第3章 習慣
夜は、繰り返される。
レンは気づいていなかった。
自分の一日が、ある時間を軸に回り始めていることに。
二十三時三十分。 それが、目安になった。
それより前には掲示板を開かない。 それより遅くなると、落ち着かない。
昼間は相変わらず重い。
母親の「ごはん置いとくね」という声に短く返事をする。
階段を下りるタイミングを見計らう。 家族と鉢合わせしないように動く。
自分の生活は変わっていない。
それでも、夜だけは違う。
部屋の電気を落とし、パソコンを立ち上げる。
画面の光が、レンの顔を青白く照らす。
掲示板を開く。
まだユイの書き込みはない。
レンは、胸の奥にわずかな焦りがあることを自覚する。
来ないかもしれない。
来なくてもおかしくない。 ここは匿名だ。 約束も契約もない。
レンは、AIを開く。
「人に依存するのは悪いことですか?」
送信。
数秒後、整った回答が返る。
依存の程度や関係性によります。健全な相互支援と――
レンは途中で閉じる。
正論はいらない。
欲しいのは、今夜そこにいるかどうかだけだ。
掲示板に戻る。
更新。
いる。
短い書き込み。
レンの肩から力が抜ける。
いる。
と打ち返す。
それだけで、夜が始まる。
ユイは、レンの「いる」を見てから、ベッドに背中を預けた。
今日はバイトの面接はなかった。
昼間は求人サイトを眺め、履歴書の文面を直し、また消した。
AIを使えば整う。 でも、整えれば整えるほど、嘘みたいになる。
夜は違う。
夜の言葉は、整っていなくてもいい。
今日、何してた?
ユイが打つ。
レンの返信は少し遅れる。
何もしてない。
でも、掲示板のこと考えてた。
ユイは、指を止める。
それは重い言葉だ。
何もしていない一日の中で、 “掲示板のことを考えていた”。
つまり、自分のことを考えていた、ということになる。
ユイは、わざと軽く返す。
暇人かよ。
少し間。
そう。
でも、前よりはまし。
ユイは画面を見つめる。
前より。
それは、自分が関係しているのか。
何がまし?
夜が早く来るの待てる。
ユイの胸が、わずかに鳴る。
レンは、ユイがいる夜を待っている。
それは嬉しい。
でも、怖い。
誰かに待たれることは、責任が生まれる。
ユイは、少しだけ踏み込む。
私いなくなったらどうすんの?
数分、返信がない。
ユイは後悔する。
重い質問だった。
でも、やがて返る。
多分、戻る。
AIに。
その一文が、妙にリアルだった。
ユイは、唇を噛む。
レンにとって、自分はAIの代わりなのか。 それとも、AIの代わり以上なのか。
そっか。
とだけ返す。
しばらく沈黙。
掲示板の他のスレッドは流れている。 でも、二人のやり取りは止まる。
やがてレンが書く。
でもさ。
AIは、俺の名前呼ばない。
ユイの指が止まる。
ユイは呼ぶ。
その一文で、空気が変わる。
AIは便利だ。 でも、人格を持たない。
“レン”と呼ぶのは、ユイだけ。
ユイは、息をゆっくり吐く。
じゃあ呼んでやるよ。
レン。
短い返信。
うん。
それだけ。
それだけで十分だった。
夜が数日続く。
やり取りは増えるわけでも、減るわけでもない。
特別なことは起きない。
でも、確実に“習慣”になる。
レンは、昼間にAIへ相談する内容が変わる。
「どうすれば外に出られますか?」
「コンビニで店員に話しかけられたら何て言えばいい?」
以前は、ただの会話練習だった。
今は違う。
ユイに、何もしていないとは言いたくない。
ユイも、昼間にAIへ打ち込む。
「強い印象を和らげる話し方」
「怒っているように見えない表情」
理由は一つ。
レンに「怖い」と思われたくない。
夜の掲示板は、変わらない。
でも、二人の昼が少しずつ変わる。
ある夜。
ユイが打つ。
サイレン鳴ってる。
すぐに返信。
いる。
ここに。
ユイは、画面を見つめる。
レン、何もできないよ。
でも、いる。
ユイは、目を閉じる。
サイレンは遠ざかる。
心臓の鼓動が落ち着く。
画面の向こうに、人がいる。
会ったことはない。
声も知らない。
それでも、“いる”。
ユイは、ふと気づく。
レンがいない夜を、想像できない。
レンも同じだった。
掲示板を閉じる前、必ずユイがいるか確認する。
それは恋ではない。
まだ。
でも、必要だ。
AIは今日も開かれていない。
整えられていない言葉が、 そのまま届く。
夜は変わらない。
だが、二人の中の夜は、 確実に塗り替えられ始めている。




