after Day. 2
後日談、とはよく言いますが、同じ日の出来事だったらどういえばいいのでしょう。
Day. 2と同じ日の、下校後の出来事です。だから同じ日に投稿しました。だからなんだ。
その日の夕方、定刻ぴったりに部活を終えて家に帰ると、わたしは早速、素数に関係する未解決問題をネットで調べてみた。
夏の科学研究発表会に向けて、わたしは素数の研究を始めることになった。画期的な成果が求められているわけではないので、すでに解決済みの問題を題材にしてもいいと、先輩たちは言っていたが……どうせ挑戦するなら、答えの出ていない問題に挑みたい。
「ゴールドバッハ予想……ゴールドバッハって確か、素数が無限個あることを別の方法で証明した人だよね」
PCの前で机に肘をつきながら、わたしは今日の会話を思い出す。思い返してみても、やっぱり今日も雑談ばかりだったな……。
このPCは、今はわたしの物だけど、以前は母が仕事で使っていた。母がPCを買い換える際に、お下がりとしてわたしにくれたのだ。母が入手した時点の最新モデルらしいけど、あと数年でOSのサポートが終了するとか言っていたから、いつまで使っていようか迷っている。
調べ物ならスマホで事足りるけど、わたしみたいなにわか仕込みだと、手のひらサイズの画面で小さな文字の文章を読むだけでも、すぐに眠くなってしまう。たぶんわたしは、調べ物はPCの方が向いている。
「へえ……問題は結構単純だけど、こういうのもまだ証明されてないんだ。ちょっと面白いかも」
「何なに? 何か面白いもの見つけたの?」
「お姉ちゃん……」
ずけずけとわたしの部屋に入ってきたのは、大学生の姉、鈴原八重子。大学生になっても実家を出ず、暇さえあれば惰眠をむさぼる、ずぼらが人の形を成したような女だ。
「人の部屋に入るならノックくらいしてよ……」
「ここは元々私の部屋だったんですけどー?」
「今はわたしの部屋なんだから関係ないでしょ……」
「それよりもんちゃん、充電器貸してくんない? またどっかいっちゃって」
「話を聞かない。また無くしたか。それともんちゃんはやめてと何度言ったら」
三連続でツッコミはさすがに体力を消耗する。ずぼらで傍若無人な姉と会話すると、高い確率で疲れが増すのだ。
ちなみに“もんちゃん”は、姉しか使わないわたしの愛称だ。茉莉→マリリン→モンロー→もんちゃんとなったらしく、もはや原形を留めていない。
ため息をつきながら、わたしは机の引き出しからスマホの充電器を取り出し、姉に投げて渡した。
「ほら、充電終わったらすぐに返してよ」
「サンキュ」片手で充電器をキャッチする姉。「文句言いながらちゃんと貸してくれるもんちゃんが好きよ」
「はいはい、そりゃどーも」
「んもう、姉の愛情をさらっと受け流さないで。それよりもんちゃん、何調べてたの?」
なぜかわたしの所までやって来て、椅子の真後ろからPCを覗き込む姉。用事が済んだならさっさと出て行ってくれないかな……。
素数に関するトピックをまとめたサイトを見て、姉は目を細める。
「何これ、数学?」
「うん、素数についてのまとめサイト。部活動の一環でちょっと調べることになって」
「そういえばもんちゃん、数学部に入ったんだっけ。なんか意外だなぁ。もんちゃんって数学好きだったっけ」
「元から別に嫌いではなかったよ。部活でもやりたいほど好きってわけでもないけど。それと正式には数学研究クラブだから。略称はマス部」
「どっちでもよくない?」
よくはない。事情は知らないけど、先輩たちは部の愛称を『マス部』に限定して、それ以外の呼び方は頑なに認めないのだ。わたしも正直、ただの略称なら何でもいいと思うけど、先輩たちが気に入らないなら、あえて別の呼び方をすることもあるまい。
まあ姉は、興味がないから「どっちでもいい」と言っているだけだが。
「で、何を調べるの……ゴールドシップ予想?」
「うーん、本命がキタサンブラックでそっちは対抗かな、って違うから。ゴールドバッハだよ、間違えようがないでしょ」
「わお、ノリツッコミ……で、ゴールドバッハ予想ってどんなの?」
「4以上の偶数がすべて、2つの素数の和で表せる、という予想だってさ」
「ふむ……偶数っていうのは、2で割り切れる数だよね。素数は確か、1と自分自身だけでしか割り切れない数、だったよね」
「うん。例えば、8は3+5、10は3+7あるいは5+5、24だったら11+13、7+17あるいは5+19」
「おー、なるほど。偶数ってみんなそうなの?」
「それはまだ分かんない。まだ誰も証明できてないから、定理とか公式じゃなく予想なんだよ」
「そうなんだ……割と簡単そうに見えるけどねぇ」
姉がそう感じるのは、問題の内容自体が難しくないからだ。結局ただの足し算だし。
だが、事は素数が絡んでいるから、論理的に証明しようとすると途端に難しくなる。素数は未だに出現の法則性が見つかっていなくて、大きな素数ほど特定するのが困難になる。偶数を2つの自然数の和に分解できても、その両方が素数かどうか確かめることが、とにかく難しくて時間もかかるのだ。
「今のところ、コンピュータを使った計算で、4×10^18まで確かめて、全部2つの素数の和に分解できると分かっているみたい」
「18乗ってことは、えっと、1万で4乗だから、1億で8乗、1兆で12乗、その次は京だっけ」
「うん。だから400京だね」
「途方に暮れるわ……そんだけ確かめて正しいなら、もうゴールドバッハ予想は正しいってことでよくない?」
「うちの先輩いわく、コンピュータでも届かないくらい先のことは、どうなるか誰にも分からない、だから証明が必要なんだって」
「……そりゃそっか。コンピュータの性能が10倍に増しても、今より10倍以上大きな数には手が届かないもんね」
そうなのだ。以前に蘭子が言っていたが、人間が地道に計算できる範囲で正しいとされた性質が、宇宙にある全ての原子の個数より大きい数で成り立たなくなる、というパターンはたまにあるという。特に素数が絡んだ問題はそれが多いのだ。
ところで、姉もわたしと同様、数学はさほど得意ではないはずだが、どうやらあっさり納得したようで、腕を組んでしきりに頷いている。
「うんうん、先のことは分からないもんだよねぇ。私もまさか、もんちゃんが数学を研究する部活に入るなんて、想像もしなかったもの」
「あ、そっち?」
「ちゃんと聞いてなかったけど、どうして今の部活に入ったの?」
「先輩たちに勧誘されて……まあ、成り行きで」
「もうなーんでそこの説明はぼかすのよぉ」
後ろからわたしの頭に、猫のように頬をすりすりしてくる姉。わたしが杏里のスキンシップに早々に慣れたのは、日頃からこういう事をしてくる身内がいるからかもしれない。
ひとしきりわたしにマーキングして満足したのか、姉はぱっとわたしから離れた。
「まあいいけど。それなりに部活は充実してるみたいだし」
「充実……してるのかなぁ。普段はひたすら駄弁ってるだけなんだけど」
「もんちゃんはそのくらいがちょうどいいんじゃない? 元はといえば、あそこの制服が着たくて入学したわけだし、勉学以外で、あの高校に入った意味が見つかったなら、それはいいことだと思うよ」
「…………」
「じゃあ、私は部屋に戻るよ。充電器ありがとねぇ」
色々と引っかき回して、姉の八重子は部屋を出て行った。台風みたいな人だなぁ。
なんか集中が切れた……わたしは一度PCを畳んで閉じて、机から離れた。
ベッドに仰向けに倒れ込む。ぼうっとベージュ色の天井を眺めながら、つばき学園高校に入学したばかりの頃に思いを馳せてみた。
元はお嬢様学校ということもあって受験の倍率は高く、受かるのは生易しいことではなかった。それでもわたしはこの高校に入りたくて、なんとか合格圏内に入れるよう、必死に勉強した。たぶん、これまでの人生で一番真剣に勉強に励んだと思う。
何がわたしをそこまで突き動かしたか。それは姉の言っていたとおり、制服を着たかったからだ。10年ほど前にOGがデザインしたという、つばき学園高校の現在の制服を。単純にブレザーのデザインが気に入ったというのもあるが、それ以上の思い入れが、わたしにはあった。
ベッドのそばの壁にかけた、まだ新しいブレザーが目に入る。チャコールグレーの薄い生地、ダブルブレストのボタン、臙脂色のリボンタイ、そして襟元に光る椿のエンブレム。わたしはおもむろに体を起こし、タータンチェックのプリーツスカートを手で引き寄せて、鼻の先を埋めた。
「お母さん……」
素敵な制服を生み出してくれた、一人のデザイナーの面影を、脳裏に浮かべた。
わたしは本当に、この服を着て高校生活を送れたら、それだけでよかった。それ以上の贅沢なんて必要なかったのだ。だから、部活に入って青春を謳歌しようという気もなかった。
それなのに、今は実態のよく分からない部活に在籍し、その活動の一環としての調べ物を、自宅に帰ってからもしている。一ヶ月前には想像もつかなかった自分の姿が、ここにある。
「まあ、先輩たちは愉快な人だし、なんだかんだ退屈しなさそうだけど」
素数のように先の読めない、しかし素朴で素敵な青春の真っ只中に、わたしはいる。こういうのも、案外悪くないと思い始めていた。
「おーい、ごはん食べよー」
階下から姉の声が聞こえてきた。夕飯の時間だ。
跳ねるようにベッドから降りて、わたしは軽い足取りでリビングに向かう。明日も部室で、愉快な先輩たちに会えると思うと、楽しみで心が弾んでいた。
……まあ、今日は金曜日なんだけどね。
某スマホゲームの影響で、競馬に馴染みのない若い人にも、伝説の競走馬の名前が知られるようになったので、女子高生でもたぶんこういうノリツッコミはできると思います。ちなみに私は競馬に触れたことがほとんどないので、それこそ某スマホゲームのキャラを、適当に使いました。適切に、という意味ではありません、念のため。……まあ、ゲームもやったことないんですけどね。




