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魔王様のコンプラ改革 ~元ブラックバイトの勇者と、人情派魔王が送る、異世界改革譚~

作者: 小鳥遊ゆう




勇者ハルトは大剣を携え、汚れ切った鎧をまとって王国に凱旋した。その表情にはもはや少年の無邪気さはなく、人々の苦難と世の不条理を知った、どこか達観した風情があった。


その隣には威圧感のある、陰のある大男が立っていた。その大男は全身を漆黒のローブに包み、頭には巨大な角が不気味な影を落としている。その威厳ある佇まいは、ハルトの醸し出す静かな強さと対照的だった。


王国の誰もが、勇者ハルトの凱旋を心待ちにしていた。しかし、まさか彼が身元不明の男を連れて帰ってくるとは、誰も予想していなかった。謁見の間に入った瞬間、静寂が訪れた。


国王は玉座から立ち上がり、ハルトの功績を称えようと口を開いた。


「よくぞ戻った、勇者ハルト!  そして、よくぞ魔王を打ち倒してくれた!  今こそ、この王国に真の平和が訪れるだろう!  ……して、その隣の男は誰じゃ?」


国王は、ハルトに問いかけた。ハルトは、一呼吸おいてから、静かに答える。


「このお方は……魔王様です」


場がざわつく。貴族たちは顔を見合わせ、その顔は驚愕で引きつっている。騎士たちは一斉に剣の柄に手をかけた。大男はそのざわめきを意にも介さず、優雅な動作で貴族風の礼をしてみせた。


「初めまして、国王陛下。私は魔王と申します」


言葉の意味を理解するのに、わずかな時間を要した。彼の脳裏に浮かんだのは、長年にわたる魔王軍との熾烈な戦い、そして何よりも自分たちの受けた苦労だ。その全てが脳裏を駆け巡り理解するとともに、その顔はみるみるうちに醜く歪み、憤怒の表情で叫んだ。


「な、何だと!  魔王を討伐せずに連れてきただと!  騎士団長、捕らえよ!  魔王と、この裏切り者を!」


その命令に騎士団長は魔法の盾を構え、数人の騎士と共に通者ハルトと魔王を囲み、剣を突きつけた。


「陛下、ご安心を!  たとえ魔王であろうと、この私が!」


騎士団長が魔王に一歩足を踏み出す。その瞬間、魔王から放たれた威圧的な殺気に、騎士たちは一歩も動けなくなった。ただただ身体が震え、剣を落とす者までいた。


「やめておけ。話をしに来ただけだ」


抗うことが出来た騎士団長だけが、それでもなお、魔王に立ち向かおうとする。 すると、今度はハルトが剣を鞘から抜き、一歩前に出る。


「僕もです。話を聞いて、判断したいことがあるんです」


ハルトは剣を軽く一閃した。その剣の一振りは、騎士団長に当てる間合いにほど遠かった。だが、その一振りは、謁見の間の床に鋭い亀裂を這わせ、その亀裂は魔王と騎士団長の間を走っていく。


騎士団長の動きを止めるには充分だった。 たとえ束になっても敵わないと悟り、騎士団長は、剣を下ろすしかなかった。


国王や重臣たちは顔を青ざめさせ、慌てふためいた。彼らは目の前の光景が、自分たちの知る「勇者」と「魔王」の常識を遥かに超えていることを悟った。国王は、震える声で重臣たちに命じた。


「わかった、わかった! 話し合いに応じよう! その者たちを、応接室へ案内せよ!」




※※※




その、三か月前。


いつもと変わらぬ夜だった。ハルトはスーパーのアルバイトを終え、くたくたになった体をアパートへ引きずっていく。手に持つのは、半額になったショートケーキの箱。


明日は妹の誕生日。母子家庭の貧しい我が家では、豪勢な祝いはできない。でも、せめてこれだけでもと、ハルトと母は妹を喜ばせようとささやかな計画を立てていた。そのことを察した妹は、はしゃぐでもなく、ただ静かに心待ちにしているようだった。


早くに父を亡くしたハルトは、高校生の身ながら母を家計を助けてきた。パートで子ども二人を育てる働きづめの母と、幼い妹。


そんな母と妹の笑顔は、ハルトがどんな理不尽にも耐え抜くための、たった一つの原動力だった。


ハルトのアルバイト先は「ブラック」だった。


店長やバイトリーダーは、ハルトの家庭環境ではアルバイトを簡単に辞められないだろうと、その弱みに付け込んでパワハラやモラハラを繰り返していた。


店長は、ハルトの細かいあらを探しては嫌味を言った。


「ハルト君、まただ。なぜ君はいつも、仕事が遅い上に、こんな初歩的なミスをするんだ? 給料は引いておくからな」


バイトリーダーは、嘲笑しながら嫌がらせを続けた。


「おい、給料泥棒。おまえは人より使えないんだから、休憩時間はいらないよな?」


理不尽な給料カット、そしてハルトにだけ与えられない休憩時間。ハルトは反論しなかった。いや、できなかったのだ。家族のため、ひたすら耐えるしかないと、そう思っていた


アパートを目の前にしたハルトの足元に、突然、奇妙な魔法陣が浮かび上がる。見たこともない文様が光を放ち、地面が震える。驚きと恐怖が襲い、それでもハルトはケーキの箱を落とさないよう、必死に抱きしめた。


ーその時。


「わ、わあああああああ!」


まばゆい光に包まれたハルトは、まるで嵐の夜の木の葉のように、見知らぬ世界へと放り出された。彼の脳裏に明日を心待ちにしている妹の顔と、その隣で微笑む母の顔が、鮮明に浮かび上がっていた。




※※※




気が付くとハルトは、謁見の間に立っていた。そこにはハルトを見定めるように目を細める国王と、傲慢な笑みを浮かべた重臣たちが居並んでいた。


部屋の豪華絢爛な装飾と、彼らが身に着けている豪奢な衣装や装飾品の数々は、ハルトが日夜働いても縁のないものだった。


国王は玉座からハルトを見下ろし、慈悲深い声で語り始めた。


「勇者ハルトよ、遠い異世界から、よくぞこの地に参ってくれた。我らが王国は、長きにわたり魔王と魔族どもの脅威に晒されておる。奴らは()()()()()()()()残虐な獣。夜な夜な村を襲い、男を食らい、女子供を嬲り殺す。我々が守るべき民が、どれほど苦しみ、血を流しているか……」


国王は、傍らの重臣に命じた。


「騎士団長!  例の報告書を、勇者殿に見せよ」


騎士団長は、手に用意していた羊皮紙をハルトに差し出した。そこには魔族によって焼き払われた村の絵と、血に染まった人々の姿が描かれていた。ハルトはその悲惨な光景に、息をのんだ。


「魔王は自らの国を豊かにするため、我らが王国の資源を奪い、民を奴隷として連れ去る非道な存在。勇者ハルトよ、どうか奴らを討伐し、この世界に平和をもたらしてくれぬか」


国王は涙を拭う仕草を見せながら、言葉を続けた。


「もちろんこの大義に報いるため、褒美は惜しまぬ。この剣と鎧は、伝説の鍛冶師が打ちし最高の逸品。魔王討伐の暁には、望むだけの金銀財宝と、望むだけの地位を与えよう。すべては勇敢なる勇者であるお主にふさわしいものだ」


しかしハルトは、与えられた剣と鎧を見て、違和感を覚えた。素人目にも剣は刃こぼれがひどく、鎧は所々錆びついている。とてもではないが伝説の逸品とは思えなかった。だが、国王の言葉を信じるしかなかった。


彼は愛する母と妹の元に帰るため、話に聞いた王国の人々を守るため、言葉を受け入れるしかなかったのだ。


差し出された剣と鎧を手に、ハルトは魔王討伐へと旅立つ決意を固めた。




※※※




幾多の試練を乗り越えたハルトは、ついに魔王城に辿り着いた。


だがそこで彼を待っていたのは、血で血を洗う戦いではなかった。玉座に座る魔王は、静かに問いかけたのだ。


「なぜ、君はここに来たのだ? なぜ、()()()()()()()命を賭けなければならないのだ?」


魔王は、玉座からゆっくりと立ち上がり、ハルトのそばに歩み寄った。その一歩一歩は、威圧的というよりは、むしろ静かで、慈悲深さすら感じさせた。ハルトの肩にそっと手を置くと、その日の旅路を労うように、優しい声で語りかける。


「疲れただろう。まずはゆっくり休んで、食事でもどうだ? 警戒しているようだが、毒を盛ったりはしない。私が先に毒見をしよう」


ハルトは戸惑いながらも、その言葉に嘘はないと直感できた。緊張が少しだけ和らぐ。


ハルトはその誘いに乗った。


しばらくして魔王が用意した簡素なテーブルには、シンプルなスープとパンが並んだ。魔王は先にスープを一口すすり、パンをちぎって口に運んだ。その姿にハルトは警戒を解き、静かに食事を始めた。


そして、少しずつ、正直に語り始めた。


王国から受けた「魔王討伐」という命令。そして、見せかけだけの装備と、自分で稼いで賄わなければならなかった、見知らぬ土地の旅路。


そして腹も膨れ、それと知らずに飲んだ酒が進んだからか、どうしてだかハルトは日本の暮らしのことも話していた。魔王に話しても仕方ないというのに。


とくに、スーパーでのアルバイトについては、こと細かく話した。理不尽な給料カット、休憩時間を与えられないこと、そして「給料泥棒」と罵られる毎日……。


ハルトの話を聞き、魔王の表情はみるみるうちに険しくなっていった。それは深い憐憫と、追憶にも似た感情だった。


「貴様を働かせていた者たちは、貴様に何を与えたのだ? 充分な賃金か? 労働に見合う地位か?」


ハルトは、首を横に振った。


魔王はテーブルを強く叩き、自分のことのように憤りを露わにした。ハルトは魔王の態度に驚き、同時に安堵を覚えた。自分の苦しみをこんなにも真剣に怒ってくれる存在が異世界の魔王であることに、()()()()()()()()()()を覚えるのだった。


魔王は、ハルトが「人」として、いかに搾取されているかを指摘した。まるで自分の心を見透かしているかのように、勇者に対する国王の不誠実さ、元の世界の店長の理不尽さに憤った。そして、その欺瞞に対抗する権利がハルトにはあるのだと諭した。そして魔王は、こうも言った。


「力をつけろ。力がなければ、対話をする席につけない」


記憶の彼方にある亡き父が、その昔に口にしていた言葉と重なることに気づいた。


「国王は、君を使い捨ての駒だと考えている。魔国が侵略をしたことはない。私たちはいつでも対話を望んでいた。だが、国王は聞く耳を持たなかった」


魔王は、国王がハルトに語った「魔王の悪行」が、いかに偽りであるかを語った。


「国王は、魔族が人語を解さぬ残虐な獣だと言ったそうだな? ならば、私は今、何語で話している?」


魔王の言葉に、ハルトはハッとした。


ハルトは魔王を倒すことをやめ、真実を確かめるために、魔王と共に王国へ戻ることを決意した。




※※※




冒頭に、話は戻るー



ハルトと魔王は、国王と重臣たちの前に静かに座した。応接室は絢爛豪華だが、その場の空気は張り詰めていた。国王は震える手で茶器を握りしめ、顔は蒼白だった。


「さて、話を聞いていただこうか、国王陛下。」


魔王が口火を切った。その声は謁見の間の威圧感とは異なり、静かで、冷たかった。


「貴国が長年、魔国に対して行ってきた行為についてだ。まずは、この勇者殿に語られた『魔族の残虐性』について、お話を伺いたい。」


国王は動揺を隠しきれず、しどろもどろに答えた。


「そ、それは…当然のことだ! 魔族どもが我が国の民を襲い、財産を奪う。その報告は、すべて真実だ!」


魔王は冷笑を浮かべた。


「ほう。では、なぜ勇者殿は道中、そのような光景を目にしなかったのだ? むしろ、彼は穏やかに暮らす魔族たちの姿を見たと言っている。」


ハルトも魔王の言葉を肯定する。


「はい、道中で出会った魔族たちは、みんな、穏やかに暮らしていました……魔族が残虐だというのは、ただの偏見だと思います。」


魔王は静かに頷いた。


国王は重臣たちに助けを求めるように視線を送ったが、誰も彼も視線を泳がし合わさない。


「そ、それは、勇者殿が来るまでに、騎士団がすでに討伐を終えたからに決まっておろう!」


魔王は、国王の後ろに立っている騎士団長を、じっと見つめた。視線に威圧された騎士団長は、冷や汗を流しながらも、かろうじて口を開いた。


「は、はい……その通りでございます。魔王軍の残党が、王国領に侵入することが多々ありまして……」


ハルトは静かに剣先で床を突いた。その音は、張り詰めた空気に響き渡った。


「国王様。僕が旅の道中で出会った魔族たちは、みんな人間を恐れていました。彼らは、人間たちが魔族の森に勝手に入り込み、鉱石を掘り尽くし、住処を奪ったと話していました。……そして、魔族の山で産出する鉱石が、なぜか王国に大量にあることも知っています。」


ハルトはまっすぐ国王の目を見つめた。国王は、その理由を知っているから、言葉を発せられない。もちろん魔王も知っているのだ、下手なウソは直ぐに暴かれる。


魔王がさらに続ける。


「そして、最も重大なことだ。貴国は、我々魔族が人語を解さぬ残虐な獣だと言い、侵略の正当性を主張した。

だが、私たちは人語を解すし、理性もある。だからこそ、幾度となく、平和的な対話を求めてきたはずだ。しかし貴様らは常にそれを拒絶し、武力をもって我々の資源を略奪した。

……そして、抵抗しない女子供までも虐殺した。」


「な、何を言うか! 我々は神託に従い、世界を救うために勇者を召喚したのだ。いわば神の御心。魔族は悪、人間は善! それこそが、何にも勝る大義であろうが! 」


思わず発した国王の言葉を聞き、魔王の雰囲気が変わった。応接室に、魔王の怒りの気が満ちた。


「大義だと!? 魔族は悪だと!? 神の御心だと!? そうか。そこまで言うか。人間の長のお主がそう言うのであれば、オレが同じことをしてもよもや文句は言うまいな?」


魔王が立ち上がる。そして、怒気を込め、大声で宣言した。


「お主らを獣として扱い、女子どもを無差別に殺して回り、食料も財産も根こそぎ奪う。もちろん獣相手に言葉を交わす必要もないのだから、停戦交渉も降伏勧告も行わず、最後の一人に至るまで、徹底的に蹂躙する!」


気を失う者、腰を抜かす者、震えて蹲る者、応接室は阿鼻叫喚となった。それほどまでに、魔王の怒りはすさまじかった。


この世界には馴染みのない思想だったが、ハルトには分かった。それは、人が人を差別する行きつく先の、民族浄化という思想だ。血で血を洗う殺し合い、幾世代にも続く憎しみ、一度始まってしまえば後には戻れない道。それが民族浄化。ハルトの世界の悲しい歴史が、それを証明していた。


応接室は、魔王の怒りの言葉が響き渡った後、静寂に包まれた。誰もが言葉を失い、ただ息をひそめている。それは数十秒だったか、数分だったか。その重く、張り詰めた沈黙を破ったのは、ハルトだった。


「国王様。魔王様の怒りはもっともです。国王様のそれは「差別」という危険な考え方です。」


ハルトの声は、静かだったが、その言葉には、これまで彼が経験してきた理不尽な人生の重みが乗っていた。


「僕がいた世界では、歴史の教訓として、何度も過ちを繰り返してきました。相手を獣と見なし、言葉を交わすことをやめ、武力で解決しようとしたのです。そして、差別は悲劇を引き起こしました。全世界規模の大戦です。5000万以上にわたる死者を出し、世界の各都市は破壊され、一瞬で都市が丸ごと蒸発するような武器まで開発され、実際に使われました。この世界で、同じような憎しみの連鎖を始めて欲しくはないのです。」


国王は、ハルトの言葉に顔を上げた。その目は、恐怖と動揺に揺れていた。ハルトの言葉が真実であれば、この国の全員が百回以上、全滅するような大戦ではないか。


「魔族は、言葉を持たない獣なんかじゃない。彼らは僕と同じように、家族を愛し、平穏な暮らしを望んでいる。僕が旅の道中で出会った魔族たちは、みんな、人間を恐れながらも、僕に優しくしてくれました。彼らにとって、人間は、いつか住処を奪いに来る侵略者なのです」


ハルトは、国王の目をまっすぐ見つめた。


「国王様。どうか、再考してください。あなたが今、魔族を差別し続けるならば、歴史はあなたを愚かな王として記憶するでしょう。しかし、もし今、この場で魔族への差別を反省し、謝罪し、平和的な国交を始めることができたなら、あなたはこの世界に平和をもたらした賢王として、後世、名を残すことになります」


ハルトの言葉は、国王の心に深く突き刺さった。彼はハルトの言葉から、彼の世界の歴史と、そこに学ぶべき教訓を感じ取った。そして自らの過ちと、その先に待つ破滅的な未来を悟った。国王は、静かにハルトに頭を下げた。


「…わかった。勇者ハルトよ。そなたの言う通りにしよう」


そして国王は、魔王にも頭を下げた。


「魔王殿。これまで、我々が犯してきた過ちを心より詫びる。どうか、我々と、そして、この世界と、平和な未来を築いてはいただけないだろうか」


魔王は静かにその言葉を受け入れた。


こうして、勇者ハルトと魔王、そして王国の間に、新たな歴史が始まったのだった。




※※※



ハルトと魔王そして国王と重臣たちは、一度休憩を挟むことになった。


国王は、混乱した頭を整理し、今後の対応を協議する必要があった。ハルトと魔王は、静かに連れ立って応接室を後にし、別の部屋へ案内された。


「ここで、少し休んでほしい。すぐに、新たな場所で、話の続きを始めよう」


国王は、緊張した面持ちでそう告げた。その表情は、もはや傲慢さはなく、ただただ困惑と、ほんの少しの恐怖が滲み出ていた。


ハルトと魔王が通されたのは、謁見の間に比べれば、ずっと簡素な会議室だった。豪華な装飾品はなく、中央に大きなテーブルが置かれ、椅子が並んでいるだけだ。だが、その部屋の静寂は、彼らが落ち着いて話をするのに適していた。


しばらくして、国王と宰相、そして数名の文官たちが部屋に入ってきた。テーブルの中央には、メイドが入れた熱い紅茶が湯気を立てている。国王は、椅子に深く腰掛け、疲れたようにため息をついた。


「さて、いろいろと確認したり、決めたりしなければならぬが……まずは、勇者の召喚に関して話がある。」


魔王の声は、謁見の間での怒気とは打って変わり、静かで、冷徹な響きを持っていた。魔王は隣に座るハルトのほうを見て、口元をわずかに緩める。それは、ハルトの意見を尊重しているという証左だった。


「そもそも勇者召喚という行為は、非人道的な行為だ。貴殿らには、その自覚があるのだろうか?」


魔王の言葉に、国王は言葉を失った。


「非人道的などとは……。誠意をもって勇者をお呼びしたわけで……。非人道的と言われても……」


宰相は困惑しつつ、呟いた。


「誘拐とは、相手の承諾を得ずに自由を奪い、連れ去る行為だ。お主らはハルト殿に、この世界に来ることの承諾を得ただろうか? そうではないだろう? 貴殿らは自らの都合で、承諾もなく、他の世界のハルト殿を召喚し、この世界に連れてきたのだ。まさしく、誘拐行為そのものに他ならない。」


魔王の言葉に、ハルトが小さく頷いた。


「さらに、だ。異世界に突然連れてこられたハルト殿に、魔王討伐を強いた。自らの生殺与奪の権を持つ国王の命令だ、ハルト殿が断ることは出来まい。これもまた、まさしく強要という犯罪だ。」


さらに、続ける。


「そして、最も根本的で、最も罪深い問いだ。貴国は、召喚した勇者を元の世界に帰す方法を知っているのか?」


国王や重臣たちは、顔を見合わせ、動揺した様子で互いに耳打ちし始めた。誰もがその答えを知らないことが、その視線からありありと見て取れた。


「も、申し訳ない……そこまで考慮していなかったというのが、正直なところで……」


宰相が、絶望の表情で呟いた。魔王は、その様子を冷たい視線で見つめた。


「やはりな。貴様らは勇者召喚と称して、別の世界の一人の若者の人生を、貴様らの私利私欲のために奪ったのだ。

故郷に帰ることを望む者もいるだろうに、その用意すらしておらぬ。

だから勇者召喚は非人道的と、そう言ったのだ。」


魔王の言葉は、彼らの心に、重く、深く突き刺さった。彼らは、自分たちが犯した罪の重さを痛感させられた。


魔王は、さらに言葉を重ねる。


「勇者に対する処遇についてだ。貴国は、魔王討伐を果たした勇者の処遇を、どうするつもりだったのだ?」


魔王の問いに、国王は口を開かなかった。魔王は、宰相や文官たちの顔を順に見渡した。誰もが顔を俯向け、口を噤んでいる。


「答えにくいか。ならば、聞き方を変えよう。貴殿らは勇者殿に何を褒美として与えるつもりであったのか?」


国王は、用意していた言葉を口にした。


「そ、それは……望むだけの金銀財宝と、望むだけの地位を……」


魔王は、その言葉に鼻で笑った。


「馬鹿げたことを。貴殿らが、この魔王討伐の暁に、我々から奪い取ろうとしたものを忘れたのか? 鉱山資源が豊富な我らが魔族領地の割譲、そして、交易権だ。それらを金品に換算すれば、この国の年間予算の数年分に匹敵する。正当な対価としての褒美を与えるなら、王領の半分を勇者に割譲してもなお足りんわ。」


魔王は、言葉を続けた。


「魔王討伐した勇者が、正当な要求を持ち出したとしたら、貴国はどう対応したであろうな? 『狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵る』という言葉がある。戦が終われば、力を持った家臣は必要なくなり邪魔になるという意味だ。魔王討伐を果たした勇者は、貴国にとって、邪魔な存在に変わっただろう。かと言って、元の世界に返す術もない。民からは英雄視され、その力は一国の軍隊に匹敵する。いつか自分に牙を剥くかもしれない。いつか『真実』を、民衆に語り始めるかもしれない。ゆえに、口封じのために粛清するという選択肢が、王国として最も現実的な『勇者の処遇』であったはずだ」


魔王が言葉を終えると、応接室は再び、重い沈黙に包まれた。だが、今度は誰もが口を閉ざしたままではいなかった。


「……まさか、魔王殿に国の在り方を説かれるとはな」


宰相が、自嘲気味に呟いた。


「では、我々は本当に勇者殿を粛清するつもりであったと?」


一人の文官が、顔を青ざめながら尋ねた。


「粛清という言葉は穏やかではないが……選択肢の一つとして、検討される可能性は高かっただろう」


別の文官が、重い口調で答えた。


「しかし、それではあまりに非道だ! 勇者殿は我らの国のために、魔王と戦おうとしてくれたのだぞ!」


感情的な文官が、拳を握りしめた。


「非道? 我々がしたことは、最初から非道だったのではないか?

故郷から無理やり連れてきて、命を賭けさせ、ろくな褒美も与えず、用済みになれば口封じを図る。その全てが、魔王殿の言う通りではないか!」


その言葉に、部屋の空気が凍り付いた。国王は、重臣たちの議論を黙って聞いていたが、静かに、しかし力強く口を開いた。


「……勇者召喚という非人道的な愚行は、断じて繰り返してはならぬ。ハルト殿、そして歴代の勇者たちに、我々はあまりにも大きな罪を犯した」


国王は、魔王とハルトに深々と頭を下げた。


「……ところで、魔王殿。魔王殿は、勇者を元の世界に帰す方法を、ご存知ないのか?」


国王が、尋ねた。ハルトが、静かにハルトのほうを見た。魔王は、静かに首を横に振った。


「……残念ながら、我々もその方法を知らぬ。異世界召喚の魔法は、あまりにも禁忌すぎて、我々魔国でもその研究は進んでいない。勇者召喚という行いそのものが、もはや我らや貴殿らの力ではどうにもならないのだ」


ハルトは肩を落とし、国王は後悔の表情を浮かべた。彼は、自らの愚かさが一人の若者の人生を永遠に奪ってしまったことを悟ったのだ。







「さて、勇者召喚を封印することは決まった。だが、国王よ。会議はここからが本番だな?」


魔王が、静かに続けた。国王は魔王の言葉に頷いた。


勇者召喚の廃止を決定した後、魔王はコンプライアンス(法令順守)の概念を提唱した。


国王や宰相、文官は魔王の提案するコンプライアンスの概念に深く耳を傾けた。それは、これまでの王国の常識を覆すものだった。




『官僚・騎士団の労働環境改革』




これまでの王国では、官僚や騎士は国王への忠誠を絶対とする、封建的な組織だった。官僚は夜遅くまで机にかじりつき、書類の山に埋もれ、過労で倒れる者も少なくなかった。労働時間という概念はなく、上司からの無理な命令は絶対だった。騎士団もまた、休日という概念は希薄で、いつ魔物の討伐命令が下るかわからない状況に置かれていた。


魔王は、宰相に冷徹な視線を向けた。


「宰相。貴様が言っていた、労働時間を定めれば国の運営が滞る、というのは幻想だ。それは貴様らが、自らの無能を、民の犠牲によって補ってきたに過ぎない。効率の悪い労働は、いずれ破綻する。これは、支配者としての当然の帰結だ」


そして、魔王はハルトに語りかける。


「ハルト殿。貴殿のその論理を、彼らに話してやってくれ」


ハルトは、魔王の言葉に頷き、宰相に優しい口調で語りかけた。


「宰相様。僕がいた世界では、労働時間が明確に定められ、休日の概念が浸透しています。人間には、仕事以外の自己啓発や、家族と過ごす時間が必要なんです。それが、仕事へのモチベーションを高め、より良い成果を生み出します。無理に働かせれば、やがて心身を壊し、パフォーマンスは低下する。長期的には、非効率でしかありません」


魔王は、ハルトの言葉に同意した。


「それに、官僚や騎士の地位は、国王への忠誠心のみで決めるべきではない。成果主義を導入し、明確な評価基準を設けよ。そして、その評価に基づき、昇進や給与を決定するのだ」


これまでの王国では、官僚や騎士の地位は、貴族の家柄や国王への媚びへつらいで決まることが多かった。魔王の提案は、彼らの既得権益を根底から揺るがすものだった。


魔王の言葉を聞いた文官が、顔を赤くして反論した。


「しかし、それでは国の運営が滞ります!  国のため、わが身を削るのが臣下の務めではないのですか!」


別の文官も、その言葉に続いた。


「仰る通りです! 騎士団も、いつ魔物の討伐命令が下るか分からないからこそ、常に備えている。それを名誉と感じ、士気を高めているのです。休日などという概念を導入すれば、国防がおざなりになってしまう!」


「ほう。貴殿らは、その『名誉』とやらで、どれほどの成果を上げてきた?  貴殿らの非効率な労働が、どれほどの過労死を生み、民の生活を苦しめてきたか、考えたことはあるか?」


魔王の冷徹な問いに、文官たちは言葉を失った。


「無駄な労働を『勤勉』と履き違え、無能を『忠誠』で誤魔化してきたに過ぎない。それは、支配者が部下を犠牲にして、自らの責任を放棄してきた結果だ。長期的には、組織の疲弊を招き、いずれ破綻する。それは、この国の歴史が証明している」


ハルトが、静かに口を開いた。


「僕がいた世界では、『やりがい搾取』という言葉があります。国や組織への貢献を美徳として、正当な対価や労働環境を無視する考え方です。それは、働く人々のモチベーションを低下させ、やがて心身を壊してしまいます。騎士団も、同じです。彼らが心身ともに健康でなければ、いざという時に国を守る力は失われてしまいます」


ハルトの言葉に、重臣たちはハッとした表情を浮かべた。彼らは、これまで当たり前だと思っていたことが、実は非効率で、非人道的な行為であったことを、改めて認識させられたのだ。




『民衆の生活環境改革』




魔王は、騎士団の改革と同時に、民の生活環境の改善を提案した。


「我が魔国は、豊かな鉱山資源と優れた土木技術を持っている。魔国の協力のもと、王都の上下水道を整備せよ。不衛生な環境は、病気の蔓延を招き、人々の生産性を奪う」


これまで王都の生活用水は、井戸や川に頼っていた。排泄物もそのまま流され、衛生状態は劣悪だった。魔王の提案は、民の生活の質を劇的に向上させるものだった。


さらに、魔王は教育の重要性を説いた。


「読み書き算盤を学ぶ機会を、すべての子供たちに与えよ。これまでは貴族階級の特権だったが、民に知恵がつけば、自らの手で生活を豊かにすることができる。また、魔国との交易においても、互いの文化を理解することが、真の平和をもたらすだろう」


ハルトも、魔王の言葉に力強く頷いた。


「僕の世界では、義務教育という概念があり、誰もが平等に学ぶ機会を与えられています。それが、社会全体を豊かにし、新しい技術や文化を生み出す土壌となるんです」


国王は魔王とハルトの提案を、最初は戸惑いながらも、次第にその合理性を理解していった。それは、これまでの「支配者」としての思考ではなく、一国の「経営者」としての視点だった。そして国王は、この二人の訪問者が、この王国に新しい時代の夜明けをもたらすことを確信したのだった。




『魔族と人間の相互理解のための取り組み』




『魔族と人間の相互理解のための取り組み』


魔王は労働改革の議題を終えると、最後に、最も根本的な問題に切り込んだ。長年にわたる両種族間の対立と、根深く残る偏見についてだ。


「さて、貴殿らは今後、魔族とどう向き合うつもりだ?  一度和平を結んだところで、互いに根深い不信感を抱いたままでは、いずれまた戦乱が起こるだろう。真の平和を築くためには、互いを理解し、融和しなければならない。」


この言葉に、宰相は眉をひそめた。


「しかし魔王殿、それはあまりに危険では? 我々が魔族を受け入れるというのか? 民は長きにわたり魔族を恐れ、憎んできた。混乱が生じるやもしれぬ。」


魔王は、その言葉に冷徹に答えた。


「恐怖は無知から生まれる。そして無知を放置することは、支配者として怠慢だ。」


ハルトが静かに口を挟んだ。


「僕の世界では、異なる文化や背景を持つ人々が共に暮らしています。最初は戸惑いや偏見もありましたが、交流を通じて互いを理解し、受け入れていきました。たとえば、毎年、両種族が参加する祭りや競技会を開催するのはどうでしょう。互いの食文化や音楽、工芸品に触れれば、きっと新しい発見があるはずです。また、魔国の優れた土木技術と、王国の豊富な労働力を合わせて、共同で新しい街を造るといった事業も可能です。同じ目標に向かって協力すれば、言葉だけでは築けない信頼関係が生まれます。」


魔王は、ハルトの言葉を補足した。


「そして、その交流を円滑に進めるため、貴国と我々魔国は『人種差別禁止条約』を締結する。特定の種族に対する蔑称の使用や、暴力、嫌がらせを厳しく罰する法律を制定せよ。それは、真の友好の証となる。」


重臣たちは、再び目を見開き、息をのんだ。これまで考えたこともなかった、あまりにも壮大な構想だった。それは、もはや和平交渉の枠を超え、新しい世界の創造を意味していた。







王都の活気は、ここ数日の間に劇的に変化した。これまで重く垂れ込めていた戦争の気配は消え、街を行き交う人々は、どこか晴れやかな顔をしている。露店には魔国から運ばれてきた珍しい香辛料や、見たこともない野菜が並び、人々は興味津々にそれらを品定めしていた。居酒屋の暖簾をくぐると、奥の席で魔族と人間が肩を並べて飲んでいるのが見える。最初は警戒し合っていたが、互いの言葉を交わすうちに、笑い声が満ちていった。


そんな喧騒から少し離れた、静かな一角。ハルトと魔王は、小さな居酒屋のカウンター席に並んで座っていた。差し向かいで熱燗をちびちびとやり、肴に塩辛をつまんでいる。魔王は、初めて食べるという塩辛の味に、眉間に皺を寄せながらも、どこか満足げな表情をしていた。


「まさか、貴様とこんな風に酒を飲む日が来るとはな」


魔王が、静かに呟いた。ハルトは、熱燗を一口飲み、小さく微笑んだ。


「僕も、まさか魔王様と、日本の居酒屋みたいな場所で酒を飲むとは思っていませんでした。それにしても、お互いの民が交流する様子を見ていると、本当に嬉しくなりますね」


「貴様は、そのためにここへ来たのだろうな。……貴様が声を上げ、何度も皆に話をし、時には率先してやってみせたおかげで、民もまた協力してくれた。魔国と王国の今の関係は、貴様のおかげだ。ハルトよ、おまえは強くなった。」


魔王は、手元の杯を静かに置いた。ハルトは、その言葉に、一瞬だけ目を見開いた。


「やはり、そうだったんですね。僕が故郷の生活を話したとき、貴方が激怒したのは、単に僕を憐れんだからじゃなかった。あれは、僕に、自分が何者なのか、どう生きるべきなのかを考えさせるための、導きだったんですね。国王との対話も、僕の言葉を引き出すために、貴方が先鞭をつけてくれた。何も知らない僕を、対等な立場で話せるように、交渉の席に座らせてくれた…」


ハルトは、酒の入ったグラスを持ち上げ、魔王に差し出した。


「ありがとうございます、魔王様。貴方に出会わなければ、僕はきっと、元の世界と同じように、理不尽に耐え、搾取される人生を繰り返していたでしょう。でも、貴方は僕に、声を上げれば、きっと助けてくれる人がいる。諦めなければ、道は開ける、という希望を見せてくれた。貴方は僕に、搾取に抗い、自分の人生を歩むための術を教えてくれた。僕にとって、貴方は、魔王であると同時に、僕の先生でもあります」


ハルトの感謝の言葉に、魔王は顔を背けた。彼の顔に、照れくさそうな色が浮かんでいるのを、ハルトは見て見ぬふりをした。


「…ふん。私は、ただ、労働力を無駄にする愚かな国王が気に入らなかっただけだ。そして、貴様が、その愚かな体制に流されていくのを、見ていられなかった。貴様は、私と出会って初めて、自分の人生について考え、自分の言葉で主張できるようになった。それで十分だ」


魔王は、どこかぶっきらぼうにそう言ったが、その声には、深い喜びがこもっているようだった。


「さて。話は変わるが、ハルト殿」


魔王は、ハルトの目をまっすぐに見つめた。


「貴様は、この世界で英雄となり、皆から慕われている。だが、貴様が本当に望むのは、故郷への帰還であろう? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」


ハルトは、静かに頷いた。


「もちろん、帰りたいです。毎日、母や妹がどうしているか、そればかり考えていました。もしかしたら、僕が急にいなくなって、また苦しい生活に戻ってしまっているんじゃないかって…」


ハルトの目には、故郷で待つ家族の姿が浮かんでいるようだった。魔王は、その様子を静かに見つめていた。


「ならば、三日後、魔王城に来るがよい。貴様を、故郷へ帰してやろう」


その言葉に、ハルトは驚き、言葉を失った。


「えっ…!  魔王様は、帰る方法を知らないと…」


魔王は、静かにハルトを見つめた。


「古い文献にその方法が記されていたのだ。それにお前を元の世界に帰還させねば、コンプライアンス違反になってしまうからな」


そう言ってニヤリと笑い、魔王は再び杯を持ち上げ、静かに乾杯を促した。


「さあ、飲め。これが、この世界での、最後の酒になるかもしれぬぞ」


カチン、と二つの杯がぶつかる音が、居酒屋の喧騒に溶け込んでいった。




※※※




三日後、ハルトは魔王城にいた。これまで幾度となく訪れた城だが、今日は一段と静かで、魔王の姿が見えない。玉座の前で待っていると、黒いローブをまとった男がやってきた。魔王の副官、シグルドだ。


「ハルト殿、お待ちしておりました。魔王様より、こちらへどうぞ、と」


シグルドは、ハルトを城の地下へと案内した。薄暗い通路をしばらく進むと、大きな扉の前に出た。シグルドが扉を開けると、そこは広々とした部屋だった。天井には星空が描かれ、床には巨大な魔法陣が複雑な紋様を描いている。魔法陣の中心には、不思議な輝きを放つ祭壇が作られていた。


「魔王様は?」


ハルトが尋ねると、シグルドは静かに首を横に振った。


「申し訳ありませんが、魔王様は、本日はお戻りになりません」


「え…?」


ハルトは驚き、言葉を失った。


「ですが、魔王様は、この機会を逃せば、次にいつ貴殿が故郷へ戻れるかわからない、と」


シグルドは、祭壇の横に置かれた、ハルトの身長ほどもある巨大な剣を手に取った。それは、ハルトが魔王城を訪れた際に使った、錆びついた剣を、魔国の最高の技術で鍛え直したものだった。剣の柄には、ハルトと魔王、そして二人の旅を象徴する紋様が刻まれていた。


「この剣を、祭壇に突き立ててください。それが、貴殿を故郷へ帰すための最後の儀式です」


ハルトは、剣を受け取った。その重みは、彼のこれまでの旅路の重みそのものだった。ハルトは、魔王に直接会ってお礼を言いたかった。


「シグルドさん……! 魔王様には、とてもお世話になりました。どうか、魔王様に、僕の言葉を伝えてくれませんか?」


ハルトは、涙をこらえながら、シグルドに頭を下げた。


「魔王様には、本当に感謝しています。僕に、声を上げれば助けてくれる人がいる、諦めなければ道は開けるという希望を見せてくれた。そして、理不尽に抗う勇気を教えてくれたと。この世界で学んだことを、自分の世界で活かしてみせます、と。」


シグルドは、ハルトの言葉を静かに聞いていた。そして、優しく頷いた。


「承知いたしました。貴殿の言葉、必ず魔王様に伝えます」


ハルトは、シグルドの言葉に静かに頷いた。そして剣を両手で持ち、祭壇へと向かった。一歩ずつ、祭壇へと歩を進める。彼の脳裏には、魔王の、どこか寂しげな背中が浮かんでいた。


祭壇の前まで来ると、ハルトは剣を大きく振りかぶった。そして、その剣を、祭壇の中心へと、力いっぱい突き立てた。


その瞬間、床に描かれた魔法陣が、まばゆい光を放ち始めた。光は、淡く、温かく、そして、優しい光だった。ハルトの体を包み込み、ゆっくりと、彼を元の世界へと誘っていく。


「……ありがとう、魔王様」


ハルトの最後の言葉は、光の中に溶けていった。







次にハルトが目を開けた時、彼の視界には、見慣れたアパートが映っていた。手にはあの夜、落としそうになったショートケーキの箱を、しっかりと握りしめている。


「…ただいま」


ハルトは、誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。


空には、見慣れた月の光が輝いていた。ハルトは、自分の世界に帰ってきたことを実感し、安堵の声を漏らした。


彼の隣には、誰もいない。だが彼の心の中には、魔王との旅で学んだ多くの思い出が温かい光を放っていた。そして彼は、新しい人生を歩むための確かな一歩を踏み出したのだった。







その次の日の夜。


ハルトはいつものように、アルバイト先へ向かった。バックヤードに入ると、いつものように店長とバイトリーダーの冷たい視線を感じた。


「ハルト君、君はさぁ……本当に給料分の働きをしてると思ってる? こっちから見れば、金だけもらって、仕事はろくにしてないように見えるんだけど」


「おい、ハルト! その仕事、本当に君がやったのか? 単純な作業に、時間をかけるな! まるで子供のお遊びだぞ!」


しかし、ハルトは怯まなかった。彼はまっすぐ店長を見据え、魔王から教わった言葉を口にした。


「店長、それはパワハラとモラハラですよ。労働基準法違反です。僕はもう、こんな理不尽な労働には耐えません。もし改善されないなら、市役所の法律相談所にも相談します」


ハルトの言葉に、店長とバイトリーダーは顔色を変えた。その時、ハルトを見守っていたパートのおばちゃんたちが、口々に彼をかばい始めた。


「そうよ! ハルト君はいつも一生懸命働いているじゃないか!」


「あんたたちのやり方は、見ていて腹が立つよ!」


ハルトは、一人ではなかった。


魔王が教えてくれたように、正しい声を上げれば助けてくれる人たちがいる。


魔王がその背で教えてくれたことは、ハルトに理不尽に立ち向かう勇気と力、そして助けてくれる仲間を彼にもたらしたのだ。









Fin






《 魔王城の地下 》



ハルトが光の中に消えると、副官のジグルドをはじめ、隠れていた魔王の部下の魔族たちが、祭壇の周りに駆け寄ってきた。


ジグルドが慌てて祭壇に刺された剣を抜き、祭壇の上部を外すと、そこには胸から血を流し、しかし、穏やかな顔で死んでいる魔王が横たわっていた。


魔族たちは口々に、魔王の偉大さを語り、嘆き、悲しんだ。彼らは、魔王が勇者を元の世界に戻すため、自らの命を捧げると決めたことを知っていた。


「魔王様は、今まで魔族のために、どれほど尽くしてくださったか……」


「魔王様がいなくなったら、我々はどうしたら……」




魔王追悼の儀式が終わると、ジグルドは静かに魔王の亡骸と向き合った。ジグルドは一人心の中で、魔王の遺体に向かって静かに語り始めた。


(……神もひどいことをなさる。せっかく会えたご子息なのに、元の世界に帰すには、勇者が魔王を殺すしか方法がないとは……)


ジグルドは、嘆きを心の奥底に沈め、魔王の亡骸にそっと手を置く。


(魔王様……ようやく、勇者ハルトを元の世界に帰すことができましたね。「本当に、親は、命を差し出しても子を助けたいと願うものなんだね。」そう言って笑ったあなたの顔を、私は忘れることが出来ません。)


(だから、私は、あなたをお止めすることが出来ませんでした。)


(あなたは成長した息子の姿を見ることができた。元の世界に残してきた、奥様と娘様の様子も聞くことができた。だからもう、心残りは無い……と。神に感謝している……と。)


(これからの魔国は、私が責任をもって率いていきます。安心して、お眠りください。)


ジグルドの目から、涙が溢れ出した。


(魔王様、ご子息様が…『父の背をみているように感じました』と……。)


ジグルドは、魔王に言った。


「良かったですね、魔王様……。」


ジグルドは、深々と頭を下げた。


「そして……お疲れ様でした」





異世界から『転生』した魔王と、異世界から『転移』してきた勇者。


彼らがこの世界に残したものは、人間と魔族が手を取り合い共存する理想の国であったー。



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