Day. 6 不完全ではいられない
Day.4で取り上げた、完全数の話の続きです。偉大な数学者オイラーの証明に、素人の茉莉が果敢に(?)挑みます。証明というのは、完成されたものよりも、試行錯誤の過程の方が、見えてくるものが多いと思っています。スマートな完成形を見たい人はウィキペディアさんに頼ってください。
そして、またしても新キャラ登場です。
今日のわたしは、自分でも分かるくらいウキウキしている。放課後になって、マス部の部室に向かう足取りは、スキップしそうなほど軽い。
昨日マス部はお休みだった。というのも、二人しかいない先輩が同じ用事で先に帰ってしまい、残る一人の部員であるわたしだけ活動させるわけにいかないので、先輩たちの判断で休みになったのだ。しかし今日は先輩たちも普通に来るので、マス部は通常活動。二日ぶりに先輩方と、部室で会えるのだ。
やっと、完全数に関する宿題が解けたと報告できるし、そのうえで杏里から褒めてもらえると思うと、足取りも軽くなるというものだ。……蘭子から褒められることは、期待してない。
ウキウキの気分でわたしは、部室の戸をガラガラと開けて、元気よく挨拶した。
「こんちわー!」
「おっ? キミ、マス部の新入りかい?」
「……誰?」
知らない女子生徒が、中央に置かれたテーブルに向かって、フレームもピースも正方形という変わったジグソーパズルで遊んでいた。わたしの入室に気づいて、気怠そうな声でわたしに問いかけてくる。
誰だろう、このひと……長い茶髪を後ろで束ねてポニーテールにして、ところどころほつれてボロボロになった制服を着ている。リボンタイの色は蘭子や杏里と同じ若草色だから、たぶん年上。別に部の関係者以外が入れないわけじゃないけど、部員でもない生徒がなぜ、こんな所に?
もしかしてこれは、不審者というやつでは。
「あっ、茉莉ちゃん。やっほー」
杏里が少し遅れて部室へやって来た。ああ、二日ぶりだけど、早く会いたくてうずうずしていたよ……じゃなくて、早くこの事態を先輩に伝えなくては!
わたしは部室の中を指差して、大声で杏里に異常を知らせた。
「杏里先輩! 見るからに怪しい奴が部室にいます! 通報しましょう!」
「キミ、のっけから失礼じゃないかい?」
即座に怒った声のツッコミが部室の中から聞こえてきた。思いがけず出来上がったコントに、杏里も困り顔を浮かべるのであった……。
ちなみに、部室の不審者は杏里の知っている人物だった。杏里になだめられたわたしは、部室に入ってから彼女の説明を受けた。まあ端的に言うと、あの女子生徒は不審者でも何でもなくて……。
「ええっ!? マス部の元部員? このひとが?」
「うん……一応すでに引退しているから、元部員ってことになるけど」
「沼倉純だ。キミたちにとってはマス部の先輩だぞ。不躾な物言いをしておいて頭が高いんじゃないかい、キミ?」
「図に乗ってますね、このひと」
「くふふ……」
わたしがさらに不躾なことを言っても、杏里は特に窘めることなく、“ず”のダジャレで笑いをこらえている。この反応だけで、沼倉という先輩が普段どういう扱いを受けているか、分かった気がする。
先輩へのフォローも後輩への注意もしない杏里に、沼倉はたいそう不満そうだ。
「杏里……笑ってないで、キミからもこの失礼な新入りに何か言ったらどうだ」
「だって純先輩、もう部員じゃないのにいきなりやって来て、知らなきゃ不審者と思われても無理ないですよ」
「ここの制服着ているのに、不審者は無理があるだろう……」
沼倉は腑に落ちていないようだが、とうに部活を引退した生徒が、現部員よりも先に部室に入って好き勝手しているのは、充分に怪しいと思う。要するにこのひとも、マス部の部員の例に漏れず、常識の通じない変人ってことだ。
でも……あれ? なんか変だな。
「あの、三年生が部活を引退するのって、もっと先のことだと思うんですけど……沼倉先輩、引退するの早すぎませんか?」
「!」
わたしの指摘を聞いて、沼倉はフッと笑った。まるで探偵に全てを解き明かされ、観念しながらも余裕を見せる犯人のように……まあつまり、不審者っぽい笑い方だ。
「フフフ……バレちゃしょうがない。気づかれたからには、キミにも話さねばなるまい……」
なんでこのひと、犯罪組織の黒幕みたいなムーブをかましながら、自分語りを始めようとしているのだろう……。杏里なんか処置なしと言わんばかりに目を細めて、突っ込む気すらない始末だ。
「実は、私がマス部を引退したのは……二年前なんだよ」
「あ、要するに留年したんですね」
「最後まで聞かずに話まとめるのやめて」
だって察しがついたものはしょうがない。これ以上、無意味な悪役ムーブに徹してもらう必要もないし。
ようやく腑に落ちた。入学した年度ごとに変わるリボンタイの色が、蘭子たちと同じ若草色なのに、ずいぶんブレザーのチャコールグレーが褪せていると思っていたが、何のことはない。蘭子たちより三年ほど長く着用していたからだ。そもそも、引退した三年生ならリボンタイは群青色のはずだし。
「純先輩、つばき学園の長い歴史でも珍しい、留年経験のある生徒なのよね……二年前からずっと三年生のままで」
「つまり二留するほどのアホなんですね」
「キミ、初対面の先輩に対して当たり強くない?」
「別に純先輩、勉強ができないわけじゃないのよ。だからアホというのは……当たってなくもないけど」
「途中でフォローをやめるな、杏里」
「そんなにアホ呼ばわりされるのが嫌なら、なんで留年なんかしたんですか? 勉強ができないわけじゃないんですよね?」
「授業が途中からつまらなくなったからサボった。勉強など独学で充分だ」
何を堂々と言っているんだ、このひとは。やはり杏里の言ったとおり、勉強はできるけどアホなのだ。
「だったら退学すればよくないですか」
「退学したらマス部へ気軽に来れなくなるだろう。あと普通に外聞悪いし」
「留年も普通に外聞悪いですよ」
「まあまあ、せっかく二人が対面できたんだから、ゆっくりお茶飲みながら歓談しましょう。昨日、蘭子ちゃんと一緒に作ったアップルパイもあるし」
「やった! いただきます!」
「急に目を輝かせたな、キミ」
杏里は昨日、蘭子と一緒に近所のお料理教室の手伝いをして、その時にアップルパイを作ったことをLINEで報告してくれた。わたしにもご馳走すると言っていたから、楽しみにしていたんだよなぁ。
というわけで、部活が始まって間もないが、アップルパイとお茶でブレイクタイムとしゃれ込む。やっぱりお茶は茶葉で淹れたてに限りますよ。
「ぷはあ。やっぱ杏里の淹れるお茶は最高だな」
ブレイクタイムに便乗してお茶を嗜む沼倉。もう部員じゃないのに、完全に部室の空気に馴染んでいる。
「お粗末さまです」と、笑顔の杏里。
「沼倉先輩、ひょっとして杏里先輩のお茶が目当てで来ています?」
「それもなくはないが、単純に部の様子が気になっていたからな。何しろマス部は、伝統的に変人が集まりやすいからな。私のような常識人のストッパーが部を離れたら、無事にやっていけるか心配にもなるだろう?」
この十分足らずで説得力が大暴落していることに気づいてないのだろうか。
常識人のストッパー……? むしろブースターでは?
まあ、言わないであげるが。杏里も苦笑しつつ何も言わないでいるし。
「あ、そうだ」杏里が何かを思い出す。「茉莉ちゃん、例の宿題はやってきた?」
「完全数のやつですよね。やってきましたよ!」
「わあ、すごーい♡」
うふふ、もっと褒めて。
「宿題って?」沼倉が尋ねる。
「蘭子ちゃんが茉莉ちゃんに出したんです。この前、完全数の話題が出たので、それにまつわる問題を一問だけ……」
「へぇー、あいつが後輩に宿題を出すとは……キミ、あいつに気に入られているんだな」
どこが……? 徹頭徹尾厳しくされている記憶しかないのだけど。宿題だって、元々わたしはノーセンキューだったのに、無理やり課してきたのだ。
「それで? どんな問題を出されたんだ?」
「えっとですね……偶数の完全数の末尾が、必ず6か8になることを示せ、という問題です」
「おー、なるほど……こんなの即答できない方がおかしいだろ」
「えっ!?」
「純先輩、即答できる高校生の方が少数派です」
あまりに感覚のズレた沼倉の発言に、さすがの杏里も苦言を呈した。沼倉は即答できるくらい数学に秀でているようだが、わたしはまだ素人だ。即答できなきゃおかしいなどと言われて、一瞬焦ったけど、マス部の元部員である彼女の感覚が平均的なわけなかった。
「この程度の問題を宿題に出すとは、蘭子のやつも後輩にはずいぶん甘いんだな。そしてキミも、この程度で褒めてもらえると思っていたわけだ」
「わたしだって素人なりに頑張ったんです! 杏里先輩ならこれくらいでも褒めてくれますぅ~」
「あらあら、よしよし」
杏里のふくよかな胸に抱きついて、杏里によしよしと頭を撫でられるわたしを、沼倉は心底呆れたような目で見ている。
「精神年齢が幼児化してるぞ、キミ……そんなに頑張ったというなら、どんな証明をしたか私にも説明してみるといい。宿題ならちゃんとチェックしないとな」
「望むところです! 完璧に証明してみせますよ!」
「……なんで出題者じゃない先輩がチェックするのかなぁ」
杏里が何か呟いたが、さっきから尊大な態度を取ってばかりの沼倉に、実力と成果を見せつけようと躍起になっていたわたしには、何も聞こえなかった。
というわけで、わたしは説明した。一の位だけに着目して、2の累乗がループすること。メルセンヌ素数を使った式から、ループする数を1減らしたものと、ひとつずらしたもの同士をかけ合わせること。末尾が5だと素数にならないので、このパターンだけを除外した残りの全てで、かけ合わせた時の末尾が6か8になっていることを……。
「……ということで、証明終了です」
「…………」しばらく無言で思案する沼倉。「まあ、大事な所は押さえられているし、いいんじゃない?」
よしっ! わたしは杏里とハイタッチした。
「やりました、杏里先輩! あの偉そうな二留先輩を唸らせましたよ!」
「すごいわ茉莉ちゃん♡」
「お前ら、私に何か恨みでもあんのか……」
げんなりする沼倉。別に恨みとかはないけど、なんか雑に扱っても罰が当たらないような気がする。蘭子もそうだけど、そういう無遠慮な振る舞いを受け入れるユルさがあるから、わたしはマス部を居心地がいいと感じている。
もっとも、暴言を広く許しているわけでもない。特に数学に関しては、先輩方も真面目で厳しくなる。それは沼倉も例外ではないようで……。
「だけど一つだけ、気にかかる事がある」
「え?」
「キミは最初に、偶数の完全数が、メルセンヌ素数を使った式で表せる、という事実を前提にしたよね」
「はい」
「それが事実だということは証明できるのかい?」
「!」
痛いところを突いてきた。わたしは以前に、メルセンヌ素数を使った式で表せる数が完全数になることは証明している(それも杏里の手助けを得ているが)。だがその逆は、まだ証明を示していないと指摘しただけで、正しいと確認したわけじゃない。わたしは、正しさを証明していない事実を利用して、完全数の性質を説明したことになる。
わたしはいきなり説明に窮した。
「いや、わたしはまだ……後で蘭子先輩から教わるつもりでいたので。でも、蘭子先輩はちゃんと証明を知っていますし、すでに誰かが証明したことなら、使っても構わないかと……」
「キミ、それじゃダメだ」
バッサリと否定されて、わたしは肩をビクンと揺らした。沼倉のひと言で緊張の糸が張りつめられ、嫌でも顔が強張ってしまう。
「数学の世界にはこんな格言がある……」
沼倉はゆらりと椅子から立ち上がり、鋭い眼光で睨みつけてきた。まるで猛禽のように。
「『証明可能な物事は、証明なしに信じてはならない』」
わたしの甘い考えを一蹴する格言に、わたしは二の句が継げなかった。
「確かに数学の難問の中には、証明不可能と示されたものもある。しかし、すでに肯定的ないしは否定的に解決された問題は、証明が可能だと断言できる。その一方で、解決されたと思われた問題の証明が、後になって間違いだと判明したものもある。著名な数学者ですら、そういう事例は山ほどある」
「…………」
「誰が証明したかなんて、数学では重要じゃない。証明の中身が正しいかどうかがすべてだ。蘭子や先輩たちが証明を知っているかなんてどうでもいい。キミ自身が、あらゆる前提を、確信を持って正しいと断言できなければ……その先の論理がどんなに正確でも、不完全な証明だと言わざるを得ない」
厳しい……だけど、何も言い返せない。
蘭子もいつだったか言っていた。数学は公理を土台にして、命題という無駄のない石を、論理ひとつで積み重ねる学問だと。重ねる石をどれだけ綺麗に美しく整えても、重ねるための論理が正確に構築されていても、足元の土台が脆弱なら、数学という塔は簡単に崩壊してしまう。
論理が正確でも、前提が曖昧なままでは、間違えるのは当たり前……数学者は、それをよく理解している。蘭子はそう言っていた。わたしは、理解していなかった。
「…………」
「……ふぅ」沼倉はため息をついた。「キミの証明に足りないのは、偶数の完全数がメルセンヌ素数を使った式で常に表せることの是非だけだ。今ここでそれを証明すれば、キミへの宿題に合格点を出してやろう」
「……!」
「だから出題者でもないのになんで先輩がジャッジするんですか……」
杏里は呆れているが、わたしは、落ち込みかけていた気分が上向くのを感じていた。
蘭子から課された宿題だし、沼倉にOKをもらう必要など本当はない。足りない部分だって、後で蘭子から教えてもらう予定だった。だが、入部して一ヶ月ちょっととはいえ、わたしだってマス部の部員の端くれだ。自分に課せられた問題は自分で解く。そしてこの先輩に認めてもらう……!
「分かりました……証明してみせます!」
わたしは力強く決意した。そして……杏里にかわいくおねだりした。
「というわけで杏里先輩、アドバイスお願いします」
「うん、いいよー♡」
沼倉がズルッとこけるように体を傾けた。なかなかいいリアクションをするな、このひと。
「じゃあまずは、証明したいことの整理からね」
「はーい♡」
「揃いも揃って新入りに甘すぎだろ……」
後ろの人が何かぶつくさ言っているが、わたしは無視してホワイトボードに数式を書き込んでいく。
「まず、自然数nが完全数というのは、約数関数の値が2nになること。これはいいね?」
σ(n)=2n
約数関数とは、全ての約数を足した値を出力する関数のことだ。完全数は自分以外の約数を全て足すと自分自身と等しくなる自然数なので、約数関数の値は元の自然数の倍になる。
「はい。つまりこの式を満たすような、自然数nの形を求めるわけですね」
「そういうことね」
「……全く先に進めなくないですか」
「うーん、ここからは本当に閃きの問題だからね。でも今回は、目標となる式が最初からあるから、そこから閃かせた方がいいかもね」
2^(a-1) × (2^a - 1)
ただし、(2^a - 1)は素数(メルセンヌ素数)
「この形に誘導されるように、最初の自然数の表し方を変えるんですか? どうしたらいいんだろ……」
「実はこれ、意外と単純でね……2の累乗と奇数のかけ算、という形にすればいいの。つまり……」
n = 2^a × b
a:自然数 b:奇数
「この形に置き換えられるの」
「どんな自然数も、この形で表せるんですか?」
「ええ。どんな自然数も、2で割り続けていけば、最後は必ず、何かの奇数にたどり着くでしょ?」
「確かにそうですね。2で割り切れなくなったとき、それはつまり奇数ですから」
「だからどんな自然数も、2^(2で割った回数)×(最後に現れた奇数)という形にできるのよ」
「最初から奇数だったときは?」
「その場合は2の指数を0にすればいいけど、今回は偶数の完全数だけ対象にするから」
「あ、そうでした……」
ということは、2の指数aは0にならないので、aは自然数でいいみたいだ。ちなみにこの場合の“自然数”に0は含んでいない。
「じゃあ、この式を約数関数に入れて、計算していくと……」
σ(n) = σ(2^a × b)
= σ(2^a) × σ(b)
= (2^(a+1) - 1) × σ(b)
途中で、約数関数の性質②と③を使っている。前にメルセンヌ素数を使った式が完全数となることを示したときと、ほぼ同じ要領だ。
そしてこれが、2nに等しいわけだから……。
2n = 2 × 2^a × b
= 2^(a+1) × b
(2^(a+1)-1)×σ(b) = 2^(a+1)×b
「では茉莉ちゃん、次はどの部分を調べたい?」
「うーん……やっぱりbですかね。最終的にbがどんな形になるかが、大事になると思います」
「そうね。じゃあ、bがどんな式で表せるか、この式から読み取れるかな」
「いえ、さっぱり……」
「ヒントは、σ(b)とbの前にかけられている数が、1だけズレていることだよ」
「2^(a+1)と、2^(a+1)-1の部分か……あれ? 確か隣り合う整数は、必ず互いに素になりますよね」
「そうね」
以前に、素数が無限個あることの証明で、その性質を利用していたことを思い出した。非常にシンプルなのに、21世紀に入るまで見つからなかった、驚きの証明法だ。詳しくは第2話を見てね。
「σ(b)はbの約数の総和だから、もちろん整数。つまり右辺の値が、2^(a+1)-1の倍数ってことになる。でも2^(a+1)の部分には、2^(a+1)-1の素因数が一つも含まれていない……つまり、bが2^(a+1)-1の倍数でないといけない、ってことですね!」
「正解♡」
杏里はにっこりと笑い、指で○を作った。わたしはその反応が嬉しくて気づかなかったが、沼倉も内心では「ふぅん、やるじゃん」と思ったらしい。
「次はどうする? 茉莉ちゃん」
「bが2^(a+1)-1の倍数ってことを、式で表せばいいんですね。つまり、新しくb'を使って、こう書き換える事ができます」
b = (2^(a+1)-1)×b'
「すると、その前の式はこうなります」
(2^(a+1)-1)×σ(b) = 2^(a+1)×(2^(a+1)-1)×b'
σ(b) = 2^(a+1)×b'
「その後は……えっと……」
「うん、この次も閃きが必要になるね。次に考えるのは、σ(b)を下から評価することだよ」
「下から、評価……?」
「数学の言葉で、“これ以上になるだろう”とか“これより大きくなるだろう”という数を見つけること。つまり、確実にσ(b)以下になる数を見つけて、不等式で表すの」
「数学では頻繁に出る言葉だから、覚えておいて損はないぞー」
沼倉も重ねて言った。
なるほど、下から評価、か。たぶん逆の意味で、上から評価、という言葉もあるだろうな。そういえば前にもちらっと聞いた気がする。覚えておこう。
「茉莉ちゃんなら、約数関数の値であるσ(b)を、どうやって下から評価する?」
「bの約数の総和がσ(b)ですから、一部の約数だけ足した数なら、確実にσ(b)以下になります」
「うん。だったら、確実に分かるbの約数を、全部足してみよっか」
「えっと、bは2^(a+1)-1とb'の積だから……この四つは確実にbの約数ですね。つまり下から評価すると……」
σ(b) ≧ 1 + b' + (2^(a+1)-1) + (2^(a+1)-1)×b'
「はい、ダウト」
「えっ?」
後ろから沼倉にストップをかけられて、わたしは驚いて振り向いた。沼倉はガッカリだと言わんばかりに眉根を寄せている。
「それでは下から評価できてない。不等号が逆……つまり右辺がσ(b)より大きくなる可能性がある」
「え、だって二つの整数のかけ算なら、1と自分自身以外に、その二つの整数も約数になりますよね。bの約数を全て足したものがσ(b)だから、その四つを足してもσ(b)以下にしか……」
「では、b'と2^(a+1)-1が等しく、かつ素数だったらどうだ?」
「あっ……!」
沼倉の指摘で、わたしは見落としに気づいた。
b'と2^(a+1)-1が等しい、その可能性は否定できない。後者は明らかに奇数で、b'との積であるbは奇数だから、b'も奇数。現時点でbの情報はこれだけだから、ともに奇数であるb'と2^(a+1)-1が、異なるとは言い切れない。もちろん、素数であることも否定できない。
その場合、bは素数の2乗だから、約数は1とb'とb自身の三つだけ。わたしの書いた式だと、b'を二度足していることになり、約数の総和であるσ(b)より明らかに大きくなる。
「ということは、確実にσ(b)以下にするためには……」
「b'と2^(a+1)-1、どちらかを除外するしかないわね」
「究極の二択だ……さあキミはどっちを選ぶ?」
「ぐぬぬ……」
誰も正解を教える気はないようだ。わたしはホワイトボードの数式を睨みながら、どっちの数を式から外し、どっちを残すか必死に考える。数学では当たり前だが、こういうのは勘で答えてはいけない。必ず理屈で正解を導ける。
要するに、この証明で都合のいい方を残せばいいのだ。証明の先を読んで、必要な方を選ぶ。今わたしは、σ(b)を下から評価しようとしているが、それはなぜかといえば……杏里がそう言っていたからだ。杏里は何のために、σ(b)より小さい数を求めようと思ったのだろう。
「…………」
あれ? なんか変だぞ、この式。
σ(b)=2^(a+1)×b'
σ(b)≧1+(b'+(2^(a+1)-1))+(2^(a+1)-1)×b'
↑どっちを残す?
「わたしだったら、2^(a+1)-1を残します」
「……それはどうして?」沼倉が尋ねる。
「もしb'を残して、2^(a+1)-1を取り除くと、おかしな事が起こるんです」
σ(b)≧1+b'+(2^(a+1)-1)×b'
= 1+b'+2^(a+1)×b'-b'
= 1+2^(a+1)×b'
= 1+σ(b)
「こんなふうに、σ(b)より1大きいのに、σ(b)以下という、矛盾した式ができてしまいます。b'を選ぶと矛盾してしまう……ならばその逆で、2^(a+1)-1を選べばいいということになります!」
自分でも結構自信のある答えだったから、わたしは思いのほか力強く主張した。さて、先輩方の反応はどうだ。
「……いい線いったけど、大間違い」
「なんでぇっ!?」
沼倉は真顔のまま、両手で×を作った。杏里も困ったように苦笑している。そんなバカな。
「茉莉ちゃん……それはね、矛盾する方を選ぶのが正解なのよ」
「どういうことですか……?」
「さっき茉莉ちゃんは、bの約数の候補として四つの数を挙げて、そのうち、正体不明なb'が、2^(a+1)-1と等しい可能性を純先輩に指摘されたでしょ」
「そうですね……」
「でももうひとつ、b'と等しい可能性のある数が、約数の候補の中にあることに気づかない?」
b'と等しい可能性のある数……b自身であるはずはない。b'というのは確か、bを、約数である2^(a+1)-1で割った時の商だった。aは1以上の自然数だから、2^(a+1)-1が1になることはあり得ず、つまりbとb'が等しくなることもあり得ない。
残るは……あぁ、そうか。
「b'=1という可能性がありました!」
「そう。その場合は1と2^(a+1)-1の二つだけが、bの約数の候補になって、さっきの矛盾も起こらないわね」
「そっか、これって背理法だ……b'が1より大きいと仮定して、さっきの矛盾を導けば、b'が1だと断言できるんだ」
背理法とは……示したい事とは逆のことを、あえて仮定しておいて、そのうえで矛盾が起きることを示すことで、最初の前提が間違っている、つまり示したい事が正しいと証明する、ちょっとひねくれた証明法だ。
「バカ正直なキミには荷が重いかな、背理法は」
沼倉の小馬鹿にしたような言い草に、わたしはちょっとムカついた。わたしに散々言われたことへの意趣返しだと、容易に想像できる。ええそりゃもう、ひねくれ者の沼倉にはお似合いですよ、背理法は。
「ここまで分かれば、後はbに関する情報の整理ね」
「b'が1ということは、b=2^(a+1)-1で確定ですね」
「しかも同時に、σ(b)=2^(a+1)も確定したわよ」
「つまり、σ(b)=1+bだから、bの約数は1とb自身のみ……bは素数ということですね! ここまでの話をまとめると……」
σ(n)=2nを満たす偶数(完全数)nは、
n = 2^a × (2^(a+1)-1)
ただし、2^(a+1)-1は素数
「メルセンヌ素数という条件さえ満たしていればいいから、指数を1減らしても大丈夫よ」
n = 2^(a-1) × (2^a-1)
ただし、2^a-1は素数
「証明できましたーっ!!」
「おぉ~」
「お疲れさ~ん」
ようやく沼倉からの課題が終わって、わたしは両腕をピンと伸ばした。いやぁ、本当に長かった。そしてこんな複雑な証明をやってのけたオイラーに、改めて感服した。
みんなも拍手でわたしの苦労を讃えている。手伝ってくれた杏里も、元凶である沼倉も、そして蘭子も……。
「って、蘭子先輩いつの間に!?」
「茉莉たちが証明を始めた辺りから、ずっと扉の隙間から見守ってた」
「そんなに前から!?」
「私は途中から気づいてたよ」
「杏里先輩、気づいてたなら言ってくれたって……」
「せっかく茉莉ちゃんが集中していたし、邪魔しちゃ悪いかなーって」
気を利かせてくれていたのか。まあ、蘭子が途中で入ってきたら、何度も口を挟まれて、完全数の証明どころじゃなかっただろうし。
「それにしても沼倉先輩……私が茉莉に出した問題のはずなのに、よくもお株を奪ってくれたものですね」
「いや、数学徒として気になったもので……」
蘭子は目が笑っていなかった。爛々とした目で睨まれて、先輩であるはずの沼倉が目を背けて萎縮している。よほど蘭子は自分でオイラーの証明を説明したかったらしい。
「それにしても、長くて複雑な証明でしたね」
「実際にはこれよりさらに洗練された証明を、オイラー氏は残しているけどな」
「ひとの苦労に追い打ちをかけないでくださいよ、蘭子先輩……」
「どうせアレでしょ? 私が茉莉に出した宿題を、オイラーが証明した事実を使って解決したら、証明可能な物事を証明なしで信じるな、とでも言われたんでしょ」
ぎく、という声を漏らす沼倉。
「ええ、まあ……」
「私としては、同じことを指摘したうえで、私からオイラーの証明を説明する腹づもりだったのだが……こんなことなら、担任教師の頼みなんか無視して、さっさと部活に来ればよかったんだ」
「蘭子ちゃん……」
「優等生の皮を被ってると大変だな」
「黙れ留年生」
ズバッとひと言で斬り捨てる蘭子。この先輩たち、揃って沼倉への扱いが粗雑すぎる……。というか、杏里だけ先に来て蘭子が遅れたのって、それが理由か。
蘭子はテーブルの上のアップルパイを手に取って、むしゃむしゃと食べ始める。
「挙げ句に杏里のアップルパイまで先に食いやがって……」
「蘭子は料理教室ですでに食べたんだろう? ケチくさいこと言うなって」
「誰がケチだって? まったく、茉莉も災難だったな。こんな数学バカにさんざ振り回されて」
「いえ、そんなことは……」
とりあえず最低限の尊厳は守ってあげようと、わたしは遠慮がちな反応をする。しかしながら蘭子よ、それは絶対、人のことを言えないぞ。
「そういえば、さっきの格言のことですけど」
「証明なしで信じちゃいけないってやつ?」
「はい。その後に沼倉先輩が、証明不可能と示された数学の難問もあると言っていました。それってどういうことなのか気になっていて……」
「ああそれは、ゲーデルの『不完全性定理』のことだな」
「不完全性?」
「まあ、今日は完全数の話をするつもりだったし、不完全の話はまた今度にしようじゃないか」
上手いこと言って話を終わらせようとしているな、蘭子は。だが、下校時刻はまだ来てないので、解散したいわけではない。蘭子が数学の話を差し置いてでも、優先したいことがあるのだ。
「それよりも、沼倉先輩……」
「あっ」
テーブルの上に放置されていた、フレームもピースも正方形という変わったジグソーパズルを、蘭子が手に取った途端、沼倉の顔が引きつった。
「私がせっかく作ったルジンのジグソーパズル……なんで最小の2のピースだけ糊付けしてるかな?」
へえ、それって蘭子が作ったのか。名前の由来はよく分からないが、自作のジグソーパズルのピースを糊付けされたら、そりゃあ怒るよなぁ。パズルを解く面白さが大きく減るわけだし。
犯人の沼倉の言い訳はしどろもどろだった。
「いや、そのままだと回転と反転で8種の答えができてしまうし、どこか一ヶ所を固定すれば、答えを一つに絞れると思って……」
「フレームと一緒に絵でも入れれば問題ないだろ! 糊付けはさすがにないわ!」
「えっと、数学的な完全性をだな……」
「むしろジグソーとして不完全だわ!」
三年も年上のはずなのに、沼倉は終始蘭子に押されっぱなしだ。というか、数学的にパズルの答えを絞るために、ジグソーのピースを糊付けするって……。
「やっぱりあの二留先輩、数学はできるけどアホですね」
「…………」
先輩をフォローする言葉が全く浮かばず、苦笑するしかない杏里であった。
作中に登場した格言『証明可能な物事は、証明なしに信じてはならない』は、リヒャルト・デデキントの言葉です。“数”の本質に論理で迫ったデデキントらしい名言です。フェイクに踊らされてばかりの人は、この言葉を胸に刻み込みましょう。どんなに当たり前に思えることでも、「本当にそうだろうか」と疑うことが、信じることの第一歩になるのです。
だから、作中でジグソーパズルの題材にされた『ルジンの問題』も、本当にあれが最小解なのか疑って、自分の手で調べるとよいでしょう。ちなみに私はかの問題の証明を知りません。
……それにしても、一面真っ白で正方形ばかりのジグソーパズルって、作ったところで誰が解いてくれるのでしょうか。ニッチな需要はありそうですが。




