Day. 4 彼女の愛した自然数
なんかどこかで聞いたようなサブタイトルですね?
すぐに分かることですが、数学を題材にしたあの人気小説をもじっていて、しかも今回はその小説の内容にも少し触れています。大きなネタバレはないはずなので、どうぞご安心を。
数学研究クラブ、通称『マス部』は、常に数学の研究をしているわけじゃない。大抵の時間は、部員同士でおしゃべりするか、一人でのんびりと過ごすくらいで、それに数学が絡むことはめったにない。
今日はまだお互いに暇つぶしの会話もしておらず、各々がやりたいことをしている。わたしはパソコンの作業、蘭子はジグソーパズルで遊んでいて、杏里は本を読んでいた。
「はあ……やっぱり何度読んでもいいなあ、これ」
読み終えた杏里は充足感に溢れた表情で、最後のページに栞を挟んで本を閉じ、なかなかよく通る声で呟いた。
……何も言わず作業を続ける、わたしと蘭子。
「何読んでるの?くらい聞いてよぉ!」
放置したら怒ってきた杏里。おっとりした声色のせいで迫力はないが、面倒くさいな……。
仕方ない、どうせプログラム作業も煮詰まっている(つまりほぼ出来上がっている)し、かまってちゃん先輩の相手でもするか。
「何読んでるんですか」
「これこれ。小川洋子さんの『博士の愛した数式』」
「うわ、すでになんか懐かしい」
『博士の愛した数式』は、2003年に刊行された小説だ。事故で記憶が80分しかもたない数学者と、新しい家政婦とその息子との交流を描いた物語で、本屋大賞の最初の受賞作であり、2006年には映画化もされている。
「数学を題材にした小説は色々あるけど、これだけは何度でも読みたくなるんだよねぇ」
「わたしも読んだことありますよ。小説で数学を題材にして大丈夫か、って思ったりしましたけど、これは純粋に感動しました!」
「やっぱり数学を題材にするならコメディじゃなく感動ドラマだよねぇ」
「君たち、さらっとメタ批判するのやめろ」
蘭子が何やら異次元なツッコミをしているが、とりあえず気にしない。
「メタ的な否定は自己言及型のパラドックスを生みかねない。数学徒なら避けるべきだ」
「キメ顔で訳の分からんこと言ってる」
「しかし杏里、まだその本を持っていたんだな」
「まあねー」
杏里が両手に抱えているその文庫本は、表紙がすっかり日に焼けていて、頻繁に開かれているせいか、小口が変色してくたくたになっている。挟まれている栞もプラスチック製なのに細かい傷が多い。一番上には8/7という謎の数字が書かれている。
「そういえばこの本、ずいぶん古そうですね」
「うん、初版の第一刷だからね」
「つまり発売されたのは2005年の12月だな」
「生まれる前に発売された本なんですか!? 一体どういう経緯で……古本屋にはあるでしょうけど、普通の本屋にも新しい文庫は置いてますよね」
「元は親が持っていた本だから……小学校に上がる少し前に、母の部屋の本棚にあるのを見つけて、表紙の雰囲気がよくて、つい手に取って……気がついたら一晩で夢中になって読破しちゃった」
「幼稚園児の時に一晩で読破したんですか!?」
「杏里がかよってたのは保育園だぞ」
「それはどうでもいい!!」
わたしがあの作品に初めて触れたのは、小学校六年生の時だった。難しい文章は少なかったけど、それでも内容を理解するには時間がかかったと思う。あれを幼稚園児、もとい保育園児の段階で読めるだけでもすごいのに、一晩で読破だと? その頃から杏里は目から鼻へ抜けるような子どもだったのか……。
「杏里は小学校に上がる前から、小三レベルの漢字は読めていたからな。多少知らない字や言葉が出てきても、すぐに辞書で調べただろうし、全部読もうと思えばできたんじゃないか?」
「えぇー……」
頭の出来が違いすぎる……しかも数学を題材にした小説だから、ある程度読めたとしても、内容を理解できるとは限らない。つまり杏里はその頃から、数学を理解できるだけの脳みそを備えていたことになる。
「めっちゃ秀才じゃないですか……というか神童? なんでこの学校を選んだんですか? そんなに偏差値も高くないのに」
私立つばき学園は由緒ある名門校だけど、元は淑女を育てる校風だったゆえに、一般的な学力の面では中の上くらいだと言われている。まあ、わたしが入学できるくらいだから、レベルは推して知るべしだ。
わたしの問いかけに、杏里は微塵も躊躇することなく答えた。
「え? かわいい女の子がいっぱいいるから。あと制服がかわいい」
「なるほど、納得しました」
実に杏里らしい理由でした。もちろん受験で顔の審査はやらないけど、お嬢様学校のイメージが未だに根強いので、見てくれや品格に自信のない女子は避けがちなのだ。まあ、蘭子という例外もいるが(失礼)。
あと、制服がかわいいというのは同意。身内が褒められたみたいで気分がいい。
ところで、杏里の幼少期のことを、ずいぶん詳細に知っている蘭子だが、二人は幼馴染みなのだそうだ。
「そういえば、お二人はいつからの付き合いなんですか?」
「小学校二年生くらいだったかな……私は杏里と違って幼稚園通いだったから、小学校でようやく接点ができたんだ」
「そうなんですね」
「それこそ、小二にして『博士の愛した数式』を愛読していると聞いてね、これは是非ともお近づきにならねばと思い声をかけたのがきっかけだ」
「その頃からすでに数学好きだったんですね……」
「三つ子の魂百まで、ってことね」と、杏里。「蘭子ちゃんの場合、小学校二年生の時点で、小学校六年分の算数はマスターしていたみたいだから」
「とんでもねーレベルの類友じゃないですか……」
幼少期から二人とも天才肌なのか。なんか今のマス部って、わたしだけ場違いじゃない?
「私もまさか、小学校でこんなに話の合う人に、出会えるとは思わなかったよ。私の思い付く遊びに付き合える人は、そうそういなかったからな。日没まで駐車場で、ナンバープレートを使ったMake10ごっこに夢中になって、よく叱られていたっけ」
「うふふ、懐かしいね」
ああ、4つ以下の数字を全て使って、10を作るパズルね。そりゃ誰も付き合わねぇわ。てか、駐車場でMake10に没頭する女子小学生の二人組って、なかなかシュールな光景だぞ。
「私は、数学以外に楽しめるものを知らなかったから、杏里と出会えたのは幸運だったよ。思えばあの頃が一番、気兼ねなく遊べて楽しかったんだよな……」
窓の外に顔を向け、遠くを見るような表情でぼそっと独白する蘭子。昔を懐かしんで、寂しさを滲ませているように見えた。まるで、今は昔と比べて楽しくないと言わんばかりに……。
わたしも杏里も、蘭子の珍しい表情を見て、つい無言になってしまった。が、それはそうとして。
「いや、今だって気兼ねなく遊んでるじゃないですか。ジグソーパズルで」
「それを言われるとぐうの音も出ないんだけど……」
「あはは」
他人事みたいに笑う杏里であった。
「そうだ、博士の愛した数式といえば……」
「?」
「前から聞きたかったんですけど、お二人の、好きな数式や数って、何かあるんですか?」
その質問が予想外だったのか、二人は一瞬、両目を見開いて無言になった。
「好きな数式かぁ……考えたことなかったなぁ。面白いと思った数式はいくつもあるけど」
「蘭子先輩はどうですか?」
「私はシンプルな数式に心惹かれる性質でね……気に入ったものは御札に書いて祭壇に飾っているんだ」
頬を朱に染めて胸に手を当て、自らの愛情に酔いしれるように、こんなことを抜かしている蘭子。新手のカルトかな?
「中でも特に気に入ってる数式が、これだ」
蘭子はスマホを操作して、画面にその数式を書いて見せた。
『G=T』
「……なんですか、これ」
「ああ、アインシュタインの一般相対性理論を簡略化した式でしょ」
一瞬で数式の意味を理解した杏里。何なの、この人たち。
「そうそう。Gは物質周りの空間の歪みを表すアインシュタインのテンソルで、Tは物質のもつ重力の影響を表すエネルギー・運動量テンソル。つまり重力のエネルギーと空間の歪みが不可分であることを示しているわけだ」
「歪みを表すなら曲率のテンソルだから、いわゆる連立偏微分方程式だけど、一般相対性理論の主張を示すならここまで簡略化できるのね」
「これも光の速さと物質のエネルギーの等価性を示したE=mc^2が基本にあるからこそだな。特殊相対性理論の式もお気に入りなんだよ」
ああ……宇宙の会話だ……わたしは宇宙をさまよう迷い人……。
「はっ!」
いけない、異次元の会話に呑まれすぎて、感覚が無重力空間に放り出されるところだった。我に返ったわたしは話題を変えることにした。
「えっとそれじゃあ、お二人の好きな数って……」
「ふっふっふ……よかろう、教えてやる」
待ってましたと言わんばかりに、口角を上げて不気味に笑う蘭子。何その、無意味なラスボス感は。
「私が好きなのはズバリ……完全数だ!」
「…………!」
「完全数……って何でしたっけ」
「おい待てや」
首をかしげたわたしに、蘭子は信じられないと言わんばかりの短いリアクション。その隣でなぜか、杏里は複雑そうに口元を歪めている。
「『博士の愛した数式』は読んだんだよな? あの中に確か完全数に関する記述もあったはずだぞ」
「数学に関係するところは割と読み飛ばしたりしていたもので……」
「がっでむ……」
愕然として額に手を当てる蘭子。数学好きにしてみれば、数学に関する記述を飛ばして読むのは、ありえないことのようだ。
「しょうがない。愛読者の杏里に、一から説明してもらうか。頼んだよ」
「…………」
「杏里?」
「えっ? あぁ、完全数の話だよね」
何やら眉根を寄せて考え込んでいた杏里は、蘭子に呼ばれて我に返った。話を聞いていなかったわけではなさそうだが、どうも様子がおかしい。蘭子と違い、完全数とやらが好きではないのだろうか。
しかし、どうやら完全数に不快感を持っているわけでもないらしい。杏里はいつものように柔らかな微笑みをわたしに向けて、完全数の解説を始めた。
「茉莉ちゃん。完全数っていうのは、自分自身以外の約数を全て足し合わせると、自分自身に等しくなるような自然数のことだよ。一番小さい自然数は6で、その次は28」
具体的な数値が出てきたから確かめられそうだ。つまり、こういうことか。
6の約数……1,2,3,6
1+2+3=6
28の約数……1,2,4,7,14,28
1+2+4+7+14=28
ぼんやりと思い出してきた。確かに『博士の愛した数式』の中に、この二つの数が出てきた覚えがある。そうだ、確か28が完全数だから、博士は背番号28の野球選手のファンだと書いてあったっけ。その選手の名前は忘れたけど。
「なるほど……定義を聞くと難しそうですけど、小さいもので6とか28ってことは、案外たくさんありそうですね」
「「…………」」
「もしかしたら素数みたいに、規則性はないけど無数にあったりするんですかね」
なんて言ったら、蘭子と杏里の二人は笑った。片方は面白がるようにニヤニヤと、もう片方は気を遣って苦笑している。それぞれどっちの笑い方をしたか、言うまでもないだろう。
「茉莉ちゃん……完全数が案外たくさんありそうって、『博士の愛した数式』の家政婦さんも似たようなこと言ってたよ」
「そうだな。それが間違ってるってことも含めて一緒だな」
「あれっ、違うんですか?」
いけない、この勘違いは恥ずかしい。一度読んだはずの本の登場人物と同じ勘違いをしでかすなんて。
「6と28の次は496、その次は8128で、さらにその次は8桁の数値になる」
「げっ、増え方がえげつない!」
「2023年現在までに見つかっている完全数は51個で、しかも全て偶数だ。無数に存在するのか、奇数の完全数は存在するのか、未だに分かっていない」
「出ましたね、未解決問題……」
数論、特に素数が絡んだ問題には、長い年月を経ても解決されていないものが数多くある。わたしがいま研究しているゴールドバッハ予想も、素数に関する未解決問題の一つだ。
「もしかして、完全数も素数と何か関係していたりするんですか」
「どうしてそう思った?」
「いや、これだけ増え方が不規則で、無数にあるかも分からないなら、そうなのかなって……」
「ええ、関係あるわよ」と杏里。「偶数の完全数は、メルセンヌ素数と一対一に対応しているの」
「メルセンヌ素数?」
どこかで聞いたことがある。例の本の中ではなかったと思うが……そうだ、以前に素数の話題が出たときに、ちらっと出てきたものだ。わたしの数学研究の題材に、先輩たちが素数を勧めたときだ。
あの時は専門用語の洪水に呑まれたせいで思考がフリーズして、どんな素数なのか聞きそびれていた。改めて訊こうと思った矢先、蘭子がホワイトボードで説明を始める。
「メルセンヌ素数というのは……こういう形で表される素数のことだ」
M(n) = 2^n -1
「つまり、2の累乗数より1だけ小さい素数だな」
「それは何か特別な意味のある素数なんですか?」
「ふむ……特別な意味というと微妙かもしれないが、メルセンヌ素数自体、完全数を調べる上で絶対に必要なものだからな。ぶっちゃけ、それ以外の有用な使い道はない」
「ないのか……」
「でも、コンピュータで素数を探すときに、メルセンヌ素数は結構活躍しているのよ」
「そうなんですか、杏里先輩」
「メルセンヌ素数は2の累乗を使っているから、2進法がメインの計算機では扱いやすいの。しかも単純な式で表せる素数の中では種類が多いから」
「フェルマー素数も定義の式は単純だが、こっちは5個しか見つかってないうえに、増加ペースも桁違いに速いからな」と、蘭子。
「それとメルセンヌ素数には、リュカ-レーマー・テストという専用の素数判定法があってね、これも2進法を使うコンピュータと相性がいいのよ。だからここ100年近く、新たに見つかっている大きな素数は、メルセンヌ素数になっているの」
なるほど……2の累乗で定義されるからコンピュータと相性がよく、他の特殊な素数と比べて定義が単純で見つけやすく種類も多い。現代の素数探索にはうってつけというわけか。完全数以外に使い道はなくても、意味のない素数とは言い切れないようだ。
蘭子が再びホワイトボードに式を書き込む。
「さて、ユークリッドが編纂した『原論』には、必ず完全数になる式として、こんなものが紹介されている」
M(n)が素数のとき、
P(n) = M(n)×2^(n-1)は完全数である
「こう書いてもいいだろう」
P(n) = M(n)×(M(n-1)+1)は完全数である
「さて茉莉」振り向く蘭子。「君はこれが完全数になることを証明できるかな?」
「えっ!?」
そこでわたしに質問を振られるとは思わなかった。ここは数学を研究する部活、先輩の話を聞くだけの場ではないと分かっていたのに。
「いやいや、わたしみたいな素人には無理ですって!」
「いや、できる。この証明は古代ギリシャの時代には完成していたんだ。つまり難易度はピタゴラスの定理と同じく中学校レベル……高校生の茉莉にできないなんてことはない」
「証明すると言ったって、このままだと具体的に約数を求めることもできませんけど……」
「具体的に約数を出す必要はない。約数の和を作る関数を、新たに作ればいい」
「関数を新たに作るって……そんなことしていいんですか?」
「もちろん大丈夫よ」と、杏里。「一つの入力に対して、必ず一つの出力が対応していれば、それは立派な関数よ。というか、約数の和を求める関数って、もう存在してるし」
そりゃそうか。大昔にもう証明されているわけだしね。
「約数の和を求める関数、名付けて『約数関数』は、三つの性質だけ押さえておけば充分に使える。まず一つ目、素数は1を足すだけ」
約数関数σ(n)の性質(σはシグマと読む)
①素数pの場合は、σ(p) = p+1
「素数の約数は1と自分自身だけだから、これは当たり前だな。次に二つ目、素数の累乗はこのようになる」
②素数の累乗p^mの場合は、
σ(p^m) = (p^(m+1)-1) / (p-1)
「この場合、約数はpの累乗(0乗~m乗)だけだから、等比級数の和を求める方法で導ける。通常の高一の範囲ではやらないけど、やり方は難しくないよ。そして三つ目、これが重要。約数関数には“乗法性”がある」
「乗法性?」
「互いに素なかけ算に分けたとき、それぞれの数を関数に入れた値の積が、元の数を関数に入れた値に等しくなるってこと」と、杏里。「つまり……」
③互いに素な2つの自然数n,mに対して、
σ(nm) = σ(n)×σ(m)
「こういうことね」
「日本語にすると本当にややこしいな……」
「まさに数式パワーだな。ちなみにこれは素因数分解と式の展開の応用で示せる。さて、これらの性質を使えば、茉莉でも証明できる。やってみな」
「えぇー……杏里先輩、手伝ってくれますか?」
「もちろんいいわよ♡」
「そこ、甘やかしすぎだぞ」
飼い主に甘えるペットみたいに頼んでみたら、杏里はあっさり引き受けてくれた。わーい。
「まず、完全数は自分自身以外の約数を全て足し合わせると、自分自身になるわけだから、約数を全て足すと、自分自身の2倍になる。つまり……」
σ(n)=2n
「こうなることを示せばいいのよ」
「なるほど」
「じゃあ、実際に約数関数に入れてみて」
「は、はい……」
さすがにこれ以上、杏里にやらせるわけにはいかない。このくらいは自分でやらないと。わたしはマーカーを持って、ボードに式を書く。
σ(P(n)) = σ(M(n) × 2^(n-1))
まずはここからどうするか……単純に考えれば、性質③を使って分解するところだけど。
「M(n)と2^(n-1)は、互いに素でいいんですか?」
「ええ。2^(n-1)は素因数に2しか持たないけど、M(n)は2の累乗から1を引いていて奇数だから、2を素因数に持たないからね」
そういえば互いに素は、共通の素因数を持たないことと言い換えられるんだっけ。本当に数論の問題ではいい武器になるんだな、互いに素って。
では遠慮なく性質③を使って……。
σ(P(n)) = σ(M(n)) × σ(2^(n-1))
次はそれぞれの約数関数の値を、どうやって求めるかだけど……。
一つ目は簡単だね。M(n)はメルセンヌ素数だから、性質①がそのまま使える。1を足せばいいから、
σ(M(n)) = M(n)+1 = 2^n-1+1 = 2^n
二つ目は2の累乗だから、性質②を使えばいい。
σ(2^(n-1)) = (2^(n-1+1)-1) / (2-1)
= 2^n -1
この二つをかけ合わせれば……。
σ(P(n)) = 2^n × (2^n -1)
「あとはこれが、元の数の2倍になっていればいいんですよね」
「ええ」
2×P(n) = 2 × M(n) × 2^(n-1)
= M(n) ×2^n
「本当だ。順番は逆だけど、ちゃんと一致してる! 証明できました、蘭子先輩!」
「…………」
随所で杏里の手を借りたせいか、せっかく証明できたのに蘭子は複雑そうな表情をしている。
「まあ、いいけどね……正直この程度で手間取るようじゃ、先が思いやられるんだけど」
「頑張ったから褒めてあげようとは微塵も思わないんですか? これでも必死だったのに……あ、ところで先輩方、ちょっと疑問がありまして」
「なんだい?」
「さっき杏里先輩が、偶数の完全数とメルセンヌ素数が、一対一に対応すると言ってましたよね」
「ええ」
「でも、偶数の完全数って、メルセンヌ素数を使ったものだけとは言い切れないのでは? 他にも偶数で完全数になるものがあったら、ぴったり対応するとは言えない気がします」
「「…………」」
先輩たちは少し驚いたように表情を固め、無言でわたしを見つめ返す。そして蘭子はわたしに近寄り、わたしの頭の上にポンと手を置いた。
「よく気づいた。当然の疑問だが、些細な事だと受け流す奴もいるからな。やはり賢い子だ」
「褒めるタイミングが遅くないですか……? あと、どうせなら杏里先輩に撫でてほしかったです」
「おい」蘭子は短く突っ込む。「確かに茉莉の言うとおり、メルセンヌ素数を使った式の値が完全数だとしても、偶数の完全数が全てそうだとは言い切れない。ユークリッドもそこまでは示せなかった」
蘭子は説明しながら、わたしの頭に置いた手で、髪をくしゃくしゃと掻き乱す。何しやがんだ、せっかく朝にセットしたのに。
「だが、それから2000年近く経った18世紀、偶数の完全数がメルセンヌ素数を使った形に限られることが、ようやく証明された。あの天才数学者の手によってね」
「天才数学者?」髪を整えながら聞き返す。
「そう。18世紀を代表する天才であり、呼吸をするように計算したと言わしめた数学界の巨星、レオンハルト・オイラー様だ」
そう言って蘭子は恍惚の表情で、懐から取り出したオイラーの写真を掲げて見せた。アイドルの貴重なブロマイドを見せびらかすように。
「いや、様って……」
「蘭子ちゃんの推しの数学者だからね、オイラーは」
「数学者をアイドル扱いかよ」
「ちなみにこの人たちが、私が全力でプッシュする、数学界の神7だ!」
蘭子がバーンとホワイトボードに書いて見せた、七人の数学者。左から、ディオファントス、アルキメデス、オイラー、ガウス、ヒルベルト、クンマー、ラマヌジャン。
「興奮するポイントが分かんねぇ」
「蘭子ちゃんが天才と崇める数学者って、これ以外にも大勢いるんだよね、実は」
その気になれば48名集めてグループでも作りそうな勢いがあるな……。まあ、本人が自制して、咳払いで話を戻したけど。
「オホン。まあそういうわけで、オイラーの功績により、偶数の完全数はメルセンヌ素数と一対一に対応することが示されたわけだ。その証明もこの場で説明したいところだけど、今日はそろそろ下校時刻だから、またの機会に譲るとしよう。はっはっは」
「すっかりテンションがおかしくなってる……」
完全数とオイラーの話題が出て、蘭子はこの上なく上機嫌だ。部室の外ではお淑やかに振る舞っていることを、忘れてしまいそうになるくらい。
「それにしても……なんで完全数って名前なんですか」
「由来ははっきりしてないのよね」
「天地創造の6日間とか、月の公転周期の28日間と関連づけたという説もあるけど……ただの牽強附会としか思えないわ」
「バッサリ言いますね……」
というか、牽強附会なんて四字熟語を普通に使う人、初めて見たよ。確か“こじつけ”という意味だったはずだけど、なんでそっちを使わないのか。
「あ、でも、完全数にまつわる面白い偶然もあるよ」
「なんですか、杏里先輩」
「野球の完全試合って知ってる? 相手チームの打者を一人も出塁させずに勝利することなんだけど」
「あー、前に最年少で完全試合を達成したっていうニュースがありましたね」
「ロッテの佐々木投手だな」と、蘭子。
「杏里先輩、野球に詳しいんですか」
「杏里はこう見えてスポーツ全般が好きだぞ。観るのもやるのも。何しろ生まれた日も、昔でいえば『体育の日』だからな」
「それはあんまり関係ないような……」
照れながら苦笑いする杏里。昔の体育の日というと、確か10月10日だったかな。今は10月の第二月曜日が『スポーツの日』となっているが。
「でね、日本のプロ野球の公式戦で、最初に完全試合が達成されたのが、1950年、完成したばかりの青森市営野球場で実施された、巨人対西日本パイレーツの試合。その日付が……6月28日なのよ」
「「うおおっ……!」」
思わず野太い声が出てしまった、わたしと蘭子。杏里のかなり詳細でマニアックな説明にも、引くほど驚いているが、その日付にさらに驚かされた。これはもう、奇跡と呼んでいいのでは。
案の定、蘭子がキラキラした目で食いついてきた。
「素晴らしい……! 日本で最初の完全試合が達成された日付が、完全数の最初の二つでできているなんて……神のお導きのようじゃないか!」
「その神って、数学と野球、どっちの神です?」
「そんなの数学の神に決まってる。野球の神が忖度した結果だよ、これは」
「世界中の野球ファンを敵に回しましたよ、今」
ここまで数学の神の存在と権威を強く信じるくらい、蘭子は完全数が好きらしい。その最初の完全試合を達成した投手の写真を、祭壇に飾りそうな雰囲気さえある。
ちなみに杏里は、蘭子が満足するトリビアを話せただけで充分なようで、もう文庫本をカバンに仕舞って帰り支度を始めている。
「蘭子ちゃんが満足したところで、そろそろ帰りましょうか」
「そうしますか」
「名残惜しいねぇ、もう少し語り合いたかったのだが……ああそうだ、せっかくだから、茉莉にちょっとした宿題をやろう」
「ノーセンキューです」
「拒否権はないぞ」
横暴だ……。
「ここに書いた完全数を見てくれ。一の位は6と8しかないだろう?」
6, 28, 496, 8128
「そうですけど……4つしか書いてないですし、6と8だけでも別に不思議ではないような……」
「いいえ」杏里が言う。「少なくとも、現在までに見つかっている完全数は全て、一の位が6と8のどちらかしかないのよ」
「えっ!? 見つかっている51個全て、ですか? それは確かに不思議かも……何か理由があるんでしょうか」
「もちろんあるよ。茉莉への宿題は、完全数の一の位がどうして6と8だけなのか、証明することだ」
「うぐっ。難易度高くないですか……?」
「そんなことはない。必要なのは自然数のかけ算と割り算の知識だけだ。その気になれば小学生でも証明できる」
「それ、できなかったら小学生以下ってことですか」
「「…………」」
「言いにくそうに目を逸らすなっ!」
というわけで、半ば強制的に、わたしに宿題が課せられた。まあ、強制的に課せられない宿題なんて、ないのだけど。はてさて、どうやってクリアすればいいものか。
そういえば、蘭子の勢いが強すぎて、杏里の好きな数については聞けなかった。そんなものがあるのかどうかすら怪しいが。
……でも、杏里の好きなものなら、数でなくても聞いてみたい気はする。わたしには、そんな些細な欲が芽生えていた。
* * *
家の自室で机に向かいながら、私は一枚の栞を指先で弄んでいる。薄いプラスチックで挟まれた細長い紙に、サルビアの花の絵が描かれていて、一番上には8/7と日付が書かれている。
これは、私の大切な人の誕生日。そしてその人には、千日紅の花が描かれた同じ栞を、昔にあげている。今も持っているかは分からないが。その栞に書かれている日付は、10/10だ。
8月7日と、10月10日。1月1日からの(2月29日を含めた)日数はそれぞれ、220日と、284日。
「運命だって言ってくれて、嬉しかったんだけどなー……」
私と彼女を引き合わせてくれた本に、運命を繋げた栞をいつも挟んでいる。お互いの誕生日の花。彼女が私にくれたのは、“尊敬”と“知恵”。そして私が彼女にあげたのは、“変わらない愛情”。
「でも、蘭子ちゃんは違ったんだね……自分自身だけで完結する、完全数が好きなんだから」
昔の私なら、迷わず好きだと言える数があった。それが彼女と私を繋いでくれるからだ。彼女の方は、他の人との繋がりを、そこまで重視しなかったけど。
今は、難しい。だって、私が繋がっていたい人は、もう一人いるから。
「どうして3つ以上だと、“社交数”なんだろう……友情も愛情も許されないの? それに……私たち3人を繋げてくれる数が、未だに見つからないなんて……」
やるせない気持ちになって、私は机に伏す。
私の愛した自然数は、未知数のまま。
おかしい……百合もコメディも書き慣れてきたはずなのに、うまい書き方が思い出せない。こんなシリアス寄りになるはずじゃなかったのに。次はもう少し笑えるオチを用意しておきます。
本当は内容に合わせて、今月の28日に投稿したら面白いかもと思ったのですが、結構早く仕上がったので、この日に上げることにしました。20日前……特に意味なし。
さて、本日6月8日といえば、『完全数の一の位が6と8のどちらかになる理由』は、個人的にそれほど難しいと思っていません。この後のafter Day.4で茉莉が証明に取り組みますが、その前に読者の皆さんもちょこっと考えてみてはいかがでしょう。




