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青い半魚人  作者: 松下真奈
第二章
119/140

トコヨノクニ――ゆらぎ

「五十嵐さんってさ、本気で記憶喪失だと思う?」

「ちょっとミステリアスな雰囲気あるよな」

「家出少女とかだったのかな?」

「てことは、経験済み?」

「オイ」

 

 音量を落とし始めた友人たちの間に、下世話な話題を扱う時特有の雰囲気が漂い始める。裕貴は不機嫌な声でその会話を中断させた。

 昼休み。クラスメート達と漫画の回し読みをしながら雑談しているところだった。数名の女子達と共に廊下を通り過ぎていった侑子を目にした一人が、ふいに彼女のことを話題にし始めたのだった。


「裕貴、仲いいじゃん。詳しいこと聞いてないの」


 質問してくる友人に、あからさまな溜息をついて見せる。


「去年ちゃんと本人が説明してたじゃないか。やめろよそういう話」

「何だよ、ノリ悪いな」


 つまらなそうに返した友人は、それでも悪びれるそぶりはない。話題は別の女子へと移っていく。侑子だけを掘り下げるつもりは当初からなかったのだろう。

 裕貴は友人たちの笑い声を聞きながら、譜面を取り出して眺め始めた。先週配られたばかりの新しい曲だった。侑子から渡されたその譜は手書きで、既存の曲ではないようだった。彼女が書いたのかと驚いたが、どうやらそうではないらしい。 


『友達が作った曲なの。私にも歌ってみないかって楽譜を送ってくれたんだ。とっても良い曲だから、皆でできないかなと思ったんだけど』


 バンドスコアを確認した佐藤が「やってみるか」と頷いて、入ったばかりの一年生を含め全員にパート別の譜面も配られた。週末ずっと練習していたのだ。今日は侑子の歌と合わせてみることになっている。


「早く放課後にならねえかな」


 裕貴は呟いた。待ち遠しくて、午後の授業が気だるかった。



◆◆◆



 歩きながら歌を口ずさむのは、侑子の癖なのだろうか。裕貴は今日も隣を歩く彼女のつぶやくような歌声に耳を傾けていた。

 下校時に侑子と二人で歩くことが、学年が上がってから増えていた。それまで必ず侑子と一緒だった愛佳が、三年の鈴木竜介と二人で帰るようになったからである。


「今日は寄ってく?」


 きりの良いフレーズまで歌いきるのを待ってから、裕貴は訊ねた。ちょうど侑子の家と自宅へ向かう道とで分かれる交差点に差し掛かるところだった。


「いいの? 今日はゲンさんに返すCD持ってきてないんだけど」

「別に構わないよ」


 やや食い気味になってしまった。祖父へのCD返却を目的にしなくても、侑子であればいつでも来てもらって構わないのだ。別れがたいと思う気持ちが全面に出てしまって、流石に裕貴は恥ずかしくなった。

 しかし侑子はちっとも気にしていないようだった。そんな素振りに少々面くらい、そして僅かに落胆するような気持ちを味わった裕貴は、重ねて提案した。


「……それかこのまま、河原に行って歌う?」

「ああ、それいいね。実はちょっと歌い足りなかったんだよね」

「よし」


 交差点で止まっていた裕貴の足は、信号が変わってすぐに勢いづいた。並んだ二人の足は分かれることなく、同じ方向へ向かって進んでいった。



◆◆◆



 夏至も近づき、日は長くなっていた。川面を輝かせる陽の光はまだ白色で、その明るさと辺りの草の香りが初夏を感じさせる。

 歌声が真っ直ぐに伸びていった。

侑子の声は曇りがなく、若々しい高さを保ったままでも脆さを感じない。一度捉えた場所に向かって、振れることなく突き抜けていく。


――きれいだな


 リズムを取りながら動く細い指先が目に入って、裕貴は目を細めた。声に聞き入っていたはずの意識が、いつの間にか侑子の横顔を見つめることに集中してしまっている。


「どうだった?」


 歌い終わった侑子がこちらを向いたので、視線同士はすぐにぶつかった。裕貴は目を見開くと、少しだけ目線をずらして「ああ」と言葉になりきらない声を出した。


「良かったよ。良い歌だよね」


 実は終盤は歌に集中せずに、侑子の顔ばかり注視していたとは言えない。


「もっと歌い込みたいな」


 微笑んだ侑子の顔から目を離し難くなる。裕貴はそんな自分の挙動を誤魔化すように、会話を繋ごうとした。


「この曲書いた人って、どんな人なの? ゆうちゃんの友達なんだよね」

「うん」


 裕貴としては何の気なしに口からでた質問だったのだが、侑子は深く思案するような表情を浮かべていた。意外な反応に首をかしげて言葉の続きを待っていると、侑子は裕貴から視線を外して川面の方へ顔を向けた。


「歌うことが大好きな人、かなぁ」


 ようやく出てきた説明にしては平凡な単語だったが、あえてそんな風に表現したようにも聞こえる。侑子の表情が見えないので、裕貴には真意は分からなかった。


「前の学校の友達とか?」

「ううん」

「ギタースクール仲間?」

「ううん」


 煮えきらない侑子の反応に、裕貴の方はその人物に対して興味が湧いてきた。


「……本当はやっぱりゆうちゃんが作った曲だったり」

「まさか!」


 否定して大きな声を出した侑子が笑った。


「こんな曲作れるわけないじゃない。この曲を作った人はね、そうだなあ。とってもカッコいい人だよ」

「男なの?」


 何故か強い衝撃を受けて、開けた口を閉じることを忘れた。侑子はそんな裕貴の様子は気にならないようで、彼の言葉に頷く。


「うん。とても歌が上手でね……あんな風に歌えたらなぁ」


 それ以上を追及することは止めておいたほうが良い気がして、裕貴は黙って相槌を打った。 

 侑子の声が再び音律を刻み始めた。川の向こう岸には誰もいないはずなのに、侑子の視線の先には裕貴の知らない誰かの気配が感じられる。気の所為かもしれないが、そんな言葉で片付けられない熱量が歌声から伝わってくるのだった。


――誰なんだ? 


 胸の奥がざわざわと騒がしい。侑子の歌声はいつだって裕貴を楽しい気分にさせたのに、今は違った。 

 白から少しずつ朱に変わりつつある陽の光は、川面でゆらゆらと絶え間なく揺れている。水は一箇所に留まらずに流れ続けているはずなのに、止まることのないその揺らぎは、裕貴の気持ちを代弁しているかのようだった。

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