1.学校の王子様
秋が近づくたびに、なんとなく思い出す。
この廊下を歩くときの、すこしだけ浮ついた気持ち。
チェック柄のスカートが揺れて、誰かとすれ違うたびに、自分の中にある〝好き〟がざわつくような、そんな季節。
「ねぇねぇ、見た!? 今日の片桐先輩、また朝からファンクラブに囲まれてたんだけど!」
「やばー、マジで王子様よね! てか顔面偏差値高すぎて、意味わかんない」
隣でキャッキャと騒ぐ友達の声を聞きながら、私は笑ったフリをした。
周りの誰もが——仲の良い友達すら、知らない。
だって、私の彼氏のことなんだもん。
そんなの、ほんとうは、ちょっとだけ鼻が高いに決まっている。
けれど、心のどこかで、わずかに引っかかることがある。
——ねぇ、片桐先輩。
私たちって、ほんとうに『付き合っている』のですか?
◇
今日も生徒会室には、静かな空気が流れていた。
意図せず会長の片桐先輩と一緒になった、水やり当番の日だ。
窓からオレンジの日が差す生徒会室で、先輩とふたり、ジョウロを探していた。
生徒会役員である私、平野綾菜は、生徒会長の片桐蓮人先輩と当番のペアだ。
誰もが羨む先輩との活動、そして——彼女というポジション。
だけど、不思議とドキドキはしなかった。
付き合う前なら、きっと鼓動の音だけで胸がいっぱいになっていたはずなのに。
最近は、大きな行事もなくて、生徒会室はいつも静かだ。
水やり当番も、ただのルーティンみたいに過ぎていく。
ときどき書類整理をしたり、備品を数えたり。
そんな、なにげない仕事だけが、今の〝ふたりの関わり〟を繋いでいた。
「……これだね」
低くて、すこしかすれた声。
振り向くと、片桐先輩が無言でジョウロを差し出してくれていた。
あぁ、やっぱりかっこいい。先輩はジョウロを持つ指先まで絵になる。
でも、どこか遠い。
付き合っているはずなのに。
触れたくても、触れられない。微妙な距離があるような気がした。
「ありがとう、先輩」
お礼を言いながら受け取ると、指先が一瞬だけ触れる。
そのとき、私は慌てて手を引いてしまった。触れてはいけない、とっさにそう思ったから。
けれど先輩は、まるで最初から〝何もなかった〟かのように、目を伏せたままジョウロを見つめる。その様子に、心がチクリと痛んだ。
「……花壇、行こうか」
先輩はそれだけ言って、すぐに歩き出す。
私は慌ててその背中を追いかけた。
——どうしてだろう。
好きな人のはずなのに。私と先輩は両想いのはずなのに。
どうしてこんなにも〝置いていかれる〟感覚があるのだろうか。
先輩の背中を追いかけながら、ふと——去年のことを思い出していた。
まだ、生徒会に入る前。名前も顔も、今ほどきちんとは知らなかったころの、あの日。
文化祭前日の放課後だった。
私は教室に忘れ物を取りに行く途中、たまたま生徒会室の前を通りかかった。
なんとなく中を覗くと、薄暗い室内で、誰かがひとり黙々と作業をしていたのだ。
段ボールを片付けて、机を並べ替えて、掃除機までかけている。
その人こそ——当時も生徒会役員の、片桐先輩だった。
誰に見られているわけでもないのに、先輩は黙々とサボることひとつせずに、けれど丁寧に、作業を続けていた。
ときおり机に手をついたまま、ひとりぼんやり外を見る。その姿が、私にはどうしようもなく寂しそうに見えた。
人気者の先輩だ。あのころも途切れることなく彼女がいたはず。それなのに、どこか寂しそう。
日ごろ見かける先輩とは、イメージがかけ離れている。
キラキラ笑顔で、王子様のような先輩はどこにもいない。
——この人も、こういうオーラを出すんだ。
それが、先輩に対して初めて抱いた印象だった。
私は、みんなが噂する先輩には、いっさいの興味がなかった。けれど、あのとき見た背中には、なぜか興味を惹かれた。
理由なんてわからない。ただ、見てはいけないものを見てしまった気がして、あの日から、ずっと目が離せなくなっていたのだった。