Day. 19 Publish or Perish(後編)
前回はまさかのラストでしたが、思わぬピンチに見舞われた茉莉は、無事に発表会をやり遂げられるのでしょうか。
そして今回も、フィボナッチ数の不思議な性質にフォーカスします。
さらに、ここに来てまた新キャラが登場します。
何が起きたのか、一瞬分からなかった。
初めての科学研究発表会、本番まであと少し。頼みの綱だったメモを紛失して、途方に暮れていたところ、蘭子がいつになく必死の形相で、新しくメモを作り始めた。メモはものの数分で出来上がったが、ショックと緊張で、わたしは思うように立てなくなっていた。
そんなわたしを、蘭子は正面から抱きしめている。
「あの、えっと……蘭子先輩?」
しばらく蘭子はわたしを腕の中に包んでいた。こういうことは杏里がよくやっていたけど、蘭子の体温をこうして直に感じるのは、初めてのことだ。だから知らなかったけれど……蘭子って、思ったより温かい。
図らずもドキドキしてきたところで、蘭子は腕を緩めた。
「……落ち着いたか?」
「え?」
蘭子の手が、わたしの両肩に横から添えられる。元々少し身長差があって、間近に蘭子の喉元が見えるほど接近しているせいで、蘭子の表情は窺えない。
「人の体温や鼓動に触れることで、精神を安定させる効果がある。茉莉があまりにもきつそうで、それなのに、私を心配させまいと無理をしているから、どうにも放っておけなくてね……」
「蘭子先輩……」
確かにさっきまでの動揺は薄れたし、効果はあった。でも、本当に蘭子はそれだけのために、わたしをハグしたというのか?
だって、わたしが耳元に感じた、わたしの気持ちを落ち着かせたその鼓動は、あまりにも……。
その先を思い浮かべようとしたら、蘭子はさっと手を離し、テーブルの上に置いていたPCと発表メモを重ねて持ち上げ、わたしに押しつけるように渡してきた。
「うわっ」
「さあ、もうそろそろ、会場に行く時間だ。気張ってこい」
最後に蘭子はわたしの頭をポンと軽く叩き、真っすぐに目を見て告げた。
「本番中に手助けはできないが、隅っこからちゃんと見守っているよ。私と杏里が自信たっぷりにしていれば、茉莉も胸を張って発表できるだろ?」
その言葉どおり、わたしを見つめる蘭子は、自信に満ち溢れていた。鈴原茉莉ならきっと大丈夫だと、心から信じているという証だ。その絶対的な信頼はわたしに、プレッシャー以上に、根拠のはっきりした自信をくれる。
不安がないと言えば嘘になる。だけど、足を鈍らせるものはもうなかった。
「はい……行ってきます」
自分を奮い立たせるつもりで蘭子に告げて、わたしは荷物を抱えて駆け出した。控え室の奥に、会場である講堂の、ステージの袖に繋がる出入り口がある。見守ってくれる人がいたとしても、ここからは、わたし一人の戦いだ。
二人の先輩は、すぐには姿を見せなかった。わたしの発表が始まるまでの数分間、二人がどこにいて、どんな表情を浮かべていたのか、わたしは何も知らなかった。
本当に、知らなかった。
蘭子と杏里、それぞれ、赤く、青く、染まっていた。他の誰にも気づかれないように、ひっそりと。
* * *
HDMIケーブルでプロジェクターと演台に置いたPCを繋ぐと、背後のスクリーンに、PCの画面が映し出される。これだけでも安堵している自分がいる。
蘭子が以前に言っていたが、本番になってPCとプロジェクターの接続が上手くいかず、時間が押してしまうトラブルは、意外とよくあるらしい。去年、蘭子が発表した時は特にトラブルもなく終わったが、別の発表者の出番になったとき、やはり接続のトラブルが発生したという。たいていはケーブルの接触不良が原因なので、外して繋ぎ直せば解消されるらしいが。
PCの接続は問題なくできた。マイクもちゃんと音を拾っている。レーザーポインタの光もはっきりと見える。これでいつでも発表を始められる。精神状態が本調子とはいえないから、余計なトラブルは起きない方がいい。
すぅ、はぁ。
落ち着かせるためにもう一度深呼吸して、わたしは目を開く。
薄闇の講堂、眼前に扇状に並ぶ客席は、二百人を優に超える客でほとんどが埋まっている。知らない顔の方が多いが、よく目を凝らすと奥の席に瑠衣と乃々美がいて、前から二列目の席には峯田先生がいる。
そして、舞台袖の近くのドアの前には蘭子が、客席の後ろのドアの前には杏里がいる。はっきりとは見えないけど、二人とも、大丈夫だと目で語りかけている。
うん、大丈夫だ。手に持ったマイクに向かって、わたしは第一声を放つ。
「それでは只今より、『ゴールドバッハ予想における下限値問題の提起』と題して、つばき学園高校一年生、鈴原茉莉が発表させて頂きます」
基本は観客の方を見ながら、レーザーポインタを使うときだけスクリーンを向いて話す。スムーズにPCを操作するために、演台のそばからはあまり動かない。発表メモも演台の上に置いているので、時折横目でちらっと覗きながら、説明を続けていく。
何度も練習を重ねたおかげか、この緊張する壇上でも、わたしの舌は滑らかに回る。早口になって聞き取れないと意味がないから、一つ一つの言葉を明瞭に、しかしなるべく途切れなく話すことを心がける。蘭子と杏里に何度も言い聞かされ、一人で練習するときもずっと意識してきた。
「……という予想を立てました。次に、コンピュータを用いて、10000までの偶数について検証した結果をご説明します。使用したコンピュータのスペックと、プログラミング言語はこちらです」
グラフのページを出す前に、このPCの仕様とプログラミング言語の種類とバージョンを記した表を映し出した。
コンピュータを使って数学的な検証をしたとき、これが結構重要になるという。わたしの研究は現段階で計算時間の計測をしていないが、計算時間が大事な要素になったとき、コンピュータの性能と言語の種類は必要な情報になる。動作にかかる時間は、これらに大きく依存するからだ。
尤も、観客の大部分はこの点に注目しない。研究内容に信憑性があるかどうかは、性能の部分を見てもすぐには判断できないからだ。あくまでもこれは、後から研究内容を参照したい人が現れた時のことを考えているよ、とアピールするためのものだ。だからスライドで発表するときは、一瞬見せて、説明をすっ飛ばしても構わないという。
そんな感じで、わたしは順調に説明を続けていき、10分経過を知らせるベルが鳴る寸前に、最後のページに辿り着いた。
「以上で、発表を終わります。ご清聴ありがとうございます」
観客席に向かって、浅めに頭を下げる。拍手はほとんどないけれど、これは決して珍しい事じゃない。拍手が来るとすれば大抵、この次の質問時間が終わった後になる。
「それでは、質疑応答の時間に入ります。質問のある方は挙手をお願いします」
教壇の隅にいる司会者がマイクで呼びかける。実はこの瞬間が、発表者にとって一番緊張する場面である。ここで挙手をする人数が、実質的に、発表された研究への興味関心のバロメータといってもいい。
挙げられた手は少なかった。科学研究発表会で、数の少ない数学の研究は、やはり注目を集めるものではなかったようだ。残念ではあるけれど、わたし自身、目覚ましい成果を出したわけじゃないから、正直に言うとこの展開は想定内だ。まあ、ゼロじゃないだけマシだと思うことにしよう。
司会者に指名された一人目は、数ある数学の問題の中からゴールドバッハ予想を選んだ経緯を尋ねてきた。この質問は想定済みだ。わたしは資料の中にその経緯を含めようとして、蘭子から削除するように言われたが、発表後に質問される可能性はあるので、頭の片隅に入れていた。
「そうですね……部の先輩に薦められたというのもありますが、素数という分野そのものが、謎が多くて魅力的だと感じたのが大きいですね。特にゴールドバッハ予想は、一つ一つの偶数についての検証は簡単にできて、初心者のわたしでも触れやすいと考えました。まあ、本家の証明に関しては、いくら調べても手も足も出ませんでしたけど……」
頬をポリポリと掻きながら答えたら、会場からクスクスと笑う声がちらほらと現れた。どんな質問にも、かっこつけず、正直かつ誠実に答えるのが大事……蘭子と杏里に教わったことは、正しかったのだと実感できる。
「では、次の方……どうぞ」
司会者に手を差し向けられて、徐ろに立ち上がったその人を見て、わたしは全身が強張った。
「どうも、一般参加の峯田です。大変興味深い研究でしたよ」
峯田先生だ……去年、蘭子がここで発表をしたとき、あまりに鋭い質問を粘り強くぶつけたことで、先輩たちに苦手意識を抱かれている。今回、峯田先生が来ると分かってから、蘭子の質問対策はこの人を意識したものになっていた。
果たしてどんな質問が来るのか……冷や汗をかきながら、わたしは耳を澄ませる。
「ゴールドバッハ予想の亜種という扱いになると思いますが、本家の予想を証明する足掛かりになるとは考えているのでしょうか?」
よかった、この質問は想定していた。内心安堵しながらも、なるべく顔には出さずに答える。
「はい、お答えします。今回提起した予想に従った場合、二つの素数の和で表すパターンが一通りとなる最大の偶数が、どれだけ大きいかに依ります。もしこの最大の偶数がとてつもなく大きければ、それまでの何処かに、二つの素数の和で表せない偶数が出現する可能性は否定できません」
「確かにそうですねぇ……10000までの偶数で検証した限りでは、ニ素数和が一通りとなる偶数はしばらく現れませんが、素数の分布は規則が見つかっていないうえ、ガウスの素数定理から、出現頻度はどんどん低くなりますから、これから現れないという保証はありませんねぇ」
あれ……?
ガウスは知っているけど、素数定理はどんなものだったかな……ちゃんと調べてなかったかもしれない。ああ、なんか、嫌な汗が出てきたな。
じわじわと動揺が強まっていくわたしに、峯田先生はなおも言葉をぶつけてくる。その眼光は次第に鋭さを増していく。
「新しい予想の提起はとても意味のある試みです。が、先ほど貴女は、謎が多く魅力的であることを、ゴールドバッハ予想の関連研究を選んだ理由として挙げましたが、貴女の提起した予想もまた、同様に魅力的だと考えていますか? 既存の問題を解決する足掛かりに、必ずしもならないというのであれば、貴女の予想を突き詰めて研究する意義は、一体どこにあるのかしら?」
「…………!」
背筋が粟立つ。マイクを持つ手が汗ばむ。
この予想を研究する意義……その質問が来ることを、想定していなかったわけじゃない。ただ、意義がどこにあるか、誰もが納得するような説明をするのは、意外と難しい。研究している最中に、何の意義があるのかを意識することはほとんどないからだ。
もちろん、それっぽい建前を並べれば、説明にならなくもない。だけど峯田先生は、前の質問を利用して、こちらが用意していた建前の回答を潰してしまった。既存の問題の証明に役立つか分からないとなれば、他のどの問題と関連付けて意義を説いても、それはこじつけにしか聞こえず、説得力に欠ける。きっと峯田先生は、上辺だけ繕った回答を聞くつもりなどないのだろう。
どうしよう……せっかく色んな質問を想定して練習してきたのに、こんなやり方で質問されるのは想定外だ。ただでさえ初めての研究発表で、メモの紛失騒動で不安定なメンタルをどうにか支えて持ち堪えたのに、言うべき言葉が頭に全く浮かばない。
メモ、か……スライドに載せず、口頭で話すときに必要な物事を、蘭子が急拵えでまとめてくれた。だけど、練習で想定できていない事態に対処する方法までは、書いていないかもしれない。そう思いながらも、わたしは縋るように目だけを演台のメモに向けた。
ふと、最後の一文が目に留まった。
『カッコつけず、色んな視点を楽しもう!』
「あっ……」
大事なことを、忘れるところだった。蘭子にも、杏里にも、他でもない峯田先生にも言われていたのに。
そうだ、楽しまないと。
一旦、深く呼吸して、マイクを顔の前に構えて、視線を上げた。峯田先生だけでなく、ここにいる全員に届くように、堂々と声を張り上げる。
「この研究の意義については、特に考えていませんでした!」
会場が俄にざわめき出す。質問した峯田先生も、この返答が予想外だったのか目を丸くしていた。
「わたしはただ純粋に、ゴールドバッハ予想について検証している最中に、もしかしたらこういう性質があるかもしれないと思い、個人的な興味から調べました。ですから、これが他のどんな問題に応用されうるか、研究する価値があるのか、わたしにはお答えできません」
言葉が整理されて浮かび上がる。スラスラと舌が動く。心の混乱が徐々に鎮まって、感じたことのない気持ちが膨らんでいく。
「ですが、先ほどの質問を聞いて、わたし自身も知りたくなりました。まだ誰も検証したことのない、未知なる数の秘密……それが、この問題の枠を超えて、どんな影響をもたらすのか、知りたいという気持ちでいっぱいです!」
そう、わたしは知りたい。まだ知らないことを知りたい。それができる可能性が、この場所、この空間には、無数に詰まっている。
ああ、ワクワクする。知らないことを知ることができる、その可能性に触れることが、こんなに楽しいなんて!
「先生はどうですか? 何か、この予想を紐解くことで得られる、知見というか、アイデアというか、そういうものを思いついていますか? 何でもいいので、思いついたことをわたしにも教えてくれませんか?」
「…………」
食い気味に逆質問をしてしまっているが、きっとこれは、今のマス部の三人が集まっただけでは得られない、新しい考察を手に入れるまたとない機会だ。峯田先生がわたしの発表からどんな着想を得たのか、ぜひとも知りたい。
峯田先生はしばらく呆然としていたが、すぐに口角を上げて、心底楽しそうな表情でわたしに声を届けた。
「そうですねぇ。私にも、2、3ほど思いついていることはありますが……そろそろ時間切れになりそうなので、積もる話は発表会が終わってからにしましょう?」
「あっ……」
峯田先生への返答に時間をかけ過ぎたことに、わたしはようやく気づいた。
チン、チン、チーン。
そして絶妙なタイミングで、規定時間経過を知らせるベルが鳴った。会場のどこかから笑いをこらえる声がかすかに響く。わたしは慌てて姿勢を取り繕い、会場全体に向き直る。
「ええっと、では、続きはまた後で、ということで、ありがとうございました!」
深々と頭を下げると、今度こそ客席から拍手が聞こえてきた。理想としていた発表とはだいぶ違ってしまった気もするが、何とかやり遂げることができた。
とはいえ、ちょっと恥ずかしくなってきたので、わたしは早々に壇上から去ることにした。スイッチを切ったマイクとレーザーポインタを演台に置いて、HDMIケーブルを抜いたPCとメモを抱えて、そそくさとステージを後にする。
そういえば、蘭子と杏里はどんな反応をしているかな。どっちも客席の隅っこの、それぞれ違う場所から見ていたはずだけど……。
ステージを降りてから周辺をこっそり見回してみたけど、どちらも、発表が始まった時にいたはずの場所にいなかった。もう外に出たのか……まあ、わたしの後にも発表をする人はいるし、労いの言葉をかけるなら講堂の外だろうから、いなくても不思議ではない。
ただ、何だろう、これは……。
経験のない達成感と同居している、言いようのない不穏な感覚。まるで、完璧に仕上げたはずの証明に、見えない欠陥が潜んでいるような、妙な居心地の悪さ。
……二人とも、どこにいるの。
* * *
何が起きたのか、一瞬分からなかった。
恐らくこの発表会で最大の山場である、峯田先生からの穿った質問に、茉莉はたどたどしくも真っすぐに向き合って答えていた。何も心配はいらないと思い、まだ茉莉の発表は終わってなかったけど、私はすぐそばのドアを開けて控え室へ戻った。
するとそこに、一足先に別のドアから講堂を出て駆けつけたのか、杏里が息を切らして入ってきた。そういえば、紛失した茉莉の発表メモを探していたはずだけど、結局見つけられたのだろうか……そう考えて、その件を杏里に尋ねようとした。
だが、杏里は私にそんな暇を与えなかった。控え室に入ってきた時の杏里は、出会ってからの約9年間で一度も見たことのない、名状しがたい表情で私を見てきた。そして、その表情に言葉を失っていた私の元に、杏里は駆け足で近づき……。
無言で抱きついて、今に至る。
「えっ、えっと……杏里?」
「茉莉ちゃん、いい発表だったよね」
「え? あ、ああ、そうだな……練習を重ねた成果としては充分だ」
「それだけじゃないよ」
私の背中に回された、杏里の両腕に力が入る。
「わたしが席を外している間、蘭子ちゃんが色々してくれたんでしょ? 即席で代わりのメモを作ったり、動揺している茉莉ちゃんをハグで落ち着かせたり……」
「!」心臓が跳ね上がった。「……見て、いたのか」
「メモを見つけて、一度ここに戻ってきた時にね……でも、中に入らなくてよかったよ。せっかく茉莉ちゃんが落ち着いたのに、また動揺させてしまっただろうから……」
それはまあ、確かに。高校生にもなってハグで動揺を鎮めている場面なんて、他人に見られたら恥ずかしくて精神を乱されるだろう。ましてや、茉莉は杏里に懐いている。その杏里に目撃されたら、茉莉はさらに混乱したことだろう。
だが、杏里が言いたいのはそれだけじゃないらしい。
「実はね、茉莉ちゃんの発表メモ……バラバラに千切られて、ゴミ箱に捨てられていたんだ」
「…………え?」
今度は私が激しく動揺した。
茉莉の大事なメモが、バラバラに千切られて捨てられていた……それはつまり、誰かが茉莉のメモを盗んで、意図的に修復不能な状態にしたということで、紛うことなく、茉莉への悪質な嫌がらせだ。
ああ、いけない。私は努めて冷静であるべきなのに、今の私はきっと、憎悪で歪んだ顔をしている。
「……やっぱり怒るんだね、蘭子ちゃん」
杏里の囁く声に、ハッと我に返る。さすがというか、顔が見えなくても、わずかな呼吸の変化だけで杏里は、私の心の変化を敏感に感じ取った。
「いや、すまない。だけど、メモだって研究成果の一つだから、それを破り捨てるのは、一研究者への冒涜だよ」
「うん、分かるよ。許せないよね。でも、他人のためにそこまで怒るのは……蘭子ちゃんらしくないね」
私らしくない、か……確かに、他人のことで一喜一憂するなんて、私はついぞなかったかもしれない。幼馴染みの杏里が嫌な目に遭った時でさえ、内心では腹立たしく思いながらも、どこか他人事のように、冷静に手助けをしていた。
だけど、今回は違った。動揺を抱えながら無理して立ち上がろうとする茉莉を見て、胸を針で刺されたような気持ちになった。茉莉への悪質な嫌がらせを知って、その犯人に激しい怒りを覚えた。どれもこれも、私じゃないみたいだ。
どうしてしまったんだ、わたしは。
そして、杏里はいつまで私を抱擁するつもりなんだ。
「わたしはね……茉莉ちゃんのこと、好きだよ。目に入れても痛くないほど、かわいいって思ってる」
「…………!」
「だからね、蘭子ちゃんの気持ちが、本当によく分かるんだ。だけど……」
杏里はようやく腕を緩めた。そして、私の両腕をしっかと掴んで、私の顔を真っすぐに見つめた。泣いているわけでもないのに、とても悲しそうな表情で……。
「蘭子ちゃんが茉莉ちゃんに向ける“好き”は、わたしでも変えられなかった蘭子ちゃんを、変えてしまうほどのものなんだね」
そう告げた、杏里の言葉と、その姿に、私は二の句が継げなかった。
ただ、自明な事実を並べただけだ。論理的に重要な指摘とは言えない。それなのに、杏里の言葉の向こうにある何かが、私に目を逸らすことを許してくれない。定義の不明瞭な概念が、眼前に横たわっている。
「杏里、私は……」
言語化もできていないのに、見たくもない表情を真っすぐに向けてくる杏里に、何かを告げずにはいられなかった。こうなったら、不恰好でも思いつくままに言うしかないと、私は口を開く。
しかし、喉元まで出かかった言葉を、私は引っ込めた。控え室の出入り口から、こちらを覗いている二人組の人影に気づいたから。
「……あ、どうぞ。後は若いお二人でごゆっくり~」
「こ、これは! 推しと幼馴染みと後輩が修羅場過ぎるというやつですか!」
「……君たち、いつから見ていたの」
顔だけ覗かせて私と杏里のやり取りをじっと見ていたのは、茉莉の数少ない友人の瑠衣と、私のファンだという乃々美の二人だった。彼女たちは付き添いじゃなく、単純に茉莉の発表を見に来たただの客のはずだが、なぜ発表者用の控え室に?
「いやぁ、茉莉の発表を見ていたら、質疑応答の最中に杏里先輩が外に出て、駆け足でどこかに行くのが見えたんで、追いかけてみたらこの場面に出くわしまして」
「つまりほぼ最初から見ていたわけだな」
「うぅ~、複雑な気分ですが、推しがたとえ誰と結ばれようと、オタクは須く観葉植物となって見守るべきなんです……!」
「君は何を言ってるんだ」
「くぁzせdcftgbふjmこlp……!!」
悔しさと嬉しさが綯い交ぜになったように、唇を噛んで頬を赤らめる乃々美は、また独特な語彙を使い回している。そして、羞恥が極致に達し、真っ赤な顔でプルプルと小刻みに震えていた杏里は、PCのキーボードをジグザグにタイプしたような、奇抜な悲鳴を上げた。何だろう、この、名状しがたい修羅場は。
そんな大混乱に陥ったこの場に、ようやく講堂から戻ってきた茉莉が、心底呆れたような顔を見せた。
「あの、他の発表者も控えているんですから、静かにしてくださいって……」
* * *
長テーブルの上に置かれたそれを見て、瑠衣は眉間に皺をよせ、乃々美は青ざめて口元を手で押さえた。
「これは、ひどいな……」
「うわあ……」
そんな反応になっても無理はない。わたしだってショックを受けている。
わたしのカバンから無くなった発表メモは、杏里が見つけてくれたが、全く無事で済んではいなかった。力任せに破られたせいか、しわくちゃの状態でバラバラに千切られて、ゴミ箱に捨てられていたという。杏里は出来る限り拾い集めてくれたが、どの破片とどの破片が繋がっていたのか、類推するのも難しいくらい細かく破られていて、とても判読できる状態じゃなかった。
もしこんなものを発表前に見てしまったら、正気を保てない。発表会を辞退することになったかもしれない。杏里から見せられなくて本当によかった。
「誰がこんなこと……」
「これは明らかに茉莉を狙い撃ちしている。そういう奴に心当たりはないのか?」
「いえ、全く……」
珍しく憤怒を滲ませている蘭子からの問いに、わたしはかぶりを振る。ここまでひどい嫌がらせを受けるほど、誰かに恨みを買っている心当たりなどない。というか……。
「そもそも、学内の交友関係すら、ここにいる人たちで完結しているくらいですし、恨みを買う余地がないというか」
「落涙するくらいならもうそのネタやめろよ」
あはは、何を言いますか。これは目から汗が出ているんだよ。別に友達はおろか知り合いすら少ないことなんて気にしてないし。
え? 交友関係なら、ここにいないもう一人がいる? “ぬ”から始まる名前の人? 学内の仲のいい人に、そんな名前の人がいたかなぁ。
「それで、どうする? 勝手に他人のメモを持ち去って破り捨てるのは、立派な器物損壊罪だけど……然るべき所に訴えるか?」
蘭子から問いかけられて、わたしは少し考えた。
考えて、答えを出して、首を横に振った。
「確かに、大事なメモでしたし、ショックですけど、先輩方のおかげで発表は事なきを得ましたし、客観的に見れば、被害は紙切れ一枚ですから……わたしとしては、終わった話にした方がいいです」
「そうか」
「先輩方、かぁ……」
杏里は何かが不服なのか、顔を曇らせてぼそっと呟く。
「まあ、わたしから何かすることはないですけど、その代わり許すこともないので」
「意外と根に持つな、茉莉って……」
「でも、こんなトラブルが起きていたなんて気づかないくらい、堂々としたいい発表でしたよ! 内容は全部分かったわけじゃないですけど」
「あー、ありがとね、本庄さん……」
最後の一言がなければ素直に喜べたのになぁ……いや、ちゃんと見て聞いてくれただけでもありがたいが。
結局、メモを破り捨てられても何とかなったのは結果論に過ぎない。先輩たちに要らない苦労を負わせたことも含めて、こんな事をした犯人を許す理由はなかった。根に持つくらいは構わないはずだ。
「これで賞とか取ったら、犯人の目論見は潰えて、茉莉の完全勝利だな」
「勝利って……」
別に誰とも知れない犯人と戦っていたつもりはないのだけど。瑠衣も何だかんだ言って腹に据えかねているみたいだ。
「期待させた瑠衣には悪いけど、有力候補は他にいくらでもいるし、あの内容だと参加賞がいいところじゃないか?」
「蘭子先輩……散々苦労した結果に対してそれを言います?」
「貶しているつもりはないよ。賞レースは所詮、比較した結果に過ぎない。それで研究の価値が否定されるわけでもないし、こういうのは発表することに意味がある」
「発表して、こういう研究の結果があると世の中に知らせないと、それこそ存在ごと否定されることになるからね。誰の目にも触れられる形にすることは大切だよ」
「Publish or perish……ですね」
蘭子と杏里が言いたいことは、このフレーズに全て集約される。古い時代には必ずしも当たり前でなく、ガウスなど、見つけた事実を公表しない数学者も少なくなかった。だけど現代の学問の世界では、もう認められる話ではなくなっている。
Publish or perish……それはすなわち。
「発表しなければ滅びる、ですか」
「学問の世界って結構過激だなぁ」
「それだけ、研究を多くの人の目に触れるようにするのは重要ってことだ。だからこそ、その行為を妨げることは、研究者としての死を宣告することに等しい。結果的に問題なく発表できたとしても、研究成果を廃棄する行為は許さないという茉莉の判断を、私は支持したい」
おお、蘭子が本気で怒っている……眦を吊り上げて眉根を寄せ、静かな口調ながらその言葉には憤りが滲んでいた。わたしのため、というより、研究の大切さを経験的に知っているからこそだろう。
そうか、蘭子も賛成してくれるか。ならば思う存分、犯人を許さないことにしよう。
……なんて心の狭いことを考えていると、控え室の奥から一際盛大な拍手が聞こえてきた。音が少し籠もっているから、たぶん講堂からだろう。
「おっと……最後の発表が終わったみたいだな」
「この後は主催者の挨拶をやって終わりだから、茉莉ちゃんは荷物を持って会場に行った方がいいね」
「分かりました。ではまた後ほど」
この研究発表会は全国の会場で、それぞれ異なる日に実施されるので、審査の結果は最終日に発表される。順調に日程を消化すれば、結果発表は明後日の予定だ。つまり今日は全ての発表が終われば、この地域での主催者の挨拶を聞いて解散となる。
わたしは正式な参加者だから、一応閉会の挨拶を聞かなければならないが、付き添いの先輩たちや来場客の瑠衣たちに、その義務はない。たぶん聞いても退屈なだけだから、蘭子と杏里は外で待つことにしたのだろう。
そういうわけで、わたしは荷物をまとめて控え室を離れることになった。千切られたメモを入れたクリアファイルも、ノートPCと一緒にカバンに仕舞う。こんなもの、持っていてもしょうがないけれど、ここに置いていくわけにもいかないからね。
「…………あれ?」
カバンの口を開いて中を覗いたら、大変なことに気づいた。
「今度はノートがなくなってる!」
「「ええっ!?」」
後ろにいた瑠衣と乃々美が、わたしの叫びに驚いて声を上げた。
「そのノートって、普段使ってるやつ? ヤバいじゃん、これも盗まれたとか?」
「早く建物内を探しましょう、鈴原さん!」
「うわぁ、メモに続いて今度はノートまで……!」
「落ち着け、三人とも」
この非常事態にわたしと瑠衣と乃々美が慌てふためいているところに、蘭子は極めて冷静に告げる。
「峯田先生からの課題をノートに書いた後、ノートごと先生に預けて審査してもらったのを忘れたのか」
「あっ……」
忘れていました。わたしがマス部の活動で主に使っているノートだと知って、峯田先生がもう少し見てみたいと言うので、そのまま預けっぱなしにしていたのだった。発表の緊張と混乱で、完全に失念していたよ……。
というわけで、お騒がせしました。
* * *
閉会の挨拶の前に講堂を出た峯田先生は、ラウンジで誰かと和やかに会話していた。
「へぇー……一時間ちょっとでここまで見つけられるとはね。面白いですね、この子」
「たぶん及川さんたちの助けももらっていると思うけど」
「でしょうね。見るからに三人分の異なる筆跡で書かれているし。初心者ならではの計算の苦労が滲み出ていて、どれがその子の文字なのかすぐに分かるわ」
「本当ね」
テーブルの上で開いたノートを見ながら、誰かと談笑している峯田先生を、主催者の挨拶が終わってすぐに探し始めたわたし達はようやく見つけた。発表者と関係者だけが首から下げるネームプレートは、閉会後に受付で返却している。
「あっ、ここにいらしたんですね! すみません、わたしのノート預けっぱなしにしてしまって……あれ?」
「あら」
「おやおや」
峯田先生と同席していた見知らぬ女性に気づいて、わたしは足を止めた。一緒についてきた杏里と蘭子は、この女性を知っているようで、思いがけない登場に目を丸くした。
「愛鐘先輩!」
「よっ」軽快に手を挙げて答える女性。「しばらくぶりだね、後輩たちよ」
「本当にしばらくぶりですね……」
この二人の先輩ということは、この新品のスーツを美しく着こなしている女性も、マス部のOGなのだろうか。無言で首をかしげているわたしに気づいて、杏里が紹介する。
「茉莉ちゃん、この人は元杉愛鐘さん。わたしと蘭子ちゃんの二学年上の先輩で、マス部の部員だった人だよ」
「ああ、やっぱり……初めまして、鈴原茉莉です」
「ほお……なるほど、君か」
愛鐘さんは顎に手を添えて、品定めするようにわたしをじっくりと見て言った。なんだろう、わたしの顔に何かついているだろうか?
「杏里、次はこのかわいい後輩を食べるのかい?」
「食べっ……!?」
「ぶふっ」蘭子が盛大に吹き出して笑う。
「食べませんよ、失礼な!」
杏里は真っ赤になって愛鐘さんに抗議する。一瞬、杏里がわたしの頭を齧るところを想像してしまったが、たぶんそういうことではないのだろう。杏里が無類のかわいい女の子好きということを踏まえれば、どことなく見当がつくというものだ。
「あははっ、冗談だよ。真っ赤になる杏里は相変わらずかわいいな」
「愛鐘先輩も相変わらず人をからかって遊ぶのが好きですね……」
なるほど、杏里の嗜好を知った上での冗談だったか。やはりマス部に在籍していただけあって、この人もなかなかの変人らしい。そして確かに、羞恥と不機嫌で頬を膨らませる杏里はかわいい。
「杏里先輩たちの二学年上ってことは、去年卒業されたんですね。スーツ姿ですけど、もう社会人なんですか?」
「いや、私はまだ現役の大学生だよ。一年生。入学してすぐ、先輩たちが設立した学内カンパニーに入って、今日は営業のついでに峯田先生を送迎しに来ているから、こういう恰好ってわけ」
「学内カンパニー……」
「大学や専門学校の支援を受けて、学生や教職員が中心になって設立する会社のことだな」と、蘭子が説明する。「愛鐘先輩はどういう会社に入ったんですか」
「パズル感覚で数学を学べるアプリを開発する会社だよ。設立して間もないから、まだ設計段階だけどね」
「いいですね、そういうの。学校とか塾に配布したりするんですか?」
「いいや、そういう頒布は考えていないかな。あくまでこれは、遊び感覚で数学に親しんでもらうのが目的だから、勉強の一環としてじゃなく、普段の生活の中でゲームみたいに遊ぶという使い方を想定しているの」
「なるほど……わたしが普段マス部でやっている事が、そのままゲームになったような感じですか」
「君が普段どんな活動をしているかは知らないけど、たぶんそうだね」
マス部は基本的に、研究という看板を掲げながら、実態は数学を絡めて遊んでいるだけなので、遊び感覚で数学を学ぶという意味では近いといえる。確かに愛鐘さんは今のマス部を知らないが、たぶんわたしが入部する前から、マス部は伝統的にそういう部活だから、想像に難くないのだろう。
「ところで、なんで営業のついでに峯田先生の送迎を……?」
「恩師でもある峯田先生にぜひ、設計のアドバイスを乞いつつ、β版のテストプレイと、元数学教師のコネクションを駆使してアプリの存在の周知徹底を図ることを、お約束してもらおうと……」
「あ、要するに営業の手伝いをする見返りなんですね」
「後輩ちゃんの察しが早すぎて草ww」
笑いの沸点がアルコール並みに低いな。こういうざっくばらんな所もまたマス部OGらしい。巻き込まれた峯田先生は呆れて肩を竦めているけど。
「あ、そうだ。茉莉ちゃんだっけ、あなたのノート、私も見させてもらったよ」
「えっ、愛鐘さんも?」
「峯田先生がマス部の新入生に、フィボナッチ数に関する課題を出したって聞いたから、私も気になっちゃってね」
「そうそう」杏里が思い出したように言う。「さっき話した、マス部でフィボナッチ数列を研究していた卒業生が、この愛鐘先輩なんだよ」
「ああ、それでか……」
「フィボナッチ数は、制作中のアプリでも題材にする予定だし、私が三年間、マス部でがっつり研究したテーマだから、やっぱり思い入れは一入なんだよね」
アルバムでも読み返して懐かしさに浸るように、愛鐘さんはわたしのノートを見つめる。なんか、返してもらいにくくなったな……。
「そういえば、このノート見ていて気になった箇所があるんだけど……」
「はい?」
「最初の方にある、フィボナッチ数の性質を羅列したところ。筆跡が違うけど、これは蘭子と杏里のどちらかが書いたの?」
「ああ、そうです。フィボナッチ数の面白い性質を探す前に、先輩方の持っている知識を共有しておこうと思って。ちなみに書いたのは蘭子先輩です」
わたしがそう言って蘭子に手を差し向けると、「私が書きました」と言うみたいに蘭子は控えめに手を挙げる。
「ふぅん……後半の二つは証明が書かれていないけど、必要なかったから?」
「そうですね」蘭子が答える。「研究の過程で使う必要に迫られたら、その時に証明を示すつもりでいたので」
「あれ? 式②は実際に使う直前になって、証明を忘れていたと気づいていませんでした?」
「そうだっけ?」すっとぼける蘭子。
「へぇ~……そうなんだぁ~……うへへ」
「!?」
突如、愛鐘さんは大好物の獲物を見つけた獣みたいに、ニヤニヤと笑いだした。さっきまでの大人びた女性の雰囲気は、一瞬で霧消した。あれ、わたしのノート、この人に食べられそうになっている……?
「そっかぁ、じゃあまだ後輩ちゃんは、こっちの方の証明は知らないままなのかぁ……そうかそうか、うっへっへ」
「何ですか、この気色悪い笑いは」
「愛鐘先輩、楽しいことや面白いことを見つけると、こんな感じで笑うんだよ。わたしも最初は何事かと思ったなぁ」
杏里がそう言うってことは、マス部で一緒に活動していた一年間で何度も、この気色悪い笑いを見てきて慣れたのだろう。さすが元マス部、属性を盛り過ぎだ。
うぅむ……数学好きが数学絡みで面白いことを見つけて、こんな笑みを見せるなら、学内カンパニーでのアプリ開発の過程で、様々な数学の題材に触れるたびに、同様の反応を見せているのかもしれない。同僚の人たちは、何度困惑させられたことだろうか。
ところで、彼女は何を面白がってニヤニヤしているのだろう。
「で、何がそんなに面白いんですか」
「その前に」愛鐘さんはニヤニヤを止めた。「茉莉ちゃん、君ならここにある四つ目の式を、どう証明する?」
「……普通に数学的帰納法を使えばいいのでは?」
「それはつまらん」
愛鐘さんはスンと無表情になってそう言った。表情の落差が激しいな、この人。
「え?」
「確かに数学的帰納法は、自然数に関する性質を証明するには、汎用性の高い武器になる。だけどね……」愛鐘さんは渋い顔になって言う。「最初に答えが分かっていないと、全く役に立たないのよ!」
「あー……」
なるほど、彼女の言いたいことは理解できる。数学的帰納法は本来、与えられた数式が正しいことを示すためのものだ。逆にいえば、ゼロから数式を編み出すときは役に立たない。
愛鐘さんは、わたしのノートにさらさらと数式を書き始める。
「もちろん方法は何でもいいんだけど、私はこういうとき、発見的に式を導くやり方の方が好きなのよね。例えばこの場合は……」
「わたしのノート……」
「こんなふうに、フィボナッチ数の定義を利用して、似た形の級数(規則性のある足し算)を作ることで示せるの」
「おおっ、鮮やか……!」
まるでパズルのような解き方に、思わず感動を覚えたわたしに、蘭子と杏里が言う。
「級数の総和を計算する時、少しずらしたり順番を入れ替えたりしてから縦に足し合わせて、総和が満たす関係式を導くのは、よく知られた常套手段だな」
「尤も、有限の級数にしか使えない方法なんだけどね……」
「無限の足し算では使えないんですか?」
「うーん、使い物にならないってわけでもないんだけど……」
「絶対収束とかの条件を確かめないと、安心して使えないのよね……」
難しい顔になる二人。よく分からないが、とりあえず無限を甘く見てはいけない、ということは分かった。
「相変わらず二人は、大学レベルの数学をさらっと使うんだから……ちなみに、F(m-n)をほぐす式も、このノートに書いてある要領で発見的に導けるけど、式②も同じようにして導けるよ。証明は数学的帰納法に頼った方がいいけどね」
※ここではmの数値を変化させていますが、nの数値を変化させて、F(m)とF(m+1)の組み合わせで表せば、別の形の式も導かれます。
「なるほど……数式をゼロから発見する手法にも、色々あるんですね。こういう方法を思いつける人って、ちょっと尊敬しちゃいますね」
「うへへ」愛鐘さんはまた気色悪く笑って身をよじりだした。「この初々しい反応……たまらんわぁ」
「新手の変態ですか?」
尊敬する気持ちが一瞬で吹き飛んだ。どうやら彼女は、初心者のわたしが新しい概念に触れたときの反応を楽しんでいるらしい。楽しみ方がちょっとズレているけど。
そんでもって、すぐ元に戻る愛鐘さん。
「それじゃあ茉莉ちゃん。ここにある三つ目の性質は、どうやって証明する?」
mがnの倍数 ⇔ F(m)がF(n)の倍数
「うーん……数学的帰納法では示せそうにないですけど」
「さて、どうかな。同じ意味だけど、こんな具合に命題を書き換えたら、どう?」
F(kn)はF(n)の倍数である
「そっか、これならkに関する数学的帰納法でいけるかもしれませんね!」
「方針が見えたなら、早速確認してみて」
「分かりました、やってみます!」
わたしはテーブルの上のノートに食いつくように向かって、頭の中に浮かんだ方針に沿って証明を始めた。解けるかもしれない、という確かな感触を得られたから、じっとしてはいられない。
「うへへ、熱心に問題と向き合う新人ちゃん……たまらん」
「茉莉のやつ、完全に焚き付けられているな」
「普段のわたし達も人のこと言えないけどね……」
何やら先輩方とOGの人が騒がしいが、わたしは気にせず計算を続けた。とはいえ、式変形はさほど多くなくて、数学的帰納法による論証がメインになったけど。
「できました。式②を上手く使ったら、こんな簡単に証明できるんですね」
ちなみに、F(kn)を同じ要領で変形することで、F(n)の倍数であると示すこともできます。その際には、mod F(n)の合同式を使うとやりやすくなります。
「やるじゃない、茉莉ちゃん。学内カンパニーの同僚にも前に、大体同じ流れでこの問題を出したことがあるけど、そもそも数学的帰納法の使い方もまるでなってなくて、話にならなかったわ」
「その程度の数学力でアプリ開発なんてできるのか?」
ため息をつく愛鐘さんに、蘭子は言う。アプリ開発のことはよく知らないけど、高校レベルの数学はできた方がいいとは聞く。もしかしたら開発は難航するかもしれない。少し楽しみにしていたのに……。
しかし、愛鐘さんは楽観的だった。
「まあ、そこは追々何とかするわよ。うちの大学はつばき学園みたいな名門じゃないし、昨今の大学生の数学力が知れたものだっていうのは重々承知してるもの。あはは」
「平然と同僚を悪しざまに言いましたよ、この人……しかも全国の大学生も巻き込んで」
「大学生の数学力の低さを問題視する人はいるけど、別に統計的な根拠が充分にあるわけでもないのにねぇ」
ずっと黙って様子を見ていた峯田先生も、肩をすくめながら呆れて言った。
「峯田先生、私はあくまで、数学への苦手意識や忌避感を、遊びを通して和らげることを狙っているんですよ。数学のできない大学生は、身近にいる絶好のモルモッ……テストケースになりますから、むしろ私は大歓迎ですけどね」
「そんな理由で歓迎される学生はさぞ複雑な心境でしょうねぇ……」
破顔して身も蓋もないことを口走る愛鐘さんを、峯田先生は真顔で見つめ返す。愛鐘さんは上手く誤魔化したつもりかもしれないが、学生を実験台として扱うという目論見を、まるで隠せていない。
「そういうわけだから、アプリのβ版が完成した暁には、茉莉ちゃんもぜひモル……モニターになってくれると嬉しいわ」
「まずはその破れかけのオブラートを何とかしてから出直してください」
わたしを実験台にするってことは、わたしの数学力を低く見積もっているということだ。残念ながら事実だけど、こんな形で人から指摘されるのは業腹だ。第一、そんな理由でモニターに選ばれるなら、今のわたしには必要ない。
「それに、わたしはマス部で先輩方と一緒に活動しているおかげで、数学への苦手意識も忌避感もなく、楽しく学べています」
「「!」」
「マス部を超えて充実した内容に仕上げてから、わたしに声をかけてくださいね」
瞠目している蘭子と杏里の前で、わたしはニヤリと笑って愛鐘さんに告げた。この大胆な挑発に、愛鐘さんも不敵に笑ってみせる。その笑顔に気色悪さは全くなかった。
「へぇ〜、なるほど、確かに峯田先生の言うとおり、面白い新人ちゃんだね。これは、私も一層気合いを入れて、アプリの設計に取り組まないといけないな」
「期待してますよ? 割と本気で」
「ええ、マス部OGの実力をしかと見るがいいわ」
「なんかあの二人、気が合ってる……?」
「…………」
わたしと愛鐘さんの、互いをけしかけたり煽ったりという変なやり取りを、杏里は首をかしげて見ていた。相性がいいかは分からないけど、わたしはアプリの完成を心待ちにしていると同時に、愛鐘さんの舐めた態度を見返してやりたい気持ちもあり、愛鐘さんはその両方を受け止めている。後輩の期待には応えたいし、不器用に歯向かう姿勢を面白がっている。何だか、思わぬところで歯車がカッチリと嵌った感じだ。
そんなわたし達を、蘭子は神妙な顔で見つめ、わたしに聞こえない声で呟く。
「似ているからかもしれないな、あの人と……」
「…………!」
その言葉の意味を、杏里はすぐに察した。二人には思い当たる人物が一人いる。それは二人が、つばき学園高校のマス部の存在を知る、きっかけを与えた人物だった。
そんな事など露知らぬわたしは、愛鐘さんから思いがけないことを告げられた。
「そうだ、茉莉ちゃん。せっかくここまでやったんだし、ここからさらにフィボナッチ数の不思議な性質を紹介するから、ぜひ宿題として証明してごらん」
本当にマス部の先輩たちって、別れ際に宿題を出すのが好きだな……しかもほとんどがその場の思いつきだし。わたしはもう慣れたけど、一つ不安材料がある。
「……解けなかったら罰ゲームとかないですよね?」
「えっ? 別にないけど……何、蘭子たちは罰ゲームなんてつけるの?」
「いえ、あちらの二人ではなく、マス部によく入り浸っている在校生のOGが前に……」
「あぁー……」
愛鐘さんはすぐに誰かを思い浮かべたようだ。あの人は二留しているので、現役の頃は愛鐘さんも一緒に活動していたはずだから、当然知っている。宿題に罰ゲームをつけてもおかしくない人だということも……。
とりあえず、解けなくても罰ゲームはないみたいなので、お近づきの印に宿題を受け取ることにした。毎度のことながら、提出期限とかは特にないし、次にいつ会えるかも分からないので、確認は蘭子または杏里に任されることとなった。数学好きが使う“または”なので、二人同時に確認するのもありなのだろう。このことを指摘したら、愛鐘さんはまた「うへへ」と気色悪く笑った。
その後、荒川先生が他の学校の先生たちとの挨拶回りを終えて戻ってきたので、全員が帰ることとなった。瑠衣と乃々美は電車とバスで来たけど、マス部メンバーは荒川先生の車で来ているので、帰りも一緒じゃないといけないのだ。
こうして、色々あった初めての研究発表会は、幕を閉じた。……まだ審査の結果は出ていないけどね。
* * *
瑠衣と乃々美は、一足先に会場を後にして、電車で帰路についていた。まだ夕方より前だが、車内は混雑し始めている。二人は並んで座席についた。
「いやあ、無事に終わってよかったねぇ」
「そうですね。鈴原さん、初めてとは思えないほど堂々としていました」
「先輩たちにみっちり鍛えられたんだろうなぁ。まあ、無事に発表できたからいいけど、やっぱりわたし、茉莉の発表メモが破り捨てられたのは、今でも腹に据えかねてる。茉莉が犯人探しをしないなら、わたしから言うことは特にないけどさ」
「…………」
静かに憤慨する瑠衣を、乃々美はどこか不思議そうに見ていた。テニス部での付き合いしかないが、普段はクールな立ち居振る舞いの瑠衣が、友人のために怒りを露わにするところを、乃々美は見たことがなかった。
「越谷さんにとって、鈴原さんはそんなに特別な存在なんですか?」
「んー、学校の友達の中では、たぶん、一緒にいて一番居心地がいいんだろうな。茉莉だけはどういうわけか、わたしの外面に靡かないし、そのくせ中身を熟知してもなお一緒にいてくれるし……まあ、あいつは否定するだろうけど、わたしの変なもの好きセンサーに引っかかるくらいには、面白くて飽きない存在だよ」
「それ、見ようによっては悪口にも見えません?」
「わたしは全く悪口のつもりないけどね。だからまあ、茉莉が変に傷ついて、しょぼくれた顔をされると、わたしが面白くないから……茉莉にそういう顔をさせようとした奴が、気に入らないってことだよ」
「……じゃあ、越谷さんには、話しておいた方がいいかも、ですね」
「ん?」
「越谷さん、お願いがあります。マス部の御三方のためにも、ぜひやってほしいのです」
そうして乃々美は、自分だけが知る心当たりを打ち明けて、瑠衣にある頼み事をした。それは、鈴原茉莉を友人として大切にしている、瑠衣にしか頼めないことだった。
* * *
荒川先生の車でつばき学園高校まで戻ってきたわたし達マス部メンバーは、部室に寄らずに解散することとなった。ちなみに峯田先生は、愛鐘さんの運転する車で自宅まで送られた。免許を取得して一年も経っていないので、不安がないといえば嘘になると、峯田先生はこぼしていた。
校門の前で解散した後、荒川先生だけは職員室に寄るため校内へ、そして蘭子は他に寄りたい所があるらしく別行動となり、久々にわたしと杏里、二人だけの下校である。
杏里と二人きりは嬉しいが、発表会のお疲れ様会の一つもやらないというのは、ちょっと寂しい。そう言ったら杏里はクスクスと笑った。
「うふふ、それはまた今度でもいいんじゃない? というか、発表会が終わったら参加者たちで懇親会をやることになってたけど、愛鐘先輩に巻き込まれて、結局参加する機会を逃しちゃったからね……」
「お疲れ様会の代わりになるはずでしたのに……まあ、蘭子先輩とかはどのみち参加しなかったかな。わたしも数学の研究しかしてなかったから、他の参加者と話を合わせられそうになかったし……」
「とにもかくにも、お疲れ様、茉莉ちゃん」
そう言って、杏里は横を歩くわたしの肩をぐっと引き寄せて、片手だけでわたしを抱きしめた。わたしは一瞬だけ驚いて、急激に心臓の拍動が速くなる。
夏服だから、杏里の体温も、杏里の柔肌も、杏里のふくよかな胸も、杏里の優しい声色も、ぜんぶを直に感じてしまう。こんなスキンシップ、今まで何度もあって、もう慣れたはずなのに。
「初めての研究発表会、色々トラブルもあったけど、立派に務めを果たしたね」
「…………」
「茉莉ちゃん?」
どうしよう。心臓がうるさくて、頭の中もぐるぐると乱れていて、杏里の呼びかけに上手く応じられない。無言のままだと変に思われるから、何か言わないと……!
「……えっ、えっと」
大混乱の脳みそで必死に絞り出した言葉を、わたしは何とか口にした。
「そ、そういえば、愛鐘さんから出された宿題……どう考えたらいいですかね」
たぶん真っ赤になっている顔を見られないように、わたしは明後日の方を向きながらそう言って、すっと杏里と距離を置いた。まあその、歩きにくいからね。尤も、肩が触れるか触れないかという程度しか離れていないけど。
わたしの問いかけに、杏里は破顔した。
「もう今から考えるんだ? 茉莉ちゃん、熱心だねぇ」
「熱心というか、今は別のことを考えたいというか……ごにょごにょ」
後半は杏里に聞こえないよう小声で呟く。
「確か、フィボナッチ数同士の、最大公約数の話だったね」
「はい……自然数mとnの最大公約数をgとおくと、m番目のフィボナッチ数とn番目のフィボナッチ数の最大公約数は、ちょうどg番目のフィボナッチ数になるんですよね」
「実はわたしも、そんな性質があるなんて知らなかったのよね」
「そうなんですか? なんか意外……」
「でもなんか、フィボナッチ数だったらそんな性質があっても不思議じゃない、って思えるよね」
それは言えてる……今日だけでフィボナッチ数の不思議な性質にいくつも触れたから、もう今さらどんな秘密が現れても驚かない自分がいる。しかも、研究発表に来ていたはずなのに、会場の外では無関係なフィボナッチ数の話ばかりしていたような。
「だからわたしも、どうやってそのことを証明するかは知らないんだけど……たぶん、ああすれば解けるんじゃないか、っていう予想はできたかな」
何だと……?
蘭子もそうだけど、マス部の先輩たちって、さらっと凄いことを言うよね。証明の仕方を正確には知らないのに、たぶんこれだという方針を瞬時に思いつくのだから、常人には理解できない頭の構造をしている……。
「だったら杏里先輩、何かヒントをいただけませんか? 一つだけでいいので!」
「ヒントねぇ……それで上手くいくかどうかは保証しないよ?」
「お願いしますぅ〜……」
「茉莉ちゃん、その上目遣いはどこで覚えたの……」
飼い主に甘える子犬のように頼んだら、杏里は素直に教えてくれた。わーい。……決して人としての尊厳を捨てたわけじゃないよ。
「そうだなぁ……わたしだったら、互除法を使って計算する所から始めるかな」
「互除法っていうと、ユークリッドの……」
「そう、最大公約数を計算する伝統的な手法。前に教えたことあるよね?」
「分かりました! 何とかやってみます!」
すでに解法の筋書きが見えている杏里がくれたヒントだから、きっと大きな手がかりになるはず。わたしでも解けるかもしれないとなれば、俄然やる気が出るというものだ。
「このヒントで合っているかは分からないよ? わたしもちゃんと確かめてないし」
「大丈夫ですよ!」
「!」
「わたし、先輩方のおっしゃることなら信じられます。お二人のおかげで、発表会をやり遂げられたんですから!」
* * *
鈴原茉莉は、屈託を一切知らない笑顔をわたしに向けて、そう言い切った。
本当に嬉しい。かわいがってきた後輩にそう言われると、大切なことをたくさん教えた甲斐がある。その純粋な眼差しは優しくて、輝いていて、いじらしいほど可愛い。
だから、苦しい。
「もう……茉莉ちゃんの努力の賜物でしょ」
わたしは胸の痛みを隠すように、精一杯笑って茉莉を労った。これは謙遜じゃなく、紛れもない本心だった。
だってわたしは……わたしだけは、茉莉が絶望の淵に立たされたとき、何も力になれなかった。今日、茉莉の心を救ったのは、わたしの大好きなあの子だけだった。
それなのに、どうして茉莉は、わたしにまでそんな眼差しを向けるのだろう。そんな資格、わたしにはないはずなのに。
ああ……嫌だな。
可愛い後輩からの好意を、素直に受け止められないなんて。
* * *
校門の前で、茉莉と杏里の二人と別れた後、私はある場所へ向かった。
この街で最も規模の大きい総合病院、志山記念病院。ここには、私と杏里をつばき学園高校のマス部へと導いた、共通の恩人がいる。最近はマス部での活動が何だか楽しくて、ここにも来ていなかった。
……忙しくて、ではない。楽しいから、ここに来なかった。今までは私自身に用事がなければ、あの人に会うためにこの病院へ来ることもなかった。会うためだけに来るのは今回が初めてだ。
「これも、病は気から……ってやつかな」
手に持った少し古いノートを口元に翳し、わたしは独り言をこぼす。ちなみにこのノートは、お見舞いもしてこなかった薄情な私からの、謝罪の品だ。
受付で聞いたところ、あの人は今も同じ病室で眠っているという。それはつまり、ここで再び会った時から、あの人の病状があまり快方に向かっていないということだ。そんなことも知らなかった私は、なるほど薄情かもしれない。
六〇七号室のドアをノックして、横に開くと、ピッ、ピッと規則正しく鳴り響く電子音が聞こえてくる。この病室に一台しかないベッドには、酸素マスクを装着し、脳波と心拍を計測する装置と繋がれた、一人の女性が眠っている。
「……お久しぶりです。巴さん」
巴留実。マス部の、私たちの先輩になるはずだったひと。
今は眠り姫となっている彼女に、私はその名を呼びかけた。聞こえてなどいないと、分かっていても。
なんか、まだしばらくシリアスの割合が高めになりそうです。数学トークをする時は割とコメディ寄りになるのですが……。
さて、これまでフィボナッチ数の不思議な性質をたくさん見てきましたが、『フィボナッチ数同士の最大公約数が、“最大公約数”番目のフィボナッチ数になる』ことは、どうやって示せばいいでしょう? 有名なユークリッドの互除法を使うと証明できます。この後のafter Day.19で、茉莉が証明に挑みますので、その前に皆さんも挑戦してみてください。




