11章 孤影・一人きりの戦い
立ち寄った先で、夢魔に遭遇する一行。
逃げ出した夢魔は、こともあろうに妊婦の胎内に宿る胎児の夢に入り込んだ。
闇姫の助けもなく、アイヒナは一人立ち向かわねばならない……。
「まったくよぉ。この国はどうなっちまうんだか──」
「城の貴族達は見て見ぬふりか」
「知っているか? カーティ様は王都を出られたそうだ」
「それでは、眠り病にかかったら死ぬしかないってのか?」
耳に入ってくる言葉に明るい話題はない。誰もが皆、病への不安と貴族達への不満を抱いている。
南地区のタリスを出て、東地区のザイルへ入る。北地区のウィルカを目指したいのだが、タリスからは正反対の方角。どうしても東のザイルへ向かうか、西のカッパードへ抜けるしかない。
「不満が高まってきたな」
「ああ、わが事ながら、耳が痛い」
当代国王コルウィンへの不信。何も出来ない愚鈍な王。病弱を理由にして政をおろそかにして、国を傾ける暗君。民衆を恐れ病を恐れ、宮城深く隠れ暮らしている卑怯な王──。
「なあ、アイヒナ。今、国政としてできることは何かないのか?」
トウージュのもっともな問いに、アイヒナは考え込んだ。
「現在、眠り病で亡くなる人は、僅かずつではあるが減少しているはずだ。しかしそれは、バフォナ達が糧を集める必要がなくなった事を意味している。そして、カーティという薬師の治療を受けた者は、バフォナの種を飲まされている可能性がある。──夢魔を滅ぼす唯一の手段は、ドラムーナによって食い尽くす事……」
呟きながら思案しているアイヒナの横で、路商から買った鶏の脚の焙り焼きに食いついていた闇姫が、思いついたように口を開いた。
「のう、主殿。バフォナの種を飲まされて、とり憑かれてしまった可能性のある者を一ケ所に集めておいてもらうわけにはいかんのだろうか? 早い段階の者ならば神殿の巫女達の力で夢魔を取り除き、封印しておく事も可能であろう?」
「なるほど。兄上の勅命で各街に治療院を造ればいい。そこにエルキリュース神殿から巫女を派遣して、夢魔を封印してもらえば」
「確かに私の負担も減る。もはや夢魔の種がどれだけばらまかれたのか、私にも見当がつかない。奴等が次の段階へ移行したからこそ、使える方法だが──。それでも、神殿の姉巫女様方に手伝ってもらえるのならば、心強い」
通りを歩きながら、そちこちで囁かれる会話に耳を澄まし、周囲に目を配る。露店の並ぶ通りを過ぎると、噴水を設えた広場に出る。程よく間隔を開けて植えられた街路樹が、心地良い木陰を提供している。
鶏の脚を骨ごと噛み砕いて飲み込んだ闇姫が、指をなめながら言った。
「主殿。路銀を稼ぐついでに、この街の状況を知っておいたほうが良くないか?」
「ほほう。つまり、ここで私に歌えというのだな? 路銀を食い潰す一番の原因が」
「何を申されるか、主殿よ。路銀がなくて困るのは主殿のほうであろう?」
アイヒナは根負けしたかのようなため息を吐くと、肩から袋をおろした。荷物をトウージュに任せると、噴水の縁に腰掛ける。
「さてと。それじゃあ、お客さん。何を歌おうかね?」
アイヒナがふざけて声をかけた。
「明るい歌がいいねえ。ここんトコ、暗い話ばっかりだからね」
主の隣に腰をかけると、長い脚を組んだ闇姫が注文をつける。
「明るい歌ね。はいはい。それじゃ『トワラ海峡の海賊』でもやろうか」
リュートをにぎやかにかき鳴らす。周囲の視線がアイヒナに集まった。伸びやかな、心を浮き立たせるアイヒナの声。曇り空を掃き清めるさわやかな風のような声。
──九つの海を走りぬけ その名も高き キャプテン・ハノーグ
黒漆の太刀 鞘に煌く真珠の飾り 八つの船と 百の手下
夢は輝くお宝と 綺麗な姫君その涙
荒れ狂う波 竜の息吹 災難 苦難を乗り越えて
宝は盗っても 命は取らぬ
海の男の そいつが掟
いつかは行こうぜ この空の下 誰も知らない 神秘の海へ
隻眼の覇王 キャプテン・ハノーグ──
続々と人が集まってくる。木漏れ日の下で、人々はアイヒナの美声に酔う。このところの不安に満ちた生活の中で溜まっていた緊張が、彼女の声で柔らかくほぐれていく。曲が終わると、周囲から拍手の波が湧き起こった。
「よお、姉ちゃん。『暁の騎士』だ。次はこれをやってくんな」
「いや、待ってくれ! 『紺碧のドレスの貴婦人』だろ、やっぱり」
「ちょっとちょっとぉ。勝手に決めないでおくれよ。あたしゃ『マルティスの戦歌』が好きなんだ。あの曲にしておくれな」
あちこちから注文が殺到する。このままでは、乱闘でも始まりそうな勢いだ。トウージュが言葉を失くしているうちに、闇姫が客の注文をさばき始める。
「はいはいはい。そこそこ、けんかおしでないよ。タダでは歌わないからね。一曲につき、金貨一枚。それで良ければ、頼んでおくれ。おや、旦那、何かね?はいよ、お次の曲は『雪山の精霊』で決まりだ」
──おいおい……。闇姫、お前、遣り手婆みたいだぞ……。本当に、伝説の獣・ドラムーナなのか? トウージュの心の声は、幸いな事に闇姫には届かない。噴水の周りは、即席の歌劇場となっている。熱狂する観衆を操作しながら、闇姫は注意深く人々を観察している。
「おい、闇姫。何か気になる事でもあるのか?」
トウージュがそっと近寄って、彼女に小声で尋ねる。
「ああ。トウージュ殿は知らんのだな。主殿の歌は、ただの歌ではないのだ。夢や眠りに問題を抱えている者にしか聞こえない、エルキリュースの『呪歌』が織り込まれている。耳に入れば、必ず反応がある」
群集から目を外さず、闇姫がトウージュに答えた。
曲は順調に進んでいき、もはや何曲目なのかも判らなくなっている。その中で闇姫の目が、一人の男の姿を捉えた。素早くアイヒナに目配せする。その視線を受け止めたアイヒナがリュートを高くかき鳴らした。
「さて、皆さん。陽もだいぶ傾いてきた。今日はここまでと致しましょう。また明日、この場所で」
名残惜しげに去っていく人々の表情は、皆一様に笑顔だ。
人気のなくなった広場には、アイヒナ、闇姫、トウージュの三人が残る。──いや、険しい目付きの人物が一人。
「おや、お帰りでない方がいらっしゃるようだな」
アイヒナの黄金の瞳には、その体がリュートで紡がれた呪音に絡め取られているのが見て取れる。
「いかがなされた? 本日の演目は全て終了いたしましたが」
音の呪力にがんじがらめにされた男は、ギリギリと三人をにらみつける。
「主殿、ここでやるのか?」
闇姫が瞳を光らせて問いかける。
「呪歌に反応したという事は、融合がまだ初期の段階だという事だ。上手くいけば剥離も可能だろう。トウージュ殿、荷物の中から夢幻鏡を出してもらえまいか」
アイヒナの視線が、ほんの僅か男から逸れる。その瞬間、男の両目が裏返り体が痙攣を始める。悲鳴ともうめき声ともつかない、くぐもった声をあげながら男が口を開くと、タールのようなドス黒い粘液があふれ出した。夕暮れに染まる広場が突如として異界となる。
「闇姫、気をつけろ! トウージュ殿、その男を頼む!」
くたくたと崩れ落ちた男の体をトウージュに任せ、アイヒナと闇姫が飛び出す。闇姫の姿が瞬時に黒狼へと変じ、男の体内から抜け出した粘液は移動しながら徐々に子鬼の姿を形作っていく。
「大地母神イシュリーンよ! この地を護りたまえ!」
アイヒナの髪が柔らかな緑色に彩られる、ほんの一瞬前──。路地から広場に一人の女性が現れた。子鬼の姿をしたバフォナが女性に向かって飛び掛る──。アイヒナの結界が完成する──。それらが同時に起こる。
叫び声をあげようとして開かれた女性の口の中に、バフォナが吸い込まれるように入り込んでしまった。
「まずい! 主殿、この女、孕んでおるぞ!」
「何だとっ!?」
闇姫の叫びに、アイヒナの愕然とした叫びが重なる。
バフォナの入り込んだ女性は、体を硬直させて昏倒する。黒狼の闇姫が間一髪で、女性の体が地面に激突する前にその体の下へ滑り込む事に成功した。
「何だ、どうした!」
様子の良く判らないトウージュが、二人に向かって怒鳴った。
「バフォナが妊婦にとり憑いた。腹の子供に乗り移った可能性がある」
苦々しく吐き出したアイヒナの言葉に、トウージュが顔色を変える。
病に倒れた人間に夢魔がとり憑く場合、弱った人間の精を糧とし、内側を喰らい尽くしてから人間の外見を被る。つまり、人間の外見を衣服のようにまとうのだ。
しかし人間として未熟な胎児の場合、人間と夢魔の意識が溶け合い、その結果、肉体を持ったバフォナが生まれてきてしまうのだ。
「どうするのだ、主殿! もう時間がないぞ」
焦る闇姫の声に、アイヒナは天を仰いだ。
「トウージュ殿、夢幻鏡をくれ」
意識を失った男の体を支えていたトウージュは、荷物の中から出したままになっていた夢幻鏡を彼女に向かって投げた。クルクルと宙を飛ぶ夢幻鏡は引き寄せられるようにアイヒナの手に納まる。闇姫の支える女性の額に右手をかざすと、夢幻鏡の中に玄妙な色彩が踊る。その色彩の中に、虫食いのように黒いシミが現れる。それを見たアイヒナの顔に険しい表情が浮かんだ。
「闇姫」
黒狼の姿の闇姫が、人間の姿の変じる。
「これより、夢を渡る。私の身体を頼む」
そう言うなり、アイヒナは夢幻鏡の鏡面に両手を当てる。
「エルキリュース 我が父にして 我が母よ
我に力を貸し与えたまえ
世界を内包する我が神よ
どうか この子供の生命を 世界はこの子の誕生を願っている
どうか どうか我が神よ 力を!!」
目を閉じて天を仰ぎ全身全霊を掛けて叫ぶ。そのまま、まるで凍りついたように動かなくなった。
「っ? アイヒナ? アイヒナ! どうしたんだ!?」
男の身体を投げ出し、トウージュがアイヒナに駆け寄った。動揺のあまり彼女の身体を激しく揺さぶろうとする。
「よさんか、馬鹿者! 動かすでない!」
横から闇姫に羽交い絞めにされる。
「今、主殿を動かしたりすれば、夢の中から戻れなくなるのだ。触るな」
「どういう事だっ!?」
闇姫の腕を振りほどき、トウージュは彼女に詰め寄った。アイヒナは、傍らの二人の騒ぎにも動く気配を見せない。
「主殿は今、子供の夢の中にいる。夢を渡る夢幻鏡を使って、バフォナのとり憑いた子供の夢の中に入り込んだのだ。うかつに動かせば、主殿の意識を繋ぐ糸が切れて抜け出せなくなる。落ち着いてみておれ」
一方、夢幻鏡を使い夢を渡るアイヒナは、意識を肉体から切り離して胎児の夢を漂っていた。様々な夢がアイヒナの傍らをすり抜けていく。誕生に対する期待、希望。安全な母親の胎内から離れる不安。人間に成長する以前の古い記憶。空を飛んでいた世代の、海を泳いでいた世代の、地を這っていた世代の記憶。そして、徐々に侵食されていく未来への夢──。
「うかつには、動けんな」
迷路のように絡み合った複雑な夢の中を、アイヒナはバフォナの痕跡を辿りながら進んでいく。闇姫の変化したドラムーナの剣は、今の彼女の手元にはない。バフォナに辿り着いたとしても、アイヒナ一人の力で切り抜けなくてはいけない。──もっともドラムーナの剣があったとしても、胎児の夢の中で使うわけにはいかないのだが。
まるで抽象画のような、つかみ所のない景色の中で、アイヒナは子供の夢を壊したりしないように、細心の注意を払う。
泡のように漂ってくる巨大な夢の塊が、周囲をうかがうアイヒナの傍らをかすめた。淡い色彩がにじむ夢の塊に、突如ドス黒いシミが現れた。内側から皮膜を突き破るように、鋭い突起が飛ぶ出してくる。ピタリと揃えられた五指の爪。振り返ったアイヒナの頬をかすめ、千切れた銀の髪が視界を遮った。
「ヒャアハハハ──。どうするんだよ、夢織り! 僕を捕まえるんだろ? 早くしないと、コイツの夢は僕のモノになっちまうよぉ」
塊の中から醜い子供の姿をした夢魔が飛び出してくる。ふざけた物言いで、アイヒナを挑発する。
「知ってるよぉ、知ってるよぉ。お前はこの夢の中じゃ、力が出せないんだよねぇ。ヒャハハハハ、ハア」
舌を出し、おどけた仕種で醜悪な踊りを披露する。
「メライーサ 海の営みを司る神よ
巡る海流を護る力を 我に貸し与えたまえ」
アイヒナが印を切るのと同時に、彼女の髪が鮮やかな紫に染まった。外界でも同じ変化が、彼女の肉体に起こっているはずである。その髪が、風もないのにフワリと宙に舞う。アイヒナと夢魔の周囲に分厚い水の壁が現れた。深い海の底を思わせる、穏やかな紫がかった水の色。いかなる障害物も、いかなる自然現象も邪魔する事の出来ない不可侵の領域。それが海。それが海流。
「私はアイヒナ。エルキリュース神殿の夢織りだ。さあ、私は名を明かしたぞ。お前の名を私に渡せ」
目元に嫌悪のしわを寄せながら、アイヒナはバフォナに告げた。
「ああ、そうだね。お前は僕に名前を明かしたさ。でも、僕がお前に名を渡すわけないだろう? 馬鹿じゃないの」
アイヒナにヒラヒラと手を振っておどけていたバフォナの腕が、いきなり伸びて彼女を襲う。すんでのところで攻撃をかわしたアイヒナのチュニックの袖に、大きなかぎ裂きが出来た。
「どうも、バフォナという奴等は、私の服を駄目にするのが好きらしいな。互いに戦う相手を認めるために、名を明かすのが流儀ではなかったのか? お前が私に名を明かさぬと言うのであれば、こちらとしては、力尽くで奪い取るまでだ」
袖を押さえていた手を離し、アイヒナは素早く印を切った。
「ミュールよ 真白き翼の女神よ
羽ばたきにて舞い散る羽根を綴り つなぎ 連ね 投げかける
全ての運命を捕らえ 絡め取る」
早口で芸術神ミュールへの聖句を唱えたアイヒナの背中に、輝く光の翼が開く。紫だったアイヒナの神宿る頭髪が、熟れた柑橘系の橙色を宿す。
「どうすんのさぁ。そんなモノで僕を捕まえようっての? 笑っちゃうね」
神経を逆撫でする甲高い声。しなびた肌は青黒く、枯れた樹木を連想させる。まぶたはなく、ギョロギョロとした眼球は黄色く濁っている。鼻のある場所には、二つの穴が開いているだけだ。口は粘土にナイフで切れ目を入れたかのように薄く、乱杭歯が並んでいるのが見て取れる。なまじ子供の姿をしているだけに、なおさら嫌悪感が募る。
アイヒナの背中に開いた光の翼が音もなく膨張し、網のようにバフォナに覆いかぶさる。網の隙間をかいくぐり逃げ出そうとしていたバフォナだが、光で紡がれた網は自在に動き、相手の逃げ道を絶って行く。
「な、なんだよ、これ! 離せよ! 離せってばぁ!」
身動きのとれなくなったバフォナが、ジタバタともがき暴れている。
「悪いな。お前に指摘されるまでもなく、時間がないのは私が一番良く知っているんだ。さあ、お前の名前を渡してもらおうか」
「誰が。御主様から頂いた大切な名前を、お前なんかに渡すもんか」
そっぽを向いた夢魔へ歩み寄り、アイヒナの指がミュールの聖印を切る。夢魔を捕らえている光の網が、鋭い刃となって相手の身体に喰い込んでいく。バフォナの口から、凄まじい苦鳴があがった。
「名乗れ! この状況を見れば、お前と私の力の差は理解できるだろう。お前は私に、名前を渡さなければならない」
さらに一歩近寄ったアイヒナ目掛けて、夢魔が唾を吐きかけた。予想外の動きに、彼女の反応が一瞬遅れる。
「──っ、くぅっ!!」
吐き出された唾は、アイヒナの剥き出しの首筋にかかる。焼けた鉄板に水をかけたような音がして、皮膚の焼ける異臭が漂った。
「はっはあぁ、間抜けなエルーシャ! お前なんかに、僕を捕まえられるもんか! この人間の夢を壊す事を恐れて、何も出来やしないくせに!」
全身を走る激痛に、バフォナを捕らえている集中が途切れそうになる。涙でかすむ目を見開き、アイヒナは叫んだ。
「ラ・ズーよ!
“死”に際して 全ての罪を暴く峻厳の神よ!
その真実を見抜く瞳を我に ひと時貸し与えたまえ!!」
橙色の輝いていた彼女の髪が、瞬時にくすんだ灰白色に変化する。終焉を示す最期の色。それは死者を迎える神、ラ・ズーの神色。
「真実と虚構を見分ける瞳持つ神よ
我に宿れ 我に示せ 我の求める真実を明かせ
汝 バフォナよ お前の名は──ジークハース」
神の貸し与えた瞳で、アイヒナは夢魔の名前を奪い取る。静かに名を告げられた瞬間、バフォナ=ジークハースは苦しげに顔を歪めた。無理矢理に名を剥ぎ取られた苦痛が、ジークハースを襲ったためだ。
「畜生! 御主様から頂いた名前を、よくもっ!! いい加減にしろよ──アイヒナ!!」
憎しみを込めて呼ばわれた名前は、アイヒナの精神体を支配した。時間にして一秒にも満たない、僅かな時間。だが、確かに彼女の心臓は動きを止めたのだ。
「あ……がっ、はっ……!」
胸を押さえてアイヒナがよろめく。粘ついた気持ちの悪い汗が、彼女の全身から噴き出した。苦痛のあまり、集中が切れたのだろう。ジークハースを戒めていた光の網が、輝きを失い四散していく。
「キャハハハハ! いいザマだな、エルーシャ。僕から無理矢理、大事な名前を奪った報いだ。思い知れ!」
ジークハースの鋭い爪が、左右からアイヒナを襲う。攻撃をかわそうと、アイヒナが聖印を切るために指を動かした。
「だめだよ、アイヒナ。じっとしてなよ」
名前を呼ばれた途端に、身体が凍りつく。アイヒナの意に反して動こうとしない手足に、ジークハースの爪が突き立った。
「ぐあっ!!」
アイヒナのチュニックと袴に血が滲む。夢の世界だからといって、甘く考えてはいけない。夢の中で精神体が傷を負えば、現実の肉体も傷を負う。精神体が血を流せば、もちろん肉体も血を流すし、万が一の時には死に至る事もある。また、長時間にわたる夢渡りには別の危険もあった。夢幻の世界では、夢渡りをしているアイヒナの精神体よりも、夢を見ている本人の精神体の方が上位にあたる。アイヒナを「異物」として排斥しようとする力が働く場合もあるし、逆に取り込まれて「同化」してしまうという事もあり得るのだ。特に「人間」としての進化途中にある胎児の場合は、取り込まれてしまう危険性が高い。
「ヒャハハハハァ! 夢織りも大した事ないねぇ。なあ、夢織り。僕がこのままお前を倒したら、御主様は僕を褒めてくださるよね? そしたら、タリスにいるあんな奴より僕の事を信用して、お側に置いてくださるかも知れない。そしたら、なんて素敵なんだろう!」
うっとりと言葉を続けるジークハースに、アイヒナが荒い息を吐きながら言った。
「妄想に浸っているところ申し訳ないが。夢織りを、そうそう舐めてもらっても困るんだ」
手足から流れる血で赤く染まった衣服は、あちこちが破れ、無惨な姿である。しかしその金色の瞳はまだ闘志を失ってはいない。
「私が背負っているものの重さなど、貴様には到底理解できまい。貴様達が御主様と呼ぶ、招かれざる神・アーカバルのせいで、私が失ったものの重さなど貴様には量れもせぬわ!!」
アイヒナの長い髪が舞い上がり、破れたチュニックの間から覗く白い肌に刻まれた神聖文字の刺青が五色の光を放って輝いた。
同様の変化は、闇姫とトウージュの待つ外界でも起こっていた。二人の目の前で、動かなくなったアイヒナの身体に傷が開く。何の前触れもなく彼女の首筋の皮膚がただれ、嫌な臭いが漂う。アイヒナの表情も苦痛に歪む。
「お、おい、アイヒナ!」
「じゃから、主殿に触れるなと言うておろうが! この虚け者め!」
大慌てでアイヒナを抱き起こそうとしたトウージュの側頭部を、闇姫が拳で殴りつけた。
「お前、主殿を死なせるつもりか? 落ち着いておれ」
そうは言われても、目の前でいきなり傷が開くのだ。落ち着けようはずもない。トウージュが殴られた頭をさすっているうちにもアイヒナの身体が硬直し、全身に汗が噴き出す。
「俺達には、何もできる事はないのか? このまま見ているだけなんて、耐えられない」
「吾とて同じ思いじゃ。しかし、我等は現、主殿は夢幻。そう易々とは手が出せぬ。焦らず待て。必ず何かあるはず。反撃に出る機会が、必ずあるはずじゃ」
闇姫の鋭い犬歯が口唇を噛み締める。そんな二人を知らぬ気に、アイヒナの手足から鮮血が流れ出す。
「主殿。頼む、主殿。何でもいい。教えてくれ。このままでは──」
焦るなと言っていた闇姫本人が、実は誰よりも一番焦っていたらしい。無意識なのだろうが、十指の爪が伸び、ギチギチと鳴っている。側にいるトウージュとしては、かなり怖いのでやめてほしいのだが、そんな事を言い出せるような雰囲気でもない。闇姫から目を逸らした彼は、アイヒナの胸元からもれる光に気がついた。
「おい、闇姫。これは──」
アイヒナのチュニックの胸元に手を伸ばしたトウージュを見て、闇姫が彼に掴みかかる。
「この大戯け者が! このような非常時に、何を考えておる! 喰い殺すぞ、貴様!!」
喉元を締め上げられたトウージュは、もがきながらアイヒナを指さす。
「ち、ちが…。勘違いするな。あれだよ、あれ」
その指差すほうを見て、闇姫はトウージュを放り出した。王弟殿下の情けない声を無視し、闇姫はアイヒナの胸元をはだける。