5.消えない傷 (side 片桐蓮人)
『ごめんなさい、今日早退してもいいですか? 片桐会長』
その一言が、静かに生徒会室に落ちたとき、俺は、頷くことすらできなかった。
綾菜は、振り返らなかった。
扉の向こうに消えるまで、俺は何ひとつ、言葉を出せなかった。
……ああ、まただ。
また俺は、誰かを傷つけた。
◇
——俺は何人もの女の子と、お付き合いをしてきた。
最長で2年。最短で1週間。
好きになった女の子は、とにかく大事にしたくて。喜んでほしくて、俺と一緒にいて、〝幸せ〟だと思ってほしくて。だから俺は毎日、彼女に『好き』と伝えてきた。
朝も昼も夜も、どこにいても、何をしていても、その子のことばかり考えていた。
〝愛するって、こういうこと〟だと、本気で思っていた。
けどある日、最近別れた元カノに言われたんだ。
『ほんとうに、重すぎるの。男のくせに何それ。正直、キモいよ』
笑いながら、だけど、偽りひとつない、きちんとした本音で。その言葉は、あまりにも鋭利で尖っていた。
俺はなにも言えなかった。いや、言わせてもらえなかった。
言葉を発する前に、その子は走り去って行ったからだ。
それから、その子は他の男とすぐに付き合い始めたと、風の噂で知った。最後に会った後、俺がその子に送った54件のメッセージには、二度と既読がつくことはなかった。
だいたい〝重い〟って、なんだよ。
〝本気で人を好きになること〟が、なんで重いってことになるんだよ。
傷ついた心を守るための防衛本能のような——吐き出す思いに棘をまとわせて、ひとり孤独に吐き出しまくった。
学校での俺は『キラキラ輝く、みんな憧れの人』だ。そのイメージだけは決して壊さないように、学校ではいつも通りを装い、家では人が変わったかのように、とにかく言葉を吐き出した。
好きなのに。
大好きなのに。
ほんとうは24時間、ずっと一緒にいたい。
ねぇ、今どこで何をしているの?
今この瞬間、君は俺のことを考えてくれている?
ねぇ、ねぇ、ねぇ
どうしたの、連絡が返ってこないよ。
返事をちょうだい。
不安だよ。
ほかの人と会っているの?
ねぇ、今から会えない?
実はね、君の家の最寄り駅にいるんだよ。
だから、会おうと思えば、今すぐ会えるんだ——。
けれど、あの子に『重い』と言われて、気がついたことがある。
というか、『冷静になった』が正解だろうか。
今考えたら、あのころの自分は、気持ち悪いにもほどがあった。
俗にいう、メンヘラというやつだろう。それを知ったのは、テレビの番組だった。
冷静になればなるほど、自分を殺したくなった。
過去に付き合った彼女全員に、同じ対応をしていたからだ。
なんだか最近は、最後に本音を言ってくれた彼女に対して、感謝の念すら抱く。
言ってくれたから気づくことができた。
それは俺にとって、大きな成長であることに間違いはなかった。
……それから、俺は変わったんだ。
本気で人を好きになるのが怖くなった。好きになって、相手にまた『重い』と思われたくなかった。
だから、誰の心にも、深くは踏み込まないようにしたんだ。
誰からも好かれすぎないように、均等に優しくした。
誰にも、期待されないように。
誰からも、失望されないように。
俺が心を殺し、もう誰も傷つけないようにするために——。
◇
それ以来も、数々の告白を受けてきたが、すべてお断りをしてきた。
可愛いとか美人とか、それ以前に、俺と関わりのない人とは、もう二度と恋愛なんてしたくないと、本気で思っていたから。
ほんとうの俺を知らないのに、安易に告白をしてくる。
こんな奴ら、俺が被っている〝醜い〟仮面に惹かれているだけなのだから。
けれど、綾菜だけは違った。
元々生徒会で関わりのあった綾菜だ。容姿も性格も、誰にも負けないくらい大変可愛い子だった。
生徒会でも俺のことを慕ってくれ、明るくて愛想もよくて、勉強も運動もできる。
そんな綾菜に告白されたとき、いつもとは違う感情を抱いた。
『いつも真面目に生徒会と向き合っている先輩が、かっこよくて好きです』
綾菜から出てきたそのひとことが、俺の中身を見てくれていると、なぜかそう思った。
素直に、嬉しかった。
『……いいよ、付き合おうか』
二度と恋愛なんてしないと決めていたのに、それでも綾菜と付き合い始めたのは、もうどうでもいいと思えたからだった。
ふいに抱いた、いつもとは違う感情。それが原因で『付き合おう』なんてバカなことを言って、綾菜を喜ばせた。
けれど、好かれたいとも、愛されたいとも、正直もう思ってなかった。彼女を愛するとか、大切にするとか、そんなこともまったく思っていなかった。
あと、綾菜を隣に置いておけば、〝いらない虫〟も近寄ってこないだろうと、本気で思っていた。生徒会の顔としても文句もない。男女問わず人気もあって、教師からの信頼も厚いのだから。
人として最低だが、〝隣に置いておく〟ただそれだけで、ほんとうに十分だと思っていた。
——だから、実際に付き合い始めて、綾菜が友達にすら〝片桐先輩と付き合っている〟と言いふらさなかったのは、すこし想定外ではあったが。
俺はとにかく、綾菜のことはまったく好きではなかった。
ただ、俺の世界にいてくれるだけの、静かでお飾り的な存在。
それ以上も、それ以下もない。
でも、綾菜の方は違った。
とうぜんだが、俺のことが好きで告白をしてきてくれた。だからこそ、あの子は俺のことをきちんと見て、しっかりと向き合おうとしていたのだ。
声をかけてくれて、気にかけてくれて、どんなときも、俺に〝期待〟をしてくれていた。
——だからこそ、怖かった。
〝彼女〟から向けられるその〝期待〟に、応えられなかったとき、俺はまた——〝重い〟〝キモい〟〝面倒〟って、思われるのではないかって思った。
俺が思う〝愛〟や〝好き〟は、彼女の立場からすると、重くてキモくて面倒なもの。
——受け入れてもらえない、俺の愛。
もし次に、そのような冷たい言葉をかけられたとき、俺はもう、二度と立ち直れない気がした。
綾菜に〝重い〟〝キモい〟〝面倒〟って言われたら、死んでしまう自信しかなかった。
綾菜はほんとうに完璧でいい子だった。
俺とはまったく違う、性格もよい、ほんとうに、俺にはもったいないくらいいい子だった。
だから俺は、綾菜と距離を置こうとした。
メッセージを返さなかった。
デートも適当にすごした。
目を見ないようにした。
……冷たく、接した。
俺が本気になってしまう前に、綾菜に嫌われる前に——距離をとっておこうと思った。
こんなの、ひどい考えだって、自分でも思う。
こんなことして綾菜を遠ざけるなら、初めから告白を受け入れなければよかったのだ。
誰に責められてもいい。
激昂した綾菜に殺されてもいい。
でも、それが〝自分を守るやり方〟だった。
俺には、こうするしか方法がなかった。
——ほんとうは、ずっと怖かっただけなのに。
だけどさっき、綾菜は泣きながら、俺に聞いてきた。
『先輩って……私のこと、ほんとうに好きなんですか?』
消えそうなほどに小さな声。その言葉に、俺は息が詰まった。
俺は綾菜の言葉に対して〝好き〟だと、咄嗟に答えようとしていた。
でも〝好き〟だと言ったら、また同じ過ちを繰り返す気がした。〝好きではない〟と言ったら、今度こそ何もかもが崩れるような気がした。
だから、〝何も言わない〟を選択した。だけどそのせいで——俺は綾菜を泣かせた。
それに対して、〝ごめん〟なんて言葉も、簡単に言うことはできなかった。
付き合っているのだから、素直に〝好き〟だと言えた方が、よかったかもしれない。
いや、でも現に綾菜を傷つけているんだ。
ならば、〝好きではない〟って、はっきり言えた方が、まだ優しかったのかもしれない。
自問自答を繰り返し、大きなため息を生徒会室に零す。
結局俺はまた、中途半端な〝優しさ〟を選び、自分の心を守ることに専念していた。
綾菜の背中が、扉の向こうに消えていくとき、俺の中に残ったのは、ひとつの後悔の念。そして——俺は、綾菜を好きになってしまっていたんだ、という、あまりにも遅すぎる自覚だった。