第2章 通訳
ユイは、アラームより少し早く目を覚ました。
昼の光は好きじゃない。 明るさは、隠していたものを暴く。
カーテンの隙間から入る白い光に、眉をしかめる。
スマートフォンを手探りで探し、時間を確認する。十一時二十分。
昨夜の掲示板を開く。
レン また、夜に。
その一行が、まだ残っている。
“また、夜に”。
約束というほど強くない。 でも、無視できない程度の重さはある。
ユイは画面を閉じ、天井を見上げた。
自分は何をしているのだろう。
顔も知らない男と、夜に会話をする。
名前も本名じゃない。 年齢も、本当かどうか分からない。
でも、不思議と怖くない。
怖いのは、現実の方だ。
昼過ぎ、ユイは面接先からの不採用メールを開いた。
丁寧な文章。 形式的な謝罪。
「今回はご縁がありませんでした」
ご縁。 その言葉に、軽く舌打ちする。
昨日、ユイはAIを使って志望動機を書いた。
「社会復帰に向けて真摯に取り組みたいと考えております」
自分で打ったわけじゃない。 AIが整えた。
整っている。
完璧だ。
でも面接で話すと、声が荒れる。
敬語が崩れる。 視線が鋭くなる。
「怖い」と言われたことがある。
ユイは鏡を見る。
確かに、優しそうではない。 自分でも分かる。
だからAIを使う。
「この文章をもっと自然に」
「もう少し柔らかく」
「印象がきつくならないように」
AIは応じる。 感情のない誠実さで。
それは便利だ。
でも、どこか空虚だ。
ユイは思う。
もしレンがこれを読んだら、どう思うだろう。
昨夜のやり取りを思い出す。
俺も、ここがあると少し楽。
整っていない文。 少しぎこちない。 でも、嘘がなかった。
ユイは、自分の文章を見直す。
掲示板に書き込むとき、彼女はAIを使っていない。
荒れてもいい。 変でもいい。
そこだけは、鎧を外せる。
夕方、外を歩く。
遠くで、またサイレンが鳴る。
身体が反応する。
胸が締まる。 足が一瞬止まる。
思い出すのは、夜の交差点。 バイクの音。 怒鳴り声。 逃げる背中。
ユイは、息を吐く。
「もう関係ねえ」
小さく呟く。
でも、音は消えない。
部屋に戻ると、ユイは掲示板を開いた。
まだ夜ではない。 レンが来る時間ではない。
それでも、スレッドを確認する。
流れは早い。
匿名の文字が積み重なっている。
ユイは自分の投稿を読み返す。
私はAIに通訳してもらわないと、人に優しくできない。
あれは本音だ。
優しくできない、というより、 優しくすると弱くなる気がする。
弱くなったら、踏みつけられる。
昔はそうだった。
でも昨夜、レンに言われた。
しんどいね。
それは慰めでも説教でもなかった。 ただ、受け止める言葉だった。
ユイはスマートフォンを握りしめる。
ああいう言葉を、自然に出せる人間は、 多分、悪くない。
夜になるのを待つ。
二十三時四十分。
ユイは部屋の明かりを落とし、ベッドに座る。
掲示板を開く。
まだレンの書き込みはない。
少しだけ不安になる。
来なくてもいい、と昨夜は書いた。 でも、来てほしい。
ユイは、自分から一行打つ。
今日もいる。
送信。
数分後。
いる。
レンの返信。
短い。 でも、そこにいる。
ユイは少しだけ笑う。
面接落ちた。
送るか迷う。
弱さを見せるのは嫌いだ。 でも、隠すのも疲れる。
送信。
少し間があく。
レンの返信。
そっか。 ちゃんと行っただけで、すごいと思う。
ユイは、目を細める。
整った慰めじゃない。 でも、軽くない。
AIっぽくない。
ユイは確認したくなる。
それ、自分で打ってる?
すぐに返事。
うん。 今は閉じてる。
“閉じてる”。
AIを。
ユイは胸の奥が静かになるのを感じた。
レンは、逃げていない。
ユイは、打ち込む。
私さ。 丁寧に話そうとすると変になるんだよ。
敬語とか、無理。
少し間。
無理しなくていいと思う。
ユイのままでいい。
その一文に、ユイの指が止まる。
“ユイのままでいい”。
簡単な言葉。 でも、それを言われたことがない。
「変えろ」とは言われてきた。 「直せ」とも言われてきた。
“そのままでいい”は、初めてだ。
ユイは、画面が少し滲んで見えるのに気づく。
レンはさ。 なんで人と話すの苦手なの?
送信してから後悔する。
踏み込みすぎかもしれない。
でも、知りたい。
しばらく、返信がない。
数分。 五分。 ユイは落ち着かなくなる。
そして、返事。
高校で、笑われたことがある。
発表のとき、声が震えて。
それから、ずっと。
短い。 途切れ途切れ。
ユイはスマホを握り直す。
それは、軽くない。
ユイは、ゆっくり打つ。
それ、最悪だな。
でもさ。
今、震えてないだろ。
少し間。
まだ震えてる。 でも、打ててる。
ユイは、小さく笑う。
じゃあ、進化だ。
レンの返信は、すぐだった。
そうかも。
それだけで十分だった。
ユイは思う。
この人は、優しい。
でも弱い。
自分は、強く見える。
でも弱い。
夜の中で、その弱さが少しずつ溶ける。
AIは今、閉じられている。
整えられていない言葉が、 そのまま届く。
ユイは、最後に一行送った。
レン。 明日もいる?
すぐに返る。
いると思う。
ユイがいるなら。
ユイは、その一文をしばらく見つめた。
恋ではない。 でも、必要だ。
いないと、少し困る。
夜はまだ同じ色をしている。
でも、その色の中に、 ひとつだけ違う光が混じり始めていた。
塗り替えられたわけじゃない。
まだ。
でも、確実に、 少しだけ変わっている。




