託されたこと
リリーは心地よい微睡みの中にいた。大きなクッションの上に横たわり、顔を避けた頭部だけが丸ごと宙に浮いた湯の塊の中に封じ込められていた。ふよふよと宙に漂うその湯は薬湯で、透き通る薄緑色をしている。まるでペリドットをそのまま液状に溶かしたような美しい輝きを帯びており、リリーの長い髪はそんな薬湯の中を黄金の海藻のように揺蕩っていた。
「そろそろ終わるよ」
微睡みの渦の中から意識を手繰り寄せるのは一苦労だ。リリーはためらいのない大欠伸をした。
頭のすぐ隣から笑い声が聞こえる。
「また寝ちゃったぁ。いびきかいてなかった?」
「今日は大丈夫だったね」
「よかったー」
薬湯の塊はみるみる形を変え、傍らの排水口の中へと吸い込まれて行った。濡れた髪と頭の重みを感じるのとほぼ同時に、リリーの頭は側に立っていた人物の手で支えられる。そのままふわりと身体が浮上して、重力を感じないままにバーバーチェアまで運ばれていた。
「お疲れさまでした」
美容師のミカとは、もう長い付き合いだった。元々リリーと彼女は学生時代の同級生で、実家の美容院を彼女が継ぐ前からリリーの髪の手入れをしてくれている。
タオルを取った濡れ髪は、一瞬で水分が取り払われ、柔らかな温風とともに、はらりと頬にかかる。元々のクリーム色の髪束の一部に、淡い草色が混ざっていた。ミントの香りが鼻孔をくすぐる。
「いい感じ! 絶妙な色加減」
鏡の向こうの新しいヘアカラーを施された自分に向かって、満面の笑みをリリーは浮かべた。
「うん。イメージ通りに色が入ってる。いつもありがとうね。実験体になってくれて」
長い髪を一束手に取り、入念にチェックしながらミカは頷く。染色とヘアケア、頭皮ケアまで施せる薬湯。それがこの店の売りでもあり、店を受け継いだ彼女の腕の見せどころでもある。
ヒノクニでは、魔法によって自分の好みに髪型や髪色を自在に変える人が多い。しかし複数の色を緻密に染め分けたり色艶を調節する技術を使いこなすことができるのは、専門的な技術を習得した美容師たちだけである。ミカはただヘアカットや髪染めを手掛けるだけではなく、薬草を組み合わせた薬湯開発も行っていた。元々は趣味の一環だったのだが、友人や常連客たちから好評になり、今では店の看板メニューとなっている。今日は新しいレシピの試作に、リリーに協力してもらっていたのだった。
「髪色新しくしたいと思っていたから、丁度よかったの。ありがとう。香りもいいわね」
「季節的にはちょっと合わないけどね。本当はシナモンとか香辛料系の香りか、樹木の香りがいいかなと思ったんだけど。他の店との差別化狙ってみたの。でもやっぱりミントは夏だよね」
「冬にもチョコミント食べたくなるわよ。また試したくなったら、いつでも呼んで。ミカのお店、変身館から近いから仕事前に寄りやすいし」
身支度を整え、時計を確認する。今日のステージまでまだ時間があった。何か差し入れでも買っていこうかと、リリーは思いつく。今日はユウキと侑子も来るはずだ。
「それじゃあ、またね」
店を出て通りに出た。冷たい風が頬を切るようにして吹き抜けていって、ぶるりと身震いする。頭皮がスーッと痺れるような冷たさを感じて、やはりこれからの季節にミントはよしたほうがいいだろうと思い直した。ミカには後ほど連絡しよう。
◆◆◆
コートのフードをかぶって歩き始めると、夕方に差し掛かった商店街の明かりが、ぽつりぽつりと灯り始めた。
そろそろ十一月も半ば。年末年始を祝う、『歳納』と『曙祝』に向けて、街は浮足立つと共に、忙しない雰囲気だ。
家族や友人など親しい人々と共に新しい年を迎えるまでの半月ほどを共に過ごすのが、この国の習わしだ。仕事をしている人は長めの休暇に入る者も多く、普段は居を別にしている友人や、離れた場所に暮らす家族とゆったりと時を過ごす。子供はもちろん、大人たちも一年の締めくくりのこの行事を心待ちにする人は多い。
リリーももれなく、その一人だ。
五年前、両親と兄が失踪するまでは、家族四人と農場で一緒に働いていた従業員とその家族と共に、年末年始を過ごしていた。
土が凍り桑の葉が落葉する十一月から二月下旬までは、農閑期にあたる。一年の中で最も皆がのんびりできる季節でもあった。エイマンの一家が合流する年もあり、毎年とても賑やかに過ごしていたものだ。
――家で誰かを迎える側から、迎えられる側になっちゃったわね
街の喧騒の中、リリーはそんなことを考えて、ふぅと息をついた。
一家離散ともいえる状況に置かれてからは、リリーの年末年始はジロウの屋敷で過ごすことが恒例になったのだ。近所ではあるが、自宅以外の場所で一定期間連続して寝起きすることは、リリーにとって新鮮な経験だった。
――今年は侑子ちゃんもいるのね
賑やかな年末年始になりそうな予感がした。
侑子が来てから、ユウキはどこか曇った部分がなくなったし、ノマもよく笑うようになったように思う。ジロウは変身館の客足が増えたんだとホクホク顔だが、その効果をもたらしたのは、きっと侑子だろう。明確に彼女目当ての客が増えたというわけではないが、侑子が共に歌うようになってから、噴水広場でのユウキの客がライブハウスにも流れてくるようになったのだ。
――ユウキも専属になったし、ステージに立つ時間も増えてきた。これからもっと集客率は上がるわね
歩いているうちに体温も上がり、外気温にも慣れてくる。リリーはフードを脱いで、やや歩調を緩めた。甘い香りが漂う店の並びに入り、何を差し入れにしようかと考え始めた時だった。
――何だろう
喧騒の中から引っかかる音を捉えた気がして、リリーは足を止めた。
夕方の商店街は賑やかだ。明日は休日なので、その前の晩ともなると夜の街に繰り出す大人たちも多い。浮かれて既に羽目を外しそうな気配を孕んだ笑い声が、どこからともなく聞こえてくる。
そんなざわついた声の中、リリーの耳は、思いもよらない人物が自分の名を呼ぶ音を拾った。
「サユリ」
その名を呼ぶ者は、もうこの五年の間、エイマンしか残っていなかった。その彼すら、決まった場面でしか口にしない――日常的にそう彼女を呼んできたのは、決まった人達だけ。五年前までの歳納と曙祝を、共に過ごしてきた人々だけだった。
たまたま同じ名前の別人を誰かが呼んだだけだろうという思いつきも、その声の調子ですぐに打ち消される。
「……お兄ちゃん?」
職業柄、音を聞き分けるのは得意だった。その声を耳にしたのは、かなり久しぶりだったが、忘れることはない。
――家族なのだから
「なんで」
振り返ったリリーは、変わり果てたその人物の容貌に愕然とした。
落ち窪んだ目は、ギラギラと光っていた。先程のリリーのように、外套のフードを目深にかぶっていた。自分と同じ色の瞳と、同じ色の髪。背格好も特徴的な耳の形も、確かに兄だ。しかし見れば見るほど、彼はこんな外見をしていただろうかと、首をかしげたくなる。だがそれ以上考える間もなく、その人物が距離を詰めてきた。
そして次の瞬間、リリーが口を開くより前に、彼女の顔の前で彼は大きく右手を開くと、何かを唱えるように小さく唇を動かした――――ブォンと、耳の側で大きな虫が羽ばたく、重たい音が響いた。リリーは商店街の明かりが一段暗くなったのを感じた。先程まであんなに賑やかだった通りの物音も、くぐもって聞こえる。
「お兄ちゃん?」
眼の前の人物だけが、明確な色を持ってそこに立っていた。
リリーは学生時代に授業で学んだことを思い出す。
――これは、結界の内側だ
空間制御の魔法である。かなり高度で、扱うことが難しい類の魔法のはずだ。兄はこんなものを使えただろうか。
「時間がない。手短に済ます」
その言葉が終わる前に、リリーが左腕に身に着けていた透証に向かって、兄は手を翳し、再び何かを小声で詠唱した。
――呪文?
普通魔法を使う時に呪文を唱えることはないはずだが……リリーがそんなことを思うそばで、兄の唇が動きを止めた。そしてほぼ同時に、リリーの透証が黒ずんだのだった。
驚いた彼女は、小さく叫ぶ。
「何をするの?」
生き物で例えるなら、死んだように見える透証の変化に、リリーは目の前の人物は本当に兄なのかと疑りだした。しかし不思議なことに、先程とは真逆に、今度は見つめれば見つめる程、その人物は兄にしか見えなくなってくるのだった。
「透証の働きを、しばらくの間だけ強制的に停止した。これを使って――」
兄が外套の内ポケットから取り出したのは、小さな護符だった。
「ある人から授与してもらったんだ。今日お前と会って、話をするために。結界を張って、透証の動きを止める魔法を一度だけ使える護符だ」
「何のためにこんなことを」
「今俺達がこうやって会ってるところを見られてはいけないし、話していることを聞かれてはいけないんだ」
「誰に?」
要領を得ない兄の言葉に、若干苛立ちながらリリーは詰め寄った。訊ねたいことは、山程あった。
「お父さんとお母さんは? 今どうしてるの? 三人ともどこに行ってたの? ねえ⁉︎」
自然と声は抑えて小さくなったが、それが兄の先程の言葉を受けてなのか、それとも無意識のうちに感情的にそうさせているのか、リリー本人にも分からなかった。
そんな妹の様子を見て、兄の方は表情を歪める。
「すまない……本当にすまないと思ってる。でもあまり説明してやれない。父さんと母さんは元気だ。それは大丈夫。俺もこの通り。今はまだ……四人で会うことはできないけど」
「なんで……?」
両腕に掴みかかった妹の腕に、優しく支えるように自らの手を添えると、再び兄は口を開いた。
「時間は少ししかない。今は伝えることしかできない。お前に頼みがあるんだ。サユリ」
リリーは言葉を発することができなくなってしまった。
こんな目をした兄から見つめられることが、かつてあっただろうか。歳の近い兄とは、いつも一緒に育ってきた。喧嘩も多かったが、仲の良い兄妹だったと自覚もある。
五年の間に、一体何があったのだろう。こんなに切羽詰まった目をする人だっただろうか。
「家を守ってくれ」
「家?」
「家屋という意味だ。壊れることがないように……災害で最悪壁が倒れても、床が抜けても、どこか戸の一枚だけはきちんと立っているように保持しておいて欲しいんだ。頼む」
予想外の言葉だ。拍子抜けした表情を浮かべるリリーに、重ねるように切実な声音が投げられる。
「……とにかく頼む。建物を守ってくれ。俺も、父さんも母さんも、今はこの土地に戻ってくることはできない。お前に託すしかないんだ」
「何言ってるの? 災害って。お兄ちゃん、どういう意味?」
より詳しい説明を求めるリリーの声に、返答はなかった。
少しだけ済まなそうに、許しを請うような哀れな表情を妹に向けた後、再び口を開いた男から聞かされた言葉は、リリーを更に愕然とさせるものだった。
「今ここで俺に会ったことは、誰にも言うな」
「待って!」
リリーの小さな叫びは、届かなかったのだろうか。
彼女の口から確かに飛び出したその言葉は、音になる前にこの世から消滅したのだと、リリーには感じられた。
再び虫の羽音が聞こえたかと思うと、リリーは一人、賑やかで明るい商店街の真ん中に立っていたのだった。
結界が熔けたのだと理解した時には、兄の姿を視界に捉えることはできなくなっていた。




