引力
曲芸はユウキの舞と共に始まった。
音源を流すためのスピーカーも、電源代わりの魔石も今日は持ってきていない。舞は広場に聞こえる生活音の中でただ繰り広げられる。こんな試みも初めてで、侑子はもちろん、常連客達も目を瞠るようにして彼の動きを追い続けた。
衣擦れの音と、ユウキの手足が風を切る音。硝子の鱗がぶつかる音。時折深く呼吸する息遣いが聞こえた。その音の一つ一つがどこか生々しく、目に見えないはずなのに熱を感じさせた。
彼の身体が生み出す音は、不可解な引力を持っている。目を瞠る軽業的な動きではないはずなのに、指先の動き一つでさえ意味を持ったように迷いのない線を描くのだ。夢幻のようだった以前の舞の印象を、肉体的なものへと置き換えていく。
「あら? ここでいつも歌ってるお兄さんよね?」
舞に見覚えがあったのだろうか。通りかかった子供を連れた母親が足を止めた。彼女に手を引かれて歩いていた少女が、侑子の足元でリズムを取って体を揺するあみぐるみに、はしゃいだ声を上げていた。
「動物さんが踊ってる!」
無邪気な笑い声は遮られることなく通りに響き、通行人達の視線を集め、そのままユウキに注がれていった。いつしかいつもと変わらないほどの群衆が、その広場に集まっている。
舞の終わりを告げる明確な合図はなかったが、ユウキが動きを止めて静かに頭を垂れると、自然と拍手が沸き起こっていった。
◆◆◆
侑子はすっかり今日の目的を忘れて、観客の一人となっていた。そんな彼女を正気に戻したのは、肩に乗せたウサギのあみぐるみだった。つんつん頬をつつかれ、はっとして拍手していた両手を止める――ユウキの緑の瞳が、まっすぐ侑子へと注がれていた。彼はギターを肩にかけ、既に構えている。頷いて、左手を侑子の方へ差し出した。
観客たちの視線が自分へと集まることを、侑子は嫌でも意識した。しかし緊張を感じたのは僅かな間だった。肩にはあみぐるみのぬくもりがあったし、今日を迎えるまでに大勢の前で歌う経験を得られたことが大きかったのだ。そして今日は侑子よりも、ユウキの方が心理的負担が大きいことも承知済みだ。ここで自分まで弱い気持ちでいるべきではないと、気持ちを固めてきたのだ。
――今日は私がユウキちゃんを支える番
一歩彼の方へ進めば、その手に自分の手を重ねることができた。そのまま並んで隣に立つと、二人は観客たちに深く頭を下げた。
合図とばかりに侑子の肩からあみぐるみが飛び降り、他のあみぐるみ達も各々観客たちの間にちらばっていく。
ユウキの指が、弦を弾いた。
二人で歌いはじめたばかりの頃、侑子はただユウキと同じメロディをなぞるように歌うだけだった。それがいつしか歌の中で会話をするように、一つ一つのフレーズを掛け合うような歌い方に変化していった。それはどちらかからの提案ではない。侑子が歌詞を口ずさんだ時に、手本をきかせるように僅かに重なったユウキの歌声が、二人の中でやけに美しく響いたのだ。予想外の場所に正しいパズルのピースが合うような意外さだった。しかしこれ以外ないという確信を、二人は得たのであった。
――ユーコちゃん、気持ちよさそうに歌ってる
隣から聞こえてくる歌声に、緊張の色は混ざっていない。ユウキは歌に集中する片隅で、改めて侑子に感心していた。少し前まであんなに歌うことを躊躇っていた少女はもうどこにもいない。謝恩会のステージの上ですら、初めての大勢の前での歌だというのに、第一声から少しも声が震えていなかったのだ。内気そうだと思っていたが、そんな風に見えるのは彼女のほんの外側の、薄い表皮の部分だけなのかもしれない。
当たり前だが、ユウキの曲は自分の個性的な声の出し方に合うように作ったものだった。低音から突然高音へ上がったかと思うと、そのすぐ直後に再び低い音が連続したり、その逆を繰り返したりする。侑子が初めて彼の歌を聞いた時、『目を瞑って聞いたら、複数の人が代わる代わる歌っているように聞こえる』という感想を持ったのだが、それは侑子以外でも同様に受け取る印象だった。変身館でのユウキの歌の評判は上々だが、『まるで腹話術師が歌っているようだ』と不気味がる人もいた。その表現もあながち間違ってはいないだろう。それはユウキが才を使わずに歌おうとする過程で、自然と得た歌い方なのだ。地声だけで他人の声に聞こえてしまうほどの音域を生み出せるようになっていたのだ。
そんな彼の作った曲は、侑子が一緒に歌うには都合が良かった。高音がまとまったフレーズを侑子が歌い、低音のまとまりをユウキが歌う。高低差が激しく入り乱れる部分は、二人で声をあわせる。ちょっと聞くと、男女二人の混声曲のように聞こえる。しかしユウキだけが歌うパートに切り替わると、彼の個性的な歌声が効果的に光るのだ――聴衆はユウキの歌声に一気に意識を引かれる。
「この人、いつもここで『玉虫色の声』を使う人と、同一人物だよね?」
「今日はあの才は使ってないのか……? よく分からなくなってくるな」
曲数が進み、曲と曲の合間に客たちは囁き合った。表情に困惑が浮かぶ者が多かったが、誰もその場を動こうとはしない。
最後の曲の後半は、ユウキの独唱だ。侑子は顔を隣に向けて静かに見守った。
空の果てに抜けるファルセットが、風を起こしたように感じた。今日のユウキに中性的な外見的特徴は何一つないのに、まるで美しい女神が奏でた歌声のようだった。かと思えば、一拍も間を空けずに、今度は野性味を帯びた低音が呻る。
初めてこの歌い方を耳にする客達が混乱するのも仕方がないだろう。引き込まれれば引き込まれるほど、この歌声に魔法が通っていないことが信じられなくなる。
「ぷぅぷぅ!」
場違いな程に脳天気な音は、あみぐるみが発したものだった。侑子は再びこの可愛らしい造形の不思議な無機物のおかげで、出遅れをせずに済んだのだった。ユウキと同じタイミングで深くお辞儀をすることができた。
賑やかな拍手の渦の中心で、侑子はユウキを見た。彼は何を思っているのかよく分らない表情だ。笑っているけれど、作った笑顔であることが分かる。
――緊張してるのかな
侑子も一緒に歌っていたとはいえ、やはりユウキにとってこの場所で才を使わずに歌うことは、大きな試練だったに違いない。やり遂げたことは確かだ。しかしもしかしたら今の彼の耳に聞こえているのは、観客たちからの拍手ではなく、遠い昔の母親の声なのかもしれない。
「ユウキちゃん」
心配になった侑子は、少し大きめの呼びかけと共に彼の腕を引いてみた。僅かに瞳が揺れて、すぐにその緑の目が侑子を捉えて細くなった。
「……大丈夫?」
今度は小声で。ユウキにしか聞こえないだろう。観客たちの歓談の声が大きくなり、まだ拍手も鳴り終えていなかったのだから。ユウキは「大丈夫」と唇の形をつくって見せてから、ようやく安堵した笑みを浮かべたのだった。
「ユウキちゃん! アンコール!」
先程侑子の着物姿を褒めた常連客の男が、声高に叫んだ。ユウキと侑子が彼に注目すると、その男は再び声を張り上げる。
「ゴンドラの唄! 二人で歌ってよ」
◆◆◆
すっかり夜だった。
侑子は自転車を押すユウキの隣を歩いていた。カゴの中には、あみぐるみたちがぎゅうぎゅうになりながら納まっている。夜風は肌寒かったが、彼らはとても暖かそうだ。
アンコール分までしっかり歌いきった二人は、客たちに腕を引かれるまま屋台へと出向き、そこで食事を済ませた。楽しい時間だった。
「あの歌は流行るな」
ユウキが言ったのは、ゴンドラの唄のことだろう。屋台でも二人は、何度も歌わされたのだ。
「とてもいい歌だもんね」
「ユウキちゃんの曲だって、いい歌だよ」
すかさず返す侑子に、ユウキは笑った。
「けど俺の歌は難しいから、誰でも気軽に歌うのには向いてないよ。だからまた歌いに来ないと」
その言葉に、侑子はほっとする。安堵で胸が暖かくなった。ユウキはちゃんと乗り越えられたのだ。暗くてよく見えなかったが、きっと彼は穏やかな顔をしているはずだ。
「良かった……私ちゃんと、ユウキちゃんの役に立てたよね」
どちらともなく、足が止まった。
あみぐるみたちは眠っているのだろうか。瞼がないので、よく分からなかったが、鳴き声は聞こえなかった。
「夢を見なくなったから、本当に私はユウキちゃんにとってキーパーソンなのか、最近実感が薄くなってたんだ……それ以前から確信があったわけでもないけど……だけど今日ユウキちゃんが自分の声だけで歌い切れたのは、一つの証明になるのかなって思ったの」
ユウキの手が伸びてきて、侑子の頭を上から覆った。軽く撫でるような動きをした後、その手はそのまま黒髪に優しく触れるようにして止まる。どう言葉を繰り出そうか、考えあぐねている沈黙にも思えたし、そのまま何も話そうとしていないようにも思えた。しかし結局、彼は口を開いたのだった。
「そんな風に思わなくても」
やはり言葉を考えていたようだった。再び押し黙ると、今度は眉根を下げた表情と共に話しはじめた。
「ごめん。夢の記憶の共有の話、ユーコちゃんには重荷になっていたんだね」
「違うよ。別にプレッシャーに感じてたとかじゃなくて」
侑子は慌てて声を滑り込ませる。
「ただユウキちゃんのために力になれるなら、絶対なりたいって思っていただけなの」
見上げると、まだ心配そうな瞳のままのユウキが目に入って、侑子は力説するようにぎゅっと拳を握った。
「それが一緒に歌うことで叶うなら、すごくいいなって思ったんだよ。歌うこと、やっぱり大好きって思うし。頑なにならずに、もっと歌って良かったんだって気づかせてくれたのは、ユウキちゃんだったから。私の方が先に助けてもらってる。それだけじゃなくて、この世界に来た時にケガの手当をしてくれて、住む場所をくれたのもユウキちゃんだった。だからちゃんと恩返ししたかった。それだけなの」
伝わっただろうか。侑子が不安なまま見つめた視線の先で、ふっとユウキが表情を緩めた。広がる笑顔と共に、二人の歩は再び進み始める。
「なら、もう貸し借りはナシってことにしよう」
ユウキが言った。
「これから先俺とユーコちゃんが二人で歌うのは、ただ一緒に歌いたいから。それだけ。いい?」
此方に顔を向けた彼の口元が、明るく弧を描いているのが分かって、侑子は頷く。
「よし。沢山歌えそうだね」
弾むようなその声に呼応したのか、あみぐるみたちが目を覚ましたようだった。静かな帰り道が、途端に陽気な鳴き声に彩られる。二人は可笑しくなって、大きく笑った。




