Day. 20 3人で進む方法
ぐるっと一周して、また作中の季節と現実の季節が合ってきました。
黄金へ到る旅から始まった、フィボナッチ数にまつわるお話も、今回で見納めです。そして、前回のafterに出てきた法則クイズの解き方と答え、そして隠された屈託が明らかとなります。
さあ、謎を解きましょう。
初めての研究発表会が終わって、数日が経ったある日、わたしは一人でマス部の部室を訪れた。
まだ夏休みの真っ最中ということもあり、学園のどこかから運動部のかけ声は聞こえるが、いつもと比べるとだいぶ静かだ。多種多様な小規模の部活動が揃っている一方、強豪と呼べる部活動はあまりないので、夏休みに入るとどこも小康状態となる。
そしてそれは、マス部も例外じゃない。わたしが来たのはお昼過ぎだが、部室は無人のままで、妙に薄暗かった。一つしかない窓から差し込む外光だけでは、充分に明るくならないのがこの部室である。
「来てないか、先輩方……」
部室に誰もいないと分かって、残念なようなホッとしたような、複雑な気分になる。まあ、ドアが施錠されていたから、開ける前から無人なのは分かっていたけどね。職員室で借りた鍵をドアの錠に挿し込んで回したら、普通に開いたから。
中に入ってドアを閉め、適当に椅子に座って、静寂の中に身を置いた。何となく億劫で、天井の照明はつけていない。
夏休みの間も、マス部のメンバーはここに集まっていたが、それは先日の発表会に向けた練習のためという目的があったからだ。発表会が終わった今、学校に来る用事もないのに、部室に顔を出す必然は何もない。それでも連絡を取り合えば、いつものように部室に集まって、他愛もない数学トークに花を咲かせることもしただろう。ここでの数学トークが他愛ないかはさておくとして。
ああ、ちなみに発表会の審査結果は昨日、運営の公式サイトで公開され、わたしは残念ながら入賞とはならなかった。それでも出場したこと自体はマス部の成果となるので、学校の方でも記録に残しておくと、荒川先生は話していた。
さて、特に用事もないのに部室を訪ねたわけだが……ぶっちゃけ、何もやる事がない。
いつもは数学トークと言いながら、実態は先輩たちによるちょっとマニアックな数学談義がメインなので、わたしが一人で来たところで、いつものような活動はできない。研究の続きをしてもいいが、発表会が終わったばかりで、燃え尽き症候群に陥っていて、手を付ける気になれない。
ならば先輩たちに連絡を取ればいいのに、と思うだろう。わたしもそう思う。
だけど……気は進まない。
なんで、仲がいいはずの先輩たちに、気軽に連絡を取れないのか、理由は分かっている。発表会の日の、あの出来事だ。
「思い出したらまたぐちゃぐちゃしてきた……」
わたしは項垂れて髪をぐちゃぐちゃに掻き乱した。そんなことをしたところで、頭の中の乱れが整うわけでもないのに。
あの日は本当に色々あった。
蘭子に抱きしめられた。ショックで弱っていたわたしを落ち着かせるためだと、本人は言っていたけど、正直蘭子らしくない。蘭子からのスキンシップは初めてなので、思いの外温かく柔らかくて、ドキドキした。
杏里に抱き寄せられた。それ自体は割といつものことだし、発表会を何とかやり遂げられて、杏里も嬉しくて舞い上がっていたのだろうと思う。ただ、振り返ってみると杏里からのスキンシップはここ最近あまりなくて、あの柔らかさとフローラルな香りを忘れていたかもしれない。まるで最初の頃のように、ドキドキした。
まったく情けない話だけど、自分でもなんであそこまで心を揺さぶられたのか、よく分かっていないせいで、二人といつも通りのやり取りができる気がしない。杏里の声を聞いただけで、あの日の感覚を思い出して動揺しそうだし、蘭子には、あの日のハグの真意を聞くのが、何となく怖い。
まさかね……わたしがこんなに、大好きな先輩たちのことで臆病になるなんて。
片腕を伸ばしてテーブルに突っ伏して、気怠さに全身を委ねる。一人きりの静かな空間で手持ち無沙汰になると、何もせずダラダラとしたくなる。考えても迷路に入り込んでしまいそうな時は、特に。
でも、こうしてぼうっとしていても、やっぱり決まって頭に浮かぶのは……大好きで、心の底から会いたい人たち。
「杏里先輩……蘭子先輩……会いたいなぁ……」
何の意味もない願い事だ。心の奥深くにある望みが、ふと口をついた、それだけのこと。
だから、誰かが近づいてくる足音が、ドアの外から聞こえてきたとき、まさか願いが通じたのかと思ってしまった。
「あっ! 先輩……?」
バッと起き上がって、期待に胸を膨らませてドアの方を見る。
近づいてきた誰かはドアの前で立ち止まって、ゆっくりとドアを開けて、その姿をわたしの前に現した……。
「おっ。やっぱり来てたんだ、茉莉」
誠に残念ながら、わたしの願いは通じていなかった。来たのはわたしの数少ない友人だった。
「なんだ、瑠衣か……」
「ちょいちょい。数少ない友人が会いに来たのに、なんでそんなガッカリしてんの」
期待が外れてあからさまに落胆したわたしを見て、瑠衣は心外そうに眉間にしわを寄せた。別に呼んだわけじゃないけど、瑠衣からすれば落胆される筋合いはないから、当然といえば当然の反応だ。
だけど、瑠衣まで“数少ない”とか言うな。そっちはわたしより友人が多いからって。
「あれ? 今日は茉莉だけ? しかも電気つけてないから薄暗いし……」
招き入れた覚えはないが、瑠衣は普通に室内に入ってきて、部室の中をキョロキョロと見回す。
「今日はそもそも集まる予定とかなかったからね……結構暇を持て余してた」
「発表会も終わったしね」
「瑠衣こそ何でここに? 夏の大会が終わったから、しばらく夏休みに部活は来ないと思ってた」
「来年に向けたレベルアップは今から始めるものなんだよ。けど、ちょっと気温が上がりすぎてきたから、二時間ほど練習をストップするって。熱中症でダウンしないように、という部長の配慮ですよ」
「なるほど……」
「それで文化部棟の近くまで来たら、マス部の部室に人のいる気配がしたから、もしかしたら茉莉が来てるかと思ってお邪魔した」
「電気もつけてないのによく気配なんて分かるね……」
「わたしの変なものセンサーは日々進化しているのだよ」
そのセンサーが感知した変なものって、わたししかいないじゃないか。なんでわたし、得意気に胸を張る友人にさらっと変人扱いされているのだろう。……まあ、瑠衣にとって変人という評価は褒め言葉なのだが。
「それに、乃々美に頼まれちゃったからねぇ……なるべく茉莉の近くにいてほしいって」
「ん? なんで?」
「そりゃあ、部活以外に夏休みを充実させる手段がない友人に、付き合ってあげようというありがたいお気遣いだよ」
「あっそ」
余計な気遣いだと言いたいところだが、現状のわたしでは説得力が恐ろしく足りない。ただ、さほど付き合いがあるわけでもない乃々美が、瑠衣にそんなことを頼んだというのは腑に落ちないが。
瑠衣は久々に訪れたマス部の部室を、興味深そうに見回している。
「それにしても、相変わらず散らかった部室だねぇ」
「先輩たちも、他の人が何をどこに仕舞ったか把握してないくらいだからね……雑多もいいとこ」
「マジか。マス部の人たちって、数学以外のことはおざなり過ぎない?」
「ホントそれ。まあ、普段は駄弁ってばかりで、仕舞った物を引っ張り出すことは少ないから気に留めないけど、どこかのタイミングで整理しておかないと、後が大変になるだろうし……」
「よしッ! だったら今日やろう! 部室の整理整頓!」
なんだか急にやる気を見せ始めた瑠衣は、目を輝かせてこんなことを言い出した。この暑さの中でも、体を動かしたくて仕方がないのか……さすが体育会系。
とはいえ、たぶん先輩たちは部室の整理なんて進んでやらないだろうし、面倒な作業は思い立った時にやってしまった方がいい。わたしは瑠衣の提案に乗っかって、部室の整理とついでに掃除をすることにした。気分転換にもなるだろうし。
体育倉庫から掃除道具一式を持ってきて、ドアと窓を全開にして、まずは室内のあちこちに溜まった埃や汚れを落とす。ハンディモップで埃をある程度取ってから、バケツに汲んだ水で雑巾を濡らして、丁寧に拭いていく。ロッカーや積まれた段ボール箱の上は、一体何年分なのかも分からないほど、大量の埃が層をなしていて、モップで集めるだけでもひと苦労だった。
床、窓ガラス、テーブル、椅子も、水拭きと乾拭きでしっかりと磨いていく。狭い部室だし、二人がかりだから、大変だけど三十分もかけずに大部分を掃除できた。
次は、ロッカーの中や壁際に乱雑に置かれている、よく分からない大量の荷物を整理するわけだが、これがなかなかの難物だ。
「何だ、これ……?」
「どうしたの?」
段ボール箱の一つを開けて中を見た瑠衣は、顔をしかめた。何が入っていたのかと思い、瑠衣の後ろから覗いてみると、わたしも言葉を失った。
箱の中には、見るからにお手製と思しき、珍妙な形状のおもちゃみたいな物体が、ぎっしりと詰め込まれていた。そのほとんどに数字が書かれているので、恐らく前に蘭子が見せたスパイラルカレンダーと同様、数学的なギミックを使った道具なのだろう。一見して使い道が全く想像できないが。
しばらくわたしと瑠衣は、呆然と箱の中を眺めていた。
「…………」
「…………これって可燃ゴミ? それとも粗大ゴミ?」
「どっちにしてもゴミ扱いはやめよう? こんなんでも必死に作ったんだろうし」
あと、面倒だからと言って箱ごとゴミ扱いしないでほしい。ゴミは正しく分別しよう。
とりあえず、扱いに困るものは部室の外に避難させておいた。夏休みでこの文化部棟にもあまり人が来ないけど、一応邪魔にならないよう、外廊下の壁際に寄せておく。
そして荷物の整理を再開したわけだが、ロッカーや段ボール箱から出てくるのは、ほとんどが本とノートと、印刷済みのコピー用紙と、雑にまとめられたメモ用紙だった。数学アレルギーの瑠衣は渋面になる。
「やっぱ、数式の書かれたものが多いな……普段から使っているわけでもないのに、こんなものを取っておいて意味があるの?」
「それはわたしにも分からないけど……」わたしは険しい表情を瑠衣に向ける。「その辺りの断捨離は絶対、先輩たちがいる時にやろう。わたし達がやったら大事な物まで捨ててしまいそうだし」
「……先輩たち、数学絡みで断捨離なんかできんのかな」
瑠衣の心配は尤もだ。あの人たちなら、そのうちまた参考にするかも、とか言って大部分を残してしまいそうだし。
「まあ、完全に任せるよりは、先輩たちに内容を聞いたうえで、わたしが捨てるかどうかを決めた方がよさそうだけど」
「茉莉の負担ばかり増えそうだなぁ」
こんなことでは、今日中に部室の整理を終わらせるのは難しそうだ。とりあえず、乱雑に仕舞われている冊子とプリントくらいは、綺麗に整えておくとしよう。せめて探して取り出すのが楽になるように。クリアファイルにそのまま仕舞うより、パンチ穴を開けてリング付きファイルに収めた方が、プリントをめくって探すのも楽になる。足りないようなら買い足しておくか。
一つ目のロッカーの整理が終わったので、わたしはその隣のロッカーを開けた。
「あれ……?」
不思議なことに、このロッカーは整理するまでもなく、ほとんど何も入っていない。冊子やプリントの類いはもちろん、おもちゃみたいな道具や私物さえもない。唯一ここにあるのは……。
ダイヤル錠のかけられた、小さな木目模様の箱だけだった。
「何だろう、この箱……」
わたしはその箱を手に取ってみた。かなり軽くて、空っぽなのかと思ったけど、少し振ってみると中でカラカラと音がした。何か固形物が入っているみたいだ。
「どうしたの、それ?」
「ロッカーの中にこれだけ残ってた。何か小物が入っているみたいだけど……」
「へぇ、宝箱みたいだねぇ」
瑠衣も作業の手を止めて、わたしの手元の箱を興味深そうに見つめた。箱の蓋に付けられている4桁のダイヤル錠を、瑠衣は指先でくりくりと弄る。ダイヤルは今、6099に合わせられている。
「開くには暗証番号が必要なのかぁ……」
「市販のダイヤル錠だけど、たぶん自由に番号を設定できるやつだと思う。ロッカーの中を空っぽにして、この箱だけを残しているから、忘れ物とかじゃないよね。ロックしたまま敢えてここに置いたとしたら……」
「誰かがマス部の後輩に残した、小粋なプレゼントってことかな?」
なんだか瑠衣の方が楽しそうだなぁ。何かを入れて鍵をかけられた宝箱なんて、よほど奇特な人が残したに違いない。瑠衣が心惹かれるのも当然か。
「だとしたら、暗証番号を知る手段がどこかにあるはずだけど……」
「そんなことしなくても、適当に回していけばいつかは開くんじゃない?」
「4桁だから、全部で一万通りあるけど?」
「えっ?」
「たぶん、全部試すことになったら、二時間とか三時間じゃ済まないと思う」
瑠衣は空っぽのロッカーに駆け寄り、内部をつぶさに調べ始めた。
「冗談じゃない! 絶対どこかに手掛かりがあるはずなんだから!」
必死だなぁ……テニス部の練習はあと一時間くらいで再開するから、それまでに箱を開けたいのだろうけど、マス部の部員じゃない瑠衣がやる必要はないんだよね。
とはいえ、ロッカーの中に手掛かりがあるとは考えにくい。今は誰も使っていないみたいだけど、空っぽであれば、いずれ誰かが使うことになる。もし箱が外に持ち出され、別の人がロッカーを使うようになったら、せっかく残した手掛かりは途端に見つけるのが困難になる。箱の主がそこまで考えたかは分からないが、わたしなら、暗証番号の手掛かりは箱の方に残す。
箱をくるくると回して色んな所を見ていくうちに、わたしは底の裏側に目が留まった。
「あった!」
「マジで!? どこにあった? どんなの?」
「めっちゃ食いついてくるなぁ、瑠衣……」
必死の形相で舞い戻ってきた瑠衣に呆れながら、わたしは箱の裏側を見せた。黒いペンで数字と矢印が書き込まれている。
100 → 174
200 → 325
→ 6099
一番下の矢印と数字だけ、他より少し大きめだ。しかも書かれている数字は、ダイヤル錠が今示しているもの。これがロックを解除する手掛かりなのは言うまでもない。
「何だろうか、これは……」
「たぶん、何かの法則によって、100が174に、200が325になることが分かっていて、その法則を踏まえると、暗証番号は6099に変化する、ってことだろうけど……」
「なんのこっちゃ」
瑠衣が顔をしかめるのも致し方ない。何か数学的な仕掛けがあるのだろうが、一見してどんな法則があるのか、まるで見当もつかない。左側の数字がキリのいいものなのに、右側は半端な数字になっている。まるで、整然としたものを敢えて崩すような、突飛な法則があるように思える。
「このヒントだけで法則を見つけるなんて無理でしょ。もう少し何かヒントないの?」
「そうだなぁ……せめて誰が作ったものなのか突き止めないと」
「つまり、このロッカーを使っていた人?」
「うん……だけど他の荷物はぜんぶ持ち出されたみたいだし、手掛かりはなさそうだね」
「でも変じゃない? ざっと見た限りでも、卒業したマス部の先輩たちはほとんど、部で書いたものや作ったものを、ロッカーや段ボール箱に入れているじゃん? それなのに、このロッカーだけ、箱以外何も残っていないなんて」
「だよねぇ……初心者のわたしですら、一応ここは数学を研究する所だからって、色々調べて紙の資料を作ったりしていたし、三年間で何も残さないなんて、ないはずだけど……」
わたしもこの状況がよく理解できなくて、腕組みをして首をかしげる。そんなわたしに、瑠衣が問題のロッカーを親指で指し示して言う。
「外部の誰かが勝手に忍び込んで、未使用のロッカーに箱を置いたとか?」
「普段は鍵をかけているから難しいし、あるかどうかも分からない未使用のロッカーに、わざわざ入れる目的が分からないよ。そもそも、本当にこのロッカーは誰も使っていなかったのかな……」
わたしは開きっぱなしのロッカーの扉を閉じて、他のロッカーのドアにもあるネームタグを確認した。
「あっ……名前あったな。ともえ……?」
今までロッカーを使う用事がなかったから、特に注意して見ていなかったが、このロッカーのネームタグには、ローマ字で“Tomoe”と書かれていた。しかも、oの書き方が、箱の裏にある0の書き癖と似ている。
「ということは、その箱を置いたのは、“ともえ”先輩ってこと?」
「箱を置いた人までは分からないけど、少なくとも裏側の文字を書いたのは、“ともえ”って人だろうね」
まあ蘭子先輩ならさらに厳しく、少なくとも裏側にある“0”の文字を書いた人が、ネームタグの文字を書いた人と同じである可能性が高い、と言うのだろう。スコットランドの黒い羊という有名なジョークほどじゃないが、数学を好む人って、そこまでやるかと思えるくらい厳密に物事を考えるから。
「とにかく、この“ともえ”さんがどんな人なのか、調べてみる必要はありそうだね。そこに箱の鍵を開ける手掛かりがあるかも」
「調べるって言ってもどうやって?」
「マス部のロッカーに自分のネームタグをつけているんだから、“ともえ”さんが元々マス部の部員だったのは確かだよ」
「いつの頃の部員かは分からないよね?」
「ネームタグも箱もまだ新しいし、長くロッカーを未使用のままにするとも思えないから、比較的最近の部員だと思う。だったら、調べる方法がなくはないんだよね」
わたしはカバンからスマホを取り出して、先日交換したばかりの、ある人の連絡先に電話をかけた。教職から退いて、別の仕事をしているかもしれないが、すぐに出てくれるだろうか……。
幸い、相手の人は4コールで出た。
「あ、峯田先生、しばらくぶりです。鈴原茉莉です」
『あら、まさかあなたから連絡をもらうとは思わなかったわ』
「今、お話しても大丈夫ですか?」
『ええ。ちょうどひと仕事終えたところだから』
「仕事?」
『元杉さんに頼まれた、数学学習アプリの設計のアドバイスをまとめていたのよ。ひと通りは済んだけど、たくさん赤ペンで書き込んだから疲れちゃったわ』
どんだけ修正箇所が多かったんだ……。数学に関しては妥協を許さない峯田先生のことだから、よほど厳しく審査したのだろう。元杉愛鐘さんは、学内カンパニーの仲間たちが数学的帰納法もろくに使えないと嘆いていたが、そんな人たちにもいい薬になるだろう。
「つかぬことを訊きますが、峯田先生はいつからマス部の顧問を務めていたのですか?」
『そうねぇ……退職するまでの、かれこれ二十年くらいは顧問をしていたわ。私立は転勤なんてそうそうないから』
やっぱりそうだ。マス部で伝説扱いされている数学の先生だから、きっと長く務めていたと予想していた。二十年も顧問をしていたなら、“ともえ”という部員がいたら確実に知っているはず。
『それがどうかしたのかしら?』
「でしたら、先生はご存じですか。昔マス部に、“ともえ”という名前の部員がいたかどうか……」
すると、電話の向こうから、かすかな息遣いが聞こえた。やはり知っているのか。
『ともえ……ああ、なるほどね。その名前の生徒は、マス部にはいなかったわ』
「えっ、そんな……!」
『“巴”という名字の生徒はいたけどね』
「ちょっと先生?」
まさか峯田先生にそんなことで一杯食わされるとは思わなかったぞ。確かにTomoeという表記を見て、てっきり下の名前かと思っていたけど、わざわざワンクッション挟む必要なんてあったか? 峯田先生って、意外とお茶目な所があるな……。
『うふふ、ごめんなさいね。鈴原さん、巴さんのロッカーを開けたのでしょう? 中にあった小箱が気になって、私に巴さんのことを聞こうとしたのね』
「そこまで察していてわたしのことを担ぎますか……」
『もし下の名前と勘違いしていたら、面白くなりそうと思ってね』
満足しましたかよ、もう。
「ということは、峯田先生も箱のことはご存じなんですね」
『ええ。その箱に鍵をかけてロッカーに仕舞ったのは、巴留実さんよ。元杉さんの同級生で、一緒にマス部に入ったの』
「愛鐘さんは確か、蘭子先輩と杏里先輩の二学年上でしたよね。だったら、先輩方とも面識があるんですね」
『ええ、まあね……』
あれ、なんだか返事が煮え切らないな。一年くらいは確実に、同じ部室で一緒に活動していたはずだけど……。
『それで、巴さんの何を訊きたいの?』
「まあ、単刀直入に言うと、ロッカーにあったあの箱……ダイヤル錠がかかっていますけど、その暗証番号を知りたくて。巴さんがマス部でしていた活動に、何かヒントがないかと思いまして……」
『なるほどね。ご期待に添えなくて申し訳ないけど、私もその箱の暗証番号は知らないのよ』
「まあ、普通は他人に教えませんから……」
『でも、以前に巴さんから、ヒントを一つ教えてもらったことがあるわ』
「何ですか、そのヒントって!」
峯田先生に大声で尋ねたのは、ずっとわたしにくっついて聞き耳を立てていた瑠衣だった。ちなみに瑠衣と峯田先生に面識はない。
『あら? あなたは……』
「茉莉の友達の、越谷瑠衣です! テニス部です!」
体育会系らしい、ハキハキとした自己紹介だ。軍隊の挨拶みたいだけど。
『あらあら、マス部へ遊びに来ていたのね』
「そのついでに部室の掃除と整理整頓を二人でしていました」
『二人ってことは、今日は及川さんと軽部さんは来ていないのね』
「元々集まる予定はなかったので……わたしが何となく足を運んだだけで」
『なるほどね。それで、暗証番号のヒントだけど、巴さんは、愛鐘の研究を使えば解ける、と言っていたわ』
「愛鐘さんの研究っていうと……フィボナッチ数でしたっけ。確か、何とかの定理を他の数列にも拡張する、みたいな……」
『ゼッケンドルフの定理よ。一般のリュカ数列に適用できるかどうかの研究』
「あー、そういえばそうでした」
蘭子と杏里から一度しか聞いていないからうろ覚えだった。そして案の定、聞いたこともない用語が次々と飛び出して、瑠衣の頭は疑問符でいっぱいになっている。
「愛鐘さんの研究がヒントなら、愛鐘さんはもう暗証番号をご存じなんですか?」
『いいえ、たぶん知らないわ。そもそも元杉さん、その箱の存在自体を知らないと思うし』
「え? マス部の同期、なんですよね? 愛鐘さんと巴さんって」
『その箱はね、巴さんがマス部を去る時に、私以外の人には内緒で置いてもらったものなの。いつかマス部の誰かが見つけて箱を開き、その中身が然るべき人の手に渡ることを祈ってね』
「じゃあこの箱、蘭子先輩や杏里先輩も知らないんですか?」
『色々あって、誰もロッカーを開けようとしなかったものだから。貴方たちみたいに部室を整理しようと思い立つ人もいなかったし』
それは分かる気がする……数学以外に無頓着すぎて、部室を綺麗にしようという発想が誰にもなかったから、どこもかしこも埃が溜まっている。
だけど……峯田先生の言い方、所々引っかかるものがあるなぁ。
『そういうわけだから、マス部の部員である貴方が見つけたなら、構わず開けちゃっていいのよ。巴さんはそのつもりで箱を残したんだから』
「技術的な問題で開けられない可能性があるのですが……」
『大丈夫よ、鈴原さんなら。あの二人にこれまで散々鍛えられてきたでしょう?』
「そうだそうだ、茉莉ならできる!」
わたしを鍛えてきたのは主に蘭子の方なのだが……あと瑠衣よ、考えなしに言っても激励にはならないからな。
『じゃあ、頑張ってね。ゴールドバッハ予想の研究についてのアドバイスは、また今度』
「あ、はい……」
そうして峯田先生との通話は終わった。そういえば、愛鐘さんとの話が盛り上がったせいで有耶無耶になっていたけど、わたしの研究をどう応用するか、峯田先生に助言を請うていたのだった。厳しくも有益なアイデアを聞けるものと期待しておこう。
さて、峯田先生には大丈夫だと言われてしまったが、果たしてわたしにこの謎が解けるだろうか。峯田先生だって答えや解き方を知っているわけでもないのに、何でわたしなら解けると期待できるのだろう。
まあ、悩んでいても仕方がない。できることからやっていこう。わたしは壁際の、ノートPCを置いている机に着席し、ノートPCを立ち上げる。
「とりあえず、ゼッケンドルフの定理について調べてみるか」
「先輩たち抜きで理解できるの?」
「何とかやってみるしかないよ。というか、瑠衣はもうそろそろ休憩時間が終わる頃じゃない? 戻らなくていいの?」
「多少手を抜いてもわたしの腕はそんなに落ちないし、どうせわたし抜きでも練習は再開すると思うよ。それに箱の中身が気になって集中できないかもだし」
堂々と練習をサボるつもりか。後で怒られてもわたしは関知しないからね……。
* * *
さて、同じ頃、蘭子は市内の大きな公園にいて、噴水の縁に腰掛けて待ち合わせの相手を待っていた。陽射しがきついので日傘を差して、暇を持て余しているみたいにスマホを弄っている。夏休みの昼間というだけあって、周りには親子連れが多い。
約束の時刻ぴったりに、その相手は公園の敷地に入ってきた。
「お待たせ、蘭子ちゃん」
「ああ、来たか。それにしても、二人だけで出かけるのは久しぶりじゃないか?」
「うふふ、そうだね」
「茉莉のことは誘わなくてよかったのか?」
「うん、いいの」
杏里は、涼し気な薄紅のワンピースをふわりと靡かせながら、くるっと振り向いて柔らかい笑みを蘭子に向ける。二人きりの時間を、心から楽しんでいるみたいに。
「今日は蘭子ちゃんとの、デートだから」
「デート……」
蘭子は一瞬ぽかんとして、そして驚いた。全くそんなつもりではなかったのだ。
「デート!? お、お付き合いしているわけでもないのに?」
「今どきは仲良しの二人で行くいい感じのおでかけは、みんなデートって言うんだよ」
「そうなの? でも、いい感じのおでかけとは一体……」
「まあまあ」
今どきの女子高生の感覚を持ち合わせていない蘭子を言いくるめて、杏里は蘭子とのデートを開始した。いい感じのおでかけになればいいと願いながら。
* * *
「うん、大体分かった」
ウィキペディアとか色んなサイトをはしごして読み込んで、何とか人に説明できそうな程度まで、わたしは『ゼッケンドルフの定理』を理解できた……と思う。理解できたかどうかを確かめるには、人に説明すればいい。幸いここには、わたしに匹敵する数学の初心者で、何だかんだちゃんと聞いてくれる友人がいる。
「というわけで、ざっくりだけど瑠衣に説明していいかな?」
「……わたしが理解できるかどうかは期待しないでよ?」
もちろんそんなことは重々承知だ。瑠衣には理解よりも、むしろツッコミを期待している。まずはわたしの理解度を確かめたいからこれでいいのだ。
さて、綺麗に磨いたばかりのホワイトボードを使って、説明を始めるとしよう。
「まずはフィボナッチ数について簡単に説明するね。1、1、から始まって、前の2つの項を足した値が次の項になる、という法則で並んだ数列をフィボナッチ数列と言って、この数列に属している自然数のことを、フィボナッチ数と呼ぶの」
1 1 2 3 5 8 13 21 34 55 …
「前の2つを足すと次の数になる……なるほど、確かにそうなってるね。この間、乃々美がマス部でフィボナッチ数列について教わったって聞いたけど、これだったのか」
乃々美はマス部で見聞きしたことを、あまり細かくは説明できなかったようだ。まあ、細かく説明したところで、果たして瑠衣が理解できたかどうか。
「次に、ゼッケンドルフの定理が主張している内容について。これは、どんな自然数でも、隣接しない1つ以上のフィボナッチ数をそれぞれ1度だけ使った和で一意に表せる、というものなの」
「……なんじゃて?」
瑠衣の顔がぐにゃりと歪んだ。まあ、数学の主張をひと言で表そうとすると、慣れていない人はこうなりがちだよな。
わたしはホワイトボードに実例を書く。
「例えば27だと……」
27 = 13 + 8 + 5 + 1
27 = 21 + 5 + 1 ―☆
27 = 21 + 3 + 2 + 1
「フィボナッチ数をそれぞれ1度だけ使った足し算で表すと、こんな具合に色んなパターンがあるけど、フィボナッチ数同士が隣り合っていないのは、一つしかないでしょ?」
「ふむ……つまり、そういう感じの足し算で表すやり方が、どんな自然数でもできるってこと?」
「そういうこと」
「ホントかなぁ? 試しに今度は41とかでやってみようか。えっと……」
41 = 34 + 5 + 2 ―☆
41 = 21 + 13 + 5 + 2
41 = 21 + 8 + 5 + 3 + 2 + 1 + 1
「おお、そもそもフィボナッチ数だけの足し算ができるかも怪しかったけど、意外と何とかなるもんだね。しかも隣り合っていないのは、やっぱり一つしかない!」
「えーっと……瑠衣、すごく言いにくいんだけど、ゼッケンドルフの定理では、数列の2番目の1から使うから、最後の式は1を二度使っていることになるよ」
「それ早く言ってくんない!?」
「ごめんね、大事な条件なのに言い忘れて」
フィボナッチ数列の2番目以降を1度ずつ使う、という条件がなければ、例えば3は、そのままの場合と、1番目の1と3番目の2の和で表す場合の、2通りがありえてしまう。必ず1通りだと断定するために、2番目以降という条件は絶対に必要だ。
それなのに説明を忘れるとは……まだまだだなぁ、わたしも。
「そういうわけで、どんな自然数も、隣接しない2番目以降のフィボナッチ数を1度ずつ使った足し算で、必ず1通りに表せるというのが、ゼッケンドルフの定理だよ。最初からフィボナッチ数だったらそのままね」
「今聞いてもなかなか複雑な内容だけど、とりあえず言いたいことは分かった」
「で、問題はそのことをどうやって証明するかだけど……ネットに書かれている内容そのままだと面白くないだろうから、瑠衣の心に馴染むような説明をしてみるね!」
「さらっとネットに書かれている説明をディスったな、キサマ」
だってわたしが見ても「ふーん」としか思わないような内容だから、きっと瑠衣も面白くは思わないだろうし。やっぱり何かを学ぶときは、些細でも感動がないとね。
「まず、どんな自然数でも、この条件の足し算で表せることを示すよ。ゼッケンドルフの和を探すには、与えられた自然数を超えない、最大のフィボナッチ数を見つけて取り除く、という作業を繰り返せばいいんだ。引いた後の値がフィボナッチ数になったら終了だよ」
「なんだ、こんな簡単に見つけられたのか。さっきは探すだけでひと苦労だったのに」
「フィボナッチ数は最小で1だから、この方法で分解を繰り返せば、いつかは必ず何かのフィボナッチ数に辿り着くから、そこでゼッケンドルフの和を見つけたことになるね」
「なるほどなぁ、よく出来てるよ」
「あと、与えられた自然数nを超えない最大のフィボナッチ数が、F(k)、つまりk番目のフィボナッチ数だとしたら、nは、F(k)以上F(k+1)未満ってことになるよね。nがF(k+1)と等しかったら、それを超えない最大のフィボナッチ数はF(k+1)になっちゃうから」
「えっと……」瑠衣は少し長めに考えた。「超えるってことは、nより大きくて、nを含まないってことだから、つまりnより小さいわけでなくて、えーと……」
あ、ダメだ。完全に混乱している。数の大小を比較するときって、間に挟まる数がどっちに入るかでよく迷うよね。不等式評価に慣れていない人は特にそう。
こういう時は頭の中だけで考えず、図にして可視化するのが一番だ。瑠衣の場合は記号を使うより、具体的な数があった方が飲み込みやすいだろう。
「こういうことだよ」
「あー、表にしてもらうと分かりやすくてありがてぇや」
「で、話を戻すけど、nを超えない最大のフィボナッチ数がF(k)なら、nはF(k+1)より小さいってことになるから、nからF(k)を引いて残った数は、F(k+1)からF(k)を引いた値より小さくなるよね」
「まあ、そりゃそうだね……あっ! F(k+1)からF(k)を引いた値って!」
「そう。フィボナッチ数列の定義では、F(k-1)とF(k)を足したものが次のF(k+1)になるから、F(k+1)引くF(k)はF(k-1)になる。ということは、nからF(k)を引いて残った数は、F(k-1)より小さいわけだから、これを超えない最大のフィボナッチ数は……」
「どんなに大きくてもF(k-2)……つまりこの方法だと、F(k)を引いた後にF(k-1)を引く、ということには絶対ならないってことか」
「そう。だからゼッケンドルフの和に出てくるフィボナッチ数は、隣接しないってことだね」
「本当によく出来てるなぁ、この仕組み」
「ゼッケンドルフさんもすごいことに気づいたものだよね」
ちなみに、後で英語のネット記事を何とか読んでみたところ、エドゥアール・ゼッケンドルフはベルギーの人で、本職はベルギーの軍隊に勤務していた内科医だが、書き上げた20以上の論文のほとんどが、なぜか数論に関するものだという。……世の中には風変わりな人がいるものである。
「じゃあ次は、ゼッケンドルフの和が必ず一つしかないことを示そうかな」
「ん?」瑠衣は首をかしげる。「さっきのやり方を使えば、和のパターンは一つしか出てこなくて当たり前じゃないの? 取り除く数がいつも決まってるんだから」
「ふっ……甘いね、瑠衣」わたしは不敵に笑ってから言った。「ゼッケンドルフの和を求めるやり方は他にもあるかもしれないし、他のやり方を使えば別の形の足し算が作られるかもしれないでしょ。必ず一つしかないと言い切るには、やっぱりちゃんとした証明が必要なんだよ」
「面倒なことを考えるなぁ、数学をやる人って……」
面倒でもこういう検証をきちんとするからこそ、数学的に導いた結論は信頼できる。見つからないからといって、ない、と性急に考えることは絶対にしないのが数学者だ。そこが世間の有象無象とは決定的に違う。
……わたしもだんだん、マス部の先輩たちと考え方が似通ってきたな。
「証明に移る前に、まずはこの二つの式を計算してみようかな。瑠衣、分かる?」
「フィボナッチ数を一つ飛ばしながら足し合わせるってこと? ぐちゃぐちゃになりそうな気しかしないけど……」
「そう思うでしょ? でもね、先頭に一つ加えるだけで、例えば一つ目の式は……ほら」
「すごっ! ドミノ倒しみたいに式が短くなって、最後はF(2k+1)だけになった!」
「後は、先頭に加えたF(1)を引けば、一つ目の式の答えが出るね」
「これって、二つ目の式でも同じようにできんの?」
「もちろん。先頭にF(2)を加えてみて」
わたしの助言を受けて、瑠衣は自力で計算した。できるかもしれない、という感触さえあれば、数学が苦手だという瑠衣でもすらすらと解けるだろう。
「ふう、なんとか解けた……」
「瑠衣はこれでも全力なんだね」
わたしはだいぶ慣れたけど、やはり数学が苦手だと、この程度の計算でも割と労力を使うらしい。瑠衣はひと仕事終えたみたいな達成感を顔に出している。
「ここから分かることは、2番目以降のフィボナッチ数を、一つ以上飛ばしながらF(k)まで足し合わせた結果が、F(k+1)より必ず小さくなる、ということだね。kが偶数なら、一番計算結果が大きくなるのが一つ目の式で、kが奇数なら、一番計算結果が大きくなるのは二つ目の式だから」
「……そうなん?」
「あー、あまりピンと来てないか……」
どう説明したらいいだろう。わたしは少し考えてから、ホワイトボードに図を描いた。
「フィボナッチ数を一つ以上飛ばしながら足し合わせるということは、添字が奇数と偶数で変わる境目があれば、そこは少なくとも二つ以上飛ばしていないといけない。だから例えば……」
「最後の項の添字が偶数なら、添字が奇数の項を全て、一つ次のフィボナッチ数に変更しても、重複することは絶対にない。変更した後の式は、元の式より結果が大きくなるけど、最後の項の次のフィボナッチ数よりは確実に小さい」
「ああ、そうか。偶数番目のフィボナッチ数をF(2k)まで全部足しても、F(2k+1)に届かないわけだから……」
「偶数番目のフィボナッチ数を一部だけ足したものなら、もっと少ないはずだよね」
この例では、最後の項の添字が偶数なので、奇数の添字を偶数に変えました。最後の項の添字が奇数なら、添字が偶数の項を奇数に変えることで、F(2k-1)までの奇数番目の一部だけ足し合わせた式になり、F(2k)より小さいと示すことができます。
「では、この事実を踏まえたうえで、ゼッケンドルフの和が一つしかないことを示しましょう! 使うのはズバリ背理法だぜ!」
「なんかテンションがおかしくないか?」
未だにちょっと忌避感を抱いている背理法を、使うしかないということで、わたしは無理やり気分を上げようとしている。いや、有用なのは分かっているし、わたしも使えないわけではないけど。
「ある自然数nを、ゼッケンドルフの和で表したとき、そのパターンが2つあると仮定します。ここから矛盾を導いて、仮定が間違っている、つまりパターンが1つしかないという流れに持っていきます」
「そうそう、確か背理法ってそういうちょっとずるいやり方だった」
「2つあるパターンでそれぞれ、添字に使われる番号を集めた集合に、AおよびBと名前をつけて、まずは共通する番号を両方から取り除きます。取り除いた後の集合はそれぞれA’およびB’とします。ちなみにAとBは異なる集合なので、A’とB’はどちらも、要素のない空集合ではありません」
↑片方が空集合だと、もう片方の集合は、その要素を添字に持つフィボナッチ数の合計が0になってしまう
「取り除く前のフィボナッチ数の合計はどちらも同じnで、取り除くフィボナッチ数も同じなので、残ったフィボナッチ数の合計もやっぱり、A’とB’で等しくなるよ」
「まあ、そりゃそうだよね」
「そして、A’とB’は共通する番号を全部取り除いたので、同じ番号は含まれません。ということは、A’およびB’で一番大きい番号も、違うということになる。どっちでもいいけど、仮に、A’で一番大きい番号a'sの方が、B’で一番大きい番号b'tより大きいとすると、さっき示した事実を使えば……」
「……ということになる」
「なるほど、これは変だな。フィボナッチ数はどれも0より大きいのに、F(a's)にフィボナッチ数を加えたらF(a's)より小さくなるなんて」
「そう。A’の要素がa'sだけだとしても、F(a's)がF(a's)より小さいという変な結果になってしまうね。同じことは、b'tの方がa'sより大きいときでも言えるよ」
「つまり矛盾か。ということは……?」
「nをゼッケンドルフの和に分解する、2つのパターンがあるという前提が、そもそも間違っていたということ、だね」
「なるほどなぁ……なんか思ったより複雑な証明だったな。なんとか理解はできたけど」
「わたしはこれよりもっと複雑な証明を、マス部で何度も見てきたよ」
「マジか。想像以上にヤバいな、マス部……」
瑠衣はあまりにも慄然として、苦笑いしかできなくなっている。
まあ、わたしが短時間で飲み込める程度だから、これまでにわたしがマス部で見てきた長い証明に比べたら、さして難しくないということだ。
でも、自力で思いつくのはさすがに無理だろう。改めて、こんな不思議な性質を見出したゼッケンドルフさんには、頭が下がるばかりである。
さて、ゼッケンドルフの定理への理解度を確かめられたところで、そろそろ本題へ移ろう。愛鐘さんがマス部で研究していたこの定理が、巴さんの仕掛けた小箱の暗証番号に、どう関わっているのか……。
「うーん……」わたしは小箱を持って眺める。「ゼッケンドルフの定理がヒントだとして、どんなふうにこの問題に適用すればいいのかな……」
「とりあえず、底に書かれている100と200を、ゼッケンドルフの和で表してみれば? めんどくさそうだけど」
「ふっふっふ……こういう、一つ一つの計算は単純だけど時間がかかりそうな問題は、パーソナルコンピュータ様の力を借りた方がいいんだよねぇ」
「え、何? マス部ってパソコンを崇め奉ってんの?」
それだけ聞くとニッチな新興宗教みたいで語弊があるが、今の数学でコンピュータはもはや欠かせないツールであり、わたしも研究の過程で助けられてきたので、大変ありがたい存在だと実感している。
わたしは壁際のPCの席に戻り、何度もお世話になったColabのサイトを開いた。
「まあ見ていて。ゼッケンドルフの和を計算するプログラムを、今から作るから」
「そんなことできんの?」
「Pythonは散々勉強したからね。わたしにかかればチョチョイのチョイだもん」
「……微妙に古くね?」
チョチョイのチョイが古いかどうかはともかく、わたしはキーボードを打ち込んで、Pythonのコードを組み立てていく。変な結果が出ても困るので、コードを書く時はとにかく間違えないよう慎重に、慎重に……。
「いや、どこがチョチョイのチョイだよ。めちゃくちゃ遅いじゃん」
「せっかちだなぁ」
コンピュータというのは基本的に、というか絶対に、書いたコードの通りにしか動作しない。油断して少しでも間違った記述を書いてしまえば、望んだ通りの結果が出ることは断じてない。求めたい答えが出なかったら、それは完全に書いた人の責任になる。だから慎重になるのはやむを得ないのだ。
なんて言い訳を心の中で並べている間に、なんとかコードは完成した。
「よし、できた! 後はこのコードを実行して、100を打ち込めば……」
わたしは▷の所をクリックして、表示されたメッセージの後に100を打ち込み、Enterを押した。
エラーが出た。
「…………」
「…………」
「まあ、100とか200くらいなら、手計算でもできなくはないからね!」
「なんて清々しい開き直り」
というわけで、堂々たるサムズアップを経て、パーソナルコンピュータ様による解決を断念したわたしは、大人しくノートを使って自力で計算する方針に切り替えた。
実際に、1からフィボナッチ数を順番に並べて書いて、それを見ながら100と200を分解すると、思ったよりすぐに答えが出た。
100 = 89 + 8 + 3
200 = 144 + 55 + 1
「フィボナッチ数が3つだけか……案外少なかったね」
「でも、ここから174とか325が出来上がるのかな……足し算・引き算・かけ算・割り算を上手いこと組み合わせたら、こんな数ができるのかな」
「どうだろう……たぶん、巴先輩が100と200を選んだのは、キリのいい数字だからで、実際にはどんな自然数を例として出してもよかったんだと思う。今回はたまたま3つだけだけど、ゼッケンドルフの和で表したとき、フィボナッチ数の個数がもっと多かったら、加減乗除の組み合わせだとルールが複雑になりすぎる気がする」
「まあ確かに、フィボナッチ数10個の組み合わせとかだと、とてもやってられないね」
「単純な加減乗除じゃない……ゼッケンドルフの定理ならではの、それでいて複雑になりすぎないルールが、何かあるはず……」
「そうかそうか。その調子で解けるまで頑張っておくれ。わたしはその間に部室の片付けを進めておくんでな」
そろそろついていけなくなりそうと察したのか、瑠衣はその場を逃げるように離れて、まだ残っているマス部の荷物の整理を再開した。……まあ、マス部の先輩が作った謎を解くのに、瑠衣がたいして役に立つとは思っていないから、体育会系は体を動かす作業に注力してくれた方がちょうどいい。
とはいえ、一人で考えるにしても、ゼッケンドルフの定理に基づいて分解した後にどうするか、これといって上手い方法は思いついていないのだが。さて、どうやるか……。
加減乗除以外でパッと思いつくことといえば、2進法への置き換えだ。ゼッケンドルフの和では、フィボナッチ数は一回しか使わない。だから、2番目以降の各フィボナッチ数について、ゼッケンドルフの和に使われていれば1、使われなければ0を、小さい順に並べてみるのだ。例えば100なら……。
1 → 0
2 → 0
3 → 1
5 → 0
8 → 1
13 → 0
21 → 0
34 → 0
55 → 0
89 → 1
よって100は、2進法の1000010100に変換される
……となるわけだ。
だが、2進法の1000010100を10進法に直すと……。
1000010100(2) = 2^2 + 2^4 + 2^9 = 4 + 16 + 512 = 532(10)
という感じで、174とは全く違う数になった。どちらかといえば、200が変換された後の325に近い。まあ、数字が共通しているだけで、こちらも全然違うのだが。
残念ながら、2進法への置き換えではなかった。別の方法を考えないと……。
「うへぇ……数式だらけの紙が束になってやがる。ちょっとは綺麗にまとめるか……」
その頃、段ボール箱に無造作に仕舞われていた紙の束を、瑠衣は両手で掴んで、床に数回軽く叩きつけて端を揃えた。その後は紙の枚数を、指先でめくって数える。
「えっと、にー、しー、ろー、やー、とー……」
二枚ごとに数え上げている。一枚ずつちまちまと数えるよりは効率的だし、一度にめくる枚数が多すぎると途中で間違えそうだから、二枚ずつというのは、考えてみると割と合理的だと言えるかも……。
二枚ずつ? わたしは何かが心に引っかかった。
ゼッケンドルフの和は、隣接しないフィボナッチ数を使っている。ということは、例えば2番目以降のフィボナッチ数をこんなふうに……。
[1 2] [3 5] [8 13] [21 34] [55 89] [144 233] …
2個ずつに分けてみると、ゼッケンドルフの和に使われる数は、各ペアから1個選ばれるか、あるいは1個も選ばれないか、その2通りしかない。両方選ばれたら、その二つのフィボナッチ数は隣接することになるからあり得ない。
「……ああいや、違うか。各ペアで、1番目が選ばれるか、2番目が選ばれるか、どっちも選ばれないか、この3通りだ」
1個選ぶパターンも2種類あって、どっちを選ぶかで結果が変わるのだから、きちんと区別しなくてはならない。
各ペアについて、どちらも選ばれない、1番目が選ばれる、2番目が選ばれる、という3通りがありうるなら、ひょっとしたらアレが使えるかもしれない……ぐるぐる考えていても仕方がないので、とりあえず100で試してみることにした。果たして結果は……。
「できた! やっぱりこれでいいんだ!」
「おっ、できたの?」
わたしの声を聞きつけた瑠衣が、作業の手を止めて駆け寄ってきた。
「うん、たぶんこれでいけると思う。瑠衣のおかげで思いつけた」
「わたしのおかげ?」
身に覚えのないことでお礼を言われて、瑠衣は首をかしげる。
さて、瑠衣も小箱の中身が気になっているから、答えの出し方もちゃんと説明したいところだけど、工夫して話さないと理解できないだろうなぁ。
「まずポイントは、フィボナッチ数列を2個ずつに区切ることだよ。ゼッケンドルフの和は隣接しないフィボナッチ数を使うから、2個ずつに区切ってペアを作ると、どのペアでも、両方がゼッケンドルフの和に使われることはない」
「確かに、両方を使うってことは、そこで隣り合っているってことだもんね」
「ということは、フィボナッチ数のペアを作ったとき、ゼッケンドルフの和に使う数の選び方は、全部で3通りになる。つまり……」
『選ばれない』『1番目が選ばれる』『2番目が選ばれる』
「この3つだね」
「うんうん。それで?」
「小さい順に、各ペアからの選び方に応じて、0と1と2を並べて、3進法の数を作るの」
「ん? さんしんほう……?」
聞いたことのない単語が出てきて、瑠衣はポカンとしながらオウム返しに言う。まあ、数学を深く学ぶ機会がないと、2進法すら耳慣れないだろうからなぁ。やっぱりそこから説明するしかないか。
「わたし達が普段使っている数は、0から9までの、10種類の数字を組み合わせて表しているでしょ? 9の次の数を表すときは、0に戻して、一つ上の位を0から1に増やす、というルールを使って、あらゆる自然数を表記できるようにしている。位取り記数法と呼ばれるものだよ」
「まあ、そうだね……え? そのルール、名前あったの?」
「あったんだよねぇ……で、3進法というのは、0と1と2の、3種類の数字だけを使って、同じく位取り記数法に従って、あらゆる自然数を表記する方法のこと」
「ん? 3種類だけ使うって……どうやって?」
「こうやって」
「読む時は、“じゅう”とか“ひゃく”は使えないから、『いち・に』みたいに読むことが多いかな」
「へぇ……数学をやる人って、本当に変わってるよね。数字の種類が10個より少ない場合の表し方なんて、普通考えもしないよ」
「10個より多い場合もあるよ」
「なんてこったい」
「よくよく考えたら、位取り記数法さえ守っていれば、数字が10種類じゃなくても何とかなるよね……という発想から始まったんだと思う。極端な話、種類にこだわる必要がないなら文字にこだわる必要もなくて、例えば漢字を数字の代わりにしてもいいんだよ。大小関係さえちゃんと定義すればね」
「下手したら10000進法とかできそうだな」
「そこまでいくと極端すぎて市民権を得られなさそうだけど。でも、0と1だけを使った2進法があったから、のちにコンピュータの開発に繋がったわけで、その変わった発想に今のわたし達は支えられているんだよね」
「普通じゃないからって馬鹿にはできないか……それで? その3進法をどう使うの?」
「さっきも言ったように、フィボナッチ数列を2個ずつ区切ってペアを作ると、ゼッケンドルフの和に選ばれるかどうかで3通りがありうるよね。小さい順に、各ペアからの選ばれ方に応じて、0と1と2を当てはめて、3進法の数を作るの」
『選ばれない』→ 0
『1番目が選ばれる』→ 1
『2番目が選ばれる』→ 2
「すると、100の場合はこうなる」
「おお、途中の計算がよく分からんけど、ホントに174になってるね!」
「よく分からんのかい」
わたしは思わず突っ込んだ。分からんのに本当に174になると思っているのか?
まあいいや。この辺の細かい説明を、瑠衣が理解できるまでやるには、時間が足りなすぎる。このまま行ってしまおう。見ているうちに何となく掴めることもあるだろうし。
「念のため、200でも確かめてみよう。144+55+1だから……」
「うん、確かに325になったね。やっぱりこの方法でよさそう」
「すると今度は、これと逆の手順で6099を変換するのかな?」
「そうだね。まず3進法に書き換えて……」
6099 ÷ 3 = 2033 … 0
2033 ÷ 3 = 677 … 2
677 ÷ 3 = 225 … 2
225 ÷ 3 = 75 … 0
75 ÷ 3 = 25 … 0
25 ÷ 3 = 8 … 1
8 ÷ 3 = 2 … 2
2 ÷ 3 = 0 … 2
よって、6099(10) = 22100220(3)
「こうなるね」
「へー、3で割るのを繰り返して、余りを逆順に並べればいいのか」
「…………」
こういう時に、なんでこの方法で3進法に変えることができるのか、という疑問を持たないところが、数学弱者たる所以か……。何とも言えない気分で瑠衣を見ていたら、きょとんとした表情をされた。
「そしてその後は、フィボナッチ数列を2個ずつ区切って、一の位から順に、0なら選ばず、1なら1番目を、2なら2番目を、各ペアから選んで足し合わせれば、答えが出るはず」
[1 2] … 選ばない
[3 5] … 2番目を選ぶ → 5
[8 13] … 2番目を選ぶ → 13
[21 34] … 選ばない
[55 89] … 選ばない
[144 233] … 1番目を選ぶ → 144
[377 610] … 2番目を選ぶ → 610
[987 1597] … 2番目を選ぶ → 1597
1597 + 610 + 144 + 13 + 5 = 2369
「できた。2369だと思う」
「分かった。試してみる」
果たして、瑠衣が小箱のダイヤル錠を2369にセットして、リングの反対側にあるスイッチを押すと、リングは浮き上がって外れた。
「やったー、開いたー!」
「すごいじゃんか、茉莉! マス部の先輩が作った謎を解いちゃったよ!」
いぇーい、と二人でハイタッチしながら、踊りだしそうな歓びを分かち合った。思い返せば、数学に関する問題が解けたとき、誰かとこうやって歓び合えたのは初めてかもしれない。それも、一緒に問題に向き合ってくれる存在がいたからだ。
わたしは少ない方だけど、やっぱり、友達っていいものだな。
それにしても、なかなか手の込んだ符号化だ。自然数をゼッケンドルフの和に換えて、フィボナッチ数列を2個ずつに分割して、ゼッケンドルフの和への選ばれ方に応じて0と1と2を当てはめて、3進法の数と見なして10進法の数に変換する。よく思いついたものだ。
最初わたしは、ゼッケンドルフの和に使われるか否か、という基準を使って2進法の数に置き換えようとして失敗した。普通であれば、フィボナッチ数列を2個ずつに分けたところで、もしペアの両方とも選ばれることがあれば、選ばれ方は4通りとなる。しかし、そこから4進法の数を作っても、実際は2進法の場合と結果は変わらない。
・フィボナッチ数はそれぞれ高々1回しか使われない
・使われるフィボナッチ数は隣接しない
・和のパターンは1種類だけである
こうしたゼッケンドルフの和の性質が、唯一無二の符号化を生み出したといえる。
「じゃ、早速中身を見てみようぜ」
瑠衣は胸を弾ませながら、小箱からダイヤル錠を取り外し、蓋を開けた。
「…………え?」
覗き込んで見たその中身に、わたしと瑠衣は目を丸くした。
入っていたのは、二つの指輪だった。宝石とかの装飾もない、シンプルなシルバーの指輪が、そのまま無造作に入れられている。
「指輪、だね……」
「うん、指輪だね……」
「巴先輩がマス部の後輩に残した宝物って、それなの? なんか意味深……」
「そうなのかな……」
わたしは指輪を一つ摘んで、どんな代物かつぶさに調べてみた。表面には波のような模様が彫られているが、これ自体は特に珍しいものではないと思う。内側には……。
「! A & R……これって……」
指輪の内側に唯一彫られていた文字は、これだけだった。普通、A & Rといえば、アーティスト&レパートリーの略で、アーティストの音楽制作を統括するプロデューサーの仕事を指す。
だが、今まで聞いた話を総合すれば、A & Rが何を、もとい誰を示しているのか、おおよその見当がつく。
「うおっ? 何だこれ?」
部室の外から、どこかで聞き覚えのある声が聞こえてきた。その声の主が、開けっ放しにしていた部室の出入り口から、ひょっこりと顔だけ出して現れた。
「ああ、誰がいるのかと思ったら、君たちだったのか」
「沼倉先輩……」
マス部のOGにして、つばき学園高校の長い歴史でも珍しい、二度の留年経験をもつ究極の変人、沼倉純だった。
「ただでさえ散らかっている部室をさらに散らかすとは、どういう料簡だい?」
「むしろ片付けているんですけど?」
もちろん沼倉が本気で言っていないことは、ニヤついている表情を見れば分かる。沼倉はこういう人だからな。
「ほう、片付けねぇ……その割にはあまり進んでいないようだけど」
「これでも時間をかけて埃と汚れを落としてピカピカにして、ぐちゃぐちゃになっている荷物を整理しているところですよ」
「でもわたしらだと、何が必要で何が要らないか分からないから、下手に断捨離ができないんスよ。だから丁度よかったぁ。ここにある荷物の選別、二留先輩にお任せしますね」
「まずは私の名前をちゃんと覚えてから頼まんかい。新入りの友達くん」
「どの口が言いますか」
二度の留年を揶揄する呼び方を毛嫌いしておきながら、わたしの巻き添えで瑠衣のことまで名前をちゃんと呼ばないのだから、相変わらず呆れた人である。
「ん……?」沼倉の視線が瑠衣の手元の箱に向く。「その箱、開けたのか」
「あれ、沼倉先輩はご存じなんですか、この箱」
巴さんはこの箱の存在を峯田先生にしか打ち明けていないし、マス部の部員は滅多に他の人のロッカーを開けないから、他に知っている人はいないと思っていたけど。
……いや、違う。よく思い出せば、峯田先生は確か、箱を置いてもらった、と言っていた。巴さん本人でなく、別の誰かに頼んでいたとしたら……。
沼倉はわたしの問いに答えなかった。無言で視線を横にずらし、わたしと瑠衣の後ろにある、マス部のノートPCを見る。しばらく操作していなかったから、PCの画面がスクリーンセーバーになっている。
スタスタと早足でわたし達へ近づき、わたしと瑠衣の間に割って入ると、沼倉は適当なキーを叩いてスクリーンセーバーを解除し、Colabの画面を表示させた。
「これ、その箱のダイヤル錠の暗号を解こうとしたのか?」
「あ、はい……まあ、エラーが出ちゃったんで、結局手計算にしましたけど」
「だろうね。このソースコードじゃ話にならない」
「…………」
わたしは渋面になったのを自覚した。悔しいが何も言い返せない。沼倉はわたしの書いた失敗作のコードを、一目見ただけで失敗作だと看破した。それはつまり、コードだけで意図を正確に読み取って、そのうえでコードの問題点をすぐに見つけたということだ。お話にならないくらい、致命的な問題点を。
マス部の部員として格の違いを見せつけられたわたしの肩に、瑠衣は無言でポンと手を載せた。ドンマイ、と言わんばかりに。
沼倉は椅子に座って、ぶつぶつと呟きながら、素早いタイピングを始めた。さっきまでわたしが使っていたノートも、同じ机に置いてちらちらと見ている。
「入力値を超えない最大のフィボナッチ数を探して減算する貪欲法……なるほど、ゼッケンドルフの定理か。その後は……フィボナッチ数列をペアに分けているのか。ああ、そうか、ゼッケンドルフ表現に選ばれるパターンが3通りあるから、3進数に置き換えられるということか……」
わぁ、理解が早い……しかも、みるみるうちにソースコードが加筆・修正されていく。石橋を叩いて渡るような遅さで書いていたわたしは何だったのか。しかもわたしの場合、終いには渡る前に壊れてしまったし。
沼倉はコードを完成させると、実行後に表示されたメッセージの後に、321を打ち込んだ。コードは正常に動作し、607という答えを返した。
直後、沼倉は急に椅子から立ち上がった。
「……その箱と指輪、私が預かる」
「えっ、預かるって……」
「その暗号を解いて箱を開けたということは、愛鐘の研究内容を峯田先生あたりから聞いているんだろう?」
勘が良すぎる……沼倉はどこまでこの箱のことを知っているのだろう。
「だったら分かるだろう? その指輪が、誰と誰のものなのか」
「…………!」
思わず表情筋が強張った。沼倉の言うとおり、確かにわたしは見当がついている。指輪の内側に刻まれた、A & Rが、誰と誰を示しているのか……。
沼倉はいつになく真剣な面持ちで、箱を受け取ろうと手を差し伸べて告げる。
「その指輪は、私が責任をもって、持つべき人の元へ届ける。それが……あの二人の先輩である、私の役目だと思っている」
その言葉に、わたしは胸が締め付けられそうになる。
沼倉がマス部を引退したのは二年前。愛鐘さんが卒業したのは昨年度だから、沼倉は愛鐘さんと巴さんの、一つ上の先輩にあたる。一緒にマス部で活動している間、沼倉はきっと、愛鐘さんと巴留実さんがどういう関係を育んできたのか、間近でずっと見守ってきたのだ。わたしの持っていた指輪が、瑠衣の持っている小箱の中にあったことを、沼倉は初めから知っていた。他の部員も、峯田先生すらも知らなかったことを、把握していたわけだ。
沼倉にとって、二人の後輩がどういう存在だったのか、どんな気持ちで二人を見てきたのか、わたしには分からない。だが、少なくともそれは沼倉にとって、他人事で済ませられないことだ。それだけは何となく、分かる気がする。
……わたしもきっと、同じことを、大好きな先輩たちに感じているから。
「その前に……教えてほしいことがあります。巴先輩はどうして、マス部の部室に、何も残さなかったのですか?」
「…………」
「通常であれば、巴先輩は愛鐘さんと一緒にマス部を引退したはずです。もし巴先輩が引退の直前に置いたとしたら、この指輪は、持つべき人の元へ渡らない可能性が高い。わたしがこの指輪を、持つべき人に届けたいなら、ロッカーに残したままにしないと思うんです」
「…………」沼倉は何も言わない。
「峯田先生は、巴先輩がこの箱を置いたのは……いや、置いてもらったのは、マス部を去る時だと言っていました。それは、他の三年生たちと同じ理由での引退だったのですか? そうでないのなら……」
「茉莉」
沼倉は低く重い声で、わたしの言葉を遮るように告げた。屈託に満ちた、険しい顔で。
「世の中には、知っても意味のないことだってあるんだよ」
「…………!」
知らない方がいいこともある、という言葉ならよく聞くが、沼倉は違った。数学を愛する者にとって、知ることを妨害してそれを正当化することは許されない。知られたくないことは、素直に知られたくないと言うのが、沼倉の流儀なのだろう。
だから、わたしは何も言えない。
沼倉の明確な拒絶が、多くのことを雄弁に物語っていたから。
「分かりました……これは、沼倉先輩にお預けします」
「ああ、確かに預かった」
わたしが差し出した指輪入りの小箱を、沼倉は掴み上げて受け取って、学校指定のカバン、ではなく、一緒に持っていた巾着袋の中に仕舞った。……あれは何だろう。
「じゃあ、私はもう帰るよ。思いがけず人に会う用事ができてしまったからね。今度部室を整理する時は呼んでくれ。私の物も置いているから、いい加減何とかしないと」
「そう、ですね……その時にまた」
とはいえ、わたしは沼倉の連絡先を一つも知らない。知っているか分からないが、連絡は蘭子か杏里に任せよう。
部室を出ようとした沼倉は、直前で立ち止まって振り向く。憂いの混じった笑みを浮かべて、わたしを見て告げる。
「君は最後まで、3人でいられるといいな」
そう言い残して、沼倉は去っていった。バタンとドアが閉められて、後に残されたわたしと瑠衣の間に、ゆったりと沈黙が流れる。
そういえばさっき、初めてわたしのことを名前で呼んだな。意地でも呼ばないという意識が揺らいだのか、それとも、わたしのことをマス部の部員として、少しは認めてくれたのか……。
まあいいか、どうでも。
「……とりあえず、部室の整理、再開しようか」
「そうだな。何だかんだずっと中断してたし」
小箱の一件は一応片が付いた……はずなので、わたしと瑠衣は部室の整理を続けた。まだ昼下がりの陽は高い。素人でもできるところまで、時間の許す限りやっていこう。
* * *
マス部の部室を後にして、私はつばき学園高校の校門を抜けて、敷地の面している道路に作られた横断歩道の前に来ていた。歩行者用の押しボタン式信号は赤になっている。
赤信号を前に立ち止まっている私の手には、同い年の後輩が部室に残した、ある人への贈り物を入れた宝箱。その相手に渡ることすら人任せにしてきた結果、一年以上もロッカーの中に置きっ放しにされてきて、今日になってようやく箱が開けられ、その贈り物が日の目を見ることになった。
なんとも……くだらない話だ。
私はだんだん、あの無責任な後輩のことが腹立たしく思えてきて、それでも彼女の願いを叶えようとしてしまう自分のことも、次第に嫌気が差してきて……。
小箱を持つ手を、大きく振り上げてしまう。
「ええい、くそっ!」
そのまま、怒りに任せて箱ごと地面に叩きつけてやろうと、割と本気で思っていた。
本気だった、はずだった。
……でも、できなかった。
「あの馬鹿……」
振り上げた手をゆっくりと下ろし、私は、ここにいない憎たらしい後輩への悪罵を、まるで自分にも言い聞かせるように、ボソリとこぼした。
巴留実がこの指輪を見つけたのは、私と二人で遊びに行った時だった。念のため言っておくが、デートではない。一番仲のいい同級生が所用で捕まらなかったため、たまたま手の空いていた私に声がかかっただけだ。
私はといえば、周りの同級生がみんな、大学受験や就職活動に奔走している中、三年生の早い段階から授業をサボり続けた結果、二学期の時点でほぼ留年が確定してしまい、ならば何もしなくていいと呑気に構えていたものだ。まあ、それは今も同じなのだが。
あの日のこと、それからのことは、今でも克明に覚えている。
『ねぇねぇ、見てこれ。ペアリングだって。綺麗なシルバーだよね』
別に指輪としてはどこにでもある普通の物だと思ったが、面倒だったので「ああ……」としか言わなかった。
『裏に好きな文字を刻印できるんだぁ……値段もお手軽だし、あの子にも買っちゃおうかなぁ』
ちらっと値札を見てみたが、高校生のお財布からすれば、とても“お手軽な値段”などではなかった。私立のつばき学園高校には、お金持ちのお嬢様も何人かいるのだが、彼女もその例に漏れないらしい。
『えへへ、買っちゃった』
後日、留実が私に見せびらかしたのは、先日買ったペアリング……ではなく、雑貨屋で見つけた小さな木箱だった。ペアリングは刻印を頼んだ上で注文したので、まだ届いていなかったのだ。
『指輪が届いたら、この箱の中に入れて、ダイヤル錠で鍵をかけるの。あの子にとっておきの問題を出して、開けてもらうんだぁ』
それはとても楽しそうに、留実は箱を両手に包んで光に翳し、愛おしそうに見つめていた。彼女が楽しみにしているのは、箱が開けられて中身が渡ることなのか、それとも自分が考えた問題を、あの子が懸命に考えてくれることなのか……。
『あっ、このこと、あの子にはまだ内緒にしておいてね。びっくりさせたいから』
留実はウィンクしながら、唇に指先を添えて私に告げた。私は内心、よくやるわ、と呆れていたのだが、こんなに楽しそうな留実は見たことがなかったので、まあ付き合ってあげてもいいか、と思っていた。留実に、こんなにも魅力的な笑みをもたらすなら、悪い気はしなかった。
……彼女の笑みから、生気と輝きが失われるまでは。
『純ちゃん……これ……任せたからね……』
白いベッドの上で、痩せて青白くなった顔を、無理やり笑わせながら、かすれた呼吸で私にそう告げて、そして、この箱を預けた。
結局留実は、二度とマス部の部室に戻ることはなかった。その後、留実はどこか別の場所に行ってしまい、私にも居場所が知らされることはなかった。
私はめでたく留年が確定し、しかしマス部はすでに引退したことになっているので、引き続き学校にいながらも、授業にも出ず部活にも行かない、宙ぶらりんの状態が続いた。卒業式の日、卒業と縁のなくなった私は出席せず、部室に行って、あの箱を留実のロッカーに仕舞った。
もう、留実の手で渡すことはできない。だけど、私から渡すのも気が引ける。だから向こうから気づいてくれるのを待つことにしたのだ。留実の最後の要望に従って、部員ならいつか気づくであろう、ロッカーの中に隠しておいた。
でも、豈図らんや。届けるべき相手は気づかないまま、つまり留実のロッカーを開けることをずっと避け続けたまま、卒業してしまった。そして何の因果なのか、留実と一度も会ったことのない今年の新入生が、最初にこの箱を見つけ、あろうことかダイヤル錠の解錠に成功してしまった。
……もう、時間切れだ。あの子にとっても、私にとっても。
信号が青になる。私は横断歩道を渡りながら、スマホで彼女に電話をかける。コール音が5回鳴ってから相手は電話に出た。
「ああ、久しぶり。元気にしてたか? ああ、私は相変わらず、留年生活を謳歌しているよ。そっちは? そうか、車で移動中だったか。悪かったな」
横断歩道を渡り終えた所で、私は電話の相手に、一番伝えたかったことを告げる。
「ところで……今から会えないか? ああ、渡したい物があるんだ。待ち合わせ場所だが……実は、留実がどこに入院しているのか、ようやく分かったんだ」
電話の向こうから、ヒュッ、と息を瞬時に吸い込む音がした。急に緊張が走ったのだろうと推定できる。
「前に見せてくれた数列のクイズ……あれがようやく解けたんだ。詳しいことは後で説明するが、答えは607だ。恐らくこれが、留実の入院している病室の部屋番号だろう。部屋番号が607ということは、少なくともその病院のフロアは6階以上ある。この地域でそれだけの規模の病棟を持っていて、なおかつ留実の病状で入院できるのは、志山記念病院だけだ」
相手の声は聞こえてこない。でも私は歩きつつ話を続ける。片耳だけで通話しているだけなら、前方不注意にはならないし他の音も聞こえるので、歩きスマホとして糾弾される筋合いはないはずだ。
「今から行くから、志山記念病院の前で落ち合おう。渡したい物もその時に……」
『ごめんなさい……』
「!?」
なぜか電話から聞こえてきたのは、震える声で呟かれた、謝罪の言葉だった。
愛鐘は、噎ぶように泣いていた。
『私、まだ……勇気がなくて……留実さんとは、まだ会えません……』
ふざけるな、という言葉は必死に呑み込んだ。愛鐘がこのつらい現実を受け入れたくない気持ちは、痛いほど分かるから。
それでも、私が色んな感情を押し込めてやってきたことを、ここでやめるなんてまっぴらだ。
「……分かった。私が会いに行くよ。愛鐘のところへ」
せめて、留実が笑顔で見つけた宝物だけは、届けるべき人の元へ届けなければ。
* * *
さて、それから数時間後。
部室の整理が可能な範囲で完了し、いい時間にもなったので、わたしも瑠衣もこのまま部室を出て帰ろうとした。ついでにどこかへ寄り道しよう、という話も出ていた。
しかし、それは叶わなかった。
「まったく、ここまで堂々とサボられると、いっそ清々しいわ。今日は最終下校ギリギリまでしごいてやるからね!」
「あ〜れぇ〜〜……」
瑠衣のサボりに気づいて探していたテニス部の部長に見つかって、瑠衣は首根っこを掴まれて引きずられながら、どこかへと連行されて行った。微妙に危機感の欠ける表情で。
そしてわたしは、連行されるアホ面の友人を、呆れて肩を竦めながら見送ったのであった……。
ここに来て瑠衣が貴重なコメディリリーフになっています。助かります、本当に。
皆さん、クイズの答えは分かりましたか? ゼッケンドルフの定理というヒントがなければ、解くのは難しいかもしれません。とはいえ、法則は単純な変形の積み重ねなので、プログラミングでも簡単に再現できます。というか私も実際に作ったので、出来るはずです。茉莉はあえなく失敗しましたが、皆さんも挑戦してみましょう!
さて、デートに行ったあの二人はどうなったのでしょうか。次回、百合の蕾が少し開きます。




