Day. 21 宝刀トライアングル
作中はまだ夏です。色々あった前回から打って変わって、コメディ路線に戻ります。
蘭子が予告していた通り、今回のテーマは三角形です。図形の話なので挿絵をたくさん作りました。今まではパワポに頼ることが多かったのですが、複雑な図が必要になりそうなので、今回からGeogebraにも頼ることにしました。便利です、これ。
色々あった科学研究発表会を終えて、つばき学園高校数学研究クラブ、通称マス部にも平穏な日々が戻ってきた。
夏休みは終盤に入り、まだ昼間の陽射しはきつく、厳しい暑さは続いている。そんな中でも、室内の活動がメインの部活は、冷房を効かせた部屋でゆったりと活動をしていた。マス部も例外ではない。あるのは古いエアコンだけど、外よりはずっと快適なので、特に何かすることもなく漫然と過ごしている。
……まあ、発表会が終わった今、本当にやることが何もないのだが。そういうわけで、意味もなく集まった今がチャンスと見て、わたしは身を乗り出して先輩たちに提案した。
「先輩方! せっかくの夏休みですし、みんなでお出かけしませんか? 海とか、山とか!」
我ながら魅力的な提案だな、と思うと同時に、なぜ今までそんな話が持ち上がらなかったのか、内心こっそり疑問に思った。
だが、先輩方の反応ですぐに疑問は解消した。杏里は真っ青になってブツブツと恨み言を呟き出し、蘭子は手元の本に目を落としながらさらっと答える。
「海は溺れるし日焼けするし、山は虫とかヘビとか出るし、絶対ろくなことにならない……」
「部屋で数学をやればいい。以上」
「何なんですか、もう!」
魅力的な提案が反対多数で否決され、わたしはムキになって叫んだ。
「……一生に三回しかない高校の夏休みなのに、本当にどこにも行かないのですか?」
わたしが心底呆れながら、パイプ椅子に腰かけている先輩たちに言うと、杏里はなおも青ざめた顔でぶつぶつと低い声で呟き、蘭子は首をかしげる。
「害虫……害獣……熱中症……自然の脅威……」
「マジで杏里先輩、何があったんですか」
「どこにもって……研究発表会には行っただろう?」
「部活動の一環じゃなくて、純粋に遊びに行きたいんですよ。夏休みなのに引きこもって海にも山にも遊びに行かないなんて、お二人はそれでも女子高生ですかッ!」
「? 夏休みに外で遊ぶことと女子高生に何の関係が?」
ああ、ダメだ。蘭子に一般的な女子高生の感性を期待するだけ無駄か。わたしの魂の叫びは、どこにも届かずすり抜ける……。
こめかみに手を当てて渋い顔になっているわたしに、蘭子は聞いてきた。
「大体、遊びに行くなら私たちと一緒でなくてもいいんじゃないか? 一人でもいいし、瑠衣とか乃々美を誘ってもいい」
「…………」
その発想がなかったわけじゃない。実際、夏休みが始まってすぐの時に、瑠衣に誘われて二人でバッティングセンターへ行ったこともある。同じようにわたしから瑠衣を誘うことだって、もちろんできるだろう。
だけど、これはそういう話ではないのだ。わたしにとって大事なのは、遊びに行くことそのものより、誰と一緒にこの夏を過ごすかだから。
「だって……先輩たちと、部活以外でも夏の思い出を、たくさん作りたいんですもん」
「「…………」」
わたしにしては珍しくしおらしい感じに思いを吐露したからか、蘭子と杏里は一瞬、真顔になってわたしを見つめた。少しはわたしの切なる願いを聞き届けてくれるかと、この時は期待していた。
……もちろん、期待するだけ無駄だった。蘭子が首をかしげる。
「他に誘う相手がいないから、私たちを使って思い出作りをしたいってことか?」
「デリカシーないうえに人聞き悪い!」
やはり蘭子には何を言っても、一般的で常識的な感覚は通用しないか……。いやまあ、割と最初から分かってはいたけども。
繊細な乙女心を踏みにじられたわたしは、肩を落としてため息をつきながら、咄嗟に思いついたことを呟く。
「なんかもう……わたし達って、鈍角三角形みたいですね」
「おっ、その心は?」数学が絡んだ途端に目を輝かせる蘭子。
「三角形に一つしかない鈍角は、乙女心に鈍感な蘭子先輩で、他の二つの鋭角はわたしと杏里先輩です。しかも一番世間の感覚に鋭敏なわたしは、お二人の角からとても遠い所にありますが、蘭子先輩と感覚が近い杏里先輩は、距離も蘭子先輩と近いんです」
「ふむ、悪くない例え話だな」
「あのね、数学を使ってディスられているんだよ、蘭子ちゃん?」
数学で上手いこと現状を比喩した話を聞いて、蘭子は興味深そうに口角を上げている。が、この例え話はそもそも、この中で蘭子が一番世間の感覚に鈍いと揶揄しているのだから、本来は不満を示すべきなのだ。一応鋭角扱いされて、蘭子とも距離が近いと評された杏里は、特に不満はなさそうだけど。
「まあ数学に対する鋭さで言うなら、現状は鈍角二等辺三角形だな。底角の私と杏里は同じくらいの鋭角だが、頂角の茉莉は私たちと比べて圧倒的に鈍角だから」
「言ってくれるじゃないですか」わたしは怒気を込めて言う。「そのうち正三角形になってお二人と肩を並べてみせますからね!」
「……それだと相対的に私と杏里が鈍くなってしまうから、あまり現実的じゃないなぁ」
こいつめ……!
小馬鹿にするように鼻で笑う蘭子を、わたしは拳をワナワナと震わせながら睨みつけるが、本人はどこ吹く風。
しかし、わたしは気づいた。二等辺三角形を使った蘭子の例え話には、現状にそぐわない欠点がある。
「あれ? でもわたしが鈍角だったら、底角のお二人はだいぶ距離が空いていることになりますけど……って、あぁほらやっぱり杏里先輩はご立腹じゃないですか」
自分と蘭子の距離が遠いと言わんばかりの例え話がよほど不服なのか、杏里は頬をプクーッと膨らませながら、後ろから蘭子の左右のこめかみに拳をグリグリと食い込ませていた。さすがの蘭子も強烈な痛みに身悶えている。
なんというか、しばらく会わない間に、蘭子と杏里の距離感がだいぶ縮まっている気がする。幼馴染みからさらに関係を深めたようにも見えて、わたしは……うん、なんか寂しい。
ひとしきり杏里からの懲罰を受けた後、蘭子は頭をクラクラさせながら、感慨深そうにわたしに言った。
「それにしても、茉莉がこうも自然に数学で物事を喩えるとは……本当にマス部に染まったな」
「三角形そのものは算数でもやりますけどね」
「いやいや、算数で三角形を扱うのは、せいぜい面積の計算くらいだろう。幾何学において三角形は全ての基本だが、面積の話に限れば主役にはなれない」
「まあ確かに、三角形の面積って、長方形と平行四辺形に次ぐ三番手として説明することが多いですよね……」
「面積は1×1の正方形を基準にするから、長方形と平行四辺形を先に説明しないと、三角形の面積は説明できないからね」
杏里の言うとおり、算数で習う図形の面積は、1×1の正方形を単位とするから、三角形の面積はそれ単独だと求めにくい。今まで意識してこなかったけど、教科書の手順はとても合理的に組み立てられていたのだ。それゆえに、算数の考え方だと、三角形が図形の世界の主役だとはなかなか思えないかもしれない。
「だが、図形の神秘的な性質を突き詰めるとき、三角形は極めて重要になる。幾何学の主役は三角形と円に他ならないからな」
「あ、ダブル主演なんですね」
「というわけで」
蘭子は唐突に椅子から立ち上がり、拳を高く掲げて力強く宣言した。
「本日の数学トークのテーマは、予定通り“三角形”だ! 心ゆくまで語り尽くすよ!」
「そんな予定があったんですか」
「数日前からやる気満々ではあったね……」
杏里は苦笑いしながら言った。以前から決めていたのでは止めようがないか……まあ、その場で決めたとしても、蘭子の数学熱を止めるすべなどありはしないが。
夏休みだというのに、結局いつもと変わらない展開になってきたので、わたしは思い描いていた夏休みの予定を綺麗さっぱり忘れることにした。さて、今日もこの数学先輩のトークに付き合ってやりますか。
「しかし、言い出しておいてアレですけど、三角形って改めてそこまで語ることありますかね。3つの点を3本の線で繋いだだけの図形なのに」
「聞き捨てならないぞ!」蘭子はビシッとわたしを指差した。「三角形は円と並ぶ全ての図形の基本! 三角形を使わずして幾何学は語れないと言ってもいい!」
「そこまで言います?」
「一番単純なところでいうと、平面多角形の内角の和を求める方法だな。あれは必要十分な対角線を加えて、三角形に分割することで求められる」
「そういえばこんなやり方でしたねぇ」
「中学生レベルの数学だけど、大人でもこのやり方を忘れている人は結構いるみたいね。やることはかなり単純なんだけど」
さらっと中学生以下の大人が結構いるとのたまう杏里であった……。
「まあ、多角形の三角形分割は、そのパターンの数え上げを考えるだけでも面白いが、その話はまた今度にしよう。今は、三角形の内角の和の話をしたい」
「180度、ですよね?」
「では、どんな三角形でも内角の和が180度になることは、どうやって証明する?」
「うっ! ち、ちょっと待ってくださいね……」
数学の本分は対象の普遍的な性質を探って、それを証明すること。このことを知っていれば、証明の話を振られることは容易に想像がつくのに、わたしは全く心の準備をしていなかった。一瞬戸惑ったけど、必死になって証明の中身を思い出す。
子ども向けなら、三角形の3つの角を切り取って集めたら一直線になる、で済ませられるけど、数学の証明でそんなものは許されない。全ての三角形に共通して成り立つと、確実に言える説明でないといけない。そのためには確か、平行線を使っていたような……。
「えっと、まずは、辺を1つ適当に……じゃなく任意に選びます。例えば辺BCを選びますね。辺BCと平行で、反対側にある頂点Aを通る直線を引くと、こんな図ができます」
「すると、平行な2本の直線に、平行でない直線を引いたとき、錯角にあたる角の大きさは等しいので、角Aの両側に、角Bおよび角Cと同じ大きさの角があることになります。ゆえに、角A,B,Cの大きさの合計は直線の角度と等しいので、180度です」
「まあ、そんな感じでいいだろう」蘭子は腕を組んで真顔で言う。「教科書にも載っている有名な話だから、もっとさくっと説明できたらよかったのだが」
「無茶言わないでください」
「しかしその証明は、『平行線の錯角が常に等しい』という性質の上に成り立っている。そのことはきちんと証明できるか?」
「ぐっ!」
ぐうの音が出かかった。こういう指摘が来ることを想定していなかったわけじゃない。証明を思い出している間も、この箇所をつつかれたらどうしようと思っていた。
だが、想定していたからといって、答えられるとは限らない。わたしはガックリと肩を落とした。そんなわたしに杏里は寄り添って頭を撫でてくれる。
「できません……」
「だろうね」蘭子はズバッと言い切る。「この辺りはどういうわけか、教科書でもろくに説明されていないからな」
「でも、証明に使う色んな事実にいちいち証明を求めていたらキリがないですよ。平行線の錯角が等しいことなんて、もはや当たり前すぎて証明が必要といえるかどうか……」
「え? 全然当たり前じゃないよ?」
「何ですって?」
わたしに寄り添っていたはずの杏里は、わたしの発言をさらっと否定した。味方になってくれると思っていたのに、真顔で後ろから撃ってくるなんて。
「そうだな。平行線の錯角が等しいことは自明じゃない。もちろん同位角が等しいことも非自明だ。どちらもちゃんとした証明が必要になる。どちらか一方で十分だけどね」
「平行線の錯角とか同位角が等しくならないことなんてあるんですか?」
「平面上なら常に成り立つんだけど……球面とか、双曲面とか、それ以外にもぐにゃぐにゃに曲がった面の上だったら……話は違ってきそうでしょ?」
えーと……んん?
そもそもぐにゃぐにゃに曲がった面の上で、どうやって平行なのかどうかを決めたらいいのだ?
というか、直線なんて描けるのか?
頭の中で疑問がぐるぐると渦巻いて、宇宙空間に放り出されたような感覚に陥っているわたしに、蘭子は声をかける。
「すまん、慣れない人には想像しにくいよな。どこから話そうかな……まず、平面上での幾何学は、論理的な証明をするための土台が、古代ギリシャの時代にほぼ完成されている。前に沼倉先輩が茉莉と瑠衣に話していた、ユークリッドの『原論』がそれだ」
そういえばそんな話もあったな。確か、およそ2000年にわたって数学の基礎であり続けたけど、19世紀に入ってから『原論』も完全でないと明らかになり、再構築を余儀なくされたという……。
詳しくは、Day.13を見てね。
「『原論』には、平面幾何学の基礎となる5つの“公準”が記されている。そして、平面図形のあらゆる性質は、全てこの5つの公準の上に成り立っていると、ユークリッドは主張した」
Ⅰ.任意の異なる二点を通る直線を引ける
Ⅱ.直線を連続的に真っすぐ延長できる
Ⅲ.任意の一点を中心に、任意の半径の円を描ける
Ⅳ.全ての直角は互いに等しい
Ⅴ.直線が2つの直線と交わるとき、同じ側の内角の和が直角2つ分より小さいならば、その2つの直線を限りなく延長すると、内角の和が直角2つ分より小さい側で交わる
「……最後の公準だけ、やけに長くないですか。長いというか、回りくどいというか」
「それは私も同感だ」
「わたしもー」
「ちょっ、お二人にもそう言わせるなんて、大丈夫なんですか、『原論』の内容って!」
まさか蘭子も杏里も同じように、5番目の公準が回りくどいと思っていたとは予想外だ。普段から長くて面倒な数学の話を平然と繰り広げているのに……。
「まあ、あまり大丈夫ではないな」蘭子は肩をすくめて言う。「実際、この第5公準だけやたら長いせいで、実は他の4つの公準から導けるんじゃないかと、長きにわたって疑われてきたからな」
「やっぱり……」
「しかし、19世紀の前半頃、ロバチェフスキーとボーヤイがほぼ同時期に、いわゆる“平行線公準”が、他の4つの公準とは完全に独立していると結論づけた。彼らは、平行線公準と同値な命題を一度否定して、“三角形の内角の和が180°より小さい”と仮定しても、矛盾のない幾何学を作れることに気づいたんだ。ユークリッドの示した5つの公準は、あくまで狭い世界の幾何学の法則に過ぎなかったわけだ」
「全く新しい幾何学を一から作り上げたんですか? なかなか大胆な証明ですね……」
数学者たちのとんでもない天才的着想に、わたしは呆然としてしまう。
やっていることは要するに背理法だ。第5公準が他の4つの公準から導かれるなら、第5公準を否定すれば他の4つと矛盾するはずだが、そうはならないので、第5公準は他の4つの公準から導かれない……なるほど筋は通っている。荒技そのものだけど。それに、他の4つの公準と食い違わない、全く新しい幾何学を一から組み立てるなんて、かなり大変な作業じゃないだろうか? わたしだったら、やれと言われても、たぶん無理。
「その、平行線公準を否定して組み上げた幾何学というのが、ぐにゃぐにゃに曲がった面の上での幾何学なんですね?」
「曲がっていると言っても、不規則なわけではないよ。ロバチェフスキーたちが作ったのは双曲幾何……至る所負の曲率を持つという規則性がある曲面の幾何学だ。例えば、双曲幾何のモデルの一つにポアンカレの円板モデルがあるが、その世界では、あらかじめ決めた理想円に直交する直線と円弧が、直線と定義されている」
「あの、日本語で話してくれません?」
興が乗って専門用語を連投し始めた蘭子に、わたしは渋面で苦言を呈する。誰が数学弁を使いまくっていいと言ったのか……。
「それより蘭子ちゃん」杏里はまたプクーッと頬を膨らませている。「その説明、大事な数学者が一人欠けてない?」
「あー、はいはい、そうでしたね」蘭子は杏里を軽く宥めてからわたしに言う。「ちなみにこの双曲幾何は、ロバチェフスキーたちより20年くらい前に、ガウスがすでに原型を作っていたと言われている。発表していないだけでね」
ああ、杏里の推しの数学者ガウスか……その名前がすぐに出なかったから不満げだったわけだ。以前に聞いたけど、ガウスは世間から色々と後ろ指を差されることに辟易して、目新しい概念は思いついても発表を避けてきたという。まだ、Publish or Perishが当たり前じゃなかった時代の話だ。
ちなみに、ガウスたちの着想のきっかけは、サッケーリという数学者が平行線公準を他の4つの公準から導くために考案した、三角形の内角の和に関する『鋭角仮定』『直角仮定』『鈍角仮定』でした。ガウスたちは『鋭角仮定』から新しい幾何学を作り上げ、平行線公準が独立だと解明したのです。
「さて話を戻すが、この長くて回りくどい“平行線公準”を使えば、平行線の同位角や錯角が等しいことをすぐに証明できる。茉莉、やってごらん」
「…………」
わたしでもすぐにできると確信して、蘭子はホワイトボード用のマーカーを手渡してきた。蘭子の読み通り、まだぼんやりではあるが、証明の筋書きは見えている。わたしは受け取ったマーカーで、ホワイトボードに図を描きながら、思いつくままに喋ってみる。
「平行な2本の直線l, mと、それ以外の直線nが交差しているとして……同位角や錯角が等しくないとしたら、直線nから見て同じ側の内角の和は、180度以外の値になります」
「第5公準から、内角の和が180度より小さければこちら側、大きければ反対側で、延長した直線lとmは交わる……つまりlとmが平行であることと矛盾します。だから、同位角や錯角は等しいと言えます」
「Yes, the proof is perfect!」蘭子はなぜか英語で称えた。
「公準の中身は複雑ですけど、それを利用した証明はあっさりいけましたね」
わたしがホワイトボードに書いた証明を眺めながら、杏里は語る。
「たぶんユークリッドは、同位角や錯角が等しいことも含めた、平行線にまつわる色んな性質を一気に説明できると考えて、あえて複雑なままの公準を考えたのね」
「確かにそれは言えるかもしれないな」蘭子は杏里の言葉に同意した。「19世紀に入ってから、第5公準と同値な命題はいくつも考案されている。代表的なのは、『直線lと点Aが与えられたとき、点Aを通り直線lと平行な直線は1本だけ存在する』だな」
「だがこの命題だと、平行線の同位角や錯角が等しいことを示す手順が、一気に複雑になってしまう」
「公理や公準を単純にすることが、必ずしもいいこととは限らないんですね……」
「まあ、数学者の理想だけで言うなら、公理は短く少ない方がいいけれどね。ちなみに、『平行→同位角(錯角)が等しい』を示すためには第5公準が必要だが、その逆である『同位角(錯角)が等しい→平行』は、第1から第4までの公準だけで証明可能だ」
「正確には、『平行』または『2点で交わる』と示すことになるけどね」
「それは実質的に『平行』と言えるのでは? 直線は2点で交わりませんし」
「平面や双曲幾何ならそうだけど……例えば球面だと、異なる2本の直線は必ず2点で交わるよ。この場合の“直線”は、2点の最短ルートである“測地線”のことをいうんだけど」
「第5公準が成り立たない非ユークリッド幾何学だと、こういうこともあるんだよ」
ふむ……完全に理解したとは言い難いが、何となく想像はつく。平行線にまつわる第5公準が使えないだけで、ここまで議論が面倒くさいものになるのか。中身は複雑でも、やはり必要なアイテムなのだと実感できる。
ただし、もっと厳密にいえば、球面幾何では“直線”を際限なく延長することはできないので、第2公準も成り立ちません。また、2点の位置関係によっては、2点を通る直線を無数に引くことができて、半径の値によっては円を描くことができない場合もあるため、第1公準と第3公準も適用には注意が必要です。
「では、同位角や錯角が等しければ平行になることを、ちゃちゃっと証明してしまおう。まずはこの図に注目してくれ」
「同位角および錯角が等しいという条件下で、直線lとmが点Pで交わると仮定する。そして、直線m上の、点Pがある方とは逆側に、AP=BQとなるように点Qをおき、点Aと点Qも直線で繋いでおく」
「直線AQはこの時点で、直線lとは無関係に描いていることに気をつけてね」
「ふむふむ」わたしは頷く。
「すると、ここには2つの三角形ABPとBAQができる。『二辺挟角相等』という三角形の合同条件が成り立つので、2つの三角形は合同だ。これにより、点P, A, Qは一直線上に並ぶことが示され、直線lとmは2点P, Qで交わることになる」
「つまり、錯角が等しければ、2つの直線は2点で交わるか、そうでなければ1点で交わるという仮定が違うので平行である、ということですね」
これによって、2つの直線が平行であることと、同位角(錯角)が等しいことは、同値であると示されたわけだ。……まあ、同値なのは第5公準が成り立つ場合に限るけど。
ちなみに先程の、第5公準と同値な命題『与えられた点を通る平行な直線は1本だけ存在する』を使って、『平行→同位角(錯角)が等しい』を示すには、この『同位角(錯角)が等しい→平行』という事実を利用することになります。ちょっと面倒ですが。
それにしても、マス部に入ってからつくづく思うが、単純に見える物事ほど、しっかり証明しようとすると複雑になりがちだ。こんな当たり前に思えそうな性質さえ、三角形の合同条件まで使わないといけないとは……。
ん? ちょっと待てよ……?
「あの、錯角が等しければ平行であることは、第5公準を使わずに証明できると、さっきおっしゃっていましたよね」
「ああ」
「でもそれって、しれっと使っていた三角形の合同条件も、第5公準なしで正しいと示せないと駄目じゃないですか?」
「んー、気づいたか……」
「その辺はちょっとややこしいから、中学校の数学の教科書だとまず扱わないものね」
わたしが責めるような視線を向けると、蘭子と杏里はばつが悪そうな表情になった。
考えてみれば、三角形の合同条件なんて、ちゃんと証明できないのに当然のようにじゃんじゃん使われる図形の性質の、代表格みたいなものだ。マス部での活動の時ですら、合同条件そのものの証明を聞いた覚えがない。どうやら二人とも、あえて避けてきたみたいである。
「実際のところどうなんですか。第5公準抜きで合同条件の正しさを証明するのって、可能なんですか」
「まあ、『原論』にも一応、その辺りの説明が命題として書かれてはいるけれど……」
「大抵の場合、一致している部分を重ね合わせたら、残りの部分も一致するしかないから、2つの三角形は合同である……という説明だけなんだよね」
「それ……証明になっているんですか?」わたしは疑いの眼差しを向ける。
「なっていないとは言い切れないが、公理主義が根付いた19世紀以降は、批判的な意見も多くある。『原論』は紀元前の数学書にしては、公理主義に基づいた名著だと言えるが、いかんせん感覚優先になりがちな所があるから……」
難しい顔で腕組みをして、蘭子は唸りながらそう語る。二千年を超えるロングセラーといえども、数学という学問の黎明期の書物だから、やはり完璧とは言いがたいか……。
「しかしまあ、せっかくの機会だ。三角形の合同条件が正しいのか、第5公準に頼らず、きちんと証明してみよう。何しろ今回のトークテーマは、“三角形を深掘りする”だからな!」
蘭子はどことなくカッコつけてニヤリと笑いながら、カメラ目線になって言い放った。……いや、カメラどこだよ。
「ではまず、合同条件の証明に必要な、言葉の定義を確認しておこう。『原論』の定義は少々あやふやなので、現代風に書き換えた」
・『線』は長さをもち、幅をもたない図形。その端は点である。
・『直線』はその上にある任意の異なる3点について、常に真ん中の1点が他の2点の間にあるような線。
※要するに真っすぐな線。有限な直線は『線分』と呼ぶ。長さが等しければ合同。
・『角』は平面上において互いに交わる相異なる線の、片方の線から見たもう片方の線の傾き。
※今回は簡単のため、直線のなす角だけを扱う。傾きの大きさが等しければ合同。
・『三角形』は互いに平行でなく1点で交わらない3つの直線で囲まれた部分。
・『辺』は(三角形も含めた)直線図形を囲む線分。
※対応する辺の長さ、角の大きさが全て等しければ、2つの図形は合同。鏡像も含む。
・『円』は1つの線で囲まれた図形で、内部のある1点から、線上の任意の点に引いた線分が常に等しいもの。この線分を『半径』と呼ぶ。
※2つの円は半径が等しければ合同。
「ここまで細かく定義しないといけませんか……」
「不明瞭な部分があってもいい事はないからね」と、杏里。
「『点』の定義はないみたいですけど?」
「さすがにそこまでいくと、言葉で定義するのは厳しいからね」
「現代の数学では、点に必要な特性をすべて満たす図形を『点』として扱う。無定義語というものだ」
定義できそうにない概念は、無理に定義せず、持つべき特徴を満たすものをそう呼ぶようにする……どことなく逆説的だ。自然数の持つべき特徴を並べた、ペアノの公理とかもそうなのかな。
「というか、円の定義って必要なんですか?」
「必要だよ。この後結構使うからね。さらに、今後の証明で使用できる公準は、この4つだけだ。上手く活用して証明を完成させよう!」
「RPGのアイテムボックスかよ」
わたしは呆れながら蘭子にツッコミを入れる。この先輩たちは時々、ゲームのネタを数学の話に割り込ませることがある。
「さて、私たちの証明の基本方針を確認しよう。三角形は、三つの辺と三つの角がそれぞれ等しければ合同といえるが、これは、与えられた三つの辺と三つの角をもつ三角形が(鏡像を除いて)一つしかない、ということでもある。しかし実際は、計六つの情報のうち、三つの情報だけで事足りる」蘭子は指を三本立てて言う。
「つまり、三つの情報だけで三角形を一つに絞り込めることを示せば、合同条件が正しいと証明したことになるわけですね」
「そういうことだ。まずは一番簡単な、『三辺相等』からやってみよう。三つの辺の長さが、AB, BC, CAの形で与えられたとする。BCの長さをもつ線分はもちろん描ける。そのうえで、第3公準から、端点Bを中心にして半径ABの円を、端点Cを中心にして半径CAの円を、それぞれ描くことができる」
「辺の長さが適切に与えられていれば、この二つの円は2点A’, A’’で交わる」
※2つの円の交点は最大で2個であり、その個数は円の半径と中心同士の距離で決まる。片方の円を固定して、両方の中心を通る直線に沿ってもう片方の円を移動させることで、円同士の関係は5通りに絞れる。
「つまり、2つの円の両方の周上にある点が全て、残る点Aの候補になるわけですね」
「そうだ。点Bと結ばれる線分の長さがAB、点Cと結ばれる線分の長さがCAとなる、この二つの条件を同時に満たす点は2ヶ所しかない。つまりこの2点が、点Aの最終候補だ。ところで、第1公準から、点A’と点A’’はそれぞれ、点Bおよび点Cと直線で繋げられるから、ここには2つの三角形A’BCとA’’BCができるのだが、このうちの片方、A’’BCの方を、辺BCを軸にして反転させてみる」
「もしこの2つの三角形が重ならなければ、反転した後にA’’が移される点……これをA’’’とおくと、点Bから距離AB、点Cから距離CAの位置にある点が3つあることになり、異なる円の交点が最大で2個であることに反する」
「ということは、2つの三角形は辺BCで反転すると一致する、つまり鏡像の関係にあるわけですね」
「だから三つの辺の長さが与えられたら、当てはまる三角形は鏡像を除いて一つしかないってことね」
わたしと杏里で最後の結論をまとめた。最初に蘭子が示した基本方針のとおり、与えられた条件に従って作図できる三角形が、実質的に一つしかないと示すことで、合同条件になりうると証明したわけだ。
「では次に、さっきも使った『二辺挟角相等』が合同条件になるか確かめよう。一つの角の大きさが与えられているので、この角を挟む2つの直線は、傾きが固定されている」
「しかも辺の長さがどちらも決まっているので、それぞれもう片方の端点の位置も固定されていることになる。第1公準より、この2つの点を通る直線を引けるので、その直線を元の2点で分割した線分が、残る3つ目の辺となる」
「すると最初の『三辺相等』によって、三角形が一つに決まるんですね」
「いや? そのためには、2点を結ぶ線分の長さが常に等しいことを示さないといけないよ?」
「えっ……めんどくさ……」
意地悪そうにニヤリと笑った蘭子の指摘に、わたしは思わず本音が漏れた。すると、杏里が苦笑いしながら告げる。
「2点は固定されているし、2点を結ぶ最短の線が線分だから、長さはいつも一定だと考えていいと思うよ?」
「ハハハ、まあね」
蘭子は肩をすくめて、決まりが悪そうに口を引きつらせる。何なのだろう、このひと。
コホンと咳払いをしてから、蘭子は続きを話し始めた。
「さて、『錯角や同位角が等しければ平行』の証明に必要な『二辺挟角相等』は確認したから、これで結論は出たのだが……ついでだから最後に、『二角挟辺相等』が合同条件となることも確かめよう」
「……ついでと言いつつ、絶対最初からやるつもりでしたよね」
「辺BCの長さと、角ABCおよび角ACBの大きさが与えられているとする」蘭子はわたしの指摘をスルーした。「つまり、直線BCに対して、2つの直線ABとACが交わっていて、その位置と傾きが固定されている状態だ」
「第2公準より、直線ABとACはどこまでも連続的に延長できる。この2つの直線がどこかで交われば、そこで三角形ができあがる」
「交わらない場合は考えなくていいんですか?」
わたしの問いに、蘭子は腕を組んでふんぞり返りながら主張する。
「あくまで私たちが知りたいのは『条件を満たす三角形があるとすれば一つだけ』かどうかだから、三角形ができないパターンは、そもそも考える必要なし!」
投げやりな言い方だなぁ……まあ確かに、すでに確認した二つの合同条件でも、三角形が作れないパターンは無視していたけど。
「すると次に考えたいのは、直線ABとACが必ず決まった場所で交わるかどうかですね」
「そう。それを確かめて初めて、条件を満たす三角形は一つだけだと断言できる。茉莉もだんだん、慎重を期した考え方ができるようになってきたな」
「…………」
「なぜ苦虫を噛み潰す」
そりゃあ、数学をやる上で必要な考え方だと分かってはいるけど、蘭子みたいな意地の悪さも否めないから、今ひとつ褒められた気がしないのだ。蘭子のことはマス部の先輩として尊敬しているけど、こうはなりたくないと思える側面もあって、なんか複雑……。
「直線ABとACが決まった場所で交わると示す方法だけど……」杏里が説明する。「直線ABの方を固定して、直線ACを伸ばした時、直線ABと交わる点がA’とA’’の2ヶ所あるとしたら、直線A’Cと直線A”Cは同じ1つの直線ということになるよね。平行だったら交点Cは存在しないし、そうでなければ直線BCとなす角が一致しないから」
「つまり、異なる2点A’とA”を、同じ直線が通っている……ということになりますね」
「でもそんな直線は、最初に固定した直線AB以外にはないはずだよね」
「だけど、今回は三角形ができることが大前提だから、点Cは直線AB上にはないはず。つまり点A’とA’’を通る直線がCを通ることはないから、直線A’Cと直線A’’Cが一致することはありえない……矛盾ですね」
「よって、直線ABとACは、必ず決まった1点で交わるので、線分ABの長さも一つに決まるから、『二辺挟角相等』が成り立って三角形は一つに決まります!」
「そう。だから『二角挟辺相等』も、条件を満たす三角形が実質的に一つしかないので、合同条件として認められるわけだ」
最後は蘭子が締めた。固定された直線が常に同じ場所で交わる……こんな当たり前に思えることすら厳密に示さないといけないのだから、公理主義は厄介極まりない。言い出しっぺはわたしだけど。
「ちなみにこの合同条件は、実際には『二角一辺』……つまり二角に挟まれた所以外の辺を見てもいいのだが、これは『三角形の内角の和が一定(180度)』という性質、つまり第5公準を前提にしている」
「それじゃあ『二角一辺』は、第5公準を使わずに正しさを示すことができないんですね……」
「実際、第5公準だけ成り立たない双曲幾何だと、『二角一辺相等』は合同になるとは限らないからね」
「まあ、何度も言うように、『錯角や同位角が等しければ平行』を示すには、『二辺挟角相等』さえあればいいから、ぶっちゃけどっちでもいいけどね!」
あっはっは、と高らかに笑う蘭子。これは……一緒になって笑い飛ばせばいいのか、それとも、胸を張って言うことじゃないと、嘲笑えばいいのか。
「まあともかく、これで三角形の合同条件はすべて、第1~第4公準だけで示せたことになりますね」
「果たしてそうかな?」
「え?」
「2つの円の交点が高々2個であること、図形を反転することができること……最初に使ったこれらは、実は4つの公準だけで導くことができない。『原論』風にいえば自明となるものだけど、現代の数学だと自明とは認められない。結局、4つの公準だけで合同条件の正しさを、完璧に証明するのは無理なんだ」
「そんなぁ……」ここまでの苦労は何だったのだ。
「より厳密で使いやすい、平面幾何学の公理系は、ヒルベルトやタルスキによって構築されている。今でも、より良い公理系を作るための研究は続いている。それらならきっと、合同条件の正しさを完璧に示せるはずだ」
なんて途方もない世界なのだろう……三角形の合同条件なんて、ともすれば当然のことだと割り切ってしまいそうになるけど、本当にそれで正しいと厳密に示すには、『原論』の公準だと足りないのか。19世紀以降の話とはいえ、『原論』の内容のアップデートは必然だったのだ。
「そういえば」杏里が何かを思い出した。「『三辺相等』以外の合同条件は、三角関数の余弦定理や正弦定理を利用して証明する、という話もあるわね。たぶんネットとかに載っている合同条件の証明はそっちの方が多いかも」
「その定理、わたしはどちらもまだ存じ上げないのですが……」
「数学Ⅰの内容だからもうすぐ習うと思うよ」
それなら、マス部で滅多に使わない教科書を、後で調べてみるとしよう。マス部の部員なら授業で習わなくても自発的に調べろよ、と言われそうではあるが……主に二留したOGの沼倉とかから。
ところでなぜか、蘭子は難しい顔になっている。
「三角関数ねぇ……ものすごく有用な概念なのは確かだけど、名前があまり好きじゃないのよね」
「そうなんですか? 蘭子先輩がそう言うなんて珍しいですね」
すると蘭子は、今までマス部でも見せたことがないような、どす黒い闇を纏わせながらぶつぶつと恨み言を漏らし始めた。
「だって三角関数の定義に使われるのは三角形というより単位円だし、大元にあたる三角比だって、使われるのは直角三角形でしょ? つまり三角形の中の一部に過ぎないのに、まるで直角三角形が三角形の代表みたいに扱うのはおかしいでしょ。どうせなら定義に則って“円角関数”とかにすればまだ納得できるのにブツブツブツブツ……」
本当にどうした、蘭子よ。
数学用語に対してこれほど強烈な不満を露わにするのは、本当に珍しい。だが、完全に素人のわたしを置き去りにしている。いい加減に面倒くさくなってきたので、そろそろこの陰鬱なムードを終わらせることにした。
「よく分かりませんけど、とっくに市民権を得ている用語に目くじらを立てても不毛なだけでは?」
「分かってるわよ、そのくらい!」蘭子はムキになって叫ぶ。「頭では理解しているのよ。数学用語の中には、歴史的事情で変な名前が付けられたものが他にもあるし。楕円がないのに楕円関数とか、定義とほぼ関係ない群・環・体とか、何かと都合がいいというだけで正規◯◯とか正則◯◯とか」
「こちらの知らない用語を連発しながら自己完結しようとしないでもらえます?」
結局わたしを置き去りにして、蘭子はまだ自分を納得させきれずにぶつぶつと不満を漏らしている。しばらくこのフラストレーションは治まりそうにない。
蘭子が始めた三角形トークだけど、わたしは彼女を放置して、気になっていたことを杏里に聞いてみることにした。
「杏里先輩、結局三角関数ってどういう関数なんですか?」
「非常にざっくりいうと……斜辺が1の直角三角形を使って、直角以外の角の大きさと、斜辺以外の辺の長さやその比率を対応させる関数ね」
「んー、それはつまり……」
わたしは頭に浮かんだ図をホワイトボードに書き込んだ。
「こういうことですか」
「非常にざっくりだけど、大体そんなイメージでいいよ。本当は座標と単位円を使って、より広範な角度に対して定義するんだけど、今日はそこまで踏み込まなくていいかも。図形の性質に三角関数を応用するなら、ざっくりと直角三角形を使った定義で十分だし」
「ふーん、そんなものですか……そういえば、三角関数というと、サイン・コサイン・タンジェントという謎の呪文をよく聞きますが……」
「呪文じゃないよ、茉莉ちゃん……」杏里は苦笑する。「その三つはどれも三角関数の名前だよ。茉莉ちゃんが書いた図でいうと、関数の入力にあたる角の大きさをギリシャ文字のθとおいたとき、向かい側の辺の長さがsin θで、θの角を斜辺と一緒に挟んでいる辺の長さがcos θで、この二つの辺の長さの比率……つまり斜辺の傾きがtan θになるの」
「なるほど、定義そのものは思ったよりシンプルですね。でも、なんでサイン・コサイン・タンジェントという名前なんですか?」
「ぶっちゃけ、わたしも分からない……」
分からずに使っているのか。そういえば、シェルピンスキーのギャスケットの話をしたときも、なぜギャスケットという名前をつけたかはよく知らないと杏里は言っていた。
数学好きって、言葉の定義や使い方にはものすごく厳しいけど、言葉の由来には結構無頓着なところがあるな……。だからこそ、名前の付け方に異論を唱えたくなる、蘭子みたいな人がたまに現れるのだろうけど。
「まあ、ネーミングに関してはよく分からないところもあるけど、蘭子ちゃんの言ったとおり、三角関数はかなり有用な概念だから、使いこなせて損はないはずだよ。一般向けの数学書でも、三角関数の応用は色んな本で取り上げられているし」
「どう応用されるんですか?」
「三角関数は大雑把に言えば、図形の角度と位置関係を結びつける関数だから、設計やデザインの分野では必須知識だよ。建築でも計測でも3Dモデリングでももちろん必要になるわね。さらに、三角関数のグラフは規則的な波の形になるから、音や振動などの波形の解析にも使われるよ。それを応用すれば、声紋分析に振動波解析、音を作るシンセサイザーや音の特徴を変えるエフェクターなど……現代の音楽制作は三角関数が支えていると言ってもいいと思う」
思ったより応用の幅が広かった……ネーミングに疑問があれど、三角関数侮りがたし。
「もちろん純粋数学でも頻繁に使われるよ。幾何学で使われることが一番多いけど、オイラー以降は微分積分の世界でも主要キャストになっているわね」
「三角という名前がつけられるだけあって、数学という舞台でかなり重要視される存在みたいですね。三角関数、かぁ……」
杏里からざっくりと、どんな関数なのかは説明されたし、たぶんこんな感じだろうとイメージはできている。だけどたぶん、そのイメージだけでは三角関数の一割も理解したとは言えないのだろう。応用の幅が広いということは、三角関数にはそれだけ多様な側面があるはずで、それは単純なイメージだけでは計り知れない。改めて、わたしが片足を突っ込んだ世界は、見えている以上に広くて深いのだと思い知らされる。
途方に暮れそうになったわたしは、ふと、あることに気づいた。“三角”という名前にばかり注目していたけど、むしろ肝心なのは“関数”の方ではないか?
「あれ? これ、“関数”と言うからには、直角以外の角の大きさが一つ決まれば、それに対して斜辺以外の辺の長さも、必ず一つに決まるという保証がいりませんか?」
「おっ、さすが茉莉ちゃん。関数になっているかどうかの確認を忘れてない。いい心がけだよ」
杏里はウィンクしながらわたしを褒めた。……口元を緩めたこと以外は必死に耐えたけど、本心は飛び跳ねながらガッツポーズしたくてたまらない。やっぱり杏里は素直にわたしの成長を認めてくれるから大好きだ。
「じゃあ、どうやって確かめてみる?」
「そうですねぇ……今までの話を踏まえると、斜辺の長さを1に決め打ちしたうえで、それ以外の辺の長さ、または直角以外の角の大きさが与えられたとき、直角三角形が一つに決まると示せたらよさそうです」
「つまり、同じく中学校で学んだ、『直角三角形の合同条件』が正しいと示せば、角度に対して辺の長さが一つに決まる、つまり関数になるといえるわね」
直角三角形の合同条件……
①『斜辺と他の一辺がそれぞれ等しい』
②『斜辺と直角以外の角がそれぞれ等しい』
※②が正しければ三角関数が成立し、①が正しければ逆三角関数が成立する
「そういえばありましたね、直角三角形だけに通用する特別な合同条件……」
「普通の三角形の合同条件が使えない場合には重宝されるね。このうち、条件①が合同条件になることは簡単に示せるよ」
「点Cと直交する直線は、第2公準によってどこまでも延長できて、第3公準から、点Bを中心に半径ABの円を描けるから、この直線と円の交点がAになって、三角形ABCが一つに決まる」
※厳密には直線と円の交点はもう一つあるが、『三辺相等』の時と同様、辺BCを軸に反転させると点Aと一致する。ただし、『原論』の公準だけでは示せない。
「条件②の方はちょっと複雑でね……直線ABと直線BCの交わる傾きと、斜辺ABの長さが固定されているから、点Aの位置は決まる。後は、点Aを通って直線BCと直交する直線を引いて、直線BCと交わる所を点Cとおけばいいんだけど……」
「問題は、この交点Cが一つに決まるかどうかですね……」わたしも少し考えてみた。「もし点Aを通って直線BCと直交する直線が2本あって、それぞれC’とC’’で交わるとしたら、第4公準から直角は互いに等しいので、直線BCと直交している2直線は、同位角が等しい……」
「つまり2直線は交わらないので、どちらも点Aを通ることと矛盾する……だから直交する直線は一つだけで、交点Cも一つですね」
だんだんこの手の証明に慣れてきたみたいで、わたしはすんなりと結論に辿り着けた。こうやって自力で証明を組み立てられると、もう自由に使って問題ないと思えて妙に安心できる。
そのはずだったのに。
「…………んん?」
何だろう、この棘が刺さったような違和感は。直角三角形の合同条件が正しいと分かったことで、別の何かが土台からぐらついたような気がする。
じわじわと違和感の正体が頭の中に浮かんできて、わたしは首を捻りながら顔をしかめた。
「これ、大丈夫でしょうか……? ちょっとまずい事になっている気がしますけど……」
「そうだな、このままだとまずい」
「わあっ、復活してた!」
さっきまで一人でうだうだと不満を漏らしていた蘭子が、いきなりわたしの後ろから低く暗い声で喋ってきたから、わたしは驚いて飛び退きながら振り向いた。
「おかえり〜、蘭子ちゃん」
「……ただいま?」
全く驚かず笑顔でひらひらと手を振る杏里の挨拶に、蘭子はよく分からないまま応えた。本人はずっとこの部室にいたつもりだから、おかえりと言われても意味不明だろう。
「まあいいや。それより茉莉も気づいたみたいだが……この話のきっかけは、杏里が言い出した、三角関数の性質を使って三角形の合同条件の正しさを示すことができる、というものだった」
「そういう話がある、としか言ってないよ」
「分かってるよ。しかし、茉莉が指摘したとおり、三角関数が“関数”であるためには、斜辺の長さと直角以外の角の大きさだけで、直角三角形が一つに決まる、つまり直角三角形の合同条件②がどうしても必要になる」
『三角形の合同条件『二辺挟角相等』は、三角関数の余弦定理で示せる』
↓
『三角関数の性質が成り立つには、三角関数が“関数”である必要がある』
↓
『三角関数が関数であることは、直角三角形の合同条件②から示される』
↓
『直角三角形の合同条件②の正しさを示すには、『同位角の等しい2直線は交わらない』という性質が必要』
↓
『同位角の等しい2直線が交わらないことは、三角形の合同条件『二辺挟角相等』を使って示される』
↓
『三角形の合同条件『二辺挟角相等』は……あれ?』
「ところが、この合同条件②は、同位角の等しい2直線が交わらないという事実の上に成り立っていて、さらにこの事実は三角形の合同条件『二辺挟角相等』を使わないと示せない。この合同条件の正しさを、三角関数の性質を使って証明するということは……」
「一周回って元に戻ってるじゃないですか!」
「そう、つまり『循環論法』になってしまうわけだ。公理から始まって直線的に証明するのが数学だから、これでは困る」
「じゃあ、三角関数の性質を使った合同条件の証明は間違っているんですか?」
「いや、そうでもない。直角三角形の合同条件②は、第5公準を前提とした『二辺一角』の条件をそのまま使っても示せる。つまり第5公準を認めれば循環は起きないから、三角関数の性質を使っても問題はない」
「じゃあ、第5公準が成り立たない特別な幾何学の世界だったら……」
「例えば双曲幾何だと、平面における三つの合同条件は同じように成り立つが、第5公準だけが成り立たないので、三角関数の性質を使って合同条件を証明すると循環が起きるわけだ。尤も、同位角の等しい2直線が交わらないことは、『二辺挟角相等』だけで証明できるから、残りの『二角挟辺相等』は三角関数の性質を使って証明しても特に困らないけどね」
「ひえぇ……」
慄然としてしまう。改めて、数学は考えることを怠ると、とんでもないことになるのだと実感した。今回は一応、第5公準が成り立つ通常の幾何学なら正しかったけど、言われないと、この隠れた“前提”には気づけない。世の中に出回っている“説明”が、本当にちゃんと“証明”になっているのか、突き詰めて検証するのは本当に大切だ。
「やっぱり他人が言っただけの証明を考えなしに鵜呑みにするのは危険ですね。わたしもネットの情報はきちんと疑ってかかるようにします」
「それはいいんだけど……ネットに手がかりが転がっていることもあるからな?」
「わたし達も分からないことをネットで調べることはあるからね」
「結局、本とネットの合わせ技+自分で検証する、というのが最強なんだよ」
ドヤ顔で胸を張り断言する蘭子。良質な知識を得るにはそれが一番、というのは理解できるけど、もはや高校の部活動の範囲を超えているのでは……。
「さて、せっかく三角関数も話題に出たわけだし、こいつも絡めてもう少し三角形を深掘りしよう。その前に……茉莉、三角形の面積はどうやって求めるか知っているか?」
「さすがに馬鹿にしすぎでは?」
小学生の算数レベルの知識を真顔で問われて、わたしはむかっ腹が立った。入部して四ヶ月近く経ってそれなりに実力もついてきたはずなのに、なんで蘭子には未だにズブの素人扱いされるのだろう……。
「底辺×高さ÷2でしょう? 合同な三角形2つ分をくっつけて平行四辺形を作り、その面積を半分にするんです」
「じゃあ、高さが分からなくて三辺の長さだけが分かっていたら、どうする?」
……固まった。
「えっ……底辺が分かっても高さが分からないと、面積の求めようがないのでは……?」
「フゥ、だから茉莉はまだまだなんだ」
蘭子はやれやれと言いたそうにかぶりを振る。おい、続けざまに馬鹿にしやがったぞ、こいつ。
「三辺の長さが固定されていれば、三角形は一つに確定する。ならば三辺の情報だけで面積を求める方法が何かあるはずだと考えるのが、数学のやり方だ」
「まあ、言いたいことは分からなくもないですけど……じゃあ、普通の底辺×高さ÷2以外で、三角形の面積を求める方法が、何かあると思っていいんですか」
「ああ、あるとも。三辺の長さだけから面積を求める公式……それがこの、『ヘロンの公式』だ」
そう言って蘭子はホワイトボードに、さらさらと数式を書いた。
「ほぉー……少し複雑ですけど、計算自体はあまり難しくなさそうですね。確かに三つの辺の長さだけで計算できる……でも、なんでこのやり方で三角形の面積が分かるんでしょうか……」
「証明の方法は色々あるよ。有名なのは余弦定理を使った証明だけど……それはいずれ授業で習った後で、茉莉が自分で調べてみるといい。どうせネットで検索したらすぐ出てくるから」
「横着……」
一応、余弦定理を使った証明を横着せずに書くと、こうなります。
「実は、ヘロンの公式を証明するには、中学レベルの図形の知識があれば十分なんだけど、なぜかネット上でその証明が上位に来ることは滅多にないんだよな」
「複雑な方法なんですか?」
「さほど複雑でもないと思うんだけど……まあいいや。ネットで調べてすぐ分かる証明なんて、改めて説明してもつまらんだろうし、今日は中学数学を使ったあまり有名じゃない証明を紹介するとしよう!」
蘭子はぐっとサムズアップして、ニヤリと笑いながら自虐気味に言った。うーん……授業でもネットでも触れられない、マニアックな数学の話を好むところは、いかにもマス部らしいというか。
「ヘロンの公式の話を始める前に、まずは三角形の“五心”について説明しよう。これがなかなか面白いんだ」
「ごしん? スポーツとか医療は関係ないですよね?」
「「その誤審(誤診)じゃない」」
蘭子と杏里がハモりながら突っ込んだ。頭に浮かんだ誤変換は違う気もするけど、息ぴったりだなぁ、この二人。
蘭子はホワイトボードに素早く図形を書き込んでいく。五つの三角形と、そのそれぞれに色々な直線や円を描き加えている。
「三角形には様々な種類の“中心”が存在する。中でも特に重要な5種類の中心を、数学ではひとまとめにして“五心”と呼んでいる。一つ一つを見ていくと……」
【外心】
各辺の垂直二等分線が交わる点。外接円の中心でもあるので外心と呼ぶ。
【内心】
各頂点の内角の二等分線が交わる点。内接円の中心でもあるので内心と呼ぶ。
【重心】
各頂点と対辺の中点を結ぶ直線(中線)が交わる点。物理的なバランスをとれる場所でもあるので重心と呼ぶ。
【垂心】
各頂点から対辺に下ろした垂線が交わる点。このため垂心と呼ぶ。
【傍心】
2つの頂点の外角の二等分線と、残りの頂点の内角の二等分線が交わる点。一辺と残る二辺の延長線に接する“傍接円”の中心でもあるので傍心と呼ぶ。3つ存在する。
「この五つが特に重要ということは、図形の問題でよく出るんですか?」
「それもあるけど、五心には不思議な性質がたくさんあるからね。だって、さらっと書いてあるけど、三本ある垂直二等分線や角の二等分線や中線や垂線が、いつも一点で交わるって不思議じゃない?」
「はっ、言われてみれば!」
杏里に言われてやっと気づいたけど、三本の直線が全て一点で交わるのはまれだ。ほとんどの場合は二本ずつ別々に交わって三角形を作る。だけど、どんな三角形でも、『各辺の垂直二等分線』も『各頂点の内角の二等分線』も『中線』も『垂線』も、三本全てが一点で交わるというのだ。これが不思議でなくて何だというのだろう。
「これらの三直線が一点で交わる……つまりこの5種類の“中心”が任意の三角形に存在することは、中学数学の範囲で証明可能だ。宿題にしておくから、円周角の定理や平行線の性質を駆使して、ぜひ証明してほしい」
「しれっと宿題出してきましたね……まあやりますけど」
中学レベルの問題なら、片手間で解けないと高校生として立場がない。ましてわたしはまだ素人とはいえ、マス部の部員でもあるのだから。数学の課題に挑まず投げ捨てるなどプライドが許さない。
それにまあ……いよいよどうにもならなくなったら、杏里に助けを求めればいいし(一瞬で捨てられるプライド)。
「それに、五心は互いに密接な関係を持っている、という意味でも極めて重要だ」
・三角形の外心と、三角形の各辺の中点を結んで作られる三角形の垂心は一致する
・三角形の各頂点と、内心と、対辺を挟んで反対側にある傍心は一直線上にある
・三角形の内心と、三角形の三つの傍心を結んで作られる三角形の垂心は一致する
・三角形の垂心と、各頂点から対辺に下ろした垂線の足を結んで作られる三角形の内心は一致する
・三角形の傍心同士の中点3つと、内心と各傍心の中点3つは全て、外接円上にある
・三角形の外心、重心、垂心は、この順番で一直線上に並び、その間隔は常に1:2
「中でも最後の関係は、オイラー師匠が発見した特に美しい三角形の性質の一つだ。いつも同じ比率の間隔で一直線上に並んでいて、しかも九点円の中心を始め、いくつもの特殊な点がこの直線上に存在する。まさにwhat a wonderful and beautiful line! この奇跡的な直線を見つけた功績から、オイラー線という名前がつけられているんだぞ!」
「オタク特有の早口……」
実に滑らかにペラペラと、目を輝かせて興奮混じりに語る蘭子に、わたしはどんな感情を抱けばいいか分からず途方に暮れていた。今日はよく英語が混じるな……。まあ、確かに奇跡的ではある。オイラーはよくこんな直線を見つけたものだ。
「これらも中学数学の範囲で証明できるから、ついでに宿題として解いてみるといい」
宿題増やしやがったぞ、このひと。さすがにわたしはブチ切れそうになった。
「あの、これとは別に夏休みの宿題もあるんですけど、分かったうえで言ってます?」
「ん? 夏休みの宿題なんて、最初の数日で片付けられるだろう?」
「天才はこれだから……!」
頭の出来が違うからか、夏休みの宿題に苦労する子供の気持ちが本当に一切分からないらしい。眉を顰める蘭子の発言に、わたしの神経は見事に逆撫でされた……。
「というか、夏休みの前半は発表会に注力するために聞かないでいたけど、そっちの宿題は進めているのか?」
「…………」目を逸らした。「ちょっとずつ計画的に進めてはいますし」
「終わってはいないんだな。よくその状況で遊びに誘おうと思ったな」
「それとこれとは別ですし」
「茉莉ちゃん……遊ぶのは宿題を終わらせる目処が立ってからにしようね?」
ああ……杏里が困惑した顔でフォローしつつやんわりと諭してきた。たぶん杏里もとっくに宿題は済ませているのだろう。マス部で危ういのって、もしかしてわたしだけか?
「まあ、そっちは茉莉が自己責任で何とかするとして、そろそろ話を戻すよ。ヘロンの公式を中学数学の範囲で証明するには……」
蘭子はホワイトボードの空いたスペースに、フリーハンドで一つの三角形を描き、さらに内接円と傍接円を描き加えた。
「こんな図を使うことになる」
「求めるのは、三角形ABCの面積ですね?」
「そう。これから三辺の長さa,b,cだけを使って、その面積を表現する方法を探る」
底辺×高さ÷2の時と比べて、使う図はなかなか複雑になっている。まあ、ヘロンの公式自体がそれなりに複雑だし、証明の手順も比例して複雑になるのは宜なることだろうけど。
「まず大事な前提として、a,b,cはそれぞれ、頂点A,B,Cの対辺の長さとする」
「念のためにいうと、D,E,Fは三角形と内接円との接点で、L,M,Nは傍接円との接点、内心をI、傍心をJとおく。さらに内接円の半径をr、傍接円の半径をRとする。そして公式の前提にもあるが、実数sを、全ての辺の長さの、合計の半分と定義する」
s = (a+b+c)/2
「さて、次に三角形と内接円の関係に注目。今回は証明を省略するが、円の接線と、接点を通る半径は直交する。すると、各頂点と内心を結ぶ線分で三角形ABCを分割すると、底辺がそれぞれa,b,cで高さがrの、三つの三角形ができる。よって、求めるべき面積は……」
△ABC = △BCI+△CAI+△ABI
= ar/2 + br/2 + cr/2
= (a+b+c)r/2
= rs
「なんと!」わたしは素直に驚いた。「三角形の面積って、内接円の半径を使ってこんなシンプルなかけ算で表せるんですね」
「面白いでしょ」杏里が楽しそうに微笑む。「でも今回は、三辺の長さだけを使った公式がゴールだから、このrを今から何とかしないといけないんだけどね」
「そのために、色んな部分の長さを求めよう。まず、直角三角形の合同条件から、三角形AEIとAFIの合同が示され、AE=AFがいえる。同様に、BE=BDとCD=CFもいえる。すると、AE(=AF) とBD(=BE) とCF(=CD) の長さは……」
(AE+AF)+(BD+BE)+(CD+CF) = c+a+b = 2s なので、
AE+BD+CD = AE+a = s であり、
AE(= AF) = s-a
同様に、BD(= BE) = s-b, CF(= CD) = s-c
「さらに、傍接円にも注目すると、さっきと同じ要領でAL=AN, BL=BM, CM=CNがいえる。すると……」
2AL = AL+AN = (c+BL)+(b+CN) = c+b+(BM+CM) = c+b+a = 2s なので、
AL(= AN) = s が成り立つ。したがって、
BL(= BM) = AL-AB = s-c
「ふうん、内接円や傍接円との接点で区切った長さを、sで表せるというのは意外ですね」
「内接円や傍接円に特有の性質といってもいい。では、色んな線分の長さが分かったところで、次は三角形の相似の話に移ろう。この図には2組の、相似な直角三角形がある」
「三角形AEIとALJはどちらも直角三角形で、∠EAIと∠LAJが共通なので等しい。『二角相等』からこの二つの三角形は相似だ。ゆえに、AE:EI = AL:LJが成り立つので……」
AE:EI = AL:LJ より、(s-a):r = s:R
比の関係を積の関係に置き換えると、
rs = (s-a)R …①
「あっ、左辺は三角形の面積ですね」
「そうだな。だから次は傍接円の半径Rをどうにかしないといけない。そこで注目したいのが、もう1組の相似な三角形だ」
「三角形BLJとIDBはどちらも直角三角形だ。そして、線分BIは頂点Bの内角を、線分BJは外角を二等分するので、∠IBDと∠JBLの和は180°の半分で90°、つまり直角になる」
「ということは、∠JBLと∠BJLの和も90°ですから、∠IBDと∠BJLはどちらも90°から∠JBLを引いたものなので等しいですね」
「つまり『二角相等』だから相似だ。ゆえに、BL:LJ = ID:DBが成り立つので……」
BL:LJ = ID:DB より、(s-c):R = r:(s-b)
比の関係を積の関係に置き換えると、
rR = (s-b)(s-c) …②
「あれ、Rだけ独立した式じゃないと、さっきの式に代入できませんけど、どうするんですか?」
「だったら、代入できるように①の式をいじればいい。つまり①の両辺にrをかければ……」
r^2 × s = (s-a) × rR
②の式を代入して、
r^2 × s = (s-a)(s-b)(s-c)
「後は、両辺にsをかけてルートをとれば、三角形の面積であるrsを、辺の長さだけを使った式で表せる」
r^2 × s^2 = s(s-a)(s-b)(s-c)
rs = √(s(s-a)(s-b)(s-c))
「以上で、ヘロンの公式は証明された」
「なるほどなぁ……証明の手順は長いですけど、一つ一つはそんなに難しくないですね。確かに中学数学の範囲で説明できてる……」
「たぶん、“長い”というのが、教科書に載せる上での最大のネックなんだろうね」
「教科書の場合はそれでも納得できるが、ネット上でほとんど見かけないことは説明がつかないじゃないか。なぜみんなこの証明を考察しようとしないんだ」
蘭子はしかめ面で腕を組んで不満を漏らす。
それは、マニアックすぎて埋もれているだけじゃないかなぁ……有名な話ほど検索されやすくて上位に入るものだし。内接円と傍接円を用いた証明は上位に来ないだけで、たぶんどこかには存在している気がする。
ちなみに、式①を他の傍接円にも適用すると、3つある傍接円の半径の逆数の和が、内接円の半径の逆数と等しくなることも分かります。
「それにしても、内接円と傍接円の性質を上手く使って、パズルを組み立てるみたいに公式を導くなんて、面白いですね」
「余弦定理を使った証明だと、こういうパズル的な面白さは味わいにくいかもね」
「それに、この証明の流れを知っていれば、こんな性質が成り立つこともすぐ分かる」
『底面が三角形ABCで高さが内接円の半径rの三角柱』と『縦・横・高さがそれぞれ、三角形ABCの各頂点から内接円との接点までの距離である直方体』の体積は等しい
「そっか、さっきの証明の途中に出てきた式が、そのままこの性質を示していますね」
r^2 ×s = (s-a)(s-b)(s-c)
「この内接円の性質はウィキペディアにも掲載されているけど、ヘロンの公式と、内接円から面積を求める方法を結びつけられないと、初見でこの正しさを見抜くのは厳しいだろうな」
確かに蘭子の言うとおりかもしれない。ここまでの証明の流れを追ってきたから、わたしは初見ですぐに分かったけど、余弦定理を使った証明しか知らないと、体積の等しさを示す式に辿り着くまで手間がかかるだろう。
「ちなみにヘロンの公式は合同条件の『三辺相等』から始めたが、他の合同条件からも三角形の面積を求められる。まあ、角度が絡むから、どうしても三角関数を使うことになるけど……」
「『二辺挟角相等』の方は割とシンプルな式ですけど、『二角挟辺相等』は若干面倒な形になっていますね」
「ヘロンの公式と違って、三角関数はキリのいい値になるとは限らないから、実用には不向きかもしれないな。とはいえ、三角形の面積を求めるどんな公式でも、結局その根底にあるのは、算数で習う『底辺×高さ÷2』だ。これもまた、単純明快な物事を土台にして論理で積み上げ、あらゆる事実を証明する……ユークリッド的方法のなせる業といえよう」
「算数と数学は学ぶものが似ているようで違うけど……算数で学んだことを礎に、数学は積み上げられていくんですね」
そう考えると、算数でも数学でも、学んできたことは何一つ無駄じゃないと気づかされる。ヘロンの公式という一風変わった式も、算数の知識がなければ辿り着けない。積み重ねる学びこそ数学の醍醐味なのだ。
「……まあ、公理主義的には、算数のやり方はだいぶあやふやだから、再構築しないと使い物にならないけどな」
「蘭子先輩、相変わらず身も蓋もない……」
「さて、まだまだ語り尽くせないが、ここまでだけでも、三角形が幾何学の主役と言える所以は理解できたかな?」
「そうですね……さすがに前言は撤回ですかね。三角形絡みでよくここまで色んな話題を出せるものだと思いましたよ」
「三角形は最もシンプルな平面図形でありながら、他の図形にない多種多様で魅力的な性質が存在する。つまり、どんな図形も三角形に切り分けることで、その性質の恩恵を受けてさらなる魅力を発掘できるのだ。そう、三角形こそまさに、幾何学における“伝家の宝刀”だ!」
蘭子は力強く拳を握りしめ、力強い声で断言した。
さて、どこからツッコもうか。
「……伝家の宝刀って、滅多に使わないものじゃありませんでしたっけ」
「…………」拳を引っ込める蘭子。「じゃあ、ただの宝刀で」
「宝刀なのにありがたみが薄いなぁ……」
杏里も苦笑している。使い勝手の良さで言うなら、普通の刀でもいいような気もするけど……まあ、これ以上の野暮は言うまい。
* * *
いつものようにひたすら駄弁るだけの部活動を終えたわたし達は、まだ陽が高いうちに、久々に三人揃って文化部棟を出て帰路についた。元々帰る方向も違っていて、生活リズムも全く異なるので、帰るタイミングはバラバラであることが多いのだが、現在進行形でやることがない今、部室に残る理由が全員になかったのだ。
文化部棟はつばき学園高校の敷地の隅にあるため、校門までは結構離れている。わたし達三人は、校舎のそばやプールの近くを通り抜けて、並んで歩いていた。
「なんか、ちっとも夏休みって感じがしませんね……せっかく集まったのに特別なことは何もしませんでしたし」
「まあ実際、することがないからな」
「二学期が始まれば自然とやることは出てくると思うけどね」
「はあ……」わたしは天を仰いでため息をつく。「いいのかなぁ、貴重な高校一年生の夏休みを、こんな生産性のないお喋りだけの活動に費やして……」
「さっきはノリノリで話に加わっていたじゃないか」
「そうですけどぉ〜……夏休みにマニアックな数学の話をするなら、もうちょっと特別なシチュエーションでもやりたくないですか」
「特別なシチュエーション?」
「そうです。例えば……海とか山とかで!」
ここぞとばかりに目を輝かせて、わたしは魅力的な提案を力強く言い放った。まだ夏休みはたっぷり残っている。いつもと違う環境で、大好きな先輩方と心ゆくまでガールズトーク(と、ついでに数学トーク)に花を咲かせる……素晴らしい夏休みの過ごし方だ。
「それ……まだ諦めてなかったのか」
「今日は無理でしたけど、夏休みの間にその機会が全くないわけではありませんから」
「アウトドアへの意気込みが凄まじいな、茉莉は。というか、私を連れて行くのはまだしも……」
蘭子はチラっと、青ざめてぶつぶつと低い声で自然への恐怖を呟いている杏里に目を向けた。
「海は溺れる日焼けする流されるクラゲに刺される山は虫が出る雨に降られるクマが出る足を痛める……」
「あの状況の杏里を連れて行くのは至難の業ではないかな」
「ホントにマジで杏里先輩に何があったんですか」
「色々あったんだよ、きっと」
幼馴染みの蘭子ですら全てを知っているわけではないみたいだが、とりあえずかつての杏里がアウトドアとかなり相性が悪かったのは確かなようだ。杏里はスポーツ全般が好きだけど、水泳だけは未だに大の苦手だから、海を楽しめないのは想像がつくし、平地での運動に慣れていても、山では勝手が違うのかもしれない。杏里をアウトドアに誘うなら、やり方を再考した方がいいのかも……。
と、そんな話をしているうちに、テニスコートの近くまで来ると、テニスウェア姿の生徒が数人、揃ってコートから出てきた。テニス部は夏休みの初めに大きな大会が終わって、しばらくは来年に向けたトレーニング期間になると聞いている。
コートから出てきたテニス部員の一人が、わたし達に気づいて駆け寄ってきた。低めの背丈におさげ髪、本庄乃々美である。
「皆さん、これからお帰りですか」
「まあね……発表会が終わったら特にやることがないから。本庄さんは?」
「今は休憩時間です。昼間の時間帯は暑くなりやすいので、交代で水分補給やクールダウンをするんです」
「そういえば瑠衣も前にそんなこと言ってたな……瑠衣はまだ練習中?」
「ええっと……」乃々美は困惑した顔になった。「二時間ほど前に休憩に入ったんですが、ついさっきようやく戻って来まして、お昼ご飯を食べて仮眠をとったら寝過ごしたと言ってました。あっけらかんと」
「何やってるの、瑠衣のやつ……」
「今は監督にこってり絞られています」
監督のお叱りすら、すました顔で受け流していそうだな……。瑠衣の自由奔放ぶりを知っている蘭子と杏里も、呆れて苦笑いを浮かべていた。
「そういえば、本庄さんって夏休みはどこか遊びに行ったりした?」
「地元の民俗資料館に行きましたよ。休日でも人がほとんどいない所なので」
「それ二重の意味で悲しいってば」
未だに人見知りを克服できていない乃々美が行けるのは、普段からお客さんも来ないような不人気な場所だけらしい。なんだか聞いていて不憫に思えてきたな、どっちも。
「そういう皆さんは、夏休みにどこかへ……っ!!」
わたし達にも夏休みの過ごし方を尋ねようとした乃々美は、途中で言葉を詰まらせ、何かに驚いたように目を見開いた。
どうしたのだろう……何に驚いているのか訊こうとしたら、乃々美は緊張気味の上擦った声でわたし達に告げた。
「あっ、あのっ!」
ぎゅっと両目を瞑り、特徴のおさげ髪をふわっと揺らす勢いで前のめりになって、乃々美は声を張り上げた。
「もし予定が合えば、皆さん、わたしの家の別荘へ、遊びに行きませんか!?」
……それは、極度の人見知りである乃々美にとって、特大の勇気を振り絞って放った、一世一代の誘い文句に違いない。どんな返答が来るか分からず怖いのか、乃々美はまだ両目を瞑ってプルプルと震えている。
さて、そんな力一杯のお誘いを受けた、我らマス部の三名は、唐突すぎるその提案に呆然として……そして揃って大声を上げた。
「「「本庄さん、別荘持ってるの!?」」」
「えっ、そこ?」
予想しなかったわたし達の反応に、乃々美は拍子抜けした。
マス部の日常がこんな体たらくなので忘れられがちだが、つばき学園高校は元々淑女を育むお嬢様学校というだけあって、色んな伝統がなし崩しに廃れた今でも、一部の生徒は良家やお金持ちの令嬢だったりする。わたしみたいな一般庶民の生徒が多数ではあるが、どうやら乃々美は庶民ではなかったらしい。
というわけで、
まだまだ何か起きそうな夏は続きます。しかしラノベみたいな夏休みのイベントは、蘭子と杏里があんななので、起きそうにありません。残念ながら。
三角形の五心に関する性質は、ほとんどウィキペディア情報ですが、証明が載っていなくても、自力で証明して事実上裏を取っているので、正しいはずです。かなり難しいのもありますが、中学数学の知識だけでできるので、皆さんも検証してみましょう。
何度も言います。検証は大事です。
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