トコヨノクニ――書架
学年末テストが迫った、二月中旬。部活動のない放課後の侑子の居場所は、大抵図書館だった。学校と自宅の丁度中間地点に位置している市民図書館は、帰宅途中に立ち寄りやすいのだ。自宅で勉強していると、どうにも気が散る。ギターが目につくし、クローゼットが目に入ると、つい屋根裏を覗き込みたい衝動に駆られてしまう。苦手科目の対策中だと尚更だった。
ちょうどキリのいいところまで問題を解き終えたところだった。隣の席に座る愛佳が、侑子の腕をつついてきた。
「ちょっと休憩しに行こうよ」
小声でかけられた誘いの言葉に、迷いなく頷く。机の上に問題集や筆記用具を置いたまま、二人は自習室を後にした。
◆◆◆
「早くテスト期間終わらないかなぁー」
「まだ始まってすらいないよ」
「タイムスリップできたらいいのにー」
「楽しみなことが待ってるもんね」
からかい口調で侑子は笑った。
建物から出てすぐの自販機横。そこにはいくつかのベンチが並んでいたが、二月の寒空の元、座っているのは侑子たち二人だけだった。
「……緊張するなぁ」
マフラーに顔半分を埋めたまま、愛佳が呟いた。そんな従姉妹の姿を侑子は微笑ましく思うのだった。
「鈴木先輩も、きっと楽しみにしてるよ」
顔を上げた愛佳の顔は赤らんでいたが、それは寒さのせいではないだろう。
数日前のバレンタインデー。愛佳は同好会で同じくベース担当の竜介に、チョコレートを渡したのだ。そして一ヶ月後のお返しを前倒しにして、テスト期間が終わったら映画を観に行く約束を取り付けたのだった。
「寒いね。そろそろ中に戻ろうよ」
愛佳を促して再び館内に入った侑子だったが、再び苦手科目の問題集に挑む気持ちは萎えてくる。
並ぶ書架の列の間を移動するうちに、遂に気持ちが潰えて侑子は足を止めた。
「先に戻ってて。ちょっと本見てくる」
◆◆◆
何となく足を踏み入れたのは、和歌に関する本が並ぶ書架の間だった。侑子は『小倉百人一首』の文字を見つけて、目についた一冊を棚から引き出した。古い本にありがちな、インクと埃が馴染んだような香りが広がる。
大体の見当をつけながらページを遡っていく。予想通り、その本の前半部分に侑子の目当ての歌が解説されていた。
――天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
印刷されたその歌を示す文字列を、そっと指でなぞる。
――大空を仰ぎ見れば、月が見える。あの月は故郷の三笠山で見た月と、同じ月なのだな……
改めて現代語訳を読んでみれば、本当にあの時の自分と同じ心境を謳ったものだと思い知る。侑子はヒノクニで初めて魔法を使えるようになった日の出来事を思い返していた。
――もしここでこの歌を声に出して謳ったとしても、あの時のように突風は起こらないんだろうな
『この国に古くから存在する歌には精霊が宿っていると言われていて、声に出して唱えるとその精霊が喜ぶと伝えられているんだ』
ユウキが話した和歌のまじないについての説明が耳に蘇った。
――こっちの世界でも、和歌に精霊は宿っているのかな
そうだったらいいのに。言霊という言葉は存在しているのだから、可能性はゼロではないと考えたかった。
侑子は手に持った本を閉じて腕に抱えると、更に書架から数冊の本を抜き取っていった。
◆◆◆
「ゆうちゃん、何やってるの?」
戻ってこない従姉妹を探していた愛佳は、閲覧椅子に座って前かがみに本に齧り付いている侑子を発見した。
「ごめん。すっかりさぼっちゃった」
時刻を確認すれば、大分時間が経っていた。そろそろ帰らねばいけない。
「これ借りてくるね」
何冊かを書架に戻して、侑子は足早に貸出機へと向かっていった。そんな背中を、愛佳は心配そうな表情で見送った。
――ゆうちゃんはやっぱり、変わっちゃった
時折愛佳の知らない表情を浮かべる侑子を、幾度となく目にしてきた。昨年の七月二十日――彼女が突然帰ってきた日からである。
ギターを弾いている時や歌っている時はもちろん、たった今閲覧椅子の上で本を凝視していた表情も、愛佳がよく知っている以前の従姉妹の顔ではなかった。
◆◆◆
「さっき、泣きそうな顔してなかった?」
図書館から出たところで、愛佳は思い切って訊ねてみた。
今までの侑子から見たことのない表情や言動が飛び出す度に、その都度愛佳は極力見守るようにしてきた。どんな侑子であっても大好きな従姉妹であることに変わりはない。本質的な部分では間違いなく変わってない。そう確信していたからだ。しかし、あんな風に辛そうな表情をしていたら、知らん顔はできない。
辺りはすっかり暗くなっていた。街灯に照らされて、侑子の瞳が揺れた。
「……おまじないを、試そうと思って」
歩き始めた侑子の口から、ヒノクニにおける歌に宿る精霊の話が語られた。それは愛佳がまだ聞いたことのない話だった。
「辛いの」
点滅する歩行者信号が見えて、二人は足を止めた。
「会いたいけど、絶対叶わないだろうなって分かるから」
目的語を省略された言葉だったが、愛佳は黙って頷いた。
「……たまにとても悲しくなるの。だからせめて、神頼み……精霊頼みで。夢の中だけでも構わないから、会わせてもらえないかって思ったの」
「ゆうちゃんの気持ちと同じ気持ちを歌った和歌を探してたの?」
「そういうこと。おまじない……普通に考えたら気休めでしかないのかも知れないけど。でも、叶う可能性も捨てきれないんだ。ありえないこと、実際に起こってるんだし――手紙は届くんだから」
横断歩道を渡る二人の足取りは、ゆっくりだった。
隣を見ると、前を見る侑子の横顔が目に入る。彼女が視線の先に捉えるものが、いつもの帰り道ではない気がして、愛佳は思わず侑子の手を握った。手袋越しでも侑子の手の冷たさが伝わってきた。
「あるよ。きっとある。ゆうちゃんと同じ気持ちの歌」
少しでもその表情を崩したくて、愛佳はわざと少し大きな声を出したのだった。
「きっと叶うよ」




