僕は医者を辞めた
僕は医者を辞めた。
人を救えなかったからじゃない。
救おうとして、救えない自分を毎日見続けることに、もう耐えられなくなったからだ。
病院を辞めたその日、家に帰ると、妻に離婚届を差し出された。
「医者じゃないあなたには価値がないから」
そう言われて、僕はすぐに名前を書いた。
特に、何も思わなかった。
そのまま荷物をまとめて、
実家に帰ることにした。
僕は価値なんてない。
知ってる。
神でも何でもないんだ。
医者も何もかもなくなった。
友達も何もない。
でも――
これでゼロだ。
僕は、電車に乗った。
久しぶりだ。
窓の外に、色んなものが流れていく。
人も、山も、海も、住宅地も。
いつもは車で来てたよな。
でも、今日は何故か電車で行きたかった。
母さん、びっくりするだろうな。
僕の気持ちは重かった。
なのに、自由でよくわからない軽さだったんだ。
僕は説明できなくなるかもしれない。
でも、うん。
それはそれでいいことにしよう。
インターホンの前に立った。
インターホンを鳴らした。
ピンポーン
「はい。」
「僕だけど。」
「一利、どうしたの。上がりなさい。」
「うん。」
入ってすぐだった。
「僕さ、医者辞めたんだ。」
「ふーん、そうなの。いいんじゃない。」
「え?」
「嫌ならやめればいいわ。」
「嫌じゃないんだけど、辞めたんだ。」
「別にいいんじゃない?それがどうかしたの?あなたはあなたよ。」
「離婚したんだけど。」
「それで?」
「医者じゃない僕は価値がないって言われた。」
「なら、離婚ね。
別にいいわよ。
お願いしてまでいてもらわなくていいんじゃない。
好きにしなさい。」
「母さん、あんなに頑張って今までしてくれたのに、ごめん。」
「私は好きなことするためにしてるだけだからいいの。
医学部行ったからって医者にならなくても私は良かったし。」
「そうなの?」
「そうよ。」
「一利は家どうするの?」
「追い出されたから…。」
「じゃあ、帰ってきたら?」
「ありがとう。」
「母さん、何も聞かないの?」
「聞いてるけど。」
「……そう?」
「疲れたんじゃない?」
「疲れた。マジで。」
「だろうね。」
「でも、全部すんなりいってよかったんじゃない?
なかなか最近はすんなりいかないみたいよ。」
「そう思う。」
「面倒くさい世の中よね。生きづらいわ。
だから、ある意味、ラッキーってことで。」
「うん。そうだね。」
「おやつでも食べましょう。大したものないけど。
先に言ってくれたら、一利の好きなもの買っておいたのに。
今日は、肉でも食べようか。」
そして、僕たちは肉を食べることにした。
母は、やっぱり母だった。
そして、その母の子である僕は、やっぱり僕だった。
そう思ったら、少し笑ってしまった。
ここで、一度、立ち止まってもいいと思えた。
そう思った日、
海のようなところに僕は行った。
夢の中で。
何もないところだ。
どこまでも続いている。
光っていた。
いや、そうでもなかったのかもしれない。
ただ、終わりがなかった。
僕はそこに立っていた。
境界の扉が、開いている。
よくわからない。
僕は決められない。
何も。
でも、僕は、そこにいることができる。
ここにいていい。
そんな気がした。
生きることができる。
それだけだ。
ああ。
僕はまだ自由。
多分。
それで、いい。
アルバイト募集のチラシを見た。
僕にできそうなこと……。
よく、わからなかった。
「母さん、仕事なんだけどさ……。」
「一利一人くらい、何とでもなるから大丈夫よ。
何かしたくなったらでいいんじゃない?
しばらくは遊んでも。
あんた、小さいときから勉強ばかりしてたじゃない。」
「だから、遊ぶ時間があってもいいと思うけど。」
「ありがとう。」
大学の同期から連絡があった。
「大丈夫か?辞めたって聞いて…。話くらい聞いてあげればよかったって思ったんだ。」
一番仲が良かったやつだった。
「大丈夫だよ。楽になったから。」
「なんかあったんだろう?今度飲もうぜ。」
心配している感じだった。
「今度な。」
「そう言ってそのまますっぽかすんだろう。次の土曜の夜でいいか?」
「今、実家なんだ。」
「じゃあ、俺の病院から近くだから大丈夫だ。」
「わかった。時間後で教えてくれ。二宮に合わせるよ。ありがとう。」
「ありがとう。病院の予定みてから、連絡する。またな。」
二宮はいいやつだ。
結局土曜日の18時に駅で待ち合わせになった。
「久しぶりだな、一利。」
「久しぶり。」
「お前結婚してから付き合い悪いから、なかなか飲めなかったじゃないか。」
「もう大丈夫だ。」
「っていうか、家はどうしたんだよ。」
「離婚した。」
「マジか。まあ俺がいうのもなんだけど、いいと思うぞ。
楽そうになってるからさ。」
「え?」
「変な意味じゃないけど、嫁さんと合わなかったのかなって思ってたんだよな。
なんとなく。
俺は苦手だったから。
結婚してない俺がいうのもなんだけどさ。」
「まあ、合わないっていうのは事実かな。
でも、勝手に俺が辞めたから仕方ないんだよ。」
「色々あるよな。」
「話くらい、ちゃんと聞いてやれてたらさ。」
「お前が謝ることじゃないだろう。」
「……まあな。大学の時に色々話聞いてもらってたし。」
「あ……女のね。」
「そう。お前大変だったもんな。」
「それだけじゃないだろう。試験の時も世話になってる。」
「それはお互い様だ。」
そう言って笑った。
「なあ、一利。これからは相談しろよ。
それとこれからはもっと遊ぼうぜ。たまには飲みに行ったり、どこかに遊びに行くのもいい。
女いないから…。」
「そういうことかよ。」
「だって医療関係は嫌だし、だからと言って医者の関係のはちょっとな…。
もういいんだ。そういうの。」
「それな。」
そう言って、俺たちは歩き出した。
行き先は、特に決めていなかった。
家で、コーヒーを飲んでいた。
「母さん、やっぱりここは落ち着くな。」
「家だからね。
落ち着かないと、おかしいでしょう。」
「確かに……。」
そう言ってから、
今までは本当に落ち着いていられたのか、
わからなくなった。
今となっては、
それが仕事のせいなのか、
何なのかも、もうわからない。
正直、
そんなことは、どうでも良かった。
ただ今の僕は、
何をしたいのかが、知りたかった。
焦るわけではないけど。
僕は、彼女が欲しいわけでもない。
欲しくないと言ったら、嘘になるけど、
それよりも、自分がやりたいことができるほうがよかった。
友達でも、これからの彼女でも、
肩書を外した僕と対等でいられる人がいい。
ただ、
どこにそんな人がいるのかは、
わからないけど。
そして、僕は眠りについた。
その夜も、また夢を見た。
今度は、青の世界ではなかった。
一本の木が、あった。
ただ、あるだけ。
僕は、その木に触れた。
何かに繋がっている気がする。
鼓動が聞こえる。
僕は、
吸い込まれていくようだった。
ふわふわして、気持ちがいい。
僕は、夢から覚めた。
一体、
何だったんだ。
世界が動き始めた気がした。
いや、
世界が動いている?
いやいや、
世界は、もうずっと動いている。
僕は、ネットサーフィンをしていた。
どこかに行きたいと思った。
静かな場所。
美術館とか。
だからといって、
二宮を誘うのもな。
あいつは……。
そういうのが好きなのか、
正直、わからない。
今度、
一人で行ってみようかな。
平日だったら、
すいてるよな。
正直、
動画を見たいとか、
本を読みたいとか、
音楽を聴きたいとか、
そういう気分ではなかった。
だからといって、
誰かと話したいわけでもない。
交流したいわけでもない。
ただ、
静かにしていたかった。
紅茶を飲んでいた。
……まずいな、これ。
「母さん、紅茶買ってくる。」
いつもの紅茶を買った。
やっぱり、これがよかった。
「このお茶好きなの?
おいしいわね。」
「なかなかおいしいでしょう。」
僕は、
こうやって楽しみたかったのかもしれない。
笑っていたかっただけだったのかもしれない。
また、買おう。
何となく、
つかめたのかもしれない。
いや、
全く分かってないのかもしれない。
でも、
それはそれでいいと思えた。
僕が好きなお菓子を、
母さんに買ってあげたいな。
そう思った。
そういえば、
母さんは、
何かをしろとは言わなかった。
僕は家に帰ってきてから、
手伝える家事は僕がしているし、
家は、
普通に回っているようだった。
昼寝をしていても、
何も言われなかった。
気楽だった。
社会的に駄目な人間になっていると
言われれば、
そうなのかもしれないけど。
休憩している、
ということにしよう。
僕の心は、
だんだん平和になっていく感じがした。
夜になると、
それでも、
少しだけ、
涙が出た。
その夜、僕はまた夢を見た。
散歩をしている夢だった。
どこか知らない場所だった。
道は続いていた。
どこに向かっているのかはわからない。
光っていた。
気づくと、青の中にいた。
あたたかい。
どん。
目が覚めた。
僕はベッドから落ちた。
うわっ
痛い。
この歳でベッドから落ちるってありかよ。
そう思った。
何が来るんだよ。
……誰も来ないだろ。
多分。
知らんけど。
世界は動いてるのかもしれないし、
動いてないのかもしれない。
でも、
病院にいたころとは、
だいぶ違う気がした。
考え方も、
行動も。
自由。
そんな気がした。
こういうの、誰かと話せたらいいなと思った。
まあ二宮もいるんだけどさ。
新しい友達が欲しいと思った。
肩書なしで、話せる人。
そんな人がいたらいい。
医者に戻るという選択は、
もうない。
自分の在り方が、
違う気がした。
でも、
それでいいと思った。
新しいものを見つけたいのかもしれない。
「母さん、僕はどういうのが合ってるかな?」
「さあ、適当に色々してみて決めたら?焦ることないんじゃない?」
僕は美術館に行ってみた。
モネの絵の前で、足が止まった。
青だった。
空なのか、水なのか、
よくわからない。
でも、どこまでも続いているような、
あの感じ。
——見たことがある。
そう思った。
夢の中で見た、あの青い世界。
似ている、というより、
もう少し近い。
重なっている、みたいだった。
しばらく、何も考えずに見ていた。
ただ、そこに立っているだけなのに、
どこか別の場所にいるような気がした。
境界が、よくわからなくなる。
絵を見ているのか、
思い出しているのか、
それとも、
どこかに入っているのか。
でも、不思議と怖くはなかった。
前に見たときは、
わからなくて、少し怖かったのに。
今は、ただ——
落ち着いていた。
ここにいていい。
そんな気がした。
理由はわからない。
でも、
それで十分だった。
——ああ。
もしかしたら。
僕は、
どこにも行かなくてもよかったのかもしれない。
何かにならなくても。
何者でもなくても。
こうやって、
ここに立っていられるなら。
それだけで、
もう、
始まっているのかもしれない。
青が美しい。
空のグラデーション。
ぼやけているよう。
見えるのか、
見えないのか、
わからない。
僕の未来も、
見えるようで、
見えない。
モネ。
恐るべし。
ゴッホの色使いもすごかった。
この色で、どうしてこうなる。
一つ一つが、選択。
何なんだこの世界は。
どういう色があってもいい。
どういう色でも、
そこに在ることができる。
深いぞ。
ゴッホ。
モネ。
深すぎる。
これは捕まる。
テオが捕まった気持ちが分かったよ。
一緒にするなと言われるだろうが。
そして、僕の横に座ってみている人も捕まったな。
多分休憩じゃない…。
この人も同じだ…。
隣の人が一言。
「すごいですね。」
声がして、横を見る。
同じ絵を、同じように見ている人がいた。
「はい。」
自然に言葉が出た。
それだけだった。
でも、
さっきまで一人だった世界に、
少しだけ、
誰かが入ってきた気がした。
「すごいです。」
「ありえないですね。」
「ありえないですよ。」
僕と同じような人間がいた。
「また来ますか。」
「来ます。」
「ですよね。」
「はい。」
「後期、違うの出ますよ。」
「そうなんですか。」
「はい。」
「行かなきゃ。」
「良かったら一緒にどうですか。」
「いいですね。」
知らない人間と、
大興奮して、
連絡先を交換してしまった。
一体、
何をしているのか……。
そして、約束までしてしまった。
きっとこの人も同じことを思っているはずだ。
でも、
悪い人ではなさそうだから。
大丈夫だろう。
僕は、
また何かを見つけられる気がしたわけじゃない。
ただ、
世界と、
少しだけ同じ速度で歩けている。
そんな感覚があった。
急がなくていい。
決めなくていい。
立ち止まっても、
座り込んでも、
空を見上げてもいい。
そうやって、
今日を終えられるなら、
それで十分だと思えた。
明日のことは、
明日考えればいい。
今は、
ちゃんと息ができている。
それだけで、
悪くない一日だった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
特別なことは何も起きない話ですが、
どこかで、少しだけ呼吸が楽になるような、
そんな物語になっていたら嬉しいです。




