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エピソード2

闘 病 

 


2010年5月、株式会社○○で勤務する妻の美香。しかしながら、同月いっぱいで会社が閉鎖する事となる。妻は運が良かったのか仕事の一生懸命さが評価されたのだろうか、翌月からは親会社である、株式会社○○運輸(私が勤務する)に移動という事に決まった。このご時世で再就職がスムーズに決まる事は奇跡のようで、また、妻と同じ会社で働ける嬉しさに私は浮かれていた。この時、妻に降りかかっている病魔なんて、まったく予想もしていなかった。

妻は以前から左胸の奥に「しこり」のような違和感を持っていた。私も何度か触らせてもらったが、男の私には「そんな程度の物」としか思えなかった。妻は

「私の家系は癌が多いから・・・」

と、自分が乳癌かもしれなという思いがあったのだろう。風呂に入るたびに、胸を何度も何度も確かめるようにさすり、その度に不安で仕方がない様子が私にも分かるようになってきた。正直、私はそんな妻の表情を目の当たりにしていても、「乳癌は治るもの」という安易な気持ちしか持てなかったのだ。

「そんなに気になるのなら一度病院で診てもらってくれば?」

私は妻にずいぶんと投げやりな返答をしてしまった。

妻は休みの日を利用して掛かりつけの病院へ行った。一回目の診断にて「炎症」と診断された。炎症を抑える薬をもらい、しばらく様子をみる事となった。一ヶ月・・・二ヶ月と、その胸の違和感(炎症)は消える事なく、むしろ大きくなっているようにも感じてきたのだ。妻はさすがに不安を隠しきれずに、

「一緒に病院へ行ってくれるかな?」

と、私に頼んできた。ちょうど私の休みに合わせ、二人でもう一度同じ病院へ行く事にした。待合室で待っている間に私たちはどんな会話をしていたのだろう?覚えていないほど、普段と変わらないたわいもない会話だったのかもしれない。妻が病室に呼ばれ、私は一人。これといった心配はしていなかった。たとえ「乳癌です」と言われたところで、乳癌なんて手術で治るものとしか思っていなかったのだから・・・。

診察室から出てきた妻の顔はそれほど暗くもなく、軽い気持ちで

「どうだった?」

と、聞いてみた。妻は少し表情を曇らせて、この病院では詳しい検査ができないらしく「○○医大」への紹介状を書いてもらったというのだ。たいがい、この辺りで精密検査をするというと「○○医大」っていうのが相場であるのを知っている私は、まだこの時点でも妻の違和感に対して気軽に捉えていた。

そうして妻は医大へ検査に行き、のちに結果を聞いてきた。


「乳癌・・・」


本来なら私と同じ会社で働く事を約束されていた妻。休暇をとっていた妻は勤務中の私の職場に顔を出し、寂しそうな表情で近寄ってきた。そして、堪えようにも溢れ出す涙を私は今でも覚えている。

「さとし・・・私ね、やっぱり乳癌なんだ。さとしの側で一緒に仕事ができると思っていたのに・・・ごめんね。」

妻は、仕事に対してはいつも一生懸命であり、さらに、私と一緒に仕事が出来ると喜んでいたので、これから抗がん剤治療の為に仕事を続ける事が出来ない事を悔しがっていた。その妻の表情、気持ちを悟った私は、会社の顔から夫の顔に戻っていたと思う。たまたまその日は本社から妻の業績を高評価してくださっている部長が職場に来ていた。妻を私が在籍している○○運輸に残してくれたのも部長のおかげだ。妻は、せっかくのご好意を受けられない旨を部長にも直接詫びたいと、私と一緒に会いに行った。最初に私から事の詳細を説明し深くお詫びした。普段は泣き顔なんて絶対に他人には見せない妻が、部長の前で仕事を続けられない悔しさと、申し訳なさで泣きながらお詫びをした。部長も事が事だけに、

「ちゃんと治してまた戻って来い」

と、優しさ溢れる言葉を差し伸べてくれた。その言葉に妻も勇気付けられ、「必ず元気な体になって戻ってくる」

と、心に誓ったのだ・・・。



医大から、癌専門の施設である「○○国際医療センター」を紹介してもらい、そこで12月まで通院での抗癌剤治療をする事となった。その病院は施設も環境も整っており、安心できる反面、重度な患者が多い為、亡くなる方も多いと噂で聞いた事がある。通院での抗癌剤治療という事もあってか、妻は乳癌だけど通常よりも比較的に軽いから通院での治療でいいのかと思うようになっていた。噂はあくまでも噂で、妻は何ら問題ないのだと思っていた。1~2回の抗癌剤を受けた頃、妻が癌である事を痛感させられる事が起きた。妻の長い髪が抜けてきたのだ。サラサラの妻の髪の毛がお風呂で洗うたびに・・・少しずつ抜けていってしまう。それからどれくらい経ったのだろうか、抜け始めてからはあっという間にほとんどの髪の毛が抜け落ちてしまった。妻はもともと気の強いところがあったので、私にすら毛が抜けてしまったショックを見せなかった。というより、自分の頭を「ハゲてしまった」と、おどけてみせたのだ。そんな妻の心底を考えると、強がっている妻を私は一生守ってやらなきゃという気持ちでいっぱいだった。

だが、抗癌剤の副作用は甘くなく、抜け毛だけでは治まらなかった。

吐き気やだるさ、微熱などが妻の体を襲い始めた。その中でも全身を走る「痛み」には我慢しきれないほどの辛さが私にも分かった。いつものように就寝し、1~2時間経った頃だと思う。ガサガサと物音に目が覚め、ふと布団から起き上がってみると、目の前には妻が四つん這いで床の上を這いずり回っているのだ。

「おい、どうしたんだ?」

と、声を掛ける。

「ごめんね起こしちゃったね。でもこうやって動いていないと体中が痛くて・・・横になっていられないの。」

夜中であろうとどこに居ようと四つん這いになって動き回るほど、全身が痛くて痛くてたまらないのだ。それからは痛み止めの薬を飲み、一緒にいる時は少しでも体をさすってあげて気を紛らわせるように努力した。また、副作用が弱い時などはなるべく体を動かして少しでも体力を付けて手術を乗り切ろうと頑張ったりもした。

いくら癌とはいえ、一日中家の中では精神的に弱ってしまうと思い、休みの日に妻を外に連れ出した。どうせ運動をするのなら、気持ちの良い自然の中でウォーキングをしようと公園に行ったのだ。ゆっくり自然の中を歩くのなら体調に合わせてペースも変えられるし、何より、清々しい気持ちになれる。そして、少しでも不安な毎日から開放されるのではと思ったのだ。私の予感は的中し、

「また一緒に歩きたいね。今度は手作りお弁当を持ってこようね。」

妻はそう言ってくれた。二週間後、ちょうど妻の体調も良く天気も良好。絶好のウォーキング日和になった。妻と一緒に朝から頑張ってお弁当を作り公園へ出発した。季節は深緑から紅葉に変わり始めた頃だった。

2010年12月、数度の抗癌剤治療を絶え抜き、とうとう手術の為に入院となった。部屋は六人部屋で、妻は入り口を入ってすぐ右側のベッドになった。どこの病院にもあるカーテンで仕切られた狭い空間である。部屋の中央奥には、その部屋専用のトイレもあり、環境的に悪くないというのが私の第一印象。ここで二日程検査や手術の段取りを行い、本番まで療養する。ちょうどその頃の私は仕事が忙しく、新規業務の引継ぎをしていた。夜中の12時にトラックに乗り込み、都内へクリーニングの配送をする。手術当日も仕事中だったが、配送途中に業務を交代してもらい、急いで病院へ向かった。

12月22日午後、妻の手術が始まった。病室からベッドに寝かされたまま手術室に向かう。途中のエレベーターまで妻を見送る。「大丈夫。必ず無事に帰ってくる。」私はついこの間まで乳癌なんて簡単に治るものとしか思っていなかったのに、今、妻への思いは願いへと変わっていたのだ。手術室に入ってどれくらい経ったのだろうか、私はただ祈る事しかできなかった。落ち着かない私は妻の携帯電話にメールを送る事にした。妻への想いを素直に書く。妻への願いを率直に書いた。私は今までにもクサイ台詞染みたメールを何度か送った事がある。妻はその文章を見て呆れるのではなく、素直に感動してくれて大事に保存していてくれるのだ。私はそんな素直に喜んでくれる妻が大好きだ。

しばらくしたら妻が酸素マスクを装着され病室へ戻ってきた。麻酔が効いているのか呼んでも反応はない。心配そうにしている私に看護婦さんが声を掛けてくれた。

「大丈夫です。手術は成功しました。今は麻酔で眠っているだけです。」

その後、主治医からの術後の説明が始まった。手術は問題なく終わったが、麻酔が切れると吐き気などの副作用があるらしいと。案の定、麻酔が切れ意識が戻ると妻は吐き気に襲われた。顔を真っ赤にさせ、何度も苦しそうに。その度、私はティッシュで顔を拭いてあげた。それから2~3日は微熱も続いたが、体調も回復して退院前には普通に歩けるようになり、シャワーを浴びれるまでになった。予定より少し遅れたが、妻は順調に回復し退院する事ができた。完璧に回復した訳ではないので自宅に戻ってもリハビリをしなくてならないのだが、どうにか家族そろって自宅で新年を迎える事ができのだ。

妻は料理が得意だから、毎年お正月には手作りのおせち料理を作る。だが今回は、手術で左腕のリンパ線の除去もしたので、重たい鍋や疲労が禁止されてしまった為、自慢の料理はおあずけになってしまった。私は妻の料理も大好きだが、何よりも妻が無事に帰ってきてくれただけで大満足。これから一緒にリハビリを続け、少しずつ通常の生活に戻れる為に頑張ろうと、そう思っていたのだ。これからも家族4人で頑張ろう・・・と。

しかし、とうとう潜んでいた悪魔が妻と私たち家族に牙を剥き始めたのだ・・・・・。


2011年1月、私は新年早々から仕事をしていた。妻が心配なのは当然だが、簡単に休む訳にもいかず、まめにメールや電話をして勇気付けながら仕事をしていた。1月の3日か4日くらいから、妻の返信メールには「微熱があるみたい」とか、「気持ち悪くて横になってる」とかの内容が多くなってきた。主治医の先生も副作用があるような事を言っていたし、退院したとはいえ術後には変わりないから、多少の体調不良もあるのかと、私はさほど気にもしなかった。「薬は飲んだか?」「無理しないで横になっていろ」とか、ありきたりな言葉しか掛けてあげられなかった。妻も我慢強い性格だから、横になりながら回復するまで耐えていた。私が帰宅すると、申し訳なさそうに

「ごめんね。ご飯の支度、出来てないんだ。」

と謝る。私も今の状態の妻に家事をこなせとも思っていない。ただ、日に日に妻の様子がおかしい事に気付き始めていたから、もう一度病院で診てもらう事を勧めた。それでも妻は、もう少し様子をみて治らなそうなら病院に行くと言った。そして1月7日、妻からメールが届く。自力では立ち上がる事も出来ないまでに体調が悪化してしまったのだ。私は仕事を途中のままで妻の元へと急いだ。妻を車に乗せ、○○国際医療センターに向かい、歩くことさえままならない妻を車椅子に座らせて受付を済ませた。あまりにも体調が悪化しているせいか、妻はそのまま緊急入院となってしまった。

病室は前回の入院と違い、個室となった。値段は高いが、以前の入院の時に同じ部屋に入院していた他の患者のいびきや話声がストレスに感じていたのを聞いていたし、私も見舞いに行くのに気が楽なので個室を希望した。部屋には専用のトイレも完備しており、妻が使用するのに近いほうが良いと、ベッドをトイレの近くに寄せた。すぐに点滴が始まり、私は再入院の手続きや着替えなどの準備を始めた。病院にいれば看護婦さんや先生方もいるし、私は正直安心していた。翌日からは仕事にも行き、普段と変わらない生活を送り始めた。数日後、病院から私の携帯電話に連絡が入った。妻が自力でトイレに行ったところ意識を失い倒れたのだ。

私は慌てて病院へ向かった。ベッドには妻が横になっており、意識ははっきりとしていた。看護婦さんも、またこのような事が起きたら大変だからと、トイレに行く際はナースコールで呼ぶようにと親切に言ってくれた。私はこの時はまだ微熱や気持ち悪さで足腰がふらつき転んだのだと思っていた。

2011年1月10日、再入院後、いろいろな検査を受け始める。妻の体調もあまり改善されていない。病室には私とお義母さんお義父さんがきていた。やがて主治医とその先輩という先生が現れた。

「体調はいかがですか?」

そして、何故か病室にいた私たち三人を別室へ呼んだのだ。ドラマに良くあるワンシーンのように、何か嫌な事を言われるのではと、足取りが重くなった。妻の病状の説明を受け、言われるがままうなずく。話の中盤頃から先生の表情が変わってきたのに私は気付いた。嫌な予感は的中してしまったのだ。

「乳癌脳転移」

どうやら妻の乳癌は、脳へ転移してしまったのだと言う。でも話はこれで終わりではなかった。

「癌性髄膜炎」

これが正式名称で、致命的なのだ。

「余命1~2ヶ月」

先生は私たち三人に告げた。頭の中が真っ白になるというのは、こういう時を言うのだと、私は初めて感じた。脳の表面にある髄膜に癌細胞が付着しており、今後の治療は放射線を直接脳に当てる

「全脳照射」

を行い癌細胞をやっつけるというものだ。しかしこの治療にはリスクがあり、以前のように意識を失う事や呼吸困難などの問題が付きまとい、最悪、心肺停止になる恐れもあるという。病院側も医療ミスとか説明不足などと後々問題にならないように聞きたくもない説明をしてくる。お義母さんはその場で泣き崩れた・・・。私は先生の言葉の意味は理解できているが、「まさか」という気持ちのほうが大きかった。別室を出て三人は誰もいない休憩室へ向かった。気分を少し落ち着かせないと妻と顔を合わせる事ができそうにないからだ。私は今まで家族の前だろうと、決して涙を見せた事はない。でも、不思議な事に休憩室の椅子に座ったとたん、拭い切れないほどの大粒の涙が溢れていた。

「なんで、なんでそうなるんだよ・・・」

「何が余命1~2ヶ月だよ」

「意味がわかんねぇよ」

そんな思いだった。一度は手術も成功し、もう大丈夫だと思っていた矢先の衝撃に私もこの時ばかりはとても耐えられなかった。深呼吸をし気持ちを整え、妻の前では平然を装う事にして病室へ戻った。妻も三人が呼ばれた事を気にしていた様子だったが、こんな説明を受けた事なんて口が裂けても言えるはずがない。とりあえず、その場は何とかごまかす事ができた。病室から一旦出た私は、主治医の先生を呼び、お願いを聞いてもらった。

「これからは、ずっと妻の側にいてあげたいのですが・・・。」

先生も快く賛同してくれて時間外面会を許可してくれた。この日から日中はお義母さん、夜間を私が付き添う事に決め、新たな闘病生活が始まったのだ。

私が最初にしなくてはならなかった事は会社に事情を説明し休暇をもらわなくてはならない。本心は、妻が余命宣告をされたなんて誰にも言いたくなかった。私自身が心の整理もついていないし、納得もできていない状態で誰かに話すという事は、余命宣告を受け入れ、いずれ亡くなってしまう事を認めたように感じたからだ。だから私は、会社のごく一部の人にだけ報告し特別休暇をもらう事にした。次の日からは、昼間の時間帯に仮眠を取り、夕方には妻の元へ行く。朝の9時頃になるとお義母さんが交代で付き添ってくれる。そして私はまっすぐ帰宅するのではなく、病院近くにある「神社」へ向かうのだ。

「お願いします。どうか妻の命をお救い下さい」

祈る言葉はいつも決まっている。時には、朝夕と一日に二回参拝しに行く事もあった。情けない事に、私には毎日付き添ってあげる事と神様に祈る事くらいしかできなかった。

入院してからどのくらい経った頃だろうか、妻の様子に異変が出始めていた。食べた物を吐いてしまう事は度々あったのだが、最近はどうも様子がおかしい。言葉がうまく話せないのだ。何かを言いたくても思い出せなかったり、妙に子供っぽかったり・・・。逆に、私やお義母さんの話を理解できていない時もあった。看護婦さんとの会話も理解できていない。この症状が全脳照射の副作用なのか癌性髄膜炎の症状なのかは分からなかったが、看病している側にとっては見ているだけで辛いものがあった。これと同時に辛い思いは妻の全身を襲う「痛み」がひどかった事。最初のうちは痛み止めの点滴で抑えられていた痛みが、この時にはもう最終手段の痛み止め「モルヒネ」になっていた。モルヒネとは医療用の「麻薬」である。この麻薬にも副作用があると私は先生から説明を受けていた。「幻覚」「吐き気」「呼吸障害」など。麻薬と聞いて良いイメージがないのは当たり前だが、先生が言うには医療用で依存性もないからその点では安心して下さいとの事。副作用は怖いが、痛みに苦しんでいる妻を少しでも楽にしてあげられるのは、もうこの薬に頼るしかなかった。モルヒネを打っている間は痛みから解放され、わりと落ち着いた感じだった。しかしこの痛みも質が悪く、どんどん妻の体に襲い掛かってくるのだ。様子を見ながらモルヒネの量を調節し、看護婦さんも神経を尖らせて妻の看護に徹してくれた。だが、妻の全身の痛みは改善される事なく、常時、モルヒネを打っている状態となってしまった。幻覚症状が現れ始めた時、私は涙がこぼれそうになった。耳も少し遠くなってしまったので妻に顔を近づけて会話をしていたら、私の頬に虫が付いていると虫を振り払ってくれたのだ。もちろん私の頬に虫など付いている訳ではない。まさしく幻覚症状でそう見えたのだと思う。しかし夫の私に気遣ってくれたのだと思うだけでうれしかった。どんな状況でも私の妻は優しいのだと、改めて実感できた。


いつものように自宅に戻り、仮眠していると携帯電話が鳴った。着信は妻の弟からだった。電話に出た私は血の気が引き心臓が止まるかと思った。

「姉ちゃんが心肺停止になった。早く来てくれ。」

私は急いで病院へ向かった。病室前に着くと皆が廊下に立っていた。

「美香は?美香はどうだ?」

私はそこにいた皆に聞き迫る。

「今、蘇生の最中だって・・・。大丈夫だよ、必ず息を吹き返すから・・・。」

そう言ってくれたのは妻の親友だった。妻の為に会社を休み、毎日のようにお見舞いに来てくれていた親友だ。私はその人と一緒に妻の回復を祈り廊下で待ち続けた。「もう大丈夫ですよ。」病室から先生や看護婦さんが出てきた。私たちは急いで側に駆け寄った。妻はどうにか息を吹き返してくれていた。妻は、たった今自分に起きた状況をまったく理解できていない様子だった。今まで妻には病状を悟られないように気を付けてきたのだが、私は妻の顔を・・・生きている姿を見て、思い切り泣いてしまった。

「良かった・・・。本当に良かった・・・。」

妻は、なぜ私が泣いているのか不思議そうにしていた。もしかしたら妻に病気の事を悟られてしまうかもしれない気持ちもあったが、愛する妻が死んでしまうかもしれない状況といつも背中合わせでいる私には、どうしても我慢できなかった。ただただ、一日でも長く、そして、奇跡の回復を祈る事しかできないから・・・。

2011年2月1日、相変わらず妻の病状は変わらない。むしろ、少しずつ病魔に侵され続けている。

ベッドから起き上がるのも一度四つん這いになってから正座の格好になる。手すりにつかまっていないと倒れてしまう。誰かが背中を押さえていないといつ倒れてしまうか心配だ。それでも妻はベッドから起き上がろうと何度も繰り返す。目が離せない状況だ。しかしこの日だけは妻が起き上がってくれた事がすごく嬉しかった。2月1日は結婚記念日なのだ。7回目の記念日を病室で迎えるとは想像もしていなかったけど、妻は看護婦さんを呼び写真を撮って欲しいと頼んでくれたのだ。体の痛みや下半身の麻痺もある中で、妻は頑張ってベッドの端にきちんと座った。そして、丸7年の結婚記念日を二人の記念撮影と共に終え、八年目を引き続き病院でスタートする事となった。

2月に入ると、妻の言語障害や視覚障害、思考能力がどんどん低下し始めていった。聞き分けのない子供のようになったり、携帯電話の画面がまったく見えなくなったり、急に怒りだしたり・・・。夕方、私が付き添いの交代で病室に入るとお義母さんと看護婦さんが起き上がってジタバタしている妻を押さえ込んでいる時があった。何事かと思い近寄ると、妻が私に助けを求めてきた。

「さとし!助けて!皆がいじめるよ。帰りたいよ。さとし!」

この時、妻の思考がどういう思いだったのかはよく分からないが、きっと何かに怯えて起き上がったところを止められて、まるで皆にいじめられているような錯覚を感じたのだと思う。のちに、この妻の錯覚は私をどん底に突き落とす悲しい言葉へとつながっていくのだ。


再入院してから一ヶ月経ったが、妻は何も食べていない。大好きな甘い物も、消化の良い病院食も、口にしてもすぐに吐き出してしまう。飲み薬でさえ受け入れない事もある。栄養と薬は全て点滴からだった。下半身の麻痺も悪化しており、特に左足は自力で動かせなくなっていた。相変わらず腰や背中、太ももの痛みも続いており、モルヒネの摂取量も増えていった。

ふと、妻の表情に異変が見え始める。妻の目は見開き、一点を凝視するのだ。妻にしか見えていない何かを・・・天井や壁、にらみつけているようにも見えるし、我を失い洗脳されているかのように。副作用による「幻覚」が見えているのだと思っていたが、それは副作用なんて甘いものではなかった。この時すでに妻の脳内は癌に侵され、もうすでに本来の妻ではなかったのだ。これを決定的に裏付ける出来事が私に降りかかる。いつものように妻の側に私が近寄ると・・・

「あ・な・た・は・・・だ・れ・で・す・か・・・」

もう・・・私の顔を見ても、誰だか分からなくなってしまった・・・。

「俺だよ!さとしだよ!お前の旦那だろ!思い出してくれよっ!」

いくら声を掛けても、もう私を思い出す事はなかった。

「悲しかった・・・・」

いつもどこに行くのも一緒、家の中で手をつないでいる事もあったくらいなのに、もう私の名前すら呼んでくれない。手をつなごうともしてくれない。また妻は・・・大きく目を見開いて、私の知らない世界に戻ってしまった。

こんなに悪化していく状況が続く中、私は奇跡を祈り、毎日看病を続けた。そんなある日の事、病室に入ると妻の顔には今まで使用した事のなかった「酸素マスク」が装着されていた。お義母さんに尋ねてみると、体内に取り入れられる酸素濃度が弱くなり始めたというのだ。入院してからは常にどちらかの指先には、異常があるとナースセンターに知らせが届く装置が付いていたのだが、妻の呼吸が弱り、酸素吸収が難しくなってきているらしい。たしかに、私のような素人が見ても分かるほど、妻の呼吸は息苦しさを感じる。そして、私とお義母さんは担当医から、また別室に呼ばれるのだ。




髄膜播種ずいまくはしゅ

聞いた事もない病名であり、医者が恐れていた病名でもある。妻の脳で悪さをしていた癌細胞が、脳の中では物足りず、脊髄を経由して身体の細かい神経にまで広がってしまったのだ。

「もう・・・成す術が・・・ありません。」

医者の口から初めて聞いた弱気な言葉だった。

「本当に助からないのですか?何とかならないのですか?」

お義母さんは我が娘を想う気持ちで必死に先生に問いかけた。

「何で私じゃないんだろう・・・これじゃ美香がかわいそうだよ・・・」親が子を想う気持ちが私にも痛いくらいに伝わってくる。私の性格はひねくれているのか、先生の発した言葉が諦めというか、さじを投げるようにし聞こえなかった。頭では現代医学でも治せない病気がある事は分かっているけど、家族として夫として、私が諦めるわけにはいかないのだ。私は翌日、インターネットで調べて有名な気孔の先生に相談した。目には見えない力を信じる事は難しいけど、藁にもすがる思いで気孔に賭けてみたかった。どんな事をしてでも、私は妻を助けてあげなくていけないのだから・・・。

2月14日 気孔の先生が来院された。すぐに手のひらを妻に向け、気を送り続けてくれた。妻の呼吸は前よりも弱く、かろうじて全身を震わせて呼吸をしているようだった。目は閉じたまま、私たちの呼びかけにも反応をしめさない状態で、それこそ妻の呼吸が止まるのを待っているかのようだった。それでも絶対に諦められない。気を送っている間、ずっと祈っていた。

数十分後、看護婦さんが病室を頻繁に出入りするようになった。妻の呼吸や心拍数が弱くなってしまっているのだ。気孔の先生も気を送り続けてくれているが、こう何度も看護婦さんが出入りすると気孔の先生も居づらくなってしまっている。私は仕方なく、気孔の先生に

「本日のところは・・・また状態が落ち着きましたらお願いします」

と、お帰りいただいた。

しばらくすると、私の知らないうちにお義母さんが呼んだのかは分からないが、妻の兄弟や親戚、友達や私のお袋までが、次々とお見舞いに訪れていて、ふと病室の中は20人くらいの人が集まっていた。皆が

「美香ちゃん!美香ちゃん!」

と、一生懸命に声を掛けてくれる。妻がこれだけ大勢の方から心配されていたと、改めて思いしらされた瞬間だった。しかし、それでも妻は何も反応してくれない。それどころか、呼吸の回数が微妙に減ってきているようだった。

私は呆然と成す術がないまま、ずっと妻の手を握っていた。気のせいか、私は誰かに呼ばれた気がして振り返った。するとその先に見えたものは、窓越しから大きな粒の雪が辺りの景色を真っ白に染めているのに気付いた・・・。


2月14日 午後6時15分

美香は・・・皆に見守られながら・・・

ゆっくりと・・・旅立ってしまった・・・

まるで、皆が揃うのを待っていたかのように・・・

                           


七年間という愛溢れる幸せな生活を過ごさせてくれた妻が、私たち家族に笑顔を与えてくれた妻が、苦しかった闘病からやっと開放されたのだ。

私は泣いた・・・。今まで何度も泣きそうになり隠れて泣いていた時もあったが、妻の最後を見届けられた瞬間、子供のように泣いた。

ずっと・・・ずっと・・・

ただひたすらに・・・泣いていた。

どれだけ時間が経ったのか分からないが、

この時の私は声を掛ける事も、立ち上がる事もできなく・・・泣く事しかできなかった。


妻の身体がどんどん冷たくなっていくのを覚えている。妻の手を握る私の指先は、冷たくなるにつれ妻がどんどん遠くへ行ってしまうように感じた。しかし看護婦さんは妻の身体を処置しなくてはならないので、家族には申し訳ないが廊下へ出るように指示を出す。妻を守ってやれなかった私は、廊下に出る前に何度も妻に謝った。


「美香・・・ごめんね。俺、守ってやれなかった・・・。助けてやれなかった・・・ごめんね・・・ごめんね。」


部屋を最後に出たのは私だった。

全員が廊下に出ると、妻の処置が始まった。看護婦さんの中には涙を流す方もいた。処置が終わると、普段は使った事のないエレベーターに乗せられ、1階の安置所に向かった。亡くなられた方が病院を出る時にしか使わない専用の部屋。看護婦さん、担当医、その他諸先生方など、大勢の病院関係者が見送りに来てくれた。安置所で線香を上げた後、妻を乗せた車は自宅に向かった。私は下の娘を隣に乗せ、雪が降る中、自宅へと車を走らせた。途中、娘が私にこんな質問をしてきた。

「この雪はママが降らせたのかな?」

「そうだね。きっと、バレンタインだからな。ママがお世話になった皆に雪のプレゼントをしてくれたんだね」

私は、そう答えた。本来なら、雪道なんて運転しづらく嫌なものだが、この日の雪は悲しい涙のようであり、妻の優しさを表した心の白さのようにも思えた。

自宅に着くと、すでに妻は和室に敷かれた布団に寝かされていた。病気を治し、一緒に家に帰ろうと約束したのに、こんな形で妻が帰宅するとは夢にも思わなかった。きっと妻も、一番落ち着く自宅に帰れて、ほっとしている事だろう。目を閉じたままの妻の顔からは、そう感じ取れた。これから「通夜、告別式」の日までは自宅に安置となるのだが、皮肉なもので、喪主となってしまった私は、ゆっくりと悲しんでいる事さえ許されない。翌日には葬儀屋との打ち合わせを行い、いろいろと準備が忙しくなってくる。妻とゆっくり向き合えるのは、決まって深夜の就寝前で、子供達が自室に行った後だ。冷たい妻の頬に手を添え、

「美香ちゃん・・・美香ちゃん・・・」

と、名前をつぶやく・・・。返事がないのは当たり前なのだが、何度も名前を呼び続けてしまう。走馬灯のように、妻と過ごしてきた思い出がよみがえってくる。


出会った頃の美香・・・

初めての飲み会での出来事・・・

夜、車の中で過ごした時間・・・

手をつないで散歩した道のり・・・

頑張って建てたマイホーム・・・

家族旅行・・・手料理・・・記念日・・・くだらない会話・・・じゃれあったり・・・笑ったり・・・


私に・・・子供達に・・・たくさんの幸せと愛を与えてくれた!



「もし美香が死んだら、俺を迎えに来い」

生前、妻との会話の中で約束していたのだ。妻は強がりの反面、すごく寂しがり屋でもあった。だから、家族を残して一人だけ先立てば絶対に寂しいはずだと思い、私は妻と約束したのだ。私は表向きではそれなりに喪主の姿を装っていたが、一人の時間になると子供達や親に向けた遺書を作成し、いつでも後を追えるようにしていた。すべてが済んだら・・・。


四十九日の前夜、なんと妻は私に会いに来てくれたのだ。

いつの間にか眠ってしまったので、きっと夢の中なのだろうが、妻は微笑みながら私を抱きしめてくれた。

「美香がいないと寂しいよ」

と、訴える私に対して、妻はずっと微笑みながら何も答えてはくれない。まるで、母親が子供をあやしているようで、優しくて暖かくて・・・。

そして妻は、振り返らずに眩い光の中へ吸い込まれるように消えて行ってしまった。私は妻が会いにきてくれたのだと感じた。でも私にはすぐに分かった事がある。妻はいくら自分が寂しくても、私に着いてきてほしいとは願ってはいなかったのだ。きっとあの微笑みは、

「さとしなら私がいなくても大丈夫。これからを大事に生きて下さい・・・ありがとう」

と、そう願っての微笑みだったのだろうと思えた。

私は現在に至るまで、1日たりとも妻を思い出さない日はない。写真を見るたび、思い出を振り返るたびに、悲しみ泣く事もあるだろう。私をこんなに愛してくれて、幸せを与えてくれた妻に心から感謝している。だから・・・私は妻が残してくれた娘をちゃんと育てていくからね。私が妻を愛したように、娘もちゃんと愛して育てていくから。だから、そっと天国から俺たちを見守ってくれよな。


          



美香に出会えてよかった・・・


俺たちは家族だから・・・ずっと永遠に・・・


俺は忘れないよ・・・たくさんの幸せ・・・


ありがとう・・・やすらかに・・・


                          つづく


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