カレーライス
湯船で睡魔に襲われそうになった侑子が部屋へ戻ると、ノマはベッドメイキングの最中だった。
「ゆっくりご入浴できましたか?」
気にする様子は、思いの外侑子が早く部屋に戻ってきたからだろう。遠慮して手早く済ませたのではないだろうかと思わせただろうか。
「とても気持ちよかったです。あのまま入っていたら、その、眠っちゃいそうで」
ノマはふふふ、と微笑みながら侑子から制服を預かると、ハンガーにかけてくれた。
「お着替えの方はどうですか? 着心地が悪かったら別のものを準備するので、遠慮なく仰ってくださいね」
「いえ、大丈夫です。ちょうどいいです」
侑子は大きく首を振った。ノマの丁重で細やかな心遣いに、つい恐縮してしまう。彼女は侑子よりも随分年上の女性だし、母親程の年格好の人に、こんな風に接せられるのは慣れていなかった。
それに侑子の返答に偽りはなかった。ノマが先ほど侑子にと出現させた服は、薄紅色のワンピースで、Aラインを描きながら下に向かって滑らかなドレープを効かせた、可愛らしいものだった。サイズもぴったりだったし、ワンピースと同時に準備してくれたのであろう下着も、身体に合うもので不快感は皆無だった。
「それは良かった」と嬉しそうに頷くノマは、手際よくお茶を用意してくれる。
「夕食の準備が整いましたら、またお声掛けに参りますので」
おくつろぎくださいね。と添えて、ノマは美しい所作で部屋を出ていった。
◆◆◆
その後呼びに来たノマと共に入ったダイニングルームは、侑子にも馴染みのある、よくある洋間だった。床は白いフローリングで、中央に大きなダイニングテーブルがあり、六脚の椅子に囲まれていた。そんなテーブルの上部には、天井から吊り下げられたペンダイトライトがオレンジ色の光を放っている。そして照明に照らされているのは、出来立てと分かる料理だったのだが――侑子はその料理を目にして、おやと思った。
――カレーライスだ!
楕円形の皿に、白米とカレーが盛り付けてあった。緑色のレタスを添えたポテトサラダの皿まで並んでいる。
この風景だけ切り取ると、魔法の存在するパラレルワールドにいるのが嘘のようだ。よくある日本の一般家庭の食卓だ。
「やぁ、おまたせおまたせ!」
ダイニングテーブルの向こう側。カウンターキッチンの奥から、陽気そうな声と共にひょこっと顔を出したのは、恰幅の良い中年男性だった。
目鼻立ちのはっきりした顔には無精髭がたくわえられ、日焼けした浅黒い肌をしている。黒いバンダナの下には白髪なのか――もしかしたら染めているのかもしれないが、銀色の髪が見える。
「君がユーコちゃんだね? こんばんは。どこでも好きなとこ座って待っててね。もうユウキも来ると思うから」
どうやら侑子のことは既に聞いているようだ。だとするとこの人がこの屋敷の当主で、ユウキを引き取ったという人物なのだろうか。
――なんだか普通のおじさんっぽいな。何て言うか、お金持ちの元地主っていうより、山男みたいな……
我ながら的を得た表現だと思った。今すぐアウトドアに出掛けられそうな格好をしているし、体つきも大きいが、決して肥満体ではなく、がっしりと筋肉がついていそうだ。
ノマの勧めるままに席につくと、そんな山男風の当主は、気の良い顔を向けて笑った。
「ノマさんも座って、座って。もう配膳するものないから」
ノマは「そうですか。では」と笑顔を返して、侑子の斜向かいの席に座った。そしてニコニコと笑みを浮かべたまま、侑子に当主についての説明を加えてくれる。
「あの方はこちらの屋敷の主、コハシ・ジロウ様です。お料理が得意なんですよ。お時間のあるときには、私の分も食事を作って下さるのです」
「そうなんですか。カレー、とっても美味しそうですもんね」
こちらの世界にもカレーライスがあるんですね、と言いそうになって、口をつぐんだ。ユウキがどこまで説明したのか分からないうちは、下手なことを口走らないほうが良いだろう。
「ユーコちゃん、もう来てたんだね。あ、そのワンピース似合ってる。可愛い」
部屋に入ってきたユウキは、侑子の隣の席に着いた。彼も風呂上がりなのだろう。乾ききっていない髪が束になっていた。ふんわりと石鹸の香りが漂ってくる。
「お風呂はどうだった? 使い方とか、分からないことはなかった?」
侑子が魔法を知らない人間であることを思慮したのだろう。気遣わしげに訊いてきたが、侑子は首を振った。
「大丈夫。とっても気持ちよかったよ。ドライヤーがコードレスなのが、ビックリしたかな」
思い返しながら伝えると、ユウキはあぁと心得顔で頷く。
「あれは中に直接魔石が入ってるから、コードで繋がなくてもいいんだよ」
「そう、それも気になったの。なんでコードで繋がっているものもあるのかなって……ほら、この灯りだって」
侑子はテーブルを照らすペンダントライトを指差した。このライトは行灯の炎のように宙に浮かぶことはなく、天井のソケットから電源を引いているようだ。黒いコードが天井まで伸びていた。
「あー、それはね。うん、後で家を案内するついでに教えてあげる」
にっこりとユウキが笑ったところに、ジロウが盆にのせたグラスを持ってきた。
「ははあ。ユーコちゃんがトコヨノクニから来たっていうのは、どうやら本当らしいな」
ニッと歯を見せて笑うジロウは、既に侑子が魔法を知らない事情について知り及んでいる様子だった。穏やかに頷いているノマも同じだろう。
「はい……そうなんです」
静かに肯定して、さてどう言葉を繋げるべきか、侑子が思案し始めたところだった。
「まあ細かいことはいいさ。君だってこっちの細かいことは分からないだろう。とりあえず今は飯だ。飯が食えて言葉が通じれば、そんなに困ったことにはならないさ」
大きく笑って、ジロウは侑子にグラスを持たせた。
「ユーコちゃんとユウキのグラスはジュースだよ。細かいことは分からんが、君は多分まだ未成年だろう?――それでは! 記念すべき新しい友人との出会いに、乾杯!」
侑子が持ち上げたグラスは、三人のグラスと良い力加減でぶつかり合った。カチン!と、涼やかな音が鳴り響いた。




