8
悲哀。驚愕。逃避。憤怒。憎悪。…正当化。そしてまた悲哀へと戻るこのループを、私は何度廻っただろうか。馬鹿みたいに何度も何度も。いや、馬鹿なんだ。だからいつまでたっても抜けられない。
薄暗い弟の部屋に、音をたてないようにそっと入ってドアを閉める。その部屋にある物はすべて、弟が死んだあともその場から動くことなく、持ち主の帰りを待ち続けている。私は足音をたてないようにベッドに向かうと、ゆっくりと腰を下ろした。ベッドが軋む音が一瞬だけ響いてから、その部屋は静寂を取り戻す。
部屋に電気は点けないまま、私は弟の部屋を見渡す。剥がれかけているSLのポスター。大切にしていた船の模型。傷だらけの黒いランドセル。汚れている制服。見える光景は、いつだって変わらない。
ベッドに腰掛けて考え事をしている弟を、何度か見たことがあった。あの時の弟の気持ちを理解してあげたくて、私はいつも真似をする。そして嗤う。何もかもが、もう遅いのだ。弟はもう死んでしまっている。いまさら理解したって、理解しようとしたって意味がない。それにきっと私には、弟の気持ちを理解してあげることはできない。
頬を伝う生ぬるい何か。耐えきれなくて、嗚咽が漏れる。うまく息ができなくなる。膝を抱える格好で、泣く。
これをあと何回繰り返せば、私は抜け出す事が出来るのだろうか。
「秋瀬姉ちゃん」
控えめな声を出しながら悟が私の部屋に入ってきたのは、ちょうど梅雨の時期だった。その日は静かな雨がしとしとと降っていて、気だるいような湿気の強い空気が全身を包んでいた。
「なあに?」
私は問題集から目を上げもせずに、後ろにいるはずの悟に向かって返事をする。当時の私は受験生で、志望校に入るために毎日勉強をしていた。悟はそれを知っているからこそ、申し訳なさそうに部屋に入ってきたのだと思う。
7つ年の離れた弟は、私にとっては大切な存在だった。両親が共働きなのもあって、弟は私を頼ってくることが多かった。弟が優しい性格だからなのか、それとも年が離れているせいか、喧嘩をしたことは一度もない。
後ろにいるはずの弟がなかなか話を切りださないので、私は問題を解く手を止めて後ろを振り返った。同い年の男子たちよりも背の小さな悟は、椅子に座っている私とほぼ同じ目の高さだった。うつむいているせいか、少し癖のある黒髪がはっきりと見える。
「…悟?」
顔を覗き込むように見ると、悟の右頬が腫れているのが見えた。
「どうしたの、それ」
「…転んだだけ」
明らかに震えている声が、それは嘘だと言っている。いじめ、という言葉が私の脳裏をよぎった。
「誰かにやられたの?」
「転んだだけだって」
頬に触れようとする私の手から逃げるように、悟は首を振った。それからおもむろにポケットに手を突っ込むと、ピンク色の小さな包みを取り出した。
「これ…」
「?」
「お姉ちゃん今日、誕生日でしょう?」
そう言われて、私は壁にかかっているカレンダーを確認した。確かに今日は私の誕生日だ。すっかり忘れてた。
「おめでとう」
悟が少しだけ顔をあげて、ほほ笑んだ。
「…ありがと」
プレゼントを受け取って、ほほ笑み返す。本人が転んだだけだと言ってる以上、余計な詮索はしない方がいいんだろうか。私はプレゼントを机の上に置くと、立ち上がった。
「頬、冷やそうか。保冷剤取ってくるね」
そう言いながら部屋を出て行こうとする私の服を、悟は軽く引っ張った。
「…なに?」
なるべく優しい声で、訊く。
「あ…」
悟は眼を伏せたまま、動かない。少ししてから、蚊の鳴くような細い声で
「中学校ってさ、楽しい?」
と訊いてきた。…その質問の意味を、意図を、私は深めに解釈する。
「楽しいよ。友達たくさんできるしね」
出来る限り明るい声で、笑顔で、言った。それを聞いた悟が、顔をあげて笑う。
「そう、だよね…。ありがとう」
腫れた右頬が、痛々しかった。
例えばあのとき私が、無理やりにでも真実を聞きだして、そしてそれに立ち向かっていたなら。未来を待つのではなくて、現在を変えることを教えてあげられたら。手伝ってやれたら。そしたら、未来を変えることはできたんだろうか。
2週間後に、悟が首を吊ることはなかったんだろうか。
葬式に参列した学校関係者は、誰一人泣かなかった。校長も、担任も、生徒たちも。泣き続ける両親に、校長たちは必死になって「学校には責任がない、いじめはなかった」と繰り返した。私はそんな声を無視して、参列している悟の同級生たちを睨むように見ていた。
この中に、悟を殺した奴がいる。
11歳。法的に裁かれることもなく、直接手を下したわけでもない。悟は自殺した。だけどこれは、間接的な殺人だ。悟を追い詰めた人間が、この中にいるのだ。
…許さない。
悟の葬儀から数日後、私は近所に住んでいる悟の同級生を呼び出して、話を聞いた。内気なその子はおどおどしながらも、教室で何が起こっていたのかを語ってくれた。
悟が皆の前で服を脱がされたこと。殴られたり蹴られたりしていたこと。教科書を紛失していたこと。お金を取られていたこと。担任は恐らく気付いていたはずだが、何も言わなかったこと。
「僕も…見て見ぬふりしてたんです。いじめられるのが、怖くて」
そう言い終わると、その子は泣きはじめた。
「…そっか、分かった。ありがとうね」
私はその子の背中をさすりながら、悟をいじめていたグループと、その中心人物の名前を聞きだした。
それから毎日、悟の部屋で一人で泣きながら、そいつらを殺す方法をあれこれ考え続けた。
自分が殺人者になることに、特に抵抗はなかった。