Day. 3 1までが遠すぎる
数学の研究、なんてこの作品では(一般的な意味で)適当に済ませるつもりだったのに、こいつらは何で真面目に研究の話なんざしてるのか。
というわけで、某有名プログラミング言語で遊んでもらいました。そんなもので遊べると考えた時点でどうかしてますが。
「う~ん……」
長テーブルに広げたノートにかじりついて、わたしは苦悶の表情で唸っている。
私立つばき学園高校の、数ある風変わりな部活動のひとつ、数学研究クラブ、略して『マス部』では、今日ものんびりと活動している。わたし、鈴原茉莉も、部活専用のノートにびっしりと数を書き込んで、独自の数学研究に勤しんでいるところだ。
まあ、現状どう見てもお悩み中なのだが。
そんなわたしの様子を、マス部の先輩2名が、じっと見守っている。
「……どうした、茉莉? ドリルのエンジン音みたいな声出して」
「もうちょっと可愛げのある例え方できませんか!?」
後輩にものすごく失礼なことを言ってのけるのは、部長の及川蘭子、二年生。成績優秀な美人だけど、他人が引くレベルで数学が好きな、数学バカである。
蘭子の不躾な言い方に、わたしは反射的に顔を上げてツッコミを入れた。こんなのは今に始まったことじゃないが、もはや言葉を選ばないというより、最も不適切な言葉を意図的に選んでいるとしか思えない。
「そう言われても、特に可愛げのある唸り方ではなかったからなぁ」
「私だったら、威嚇するワンちゃんみたいって言うよ」
「それはそれでどうなの?」
微妙な例え方をするのは、副部長の軽部杏里、二年生。お淑やかで物腰が柔らかく、学年性別問わず人気のある、蘭子の幼なじみ。可愛い女の子が好きという、割と意外でもない一面もある。
「まあそんなことより、茉莉はさっきから何を悩んでるの」
「ゴールドバッハ予想の研究の糸口が、なかなか思いつかなくて……」
「そっか、茉莉ちゃんの研究内容、ゴールドバッハ予想に決めたのね」
夏にある全国科学研究コンテストに参加するため、わたしも数学の研究を始めることになったのだが、先輩たちからは、初心者におすすめということで素数の研究を提案されていた。数ある素数の関連研究の中から、わたしはゴールドバッハ予想を選んだ。
ちなみにゴールドバッハ予想とは、4以上の全ての偶数が、必ず2つの素数の和で表せるのではないか、という予想で、現時点でまだ証明されていない。
「予想の中身は恐ろしくシンプルだが、多くの数学者の努力にもかかわらず、未だ証明されていない難問だ。茉莉もなかなかチャレンジングな題材を選んだな。その精神は嫌いじゃないよ」
蘭子はずいぶん嬉しそうに、ニヤニヤ笑っている。数学について語り合える同志が現れるかも、なんて思っていたりして……。
「とりあえず、50までは手作業で、2つの素数の和で表せると分かりましたけど、研究するなら、ここからもう少し踏み込んでみたいですよね。でもどこにどうやって踏み込んだらいいか、思いつかなくて」
「素数は未だに規則性が見つかっていないから、高校生が踏み込める領域も少ないしねぇ。でも、24通りくらい確かめたなら、他にも何か、分かったことがあるんじゃないか?」
さすが、数学の研究では(少なくともこの部では)一日の長がある蘭子、わたしが自力で気づく程度のことは想定済みのようだ。
「分かったことといえば、和の組み合わせパターンがだんだん増えている……感じがする、というくらいでしょうか」
4 = 2+2
6 = 3+3
8 = 3+5
10 = 3+7 = 5+5
12 = 5+7
14 = 3+11 = 7+7
16 = 3+13 = 5+11
18 = 5+13 = 7+11
20 = 3+17 = 7+13
22 = 3+19 = 5+17 = 11+11
24 = 5+19 = 7+17 = 11+13
26 = 3+23 = 7+19 = 13+13
28 = 5+23 = 11+17
30 = 7+23 = 11+19 = 13+17
32 = 3+29 = 13+19
34 = 3+31 = 5+29 = 11+23 = 17+17
36 = 5+31 = 7+29 = 13+23 = 17+19
38 = 7+31 = 19+19
40 = 3+37 = 11+29 = 17+23
42 = 5+37 = 11+31 = 13+29 = 19+23
44 = 3+41 = 7+37 = 13+31
46 = 3+43 = 5+41 = 17+29 = 23+23
48 = 5+43 = 7+41 = 11+37 = 17+31 = 19+29
50 = 3+47 = 7+43 = 13+37 = 19+31
「ほら、14以降だと、組み合わせパターンが1組だけの偶数が出てこないんですよ」
「なるほど。偶数が大きくなると、組み合わせパターンも比例して多くなる。両方とも素数のペアが現れる可能性も、自然と高くなるわね」
「パターンの個数の変化も、特に規則性は見当たりませんけど、何というか……ある程度大きな偶数になると、それ以降は、組み合わせが1通りだけの偶数が現れなくて、もしかすると同じことが、2通りだったり3通りだったり、他の場合でも言えるのかと……」
歯切れが悪すぎてちぐはぐな説明になっている、ということを自覚した途端、わたしは椅子から立ち上がって、頭を抱えながら叫んだ。
「あーっ!! 上手く説明できない!」
「大丈夫、言いたいことは何となく分かるよ」
「コンクールの審査員が私たちほど察しがいいかは分からないけどな」
「蘭子ちゃん」
優しくわたしをフォローしてくれる杏里は、余計な事を口走る蘭子を短くたしなめた。いやまあ、蘭子の言いたいことも理解できる。実際に発表するなら、こんなしどろもどろな説明じゃ伝わらない。
「数学はとにかく抽象的な学問だし、日本語だけで説明しようとしたら複雑になるのは自然だ。だからそのために数式がある」
「こんなの、どうやって数式にするんですか」
「今の茉莉の予想を式にすると、こんな感じになる」
蘭子はそう言って、ホワイトボードに数式を書き始めた。ものすごい速さで。
∀n∈N, ∃a0∈N, ∀a∈N, a>a0 ⇒ #{(p,q) | p,q:prime, p+q=2a}>n
その数式(?)を、呆然と見つめるわたし。
「……すみません、もっと分からなくなりました」
「まあ、そりゃそうかもね」肩を竦める蘭子。「数式というのは言わば、数学の世界の言語で書いた文章だ。英単語や英文法を知らないと英語が読めないのと同じで、数式を読み解くには“数学語”を理解しておく必要がある」
「数学語……」
「とはいえ、英語のような自然言語ほどに、難しく構える必要はない。使われる記号は英単語より圧倒的に少ないし、慣用句のような文法の特例もほとんどない。書き手の癖が表れることはたまにあるけど……」
「でも、単語の意味や文法が分かっていても、自然な日本語に“翻訳”するのは難しいからね。皆が数式を苦手に感じるのは、数式の“意味”よりも“意図”を読み取るのが難しいからじゃないかな」
杏里の言った言葉で腑に落ちた。確かに複雑な数式を見ていると、それがどういう意図で書かれているのか、理解が追いつかなくなることがある。それは、外国語の文章をすらすらと読めない感覚に似ている。
だから結局、数式も英文と同様に、単語の意味と文法を駆使して、少しずつ読み解くしかないわけだ。しかも数式は、数学という抽象的な世界の文章……人間の感覚で解読できると思わない方がいい。
「なるほど、つまり……宇宙人の書く文章を読むくらいの気持ちで読んだ方がいいのですね!」
「お前は数学者のことを何だと思って……」
「でもちょっと分かるかも。数学者の頭の中って抽象的すぎて、異次元の世界って感じがするもの」
「杏里、君まで何を言う……」
数学者が宇宙人扱いされることに、蘭子は嫌そうな顔をしている。数学を研究するクラブとはいえ、蘭子みたいにガチめな部員は少数派らしい。
「まあ、宇宙の言葉で書いているという感覚までは否定しないよ。中には数式で宇宙を作る数学者もいるくらいだからな」
「えっ?」
「さて、話を戻して、さっきの数式について説明しようじゃないか」
蘭子はさっさとゴールドバッハ予想の話を再開したいみたいだが、数式で宇宙を作るという話が気になって、上手く頭が切り替わらない……。
蘭子はまず、∀n∈Nの部分を指差した。
「まずここは、“全ての自然数について”という意味だ。Nは自然数の集合で、∈は包含関係の記号。ペアノの公理の時に説明したから分かるよね?」
「そうですね……じゃあ、先頭の、Aをひっくり返したような記号が、“全ての”という意味ですか?」
「そうよ。英語だとfor all……“全ての○○について”という意味になる。茉莉の言ったとおり、頭文字のAを逆さにした記号よ」
「では、その次にある記号は、Eを逆さにした記号ですか」
「勘がいいわね。英語のexist……“存在する”という単語の頭文字よ。この場合、後の条件を満たす自然数a0が存在する、という意味になる」
「こんな記号、教科書では見たことありません……」
「少なくとも高校までの教科書には出てこないわ。この二つの記号は、“束縛記号”とか“量化記号”と言って、述語論理の世界で使われるものよ。今はとりあえず、こういう記号がある事だけ覚えておいて」
本格的に宇宙人の言葉を学んでいる気分になってきたな……。
「次に、どんな条件を満たすa0が存在するのか、その中身を見ていく。この部分だね」
蘭子がアンダーラインを引いたのは、∀a∈N, a>a0 ⇒ #{(p,q) | p,q:prime, p+q=2a}>nの部分だ。
「{}で囲った所は集合の表現だ。その直前の#は、集合の要素の個数を示している。そして、このprimeは素数を意味する英単語だ」
「aは自然数ですよね。ということは{}の中身って、足して偶数2aになる、素数のペアのことですね」
「そう、まさにゴールドバッハ予想の根幹部分だ。つまりこの数式を日本語に訳すと、こんなふうになる」
全ての自然数nについて、ある自然数a0より大きい自然数aは全て、足して2aになる素数p,qのペアが必ずn個より多く存在する。
「……改めてわたしの言いたいことを日本語にすると、バチくそ複雑ですね」
「これなら数式の方がまだマシだって思うでしょ?」
ドヤ顔している蘭子に、どっちもどっちとは言いづらい……。
「それにしてもこれ、本家のゴールドバッハ予想より強い予想なんじゃない?」
「どうかな。n=1の場合のa0がものすごく大きければ、それ以下のどこかに、素数のペアがない偶数があるかもしれない」
「あー、そっか……本家の予想とは結びつかないか」
「とはいえ、個数を下から評価するのは、本家の予想にはないものだし……証明はさらに難しいだろうが、この結果には個人的に興味がある」
「本家の証明が見つかったら、次は茉莉ちゃんの予想を研究する人が出てきそうね」
異次元の会話をしているよ、この先輩方……いや、一応日本語だけど、ところどころ言葉の意味がよく分からない。
あれか、“適当”を“適切”の意味で使うみたいな、数学特有の言葉づかいなのか。宇宙語というより、方言だ。これからは“数学弁”と呼ぶことにしよう。
「まあ、高校生の研究なら、地道に検証を重ねて、ヒューリスティックな正当化で落ち着かせるのが無難だろう。というわけで茉莉、引き続き、偶数を二分割する素数のペアを探す作業を続けたまえ」
「簡単に言ってくれますけどね……!」
いや蘭子の言っていることはちっとも簡単に理解できないが、それはそうとして。
「手作業で素数のペアを見つけるのが、どんだけ大変だと思ってるんですか。わたしは先輩方と違って、素数かどうかを瞬時に区別できるわけじゃないから、ペアの両方が素数なのか確かめるだけでもひと苦労なんですよ」
「私たちだって、素数を瞬時に判別できるわけじゃないよ? 100までの素数を覚えているから、何とかなっているだけで……」
「基本、自然数nが素数かどうか確かめるには、√nまでの素数で割り切れるか確かめるしかないから、どうしたって時間はかかるものさ」
いやいや、100までの素数を全部覚えるとか、平方根を瞬時に出すとか、一般人には無理だから。マス部の猛者どもと同じことなんてできるかい。
……まあ、そんなことを言おうものなら、「じゃあとりあえず100までの素数全部覚えてって」なんて言われかねないから、黙っているけど。
「そういうわけだから、手作業はどうしても限界がある。さっきも言ったが、ペアの候補は元の偶数が大きくなれば、比例して多くなる。大きな数だと素数の判別も大変になる。今よりさらに時間がかかるな」
「それでも続きをやれと言うんですか……」
「大丈夫、こういう時のための秘密兵器がある」
「秘密兵器?」
何だろう。効率的に候補を減らしたり、素数を判別したりできる、魔法のような数式があるのだろうか。そんなことを期待して、少し胸が躍るわたし。
「これだよ。パーソナルコンピュータ様だ」
蘭子が神様仏様を紹介するみたいに見せたのは、壁際の机に置かれたノートパソコンだった。閉じられているうえにコード類も刺さってないから、見てくれは完全にただの板だ。
「……正直、期待外れです」
「何でだよ! 茉莉の現時点での悩みを即座に解決してくれる優れ物だぞ!」
「まあまあ茉莉ちゃん。期待外れなんて言ったら悪いわよ。現代の数学者はコンピュータに頼りきりだから、それ以外の秘密兵器は期待するだけ無駄だもの」
「杏里の言い方も相当な悪意を感じるよ!?」
この人は淑やかな微笑みを浮かべながら、グサリとくることを平然と言うからな……。
「でも先輩、わたしパソコンなんて動画やネットニュースを見るくらいで、数学の勉強に使ったことないですよ」
「そうだな。この学園はまだ、プログラミングの授業を導入していないし、未経験なのは仕方ない。だが、このマス部で活動するなら、最低限のプログラミングは使えた方がいい」
「プログラミング、ですか……」
自分の声から覇気がなくなっているのが分かる。
今は義務教育でもプログラミングの授業が導入されつつある時代だ。ここ、つばき学園高校も例外ではなく、何年後かには教材やシステムを整備し、本格的に授業を開始する方針だという。
どうやらマス部は学校の授業に先立って、数学研究のためのプログラミングを、すでに使い始めているらしい。パソコンなんてぼうっと見ているだけで、自分でキーボードを叩くことの少ないわたしは、ついて行けるかとにかく不安だ。
「どんな言語がいいかしら」
「そうだな……一から基本を学ぶならCがいいし、小中学生が始めるならProcessingとかがいいけど、茉莉が数学の研究に使うなら、やはりPythonだろう」
「そうね。Pythonなら数学の学習にも最適だし、確かグーグルが無料で使えるワークスペースを提供していたはずよ」
「Colabのことだな。とりあえず私のアカウントで使ってみるか。茉莉はグーグルのアカウントを持ってるか?」
もうすでに不安が的中している……わたしの脳は処理落ち寸前だった。
「あぁ、はい、ありますけど……」
「うん、早速話について行けなくなってるな。Pythonって聞いたことないか?」
「パイソン……」
真っ白になったわたしの脳内に、動物の重低音が響き渡る。
「牛の仲間の?」
「それはバイソンだな」
ぷふっ、と失笑する声が聞こえた。そういえば杏里はダジャレへの耐性が低かったっけ。
パソコンを使う準備を進めながら、蘭子が解説を始めた。
「Pythonは、欧米では二番目によく使われている、インタプリタ型のプログラミング言語の一つだ。近年話題のディープラーニングやAIも、Pythonを使って設計されていることが多い」
「へえ……じゃあこれからとても重要になってくるんですね」
「ITの世界は変遷が激しいから、いつまで重宝されるか分かったものじゃないけどな」
「にべもない……つまり動物のバイソンは関係ないんですね」
「スペルも全く違うからな。だけど、確かPythonは元々、ニシキヘビという意味だったはず」
「ニシキヘビ?」
「Pythonのロゴも蛇を象ったものだしね。あと、機械学習用のPythonのツールをまとめたソフトは、Anacondaという名前がついている」
「アナコンダ……なんで蛇の名前ばかり」
「さあ? 発明者が爬虫類好きだったんじゃない?」
数学に直接関係ない話になると、途端にいい加減になる蘭子。後で調べたら全然違っていて、イギリスのテレビ番組が由来だそうだ。
「とにかく、単純作業を大量に行なうなら、Pythonみたいなプログラムに任せるのが賢明だ。四色定理が証明されて以来、数学の研究でコンピュータを使うのは珍しくなくなったからな」
「杏里先輩も、さっきそんなことを言ってましたね。だいぶきつめに」
「私はどっちかと言えば、手を動かして計算したいタイプなの。コンピュータを信頼してないわけじゃないけど、式変形は任せられないし、よりよいプログラムを書くなら、前段階で手計算をしておいた方がいいし」
「まあ、四色定理だって事前に手計算で整理していたからこそ、コンピュータで証明することができたんだから、杏里の言うことは分かるよ」
そっか……コンピュータはあくまで、単純作業を高速化するものだから、複雑な問題はその前に、人間が整理しておく必要があるんだ。コンピュータで計算が楽になるかは、使う人間次第ってことか。
ところで、蘭子は例のパーソナルコンピュータ様に向かって、何やらキーボード操作をしているみたいだが、早速わたしの予想を検証するプログラムでも書いているのだろうか。
「よし、できた。こんなもんだろう」
「何ですか、このプログラム」
蘭子の後ろから、パソコンの画面を覗き込む。見慣れない英単語が整列していて、初心者のわたしには何が何やら。
杏里もわたしの隣で、画面を覗き込んで、首をかしげる。
「あら? これって、ゴールドバッハ予想と関係ないんじゃない?」
「何ですと?」
「それは茉莉が自分で勉強して、自分で書くべきだろう? とりあえず今日は、Pythonの雰囲気に触れるために、別の問題で書いてみた。杏里は分かるか?」
「2で割った余りで分岐させて、偶数は2で割り、奇数は3倍して1を足す……コラッツ予想ね」
「正解、さすがだね」
杏里の解答に、蘭子はニヤリと笑って言った。
いやいや、後輩が部活の一環でプログラミングに触れようって話の最中に、何をやっているのだ。さてはわたしの悩みに託けて、Pythonで遊ぼうとしているな?
「あの、そこは先輩として後輩に、Pythonの使い方をレクチャーするところでは?」
「そんなの、本やネットでいくらでも調べられるでしょ。この部室に本があるから、持っていっていいわ」
「あ、ありがとうございます。いやそうじゃなくて」
「それより茉莉、何か自然数を一つ、指定してくれ。3以上の奇数が望ましい」
ああ……この人、コラッツ予想とやらの話がしたくて仕方ないのだな。わたしの話は聞きそうにない。
結局わたしは観念して、蘭子の話に付き合うことにした。杏里も特に止めるつもりはなさそうだし、一年生で初心者のわたしに拒否権はない。
「そうですね……じゃあ、7で。今朝の占いで、7がラッキーナンバーだったので」
「茉莉ちゃん、占いとか気にするんだ」
「ん? 7は元々幸運数だろう?」
「はい?」
「というか、そんなもの無数にあるだろう?」
「はいはい、茉莉ちゃんは気にしなくていいからね」
どことなくずれたことを言っている蘭子を、杏里がやんわりと遮る。何だったんだ。
「ところで茉莉ちゃん、コラッツ予想は知ってる?」
「聞いたこともないです」
「これも問題の中身は簡単なの。偶数だったら2で割って、奇数だったら3倍して1を足す、この操作を繰り返すと、どの自然数から始めても、最後に必ず1に辿り着くのよ」
「へえ……そんな性質があるんですか」
「まだ予想だけどね」
おっと、そうか。まだ証明されていないのか。内容だけ聞くと、証明も簡単にできそうに思えるが。
「試しに、茉莉が言った7から始めてみな」
「えっと、7は奇数だから3倍して1を足して、22。22は偶数だから、半分の11…また奇数か。3倍して1を足すと、えっと、34。そっか、奇数は3倍して1を足すと必ず偶数になるのか。半分にして17、また奇数か。3倍して1を足して……えっとえっと、52か。半分にして26、また半分にして13、3倍して……」
「「…………」」
「あーっ!! キリがねぇ!!」
なかなか1が来なくて、痺れを切らしたわたしは頭を抱えて叫んだ。先輩方は無言でわたしを見ていたけど、さてはこうなることを見越していたな。
「大丈夫よ、茉莉ちゃん。そこまで行けばゴールは目前だから」
「ホントですかぁ?」
「早くも予想を疑い始めたな。だが目前なのは本当だ。13の後は、40→20→10→5、そして16→8→4→2→1で終了だ」
「あー、なんで先に言っちゃうんですか!」
「だってキリがないとか言うから……まあそんな感じで、必ず1に到達すると予想されているが、初期値によってはとんでもなく手間がかかる。だが、同じ作業の繰り返しなら、コンピュータは強い。例えば15から始めてみると……」
蘭子はパソコンに向き直り、カタカタと軽く操作してからマウスを一回押した。短いプログラムの下に、計算結果が表示される。
15
-> 23
-> 35
-> 53
-> 5
-> 1
steps : 17 , max value : 160
「奇数だけ並べても、ざっとこんな感じ。最高で160まで到達する」
「さっきの7は最高で52でしたから、あれでまだマシな方だったんですね」
「27から始めるともっとすごいよ。見てごらん」
今度は27を打ち込んで、同じ場所をクリックする。
27
-> 41
-> 31
-> 47
-> 71
-> 107
-> 161
-> 121
-> 91
-> 137
-> 103
-> 155
-> 233
-> 175
-> 263
-> 395
-> 593
-> 445
-> 167
-> 251
-> 377
-> 283
-> 425
-> 319
-> 479
-> 719
-> 1079
-> 1619
-> 2429
-> 911
-> 1367
-> 2051
-> 3077
-> 577
-> 433
-> 325
-> 61
-> 23
-> 35
-> 53
-> 5
-> 1
steps : 111 , max value : 9232
……唖然としてしまう。計算回数は111回、最高で9232まで到達。これを手作業でやるとなると、気が遠くなりそうだ。
「……コンピュータって、偉大ですね」
「ようやくありがたみを理解したか。ゴールドバッハ予想もコラッツ予想も、もちろん他の未解決問題も、コンピュータを使ってかなり大きな数値まで検証できている。そのほとんどで、予想は途中まで正しいと確認されている」
「でも、途中まで正しくても、先のことは分からない。予想が完全に正しいと確信するには、証明するしかない、ですよね」
「おっ、分かってるじゃないか」
「忘れもしませんよ。最初に会ったときの、“モーザー数列”のトラップ……」
数学はそこそこできる程度のわたしが、最初に見せつけられたトラウマ級の出来事……思い出すだけでも、顔に苦みが走る。
「あれで、数学に予断は禁物だと、痛いほど思い知らされましたからね」
「私もあそこまでショックを受けられるとは思ってなかったけど……まあ、モーザー数列は極端な例だとしても、予断が禁物なのは確かだ。茉莉の予想だって、何らかの形で反例が見つかる可能性はある。もし、素数のペアが一組だけの偶数が、無数に現れると示されたら……」
「その時点で、わたしの予想はハズレですね」
「もしかしたらその反例は、コンピュータでも追いつけないほど、遠いところにあるのかもしれない。コンピュータにできるのはせいぜい、手の届く領域は大丈夫っていう、曖昧な安心感を与えることだけだ。証明に関しては、スタートラインに立つことさえ難しい」
証明のスタートライン……どういう道筋を辿れば、ゴールに到達できるか、それが分からなければスタートする事もできない。残念ながらコンピュータでは、その役割を果たせない。
うぅむ……コラッツ予想は初期値を決めれば、コンピュータが勝手に1まで導いてくれるけど、決め方を間違えると、1までが途方もなく遠くなる。気まぐれで作った予想が、なかなか証明開始まで辿り着けないみたいに。
「何というか……1(位置)に着くまでが、遠すぎますね」
「本当にな」
ぷふっ、と失笑する声が聞こえた。気まぐれで言っただけのダジャレに、わざわざ反応しなくてもいいものを。ほら、蘭子は気づいてもいないぞ。
「何がそんなにおかしいんだ、杏里」
「いや、別に……ふふふっ」
「杏里先輩、そこまで笑わなくても……」
なんだかオチがついたように話が終わった雰囲気になったので、今日はこの辺で解散となった。結局、Pythonの使い方は全く教わってない……。
* * *
その日の夜、わたしは本やネットを駆使して、なんとか自力でプログラムを書いてみた。偶数を打ち込めば、足してその数になる素数のペアを表示してくれる、そんな理想のプログラムだ。
「ふふふ、先輩方に頼らなくても、自力で書けちゃったもんね。さぁて、結果をご覧じますかね」
ソースコードはだいぶ不恰好だけど、正しい結果さえ出てくれればいいのだ。
先輩たち驚いてくれるかなー、とか、杏里先輩がよしよししてくれるかなー、とか、そんなことを考えながら、わたしは▷をクリックした。
エラーが出た。
「…………」
* * *
「蘭子先輩、助けてください!!」
「いま入浴中なんだけど……」
自宅の湯船に浸かって間もなく、後輩から電話がかかってきた。最新の防水スマホだから風呂場にも持ち込めたけど、正直に言って、入浴中の通話は面倒くさい。体も洗えないし。
「自分でプログラム書いたら、なぜかエラーが起きてしまって……!」
「杏里に聞けば?」
「蘭子先輩にしか頼めないんです!」
「えっ……そ、そうなのか?」
後輩に唯一頼られるという経験がないから、思わずうわずった声を出してしまった。動揺したけど、ちょっとは嬉しいものだな……。
「だって、だって……わたしも杏里先輩も、地球人ですもん!」
「アブダクションすっぞコラ」
ぬか喜びだったよ、畜生。
コラッツ問題の計算結果は、実際にColabを使って自分で作りました。ちょっとした数学の計算問題をPythonで実行するのは、割と楽しいです。
しかしまあ、真面目に数学の話をされると、コメディにもっていきづらいですね。次はもう少し遊びやすい題材を使うことにします。何になるかはお楽しみ……。




