16
私は大きく息を吸って吐くと、彼の方を見た。
「もしも、あなたが死んでしまったら?」
私の質問に彼は眼を丸くして、それから笑った。
「その時は、人助けしたと思ってくれていい。…いや、人じゃないけど」
「…。」
質問こそしたものの、私は迷っていた。私が殺したいのは茶髪のあの少年であって、いま目の前にいる彼ではない。彼が死なないのは知ってる。だけど、殺したくなかった。
私が渋っているのを見かねて、彼がこちらに近づいてきた。相変わらず、顔には歪んだ笑顔を張り付けたまま。
彼は私の目の前まで来ると、背伸びをして私の手の中にあるナイフから鞘を抜きとった。鞘を床に落とすと、そのままもう一度自分の胸をトントンと指さす。
「ここだ。間違えんなよ。…首でもいいけど」
そう言って、眼を閉じた。
「っ…」
途端に、手が震えだす。
…たとえば今、目の前いにいるのがアクマじゃなくて、あの茶髪の少年だったら。私は躊躇わずにこのナイフを突き刺す事が出来るんだろうか。
笑う悟の顔。その死に顔。責任はないと繰り返す教師の声。嘲笑のような茶髪の少年の笑い声。楽しそうな笑顔。ボロボロになった悟のランドセル。汚れた制服。
ほほ笑み続ける、マスコット人形。
「…できない」
私が声を漏らしたのと、涙がこぼれたのは同時だった。目の前の彼はゆっくりと目を開けると、ほほ笑んだ。
「俺はもう死んでるけど、あんたが殺そうとしてるやつはまだ生きてる。あんたはきっと、そいつのことも殺せない。今みたいにな。…やめといた方がいい」
「あなたも生きてるじゃない」
「俺は死んでるんだよ」
「だけど、生きてる」
私はナイフを持っていない手で、彼の頬に軽く触れた。そこには確かに、体温が、あった。
「…あんたは、あんな思いしなくていい」
彼は私のナイフを見ながら呟いた。
「あんな感情、知らなくていい。この店よりも、そのナイフよりも、あんたにはあの喫茶店とコーヒーの方が似合ってる」
彼は私を見上げて、ほほ笑んだ。その笑顔は、歪んでいなかった。
私はナイフを持ったまま、声をあげて泣いた。
私は、復讐を果たせなかった。果たさなかった。
彼は、私を止めてくれた。
私は、彼に何もできなかった。