トコヨノクニ――消えた手紙
遼に誘われて軽音同好会に入ることに決めた報告をすると、やはり母と兄は予想通りの反応を示した。
「無理してない?」
「賢ちゃんに全く同じこと言われたよ。やっぱり姉弟って似るものなんだね」
皮肉交じりに返した侑子に、依子は黙る。
「心配してるんだよ」
朔也が控えめに挟んだ言葉にも、侑子は「大丈夫だから」とすぐに返した。
「やりたいって本当に思ってるの。それから私、ギターもやりたい」
「ギター」
妹の口から予想外の言葉ばかりが予想外の調子で飛び出してくるので、朔也は連日困惑しっぱなしだった。内気で臆病だった妹が、こんな風になったら良いのにと思い描いた姿に近くなっていることは、素直に喜ぶべきなのかも知れない。しかし朔也はその変化の急激さについていけていなかった。それは母も同じようだ。
「ギターっていくらくらいするんだろう。私の貯金で足りると思う?」
お年玉や毎月のお小遣いをコツコツ貯めていたはずで、かき集めればなんとかなりそうな気がする。
考える娘の隣で依子は困惑顔を正せないまま、「そうねぇ……」と相槌だけはなんとか取ろうとしているようだった。
「父さんが買ってやる。軽音ってことはエレキか? アコギも両方買ってやろう。侑子が元気に帰ってきたお祝いだ」
それまで黙々と目の前の食事を注視していたはずの父――幹夫が突如声を出した。三人の視線が一斉に集まったが、彼が気にする素振りはない。
「もう父さんは飛行機に乗っちゃうけど、お金は母さんに預けておくから。心配しなくていい。遼くんはギター詳しいんだろ? 一緒に選んでもらえばいいさ」
「ありがとう」
驚き顔のまま礼を口にする侑子に、幹夫はしたり顔だ。娘の反応は始めから予想済みだったのだろう。
「そうだ――伝え忘れていたけど、侑子の部屋にノートパソコン置いてきたんだ。父さんのお下がりだけど、まだまだ使えるからね。設定は大体済ませているから、後で朔也に見てもらって。テレビ通話でいつでもこっちに繋がるからな」
そしてグラスに残った酒を一気にあおると、こう締めくくったのだった。
「話したいことがあれば、いつでも連絡してきなさい。時差なんて気にしなくていい」
幹夫は明確に言葉にしなかったが、侑子には分かった気がした。父が自分の話すことを、何でも受け入れる準備ができていることを。たとえそれが、魔法やヒノクニに関する話だったとしても。
◆◆◆
父を空港まで送り自宅に帰って来た頃には、すっかり空は暗くなっていた。しかし家の周囲の通りは明るく、人通りも多かった。隣に建ったマンションの影響なのだろう。街灯も新しいものに付け替えられた上に、エントランスの灯りの存在感が大きい。
「侑子、先にお風呂入っちゃったら?」
「そうする」
母に促されて、玄関から自室に直行した。そして着替えを揃えようとクローゼットを開けた侑子は、ふと屋根裏に繋がる点検口の方へと目を向けた。
既に衣類に隠されて入り口は見えなくなっていたが、侑子は隙間に身体を滑り込ませた。取っ手を引っ張って、蓋を開ける。スマートフォンのライトを内部に向けた。
「あ」
小さく声が漏れたことに自分でも気づかずに、気持ちが昂ぶってくるのを感じる。背伸びして、更に奥を照らして周囲を見回してみた。
――手紙が消えてる……
先日ユウキ宛に書いた、一通の手紙。ジロウの屋敷の住所を書いて、普通郵便の封書料金の切手を貼った。その手紙を侑子はこの場所に入れておいたのだ。チカチカと点滅を繰り返す、ケーブルテレビのアンテナのすぐ隣に。
――ジロウさんの家のあの場所に、繋がっていそうな気がする
侑子は自分の直感に、頼りない僅かな期待を込めたのだった。
◆◆◆
「うちって、ネズミとかいないよね?」
朝食の席で侑子が口にした質問に、依子も朔也も眉をしかめた。
「まさか!」
「見たのか?」
侑子は慌てて首を振る。
「ううん。違うの。この間屋根裏を初めて見たから。もしも動物が住み着くとしたら、ああいう場所にいるのかなぁと思っただけ」
胸をなでおろす母親の隣で、侑子は急いでトーストを食べ進めた。冷たいカフェオレで流し込むようにして飲み込むと、椅子から立ち上がる。
「私、そろそろ行くね。愛ちゃん達と待ち合わせしてるんだ」
「気をつけてね」
「いってらっしゃい」
少しだけ心配そうにも聞こえる二人の声に送り出されながら、侑子は玄関のドアを開けた。
――動物が動かしたんじゃないとしたら……あの手紙はどこに消えたのだろう
思い当たる望み通りの予想があたっているかどうか、部屋に戻って確認しようか考えた。しかし外れていた時の落胆を考えると怖いし、そもそもどうやって確認できるものなのか。まずそこが分からない。
待ち合わせの時間までもうあまりなかった。侑子は部屋へ戻ることを諦め、玄関へと向かった。
◆◆◆
新品の白いブラウスに、明るい朝の日差しが降り注ぐ。シミひとつない真っ白な生地が眩しかった。侑子は無意識に目を細めて歩きだす。足元を見れば、灰色のプリーツスカート。今日から新しい学校で、新しいクラスメートたちとの生活が始まるのだった。
この世界へ戻ってきてから一ヶ月と少し。その間に周囲から『別人のように変わった』と何度も驚かれたし、侑子自身でも一年前の自分から変化があったことは認めている。考え方、物事の捉え方――色々な方面で変化があったのは当然だ。異世界で、侑子は確実に生きてきたのだから。
しかしそれでも大本の侑子は侑子のままなのだ。内気で臆病な自分だって、本来の自分であることは間違いない。こういう局面――新しい集団の中に一人飛び込む時には、どうしてもそんな自分が顔を出してくる。
――大丈夫、大丈夫
心の中で呪文のように唱える感覚は、向こうの世界で魔法を出すために念じていた時と似ている。
スカートのポケットを外側がらぎゅっと掴んだ。そこには銀のブレスレットが入っている。
「大丈夫。うまくやる。心配しないで」
言霊の話をユウキにしたことがあった。彼と出会った日だったはずだ。目を細めて優しく笑う、あの日の彼を思い出しながら歩を進めた。足取りは軽くなっていく。それが言霊の力なのか、侑子が念じて出現した魔法の力なのかは、分からない。
◆◆◆
「記憶障害?」
「そう。失踪していた間の記憶がなくなってる……そういうことにしておいてくれないかな」
愛佳と遼、蓮の三兄弟と通学路で合流した侑子は、従兄弟たちに口裏合わせを頼んでいた。
「きっとすぐに知れ渡ると思うんだよね。私が一年間失踪していたこと。前の学校からこっちに編入してきたってことも」
転校したと言っても、小さな市の中の隣の学区なのだ。人の噂が広がる速さは侮れない。
「さすがに同級生に向かって魔法とか並行世界とか……今までと同じ様に説明したら、友達もできないかなと思って」
編入早々変人扱いされるのは流石にゴメンだった。侑子の意図するところを理解したのだろう。三兄弟は頷いた。
「分かった。大丈夫だよ、何があっても私がゆうちゃんのこと守るから!」
侑子の腕をぐっと抱きしめながら愛佳は宣言する。その後ろで蓮は「転ぶなよ」と注意しながら、侑子に言葉をかける。
「変な絡み方してきそうな奴はいないから、きっと大丈夫だと思うよ。ゆうちゃんのいた中学よりも生徒数も少ないし、アットホームな空気」
「仲良しクラスなの!」
「そっか。ありがとう。安心してきた」
無意識に力が入っていたようだ。微笑むと頬の辺りが僅かに突っ張る感覚があった。
「そういえば軽音に入ってるやつ、お前たちのクラスにも一人いたよな」
頷いていただけだった遼が思い出したと声を上げた。愛佳と蓮も「あぁ」と相槌を打つ。思い当たる人物がいるのだろう。
「ギターやりたい! って入学式当日に入ってきてさ、練習も今のところ皆勤だし良い奴だよ。野本裕貴って名前だ」
「そうなんだ。野本くんね。クラスで会えたら、挨拶しておくよ」
ユウキちゃんと同じ名前だな、と侑子はぼんやり考えた。指先はスカートの上から、無意識に鱗の形を探していた。




