15章 誘惑・アーカバル
気が付いてみれば、そこは邪神・アーカバルの造った「夢の檻」の中。
執拗に彼女を求めてくるアーカバルに、アイヒナは全力で抵抗する。
そして常々疑問に感じていたある問題に、彼女は答えの糸口を発見する。
だが、邪神の「夢の檻」から逃げ出す事は出来るのか?
音がしない。普段、無意識に聴こえている雑多な音が、まったく耳に入ってこないのだ。異変に気がついて、アイヒナがそっと目を開く。視界に飛び込んでくる全てが、そこが現の世界ではないと教えている。
夢の中にいる者は、果たしてそれが、夢だと認識できるものなのだろうか──。それでも──。
「私に『夢』は訪れない。エルキリュースの神によって、私の『夢』は取り上げられたままだからな」
四方へ油断なく視線を配りながら、誰かに語りかけるように言葉を紡ぐ。
「一体エルキリュースという神は、そなたからどれだけのモノを奪えば気が済むのか。それでもそなた、彼の神に仕えて行くつもりかえ?」
砂色をした髪の女性が、まるで湧き出るように現れた。
「不憫な。エルキリュースに仕える限り、そなたに安穏は訪れぬぞ」
髪を結い上げ、シンプルな黒いドレスに身を包んだ女性が、アイヒナに笑いかけながら近寄ってきた。
「それが、今のお前の姿か、アーカバル? お前にしては趣味がいいんだろうな。だが、それはお前の身体ではないだろう。身体の本来の持主はどうした?」
「この姿は気に入らないのか、我が想い人よ。なかなかに見目良い娘であろ。それでも、そなたの美しさには敵わぬのう」
アイヒナは嫌悪の表情で、伸ばされた手を払い除けた。
「黙れ。いつから私が、お前の想い人になったと言うのだ。その娘の魂はどうした?」
「おお、つれないのう。そんなに、この娘の事が気になるか? たかだか、人間の小娘一人。どうなろうと、そなたには関わりあるまい。だが、そなたがそれ程に気になると言うのであれば、教えてやらぬでもない」
カーティは──否、カーティと呼ばれていた娘は、世にも邪悪な笑みを浮かべた。アイヒナの胸に去来する思いは、果たして……?
「この娘、我に全てを捧げると言うのでな。文字通り、身も心も捧げてもらったのだ」
事もなげに言い放つアーカバルに、アイヒナは歯噛みする。
「きっさま……。その娘の魂、喰ったな──。私の前に、その姿で現れるな!」
エルキリュースの巫女の怒りが、刃のような波動を放つ。カーティの姿を、無数の“カマイタチ”が襲った。片手を挙げ、圧縮した空気の盾を作り出したアーカバルが、涼しい顔でやり過ごす。
「我が想い人は、この姿がよほどお気に召さぬと見える。やはり女の姿ではの。見目麗しい男の身体でもあれば、そなたも気に入ったやも知れぬな」
「やかましい。黙れ、耳が汚れる」
カーティの姿がユラリと揺れ、まるで陽炎のようにその“場”が歪んだ。
「ふふ。そなた、怒りに満ちた顔の方が美しいのう。いつまで、あのような創世の神々に尽くすつもりじゃ?」
言葉とともに、アーカバルが本来の姿で現れた。真黒の髪、大理石のような肌の長身の美丈夫。額にかかる髪から覗く眼は、アイヒナの相棒・闇姫と同じく、紅い。だが、彼女の紅眼は生き生きと輝いているのに対し、彼の瞳にあるのは深い悪意。満々とたたえられた、限りない悪逆。この世界に対する、尽きる事のない憎悪。
「奴等が、そなたに何をしてくれた? そなたから奪う一方で、何一つ与えようとはしないではないか」
穏やかに浮かべられた微笑みに、底知れぬ悪念が見て取れる。一歩一歩近寄ってくる暗黒神から、アイヒナは耳をふさいで後退った。
「黙れ! 聞きたくない!」
そんなアイヒナに構わず、アーカバルは彼女との距離を縮めていく。
「そなたの髪の色を奪い、瞳の色を奪い、眠りから夢を奪った。人としての楽しみも知らず、ただ、使命とやらにがんじがらめにされて」
「やめろ!」
カーティの姿の時とは比べ物にならない、圧倒的な威圧感。エルキリュースのもっとも近くに侍るアイヒナでさえ、気を抜けば屈してしまそうな程だった。
極彩色の夢の中で対峙する二人。伸ばされたアーカバルの細い指が、アイヒナの絹糸の髪に触れた。ビクリッと彼女の身体が震える。
「我はそなたが不憫でならぬ。人のために、誰かのためにと、そなたは身を削り力を振るう。だがそれに対して、そなたに与えられるのは感謝か? 答えは“否”だ。誰もがそなたを恐れる。その身を、その力を恐れる。そなた、人間に何と言われた?『化け物』か? 『怪物』か? かような言葉を投げ付けられてまで、守ってやらねばならぬ程の者達か?」
しっかりと耳をふさぎ、目を閉じるアイヒナ。必死になってアーカバルの暗い誘惑の言葉を心から締め出そうとする。そんなアイヒナの努力を嘲笑うかのように、容赦なくアーカバルの言葉が忍び込んでくる。
「それだけの神意を宿らせる器を持ちながら、もったいない事よ。我ならば、そなたに辛い想いをさせたりはせぬ。我の許へ来よ、愛しき想い人よ。奪われたそなたの夢を取り戻し、そなたに自由を与えてやろう。そなたが諦めた願いさえ、我ならば叶えてやる事もできる」
巧みにアイヒナの心の隙を突いて来る。彼女の髪に指を絡め、アーカバルはそれに口唇を寄せる。
「我は知っておるぞ。そなたが真に願っている事を。あのトウージュとかいう若造のことも」
髪に絡めていた指を離し、その滑らかな頤に手をかけた。くいっと自分の方へアイヒナの顔を向かせる。そっと形の良い耳へ毒を注ぎ込む。
「そなたが隠している秘密もな」
ハッと目を見開いたアイヒナの唇に、アーカバルのそれが落ちてくる。
「ん──っ!?」
反射的に逃げ出そうとする眠りの神の巫女を押さえつけ。暗黒神はより深く彼女の息を盗む。アイヒナは嫌悪感に身をよじり、何とかアーカバルの腕から抜け出そうとしていた。
「んん──んう──んっく!」
「つっ──!」
アーカバルが端整な顔をしかめて、唐突にアイヒナから顔を離した。
「いつまでも、私がお前の思い通りになると思うな! この手を離せ!」
彼女の背中に回された手が、長く美しい髪をわし掴みにした。グイッと後ろに引かれ、アイヒナの白い顔が不自然に仰向く。にらみ付けてくる彼女を見下ろしたアーカバルの、三日月の形に吊り上げられた唇の端からは鮮血が鮮やかな色を残していた。
「ふふ。それでこそ、我が想い人よ。そなたがそう易々と、我が物になるとは思うておらぬ。焦らされれば焦らされるだけ、手に入れた時の喜びも大きいというものじゃ」
空いていた手で口許の血を拭うと、アーカバルは邪悪な笑みを浮かべた。
「どれだけそなたが抗おうと、ここは我の夢の中。瑰国の王弟も、頼みのドラムーナも、そなたを助けに来る事は出来ぬ。大人しく我の言葉に従ってはどうかな」
二人の周囲が暗くなる。偽りの輝きを放っていた邪神の夢が、その本来の顔を覗かせ始めたのだ。極彩色の絵の具をブチまけたようだったあたりの景色が、まるで氷が溶けていくようにドロドロと流れ、グロテスクな様相を呈している。
「余計なお世話だ。これは神を与えられた道ではない。私が、自身で選んだ道だ。お前を滅するために、この私が選んだ道だ。私の事を『化け物』と呼びたければ、勝手にそう呼べばいい。『私』を知ってくれている相手がいる限り、私の真実は揺るがない」
アーカバルを見据え、きっぱりとした口調でアイヒナが告げた。すでに周囲は雷を孕んだ黒雲のような闇が垂れ込め、煤けた灰色と澱んだ黒が渦を巻いている。
「『私の真実』──か。そなたの秘密を知ったとき、あの若造は何と思うかのう? 一途にそなたを見つめる、瑰の王弟は」
その言葉に、一瞬だけ、痛みにも似た色が彼女の瞳に浮かんで消えた。
「それは私と彼の問題だ。お前が気にする筋はなかろう。彼が何と思おうと、私は全てを受け入れる覚悟だよ」
「それは、見上げたものだ」
作り物のように、表情の動かないアーカバルの笑み。それを見上げるアイヒナの顔は、今は穏やかだ。
「前から不思議に思っていたんだ。アーカバル、お前なぜ、この世界に来た?」
そう。アーカバルさえ堕ちて来なければ、今起こっている全ての事はなかったはずなのだ。
「我が、この世界に来た理由だと?」
「そうだ。何か目的があって、この世界にやって来たのか?」
邪神の顔から笑みが消え、何かを思い出そうとしているような表情になる。アイヒナの髪を掴んでいた手から、力が抜けた。不意に頭部が自由になり、少しよろけるアイヒナ。
「いつの頃からか、時の狭間を漂っていた──。我がいた『世界』が滅びを迎え、我は永遠とも思える時を彷徨っていた」
静かな声だ。これまで、幾人もの夢長や姉巫女達が知ろうとし、ついに手の届かなかった問いの答え。世界創造における、最大の謎。
「虚無と実質の狭間を行き来しながら、我はあるものに惹き付けられた。それが、エルキリュースの創造した、この『世界』だ。まだ生まれたばかりの世界は、エルキリュースの造り出した神々の祝福を受け、生命の輝きに溢れていた。我はその輝きに魅せられ、引き寄せられ、囚われたのだ」
そっと視線を落とし、邪神は己の両手を見つめる。
「あの輝き、あの力強さ。全てが欲しかった。この世界なら、我を受け入れてくれるやも知れぬ。そう思うたのだ──」
ふっ、と笑うとアイヒナに視軸を移し、限りない渇望をこめた瞳で彼女を見つめる。
「そなたも同じだ。神々の祝福を一身に受け、この世に生を受けたエルキリュースの娘。何ものをも受け入れる、奇蹟の器。その美しさ、神の力を具現する器の力、神々に愛された魂の輝き。そのどれもが、我を惹き付ける。そなたこそが、我に相応しい」
熱を込めて語るアーカバルを見返しながら、アイヒナは妙な感覚を覚えていた。まるで、真っ暗な夜道で両親とはぐれた迷子と出会ったような……。
「アーカバル、お前……?」
そんな彼女の表情から、何かを感じ取ったのだろう。アーカバルの瞳から感情が消えた。
「無駄話はここまでだ。知らず、余計な事まで口にしてしまったわ。そなた、油断ならぬのう」
急激に周囲の闇が濃くなった。邪神の威圧感は、前にも増して強くなる。
「我は是が非でも手に入れる。瑰の玉座から国王を引き摺り下ろし、我の身のかけらを取り戻す。この国に混沌を撒き散らし、他の三国を呑み込み、我は暗黒神としての『我』になるのだ。そして、この世界を手に入れる」
再びアイヒナの頤に手をかけ、自分の方へ向けた。
「そして──そなたも、な」
暗黒神アーカバルとエルキリュースの巫女の視線がしっかりと絡み合う。
「……言ったはずだ。私はお前を滅ぼす道を選んだと。お前のモノになるつもりはない。もう、私の心の隙を突き、誘惑しようとしても無駄だ」
今度はアイヒナの心に動揺はない。アーカバルから発せられる、禍々しい威圧感にも屈する事無く、凛と立っている。その姿を、邪神は眼を細めて見つめている。
「さすがは、神々の巫女。エルキリュースが己の器に求めただけの事はある。この世界と同じく、そなたの存在そのものが我を惹き付ける。その美しさも、その魂の輝きも」
渇いた者が全霊をかけて水を求めるように、アーカバルがアイヒナを求めてくる。まるで親鳥の庇護を求める雛鳥のように。
「悪いな。私はお前の求めに応じる事は出来ない。無駄話は終わりと言ったな。私もそろそろ帰らせてもらおうか」
「帰る? 一体どうやって? この場は、我の夢。夢幻鏡もドラムーナもなしで、どうやって現に戻るというのだ?」
小馬鹿にしたように笑うアーカバルに、アイヒナも妖艶に微笑んでみせた。その笑みに邪神の眼が吸い寄せられる。神をも惑わす美しさ。
「私は、私がそう決めた時に戻る。たとえ、お前が邪魔しようとも、だ。それに、私の相棒は──お前が思っている程、甘くはないぞ」
何の前触れもなく、アイヒナの胸元から黒い刃が飛び出してくる。不意を突かれたアーカバルの白い腕を浅く切り裂いた。
スルスルとアイヒナの胸から抜け出ると、その全身を顕す。ドラムーナである闇姫の黒い長剣。剣の切っ先が彼女の足下に触れるや否や、瞬時にその姿を変じる。怒りに毛を逆立てた、巨大な黒狼だ。口唇をめくり上げ、牙も露わに唸り声を発している。
「意外なところから出てくるではないか。驚かせてくれる」
傷付いた腕を押さえもせず、アーカバルは闇姫に目をやった。闇姫は主人と邪神の間に割って入ると、アーカバルに対して言葉を発した。
「おのれ──! 貴様、よくも吾の主殿に手を触れたな。その、闇に染まった、汚れた手で!」
一声高く吼えると、巨大な黒狼がアーカバルに踊りかかった。鋭い爪と牙が邪神を襲う。アーカバルは片手を挙げ、圧縮した闇の塊を放ちながら闇姫の攻撃をかわして行く。
「やれやれ。二人の逢瀬を邪魔する、無粋な奴め」
アーカバルの言葉に、闇姫が噛み付く。
「黙れ! 主殿の精神体を勝手に呼び出し、このような所に留め置くなどという狡い手を」
素早く襲いかかる闇姫の攻撃をヒラリヒラリとかわし、アーカバルはアイヒナに告げた。
「我が想い人よ。いずれまた、邪魔者の入らぬところで逢うとしよう。それまで息災でな」
「何を──。貴様、ヌケヌケと!」
飛びかかろうと姿勢を低くした闇姫を、アイヒナは制止した。
「お前に心配されるまでもない。出来る事なら、ここでケリをつけたいがそうもいくまい。お前の影を消したところで、何にもならぬしな」
それを聞いて、アーカバルはニヤリと笑った。
「やはり気が付いておったか。さすがは、我が想い人よ。それでは、またな」
そう言うなり、アーカバルの姿は消え、周囲の景色も歪み始める。胃がひっくり返るような不快感。
「闇姫、戻るぞ。こんな場所に長居は無用だ」
足許に寄って来た黒狼の背に飛び乗り、神の巫女は邪神の夢を後にした。
**
意識が戻って、最初に気が付くのは眉間の痛み。余程、眉根に力を入れていたのだろうか。アイヒナはそっと眼を開く。まず視界に入ったのは、差し込む陽光と──。
「ああ、良かった……。アイヒナ、大丈夫か?」
大きく安堵の息を吐くトウージュの顔だった。彼に向かって、そっと微笑みを浮かべた。
「心配をかけたようだな、トウージュ殿」
その吸い込まれそうな笑顔に、瑰国の王弟はしばし見蕩れてしまう。自分で知らず、自然と互いの距離が近くなる。
──ぐぁしっ!!
音も気配もなく、背後から忍び寄って来た闇姫の右手が、トウージュの頭を掴む。しかも、かなり痛い。
「いや、あの、闇姫、痛いんですけど──頭……」
顔中にダラダラと冷や汗をかきながら、トウージュが引きつった表情で闇姫に訴える。
「貴様、何をしようとしておったのじゃ? 吾は今、最高に機嫌が悪いのでな。お主、一度吾にむしられてみるか?」
グググ……と、闇姫の手に力が入る。毛根が悲鳴を上げている。
一度って、お前……。一回むしられたら、大変な事になるだろうがよ──。
トウージュは心密かにそう思ったが、賢明にも声に出す事はなかった。ガウガウと不機嫌に唸っている闇姫に、彼は恐る恐る聞いてみた。
「一体、何だったんだよ?」
その問いに対して、闇姫は牙をむき出して吼えた。
「アーカバルの奴めが卑怯にも、主殿の精神体を自分の夢に取り込んで縛っておったのじゃ。しかもあやつめ、主殿の唇を──!!」
「──闇姫……」
アイヒナの静かな声に、感情的にわめいていた闇姫はハッとして口をつぐんだ。そんなの、俺に八つ当たりしたって仕方ないだろー、などと思いつつ話を聞いていたトウージュは、不自然なところで断ち切られた会話の『唇』という単語に過剰反応を示した。
「え、唇? 何? 唇がどうしたんだ?」
キョロキョロと二人を見比べ、少し血の気の引いた顔で発せられた王弟殿下の問いは、主従に見事に黙殺された。
何だよー。気になるじゃないか、教えろよー。気になるぞー。
一人頭を抱えて悶々としているトウージュを一人放置し、闇姫は主人に近寄った。アイヒナはベッドから起き出し、マットレスに腰かけている。
「場を特定するのに時間がかかってな。遅くなって申し訳ない」
「気にするな。相手はあのアーカバルだ。そう易々と破れるような結界を張ったりはせぬだろう。それよりも造作をかけたな。だが、お陰で、常々不思議に思っていた事の答えが見えてきたよ。ようやくな」
自分には理解できない主従の会話を、トウージュはどこか遠い所で聞いていた。