップに香茶を注ぎ、その香りを楽しみながら闇姫が答えた。

「サンガルのイシュリーン神殿に一番最初に『眠り病』の被害が届けられたのは、匠都ホルテスの工匠ギルドからだ。ギルドに所属していた工匠は数名、同時期に発症して亡くなっている」

「ホルテス──。工匠ギルドか……」

 そう呟くと、アイヒナはしばらく黙り込んだ。匠都ホルテスは王都ハディースから馬車で十日程の距離がある。

「匠」の都と言うだけあって、街の実権を握っているのは工匠ギルドだ。瑰国のあちこちかにある玉泉や鉱脈から産出された玉の原石は、街道を通じて匠都ホルテスに運び込まれる。そこで、ギルドに所属する職人達の手によって、美しく細工を施される。加工された玉石は再び街道を辿り、今度は商都スガンに運ばれる。大河に面したスガンは商人の街だ。この街で商品価値を付加された玉石は各地へ散っていくのだ。商用船により、瑰国外へも運ばれる。また、ホルテスに持ち込まれた原石の中に、特に質の良い美しい玉が見つかった場合、珠春宮に献上する事になっていた。この時、献上する玉石を細工する事が出来る職人は、最高の腕を持つと認められた事になる。

「トウージュ殿。頼みがあるのだが」

「ん? 何?」

 アイヒナから頼み事を言い出すのは珍しい。いつもは闇姫に、問答無用でコキ使われているトウージュはアイヒナに向かって笑顔で答えた。それがまるで、主人を見つけた仔犬のようだと思いながら、アイヒナはトウージュに頼み事を告げた。

「これまで街のあちこちで聞いた話や、王宮からの情報をまとめると、どうやらウィルカを支配しているのはバフォナらしいな。実際にウィルカに行ってみないと詳しい事は判らないが。私と闇姫は、これからウィルカに向かう」

 え? 私と闇姫? じゃ、俺は? 肩透かしを食ったような表情でアイヒナを見つめているトウージュに、彼女は苦笑しながら言葉を続けた。

「トウージュ殿には、ここから別行動をとってもらいたのだ」

 その一言に、トウージュが抗議の声を上げようとする。それより一瞬早く、闇姫が彼のアゴを掴んだ。アガガガともがくトウージュに向かって、鋭く一喝する。

「黙って聞く。いいな?」

 彼が了承の印にうなずいたのを確認して、ようやく闇姫は手を離した。両頬に手を当てパクンパクンと口を開け閉めし、アゴの関節を調整しながらトウージュは思った。

 俺、いつから闇姫の子分になったんだろう? 俺ってば確か、王族なんだけど……。

 そこまで考えてから、彼は頭を振った。この二人と行動を共にするようになって、王族を意識する事は少なくなった。──完全に忘れる事は出来なかったが。アイヒナが、彼女が今、トウージュに伝えようとしている事。それは「トウージュ」として行動しても、瑰国の「王弟」として行動しても、結果に矛盾はないだろうと思える。この際、自分の個人的な感情はひとまず脇へ置き、彼女達の言葉に従がってみよう。

「別行動で、俺は何をどうすればいい?」

「いつも無理ばかり言って、済まないな。実はトウージュ殿には、匠都ホルテスへ行ってもらいたいのだ。すべての元凶はホルテスにあるような気がする。そこで、最初に病を発症した人物を捜し出し、その身辺を調べて欲しい」

 アイヒナの言葉の内容を吟味し、トウージュはうなずいた。

「誰が最初に発症したのか、そしてどうやって広まったのか。それを調べるんだな」

「その通りだ。アーカバルが姿を装っている、あのカーティという娘。偶然に行き会ったわけではあるまい。必ず、一番最初の被害者と接点があるはずなんだ。彼女がアーカバルを受け入れるきっかけとなった、何か原因が絶対に。それが判れば、少しは打つ手があるかもしれない」

「判った」

 神妙な顔で返事をするトウージュに、闇姫は右手を差し出した。条件反射的に身を引いてしまったトウージュは、闇姫に物凄い目付きでにらまれてしまった。

「お主──。何を逃げておるのだ」

「いや……。また、何をされるのかと思って、つい──」

 胸の前で手を振りつつ、愛想笑いで逃げ切ろうとしていたトウージュの目の前で、闇姫は握っていた右手を開く。その白い掌にあるのは、銀と黒の二色の髪で編まれた腕輪。

「主殿と吾の髪を編みこんだ護符じゃ。この髪が全部切れてしまうまでは、お主を夢魔バフォナから守ってくれる」

 彼の左手首に腕輪を巻きながら、仏頂面で説明をする。腕に巻かれた銀と黒の髪を介した二人の想いが、トウージュを温かく包む。

「私達が一緒にいない間は、その髪がトウージュ殿を守ってくれる。ホルテスに夢魔がいないとは限らないからな」

 トウージュは腕輪に手を当てると、心から二人の女性に礼を言った。

「ありがとう。大事にするよ」

 そして三人は二組に分かれ、影に潜んだ闇姫を伴いアイヒナはウィルカへ。街の馬方から馬を借りたトウージュは、一人、匠都ホルテスへ向かった。姿の見えない、敵の手がかりを掴むために。


**


 冬の訪れを告げる冷たく厳しい風がファムウル山脈から吹き降ろしてくる。馬上のトウージュは風に持って行かれないように、体にマントを巻き付けた。出発してから三日。馬車でなら十日の行程だが、スピードに重点を置いて進める馬を選んだ事で、予定よりも時間を稼ぐ事が出来た。

「さて、今晩の宿は……」

 季節柄、日が落ちるのが早い。長時間冷たい風にさらされていた体からは、あっという間に熱が奪われて行く。馬から降りたトウージュは、強張った足で古びた宿屋へ向かった。厩舎に馬を繋ぐと、扉を開けて主人を探す。

「親父! まだ部屋は空いているかな?」

 食堂で酒を飲んでいた数人の客が、その声に一斉に振り向いた。

「おーい、おやっさん! お客さんだよー!」

 客の一人が奥へ向かって声をかける。

「あいよー!」

 帳場の置くから、赤ら顔の太った男が姿を現した。

「お客さん、お一人かね? 部屋? ああ、空いてるともさ」

 宿帳に名前を記入し、部屋の鍵を受け取る。そのまま荷物を抱えて食堂へ移動する。ガクガクの膝で、何度も階段を昇り降りしたくはなかった。ドカッと椅子に座ると、トウージュは大きく息を吐き出した。

「大分お疲れだねぇ、お客さん。何にするかい?」

「あはは。さすがに一日中馬に乗っているとね。食事とワインをもらえるかな? あと、良ければ明日の朝、井戸を貸してもらえるとありがたいんだが。代金は支払いのときに併せて」

 女性は宿で湯を借りる事が出来るが、男性は表にある井戸を借りるのだ。たいがいは有料で、代金は宿泊料に加算される仕組みになっている。

「井戸だね。ああ構わんよ。そいじゃワインを持って来よう。体が芯から温まるように、スパイスをたっぷり効かせてな」

 吹き降ろす風にさらされて冷えた体には、それが何よりありがたい。宿の主人はカップにワインを注ぎ数種のスパイスを入れる。仕上げは焼けた火箸をカップの中へ。チュンッという音とともに煙が上がる。

「はいよ、お待ち」

 主人の差し出したカップを受け取ると、礼を言ってからトウージュはワインを口にした。口腔に満ちる液体は、ピリッと効いたスパイスと熱さが心地良い。飲み込むそばから、身体中に熱が広がっていく。

「ああ、生き返った気分だ」

 大きく満足気に息を吐く。チビチビとカップを口に運んでいると、主人が食事を載せた盆を持ってやって来た。

「お客さん、どこまで行きなさるかね?」

 トウージュの目の前に皿を並べながら、主人が尋ねてきた。

「匠都まで。ギルドに用事がありましてね。ところで、最近は『眠り病』はどんな感じですか?」

「そうさねぇ」

 主人はトウージュの正面に腰かけると、少し考え込みながら語り始めた。トウージュは口をフル稼働させながら、主人の話に耳を傾けた。

「一時期に比べりゃ、減ったかねぇ。まあ、まったくなくなってしまった訳じゃないがな。最近じゃ治療院を作るってんで、領主様んトコから、お使いの方が来ていなさるよ。正直言わしてもらやぁ、もう少し早くやって欲しかったって感じがするけどね」

 確かに、遅すぎると言われても仕方がない。トウージュは胸の中で頭を下げた。

 ザイルを出てから街道沿いのあちこちで、治療院の設立を始めている人々の姿を見かけた。不安に満ちた生活を強いられていた街や村の住人達は、王家が中心となって勧める治療院の開設におおむね歓迎の意を表した。中には病で家族を失ったものが、対応が遅すぎると関係者に詰め寄る場面もあったりしたが、比較的スムーズな滑り出しと言えるだろう。

「ここの町でも、お医者の先生やら神殿の巫女様方がいらしてな。暮らしていくのに少しは気が楽になるってモンさ」

 口の中の食べ物を必死になって咀嚼そしゃくしながら、トウージュは食堂にいる人々の表情を観察していた。以前に立ち寄った宿で目にした、不安と恐怖の中で生活していた、暗い虚ろな表情とは違う。暗闇の中で光を見出したかのような、希望を信じる明るい顔をしている。それを見て、彼の胸の中に嬉しさが波のように押し寄せてきた。無理を承知で、兄王コルウィンに進言した甲斐があったと言うものだ。

 目の前にある皿の中身をすべて平らげて体中が心地良く温まる頃、話し込んでいた主人は酔客に呼ばれて席を立った。空腹が満たされれば、まぶたが重くなるのは当然の事。次々と襲い掛かってくるアクビを噛み殺し、トウージュは食事の代金をテーブルに置くと立ち上がった。酒を注ぎに厨房の奥へ行った主人に声をかけ、与えられた鍵の部屋へ向かう。階段を上がって左右に分かれた廊下の左側。奥から二番目の部屋がそれだ。

「へえ、わりとキレイじゃないか」

 さほど広い部屋ではないが、掃除が行届いていてこざっぱりと片付いている。旅装を解いてベッドに腰かけ、息を吐く。手首に巻いた護符の腕輪が揺れる。少し火照った体を冷やそうと、立ち上がって窓を開き夜風を室内へ導き入れた。

 トン トン

 ノックの音に返事をし、トウージュがドアを開けた。

「あの、お水をお持ちしました」

 年の頃十五・六の少女が、水差しの載った盆を手にして立っている。

「ああ、ありがとう」

 トウージュが盆を受け取っても、少女はモジモジしながら立っている。

「どうかした?」

 彼が問いかけると、顔を赤くしながら少女が答えた。

「えっと……あの……。お客さんの名前、『トウージュ』って。王宮の王子様と同じ名前ですよね」

 ああ、そうか。とトウージュは苦笑した。彼は普段、市井に出て宿に泊まる時にも本名を記す事にしている。国民の間に王宮にいる『王弟殿下』の姓名までは浸透していないだろうという考えと、たとえ気付かれても、まさか本物だとは思わないからなのだが。しかしまれに、目の前の少女のように『もしかしたら』と考える者もいる。大体は、夢見るお年頃の少女達なのだが。

「やっぱり気になるよね? 僕の祖母がパーティルローサで下働きをしていたんだ。僕とトウージュ殿下は生まれ年が一緒でね。祖母が殿下にあやかりたいと、恐れ多くも同じ名前にしてしまったと言う訳さ」

 トウージュの口からでまかせの言い訳を聞いて、少女はさらに赤くなりながら謝った。

「ご、ごめんなさい! あたしったら、失礼な事を。そうですよね。王宮にいらっしゃる王子様のような身分の高い方が、うちみたいな安宿に泊まる訳ないですよね。本当に済みませんでした!」

 ピョコンッ、と頭を下げると少女はパタパタと去って行った。水差しの載った盆を手にしたまま、トウージュは複雑な表情で呟いた。

「……いや、本物だけどね」


**


 人は眠りを眠りと、夢を夢と認識するのだろうか──。

 トウージュは唐突に、己が夢の中にいる事に気が付いた。目に映る景色は珠春宮(パーティルローサ)の大広間。高い天井とシャンデリア。細かな装飾が施された壁面。揺れるロウソクと松明に照らされた空間は、彼の記憶にあるがままの荘厳さを保っている。広間から一段高くなった二つの玉座。姿の見えない楽団の演奏する音楽が、どこからともなく聞こえてくる。

「ま、俺が寝ぼけて自分でも知らないうちに戻ったんでなけりゃ、これは夢だと考えて間違いないわな」

 大広間を見回していた彼を、背後から呼ぶ声がする。

「トウージュ・ラムナ・イルス・瑰王弟殿下」

 艶を含んだその声に応じて振り返ると──。

「え? あ、アイヒナ?」

 そこには豪奢なドレスに身を包み、輝く銀髪を結い上げたアイヒナが、トウージュに微笑みかけながら優雅に立っている。

 おいおい──。俺ってば、夢でまでアイヒナの事を考えているのかよ? そう思ってトウージュは、少し気恥ずかしく感じた。そんな事はお構いなしに、美しく装ったアイヒナが近寄って来る。

「殿下。私と一曲踊っていただけますか?」

 たおやかに白い手を差し出して、アイヒナはトウージュをダンスに誘う。頭で何かを考えるよりも先に、彼は目の前の白い手をとっていた。互いの手を携え、二人は大広間に滑り出す。腕に伝わる温もりと確かな重み。鼻腔をくすぐる、微かな香り。

「殿下」

 トウージュの胸に頭をもたせかけ、アイヒナが甘い声で囁く。その身を彼の腕に委ね、艶やかに微笑んだ。

「このまま、時が止まってしまえばいいのに。そうすれば、ずっと殿下と一緒いられる。戦いも神も、何もかも忘れて」

 その言葉を聞いた時、トウージュの脳裏を違和感がかすめた。

「戦いを忘れるのか? 夢魔バフォナの事やアーカバルの事、エルキリュースの事も忘れると言うのか?」

「それがいけない事でしょうか? 私にだって、女として幸せに生きる権利がございます。なぜ私一人が、こんなに苦しい使命を負わなければならないのか。ドラムーナに選ばれさえしなければ、私はこんな思いをせずに済んだのに」

 ドラムーナ──闇姫くらき。そうだ、闇姫はどこにいるんだ? 二人が離れる事など、あり得ない。

「ねえ、殿下」

 アイヒナの指が、トウージュの頬に触れる。

「私を、私だけを見てくださいませ。何もかも忘れて、ただ楽しい事だけを思って生きてゆけばよろしいではないですか。あんな初源の獣(ドラムーナ)の事など、考える必要はないのです」

 トウージュはダンスの足を止めた。違う。どれだけ容姿を似せようと、中身は全く違うものだ。

「アイヒナは、男に媚を売ったりしない」

 うつむいた彼の口から、低い声がもれた。

「私も女ですわ」

 余裕を含んで発せられる言葉。だが、その微笑が強張った。トウージュが、己の頬に触れる細い指を払い除けたのだ。

「アイヒナはそんなしゃべり方をしない。彼女は自分の使命を否定したりしない。バフォナを、アーカバルを、エルキリュースを忘れたりしない。戦いから逃げたりしない」

 あの凛とした美しさ。己を厳しく律し、決して甘える事をしない横顔。そんな彼女が時折見せる、心からの笑顔がたまらなく愛しい。それに比べれば目の前にいるアイヒナの美しさは本物の持つ清浄さからはかけ離れた、うわべだけの俗っぽいものだ。

 トウージュは相手のドレスの胸元に手をかけた。もしもこの場に闇姫がいれば、間違いなく、彼は遠いお空のお星様になっている。

「アイヒナは俺を───胸に小さな痛みを伴いながら───『殿下』とは呼ばない」

 胸元のレースを握る手に力を込め、一気に引き裂く。

「闇姫の事を、絶対に『ドラムーナ』なんて呼ばないんだ!」

 布の裂け目から覗く肌に、エルキリュースの御名を刻んだ神聖文字の刺青はない。アイヒナの姿をした何者かは、顔を醜く歪めて飛び退る。本性を現した相手は、ガチガチと牙を鳴らしながらトウージュを嘲笑した。

「愚かな男よ。至福の夢の中に閉じ込めてやろうと思っておったに。大人しく我が術中にはまっておれば良いものを」

「やかましい。その姿は目障りだ。正体を現せ」

 これ以上、一秒たりともその姿を見ていたくなかった。夢魔がアイヒナの姿をしている。その事が彼女をけがしているような気がして、トウージュには許せなかった。

「我とて、このような姿でおるのは本意ではない。言われずとも御主様(おんしゅさま)より賜った我本来の姿になるさ」

 アイヒナの姿がボヤけて消え、そこに現れたのは藁色の髪を獅子の様に逆立てた、小麦色の肌をした小柄な女性。

「どうだい。あんな女の姿より、御主様の下さったこの体の方が余程良かろう?」

 自分の両腕をうっとりと見つめて、女は低い声で告げた。

「さあ、我が姿を目に焼き付けて死んでいくがいい」

 冗談じゃねーよ。アイヒナの姿をしたバフォナにたぶらかされた、なんて闇姫にバレたら、何を言われるか判ったモンじゃないぞ。

 そんな事が頭をよぎった瞬間、バフォナの髪がザワッと波打った。チカッと何かが光ったかと思うと、空中を無数の針がトウージュ目掛けて飛んで来る。

「──っ!」

 彼が反射的に目を庇おうと、両腕を上げた時──。

「え……?」

 左手首に巻かれた銀と黒の腕輪が光を放った。トウージュの体を包み込んだ光が、飛来する針を弾き飛ばす。それを見たバフォナの顔色が変わる。

「お、お前、そこに何を持っておる!? こんな所まで、ドラムーナを連れて来たというのか?」

 顔を背け、恐怖に満ちた声は震えている。

「おのれぇ、貴様一人かと思うて油断したわ。貴様に警告しておくぞ。これ以上、御主様の邪魔をするようなら、貴様もただでは済まされぬぞ!」

 まるで腕輪の光がその身を焼いているかのように悶えながら、トウージュに向かって吐き捨てる。だがバフォナの言葉に反応するように腕輪の輝きが強くなり、相手は悲鳴を上げながら後退った。

「お、お、おおおぉぉぉぉ……」

 少しずつバフォナの姿が薄くなり、消えていく。それと同じく、大広間の景色も薄れていった。何かに意識を引っ張られるような気がして、トウージュも夢からうつつへと戻っていく。


**


「ああ、やっと見えて来た。ホルテスの門だ」

 疲れた声で、トウージュは馬上から呟いた。王都を出て七日。予想外の早さで匠都まで辿り着いた。

「悪いな。もう少しだけ、頑張ってくれよ」

 トウージュが乗馬の首を軽く叩いてやると、応えるようにブルルッと鼻を鳴らして歩き始めた。ホルテスの関所までは、まだ短くない距離が横たわっている。小高い丘から続く均された道を馬に揺られながら、手綱を握る左手の腕輪に目をやった。

 バフォナの襲撃を受けたあの翌朝、彼の夢を守ってくれた腕輪に編み込まれていた銀と黒の髪が、無惨に千切れた状態でシーツの上に散らばっていた。二人の言葉通り、腕輪はトウージュをバフォナから守ったのだ。決して器用ではない手で編み直した腕輪に感謝を込めて指を滑らせる。

 緩やかな下り坂を抜けると、匠都の入口である関所はもう目の前だ。今は玉石の搬入時期を過ぎているので、さほど待たされる事もなく手形を見せて街へ入る事が出来た。

 相変わらず風は厳しいが、今日の日差しは穏やかだ。馬から降りると、トウージュは馬方を探す。強行軍で疲れ果てている馬を休ませてやらなくては。通りで果物を売っている露店に声をかけ、馬方の場所を尋ね、ついでに赤く熟れた果実を買った。教えてもらった通りの外れの馬方に、幾分くたびれてしまった馬を預ける。

「ギルドの場所だけ確認しておくか」

 匠の都と言われるだけあって、細工物の店が多い。瑰の玉だけではなく、金や銀、宝石、木彫り細工まで幅広い。さすがに商人の都スガンには負けるものの、それでも大層な賑わいである。先程の露店で買い求めた果実を齧りながら、街の中心へ向かって歩いて行った。果肉が歯に当るたびに、口腔一杯に広がる甘い液体が疲れた体に優しい。この街でも『眠り病』は下火になってきているのだろうか?

「ちょいと、お兄さん!」

 威勢の良い掛け声にトウージュは足を止めた。自宅らしき建物の軒に布を張り出した店舗で、細工物を売っている女性がニコニコと笑っている。

「お兄さん、旅の人だね。どうだい、このクシ。見事なモンだろう? 故郷の彼女に買っていっておあげよ。お安くしとくからさ」

 手の中に残った果物の芯を近くに繋がれているロバに投げ与えると、店に近寄っていく。

「おや、お兄さん。近くで見ると、結構男前じゃないか。亭主がいなけりゃ、あたしが放っとかないよぉ」

 ……そんな事言われたって、俺にどうしろって言うんだよ? あいまいに笑って、トウージュは台の上に並べてある品物に目をやった。乳白色のまろやかな月柱石と海の碧さを写し取ったかのような碧水晶の飾られた、銀製の美しいクシ。

「これ……アイヒナに似合いそうだな」

 思わず手にとって呟いたトウージュに、女性は嬉しそうに言った。

「それが気に入ったのかい? 月柱石をこうまで見事に磨けるのは、うちの亭主とバンクスさんくらいのもんさ」

「へえ、そうなんですか」

 どうしよう? それ程高価でないのなら、アイヒナへのお土産に──。

「そのバンクスさんの細工も見てみたいなぁ。どこに行けば会えますか?」

 だが、トウージュの問い掛けに、女性の顔が曇った。

「バンクスさんはねぇ……。亡くなっちまったんだよ」

「それは、またどうして。やはり『眠り病』ですか?」

「いや、それは……。あたしの口からは、ちょっとさ──」

 気になる。なぜこんなに口が重くなるのだろう? ギルドの支配するこの街で、住人が口を閉ざす必要があるのは、それがギルドの内部事情に絡んでいる事だからだろう。渋る女性の前に、財布から金貨を一枚出してみせる。

「おばさん、このクシもらうよ」

「あら、ありがとさん。でも、金貨じゃもらい過ぎだわよ」

「いいんだ、とっといてよ。でね……」

 女性はクシを包みながら、小声でトウージュに告げた。

「あたしはね、あんまり詳しい事知らないのよ。街の噂では、献上品を横領したとかって言ってたけど……。腕のいい職人だったんだけどね。事の次第を知りたけりゃ、ロドーニュさんの所へ行ってごらん」

 そうして道順を教えてくれた。女性に礼を言って商品の包みを受け取ったトウージュは、それを懐へしまうと歩き始めた。が、しばらく行くと足を止め、小走りに店に戻ってきた。

「おばさん、これと同じようなクシ、もう一つあるかな?」


**


 教えてもらった場所へ、迷いながらも近付いていく。通りがかる人に道を尋ねるたびに、どんどん街の外れへと導かれて行った。

「ここら辺のはずなんだけどなぁ……」

 キョロキョロと辺りを見回しながら歩いて行くと、通りの端に研ぎ師の看板を見つけた。教えられたのは、この店のはずだ。

「こんにちは。こちらにロドーニュさんはおいでですか?」

 入口から声をかけると、白髪混じりのくすんだ髪をした老人が顔を出した。

「ロドーニュは、私ですが。どちら様ですかな?」

「初めまして。私はイシュリーン神殿からの遣いで参りました。『眠り病』の調査をしている、トウージュと申します」

「ほう、イシュリーン神殿の。まあ、立ち話もなんですからな。中へお入りください」

 ロドーニュはトウージュを中へ招き入れた。薄暗い室内には、ロドーニュの仕事道具が散らばっている。奥にある椅子を勧めると、部屋の隅に置いてあったテーブルと椅子を運んできた。

「年寄りの一人暮らしですのでな。何のおかまいも出来ませんが」

 そう言いながら、炉にかけられていたポットからカップに茶を注いだ。目の前に出された茶を有り難く受け取り、一口飲んでからトウージュは本題に入った。

「実は、現在『眠り病』についてイシュリーン神殿に寄せられている報告で、最初の患者がここホルテスから出ていると」

「それが私と何か?」

「ロドーニュさんは、バンクスさんの事をご存知だと伺いました」

 彼の一言にロドーニュは眉間にシワを寄せた。

「バンクスは『眠り病』で亡くなった訳ではない。関係はないと思うがな」

「それは調べてみないと判りません。お願いです。バンクスさんの事を教えて下さい。一番初めの患者は、工匠ギルドの人間です。もしかしたら、バンクスさんと関わりのある人かもしれません。辿っていけば、病気の出所が判明するかもしれないんです」

 ロドーニュはテーブルの上で手を組み合わせ、何事かを思案している。

「バンクスさんについて、こんな話を聞きました。彼は献上品を横領していたと」

「それは嘘だ! 彼は横領なんてしていない!」

 ロドーニュが顔をあげて怒鳴った。

「何が始まりだったのか、知らなくてはいけないんです。もしかしたら、関係ないのかも知れません。でも万が一、何かの手がかりがあれば、そこから辿っていく事が出来るんです」

 身を乗り出して説得するトウージュの言葉を聞き、老人は立ち上がると仕事場から出て行った。やはり話を聞くのは無理なのかと、トウージュが諦めかけた時。数冊のノートを抱えて老人が戻ってきた。

「トウージュ殿とか申されたか。この話がどのように『眠り病』に結び付くのか、私には判らん。だが、まったくの無関係とも思えんのじゃ」

 テーブルの上にノートを置き、その中の一冊を差し出しながら言った。

「バンクスはな。ギルドによって、殺されたんじゃよ。献上品を横領したと言う、濡れ衣を着せられてな」

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