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階段を下り、錆びついたような色のドアを開けると、そこには茶色いシミの目立つ白い壁と床だけが広がっていた。広い部屋には、デスクも窓もない。…いや、地下だから窓がないのは仕方ないんだけど。
「…?」
私は一歩踏み出そうとして、ドアのすぐそばに置かれていた箱につまずいて転びかけた。
「あ、足元気をつけて」
明らかに警告が遅い。私は何にぶつかったのかと足元を確認して、顔が真っ青になったのを自覚した。
金属バット。ナイフ。縄。ハンマー。電動のこぎり。その他もろもろ。箱の中は、明らかに『物騒なもの』の部類に入る代物でいっぱいだった。
「そこで好きな道具選んで、こっちに来なよ」
彼はにやにやと笑いながら、部屋の隅に看板を立てかけた。私は一瞬逡巡してから、鞘に入っている少し大きめのナイフを選び出すと彼のもとに向かった。
「…ダガーか。お姉さんもいい趣味してるね」
私の持ちだしたナイフを見て、彼が不気味な笑顔を浮かべる。
「ダガー?」
「そのナイフのこと」
私の持っているナイフを指さしてから、彼は笑顔のままでため息をついた。それから息を吸い込むと、
「1回、一万円」
無表情に、無感情に、そう言った。
「え?」
「金さえ払ってくれれば、後は好きに殺してくれていい。そのナイフで刺してくれてもいいし、他の道具に持ちかえてもいい。なんなら素手で、絞め殺してくれてもいいよ」
「…は?」
「殺したいやつがいるんだろ」
彼はそういうと、自分の顔を指さして言った。
「俺のことをそいつだと思って、心ゆくまで殺してくれ」
「…何言ってるの?」
冗談言わないでよ、と言おうとしていたはずの私の声はひどく震えていた。それは、こんな小さな子に冗談を言われた怒りではなく、単純な恐怖で。
彼の真っ黒な瞳は、真っ暗な眼は、本気だと言っていたから。
彼はふっと笑うと、私の眼を見た。笑っても、眼の中の闇は消えない。
「誰かの代わりに殺される。それが、殺され屋」
彼はそう言ってから、顔の位置に両手をあげておどけてみせた。まるで、ピエロみたいに。
「だけど残念ながら、俺は死なないから。だから安心して殺してくれていいよ」
その時私の頭は完全にフリーズしていて、目の前の少年が言っていることに、全くついていけてなかった。
殺す?1回一万円?殺す?死なない?
ボーっと立ち尽くす私を見て、彼はまたもやため息をついた。
「お姉さん、やる気あんの?」
「だって…」
もはや何を言っていいのかすら分からず、
「そしたらあなたが死んじゃうじゃない」
我ながらよく分からないことを口走った。手に持っているナイフが震える。これで、あの子を殺せって?
「だーかーらー」
彼は呆れた口調で、ゆっくりと言った。
「俺は死なないって言ってるじゃん」
彼はそういうと、すたすたと私のもとに近づいてきた。思わず身構える私に、彼は呆れたように笑う。
「ビビってんの?あんたを殺したりなんてしないよ。それ貸して」
そう言いながら指差されたナイフを、私はおずおずと彼に渡す。彼は何のためらいもなく鞘からナイフを抜くと、
「ちょっ…!」
私が止めるよりも早く、そしてあっさりと、自分の胸にナイフを突き刺した。
白いシャツに、赤黒いシミが広がっていく。彼はそんなのは気にもしない様子で、真っ青になっている私の方を見ながら笑った。
「なんなら首も切ろうか?」
そう言われて、ほとんど反射的に首を振る。
「きゅ…」
救急車と言おうとすると、彼がまたもやあっさりと、自分の身体からナイフを引き抜いた。銀のナイフにべったりと付着した、粘着性のある液体。私はそれを見て、ぺたんと尻もちをついた。恐怖で全身が震えていた。
彼は自分がナイフを突き刺した場所に手を当てた。みるみるうちに手が赤く染まっていく。だけど10秒もたたないうちに、彼は手を離した。そして、血に染まったシャツをめくり上げる。
「…!?」
ナイフを刺したその場所には血がべったりと付いているのに、ナイフを刺した傷跡が見当たらなかった。
「治った」
彼はにやりと笑うと自分のシャツを見おろして、血の付いていない部分でナイフの刃を丁寧に拭き、鞘に戻した。そしてそのナイフを、こちらに向かって放り投げた。
からんからん、という乾いた音が私の足もとに、そして部屋に響く。
「これで分かった?」
彼は赤黒い服を着たまま、笑った。
「俺は死なないんだよ。どうやってもね。バラバラにされたこともあるけど、それでもちゃんとくっつくから。ま、バラバラにされると回復するまで半日くらいかかるんだけどねえ」
「あ、あなた…なんなの?」
先ほどから自分の言っていることがおかしい。知ってはいたけど、そう訊くしかなかった。だって私の言っていること以上に、目の前で起こっていることの方がおかしい。彼はまるで、人間じゃないみたいで。まるで彼は、彼は。
「俺はアクマ」
彼は眼を細めて笑った。何かを、あざけ笑うかのように。
「俺はアクマ。だから、死なないんだよ」