13章 玉座・国政を担う者達
冬の訪れが間近い珠春宮パーティルローサ。
宰相のリュフォンはトウージュからの手紙を受け取り、国王・王妃と共に国の行く末について検討を始める。
三人の胸の中に在る想い……「国を、民を救いたい」……ただそれだけ。
王都の珠春宮パーティルローサにある、宰相の執務室。各地から上がってくる報告書に目を通しながら、瑰国宰相であるリュフォン・デュバルは午後の執務を行っていた。
読んでいた羊皮紙の束を執務机に放り出し、椅子に深々と身を沈める。疲れた目頭をもんでいると、コツコツと窓を叩く音に気が付いた。目をやれば窓枠に留まった一羽の鳩が、そのクチバシで窓の玻璃をつついているのだ。
立ち上がったリュフォンが窓の玻璃を持ち上げてやると、鳩は室内へ舞い込み、執務机の脇に設えられた止まり木に羽を休めた。その細い足には金色の通信筒が取り付けられている。鳩の足から通信筒を外すと、中から小さく丸められた書状を引っ張り出した。
「トウージュ殿下からだな」
書状には確かに、トウージュの花押が記されている。文面にザッと目を通すと、リュフォンはその内容を吟味するように、宙の一点を見つめて思案を巡らせた。執務室の壁にかけられた巨大な瑰国の地図に視線を注ぎ、無意識のうちに指先で机を叩いている。思考の深域に沈み込んでしまったリュフォンを現実の世界に引き戻したのは、不満そうに泣き声をもらした通信用の鳩だった。
「ああ、済まない。忘れていたよ、悪かったね」
止まり木の鳩を拳に乗せ、窓の外へと放してやる。鳩は大きく羽ばたくと、宮城内にある鳩舎へ戻って行った。それを見送り、玻璃を降ろしたリュフォンは、書架から数冊の本を抜き出して抱える。トウージュから届いた書状を隠しに仕舞い込んで、机の上のベルを鳴らした。控えていた従者が扉を開けると、いくつかの指示を与えながら執務室を出る。
「アイナセリョース王妃殿下は、どちらにおいでか?」
「はい。先程、御自室へお退がりになりましたが」
「そうか。私は、至急に陛下に奏上申上げたい草案がある。御裁可頂きたいので、妃殿下にも陛下の御寝所へお出でいただけるように、お伝えしてくれ」
「かしこまりまして」
従者は一礼すると、リュフォンが通り過ぎるのを見送った。本を抱えたまま、瑰国宰相は国王の寝所へと向かう。回廊から見上げる空は薄雲に覆われ、鈍色に光っている。パーティルローサの中庭を渡ってくる午後の風は、湿り気を帯びて肌に生温かい。一雨来るかもしれない。これから瑰は、本格的な冬に向かう。雨は降るごとに冷たくなる。風は吹くたびに厳しくなる。
「せめて、寒さの到来の前にお戻りになられれば良いのだが……」
思うのは、この空の下。国のために旅を続ける、気の優しい王弟殿下。体の弱い兄王を気遣い、国政を代行する王妃を気遣い、病に憂える民を気遣い。珠春宮パーティルローサの重臣達の中で、これ程までに「瑰」を思っている者が、果たして幾人いるというのか。だが、それ程に身を削り、国のため、兄のためと働く彼は、自分自身の幸福を考えているのだろうか。国王コルウィンも王妃のアイナセリョースも、トウージュの幸せを願っている。自分達のために彼が己の幸せをないがしろにする事を、決して望みはしないだろう。それはリュフォン自身とても同じ思いだ。共に旅をしているというエルキリュース神殿の巫女とは、どのような人物なのか。お互いに使命を抱える者として、トウージュが自分を思う良いきっかけになってくれれば。そう願わずにはいられない。
だが瑰国宰相リュフォン・デュバルとしては、今、優先すべきは瑰の国民の行く末だ。物思いを振り切るかのように、大きく頭を振って国王の寝所の前に立つ。ノッカーを使い、室内へ声をかけた。
「陛下、リュフォンでございます。火急に御裁可頂きたい草案を、お持ちいたしました」
中から、静かな返答があった。
「入りなさい」
部屋に入ったリュフォンは、窓際に立ってこちらを見ているコルウィンの姿を認めた。ここ数ヶ月、コルウィンがベッドから起き上がっている姿を、彼は見た事がなかった。驚いたリュフォンは抱えていた本を取り落とし、思わず国王に駆け寄って行く。
「へ、陛下──。お加減はよろしいのですか? ご無理はなさらずに」
そんな宰相の姿に、国王は軽く笑って答えた。
「それ程、驚かせてしまったかな。心配はいらぬよ。このニ、三日、とても体調が良いのでね」
病のせいでやつれてはいたが、かつて玉座にあり、政を執っていた頃の面差しはそのままだ。コルウィンが原因不明の病に倒れて三年。それ以来どのような医師も、どのような薬師も、どのような祈りも、彼を癒す事は出来なかった。正直リュフォン自身も、心のどこかで思っていたのかも知れない。コルウィンが玉座に戻る日は、もしかしたら、もう来ないのではないか──と。だが、こうして立っている国王の姿を目にし、リュフォンの胸に明るい光が差し込むような気がした。
「陛下──、よろしゅうございましたな」
不覚にも、目頭が熱くなる。それはまるで、冬の曇り空から覗く暖かな陽の光のようだ。大丈夫。この国には、この方がおられる。この方を支えようとして、力を尽くそうとしている人々がおられる。大丈夫だ。瑰の玉座が沈む事はない。
「それより、何やら急ぎの用があったのではないのか?」
「さようでございました。すっかり、忘れておりました」
コルウィンにガウンを着せ掛けると、椅子を勧めながらリュフォンは苦笑した。床に散らばった本を拾い上げようと腰をかがめた時、寝所の扉をノックする音が響いた。
「陛下、アイナセリョースでございます」
リュフォンが口を開くより先に、笑いを含んだコルウィンが声をかけた。
「お入り」
扉を開けて室内へ足を踏み入れようとしたアイナセリョースは、床の上に散乱した本をかき集めている瑰国宰相の姿に、目を丸くして立ち止まった。リュフォンはアイナセリョースと目が合ってしまい、不安定な形のまま固まってしまっている。
「まあ、宰相閣下。お声掛け頂ければ、お待ちいたしましたのに」
「い、いえ、あの──」
顔を赤くしてうつむいたリュフォンは、背後から笑い声が聞こえてくるのに気が付いた。
「宰相殿のそのように困り果てた顔など、なかなか見られるものではないからな」
「陛下……」
リュフォンを手伝おうと腰を落としかけた王妃は、その声の軽やかさに驚いた。もう随分と長い間、国王の明るい笑い声など聞いていなかった。いつもの習慣でベッドに目をやるが、そこにコルウィンの横たわる姿はない。慌てて部屋中に視線を走らせる。その視線が中庭に面した大窓の前、差し込む薄明かりを背に、椅子にゆったりと腰掛けているのは──。
「陛下……? お加減は……?」
恐る恐る、アイナセリョースがコルウィンに近寄った。
「余が起き上がると、そんなに驚くか。では広間に顔を出したりすれば、皆、卒倒するかも知れんな。ずっとベッドに入っていた方が良いかの?」
いたずらっぽくかけられた言葉に、アイナセリョースは泣き笑いのような表情を浮かべた。コルウィンの前に膝をつき、震える手で国王の両手を包み込む。いつもは血の気が薄く、ひんやりと感じるコルウィンの手が温かい。
「お戯れを。でも、随分と久し振りに耳にいたしましたわ。陛下がご冗談をお口にされるのを」
「そうだな。今日は特別に、気分が良いのでね。それに、そう寝てばかりいると気が滅入る。気だけでも明るくせねば、と思うてな」
民にしてみれば、不謹慎極まりない話かもしれぬが──。コルウィンはアイナセリョースの手を握り返すと、抱え直した本を小卓の上に置き二人を見つめているリュフォンに向かって呟いた。
アイナセリョースのために椅子を用意した宰相は、上着の隠しからトウージュの書状を取り出し、国王へと手渡した。
「先程、トウージュ王弟殿下より青鳩が参りました。鳩が運んできたのは、こちらの書状でございます」
「ああ、ありがとう」
コルウィンは手渡された書状に目を通し、複雑な表情でそれを王妃に渡した。
書状の内容は、国を脅かし続けてきた「死の眠り」が確実に次の段階へ移行したという事。それに伴い、夢魔が人間の精神を乗っ取るようになったという事。バフォナを滅する事が出来るのは天敵であるドラムーナだけだが、被害を最小限にするために国に治療院を設立して欲しいと言う事。そしてそこにエルキリュース神殿から巫女を派遣して欲しいという事。限られた大きさの紙面に、細かい文字でビッシリと書き込まれている。
「おそらくこれでは、伝えたい事の半分も伝えきれては、いないのでしょうね」
アイナセリョースの感想は、コルウィンとリュフォンのそれと同じだ。
「予想していたとはいえ、実際に動きがあったとなると少々堪えるな。しかも、夢魔が人の心を乗っ取るとは……。もはや、我等の手出しできる範疇を超えたようだ」
中庭に向かって視線をやりながら、コルウィンは腕を組んだ。
「治療院とは。もっと早くに、わたくし達の中の誰かが考え出していてもおかしくはなかったのに。やはり、閉じられた世界の中で生きていると当たり前の事が見えなくなってしまうのかしら」
ため息と共に紡がれた王妃の言葉に、国王は驚いて問い返した。
「閉じられた世界?」
「あ……ら。陛下はお考えになられた事はございませんの? いかに国のため、民のために政を布いてはいても、本当にそれが実になっているのか。この高みからでは、知り得る術がございません。我等の耳に届くのは、与えられた領地を治める貴族・諸侯の声ばかり。これ程近くにあると言うのに、王都ハディースに住まう民の声さえ聞こえてはこない。王宮と民との間にある距離は、それだけ遠いという事ですわ」
語られた王妃の言葉に、国政を司る二人の男は驚嘆した。黙り込んでしまったコルウィンに気付き、アイナセリョースは小さく息を飲んで口許を手で覆った。
「申し訳ございません。差し出口をいたしました。お許しを──」
慌てて立ち上がって頭を下げようとするアイナセリョースに、構わないと手を振ってコルウィンはアゴに手を当てた。
「なる程な。確かにこれでは、閉じられた世界と言われても仕方あるまい。しかも、それを妃の口から聞くまで気付きもせぬとはな」
ポットと茶器をワゴンに載せ二人の前に運んできたリュフォンが、香り高い茶を淹れながら同意した。
「その通りでございますね。まさにこの問題こそが、我等の弱点とも言えるのかと」
差し出されたカップには、琥珀色の液体が揺れている。立ち昇る湯気と共に、香りを胸一杯に吸い込む。
「だからこそトウージュのような存在が、我等に民の声を届けてくれる存在が、この王宮には必要なのだ。少なくとも余にとって、トウージュは弟という以上に、かけがえのない存在なのだ」
まあ、本人に向かっては言えないがな。そう言って笑うと、カップに口をつけた。
「そのトウージュ殿下より頂いた、貴重なご提案です。ぜひ国のために活かさねばなりますまい」
リュフォンは小卓を二人の側へ運んでくると、重ねられた本の上に地図を広げた。瑰国全土の地図を縮小したものだ。
「治療院の設立は、国庫でまかなう事が可能です。が、建てる場所などはどのように?」
「そうだな。王都だけの問題ではないからな」
地図を覗き込み、額をつき合わせている国王と宰相に、王妃が意外だとでも言うように声をかけた。
「まあ。陛下も閣下も、これから治療院を建てるつもりでいらっしゃいますの? それでは治療院が出来上がるまでに、何ヶ月もかかってしまいますわ」
その言葉に、コルウィンは不審そうな顔をした。
「それでは貴女には、何か良い案があると?」
澄ました顔でカップの茶をすすり、アイナセリョースは答えを口にする。
「新しい建物を造るのではなく、今ある建物を使えばよろしいのですわ。そうすれば国庫への無用な負担も減らせますし、不安を感じている人々が一日でも早く利用できるようになりますでしょう」
「なる程。妃殿下の仰る通りですな。空き家になっている建物や、使われていない店先を利用すれば、経費や日数の大幅な削減になりますぞ」
「それだけではございませんわ。使用する建物を、国で買い上げてしまえば良いのです。そしてそこに医術に長けた者や薬師を遣わして、人々が病を癒せるようにする。王立の治療院にするのです」
「それは良いお考えかと。王立の治療院が出来れば、これまでのように薬師を呼びに行ったり、相手の都合に合わせる必要もない。そこへ行けば、皆等しく治療を受ける事が出来るという訳ですな」
アイナセリョースはニッコリ笑って、カップを置いた。それを見たコルウィンは、リュフォンに向かって満足げに微笑んで言った。
「リュフォン。これが余の愛した妃の聡明さだ。そなた、気付いておったかな?」
「おそれながら、これ程までに御聡明とは。このリュフォン・デュバル、感服いたしました」
おどけて頭を下げるリュフォンに、コルウィンとアイナセリョースは声を立てて笑った。ひとしきり笑った後、コルウィンは表情を引き締めた。
「では、そのように通達を。余の勅命として宣下せよ」
「御意にございます。早速、文官に命じて書簡を作成させましょう」
国王の言葉に宰相が同意を示した時、王妃が口を挟んだ。
「申し訳ございません。少しよろしいでしょうか?」
形の良いアゴに指を添え、瑰国の地図に視線を注ぎながら、アイナセリョースが言葉を続ける。
「このように国中に不安が蔓延している時です。陛下が各地に勅使にて命を下されるよりも、貴族・諸侯を宮城に集め、直に陛下より宣旨を下される方がより人々の心に響くのではないでしょうか。それに、わたくしや宰相閣下が陛下の名代として詔を発するよりも、陛下御自身がお姿を見せられた方が諸侯への牽制にもなるかと」
そこには明らかに、ノーヴィア公爵に対する含みがある。なる程、とコルウィンは考えた。勅使を遣わして命を発するのは簡単な事だが、各地の諸侯・領主達に対して『国王いまだ健在』を強調するには、アイナセリョースの言う通りコルウィン自身が姿を見せて宣旨を下した方が効果的だろう。
「リュフォン。早急に書簡を作成し、貴族・諸侯・領主を珠春宮に招集するように。治療院の設立について、余から皆に話をしよう」
「御意」
「かしこまりまして」
アイナセリョースとリュフォンが、国王の言葉に頭を下げた。
慌しく書簡が作成され、勅使が各地へ向けて派遣されたのは、その日の夕方の事だった。