《過去の話》ヒノクニ――三十年前の出会い
シグラはごく普通の家庭に生まれ育った。
両親は共に教師で、物心ついた頃から沢山の本に囲まれた環境に身を置いていた。いつでも手の届くところに本があったし、両親は彼女との会話を楽しんでくれる大人だった。疑問に感じたことは、いつだって誰かが答えを教えてくれた上に、自力で調べる手段も常に近くにあった。
シグラの知識欲は常に満たされていたのだ
――ただ一つの事を除けば
◆◆◆
――完全に孤立してしまった
気づくのが遅かったのは、夢中になると他人の顔色や反応を一切気にしなくなってしまう、彼女の悪い癖が原因だ。
――透明な膜
あらゆるところに存在している膜。
私達の身体さえ覆い包んでいる膜。
私達の安全を守ってくれている膜。
――その存在を教えてあげただけだ
そう、そのつもりだった。純粋に親切心だったのだ。このありがたみを誰かと共有したかっただけなのだ。
なのにいつの間にか、頭のおかしい女として認識されてしまっていた。ただ挨拶をしようとしただけでも、同僚達から避けられるようになってしまった。
流石に居心地の悪さを感じるようになって、転職の二文字が頭をよぎるようになった頃。
「僕はあなたの話を信じますよ」
そんな風に声を掛けてきた人間がいたのだった。
◆◆◆
その男の名は、ミウネ・ブンノウといった。
シグラが当時勤めていた会社のオフィスの近くに、空彩党所有の研究施設があった。彼はそこに所属する研究員だった。スカイブルーの瞳が印象的な線の細い男で、二十代半ばだろうか。シグラとあまり変わらない年齢だろうと思われた。
「私はあなたの話を信じますよ」
初めて声を掛けられたのは、昼休憩中のカフェテラスだった。周辺のオフィスで働く人々で賑わうその場所で、一人で黙々と食事をしていた彼女の隣に、何気ない顔で座ってきたのだ。
最初は誰かと人違いされたのかと思った。しかし何の話をしているのか、ブンノウの意図するところが分かったシグラは、大いに驚いた。
「なぜ? なぜ信じられるんですか?」
「そんなに驚かれるとは思わなかった。あなたはいつでも、周囲の人に熱心に説明していたではありませんか。透明な膜のことを」
笑った顔はまるで少年のようだった。背丈と身なりに不釣り合いな程の無邪気な笑顔に、彼の言葉に裏などないのだと分かった。
「何度もあなたの説明を耳にしていましたから、膜の概要はすっかり頭に入っています。あなたには見えるのでしょう? 私の身体も膜に覆われているのですよね?」
これっぽっちも疑う様子は見られない。滑るように紡がれる彼の言葉に圧倒されながらも、シグラは頷いた――意識を少し集中させればすぐに見える。ブンノウの身体を繭のように覆う、透明な膜は確かに存在している。
「稀有な才の持ち主であるあなたに、私の研究への協力を願いたい」
「才?」
「人には見えないはずの膜を見る力、それを才と言わずに何と言いましょう。私にはあなたの言葉を信じるだけの理由がある――この場所で私達が出会えたのは偶然であり、そしてきっと必然でしょう……あなたが説明してきた『膜』の存在を裏付ける証言をしている人物がいるのですよ。彼は既に私の研究を手伝ってくれています。あなたにも是非、彼に会って頂きたい」
この瞬間から、シグラの目はブンノウしか見えなくなっていた。今まで家族ですら信じてくれなかったシグラの言葉を、少しも疑うこと無く受け入れてしまった目の前の男。
白衣に身を包んだ人物は、シグラにとって研究者でも人間の男でもなく、絶対的で唯一の指標となったのだった。




