第9章 触れてはいけない距離
夜は、静かに崩れることがある。
予兆はなかった。
ユイのメールは、いつも通り短かった。
いる。
レンも返す。
いる。
だが、その数分後。
今日、会った。
その一文が届いた。
レンの指が止まる。
誰と?
既読。
少し間。
昔のやつ。
レンの喉が乾く。
昨日まで、電話だけだった。
今日は“会った”。
何された?
震える指で打つ。
返信。
何も。
偶然。
でも、住所知ってた。
レンの背中が冷える。
住所。
それは、線を越えている。
レンは、思わずAIを開く。
「知人に住所を知られた場合の対処」
表示される冷静な手順。
・記録を残す ・警察へ相談 ・引っ越しも検討
レンは閉じる。
理屈より先に、怒りが湧いた。
それ、偶然じゃないだろ。
送信。
既読。
ユイの返信は、いつもより遅い。
分かってる。
でも大丈夫。
大丈夫、という言葉が軽い。
レンは打つ。
大丈夫じゃないだろ。
送信してから、自分の声が強いことに気づく。
レンは、滅多に怒らない。
怒るより先に、引く。
でも今は、引けない。
ユイから、短い文。
レン。
落ち着け。
レンは、息を荒くする。
部屋の空気が重い。
震えが強くなる。
俺は落ち着いてる。
嘘だ。
震えている。
ユイは続ける。
私の問題。
レン関係ない。
その一文が、レンの胸を刺す。
関係ない。
それは、距離を戻す言葉だ。
レンは、キーボードの上で手を止める。
何を言えばいい。
守りたい。
でも、守れない。
レンは、震える指で打つ。
関係ある。
ユイが怖いなら、関係ある。
送信。
数秒の沈黙。
そして。
怖くない。
ユイの文は短い。
だが、行間が強張っている。
レンは、目を閉じる。
嘘だろ。
送信。
既読。
返信が来ない。
一分。 三分。
レンは、またAIを開く。
「相手が強がっている場合の対応」
表示される文章。
・相手の感情を否定しない ・共感を示す ・支援を提案する
レンは、画面を閉じる。
整えられた言葉は、今はいらない。
レンは、ただ打つ。
ユイが怖くなくても。
俺が怖い。
送信。
その一文は、レン自身も驚くほど正直だった。
返信が来るまで、時間がかかった。
何で?
レンは、胸の奥を探る。
いなくなるのが。
怖い。
送信。
それは依存かもしれない。
でも、嘘じゃない。
ユイから、すぐに返る。
レン。
いなくならない。
少し間。
でもさ。
これ以上、巻き込めない。
レンの視界が揺れる。
巻き込めない。
距離を置く言葉だ。
何言ってる。
送信。
ユイは、続ける。
住所知ってるってことは。
どこまで知ってるか分からない。
レンのことも、探られるかも。
レンは、凍る。
自分の存在が、ユイの過去と交差する可能性。
考えたことがなかった。
俺は大丈夫。
何もしてない。
それは正論だ。
だが、正しさは守りにならない。
ユイの返信は、短い。
だから。
距離置こう。
レンの呼吸が止まる。
距離。
それは、夜が消える可能性。
どのくらい?
打つ指が震える。
少し。
連絡、減らす。
レンの頭が白くなる。
部屋の空気が遠くなる。
掲示板炎上。 着信。 住所。
全部が繋がる。
レンは、怒りとも恐怖ともつかない感情を抱く。
俺がいる意味、なくなる。
送信。
既読。
ユイの返信は、少し長かった。
なくならない。
でも、私の過去でレンが怖い思いするの嫌。
レンは、キーボードを見つめる。
自分は守れない。
ユイも守れない。
でも、離れたくない。
レンは、震える指で打つ。
距離置くなら。
会おう。
送信した瞬間、自分で驚く。
会う。
それは、今まで避けてきた言葉。
ユイから、すぐに返る。
無理。
即答。
何で。
怖いから。
その一文に、レンは静かになる。
怖いのは、自分だけじゃない。
ユイも、怖い。
会えば、現実になる。
現実は壊れやすい。
レンは、ゆっくり打つ。
じゃあ会わない。
でも離れない。
送信。
少し間。
レン。
それ、ずるい。
レンは苦く笑う。
そうかも。
でも本音。
既読。
沈黙。
やがて。
少しだけ。
連絡減らす。
でも消えない。
レンは、胸を押さえる。
完全な断絶ではない。
でも、揺れている。
分かった。
いるから。
送信。
ユイの最後の返信。
いるのは知ってる。
それは、信頼でもあり、距離でもある。
夜は続く。
だが、色は濃くなっている。
塗り替えられたはずの夜が、 再び揺らぎ始める。
二人はまだ会わない。
でも、初めて“会う”という言葉を使った。
それだけで、境界線は変わった。




