表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢幻の瞳 現の涙  作者: 橘 伊津姫
15/33

14章 宮城・女達の決意

イルネアは迷っていた。夫を諌めるには、最後の手段しか残されていないのか?

彼の心に少しでも「家族」への想いが残っていれば……。

イルネアは辛い決断を迫られる。救うべきは「夫」か「国」か……?


 イルネア・エメス・ノーヴィアが国王の書簡を受け取ったのは、勅使が城を発った翌日の午後だった。

「陛下も今更、何をなされようと言うのか」

 豪奢ごうしゃな長椅子に身を沈め、サマル・ビュイク・ノーヴィアは皮肉気に呟いた。

「陛下には陛下のお考えがおありなのでしょう。知らせを受け取り次第、パーティルローサへ向かうようにとの仰せですわ」

 窓から差し込む陽光でコルウィンからの親書を読んでいたイルネアは、サマルに書面を渡そうとしたが夫に振り払われてしまった。

「陛下のお考え? そんなものは、ありわせぬわ。どうせ、あの小賢しいアイナセリョースか、宰相のリュフォンが名代としてしゃしゃり出てくるのだろうよ」

 馬鹿にしたように鼻先で笑うと、ノーヴィア公爵はグラスを干した。そんな夫の姿に、イルネアは悲し気に目をやる。以前から確かに野心家ではあったが、こうもあからさまに態度に出したりはしなかった。

「いいえ。この書状は、妃殿下からのものでも、宰相閣下からのものでもありませんわ。正真正銘、国王陛下からの勅書に間違いございません」

 くるくると羊皮紙を巻いてしまうと、王家の紋章の付いた封環で閉じた。

「陛下からのお召しです。夫婦でパーティルローサへあがるようにと。王族として筆頭の地位にあるノーヴィア公爵家は、これに従がわなくてはならない義務がございます」

 書状を戸棚に仕舞いながら、イルネアが夫の様子を伺った。妻の言葉に面白くもなさそうに返事をし、繊細な彫刻の施されたクリスタルのデキャンタから酒をグラスに注ぐ。

「好きにせよ」

 イルネアはそっとため息を落とすと、使者に返答を預けるために部屋を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、サマル・ビュイクは吐き捨てるように呟いた。

「ふん。王族の義務とやらを後生大事に抱えているがいいさ。コルウィンの治世も長くはない。せいぜい玉座を温めておくが良い。やがては玉座も国も、すべて私のものになるのだからな」

 グラスになみなみと注がれていた酒を、一気にあおる。

「この、サマル・ビュイクのものにな」

 だが、その言葉を聞いていたのはサマル一人ではなかった。扉の外でサマルの言葉を聞いていた者──。それはイルネア・エメスだった。目を伏せ、静かに扉から離れる。

「──謀反……。そう……。あなたは決意してしまったのですね。己の野望のための、大逆を」

 廊下を歩きながら、イルネアは悲しい顔付きで考え込んでいたが、やがて何かを決意したようにキッと顔を上げ、厳しい表情で足早に歩き出した。


**


 留守中の事を執事に任せ、ノーヴィア公爵夫妻は馬車に乗り込んだ。そして、まだ幼い公爵家嫡男であるティルス・グラルも一緒である。

「ティルスも一緒なのか? パーティルローサにあがるのは、私とお前の二人で良かったのではないのか?」

 怪訝そうな顔のサマルに、イルネアは答えた。

「ティルスも、もう五つです。ノーヴィア公爵家の跡取りとして、陛下にご挨拶申上げるのに良い機会でございましょう」

 確かに貴族の子息が、国王に謁見を賜るのは珍しい事ではない。ティルスの肩を抱きながら、イルネアは波立つ心が少しでも顔に出ないようにと、努めて平静を装っていた。今ここで、自分の決意を夫に知られるわけにはいかないのだ。しかしイルネアの心配をよそに、サマルは『そうか』と言っただけだった。──そう。すでにサマルの心の中には、イルネアもティルスもいないのだ。それを知って、彼女は悲しそうに目を伏せた。

 三人を乗せた馬車は公爵領を出て、王都を目指す。使者が早馬で駆け抜けた道を、薔薇を抱いた隼の公爵家の紋章を掲げた馬車が、二日をかけて辿って行った。

「お母様! ハディースの街が、見えてきましたよ。間もなくですね」

 初めて王都ハディースを目にしたティルスは、馬車の窓に張り付いて歓声を上げた。

「大きな街並みだなぁ」

 街道を辿り王都に入った馬車の中で、ティルスは口を開けたまま街並みから目が離せずにいた。

「ほらほら、ティルス。そんなに大きくお口を開けていると、鳥さんがやってきて巣を作ってしまいますよ」

「はい、お母様──」

 母から注意されて返事はしたものの、相変わらず窓にへばり付いて口を開けたままだ。そんな息子の姿に微笑むと、イルネアは向かいに座る夫に視線を移した。しかしサマルは、はしゃいでいるティルスに目をやるでもなく、一人、分厚い書物に没頭している。家族の事などまったく意識していない夫の姿に、イルネアは口唇を引き結んだ。──もっとも、家族の事を考えていれば、大逆を企てたりはしないだろうが。

 それぞれの思いを乗せた馬車は、王都ハディースの中心である、珠春宮パーティルローサの堅牢な城門の中へと吸い込まれていった。


**


 瑰国の全土に広がる貴族の領地は山岳地帯や辺境も含まれる。通常、情報の伝達には青鳩や早馬を使うが、それらの手段で十日以上の日数がかかる地域も少なくない。王宮への召集の場合、伝令が到着して領主が王都に出発するまでに時間がかかり過ぎる。また、長期に渡り領地を留守にさせる訳にもいかない。そのため、地域を限定して代理人を王都に置く事が許されていた。

 ノーヴィア公爵家一向がパーティルローサに到着した後、まだ揃っていない貴族達を待つために、公爵家専用の部屋へと通された。

「うわあ、素敵なお部屋ですね」

 初めて見る宮城は、外も中も珍しいものばかりだ。ティルスの目は大きく見開かれたまま、色々な物を同時に見ようとしてキョロキョロと休みなく動いていた。

「お父様、僕、お城の中を見てきてもいいでしょうか?」

 好奇心を刺激されて、ウズウズした顔付きでサマルを見上げた。頬を上気させて尋ねてくる息子に、父親は一瞥をくれると、そっけなく答えた。

「公爵家の子息ともあろう者が、みっともない。そのような様では、いずこの田舎者かと侮られようぞ」

 その言葉に、ティルスの瞳から輝きがみるみる消えていく。期待を裏切られて元気を失くしているティルスを顧みる事もなく、サマルは部屋の扉に手をかけた。

「あなた、どちらへ?」

「到着のご挨拶をな。まあ、どうせ陛下にはお会いする事もかなわんだろうが」

 なんの感情もこもらない──いや、皮肉の混じった──声音でイルネアに告げると、扉を開けて案内を呼ばわった。部屋を出て行く夫の背中を見つめ、イルネアは何かを吹っ切るように頭を振った。まるで、胸の奥に抱えていた最後の大切なモノに決別するかのように。そんなイルネアの耳に、最愛の一人息子の声が聞こえた。

「僕は何か、お父様のお気に触る事をしてしまったんでしょうか? このところのお父様は、変わってしまわれたようです」

 大きな目に涙をためて、ティルスは母を見上げてくる。息子は息子なりに父の変化を感じ取り、その幼い心を痛めていたのだ。イルネアは優しく微笑むと、ティルスの前に膝をついて息子を抱き締めた。

「あなたが悪いわけではないのよ、ティルス。お父様は今、大変な事を考えてらっしゃるの。だから、気持ちが少し苛ついておられるだけ。さ、機嫌を直してちょうだい、かわい子ちゃん。お母様が、お城の中を案内してあげるわ」

 母に鼻の頭をつつかれて、ティルスは笑い声を上げた。袖でグイッと涙を拭うと、嬉しそうにうなずく。

 公爵家に嫁いで十数年。イルネアにとっても久し振りに訪ねる王宮だ。元我が家とはいっても、降嫁こうかした身であればそうそう戻ってくる訳にもいかない。

 ティルスの手を引きながら廊下を歩けば、見知った顔が挨拶してくれる。新しい顔もあるが、総体的に見て、それ程の人員の入れ替えはなかったらしい。にっこりと笑って頭を下げてくれる皆の顔を見ていると、ここ数日間の張り詰めた精神が和らいでいくのが判った。自分の手を握り締めている、ティルスの小さな手の温もりが嬉しい。自分が何を守らなくてはならないのか。自分の決意は正しいのか。それらが、ストンと心の中に落ちた。

「イルネア様! お戻りになられたのですね。お久し振りです。お元気そうで」

 廊下の角を曲がると、そこで初老の女性と出会った。

「まあ、マルガーテ。あなたも元気そうね」

 ニコニコと笑顔を浮かべる女性を不思議そうに見上げているティルスに、イルネアは彼女を紹介した。

「ティルス。女官頭のマルガーテよ。マルガーテ、息子のティルス・グラル。ティルス、ご挨拶は?」

 息子はうなずくと、母親の手を離して一歩前に出た。

「初めまして。ティルス・グラル・ノーヴィアです。よろしく、マルガーテ」

 ぺこりと頭を下げたティルスの姿に、マルガー手は破顔した。まるで、太陽に向かって咲くヒマワリのように、大きくて温かな笑顔だ。

「まあまあ、ティルス坊ちゃま。マルガーテでございますよ。なんて利発なお子様なんでしょう」

 そんなマルガーテに、イルネアはそっと声をかけた。

「マルガーテ、アイナセリョース王妃殿下はおいでかしら? もしもお時間がおありなら、ご報告申上げたい事があるのだけれど」

「妃殿下でございますね。本日はまだ、執務室においでかと存じますが」

「そう。それでは、そちらへ伺ってみましょう」

 マルガーテに礼を行って、ティルスと共に執務室へ向かおうとした。そんなイルネアにマルガーテが言った。

「ご一緒いたしますよ、イルネア様。妃殿下へのご挨拶がお済みになりましたら、テュルス坊ちゃまはマルガーテと一緒に厨房へ参りましょう。おいしいお菓子をご馳走いたしますよ」

 お菓子の一言に、ティルスの顔がほころんだ。長い廊下を辿り、王妃の執務室の前まで来ると、マルガ-テが扉をノックした。

「執務中失礼致します、王妃殿下。ノーヴィア公爵夫人をお連れ致しました」

「お入りなさい」

 扉の内側から柔らかないらえがあった。扉を開くと、簡素なドレスに身を包んだアイナセリョースが穏やかな表情で立っていた。

「ご無沙汰しております、王妃殿下。到着のご挨拶にあがりました。こちらは、息子のティルス・グラル・ノーヴィアでございます」

 ドレスを持ち上げて一礼したイルネアは、自分の後ろの隠れるように立っていたティルスの背中を押し出した。少し緊張した面持ちのティルスは、一歩踏み出すと、ぎこちなく頭を下げた。

「は、初めてお目にかかります、王妃殿下。ティルス・グラル・ノーヴィアでございます。以後、おみ…おみ…」

 ティルスが言葉に詰まって、耳まで赤く染まった。そばによってきたマルガーテが、そっと耳打ちしてやる。

「『お見知りおきを』、でございますよ、ティルス坊ちゃま」

 パッと顔を上げたティルスは、彼女を見てから再度頭を下げた。

「以後、お見知りおきを──」

「ご丁寧な挨拶、恐れ入ります。ようこそ、珠春宮パーティルローサへ。小さなノーヴィア公爵閣下」

 ニッコリと笑ったアイナセリョースが挨拶を返した。ティルスは大きく息を吐き、マルガー手の方を向いてペコリと頭を下げた。

「助けてくれて、ありがとう。マルガーテ」

「お礼なんて、よろしいんでございますよ。それよりも、お許しいただけるんでしたら、私とティルス坊ちゃまはお話が終わるまで、厨房へ行っておりますが」

「そうね。ティルス、これからお母様と大切なお話があるの。少しの間、お母様をお借りしてもよろしいかしら?」

 ティルスはほんの一瞬だけ寂しそうな顔をしたが、マルガーテに肩を叩かれて「お菓子」の一言を思い出したようだ。途端に明るい表情になって返事をした。

「はい。お母様のお話が済むまで、僕、マルガーテと一緒に厨房で待ってます」

「さ、ティルス坊ちゃま。参りましょうか」

 マルガーテに促されて、ティスルは扉の前で一礼すると部屋を出て行った。それを見送り、アイナセリョースは優しく笑んで言った。

「良いお子におなりですね。お母様の愛情が、きちんとあの子の心に伝わっている証拠ですわ」

「恐れ入ります」

 イルネアに椅子を勧めると、アイナセリョースが「ああ、そうだったわ」と手を叩く。

「マルガーテに、お茶の用意を頼めば良かったわ」

 そう言って、テーブルの上にあるクリスタルのベルを鳴らした。澄んだ高い音が室内に響き渡る。控えの間から顔を覗かせた女官に、二人分の茶を用意するように言い付けたアイナセリョースは、自身も椅子に腰掛けると改めてイルネアに向き直った。

「ここからは、社交辞令は抜きということで。よろしいでしょうか、叔母上」

「もちろんですわ。でも、その『叔母上』と呼ぶのはやめてちょうだいね、アイナセリョース。どうぞイルネアとお呼びになって」

「はい。そうお望みであれば。イルネア様」

 二人は顔を見合わせると、口許を隠し声をあげて笑った。女官の運んできたワゴンから茶を注ぎ分け、しばし立ち昇る香りを楽しむ。

「リュコス産の香茶ですね。なんていい香りなんでしょう」

「ええ。心が落ち着くので、気に入っております」

 イルネアはカップを皿に戻すと、笑みを収めてアイナセリョースを見た。

「今日うかがいましたのは、実は我が夫、サマル・ビュイク・ノーヴィアの事なのです」

「承りましょう」

 背筋を伸ばし、姿勢良く座るアイナセリョースに、イルネアは夫の事を語り始めた。旅の薬師・カーティと名乗る、謎の娘と出会ってからの夫の変化。公爵としての職務も半分放棄し、昼間から取り巻きの貴族達と一緒に遊興に耽るようになった。そこでサマルは、妻であるイルネアに隠れて何やらコソコソと話をしているのだ。最初は夫が何を画策しているのか、イルネアにも判らなかったのだが──。

「ようやく、私にも理解できました。夫は……サマル・ビュイク・ノーヴィアは玉座を狙い、王位の簒奪さんだつを決意したようです」

「大逆を──! 一族のすべてを巻き込むというのに。幼いティルスのことは考えなかったのでしょうか?」

 沈痛な面持ちで発せられたアイナセリョースの言葉に、イルネアは痛々しく笑んで答えた。

「あの人の心の中には、もう私も息子もいないのです。あるのは至尊の御位に就いた、自分の姿だけ──」

「イルネア様……」

 何と声をかけていいのか判らず、口をつぐんでしまったアイナセリョースに公爵夫人は威厳をまとって頭を上げた。

「どうぞ、サマル・ビュイクを止めてください。不安に満ちたこの国に、愚かな戦禍をもたらす訳には参りません。公爵家の存続を考えるよりも、まずは珠春宮にお知らせせねば、と」

 その凛としたつよさに、一国の妃としてではなく一人の女性として、自然と頭が下がった。

「サマル・ビュイク殿は、イルネア様が簒奪の計画に気付いておられるのには?」

「ふふ……。私があの方の思いに気付いているなどと、毛程も思い至ってはおりませんでしょう」

 イルネアの声からは、サマルに対する憐憫れんびんがうかがい取れる。自身の夫であるサマル・ビュイクが、甥である国王コルウィンの地位と命を狙っているのだ。その事をアイナセリョースに伝えようと決意するまでの葛藤は、余人には計り知れない。そして今、彼女の裡にあるのは夫を止める事の出来ない己への無力感と、サマルの行く末を思っての憐みの情なのだろう。

「イルネア様、これからはどうなさるおつもりなのですか? わたくしに公爵の事をお知らせ頂いた今、これまで通り、サマル・ビュイクと共にいらっしゃるのはお勧めできませんわ」

 王妃の言葉も、もっともだ。イルネアが自分の計画に気付き、しかもそれをアイナセリョースに教えてしまったとあっては、彼女の身の保障はないだろう。そしてそれは、幼いティルスの身も安全ではないという事だ。

「ええ。もう公爵領へは戻れないでしょうね。私はともかく、ティルスの事もありますし」

 眉をひそめて顔を曇らせたイルネアに、アイナセリョースが身を乗り出して告げた。

「実はわたくしも、イルネア様にお願いしたい事がございますの」


**


「ああ、ティルス様。襟が曲がっておりますよ」

 ノーヴィア公爵一家が珠春宮に到着した二日後、それぞれの領地からの使者が揃った。余程の事情があり、領地を離れる事の出来ない者だけが代理を立てる事を許されたが、それ以外は領主自らが王宮に上がるように通達されていた。パーティルローサに集った面々が、こたびの召集は一体何事なのかと思案をめぐらせていた。

 当代国王であるコルウィンが病床についてから、貴族達をパーティルローサに召集したことはなかった。何か通達事項がある場合には、宰相リュフォンもしくは国王名代アイナセリョースの名で、各地に布されていたのだ。異例とも言える今回の召集に、皆、複雑な心境だった。

 領主達が通されたのは、謁見の間ではなく大会議のための長卓の間であった。上座から順に爵位に合わせて着席していく。

「一体、こたびのお召しはどうした事なのでしょうか」

「ジルドラ伯爵も、ご存知でない? 貴殿ほどの情報通でも、何も入ってはきませんか」

「いやいや。私などよりも、ノーヴィア公爵の方がお詳しいのでは? 何せ奥方殿は先の陛下の妹御であられるからな」

 各々の前に用意された真鍮製のゴブレットを口に運びながら、ああでもない。こうでもない。と憶測が飛び交う。ザワザワと波のようにざわつく室内に、侍従の先触れが響き渡った。その場にいる者すべてが起立し、儀礼に則って頭を下げる。

 微かな衣擦れの音がする。当然そこには、王妃アイナセリョースがいるものと思い込んでいた領主達は、頭上から降ってきた声に一様に驚きの表情を浮かべた。

「皆、こたびの召集に対し、遠路よりはるばる大儀であった。顔を上げよ」

 信じられないという面持ちで、皆が顔を上げた。一段高くなった略式の王座にいるのは、姿を見せなくなって久しい現国王コルウィン・イルス・ダルム・瑰その人だ。

 長年にわたって身を蝕む病のために、やつれて一回り小さくなったように感じられるが、穏やかな微笑みは変わっていない。手を振って一同に席に着くように合図をすると、設えられたもうひとつの椅子に座した王妃と視線を交わした。

「陛下の健やかなご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます」

 改めて立ち上がったサマル・ビュイクが、コルウィンに挨拶の口上を述べた。

「うむ。余の体調の事では、皆の無用の心配をかけた。申し訳なく思っている」

 長卓に着いた一同を見回し、コルウィンが目を伏せた。そんな夫を見やり、アイナセリョースは胸にこみ上げてくるものを感じていた。このように玉座にあるコルウィンを、幾度夢に見ただろうか。病は癒えた訳ではない。こうしている今も、体は相当に辛いはずである。しかしそれを顔には出さず、領主達と向き合っている。海千山千の貴族達を前に、弱っているところを見せる訳にはいかないのだ。……特に今、この場は。

「陛下。もしお許しいただけるのでしたら、我が公爵家の嫡男からもご挨拶申上げたいのでございますが。よろしいでしょうか?」

 父に促されて、おそろしく緊張しているティルスが立ち上がった。そんな息子の手を、イルネアがそっと叩いてやる。

「許す。そなたがノーヴィア公爵家の嫡男か。名は何と申す?」

 国王から直接に言葉をかけられ、幼い次代の公爵はぎこちなく礼をとった。

「お、お初に御目文字つかまつります。ティルス・グラル・ノーヴィアでございます。以後、お見知りおきくださいませ」

 最後まで口上を述べられた事に、自分自身で安心したのか、ティルスの口許に小さな笑みがのぼった。そんなティルスの様子に、コルウィンは慈愛に満ちた微笑を浮かべて礼を返した。

「ようこそパーティルローサへ、ティルス・グラル。そなた、年齢はいくつにおなりだね?」

「はい。今年の木蓮の月に、五歳になりました」

「そうか。これより先、様々な困難が待ち構えているだろう。良き友、良き先達に導かれて、領民の想いをくめる領主になれるように、努めて励めよ」

「はい、ありがとうございます!」

 国王より賜った言葉に、ティルスは頬を紅潮させて答えた。幼いノーヴィア公爵家の嫡男に向かってうなずきかけると、王は扉近くに控えていた侍者を呼んだ。

「いかに利発なお子とは言え、この先の話は長くつまらないものだろう。外にマルガーテが控えておる。侍女を何人かお貸しするゆえ、王都ハディースを散策なさるが良かろう」

 それを聞いて、緊張に強張っていたティルスの顔に、歳相応の笑顔が浮かんだ。

「もちろん、父上母上のお許しをいただいてからだが。いかがかな?」

 一瞬、心配そうな表情をしたティルスの耳に、父母の「是」という返事が聞こえた。

「よろしい。さあ、行きなさい。自分の知らない世界を見る事は、そなたの成長に大切な糧となるだろう。ティルス・グラル・ノーヴィア。そなたに会えて、嬉しかったよ」

「はい。失礼致します、陛下」

 待っている侍者の許へ向い、扉の前で振り返った。

「ありがとうございました、陛下」

 そう言って深々と頭を下げ、侍者が支えてくれていた扉を抜けて出て行った。それを見届けると、コルウィンは改めて一同を見渡し、表情を引き締めて宣言した。

「これより本日の議題に入る。リュフォン、皆に説明を。尚、皆に言い渡しておくが、これは余の勅命である」

 議場に集った面々は、一斉に頭を垂れた。


**


「やれやれ。陛下が勅命などと申されるので、一体何事かと思ってみれば。あのような話、わざわざ領主・諸侯を召してまで伝えるべきものかのう」

 部屋に戻り、正装を解いてくつろいだ姿のサマルは、飾り棚からワインのボトルを取り出しゴブレットに注いだ。暗赤色の液体を揺らし、鼻先で香りを楽しむ。

「さすがは王宮。良い酒を揃えておるわ」

 暖炉の前の椅子に腰かけ、ゴブレットを口に運ぶ夫にイルネアが言葉をかける。

「しかし、こたびの召集には大きな意味があったと思いますわ。皆の前に陛下がお姿をお見せになった事で、諸侯への牽制となったはずです。王が玉座にお着きでないと、良からぬ事を考え付く者もございますゆえ」

 もちろん、その言葉がサマルにとってどのような意味があるのか、充分に判っていての発言である。コルウィンが己の存在を誇示して見せた事で、サマルが反逆を思い止まってくれれば……。そんな、儚いイルネアの想いは夫には届かなかったらしい。眉間にシワを刻むと、残ったワインを一気に飲み干して話題を変えた。

「それよりも、ティルスはどうしている」

 イルネアは小さくため息を吐くと、手にしている計画書をめくりながら答えた。

「ハディースの街が、余程楽しかったのでございましょう。はしゃぎ疲れて眠っておりますわ」

 会議が終了して間もなく、マルガーテに付き添われて戻ってきたティルスは、頬を上気させて部屋に駆け込んできた。

「ただ今、戻りました!」

 興奮冷めやらぬ様子でハディースで見聞きした事をしゃべっていたが、先程、ようやく眠りについたのだ。

「何がそんなに面白いのやら。子供という奴は、良く判らぬわ」

 ゴブレットにワインを注ぎ足し、サマルは興味もなさそうに言い捨てた。

「あなたが判っておられぬのは、何も子供に限った事ではありますまいに──」

「ん? 何か申したか?」

「いえ、何も──」

 皮肉を込めて呟かれたイルネアの声も、やはりサマルには届かなかった。

「それよりも、明日の昼には領地へ戻るのだ。支度をしておくようにな」

 サマル・ビュイクの頭の中にあるもの。それは「瑰」という国を統べる至尊の御位に就いた己の姿。それだけは何としても阻止しなくては。イルネアは計画書に目を落としたまま、呼吸を整えた。──ティルス。お母様に、力を貸してちょうだい……。

「私は公爵領へは戻りません。どうぞ、お一人でお戻りください」

 ──言えた。サマルが驚いた顔をして振り向いた。まだ、この人の耳に届く言葉があったのか。そんな事を思って、イルネアは少しおかしくなった。

「何だと? それは一体、どういう事だ?」

 椅子から立ち上がると、妻に詰め寄ってくる。目を通していた計画書を閉じて膝の上に置くと、自分の事を見下ろしている夫に視線をやる。本当に、何を言われているのか理解できていないようだ。

「私は帰らない、と申上げました。アイナセリョース王妃殿下より、今回の治療院設立に当たり、総責任者の任を拝命いたしました。ティルスと二人で、珠春宮ここに残ります」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ