屋敷
頭のなかで渦巻く思考を取り払ったのは、自転車のブレーキ音だった。キキッと、鋭くて大きな音が辺りに響く。
「そろそろ油ささないとダメだな」
ユウキの独り言が聞こえた。侑子は自転車が止まった場所を確認しようとした。荷台から降りる際、ユウキが手を貸してくれる。
「お待たせ。着いたよ。ようこそ、ユーコちゃん」
◆◆◆
「わぁ……大きな家」
侑子は自転車が止まった家の前で呟いた。
目の前には、立派な黒い門。丈高い生け垣に隠されきれていない、大きな屋敷がそこに鎮座していた。屋根は月夜に輝く瓦葺きで、壁は夜なのではっきりと色を判別できなかったが、複雑な模様が細かく刻まれているようだった。和風建築のように見える地上五階建てのその屋敷は、壁の模様も手伝って、侑子が見たことのない雰囲気を醸し出していた。
「ここの当主は、この辺一帯の元地主なんだよ」
ユウキが手を翳すと、門はゆっくりと左右に割れて二人を通した。
「俺は小さい頃ここに引き取られたんだ。もう何年も暮らしてる」
門を入ってすぐの場所に駐輪場があった。二人を運んだものと同様の、魔石が光る自転車が数台並んでいる。
「当主……さっき話した同居人ね。俺を引き取って育ててくれた人。とても面白い人だよ。信頼できる。安心して大丈夫だから」
にっこり笑って、侑子の手を引いた。
ユウキは機微に聡い。侑子が門に入ってから、身構えたのが分かった。やはり見知らぬ世界で出会う人間に対して、恐怖心は拭いきれないのだろう。安心させようと手を繋ぐと、小さくて柔らかな指が僅かに握り返してきた。
「ただいまー」
ユウキの気安い声が通り抜ける。
大きな引き戸から中に入ると、そこは旅館のような広い玄関だった。平べったい瑪瑙の沓脱石が据えられている。侑子は薄青と白の縞模様のその上で、ユウキと隣り合って靴を脱いだ。(脱いだとき、それまではいていたことを忘れるくらいに、ユウキの作った青い靴が少しの違和感もなく侑子の足を守っていたことを知った。魔法の成す業はすごいと、密かに深く感心した侑子であった。)
玄関の先には、磨き抜かれた長い廊下が続いているようだ。しかし玄関からその先までは、半分程しかはっきりと見えない。薄く細く切った竹を規則正しく配置した、簀虫籠が先を遮っているのだ。
「おかえりなさい」
そんな簀虫籠の向こう側から、着物姿の女性が近づいてきた。細やかな竹の目隠しによって、曖昧な輪郭しか確認できなかったその姿が、近づいてくるにつれはっきりと判別できるようになってくる。
「あら、お友達ですか」
こちらに向けてにっこり微笑むその女性は、侑子の母と同じくらいの年恰好だろうか。色白で細面の人だった。髪色は淡い桃色をしていて(やはりこちらの世界の人達は、世代を問わず派手な色の髪をしているのだなと、侑子は冷静に観察した)、藍と水色のストライプ柄の着物に、水玉模様の帯を締めている。
「こんばんは」
挨拶をしつつ、不思議な色柄の着物だなぁとふと目を奪われた侑子は、ぎょっとした。模様のはずの水玉が、帯の中を行ったり来たりと動いていたのだ。これも魔法か? 桃色の髪には驚かなかったのに、すっかり不意をつかれた。
「この子は俺の大切なお客さん。ちょっと今日は色々あって、すごく疲れてると思うんだ。泊まらせてあげたい。ノマさん、お世話をお願いしていいかな?」
「そうなのですね。お安い御用ですよ。ではお嬢さん、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか? あら、いかがいたしましたか?」
帯を凝視していた侑子に気づいて、不思議そうにノマが声をかけた。
「あ! すみません。模様が動いているのにびっくりして……名前は、五十嵐侑子といいます」
素直に説明する侑子にやや目を丸くしたノマは、自身の帯を見下ろした。特になんの変哲もない品のはずである。
「ノマさんにも後でちゃんと説明するよ。ジロウさんにも。ちょっと訳ありなんだ」
可笑しそうに笑うユウキと小さくため息をつく侑子は、確かに訳ありそうだった。
「分かりました。ではとりあえずユウコ様、お部屋にご案内しますね。こちらへどうぞ」
ノマに誘われるまま歩を進めたが、侑子は少し進んで後方のユウキを振り返った。
「あとで居間で会おう。お腹空いてるでしょ? 一緒に夕飯食べようね」
ユウキは侑子と並ぶ位置まで進み、そのまま三人は緩やかな傾斜を描く階段を上った。
二階の廊下からノマと侑子、そしてユウキの二手に別れ、侑子はある一室へと案内された。
ユウキが歩いていった方向へ顔を向けると、そう離れていない場所から、ドアの開閉音が聞こえた。ユウキの部屋から近いようだった。




