Day. 7 数の作り方
数、と聞いて大抵の人は、自然数を真っ先に思い浮かべるでしょう。でももちろん、数はそれだけじゃありません。
今回は、新しい数が生まれていく過程や作り方に焦点を当てています。
あと、ついでに例の新キャラもまた出てきます。
「そういえばキミたちぃ、ちゃんと数学の研究はしてんの?」
放課後のマス部で、ドアのそばの椅子に座ってふんぞり返っている、OGの沼倉純がそう言った。杏里の作ってきたアプリコットクッキーを、食べカスつけて頬張りながら。
そんな尊大な態度の沼倉を、現部員であるわたし達は、七並べの手を止めて白い目で見る。
「沼倉先輩、また来たんですか……」
「ここは遊びに来る所じゃないんですけど?」
「鏡見て言えや」
トランプで遊んでいるように見えるわたし達に、沼倉は文句をつけてきた。現状では誰がツッコミを入れても説得力のないマス部である。
とはいえ、蘭子に限っていえば、ただ遊んでいるように見えて、頭では数学的思考を常に働かせているらしいのだが。
「私は今、七並べをゲーム理論的に解析しているんです。遊んでいるわけではないんですよ」
「減らず口は変わらん奴だな」
「……もう残りのクッキー全部あげるんで、とっとと帰ったらどうですか」
「いや、帰れって言われても……この暴風雨の中を帰るって、無理じゃね?」
ここ最近、暑い日が続いたせいか、大気の状態が不安定になっていた。今日は昼から風が強くなり、わたし達が文化部棟に入ってすぐに雨が降り始め、今は台風並みの暴風雨となっている。ごうごうと風が木々や建物を震わせ、雨が滝のように打ちつけている。ついさっきこの地域には、記録的短時間大雨情報が発表された。
まあ要するにわたし達は、この部室から出るに出られない状況なのである。一応、家族に車で迎えに来てほしいと電話で頼んではいるが、それもいつになるか分からない。下手に外に出るだけでも危ういのだ。
「びしょ濡れになって帰ればいいじゃないですか」
「両生類と一緒にするなバカ野郎」
小学生みたいな口喧嘩を始める蘭子と沼倉を放置して、わたしと杏里は窓の外を見に行く。窓に雨は打ちつけられていないが、二階建ての文化部棟の二階にあるマス部なので、屋根からの雨音はよく聞こえてくる。
「雨、全く弱くなる気配ないですね……」
「すぐに止むかと思ったんだけどな……こんなことなら、今日の部活動は休みにしてもよかったかもね」
「ですね。どうせここにいても遊ぶだけですし」
「やっぱり遊んでんじゃねーか」
はい、ただ遊んでいるだけなのがバレました。もっともわたしは、蘭子みたいに誤魔化すつもりもなかったけど。
「いやいや、自分の研究がキリのいい所まで進んだので、骨休めしているんですよ」
「茉莉ちゃん、ゴールドバッハ予想の研究をしているんですよ」
「ふーん……つまりまともに数学の研究をしているのは新入りだけなのか」
「沼倉先輩、いい加減わたしの名前覚えてください」
杏里や蘭子が何度もわたしの名前を口にしているのに、沼倉は未だにわたしを“新入り”と呼んでいる。先輩風を吹かせたくて仕方ないのだろう。だからわたしも時々、お返しに彼女を“二留先輩”と呼んでいる。
「それにしても、ゴールドバッハ予想もそうですけど、素数って本当に、分かっていないことが多いんですね」
「規則性が見えないのも然る事ながら、特に素数はかけ算が基本にある概念だから、足し算が絡むと途端に難しくなる。有名なABC予想もそのひとつだ」
「だが、素数ほど多くの数学者を魅了してきた概念はないと思う」と、沼倉。「素数はもはや整数論だけのものじゃなく、ゼータ関数を中心とした解析学、ガウス整数をきっかけとした代数学、そして幾何学にも統計学にも深く関わっている。素数があらゆる数学のジャンルを橋渡ししていると言っても過言じゃない」
「…………?」
「純先輩、専門用語が多すぎて茉莉ちゃんの思考回路が渋滞してます」
杏里が今のわたしの状態を的確に言い表した。杏里は先輩たちの難しい話にもついていけるけど、わたしのような素人の目線も持ち合わせている、とても貴重な存在だ。
「そういえば」蘭子は何かを思い出す。「杏里は去年、ガウス整数の研究をしていたな」
「あれ? 先輩たちは去年、なんとかのギャスケットの三次元版を研究して、銀賞を取ったって言ってませんでした?」
「シェルピンスキーのギャスケットね。あれは蘭子ちゃんが中心になっていて、私や先輩たちはお手伝いをしただけだから。私個人は別の研究をしていたの」
「パソコンで3Dデータを作っておけばいいものを、蘭子のやつ、発表会用に現物モデルなんか作ると言い出してねぇ……あの時は大変だったよ」
「手伝いもしなかった奴が苦労を語るな」
どうやら、二年前に引退したことを言い訳に、沼倉は蘭子の研究に参加しなかったらしい。ちなみにその時作った現物モデルの残骸は、段ボール箱に入れられてロッカーの上に置かれている。
まあそんな昔話はともかく、わたしは杏里に気になったことを尋ねる。
「で、ガウス整数って何ですか」
「実部も虚部も整数になっている複素数のことよ。数学者のガウスが最初に研究したことから、そう名付けられているの」
「へぇー……」
あれ、いつも分かりやすい杏里の解説が分からない。数学者のガウスは聞いたことがある。前に蘭子が数学者の神7の一人に挙げていたような。でも他の言葉が全く分からない。
実部って? 虚部って? 複素数は……。
「複素数……って、これも素数の仲間ですか」
わたしがそう言った途端、部室が静まり返る。雨風の音だけがごうごうと轟いていた。
「…………え?」
先輩たちの驚いたような視線が集まって、わたしは困惑した。どうやら何か見当外れなことを口にしてしまったらしい。
そして、蘭子と沼倉が揃って放ったひと言で、やっぱり見当外れなのだと確信に至った。
「「ないわーーーっ!!!」」
「何ですか、二人揃って!」
「数学に関しては似た者同士なんだよなぁ、この二人」
ものすごくショックを受けたように、顔を歪ませて同時に叫ぶ蘭子と沼倉。この二人のシンクロは見慣れているのか、杏里だけは落ち着いたものだ。
「キミはマス部員のくせに複素数も知らないのか?」
「数学へのアイがないぞ、アイが!」
口々にわたしを責め立てる沼倉と蘭子。マス部の部員といっても、成り行きで入っただけの新参者だし、知らないことがほとんどなのだが。……杏里はなぜか口を押さえて笑っているし。
「そう言われても、知らないものは知りませんし……杏里先輩、複素数って高校の授業でやります?」
「はぁー…笑った。ええ、高校数学の範囲よ。確か今は数学Cで扱っていたと思う」
「じゃあ一年生のわたしはまだ習ってないじゃないですか」
「マス部なら授業で習わなくても、自ら主体的に数学を探究するものだよ」
「そう、蘭子の言うとおり、そうでなければ数学徒を名乗る資格はない」
さっきまで子供みたいな喧嘩していたのに、何だかんだ息ぴったりな蘭子と沼倉である。ただわたし、数学徒を名乗った覚えはない。
「えーっと、この二人が特殊なだけだから気にしないでねー」動じない杏里。
「あ、はい……で、複素数って何ですか」
「その前にまず、虚数について説明する必要がある」
わたしの無知に呆れながらも、積極的に説明してくれるのが蘭子のいいところだ。
「私たちが普段使っている数……つまり数直線上にある数は、2乗すれば必ず0以上となる。プラス同士をかけたらプラスだし、マイナス同士をかけてもプラスになる。そこで考え出されたのが、2乗してマイナスになる数、虚数だ。虚数は英語でimaginary number(想像上の数)と称されていて、ここから、2乗して-1になる数をアルファベットの‘i’で表記している」
あー、なるほど。だからさっき杏里は笑いをこらえていたのか。相変わらずダジャレへの耐性が低い。
「想像上の数……つまり虚数は現実に存在しないってことですか」
「現実っていうのが何を示すかによるな。人間の都合で新たに作られた数だから、存在すると言えなくもない。ただ数直線上には存在しない」
「人間の都合で数を勝手に作っていいんですか?」
「精密で矛盾のない定義をしていれば、勝手に作ってもいいんじゃない? そもそも、自然数以外の数は全部、人間の都合で作ったものだし」
なんて自由な……数学は論理さえしっかりしていれば、案外何をしても許される学問らしい。
「でも、2乗してマイナスになる数って、わざわざ作る意味あります?」
「なかなかクリティカルな所を突いてくるな、茉莉……虚数がどうして生まれたかというと、きっかけはカルダノが発見した、三次方程式の一般解の公式にある。二次方程式の解の公式は紀元前から知られていたが、三次方程式の方は16世紀に入ってようやく見つけられた。だがこの公式は、マイナスの平方根の存在抜きでは説明できないものだったんだ」
沼倉が説明を付け足した。
「二次方程式でも、マイナスの平方根が解に含まれる場合はもちろんあるが、昔はその場合、問題の方を否定することで乗り切っていたそうだ」
「姑息ですね」ズバッと言うわたし。
「今ほど数学が自由じゃなかった時代の話だから……」
杏里いわく、16世紀までの数学は秘術と見なされ、新たな発見があっても、弟子など限られた人たちにしか伝承されなかったという。カルダノの頃から数学の成果を広く公表することが増え、これ以降、数学は飛躍的に発展していくことになる。
「ただ、公式を発見したカルダノも、虚数と名付けたデカルトも、虚数がそれほど役に立つ存在とは思っていなかったそうだ。しかし、同じ時代に活躍したラファエル・ボンベリの研究によって、虚数に関する問題の多くが解決され、認知度は一気に広まった」
「そしてオイラーの手で虚数を使った公式がいくつも発見されたことで、数学者たちの間で市民権を獲得するようになったわけだ」
「…………」
「自分が説明したかったからって拗ねるなよ」
数学者の神7に入れるほど、オイラーを強く崇拝している蘭子は、オイラーの手柄を自分が説明したかったらしい。頬を膨らませて沼倉を睨んだ。
それにしても、虚数ひとつでなかなか壮大なドラマがあったものだ。やはり人間の都合で何かが作られるのは、必要とされる場面があるからなのだ。
そんなことを考えていたわたしの耳元に、杏里が近づいてきて囁く。ちょっとドキッとした。
「茉莉ちゃん。数直線上の数は、-1をかけるとどんなふうに変化する?」
「そう、ですね……0を挟んでちょうど反対側に移りますよね。0の位置はそのままで」
「つまり、0を中心に180°回転するってことだよね」
「あー、そういう考え方も……わたし、数直線上で点が左右に移動するイメージでした」
「私は逆にその発想がなかった……さて茉莉ちゃん、虚数iをかけたら、数直線上の数はどうなるかな?」
「……どうなるんですか?」
「さっき、-1をかけた時を考えたけど、-1はiを2乗したものだから、-1をかけることは、iを2回かけることと同じなのよ」
「2回かけて180°回転するってことは……1回だったら、90°回転しますね!」
「そうなるわね!」
「あっち盛り上がってんな~」
わたしと杏里だけで盛り上がって、二人の世界になっている所を、外野の沼倉が眺めていた。
「つまり虚数の数直線は、元の数直線と0で直交する形になるわけ。ちなみに元の数直線上の数は“実数”と呼ぶの」
「座標平面みたいになりましたね。直線的だった数の世界が、虚数が加わって平面的に……」
「この平面上にある数はすべて、実数と虚数を組み合わせた数で、これを“複素数”というのよ」
「複数の要素からなる数だから、複素数というわけだ」蘭子も加わった。「ちなみに複素数に関する用語をまとめるとこんな感じだ」
複素数は、a+biの形で表される
a:実部 b:虚部 aとbはどちらも実数
b=0の場合は『実数』
a=0の場合は『純虚数』とも呼ぶ
「なるほど、純は実の部分が0である、と……」
「変な覚え方してんじゃねぇ」
なぜか怒る沼倉純。いや別に、彼女の中身が0だなんて、そんなことは露ほども思っていませんよ? ホントだよ?
「そして複素数も数である以上、基本の四則演算はできないといけない。まあ、中学校までにやった文字式の計算とほぼ同じだ。iが2乗したら-1になることにだけ注意すればいい」
(a+bi)+(c+di) = (a+c)+(b+d)i
(a+bi)-(c+di) = (a-c)+(b-d)i
(a+bi)×(c+di) = ac+bci+adi+bdi^2
= (ac-bd)+(bc+ad)i
(a+bi)/(c+di) = {(a+bi)(c-di)}/(c^2+d^2)
= {(ac+bd)+(bc-ad)i}/(c^2+d^2)
「割り算で使われているのは、分母の有理化の応用ですね。確か、(a+b)(a-b)=a^2-b^2という展開の式を利用するんですよね」
「茉莉ちゃん、よく覚えてたね」
「つい先日、授業で習ったばかりでしたから!」
「なるほど、ちょうどいいタイミングだったな」
習ったばかりの数学の知識が、こんなにすぐ役に立つとは思わなかった。蘭子に最初の頃言われていたとおり、授業もきちんと聞いておいてよかった。おかげで杏里からも感心されて「おー」と言われたし。
沼倉は……特に何も言わず、じっと真顔でわたしを見ている。
「けど、説明してもらっておいてアレですが、ホントに複素数の四則演算ってこれでいいんですかね……流されてそのまま受け入れるところでしたけど」
「不満か?」
「というより不安ですね」
「……その不安は大事にした方がいい」フッと微笑む蘭子。「この定義で大丈夫かどうか確かめるなら、複素数の四則演算で実数の四則演算もできることを示せばいい。だから虚部をすべて0にするんだ」
(a+0i)+(c+0i) = (a+c)+(0+0)i = a+c
(a+0i)-(c+0i) = (a-c)+(0+0)i = a-c
(a+0i)×(c+0i) = (ac-0)+(0+0)i = ac
(a+0i)/(c+0i) = {(ac+0)+(0+0)i}/(c^2+0^2) = ac/c^2 = a/c
「ホントだ、普通の四則演算になりましたね」
「つまり複素数の四則演算は、実数の四則演算からの自然な拡張だといえるわけだ」
「自然な拡張……?」
「数学は新しい概念を作るとき、既存の概念からの自然な拡張を重視することが多い。元々あった定義や計算方法、その性質など……なるべくそれらと矛盾したり例外を置いたりしないように、より広い概念を作るんだ。複素数はまさに、実数からの自然な拡張だといえる」
「ちなみに、さっき見せた複素数を図示する平面……複素平面っていうんだけど、この中で複素数の足し算と引き算は上下左右の移動、かけ算と割り算は、原点中心の回転と原点からの距離の伸び縮みになるの」
「実数でいうと、足し算と引き算は左右の移動、かけ算と割り算は原点からの距離の伸び縮みですから、これも自然な拡張になっていますね」
そう考えると、複素数ってよく練られた概念なんだな……実数の世界のルールが、複素数にもそのまま当てはめられるわけだから。
ん? ちょっと待てよ。わたしはひとつの疑問が浮かんだ。
「あれ、このままだとまずいのでは……?」
「何が?」
「最初に、複素数は(実数)+(実数)×iの形で書くと定義しましたよね」
「そうだな」
「この時点で複素数の四則演算を定義してないのに、複素数の定義に足し算とかけ算を使っていいんですか?」
「「「!!」」」
先輩たち三人が、揃って瞠目した。そして揃って、無言で何やら考え込む。
「…………」
「えっと、先輩方……?」
「ふふっ、いつもそうだが、茉莉は目の付け所が面白いな。教科書どおりにならなくてちっとも退屈しない」
「それは……褒めてるんですか?」
「褒めてはいないが、よく言ってくれたと思ってる」
「どっちの意味にもとれそうな言い方ですね……」
「細かいことではあるが、茉莉の疑問は正しい。教科書レベルなら気にしなくてもいいが、やはり厳密さを重視する数学で、未定義の概念を先に使うのはまずいだろう」
「ではどうするんですか? 複素数の書き方を変えるとか……?」
「ただ変えるだけだと、扱う人間が混乱するからな。ここは、複素数を別の方法で表した上で四則演算を定義し、その後にa+biの形に戻せばいい」
わたしは自分の顔が歪むのを自覚した。
「……どういうことですか」
「一旦、複素数の本来の形から離れて、単純な実数のペアを考えてみよう。つまり、(a,b)という形だ。ここから、“ペア同士の四則演算”をこのように定義する」
(a,b)+(c,d) = (a+c,b+d)
(a,b)-(c,d) = (a-c,b-d)
(a,b)×(c,d) = (ac-bd,bc+ad)
(a,b)/(c,d) = ((ac+bd)/(c^2+d^2),(bc-ad)/(c^2+d^2))
「これ、複素数の四則演算の結果を、実数のペアの表記に変えただけですね」
「まあ結果的にはそうなんだけど……でもこれ、実数の四則演算しか使ってないでしょ?」
「あっ、言われてみれば……」
「この四則演算が定義された実数のペア(a,b)を、改めて“複素数”と定義する。その上で……」
(a,0) = a, (0,1) = iと置き換えれば、
(a,b) = (a,0)+(0,b)
= (a,0)+(b,0)×(0,1)
= a+bi
「……という感じで、本来の表記に戻せる」
おお……思いがけず感動してしまったよ。
「す、すごいです……! 実数の四則演算だけで、複素数を完璧に定義できてしまいました!」
「まだ完璧と言うには早いよ、茉莉ちゃん」と、杏里。「iはあくまで、-1の平方根(の片方)として定義した数だよ? (0,1)がちゃんとその定義に当てはまるのか確かめないと」
「あっ、それもそうか……」
「まあ2乗して-1になれば、それでいいんだけどね」
(0,1)×(0,1) = (0-1,0+0) = (-1,0) = -1
「よかった、これも合ってます」
最後のピースも上手く嵌まって、わたしはホッと安堵した。
ちなみに、(a,0)を普通の実数aと置き換えることは、(a,0)同士の四則演算が、実数の四則演算と完全に一致することから正当化できる。これはさっきの、複素数の四則演算から実数の四則演算を導くやり方と全く同じです。
「それにしても不思議な感覚です……マイナスの平方根を一切使わずに、実数からの自然な流れで複素数を定義してしまうなんて……」
「まあ、複素数に要求される条件を満たすように、実数のペアを定義したわけだから、当然といえば当然だけどな。ちなみに、似たようなことは負の数や有理数でもできるよ」
「そうなんですか?」
「負の数の場合は自然数のペア、有理数の場合は整数のペアで考えるのよ」と、杏里。「でもこれらは複素数と違って、“同値類別”というテクニックを使うんだけどね」
「わあ、字面だけですでに難しそう……」
すると、沼倉が唐突に口を開いた。なんかすっかり存在を忘れていたよ、悪いけど。
「新しい数が作られるのはいつも、単純な方程式を解くときに、必要に迫られるからだ。必要は発明の父、とはこのためにある言葉だな」
「勝手にことわざを性転換しないでください」
不真面目な二留先輩は、真面目な顔で間違ったことわざを引用した。たぶんわざとだと思うけど。念のためにいうと、正しくは“必要は発明の母”だ。
単純な方程式を解くときに、新しい数を作る必要に迫られる……それは例えば、
「x+3=0という方程式は、自然数しか知らない人には絶対解けない。だから負の数を作った」
蘭子が言う。
「2x=3という方程式は、整数しか知らない人は余りを出すけど、有理数を作ることでさらに世界を広げたわね」
杏里が言う。
「x^2=3という方程式は、有理数だけで正確な解を出すことはできない。だから無理数の存在を認める必要があった」
沼倉が言う。
「x^2+3=0という方程式は、実数しか知らない人には解けない。これを解くために虚数が生まれた……確かにこうしてみると、蘭子先輩が言っていたとおり、自然数以外は人間の都合で作られた感じですね」
「まあ、必要に迫られて数を新たに作ったとしても、数式で厳密に定義できなければ意味はないけどな」
「蘭子先輩、にべもない……」
「だが」沼倉が口を挟む。「必要だから新しい数を作ったと一口に言っても、実際に生み出すのは簡単じゃない。有理数はかなり早い段階で市民権を得たが、負の数や無理数は整備に長い時間をかけたし、すぐには受け入れられなかった。虚数にしたってそうだ。-1をかけたときの挙動なんて、数直線しか知らなければ、さっき新入りが考えたように、直線上を移動するイメージになるのが普通だし」
「でもそれだと、仮に虚数を作ったとしても、ふわっとしたものにしかなりませんよね」
「数直線という一次元的な世界から、複素平面という二次元的な世界へ、新たな数を作るときには、そういう次元を越えたブレイクスルーが必要になるのよ。それをあっさり成し遂げたんだから、ガウスってやっぱりすごいわよね」
「うむ、さすがはオイラーと並ぶ数学界の二大巨星の一人だ」
そんなにすごい人だったのか、ガウスって……蘭子が神7に挙げるくらいだから、相当な天才だとは思っていたけど、こっちはどうやら、杏里が特に尊敬しているようだ。
数を作る……突拍子もないように見えて、数学の歴史から見れば必然的で、でもそう簡単にできるものじゃない……。今のわたし達は、長い年月をかけて数学者たちが成し遂げてきたブレイクスルーの、途方もない積み重ねの上にいるのだな。
「ガウスが複素平面を発明したことから、複素数の基本的な概念には、ガウスの名前を冠していることが多いのよ。複素平面はガウス平面とも言うし、複素数の世界の整数はガウス整数って言うの」
「……杏里先輩は、そのガウス整数を去年研究していたって言ってましたけど、やっぱり普通の整数とは違うんですか?」
「そうね……ガウス整数を導入したことで、整数の世界では当たり前だったことが、実は当たり前じゃなかったことに気づくのよ」
「…………?」
「例えば、素数といったら普通、それ以上かけ算で分解できない数だと思うでしょ?」※1は含めない
「ええ。というかそれが素数の定義ですよね」
「でもガウス整数の世界だと、普通の素数が分解できてしまうことがあるのよ」
「そうなんですか!?」
「4で割った余りが1である素数と2は、ガウス整数を使うとさらに分解できる」蘭子が付け加えた。「これと同値な命題は、ガウスよりもさらに昔……フェルマーによって示されている」
2 = (1+i)(1-i)
5 = (1+2i)(1-2i)
13 = (2+3i)(2-3i) etc.
「はあ……」
「それと、複素数の世界では基本的に、素因数分解の一意性が成り立つとは限らない」
「えっ!? 整数の世界じゃものすごく重要な性質なのに?」
素因数分解の一意性とは、整数を素数の積に分解するとき、順番の違いを区別しなければ、そのパターンは一つしかない、という性質です。
「一意性が成り立たないことに気づかなかったせいで、著名な数学者による証明がのちに誤りだったと判明した、という事例もある」
「うわあ……恐ろしいですね。新しい数を作って問題を解決できた一方で、それまで当たり前だった性質が、当たり前じゃなくなることもあるんですね」
「だからこそ、当たり前に思える物事ほど、注意深く向き合わないといけないってことよ。複素数なんて、iというたった一つの数だけで世界が広がって、それまでの常識を次々と覆してきたんだもの。まだこの世にない数を作り出すときは、それが常識を大きく塗り替えることも、覚悟しなきゃいけない……まあ、そういう恐ろしさを克服するからこそ、見えるものもあるんだけどね」
杏里は最後に、にっこりと笑って話を締めくくった。でもわたしには、最後の笑みがどこか寂しげにも見えた。
「数学では、論理が常識を覆すことがよくあるが、その論理も結局、常識に端を発していることに変わりない。素数を分解するという話も、私たちに身近な数学から始まっているんだ」
「身近な数学……?」
「そうだよ」
蘭子の説明を受けて、窓際に立っていた杏里はどこか妖艶に微笑み、三本の指を横向きに伸ばし、自らの顔の前に掲げて見せた。窓からうっすらと差し込む逆光が、まるで聖女の後光にも思える。
「フェルマーやオイラーがその価値を高め、ガウスが記号を導入したことで発展した技法……その名も、『合同式』よ」
そんなわけがないのに、杏里の背後から差し込む薄い光に、わたしは身も心も浄化されそうになる。これが聖なる光というやつか……。
「神々しき……」
「合同式な」蘭子が突っ込む。「あとここは礼拝堂じゃないから」
後光の差し込む聖母アンリ様を、畏まり合掌して拝むわたしに、蘭子は呆れたような目を向けている。まだわたし達三人の日常に慣れていない沼倉も、同様に肩を竦めている。
と、ここでわたしは大事なことに気づいた。
「って! いつの間にか雨が上がってるじゃないですか!」
「あら、本当ね。雲も薄くなってきたみたい」
何のことはない、窓から光が差し込むってことは、さっきまでの大雨が止んでいたということだ。まだ風の音はするから、油断はできないが。
そしてわたしは、先輩たちと七並べを始める前に、いつも家にいる姉に車で迎えを頼んでいた。暴風雨の間は危険なので車を出せずにいたが、外がこのくらい明るくなったということは、少し前から雨は弱まっていて、車も出せる状況にあったはず。つまり……。
「では、そろそろ姉が車で迎えに来てる頃だと思うので、わたしはこの辺で失礼します!」
大急ぎで荷物を抱え、わたしは先輩たちに敬礼で挨拶して、駆け足でマス部の部室を後にした。ぶっちゃけ急ぐほどの用事はないのだけど、今日は本当に部室でやることがなかったので、下校時刻を過ぎたらさっさとお暇しようと思っていたのだ。
先輩たちからの返答も聞かないまま、わたしは去っていった。
「お、おお、気をつけてな……」
「慌ただしい後輩だなぁ」
「もう、せっかく合同式について茉莉ちゃんに話してあげようと思ったのに」
「ま、新入りが最後まで残らなきゃいけないなんて決まりはないんだし、帰りたい時に帰ればいいさ」
「「…………」」
帰ってほしい時に帰らず居座り続ける沼倉を、蘭子と杏里の二人はジト目で見ていた。
「あの、純先輩が茉莉ちゃんを頑なに名前で呼ばないのって……」
「別にぃ~? マス部のくせに初心者が過ぎるから、ものになるまで初心者扱いしているだけだ」
「やっぱり……」
「というか、あんなズブの素人をよくこの部に入れようと思ったわね、あんたたち」
沼倉にそう言われて、蘭子と杏里は目を合わせた。確かに、鈴原茉莉をマス部に入れることを決めたのはこの二人だが、その決定を特に疑問視することはなかった。
「まあ確かに、数学の知識や技量に関しては、まだまだだと言わざるを得ないが……あの子は視点が面白いからな」
「私たちもいい刺激をもらえるし、教え甲斐があるもんね」
「そういうもんか……?」
「人を見る目のない沼倉先輩には、茉莉のポテンシャルが分からないかもしれませんけど」
「よーし蘭子、雨も上がったし表に出るかぁ」
怒気のこもった声で沼倉が言っても、言われた蘭子はどこ吹く風。
「あ、ジュースでも奢ってくれるんですか。ごちでーす」
「ジュースの前に喧嘩を買ってやろうか」
茉莉という新しい要素が加わって、マス部の世界が広がりを見せても、この二人の関係性は変わらないな、と思った杏里でした。
いやあ、変人は書いていて楽しい。
今回の題材にした複素数ですが、高校数学でも微積分より後に現れる項目なので、読者の中には初めて聞いたという人もいるかもしれません。それでも最近は、YouTubeなどで理数系のチャンネルが紹介することもありますから、学校で教わらなくても、どこかで聞いたという人もいるはずです。もう数学は、学校で習うだけのものではないみたいですね。
さて、複素数には奇妙な性質があります。次の話では、茉莉がその性質に迫ります。
ちなみに作中で言及はありませんでしたが、複素数を実数のペアで定義する手法はハミルトンが編み出しました。ハミルトンはこのアイデアをさらに応用して、複素数を拡張した『四元数』を作り出しています。現在では、複素数を次々と拡張する手法をひとまとめにして『ケイリー・ディクソンの構成法』と呼んでいます。




