12
細い路地に入って例のビルに近づく。立て看板は立っていなかったけれど、私はためらわずに店へと向かう階段を下りた。相変わらず錆びたような色のドアを、ノックしてみる。返事をしてもらえないんじゃなかろうか、と思っていたら
「はい?」
ドアを開けて、アクマがひょこっと顔を出した。それから私の顔を見て
「は?」
露骨に面倒くさそうな顔をする。そんな彼を見て、私は笑った。
「お客様じゃなくて悪かったわね」
そう言うと、彼はため息をついた。ドアにもたれかかって、こちらを見上げる。
「なんの用?」
「んー。とくに用事はないんだけど」
それを聞くやいなや、彼はさらに面倒くさそうな顔をした。
「…ちょっと話したいの。だめ?」
「面倒」
顔に書いてあることをそのまま音声にされて、私は苦笑する。彼は私の方を見て、もう一度ため息をついた。それから
「勝手にすれば?」
そう言って、部屋の奥へと入っていった。勝手にしろと言われたので、勝手にする。私は彼に続いて、勝手に部屋へと入った。玄関のすぐ横に置いてある箱につまずかないように注意しながら。
彼は何もない床にぺたんと座っていた。本を読んでいるわけでも、音楽を聞いているわけでもない。白い壁と白い床の中で、彼の姿だけがくっきりと浮かび上がって見えた。
「本当にここ、何もないね」
私がそう言いながら近づくと、彼は鼻で笑った。
「ナイフとかハンマーとかならあるけど?」
「そういうのじゃなくてさ…」
私は苦笑しながら、彼の隣に腰掛ける。ひんやりと冷たく硬い床は、彼のことをそのまま表しているような気がした。
私は自分の鞄を開くと、
「じゃんじゃじゃーんっ!」
と、少しだけ豪華っぽく聞こえる効果音を言いながら、包んでもらったクッキーを取り出した。
「…なにそれ」
「クッキーよ」
「それは見りゃわかる」
彼は呆れた口調でそう言いながら、私の持っているクッキーを見つめた。
「爺さんとこのクッキーだろ?んなもん、喫茶店で食って来いよ」
「一緒に食べようと思って」
私がそう言うと、彼は下を向いた。何度目か分からない、ため息の音。
「俺は別に、食べなくても死なないんだよ」
「そんなの知ってるわよ。逆に言うと、これを食べたって死なないでしょ?」
彼はこちらを見上げる。うんざりしているようにも見えるし、困惑しているようにも見える。私はそれに構わず、クッキーの包みを開いた。途端に、バターの香りが広がる。
「食べたことないんでしょ?マスターのクッキー」
「…ああ」
「食べてみなよ、おいしいから」
沈黙が続く。彼が食べようとしないので、私は先に一枚つまんだ。それから、
「あ、コーヒーもあるから」
そう言って水筒を取り出した。クッキーだけだと喉が乾くでしょうと言って、マスターが水筒にコーヒーをいれてくれたのだ。彼は水筒を見ると、目線を逸らした。
「あれ、もしかしてコーヒー飲めない?」
「そういうわけじゃない」
彼は目線をそらしたまま、呟く。
「…なんでこんなことするんだ?」
それを聞いて、私も彼から目を逸らす。自分が今やっていることが単なるエゴであると、自分自身で知っていたから。
「諦めてほしくないから」
小さな声で、クッキーの方を見ながら呟く。膝を抱えて座りなおした。悟の部屋で、泣く時みたいに。
「あなたが死ななくても、年を取らなくても。自分を諦めないでほしいから」
誰もいないみたいに、部屋の中が静かになった。彼も私も何も言わない。私は白い壁を見つめた。彼がいつも一人で、見ていたであろうその光景を。
そこにはやっぱり、何もなかった。
「50年」
沈黙を破ったのは、彼の方だった。あざけるような口調で、彼は続ける。
「50年、年もとらずに生き続ける。死んでるはずなのに、生き続ける。…どんな気持ちだと思う?」
その声の中にわずかに含まれた、怒り。
「周りは皆年をとっていく。死んでいく。だけど自分はずっとこのままだ。何をしたって死なない。同じ姿で世界の上に乗っかったまま、だけど世界から置いてかれる。…お前には、分からない」
私は身体を小さくした。瞬きすると、涙が一粒零れおちた。それには気付かないふりをする。
「人と関わりたくないんだよ」
吐き捨てるような彼の声が、わずかに震える。
「関わったって、どうせそいつも俺を置いて死んでいく。だからもう、俺は人と関わりたくない。人間らしい生活もしたくない。幸せもいらない。ただ、もう終わりにしたいんだ。
…それでもお前は、諦めるなって?」
知ってた。私は彼と悟を重ねて、何かを変えようとした。悟の時は変えられなかった未来を、変えようとした。
それが単なるエゴだってことは、言われなくても知ってた。
「…あなたは」
声が震えて、涙がこぼれる。彼は決して私の方を見ようとはしない。私も、彼の方を見れない。足元を見たまま、彼に向かって声を絞り出す。
「死にたいから、殺され屋をやってるの?」
誰かがいつか、自分を殺すことを夢見て。