12章 アイヒナ・捧げられたる者
ようやく胎児の夢からバフォナを取り除き、現実の世界へ戻ってきたアイヒナ。
しかし、これで終わりというわけにはいかない。
アイヒナと闇姫に、とんでもない頼まれ事をされてしまったトウージュはどうする?
闇姫の指の間から、アイヒナの白い胸元がのぞく。トウージュの視線は自然にそこへ吸い寄せられる。そしてその事にはっと気付き、慌てて目を逸らす。
白い肌、その双丘の間には神聖文字による神名の刺青。それが今は、五色の光を放っている。
「闇姫、これは一体──?」
トウージュの声にも答えず、闇姫は爪を噛みながら考えている。
「主殿、何をやらかすつもりなのじゃ?」
そう呟いた瞬間、闇姫の紅眼が見開かれ思わず声がもれた。
「まさか──」
「何だ、何なんだよ、闇姫」
「主殿は、子供の夢に入り込んだ夢魔を自らの裡に取り込むつもりだ。主殿の精神体と夢魔が、一度融合する。その状態で外界にある肉体へ戻り、その後にバフォナを抜き出すのじゃ。しかし、それには多大な精神力を必要とする」
そこで言葉を切り、闇姫はトウージュを見つめた。
「お主の本心を訊くぞ。トウージュ殿、主殿が助けを求めておる。主殿を助けられるのは、お主と吾の二人だけだ」
「馬鹿野郎! そんな事をグダグダ言っている場合か! アイヒナを助けられるんだったら、何でもやるから早くしろ!」
珍しく闇姫の言葉を遮り、トウージュが怒鳴った。そんな彼を見やり、闇姫はニヤッと笑った。
「よし。その心意気、しかと受け取った。お主には、主殿の苦痛を引き受けてもらおう」
って、おい、苦痛って何だあ──!? トウージュの心の叫びを無視して、闇姫は素早く印を切った。
「トウージュ殿、手を貸せ。我等の生命力を主殿に移すぞ。余計な事は考えず、主殿を助ける事だけを考えろ」
いまだに訳も判らず、まごついているトウージュの手を引き寄せると、アイヒナの手を握らせた。
「お、おい、闇姫。助けるったって、一体どうやって?」
「祈れ。いずこの神にでも良い。とにかく、主殿の無事を祈るのだ」
闇姫に言われて、トウージュは目を閉じた。一瞬だけ迷ったが、やはりエルキリュースの加護を祈る。その隣で同じようにアイヒナの手を握り、一心に祈りを捧げる闇姫がいる。
「アイヒナ──。戻ってくるんだ、アイヒナ。俺と闇姫のところへ、戻ってくるんだ」
握り締めた手に額を付けエルキリュース神へ祈りを捧げていると、身体の中から、すぅっと力が抜けていくのを感じる。その感覚が、自分の生命力がアイヒナに流れ込んでいる何よりの証拠だと、トウージュに教えてくれる。その感覚に励まされ、彼は身体の底から力を奮い立たせた。
「エルキリュースよ。あなたの巫女が戦っています。あなたの代わりに、あなたの造ったこの世界を守るために。どうぞ、あなたの巫女をお護り下さい!」
**
これ以上手間取る訳にはいかない。血の気の失せた顔のアイヒナは、自分自身に言い聞かせた。このままでは、アイヒナの精神力も切れてしまう。本当は捕らえて外に引きずり出したかったのだが、そうも言っていられない。とにかく一刻も早く、ジークハースをこの夢から離さなくては。
輝き始めたアイヒナの刺青を見て、ジークハースが引きつった笑いを浮かべる。
「今さら、何しようってのさ夢織り? 割と往生際が悪いんだねぇ」
「ああ、そうだ。私が諦めたものの大きさを考えれば、そうそう簡単に引き下がる訳にはいかないのさ!」
尻込みするジークハースの腕を、アイヒナが捕まえる。
「何するんだ! 離せよ! 離せったら!」
逃げ出そうともがく夢魔の爪が、捕えて離さないアイヒナの体を傷付ける。バフォナの鋭い爪がひらめくたびに、アイヒナの髪が、衣服が、肌が切り裂かれていく。体中のあちこちを鮮血で染めながら、アイヒナはジークハースの体を抱え込んだ。
「離せって言ってんだろ! はーなーせーよー!!」
傷口から力が抜けていく。だが不思議な事に、体の奥深くから力が湧いてくるのだ。両手のひらが温かい。まるで、誰かがしっかりと握り締めてくれているような、人肌の温もり。そこから流れ込んでくる、アイヒナを勇気づける強い力。
「闇姫と……トウージュ殿か」
思い当たったアイヒナは、唇の端にかすかな笑みを浮かべた。そして夢魔に意識を集中させる。
「何するつもりなんだよ! 離せよ、馬鹿野郎!」
「さあて、何をするんだろうな。お前にとって楽しい事でないのは確かだよ、ジークハース」
ジタバタと暴れるジークハースを、しっかりと抱え込む。黄金色の瞳が炯炯と光を放ち、胸の神聖文字も輝きを増す。
自分の体を見て、ジークハースが悲鳴をあげた。まるで氷が溶け出すように夢魔の形が崩れていく。指先などの末端の部分から、体が光の雫となって滴り落ちていく。雫はアイヒナの刺青が放つ光と同化し、彼女の体内へと吸収されていく。
「あああぁぁ──! 僕の体が! 御主様から頂いた、僕の体が溶ける! よせ! やめろよ! 離せ!」
抵抗するジークハースの体を押さえ付けながら、アイヒナも苦痛に耐えていた。夢魔の体を吸収するたびに、煮えたぎった熱湯を浴びせかけられるような苦痛がアイヒナの全身を襲うのだ。
「もう、遅い。この技は一度発動したなら、途中で止める事は出来ないんだ。残念だったな」
歯を食いしばり、次の激痛に備えたアイヒナは、予想していたよりも苦痛が小さい事に気が付いた。
「まさか──」
しかし、それを気にしている余裕はない。バフォナの解体にも加速がかかる。
「お前なんかに──お前なんかに、この僕が!!」
腰の辺りまで溶けてしまったジークハースは、最後の足掻きとばかりにアイヒナの肩に噛み付いた。
「ああああぁぁぁ───!!」
強酸の唾液によって肩の皮膚と肉が焼ける。胎児の夢に中にアイヒナの絶叫が響き渡る。それでもその痛みは、外界にいるどちらかの仲間によって軽減されているはずなのだ。自分の生命力を分け与え、アイヒナの苦痛を引き受けてくれている彼らのためにも、彼女がここでくじける訳にはいかない。
痛みのせいで意識が遠のく。粘つく汗が目に入る。そして、さらなる苦痛で覚醒する。
「そ、創世の神々よ──」
痛みに耐えるアイヒナの口から、神々への聖句が紡ぎ出される。
「創世の神々よ 世界を守護する神々よ
生ける者 死せる者 生まれ来る者 去り逝く者
巡り廻る 時空の環よ
世界をあるべき姿へ戻せ この世の法に従がわぬ者達を
神々の定める律の許へ あるべきものを あるべき形へ」
アイヒナが聖句を唱え終わる。
「嫌だ! 嫌だあぁぁ! 御主様あぁぁぁ!!」
ジークハースが最期の叫びをあげた。そしてその残響が消えないうちに、夢魔の体は全て溶け崩れた。ジークハースの体を形作っていた光の分子がアイヒナの刺青に吸い込まれていった。
「───っ、くうぅ──」
己の肩を抱き締め、その場にアイヒナが崩れ落ちる。襲い掛かってくる痛みと疲労感に、そのまま意識を手放してしまいたい、そんな誘惑にかられる。だがそれでは意味がない。早くこの胎児の夢の中から抜け出さなくては、これまでの事が無駄になってしまう。
震える指先でエルキリュースの印を切る。何度もなぞったことのある印が、恐ろしく複雑で困難なものに感じられる。目がかすむ。外界から力を送ってもらっていて、これ程までに苦しいのだ。もしも一人であったなら、果たして、やり遂げる事が出来たかどうか。
「結局、私一人では、何も出来ないという事か……」
そしてアイヒナは、ゆっくりと目を閉じた。
**
アイヒナの手を握り締め、エルキリュース神への祈りを捧げていたトウージュは、突然全身を貫いた激痛に、呻き声をあげた。
「な、何だ、この痛みは──?」
思わずもれた言葉に、闇姫が答えた。
「その痛みは、今、主殿が感じている痛みだ。少しでも主殿の負担を軽くしたい。じゃから、お主に苦痛を引き受けてもらっておるのだ」
──マジですか? トウージュの反論を許さず、闇姫の叱咤が飛んだ。
「気を散じるな! お主と吾の行動に、主殿の命がかかっておる。意識を集中せよ!」
慌ててアイヒナに意識を戻す。途端に、凄まじい痛みが流れ込んでくる。
「ぐ、うぅっ」
これまでにトウージュが経験した事のない痛み。本能的に痛みから逃げ出そうとする。握り締めたアイヒナの手を見る。この手を離せば、この痛みから解放される。ついそう考えてしまうのも、無理からぬ程の苦しみ。
だが、トウージュには判っていた。この手を離す訳にはいかない事も。
「アイヒナだって、この痛みに耐えているんだ。俺が逃げ出して、どうする──」
一層強く、彼女の手を引き寄せた。顎から汗が滴り落ちる。噛み締めた口唇が破れる。
「戻って来い……。戻って来るんだ、アイヒナ。俺達のところに、戻って来るんだ」
呪文のように繰り返す。トウージュ自身がその言葉にしがみつくように。
アイヒナはすでに満身創痍だ。その体に次々と口を開く、新しい傷を見ていると恐ろしい思いに囚われそうになる。ただ、容赦なく吸い取られていく生命力だけが、最悪の状況ではないと教えてくれている。
全身を強張らせて痛みに耐えていたトウージュは、苦痛の波が途切れた事に気付いて、そっと目を開けた。アイヒナに変わった様子はない。
「……アイヒナ?」
呼びかけてみる。だが、反応はない。一体どうなったのか、闇姫に尋ねようと顔を上げた時──。
「──え?」
トウージュの手を柔らかく、しかし力強く握り返す、アイヒナの手。
「おい! アイヒナ! 聞こえるか? 目を開けるんだ! アイヒナ!」
トウージュの必死の呼びかけに、アイヒナの目蓋が震えた。
「く、闇姫! アイヒナが!」
その声に促された闇姫が、己の主人の顔を覗き込む。
「主殿! しっかりせよ! 主殿!」
アイヒナの目蓋が、ゆっくりと開く。口唇が僅かに開き、深い息がもれた。
「ああ……戻ってきたんだな──」
いつの間にか神聖文字の刺青は光をなくし、その代わりに黒々とした斑紋が刺青の周囲に浮き上がっている。
「アイヒナ、良く頑張ったな」
トウージュの言葉にアイヒナは痙攣のような笑いを浮かべた後、闇姫の方へ顔を向けた。
「闇姫。母親の様子は?」
「大丈夫だ。主殿のお陰で、胎の子供も守られたぞ」
「そうか……。それは、良かった」
荒い息の中から、安堵の言葉がこぼれた。
「傷の事もある。もう休め。俺が運んでやるから」
トウージュからかけられた言葉に、アイヒナは体を起こそうとした。
「そういう訳にも、いかないんだ。そこに倒れている男と、この母親を運ばねば。このままにしていく訳にもいくまい」
すっかり忘れ去られていた男をトウージュはやっと思い出した。その男の許へ駆け寄ると、抱え上げて引きずっていく。噴水の縁にもたれるように座らせた。顔を覗き、目蓋をめくって眼球の様子を見る。懐から手巾を取り出すと噴水に浸し、投げ出した時に出来たコブにあてがう。
「これで、良し──っと」
それを見ていた二人の許に戻ると、闇姫に言った。
「闇姫、アイヒナを背負っていけるか?」
「それくらい、容易い事だが……」
「なら、彼女を背負って先に行ってくれ。俺はこの人を知っている街の住人を捜してくる」
傷と疲労のために立ち上がる事も出来ない主人を、闇姫が軽々と背負い上げる。
「判った。先に宿を決めておく。決まったら、宿の入り口に主殿の頭布を掛けておくからな。それを目印にせよ」
「ああ、判った。アイヒナの頭布だな。それを目印にして探すよ。あ、それからアイヒナ。悪いが、結界を解いてくれるか?」
闇姫の背中で薄く笑ったアイヒナが、小さく指を動かす。それだけで、広場に街の喧騒が戻ってくる。
「ありがとう。さ、闇姫、行くんだ」
アイヒナを背負った闇姫の姿が路地へ消えると、トウージュは女性を抱え上げた。
「これは、腹が大きくなくて、助かったと言うべきかな?」
確かに女性の腹が大きくなっていれば、このように抱え上げる事は不可能だっただろう。注意深く歩を進めながら、トウージュは広場から通りに出た。
「どなたか、この女性の事をご存知の方はいらっしゃいませんか!?」
その言葉に、近くで荷車を曳いていた、初老の男性が近寄ってきた。
「おいおい、こりゃドルトナーんとこのおかみさんじゃねえか?」
「そこの広場で倒れてたんです。どうも、男の人とぶつかってしまったらしくて。噴水の所にも男の人が倒れていたんで、そちらも見て頂けるとありがたいんですが」
街の人間が数人集まってくる。トウージュの説明に、何人かが広場へ向かっていった。
「お若いの。この荷車に、おかみさんを乗せな。ドルトナーの家まで送ってってやるよ」
男に言われてトウージュは礼を言う。女性を荷車に乗せると、通りの外れにあるという家まで送っていく事にする。家では、夫であるドルトナーが帰りの遅い妻を心配していた。
ようやく目を覚ました女性の意識がもうろうとしているうちに、道すがら考えていた話を説明する。ありのままを話しても、到底、信じてもらえるとも思えない。
妻を送り届けてくれた事に感謝するドルトナーがしきりと引き止めるのを、連れが待っているからと、丁寧に断って家を出た。広場まで戻ると、闇姫が消えていった路地へと向かう。すでに陽は落ち、通りの街燈には灯が入れられている。店に掲げられている看板を、ひとつずつ確認しながら歩いて行く。遠慮のない宿の客引きや、酔客相手の娼妓達をかわしながら、闇姫とアイヒナのいる宿を探す。
「ん? あれか?」
『人魚の涙』という看板の脇に、アイヒナの頭布がはためいている。エルキリュース神殿の紋章が染め抜いてあるものだ。間違いないだろう。その布を解くと、宿の中へ入っていった。
「主人。こちらに、女性の二人連れが来ているはずなんだが?」
酒場で客の対応をしていた主人が、トウージュの言葉に顔を上げた。
「おお、あんたがお連れさんかい? 上で休んどるよ」
闇姫が二部屋頼んでくれたらしい。主人が鍵を渡してくれながら、隣の部屋に二人がいると教えてくれた。どうやら、近くに住む薬師を呼んだらしい。
主人に礼を言うと、階段を上がって行く。あてがわれた部屋に荷物を置くと、早速、二人の部屋を訪ねた。ドアを開けると、ちょうど薬師が帰るところだった。見送りに出てきた闇姫と一緒に薬師に礼を言う。そのまま階下へ降りて行く闇姫を見送り、トウージュは部屋の中へ入った。
「具合は、どうだい?」
アイヒナは、窓際にあるベッドで横になっていた。意識は、はっきりしているらしい。彼の方へ顔を向けると、ふわりと笑んで見せた。
「ああ、トウージュ殿。あの二人は?」
「大丈夫だ。男性の方は、街の人達が連れて行ってくれた。女性も家まで送り届けてきたよ。それよりも、休まなくていいのか?」
「まだだ。まだ休む訳には、いかない。私の体の中には夢魔を封印しているのでな。コレを抜き取るまでは、私は眠る事が出来ないんだ」
薬師を送ってきた闇姫が戻ってきた。
「主殿が眠らぬ事で体内の夢魔を封じておるのだ。これから吾がそのバフォナを滅する訳なのだが、それにはお主の助けがいる。手を貸してはもらえまいか」
思いもかけない闇姫の申し出に、トウージュは目を丸くした。
「俺が? 何か出来る事があるのか?」
「本来ならば、私が自分でやらねばならない事なのだが。情けない事に、この様ではいかんともしがたい。トウージュ殿に手伝ってもらえると、私としてもありがたい」
「いや、俺で役に立つなら、何でもするさ」
「それは助かる」
それで、何を? と聞き返したトウージュは、アイヒナと闇姫から教えられた方法に自分の耳を疑った。
「それは──そんな……」
「そんなに難しい事を頼んでいるだろうか?」
トウージュの驚きようを見て、アイヒナは怪訝そうな顔をした。
「いや、難しいとか、そう言う問題ではなくて……」
「ならば、何が問題だというのじゃ? 煮え切らん奴め」
闇姫がイライラと詰め寄ってくる。
「何がって言われても──」
トウージュが尻込みするのも、無理はない。
アイヒナと闇姫が、彼に頼んだ事。それは『黒剣に姿を変えた闇姫を、アイヒナの胸に突き立てる』というものだった。いくらアイヒナを傷付ける事はないと言われても、そう簡単に引き受けられるものではない。
ぐずぐずと思い悩んでいるトウージュに、闇姫が噛み付く。
「ええい、もう! 先程、何でもすると言うたは、あれは嘘か? 男のクセに思い切りの悪い奴よ」
闇姫に責められて、言葉を失くしているトウージュに、アイヒナが助け舟を出した。
「やめよ、闇姫。これは元々、私達の仕事なのだ。トウージュ殿に無理強いは出来まい。私が何とかしよう」
そう言うなり、ベッドから身を起こそうとする。
「ま、待て待て! 判った、判ったよ。やりますよ!」
首筋に巻かれた包帯が痛々しい。無茶をしようとするアイヒナを制し、トウージュが根負けしたように叫んだ。
「やれやれ。手間のかかる男だの。駄々などこねておらんで、さっさと引き受ければ良いのよ」
不平タラタラの闇姫に、トウージュはため息をつくしかない。
「もう一度訊くが、絶対に、アイヒナを傷付けたりする心配はないんだな?」
上目遣いに闇姫を見やり、再度確認する。
「お主。実は吾に喧嘩を売っておるであろう? 吾は初源の獣ぞ。夢魔を喰らう吾が、生身の人間を傷付けてなんとする! しかも、主殿を? 吾が? お主、本気で言っておるのか?」
済みません。ごめんなさい。トウージュはひたすらに謝るしかなかった。そんな二人の背後から笑い声が響いた。振り向くと、アイヒナが笑っている。
「アイヒナが──笑っている」
「主殿が──笑っておる」
異口同音に、驚きの声がもれる。アイヒナが声をあげて笑う姿を、トウージュは初めて目にした。それは闇姫も同じだったらしい。二人の肩から力が抜けた。
「……それでは、始めようかの」
「……ああ、判った」
闇姫はベッドに近寄ると、掛けられていた毛布をめくった。肌の露出している部分は、ほとんど布が巻かれている。
「主殿、失礼するぞ」
チュニックの胸元をはだける。
「お主、余計な事を考えるでないぞ」
そう言うと、アイヒナの作った影の中に身を沈める。そして代わりに現れたのは、柄頭に紅玉を嵌め込んだ刀身までも黒い剣。恐る恐る柄に手をかけ、影の中から引き抜く。妙にトウージュの手に馴染む長剣は、その姿形から想像するよりも軽くて扱いやすそうだ。だが、刃の輝きは珠春宮の武器庫の中にある、いずれの剣よりも鋭い切れ味を思い起こさせる。
「そ、それじゃ……」
チャキッ。
黒剣を構え直すと、ベッドのアイヒナに近寄る。
「手間をかけるな。気にする事はない。この刺青の部分に、その剣を突き立ててくれ」
黒剣を構えたまま、トウージュは生唾を飲み込む。心臓が口から飛び出しそうな程、脈打っている。今までに、これほど緊張した経験はない。
──何が悲しくて、ホレた女の胸に剣なんか……。俺、何やってんだろう?──
なかなか動こうとしないトウージュの手に、じれたような震えが伝わってきた。闇姫がイラついているのだろう。意を決したトウージュは、大きく息を吐いた。
「トウージュ殿。本当に、心配しなくていいんだ」
アイヒナは薄く微笑み、自分の目の前に掲げられた黒い長剣をまるで迎え入れるかのように両手を差し伸べる。
──そして、しっかりと目を閉じたトウージュが、構えた黒剣を振り下ろした。