3.噂の話
昼休みに購買でパンと飲み物を買い、いつもとは違う教室の反対方向へ、歩みを進めた。
たどり着いた先は、あまり人が通らない非常階段の踊り場だ。私はひとりで階段に座り、紙パックのいちごミルクをすすっていた。
誰にも邪魔されない、ひとりきりの休憩時間にいろいろと考えたい——そう思っていたのに。
「ねぇ、聞いた? 片桐くん、また女子に告られたらしいよ」
「えー、また? 何人目よ! てかあの顔で性格もいいとかズルすぎ」
「いやでもさ、知ってる? ちょっと前に聞いた話なんだけど——」
話し声が、階段の上のほうから落ちてきた。
それが偶然、耳に入ってしまったんだ。
聞くつもりなんてなかった。でも、その名前が出た瞬間、私は咄嗟に耳を傾けた。
「片桐くん、前の彼女には〝重すぎてキモい〟って言われてフラれたらしいよ」
……え?
「重い? 王子様が?」
「そう。あたし、前の彼女と同中なんだけどね。なんか、めっちゃ束縛してたらしいよ。朝昼晩にメッセージを送って、5分返事なかったら〝俺のこと嫌いになった?〟って追撃メッセージしてたらしーよ!!」
「えーやば……マジ!? それマジなら、めっちゃ怖い。てか重すぎる通り越してホラーでしょ!」
「なのに本人は真面目な顔して、〝俺は本気だった〟とか言ってたらしくて!! マジでウケるくない!?」
「王子様の皮をかぶったメンヘラとか最悪〜!! なんか印象変わった、てかえぐすぎ!」
笑い声が階段に響く。
私は、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、胸が詰まった。
やめて。
聞きたくない。やめて、やめて。
あなたたちに、片桐先輩の何がわかるの。
笑わないで。先輩のこと話さないで。
そんなふうに、簡単に嘲笑ったりしないでよ!!
「この話、ここだけの話だからね。〝王子様〟には変わらず〝王子様〟でいてもらわないと!」
「それでまた、新たなメンヘラの被害者を生み出すってわけね! めっちゃ最高じゃん!!」
「あたしらは高みの見物をしようね」
徐々に小さくなっていく声を聞きながら、私はスカートの裾を握りしめた。
知りたくなかった。
こんなふうに、知りたくなかった。
——なんて、思いながらも、
〝王子様の皮〟
誰にでも優しくて、完璧で、誰にも嫌われないような顔。それは、今の先輩にぴったりすぎる言葉だと思った。
「……」
パンを食べながら、いろいろと考える。
片桐先輩は、〝王子様の皮〟をかぶっている。そしてその皮の裏に、ほんとうの顔を隠しているのではないだろうか。
今聞いた噂がほんとうの顔なのか。日ごろ私に向ける態度がほんとうの顔なのか。
それは判断できない。
冷静になって考えるほど、ますますわからなかった。
◇
放課後の生徒会室で、私は先輩と一緒に、いつも通り雑務をこなしていた。
けれど、今日の空気は、いつも以上に重たく感じる。
先輩の声も、しぐさも、優しい。
何も変わらない、いつも通りの先輩だ。
だけど、それらを向ける相手が、別に〝私〟ではなくてもいいような気がしてならなかった。
そう思ってしまうのは、昼休みにあの話を聞いてしまったからだろうか。
「……はい、これ」
いや——気のせいなんかでは、ないのかもしれない。
先輩の手が、プリントを1枚こちらに差し出す。
その瞬間、ふと視線が重なった。やっぱり優しい笑顔。だけど心には触れられない、ガラス越しのような笑顔だ。
「……今日も、お疲れさま」
消え入りそうな声。すぐに逸らされる視線。
「……」
私は、「うん」とだけ答えて、目を伏せた。
そしてそのまま、プリントを受け取る際に指先が触れないよう、すこしだけ距離を取る。
触れたくなかったわけではない。
ただ、偶然でも触れてしまったら、何もかもが壊れてしまいそうだと思ったから。
なんだろう。
どうして私は、先輩のことが、今も大好きなんだろう。
どうして私は、そもそも先輩を好きになってしまったんだろう。
先輩に対して、どういう行動を取るのが正解なのか、それすらもわからない。
けれど、それでも、やはり思ってしまう。
——彼女である私だけには、先輩が抱える〝ほんとうの気持ち〟を、見せてほしい……なんてね。