Day. 5 函を作らば穴二つ
今回は部室の外が舞台です。
数学ビギナーの茉莉が、新キャラに数学の解説を挑みます。さてどうなる。
その日の午後、六限目の授業が終わって、教室にいる生徒の誰もが、めいめいに放課後を過ごすべく帰り支度を始めているときだった。
わたし、鈴原茉莉のスマホにLINEの着信があった。そのメッセージの内容を確認したわたしは……愕然とした。
『ごめんね~、茉莉ちゃん。私も蘭子ちゃんも急用ができちゃって、今日は部活に行けそうにないの。たぶん茉莉ちゃん一人になると思うから、今日のマス部はお休みにするね』
そして直後に、『ごめんニャさい』と謝るネコのスタンプ。かわいいな、もう。
まあスタンプはこの際どうでもいい。これはわたしが所属する数学研究クラブ、通称『マス部』の先輩である、軽部杏里からのメッセージだ。同じ二年生の部員である及川蘭子とは幼馴染みだという。
つまり今日はマス部に顔を出しても、誰もいないということだ。せっかく完全数に関する宿題を解いたのに、蘭子に見てもらうことも、杏里に労いで頭を撫でてもらうこともできない……。
「はあ……早退したくなってきた」
「授業全部終わってから言う、それ?」
机に突っ伏して嘆き悲しむわたしに、真顔でツッコミを入れるのは、同じクラスの友達で、前の席にいる越谷瑠衣。つばき学園高校では珍しい、ぱっつんでおかっぱの髪型を常にきっちり整えていて、校内で割と浮いているのに物怖じしない勇ましさで、何人か女子のファンを獲得している。
もっとも当人は、そんな女子たちの眼差しなどどこ吹く風。ぶっきらぼうに振る舞ってはファンの子たちをキャーキャー言わせる日々を送っている。
「今日はマス部に行かないの」
「二人しかいない先輩がどちらも、用事があって来れないんだってさ……」
「ふーん、そりゃ残念だったな。大好きな先輩たちに会えなくて」
「べ、別に、大好きってほどでは……」
ニヤニヤ笑っている瑠衣がどう思っているか知らないが、わたしはマス部を居心地がいいと思っているし、先輩たちと一緒にいる時間は好きだ。でも、大好きかと言われるとしっくりこない。
「だって茉莉、何かにつけてマス部の先輩たちの話ばかりしてるじゃん」
「変わり者の先輩に囲まれて、教科書にない数学の話ばかりしてたら、自然と部活の話でいっぱいになるんだよ。そもそも、語り草になるほどの交友関係が、他にあるわけでもないしね……」
「血の涙流してまで自虐するもんじゃないぞ」
中学の頃から友達が少なく、高校に入ってもまだ瑠衣以外の友人ができておらず、完全に高校デビューが出遅れた一人の女子が、こうしてげっそりした顔で血涙を流して、乾いた笑い声を上げている、そんな放課後である。
もっと大所帯の部活に入っていれば、こんな狭い交友関係に甘んじなくてすんだかもしれない。今さら手遅れではあるが。なんてことを呟けば、瑠衣がにべもないひと言をぶつけてくる。
「大所帯に馴染めず孤立する光景が目に浮かぶ」
「不吉なIF妄想やめろ」
「でも案外、茉莉はマス部みたいな、少数でわちゃわちゃする部活のほうが性に合ってるんじゃない? 今だって別に、マス部をやめたいとか思ってはいないでしょ?」
「まあね……」
「わたしだったら、普段の授業すら煩わしい数学を、わざわざ研究するような部活なんて、札束を積まれても入る気にならねーわ」
「瑠衣は数学苦手だもんね……」
「残念、苦手なのは勉強全般だ」
その開き直り方が残念だよ。瑠衣は大体どの教科でも、小テストは毎回赤点ギリギリなのだ。
「茉莉だって、数学はたいして得意でもないでしょ。よくマス部でついていけてるね」
「マス部の先輩たち、説明は分かりやすいから……わたしもここひと月くらいで、結構詳しくなった自信があるよ」
「ほう……?」
片方の眉を上げて、挑発的に笑う瑠衣。普段は真顔でぶっきらぼうな態度をとる彼女だが、気を許した相手には、結構性格が悪くなる。
「んじゃあ、わたしからの質問に答えてよ。わたしが理解できるように」
「質問?」
「ズバリ……関数って何なの?」
「関数……」
これはまた、シンプルかつ意地の悪い質問をしてきたものだ。実際のところ、きちんと答えられる高校生は多くないだろう。かく言うわたしも、以前なら見当違いの答えしか返せなかった。
だけど、今は違う。こういう基本的な概念を、蘭子は決して疎かにしない。だからわたしに早い段階で説明を済ませているし、わたしもちゃんと理解した。
というわけで、わたしは瑠衣からの質問に、端的に答えた。
「自動販売機みたいなものかな」
「…………は?」
瑠衣は怪訝そうに眉をひそめた。うん、関数のことをよく理解していないと、こんな反応になるよね。
「どゆこと?」
「自動販売機って、お金を入れた後にボタンを押せば、それに対応した商品が出てくるよね」
「そりゃそうだ」
「つまり、“商品のボタン”という入力と、“出てくる商品”という出力が、箱の中できっちり対応しているということ。この関係のことを関数というんだよ」
「えっ、でも関数って普通、yイコールxなんとか、みたいな数式で表すじゃん。自動販売機の仕組みなんて数式で表せなくない?」
「わたしも最初はそう思ったんだけど……蘭子先輩いわく、“数式で表せるかどうか”って、関数ではちっとも重要じゃないんだって」
「はいぃ!?」
「つまり、入力と出力の関係が一対一になっていれば、とりあえず関数になるってこと。例えば……」
わたしは机にノートを広げて、以前にマス部で関数の話になったときに書いたページを見せた。蘭子がホワイトボードに書いたものを、書き写したものだ。あまり上手くない絵だけど……。
トランプ → ランプ
ちくわ → 鍬
帽子 → 牛
宝箱 → ?
こんなものが描かれている。
「こういうのも、規則性がはっきりしていて、しかも対応する言葉は一つしかないから、関数の一種だと言えるの」
「こんなクイズも関数になるの? わたしのイメージと全然違うわ……」
「ちなみに、?に入る言葉は分かる?」
「こんなの小学生レベルじゃん。頭の一文字を取ればいいんだから、宝箱は、空箱になるね。……ひでぇ問題だな」
「蘭子先輩が作った問題だからなぁ」
こういうガッカリな答えの問題を平気で作るのだ、あの人は。たぶんわざとだと思うけど。
「とにかく、関数というのは、一つの入力に対して一つの出力が決まるような、“対応の規則”を指す言葉なんだよ。だから数式である必要はないし、なんなら数を使わなくても構わない」
「数を使わなくてもいいのに“関数”なんて、ややこしい名前をつけてくれたものね」
瑠衣さん、わたしが名付けたわけじゃないから、そんな目で睨まないでくれよ。気持ちは分かるけど、この名前がついたのも複雑な経緯があるのだ。
「関数という言葉は中国語由来なんだよ。英語で『機能』とか『役割』の意味を持つ“function”が、中国で“函数”と訳されて、それが日本でも最近まで使われていたんだけど、今の教科書では常用漢字で“関数”と書くことが多いかな」
「これってもしかして、函館の“函”?」
「そうだよ。昔の中国人も、関数の役割から箱をイメージして、こんな名前をつけたんだね」
ちなみに蘭子はこれらの説明の最後に、こう付け加えていた。諸説あります、と。
さらに言うと、“関数”は数値を扱う時だけで、それ以外も含めた物事全般を扱う時は“写像”と呼ぶ人もいる。しかし蘭子いわく、この辺りの区別はかなり曖昧らしい。
「そういうわけで、名前に不満があるなら昔の中国人に言ってね」
「いやさすがに不毛だわ……そういや、高校に入ってから関数を書くときに、y=f(x)とかって書くよね。このfもfunctionから来てたりする?」
「そうだよ。実際には、状況に合わせてどんな文字を使ってもいいけど」
「あれって何のために必要なのか、よく分かんないんだよね。要はあれって、xに何か数を代入したら、yの値が求められる、ってことでしょ? 数式だけでyの値は分かるのに、f(x)を挟む意味ってある?」
瑠衣の疑問は一見すると真っ当に思えるが、マス部で関数についてみっちり教えてもらったわたしは、それがよくある誤解だと知っている。教えてもらうまでは、当然わたしも同じ誤解をしていたわけで……。
「……あの時の蘭子先輩も、こんな気持ちで呆れていたのかなぁ」
「むっ……」
「さっきも言ったように、“関数”というのはあくまで、“入り口と出口の対応関係”のことで、“数の代入”とは全くの別物なんだよ」
「どゆこと?」
「たとえば、y=f(x)=2x-1という関数の場合……」
y=f(x) … yは入力xを関数fに入れた時の出力
f(x)=2x-1 … 関数fの中身
「という二つの式を組み合わせているんだよ。まあ、実際に出力値yを求めるには、確かに式の代入が必要だけど、それはただの計算の手段にすぎないから」
「…………」
「どうしたの、急に黙って」
なぜか瑠衣は無言になって、俯いて影が差していた。と思ったら、今度はプルプルと震えながら、口惜しそうに表情を歪ませて恨み言を漏らした。
「なんでそういうことを教科書や授業は教えてくれなかったのよ……おかげで中学の頃からどんだけ苦労させられたことか!」
「どっちもちゃんと聞いてなかっただけじゃない?」
わたしは瑠衣の不満をズバッと切り捨てた。たぶん真面目に聞いていないだけで、教科書も授業も、関数をそのように説明していたはずだ。まあ、わたしも前まで同じ誤解をしていたのだから、あまり人のことをとやかく言えないが。
「まあしかし、マス部に入ったおかげで、茉莉がちゃんと数学できるようになっているのは分かったよ」
「いやいや、わたしなんてまだまだだよ。計算とかは未だに先輩たちに敵わないし」
「計算が速くなるコツとか聞いてないの?」
「『慣れ』だってさ」
「身も蓋もねぇ」
「とにかく色んな計算問題を解きまくって、その都度に応じた効率的な方法を自力で見つければ、ものになって計算が自然と速くなるって」
「途方に暮れるわ、そんなん……」
「それが蘭子先輩の教育方針なんだよ」
蘭子に言わせると、計算が速い人というのは、比較的簡単な計算は努力して瞬時にできるようになっていて、その上で数の仕組みを深く理解しているから、効率的な計算方法が即座に分かるのだという。
例えば、19×19という計算をするときは、最初に20×20=400を出して、次に頭の中で19×19のタイル敷きと20×20のタイル敷きを比較して、400からどれだけ減らせばいいか考える。すると、縦と横でそれぞれ20ずつ減らし、重複した1マス分を足せばいいから、400-20-20+1=361と出せる。慣れていれば3秒もいらない計算だ。
……慣れていれば、ね。聞けば納得だけど、すぐにその方法が思いつくのはなかなかの猛者だ。
「さてと……」瑠衣はカバンを手に取る。「実はわたしも今日は部活お休みなんだよね」
「テニス部だっけ。道理で呑気におしゃべりなんかしてると思った」
「せっかくだからどこか寄り道して行こうよ。面白い自販機見つけたんだ」
「もしかして、さっきの自販機の話で思い出した?」
まあきっかけはどうでもいい。瑠衣は変なものを見つける達人だから、実はわたしも少し期待している。そんな彼女だから、マス部という奇妙奇天烈な部活に入ったわたしに、興味を示したわけだし。本人は逆立ちしても入部する気がないが。
さて、一緒に校舎を出たわたしと瑠衣は、つばき学園の敷地のすぐ外に設置されている、新しい自動販売機のある場所に赴いた。敷地に近いこともあって、学園の生徒が何人も通りがかっているが、慣れているのか見過ごしているのか、誰ひとり自販機の前で立ち止まろうとしない。
わたしは自販機の前に立って、あまり多くない商品のラインナップに、呆然とした。
「どう? すごいでしょ」
「いやー、すごいというか何というか……これで超絶美味しかったら、甘味処が商売上がったりだなぁ、と思って」
「第一声の感想がそれ?」
この自販機で売られている商品は、よくあるおしるこの缶の他に、ぜんざい、あんみつ、わらび餅、お団子各種、抹茶のスイーツの名前が書かれた缶詰など。ギリギリ飲み物といえるのも、抹茶と煎茶とほうじ茶の三種類だけ。つまりこの自販機そのものが、ちょっとした甘味処になっているのだ。
なるほど確かに珍奇で、瑠衣が興味を持つわけだ。
「おしることぜんざいは、かろうじて缶飲料にできそうだけど、他は中身がどうなってるのか全然想像つかないね」
「たぶん、缶の中がパンパンになるくらいに、中身を詰め込んでいるんじゃないかな? プルタブ付きの蓋を開けたら、中にわらび餅がぎっしり」
「宇宙食用の缶入りパンと同じだね、それ」
前に何かのニュースで見たことがある。宇宙食として開発された、缶の中いっぱいにふわふわのパンが詰まっている缶詰。あんな感じの缶がここで買えるのだろうか。それでも今ひとつ想像がつかないが。
「さて、茉莉はどの甘味にチャレンジする?」
「わたしのチャレンジ精神は常人並みだから……ほうじ茶にするよ」
「ふっ……わたしはあんみつとみたらし団子を買うよ。変なものほど試してみたい性質なんでね」
「うん、知ってる」
お嬢様みたいにおかっぱの髪を片手でふわっと靡かせて、瑠衣はイケメンっぽく微笑んで言った。まあ、瑠衣がそういう人間だってことは前々から知っていたから、かっこつけて言われてもわたしは靡かないが。
瑠衣が先にお金を入れて、まずはあんみつのボタンを押した。ガコン、という音と共に、取り出し口の中に缶が一個、垂直に落ちてきた。ある程度中身を保つために、缶は立てた状態で下りてくるらしい。
あんみつの缶を取り出した瑠衣は、すぐにみたらし団子のボタンを押すと思ったが、なぜか手元の缶をじっと見つめている。
「ねえ、さっきの関数の話なんだけど……」
「えっ、その話続けるの? 正気?」
「なんでわたしが数学の話を持ち出したら正気を疑われるのよ」
だって、数学を研究する部活なんて札束を積まれても入る気がないとか言っていたのに、その瑠衣が率先して数学の話を続けようとするなんて、にわかには信じがたいじゃないか。
「関数は自動販売機みたいなものって、さっき言ってたよね」
「まあ、ものの例えだけどね」
「そんでもって、入力が一つ決まると、出力が一つに決まる、その対応の規則でもあるわけじゃん?」
「そっちが本当の定義だよ」
「でも……自動販売機って、ボタンを押すだけじゃ商品は出てこないよね。入れるお金も一緒に決まらないといけないじゃん。それって、入力が二つ必要ってことにならない?」
そうきたか。実際に自販機を使ってみれば、瑠衣のようにそんな疑問を抱いても不思議はない。
「あっ、しかも出力は商品だけじゃないよ。おつりだってあったら出てくるじゃん!」
「まあ、ない場合は0円のおつりってことになるね」
「つまり、入力も出力も二つあるのに、自動販売機を関数だと言い切っちゃっていいのか、って話!」
「いいよ」
「いいのかよ!」
ずいぶんと元気のいいツッコミが、即座に瑠衣から飛び出した。
「関数の入力と出力は、一つじゃなくてもいいんだよ。実際、入力が二つ以上の関数も、数学では普通に扱うし。高校ではやらないけど」
「そうなのか……」
「まあ、出力は基本的に一つだけだから、この場合は複数の関数を組み合わせて、二つ以上の出力を表す感じかな。ちなみに高度な数学になると、一つの入力に対して、一度に二つ以上の数が出力される関数もあるらしいよ。多価関数って言うんだって」
「マジか! 自販機でいえば、一個ボタンを押したらおまけがザクザク出てくるようなものか!」
「どんだけ気前のいい自販機だよ」
冷静に突っ込むわたし。
ちなみに自動販売機で当たりが出る確率は、機械によってまちまちですが、懸賞品の総額が実際の売上総額の2%以内に収まるように設定されています。これは景品表示法によって決められていることなので、おまけがザクザク出てくるような自販機は、少なくとも日本国内には存在しません。
「関数ってわたしが思ってる以上に幅が広いんだなー……入力のxが二種類以上あってもいいなんて」
続けて買ったみたらし団子を頬張りながら、瑠衣は遠くを見つめて呟く。
「別にそれは珍しいことじゃないよ。入力が二種類ある関数だけでも、こんなにたくさんある」
f(x,y)=x+y … 足し算
f(x,y)=x-y … 引き算
f(x,y)=xy … かけ算
f(x,y)=x/y … 割り算
f(x,y)=x mod y … 割り算の余り
f(x,y)=x^y … 累乗
gcd(x,y) … 最大公約数
lcm(x,y) … 最小公倍数
唖然とする瑠衣。
「ほぼ全部小学校の算数じゃん……!」
「つまりわたし達は小学一年生の頃から、すでに高度な関数に触れていたってことだね」
「マジか、すごいな小学生……」
「片方が決まればもう片方も決まる……実は気づかないだけで、この世界はそういう関係、つまり関数が溢れているんだよ」
話を続けながら、わたしもほうじ茶を購入する。なぜかホットの缶しかない。
「高度と気温の関係、気温と音速の関係、垂直抗力と摩擦力の関係……収益と賃金の関係、為替と株価の関係と、経済の世界にもたくさんある。世界は関数でできていると言っても過言じゃないよ。……って、なんで缶の模様が湯呑み茶碗なの」
「そう考えると、教科書で扱う関数ってものすごく範囲が狭いんだなぁ……これも甘味処仕様だね」
色々とこの自販機に言いたいことはあるが、とりあえず買ったものは飲むことにした。普通に美味しいほうじ茶だった。
「それとね、関数同士で足し算や引き算もできるんだよ」
「マジで? そしたら普通の数と変わんないな」
「理屈は割と簡単だよ。二つ以上の関数に同じ数を入力して、それぞれの出力を足したり引いたりしたものが、最終的な出力になるの。箱の中に小さな箱が複数ある感じ」
「だったら同じやり方で、かけ算も割り算もできそうだね」
「割り算の場合は、0で割ることがないように注意しないといけないけどね。ただ、関数同士の演算で基本になるのは、どっちかというと“合成”なんだよね」
「何それ? 普通の足し算とかと違うの?」
「関数の合成は、片方の関数の出力を、もう片方の関数に入力すること。例えば、関数f(x)=x+2と、関数g(x)=3xを合成すると……」
g(f(x)) = 3×f(x) = 3(x+2) = 3x+6
f(g(x)) = g(x)+2 = 3x+2
「こんな感じになる」
「なるほど、関数の入力に別の関数を使ってるわけか……って、関数の合成って、順番が変わったら結果も変わるの?」
「そうだよ。入力と同じ値を出力する『恒等関数』とか、入力と出力を入れ替えた『逆関数』が使われない限り、基本的に合成は、順序を逆にしたら結果が変わるものだから」
「あん餅と大福の関係に似てるな」
「えっ!? あー、確かにどっちもあんこと餅でできてるけど、包む順番を逆にしたら全くの別物だね」
「なんか大福とか食べたくなってきたな。この自販機で売ってないのかな」
「すぐに硬くなるお餅は自販機に向かないと思うよ……普通にお店で買おう」
というか、さっきあんみつとみたらし団子を食べたばかりなのに。運動部女子の胃袋は、甘い物なら無限に受け付けるらしい……。
ちなみに、関数の足し算や引き算は、入力が二つの関数f(x,y)=x+yやf(x,y)=x-yとの合成だと言えます。一見すると合成より単純そうな、関数同士の加減乗除も、その基本には関数の合成があるのです。
「関数の合成かぁ……世の中は関数でできているって言ってたけど、考えてみたら、世の中の色んな現象は繋がっているから、世界は関数の合成だらけなんだね」
「些細な変化が色んな影響を及ぼすって、よくあることだもんね」
「例えば、わたしはさっき、この自販機で買ったあんみつを食べたわけじゃない?」
「ん……?」
「お金とボタンで入力したらあんみつが出力される、自販機のこの仕組みは関数と言えるよね」
「そうだけど……何が言いたいの?」
なんかとてつもなく嫌な予感が、ひしひしと来ている気がする。瑠衣が果たして、どんな突拍子もないことを言い出すのか、分からなくて怖い。
「人間の体も、そういう意味なら関数だよね。入り口も出口もあって、入るものと出るものがちゃんと、“消化”で対応しているし。つまり自販機で買ったあんみつを食べるのは、関数の合成と言えるんじゃない?」
「だいぶ拡大解釈が過ぎる気がするけど、それよりもねぇ!」
何となく瑠衣の言いたいことが読めて、わたしは危機感を覚えた。このままだと瑠衣が……学園で女子の人気をかっ攫っているあの瑠衣が、学園の生徒らしからぬ発言をしてしまいかねない!
「瑠衣、人間の体が関数だっていうのは、結構品のない考えだと思うからやめて。わたし達、一応つばき学園の生徒なんだし」
「何のこと? だって入力は口から食べ物を入れることで……」
「いやだからそれ以上は汚い話になるから……!」
必死に瑠衣の二の句を止めようとするも、本人はそんなことお構いなしに、品性を欠いた発言をしようとしていた!
「そんでもって血肉やエネルギーとして出力されるわけでしょ。やっぱり関数じゃん」
……あ、そっち?
品性があるわけじゃないけど、伝統校に通う女子生徒として問題のある発言……というほどでもなかった。というか運動部女子ならではの考え方だった。
汚いのはわたしの心の方だったか……。
「……穴があったら入りたい気分」
「どした? 関数の入力になって別の穴から出力されたいってこと?」
「もう穴は一つで充分だよ……」
一時でも友人が下品なことを考えたと誤解して、恥ずかしい思いをしたわたしは、逃げるように甘味処自販機の前からそそくさと離れていく。まあ、その友人は普通についてきたけど。
ところで、今日は蘭子も杏里も揃って用事があって部活を休んだが、どんな用事だったかというと。
『お料理教室で作ったアップルパイ、すごく美味しくできたよ』
『今度茉莉ちゃんにもごちそうするね』
『やはりパイは綺麗な円形に限るな。πだけに』
マス部のグループLINEに、杏里が自撮りしたアップルパイと蘭子のツーショットと共に、こんなメッセージが送られてきていた。どうやら近所のお料理教室からヘルプを頼まれていたらしい。
蘭子の駄洒落はともかく、二人だけで仲良くお菓子作りなんて……。
「うらやましい!」
「何? 和風の甘味の次は洋風のお菓子?」
「そうじゃねえよ」
つーか、わたしはお茶しか飲んでないし。いやまあ、杏里の作るアップルパイを食べてみたいというのはあるけど、そうじゃなくて……。
「あー、あれか? 仲間はずれにされていじけてるんだ」
「…………」
正解。だけど、認めるのはなんか悔しい。瑠衣にニヤニヤ笑われるのも気に食わない。
「そんなんでもないし!」
「よしよし、イライラしてるならケーキ食べに行こう、ケーキ」
「よく食うな……」
運動部女子の食欲に、わたしはとてもついていけそうにない。
この時、瑠衣は奇妙なことに気づいていた。さっきの杏里からのメッセージが来たとき、開かれたトーク画面の上の方に、一つ前のメッセージが見えていた。部活をお休みにするという内容だったが……。
(さっきちらっと見えたけど、たぶん茉莉一人になるって、どういうことだ? 他に部員がいないなら、茉莉一人になるのは当たり前だと思うけど……)
蘭子はいつも口酸っぱく言っている。数学では、当たり前に思える事こそ、曖昧にせずちゃんと考えなければいけない、と。
マス部の部員は、わたしを含めて三人しかいない。だが、部室を日常的に使う生徒が、三人だけとは限らないのだ。
……下ネタの連想をした人は、名乗り出なさい。
関数は数学の基本にして基礎の概念です。だからこの物語が始まる前から、茉莉は関数のことをしっかり教わっていたのです。高校で数学の壁にぶち当たった人には、どこか新鮮味があったのではないでしょうか。
そしてラストに、ちょっと怪しげな伏線が仕込まれました。今回の瑠衣に続いて、また新キャラが登場する合図です。どんどんキャラにふざけさせて、どんどんコメディに寄せてゆきましょう。




