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塗り替えられた夜 ― 匿名という本音 ―  作者: 西崎小春


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第1章 匿名の夜

レンが投稿してから、三分が過ぎた。

返信がつかなければ、それで終わり。 それが匿名掲示板の当たり前だ。

レンはページを閉じようとして、マウスに手を置いたまま止まった。

画面の隅の時計は、深夜一時十二分。

家の中は静かで、階下のテレビの音さえ消えている。

夜は好きだ。

誰も話しかけてこない。 誰も期待してこない。

誰も「どうしたの?」と尋ねない。

尋ねられたら、答えなければならない。

答えるには、言葉を選ばなければならない。

言葉を選ぶには、相手の反応を想像しなければならない。

その連鎖が怖い。

レンの指が、キーボードの縁をなぞった。

震えは小さい。けれど消えない。

緊張すると、手が自分のものじゃなくなるような感覚がある。

――投稿、消した方がよかったかな。

そう思ったとき、画面が更新された。

一件の返信。

逃げでもいいじゃん。 私はAIに通訳してもらわないと、人に優しくできない。

短い。乱暴。 でも、どこか正直だった。

レンは瞬きを忘れて、その文を読み返した。

“優しくできない”。

その言葉が、胸に引っかかった。

言葉の端が少しだけ濡れているみたいに見えた。

優しくできない、というのは、優しくしたいのにできない人の言い方だ。

本当に優しさが要らない人間は、そんな言葉を使わない。

レンは、返信欄にカーソルを合わせたまま動けなくなった。

返すなら、ちゃんと返したい。 でも「ちゃんと」が一番難しい。

彼は画面の端に置いていた生成AIのウィンドウを開いた。 反射的な動作だった。

「掲示板で、こう言われた。どう返せばいい?」

入力し、送信する。 AIはすぐに提案を並べる。

• 共感を示す

• 相手の気持ちを肯定する

• 自分の状況を少し共有する

• 質問を一つ添える

正しい。整っている。

でも、整っている言葉は、ときどき誰かの孤独を置き去りにする。

レンは提案文をコピーしなかった。 そのかわり、参考にして自分で短く打った。

俺も、AIがいないと本音が出せません。

だから今、あなたに返事ができてます。

送信。

押した瞬間、胃の奥がきゅっと縮む。

「あなた」という二人称が、必要以上に距離を詰めた気がした。

丁寧すぎたかもしれない。 変に思われたかもしれない。

レンは投稿一覧に戻り、画面を見つめた。

返信がなければ、そこで終わり。 それでいい。

そう思おうとした。

でも、終わらなかった。

数十秒後、相手の返信がついた。

じゃあさ、 AI抜きで一行だけ送ってみない?

レンは苦笑した。 挑発。命令。ゲーム。

どれにも見えた。

同時に、少しだけ優しさにも見えた。

“AI抜き”。

その言葉は、レンにとっては安全地帯を奪う言葉だった。

安全地帯がない会話は、現実の会話と同じだ。 つまり怖い。

レンは、AIのウィンドウを見た。 そこにはまだ提案が残っている。

「こう返すとよい」「こう言うと相手は安心する」。

でも、彼女(と決めつけるのは早いが、文体はどこか女性っぽかった) は、

その道具をいま禁止した。

レンは、AIウィンドウを閉じた。

閉じると、部屋の空気が少し重くなる。 画面の白さだけが際立つ。

一行。

たった一行のために、胸が熱くなるほど緊張する。

レンは、指を動かした。 消して、打って、また消した。

「無理です」 「できません」 「怖いです」 全部、違う。

言いたいのは、それじゃない。

一行で伝えるなら、これしかない。

……ありがとう。

送信。

送った瞬間、喉の奥が痛くなる。 まるで、声を出したみたいに。

返信はすぐだった。

うん。

それだけ。

なのに、レンの胸の奥の固いものが、ほんの少しだけ緩んだ。

彼はキーボードから手を離し、椅子に深く座り直した。

冷蔵庫の低いうなりが、遠くで続いている。 世界は何も変わっていない。

でも、確かに何かが違う。

レンは、自分でも不思議なくらい、もう少しだけ続けたくなった。

「ありがとう」と言えた夜。 それを「うん」と受け取ってもらえた夜。

匿名の掲示板の、ただの文字のやりとり。

それだけのはずなのに、 画面の向こうに“人”がいる気がした。

しばらくして、相手がまた書き込んだ。

ねえ。 今日は眠れる?

レンは息を止めた。

そんなことを聞かれると思わなかった。 「眠れる?」は、単なる質問じゃない。

「ちゃんと明日が来る?」に近い。

レンは思った。

この人も、多分、眠れない夜を知っている。

レンは反射的にAIを開きかけて、やめた。

一行チャレンジは終わっていない気がした。

彼は、自分の言葉を探す。

多分。 でも、今はまだ眠くない。

送信。

少し間があって、返事が来た。

私も。 サイレン鳴ると無理。

サイレン。

レンは画面を見つめた。

その一言で、相手の夜の輪郭が少しだけ見えた気がする。 部屋の外の音。

心臓の跳ね方。 過去の記憶。

レンはどう返していいか分からず、しばらく黙った。

黙ったままでも、掲示板は急かさない。 それがここだけの優しさだった。

レンは、短く打った。

それ、しんどいね。

送信してから思う。 “しんどい”なんて言葉を、人に向けて使ったのはいつぶりだろう。

普段の自分は、他人の痛みに触れるのが怖くて、距離を取っていたのに。

返事が来る。

うん。 でも、今は大丈夫。 ここがあるから。

レンは画面の文字を見て、胸が痛くなる。

ここがあるから。

“ここ”とは掲示板のことか。 それとも、この会話のことか。

レンは言葉を探した。

そして、言ってしまった方がいい気がした。 整っていなくてもいい。

俺も、ここがあると少し楽。

送信。

それから、相手が少しだけ長い文を返した。

じゃあさ。 明日も、ここに来い。

来なくてもいいけど、来たらいい。 変な言い方だけど。

レンは、思わず笑いそうになった。 “変な言い方”と自分で言う人は、信用できる。

レンは画面に向かって、小さくうなずいた。 誰にも見えないのに。

わかった。 明日も来る。

送信。

深夜一時四十分。

レンはページを閉じようとして、最後に一行だけ残した。

名前、呼び方だけ決めない?

匿名の掲示板で、それを提案するのは少し危険だ。 距離を縮める合図になる。

距離を縮めたら、壊れるのが怖い。

でも、縮めたい気持ちもあった。

返信が来るまで、少し間があった。

私はユイでいい。 本名じゃないけど。

レンは喉が鳴る。

ユイ。

たった二文字で、相手が急に現実に近づく。

レンも、名前を打った。

レン。 俺も本名じゃない。

送信。

“レン”という名前は、本名の一部だった。

でも全部じゃない。 全部を出すのは怖い。

相手――ユイが返す。

じゃあ、レン。 今日、生きててえらい。

レンは、その一文をしばらく眺めた。

生きててえらい。

それは慰めでも励ましでもなく、 ただ、存在を認める言葉だった。

レンは、AIを開かなかった。 開く必要がなかった。

彼は打った。

ユイも。

送信。

ユイの返事は、短い。

ありがと。

それだけで、レンの夜は少しだけ軽くなった。

世界は相変わらず暗い。 明日になれば、昼が来る。 昼は怖い。

でも、夜はまた来る。 そして“ここ”も多分、残っている。

レンは最後に書き込んだ。

また、夜に。

送信。

画面の向こうで、誰かが息をしている。

その事実だけで、 明日もなんとかなる気がした。

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