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Day. 19 Publish or Perish(前編)

なんかしばらく、フィボナッチ数の話を続けそうです。本当に、不思議がありすぎる。

そして今回は、初の前後編です。茉莉の初めての研究発表会で、何かが起きます。刮目してご覧あれ。


 本日はお日柄もよく、とはよく言ったもので、わたしにとっての一大イベントが開催される今日、8月12日は、幸いにも天候に恵まれた。まあ、屋内でのイベントだから天気はあまり関係ないけど、雨で気分が下がるよりはいいだろう。

 そのイベント……全国の学生が集う科学研究発表会は、わたし達の住む町から車で一時間ほどの場所にある、県民文化会館の講堂で実施される。以前は県外のもっと大きな施設に、それこそ全国から学生が集まって発表会をしていたが、参加者が増えた今は、各都道府県ごとの開催地をオンラインで繋いで、大規模なリモート会議形式でやっている。全国の学生の発表を審査するため、都道府県ごとに発表する日にちはずらされていて、その日に発表がない都道府県では、他の場所で行なわれている発表を自由に視聴することができる。要はパブリックビューイングというわけだ。

 今日の午前中は別の県で発表が行なわれていて、わたしを含め、この県内から参加する学生たちの発表は、午後からということになっている。でも、すでにほとんどのグループが会場に足を運んで、別の県で行なわれている発表を、講堂でリモート視聴しているみたいだ。やはりみんな、他のグループの発表も気になるらしい。

 ただ、蘭子と杏里は例外のようだ。


「先輩方は見ていかないんですか? 他の会場の発表」

「発表の模様は録画されて、後でユーチューブや公式サイトでアーカイブ視聴ができるからな、今は見なくていいでしょ」

「審査員は最終日までに講評と審査結果をまとめないといけないから、必ず見るみたいだけど」

「それに、これから発表を控えている人に、他の人の発表を呑気に見ている余裕なんてないからね。特に初参加は」

「おっしゃる通りです……」


 確かに、今のわたしにそんな余裕はない。ひどい緊張とプレッシャーで、発表内容が記憶からこぼれそうになるのを、どうにか抑えようと必死で、とても他の人の発表を気にしてはいられない。

 会場の建物に入ると、制服の中学生からスーツの大学生まで、実に様々な学年の人たちが集まっていて、誰もが真剣な表情で資料を読み込んだり先生らしき大人と話したりしている。なんだか、会場の隅から隅まで緊張感で満ちているみたいだ。

 引率として同行している顧問の荒川先生が、講堂の関係者専用通路の前にある受付で発表参加の申請をして、四人分の参加証を受け取った。この参加証はネームプレート代わりになるので、終わるまで首から下げておくように、とのことだ。自分の名前と学校名が記載されたプレートを身に付けたら、本当に、いよいよ本番なのだという意識が強くなる。


「気が引き締まりますね……!」

「そんなに引き締めなくていいぞ? 入賞がステータスっていうほど立派な大会でもないし」

「ちょっとちょっと。本番の会場でそれを言います?」


 今年は参加せずにわたしのサポートに徹すると決めているからなのか、蘭子からは緊張感の欠片も感じない。こっちは初めての研究発表で全く落ち着けないと言うのに。


「何かしら活動の成果を出して報告するのが目的で参加しているわけだから、気負いすぎる必要もないってことだよ。まあ、ついでに賞の一つでもとれたら儲けもの、とは思っているけどね」

「あくまでついでですか、そうですか」


 この人に果たして、数学の探究欲以外の欲があるのかと疑いたくなるほど、こざっぱりした物言いである。おかげで気分は少し軽くなったけど、こんなんでいいのかなぁ……他の参加者は結構真剣に臨もうとしているみたいだけど。


「あらあら、後輩のひのき舞台の手伝いに徹すると決め込んだ人は、この場に似合わないほど気楽ね」

「うぐっ」


 蘭子の後方から、しゃがれているのによく通る声で話しかけてくる人がいた。その途端に蘭子の肩がビクッと跳ね上がる。


「相変わらず鋭い寸鉄をぶち込んできますね……峯田先生」

「あら、これでもだいぶなまくらになったと思うのだけど?」


 しわだらけの顔に柔和な笑みを浮かべながら、峯田万里枝が杖を突いて歩み寄ってきた。足腰が不自由だと察してか、荒川先生が峯田先生の背中に手を添えている。

 この人が、マス部の先代の顧問……蘭子は苦手意識を隠すことなく顔をしかめているが、この物腰の柔らかさを見る限り、蘭子の話に聞くような厳しい性格の人とは思えない。言葉には結構トゲがあるけど。


「おはようございます、峯田先生。昨年ぶりですね」

「ええ、久しぶりね、軽部さん。貴女も今日は後輩さんのサポート?」

「わたしや蘭子ちゃんと違って、マス部に入ってから本格的に数学に触れた人なので、初めての研究発表会は経験者のアドバイスが必要だと思いましたから……」

「あらあら、荒川先生から聞いてはいたけど、本当に今日は全くの初心者だけが壇上に立つのね」

「高校生の早いうちに、こういう経験をしておくのも勉強になりますし」

「そういう貴女たちだって、研究発表は去年が初めてだったじゃない。いつの間に先輩みたいな振る舞いができるようになったの?」

「えっと、一応、学年と経験はちょっとだけ先輩なので……」


 あの杏里ですらタジタジになっている……マス部で年上の関係者というと、荒川先生と沼倉先輩くらいしか知らないけど、どっちも基本的に舐められているから、蘭子も杏里もこんなふうに、居心地が悪そうになることは滅多にない。

 なんというか、伝説の教師なんて人がいるとしたら、こんな感じなのだろうか。呆然と二人の会話を聞いていたわたしに、蘭子がこっそり小声で話しかけてくる。


「私たちの先輩いわく、峯田先生は細かい所によく気づいて、自明に思えることですら容赦なく指摘してくるから、たまに心が折れそうになるけど、それで助けられているから何も言い返せない、だそうだ」

「数学の指導者としては適任、みたいですね……」

「あらあら、私としては、臆せず言い返してくれる方が、むしろ指導のし甲斐があって嬉しいけど?」


 聞こえてた……定年退職されているくらいだし、それなりにお年を召しているはずだけど、耳は全く遠くないらしい。

 そんな峯田先生の、柔らかいのに奥底の鋭い視線が、ついにわたしに向く。


「それで……貴女が、今日マス部の代表として壇上に立つ、新入生の鈴原茉莉さんね」

「あっ、はい! お初にお目にかかります、鈴原茉莉です!」


 まるで伝説の教師を目の前にしている気分だったから、肩に力が入ってしまう。


「そんなに畏まらなくていいのよ? 初めての研究発表だもの、緊張しなくていいとは言わないわ。その緊張も含めて、色んなことを楽しめばいいのよ。色んなことを経験して知っていく過程を存分に楽しむのが、研究発表よ」

「峯田先生……」

「尤も、内容が中途半端だったり検証不足が多すぎたりしていたら、楽しみにしている多くの観客をがっかりさせることになるけどね」

「わ、分かってます……」


 ありがたい励ましの言葉をもらって、ちょっと感動しかけていたのに、急ハンドルで皮肉をぶつけられた。おかげでさっきの緊張が急にぶり返して、胃がキリキリと痛み出すわたし……。


「な? 本当に容赦ないだろ?」


 蘭子は他人事のように言った。自分だって厳しくて身も蓋もないことを普段からバンバン言うくせに……棚上げもいいとこ。


「大丈夫だよ、茉莉ちゃん。蘭子ちゃんが峯田先生からの厳しい質問をたくさん想定して、あれだけねちねちしっかりと推敲を重ねたんだから、がっかりさせることはきっとないよ」

「ちょっ、杏里!?」

「あら、いい心がけね」峯田先生がにっこりと笑う。「質問対策は理解を深める一助になるから、たくさんやって損はないわ。及川さんが私のねちねちとした質問をどれだけ想定できたのか、それも楽しみに発表を見ることにするわ」

「ほらこうなるから質問対策のことは先生に言ってほしくなかったのに~!」


 それは事前に言ってほしかった……杏里はたぶん、峯田先生の厳しい視線がわたしにばかり集中しないように、蘭子を巻き添えにしたのだろうけど。それに、質問対策のことは恐らく、荒川先生を通じてとっくに峯田先生の耳にも入っていたと思う。


「ところで、鈴原さんはどうしてマス部に? 入る前から数学に興味があったのかしら」

「いやー、完全に成り行きですね……数学は特に苦手なわけじゃなかったですけど、マス部の数学は授業でやるやつと全然違うから、最初はついていけるか不安で仕方なかったですよ。教科書がほとんど役に立たないから……」

「ということは、及川さんたちがスカウトしたってこと?」

「ええ」蘭子が力強く答える。「入学初日に少し話した程度ですが、それでも非常に可能性を感じ取ったもので」

「わたしを勧誘した時も同じことを言っていましたけど、どういうところに可能性を感じたのか、未だに教えてくれませんよね」

「万が一にも私の見込みが外れたら恥ずかしいからな」

「えっ、蘭子先輩に恥ずかしいという感情があったんですか」

「君は私を何だと思って……」


 蘭子は心外そうに眉をひそめた。てっきりわたしに感じた可能性に、強い自信を持っていると思っていたのだが。わたしと違って。


「じゃあ本当に鈴原さんは、専門的な数学に関して初心者なのね」

「はい……でも先輩たちの数学トークは結構面白いですし、いつの間にかわたしも引き込まれていますね。たまについていけなくなりますけど」

「あらあら」

「わたしはまだ、マス部の一員だと胸を張れるほどじゃないですけど、以前と比べたら、数学への向き合い方が身についてきたと思います。何しろ、先輩たちが唐突に数学の話を始めても、もう驚かなくなりましたからね。ははは」

「なるほど、しっかりマス部に染まってしまったようね……」


 峯田先生は呆れて肩をすくめた。伝統的に数学好きの変人が集まるマス部で、唐突な数学トークは日常茶飯事だと、峯田先生もよく知っていて、恐らくそのたびにこんな顔をしていたのだろう。たびたび巻き込まれているわたしは、乾いた笑い声しか出せないが。


「先日はわたしへの誕生日プレゼントにかこつけて、フィボナッチ数列や数学パズルの話を延々とやっていましたよ。わたしへのお祝いはそっちのけで」

「茉莉だってノリノリだったじゃないか」

「挑発的に問題を出すからですよ!」

「プレゼントにかこつけてって……及川さん、あなた何をこの子に贈ったのよ」


 峯田先生に冷めた視線を向けられて、蘭子は頬を引きつらせる。


「……なんで私が贈ったと?」

「数学に絡めたものを初心者にプレゼントするなんて、貴女が一番やりそうだから」


 さすが、長年数学好きの高校生を束ねてきただけあって、去年一度しか会っていないはずの蘭子たちの性向を、よく分かっているようで。


「蘭子ちゃん、並べ替えたら1マス分増えたり減ったりするジグソーパズルを作って、茉莉ちゃんにプレゼントしたんですよ」

「あぁ、三角形の傾きの誤差を利用した、有名なトリックね」

「設計に凝りすぎて、ピースの模様はただの一色ベタ塗りになっていました」

「なるほど、及川さんらしいけど、女の子への贈り物としては下の下ね」

「峯田先生まで!?」


 贈られた本人に続いて、実物を見ていない峯田先生にも不評を買って、蘭子は愕然とした。この先生はどうやら、数学に関しては厳しくても、蘭子のような数学至上主義というわけではないらしい。蘭子はそろそろ、自分の感覚が世間一般とズレていることを自覚した方がいいのでは。

 それにしても、杏里が例のインチキパズルの特徴を少し明かしただけで、すぐにトリックの中身に察しがつくのだから、さすがとしか言いようがない。現顧問の荒川先生はピンときていないというのに。


「トリックに使ったのは、隣接するフィボナッチ数かしら?」

「ご明察です、峯田先生」指をピンと立てる杏里。

「じゃあ、フィボナッチ数のあの性質についても、鈴原さんに説明したの? n番目のフィボナッチ数の2乗と、n-1番目とn+1番目の積の関係について」

「いえ、わたし達からは……でも、後で茉莉ちゃんが自力で気づいて、わたしに報告してくれたんですよ」

「えっ」


 杏里は身内を自慢するかのように、嬉しそうにわたしの両肩に手を置いて言った。また一段と距離の詰め方が極端になっているような……。


「きっかけをくれたのは姉ですけどね」

「定式化して証明はしたのかしら?」

「はい……数学的帰納法で」

「オーソドックスなやり方ね。でも自力で数の性質を見つけ出すのは、結構いい気分だったんじゃない?」

「そうですね……先輩方はすでにご存じだったみたいですけど、なんて言うんですかね、こう、セロトニンが一気に噴水のように溢れ出したような感じでした。一瞬でしたけど!」

「快楽物質ならドーパミンだよ。セロトニンはドーパミンを抑える精神安定物質」

「あっ、さようですか」


 全く逆の役割を持つ脳内物質と間違えた……前から思っていたけど、先輩たちって数学以外のことも結構詳しいんだよな。蘭子は以前に、水に溺れたときの対処法やメカニズムを説明していたし。

 で、その蘭子だが……。


「ところで……なんでさっきから蘭子先輩は不満そうなんですか」

「……そんな大事なことを、なんで私にだけ報告してくれなかったの。杏里だけずるい」

「変なところでふて腐れないでくださいよ」

「ドーパミンからノルアドレナリンが生成されているわね」


 ジト目で口を尖らせている蘭子はなかなかレアだけど、理由がしょうもない。別にどちらに報告しても同じことだと思っていたし、わたし自身、あの性質は大した発見じゃないと思ったから、二度も報告するのは面倒だったのだ。


「それにその後、連続する4つのフィボナッチ数でも試そうとしたんですけど、外側の積と内側の積の差を計算したら、連続する3つの場合と同じ式になって……それですっかり熱が引きましたから、改めて報告することでもないと思って」

「ふむ……うん、確かに一致するな。これはこれで面白い」


 まさかこの人、頭の中だけで式変形をやってのけたのか? 確かに複雑な変形ではなかったけど、頭の中だけでさらっと瞬時にできるものなのか。脳の作りが違いすぎる……。


「それで、貴女の研究はそこで止まってしまったの?」

「研究っていえるほど大したことはしてないですし、先輩方がとっくに知っていることなら、これ以上調べても……」

「もったいないわね」


 峯田先生は鋭い眼光をわたしに向けて、よく通る声で言い放った。杖を突いて背中を丸めたご年輩の方なのに、この迫力は何なのだ……?


「もったい、ない……?」

「及川さん」

「は、はい」


 力強い声で名前を呼ばれて、肩がビクッと跳ねる蘭子。


「現代数学の基本姿勢、何と教わったか覚えているかしら?」

「……論理による精密化と、数の使用を可能な限り減らす一般化です」

「うん、そのとおり。数学における一般化は、数式からいかに具体的な数値を取り除いて、文字に置き換えるかが重要になるわ。数の性質を探るのに、数を使わないのは皮肉な話だけどね。鈴原さん」

「はい……」

「私はフィボナッチ数のことをさほど研究していないけど、貴女が試して途中でやめた研究は、恐らくもっと深いところまで続いていると、私は思うわ」

「もっと深いところ……?」

「発表は午後からよね?」

「ええ、まあ……」

「だったら、お昼ご飯の時間までに、もっと深いところまで、フィボナッチ数の性質を探ってみて頂戴。そして、面白い事実を見つけ出して、ぜひ私にも報告してくれるかしら?」


 わたしは、蛇に睨まれた蛙だった。峯田先生の、見た者を捉えて離さない、そんな視線に絡め取られたわたしに、首を横に振ることなどできなかった。それくらい、有無を言わせぬ迫力が、この人の眼差しや言葉にはある。

 だけど、どうしよう……発表本番を目前にして、予想外の方向から課題を突きつけられた。ある意味、これまで先輩たちに出されたどの宿題よりも、厄介な課題であった。


  * * *


「まったく……厄介な問題を押しつけてくれたものだよ、あの人は」


 蘭子は腕を組んで憤慨している。

 峯田先生から無茶ぶりにも等しい課題を出されたわたし達は、会場内の休憩スペースに移動して、どう対処するか話し合うことにした。わたしと杏里はテーブル席に座っているが、蘭子はまだ立っている。

 発表参加者には別に控え室が用意されていて、発表に必要な荷物はそっちに置いているけれど、財布とかの貴重品だけは肌身離さず持っているように言われている。そういうわけでわたし達も、貴重品だけを持って、控え室ほどでなくても人が行き交う休憩スペースに来たのだが……。


「本当ならこの時間を使って、徹底的に最後の追い込みをかけてプレッシャーを与える予定だったのに、あの人のせいで狂ってしまった! 嫌がらせか!」

「徹底的に……プレッシャーを……?」

「昨日までに目一杯練習したし、あまり追い込みすぎるのもどうかと思うよ?」


 何度も言おう。この休憩スペースにも、控え室ほどではないが人が多く行き交っている。そんな所で蘭子は立ったまま、聞こえよがしに堂々と、後輩へのパワーハラスメントと思われてもおかしくない行動をとる予定だったと発言している。……やっぱりこの人、恥なんて感情とは無縁なのでは?

 さて、狂ってしまった蘭子の個人的な予定はともかく、今は峯田先生からの無茶ぶりをどうするか考えないといけない。峯田先生だって、わたしが数時間後に発表本番を控えていることは承知しているし、この短い時間で成果を出せる保証もないことだって分かっているはず。ただ……。


「ちなみに、この課題が時間内にできなかったら、何かあるんでしょうか? 峯田先生は特に何も言ってませんでしたが……」

「うーん、もう退職されているし、茉莉ちゃんにとって不都合なことはないと思うけど……」

「この先、会うたびに今日のことを持ち出してねちねち言ってくる可能性はあるぞ。本人の悪気なしに」

「それは地味に嫌ですね……」


 悪気のない嫌がらせほど、たちの悪いものはない。この状況では、課題を無視したりろくな成果を出さなかったりするのは、悪手にしかならないだろう。しかし、悪手以外の手を打とうとしても、能力的にそれができるかは話が別だ。


「とはいえ、今からお昼ご飯までに、フィボナッチ数の面白い事実を見つけ出すなんて……課題の主旨が曖昧じゃありません?」

「まあ、あの人が面白いと思うかどうかって基準だから、曖昧ではあるな。峯田先生はたぶん、茉莉が放り出したフィボナッチ数の性質を、もう少し突っ込んで研究してほしいんだと思うよ」

「研究って言われても、たった数時間でまともな研究なんてできませんよねぇ?」


 わたしは同意を求めるつもりで聞いた。数学を研究する部活の先輩である蘭子と杏里なら、研究はじっくり時間をかけてやるものだと理解しているはずだから。


「え、そんなことはないんじゃない?」

「研究そのものは誰がどんなふうにやってもいいし、時間をかければ何でも立派な研究になるわけじゃないしね」

「あれぇー……?」思っていた反応と全く違った。「お二人とも、割と“研究”に対しておおらかなんですね……」

「私たちに限らず、本職の研究者のほとんどは同じように考えると思うぞ。やれ『人類の発展に資する』とか『長年の研究の末に大発見』とか『栄誉ある賞を受賞した』とか抜かすのは、自分の興味ある結果しか見ていない外野の連中くらいだからね」

「実際のところ、世の中にある研究のほとんどは、そういうフレーズと無縁だもんね……」

「だけど、どんなに小さな結果でも、綿密に調べて検証を重ねて、信頼に足る事実と認められれば、それは他の研究者にとっても、安心して自分の研究に引用できる、“立派な研究”になりうる。つまり、研究で大事なのは、かける時間でもなければ、驚きを与えるような成果でもない。出した結論が充分に信頼できると示すための、説得力のある検証の積み重ねだ」

「信頼……」


 科学の研究は往々にしてそういうものだろうけど、数学はその最たるものに思えてならない。数学における検証は、つまり証明であり、証明の積み重ねが数学への信頼に繋がる。数学の研究はそれが一番大事なのであって、時間をかけることが必ずしも大事とは限らない……ということか。

 何というか、研究って難しいけれど、同時に深いものでもあるんだなぁ……峯田先生の課題の厳しさがさらに浮き彫りになっただけかもしれないけど!


「ま、残された時間が短くても、できることがないわけじゃないし、やれるだけのことはやってみないか? 峯田先生があそこまで言うからには、茉莉が自力で見つけた性質には、“面白い続き”がまだあるのかもしれないし……」


 蘭子は空いている椅子に腰かけて、心底楽しそうに言った。やり方に不満はありつつも、数学の教師としての信頼は普通にあるようだ。

 一つの丸テーブルを三人で囲んで、その上にノートを広げる。端から見たら、女子高生が三人で勉強会をしている光景なのだろうが、実際にやっているのは“勉強”じゃなく“研究”である。


「まずは手始めに、言葉や記号の定義を決めておく。フィボナッチ数は、第1項と第2項がともに1で、それ以降は、前項と前々項の和であると定める」


 数列{F(n)}を以下のように定める。

 F(1)=1, F(2)=1, F(n)=F(n-1)+F(n-2)


「すると、こういう性質が成り立つ」


 F(n+1)F(n-1) - F(n)^2 = (-1)^n


「そして、私たちが今から調べたいことは、これだ」


_人人人人人人人人人人人人人人人_

> 上の式を何とかして、    <

> 何か面白い事実を見つけよう!<

 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄


「……こんなにいい加減な出題もそうそうありませんね」

「学校のテストでこんな問題が出されたら不満噴出待ったなしだね」

「先輩方はフィボナッチ数を研究したことはないと言ってましたけど、知識としてはどんなことを知ってますか?」

「そうだな……これから証明の役に立つかもしれないし、最低限の知識は共有しておくか。私が把握しているフィボナッチ数の性質は、こんなものかな。杏里は?」

挿絵(By みてみん)

「わたしも知っているのはこれくらいだと思うよ」

「こうして見ると、フィボナッチ数列って本当に特別な数列に思えますね。不思議な性質がたくさんあって……」

「たぶんこれ以外にも、不思議な性質をいくつも備えているだろうね。これもまた、古くから数学者たちを魅了してきた所以なんだ」

「今からわたし達も、その不思議な性質を見つけ出すのよね……なんかワクワクするなぁ」


 ワクワクする、か。今の杏里に限らず、何かを熱心に研究する人って、未知なるものを探し当てることがとにかく楽しくて仕方ない人間なのだろう。わたしも……そういう世界に、小指の先ほどでも触れられたらいいな。


「じゃあ次は、研究の方向性を決めてみましょうか」

「そうだな。茉莉はこの式からどういう方向に考えを進めたい?」

「どういう、方向に……?」


 蘭子から向けられた質問に、わたしは思考がフリーズした。


「……何一つ目標を決めずに研究を始めても、ろくなことにならないぞ」

「とりあえず、茉莉ちゃんが辿り着いた、連続する4つのフィボナッチ数を使った式を観察してみよっか?」

「そうですね、そうしましょう!」

「初っ端からそんな調子で大丈夫か?」


 ほぼ反射的に杏里の案に乗っかってしまったけど、考えてみたら、これ以外に方針を決める方法なんてなかったのだ。蘭子が不安げに向ける視線が痛いけど……。

 さて、今のところ手元にある式はこの二つだが、ここから何を始めるか……。


 F(n+1)F(n-1) - F(n)^2 = (-1)^n

 F(n-1)F(n+2) - F(n)F(n+1) = (-1)^n


「……気になったことを言っていい?」

「蘭子先輩は許可がなくても言いたいことを言いますよね?」

「…………」蘭子の眉間にしわが寄る。「茉莉が書いた式だと、連続する4つのフィボナッチ数の中で、基準となるn番目は、小さい方から2つ目になっているけど、これは意図した設定? そのおかげで、添字の調整をしなくても、計算結果が上の式と完全に一致したわけだし」

「いえ……何となくですね。上の、連続する3つのフィボナッチ数を使った式につられたんだと思います」

「ふむ、そうか……」


 そう言って蘭子は何やら熟考を始めた。何か掴みかけているのだろうか。

 すると杏里が口を開いた。


「ねぇ、ここから一般化していくなら、添字に含まれている-1とか+1を、-kとか+kに変えて計算してみたらいいんじゃない?」


 F(n-k)F(n+k) - F(n)^2 = ?


「んー……確かにこの結果は気になりますけど、これって、わたしが作った式とはどうやっても繋がらないですよね。連続する4つのフィボナッチ数だと、真ん中のn番目を指定することができませんし」

「そうね……そもそも真ん中を一つに決められないものね」

「……真ん中じゃなく、フィボナッチ数列の中から範囲を指定して、両端同士の積と、両端から2番目同士の積を比較するというのはどうだろう?」

「ん?」

「つまり、こういうことだ」


 蘭子がノートに書き加えたのは、フィボナッチ数列の途中の4ヶ所と、2本の矢印付きの曲線。

挿絵(By みてみん)

「矢印で結んだフィボナッチ数同士をかけ合わせて、その差を求める」

「なるほど、これならどちらの式もカバーできますね。連続する3つの方は、両端から2番目が重複しているから2乗になると……さっそく計算してみますか?」

「いや、まずは簡単な具体例から確かめよう。いきなり一般化に踏み込もうとしても混乱するだけだ。現時点で、フィボナッチ数列のスライスの範囲が、3つおよび4つの場合を確かめた。だからここからは、5つや6つの場合を見ていこう」


 蘭子は両手で、上から2ヶ所に包丁を入れるような仕草をする。ちなみに“スライス”はプログラミングで使われる手法の一つで、数列などのリストから範囲を指定して参照する操作のことだ。わたしが研究の過程でお世話になった、Pythonの説明書に載っていた。


「じゃあ例えば、スライスの範囲が5つ分だったら、両端同士の積から、両端から2番目同士の積を引いた結果は……こうなるわね」


 杏里はスラスラと計算してみせた。

挿絵(By みてみん)

「おっと……2がかけられて、しかも-1にかかる指数も1だけ増えましたね」

「まあ、底が-1だから、さっきまでと符号が逆になったってことだな。実質±2だ」


 てっきり、範囲が5つ分でも同じ結果になると思っていたけど、やっぱり試してみないと分からないものだ。なんか、だんだん面白くなってきた。


「よしっ! 今度はわたしが、スライスの範囲が6つの場合を確かめてみます!」

「おー、やってみろー」


 なんだか気の抜けたような声色の蘭子は置いといて、わたしは計算を始めた。杏里がさっき計算した式の中で、添字に含まれている+1と+2を、それぞれ+2と+3に変えるだけでいい。フィボナッチ数の定義を使って変形し、分配法則でまとめられそうなところを探してまとめて……という感じで試行錯誤を重ねた結果、こうなった。

挿絵(By みてみん)

「ぜー、はー、ぜー……こ、今度は±3になりましたね……」

「お、お疲れさま……」


 複雑な式変形は未だに慣れないので、終わったら息も絶え絶えになるわたし。杏里はこうして労ってくれるけど、数学の鬼である蘭子はというと……。


「なあ、結果は正しいけど、式変形に無駄が多すぎないか? 私ならこの半分で済ませられるぞ」

「クタクタの身に追い打ちをかけるのやめてもらえますぅ?」

「大体、フィボナッチ数の定義を使った式変形なんて、範囲が広がったらもっと手間がかかるじゃないか。工夫が足りないよ、茉莉は」

「じゃあ蘭子先輩ならどう工夫するんですか」

「最初に見せただろう? 私と杏里が最低限知っている、フィボナッチ数の性質……あれの2つ目の式を使うんだよ」


 ああ、なぜか意味ありげに数式番号②がつけられていた、あの式か……まあ、添字がn+2みたいな和の形になっている所もあるし、使えそうではあるが。


「でも蘭子先輩、ここの式には、添字が引き算になっている所もありますよ。そこには式②が使えないのでは?」

「まだまだだなぁ、茉莉は」蘭子は呆れたようにかぶりを振る。「必要な公式が手元にないなら、作ればいいのさ!」


 ウィンクして親指を立てる蘭子。なんか、ベンチャー企業の惹句みたいなことを言い出した……。

 蘭子は猛烈な勢いでノートに式を書き始めた。その表情も息遣いも、ただならぬほどの興奮に満ちている。なんか、声をかけるのが憚られたので、わたしと杏里は黙って経過を見守ることにした。


「フィボナッチ数の添字がm-nみたいな引き算の形だから、例えばnを小さい順に具体的な整数に置き換えて、定義に則った変形をしていくんだ。最初の2つを、F(m)とF(m-1)の線形和で表すことができれば、後は前々項から前項を引くだけで求めることができる! つまり……」

挿絵(By みてみん)

「ふぅ、こんな形になるだろうと予想できる!」


 ひと仕事終えたみたいに、蘭子はひと息ついて額の汗を手で拭った。


「数学の予想って、こんな即興で組み立てられるものなんですか……?」

「これはたぶん数学的帰納法ですぐに示せる簡単な式だから、即興で作るのも難しくはないと思うよ。慣れてくれば茉莉ちゃんもこれくらいは出来るようになるって」

「慣れてくれば、ねぇ……ちなみにこの式も、ちゃんと証明してから使うんですよね?」

「まあそうだな。たぶん正しいと思うけど、きちんと証明しておけば安心して使えるし……あっ! そういえば例の式②、まだ証明してなかったじゃないか! 私は把握しているけど、証明も茉莉と共有しておかないと意味がない!」

「蘭子先輩って、大事な証明をすっぽかすことがしばしばありますよね……」


 なまじ数学の色んな性質の証明が頭に入っているせいか、わたしに説明していないことまで、知っていて当たり前だと思い込んでいそうだ。


「とはいえ、証明はそれほど難しくない。以前に、フィボナッチ数を2の累乗で上から押さえられることを示した時と同様、初項と第2項で成り立つことと、前々項と前項で成り立つときに次の項でも成り立つことを示せばいい」

挿絵(By みてみん)

「なるほど……意外とあっさりしていますね。じゃあ、式③も同じ要領で証明できるんじゃありません?」

「ああ、手間はさほど変わらないはずだ。まあ私としては、フィボナッチ数列の“マイナス番目”を利用する証明の方が、エレガントで面白くなりそうな気がするが」


 蘭子は顎に手を添えて、得意気に目を細めてキラリと光らせながら、妙にかっこつけて言う。……あれでエレガントのつもりなのだろうか。

 ちなみに、フィボナッチ数列はマイナスの番号まで遡って定義することができて、式③の証明にも使えます。数学的帰納法と合わせて、皆さんで確かめてみましょう!


「さて、必要な公式は揃ったから、スライスの範囲が7の場合を計算してみせよう」


 蘭子はノートにスラスラと数式を展開していく。

挿絵(By みてみん)

「ほら、本当に半分の行数で済んだだろう? 定義に従ってちまちまとほぐしていったら、この倍では済まなかっただろうね」

「くぅっ……!」


 久々に蘭子にマウントをとられて、わたしは何も言い返せない。悔しいが、確かにこっちの方がスマートに計算できている。蘭子は実際に計算する前から、恐らくもっと楽にできると予想していて、本当にそのとおりになった。これが経験に裏打ちされた数学的な直感というものか……。


「それにしても、今度は±5かぁ……-1にかかる指数がまだ分からないけど、絶対値だけをみると、フィボナッチ数が順番に現れているように見えるわね」

「つまり、数列のどこをスライスしても、両端同士の積と両端から2番目同士の積の差は、必ずフィボナッチ数になるってことですか?」

「うん、しかもスライスの場所で決まるのは符号だけで、値はスライスの範囲の幅だけで決まるみたい」

「となると問題は、スライスの位置からどうやって符号が決まるかですね……」

「それに関してだが」蘭子が口を挟む。「茉莉は幅4のスライスで計算するとき、左端から2番目を基準の第n項としていたから、幅3のスライスと同じ結果になった。なら、これ以降も同じように、左端から2番目を基準としてみたらどうだろう? さっき私が書いた図を、もう一度みてほしい」

挿絵(By みてみん)

「基準となる第n項が、スライスの左端から2番目で、スライスの幅は……m+2になりますかね」

「スライスの幅が3と4のときに±1で、その次が±2、±3……だから、スライスの幅を最初からm+2にしておけば、計算結果がF(m)というシンプルな形になると思ったんだ。実際、この設定に従って、両端同士の積から、両端から2番目同士の積を引いた値を求めると……こうなる」

挿絵(By みてみん)

「おぉー、予想通りじゃないですか!」


 設定がやや複雑では、とも思ったけど、実際に計算してみたらこんなにもシンプルな結果になるのか。思わず軽く拍手してしまったよ。パチパチ。


「なるほどねぇ、最初の式②は、これにm=1を当てはめたものになるわね」

「これで式②の一般化ができたってことですよね。答えもシンプルですし、これなら峯田先生も満足されるのでは?」


 最初はどうなることかと思ったが、フィボナッチ数の興味深い性質を見つけられたのだから、これで峯田先生の課題はクリアできたと、わたしは自信を持って言える……はずだった。

 だが、興奮気味のわたしとは対照的に、蘭子はなぜか醒めている。


「何を言う。ここからが峯田先生の課題の正念場じゃないか」

「へっ?」

「峯田先生は『面白い事実を見つけなさい』と茉莉に言ったのであって、一つの式をただ一般化するように言ったわけじゃない。ここからは、茉莉が自力でさらにフィボナッチ数の性質を探り当てるんだ」


 そんな殺生な。わたしは救いを求めるように、涙目で蘭子に訴える。


「さっきまで先輩方が手助けしてくれたのに、急に突き放すんですか!?」

「最低限の道具と使い方を知らないと、手も足も出ないと思っただけだ。それに、あまり手助けをしすぎると、後で峯田先生に何を言われるか分かったものじゃないし」


 確かに、わたしへの課題に先輩たちが必要以上に踏み込んだら、せっかく成果を出しても認められないかもしれないし、余計な手出しをするなと言われる可能性はある。だけど、ようやく一つ面白い事実を見つけたというタイミングで、手のひらを返すようにわたしへ丸投げするなんて……あんまりじゃないか。


「そういうわけだから、杏里もここからは手出し無用だ。どうしようもなくなった時だけ助言をするように」

「時間もそんなに残されてないはずなのに……いいの、それで?」

「大丈夫でしょ。私ならここからもう少し考えを広げられるけど、あえて茉莉のために考察の余地を残しておいたんだから」

「考察の余地……?」


 ものすごく尊大そうな蘭子の態度にはイラッとするが、わたしはその言葉がどうにも気になった。

 改めてノートを見直してみる。色々なことを考えながら、一直線に式④まで辿り着いたと思うのだが、どこに考察の余地があるのだろうか……。

 じっとノートを見ているうちに、そういえば、と思うことがあった。


「そういえば、最後の証明では、蘭子先輩が作った式③を結局使いませんでしたね」

「スライスの左から2番目の添字をnとおいたからな。文字同士の引き算が添字にならなかったから、使う必要がなくなったんだよ」

「そっか……スライスの真ん中をn番目としていたときは、両端同士の積は、n-m番目とn+m番目の積だから、式③を使う必要があったけど、式④は添字の設定を変えてしまったから……じゃあ、いっそ計算してみようかな。n-m番目とn+m番目の積を」

「おー、やってみろー」


 なんでわたしが自発的に数式を弄ろうとすると、蘭子は気の抜けたような促し方をするのだろうか……たぶん、結果が何となく分かっているから任せているけど、本心では自分の手で確かめたいのだ。まあ、やってみろと言われたから、やってみるけど。


「あっ! よく見たら、式②も式③も、添字がmから始まっているじゃないですか!」

「ローマンアルファベットはmの方が先だから、どうしてもそうなっちゃうんだよねぇ。別にそのまま使ってもいいし、mとnを逆にしてもいいし、好きなようにすれば?」

「……じゃあそのまま使います」


 mとnってただでさえ見た目が似ているのに、公式の中のmとnを入れ替えて使ったら、どこかで混同しそうで怖い。慣れないうちはそのまま適用するのが無難だろう。

挿絵(By みてみん)

「……途中までですけど、この時点でも対称性があって魅力的ですね」

「ほお、茉莉も対称性の魅力が分かるようになったか……でもこれ、途中でマイナスを括り出す必要ってあったか?」

「(x+a)(x+b)みたいな形にした方が、展開公式を使いやすいと思ったんですぅー」わたしは口を尖らせた。「いいじゃないですか、手間はそんなに変わんないですし」

「まあ、パッと見で式を追いやすくはなったのかな……?」

「ではここからは、式①を使ってもう少し簡単にしていきます!」

挿絵(By みてみん)

「おお、これまたシンプルな形に落ち着きましたね。途中でF(m)^2とF(n)^2の積が、差し引きゼロで無くなったおかげで、ずいぶん簡単になりましたよ」

「なるほど、これは面白い……和と差の積が、2乗の差になる式と似ているな」


 (m-n)(m+n) = m^2 - n^2

 F(m-n)F(m+n) = F(m)^2 - (-1)^(m+n) × F(n)^2


「本当ね。mとnの偶奇が一致していれば、F(m)^2とF(n)^2の間の符号も一緒になるし。それにこれ、わたしがさっき提案した、式①に含まれる1を文字に置き換える一般化の、答えにもなっているよ」


 F(n-k)F(n+k) - F(n)^2 = (-1)^(n+k+1) × F(k)^2


「確かに……式④とは違って、答えはフィボナッチ数の2乗になるんですね。きちんと計算した結果だから当たり前ですけど、不思議だなぁ……」

「さて、これだけでもまあまあ面白いと思うけど、茉莉はここからまだ進めるか?」

「はい!」わたしはペンを握りしめて自信満々に答える。「この式⑤は言ってみれば、幅が奇数のスライスの、両端同士の掛け算をした結果です。これを利用すれば、幅が奇数の場合だけですが、スライスの両端同士の積と、両端から2番目同士の積との差を、別の方法で求められるはずです。nとmを使うと紛らわしいので、代わりにaとbを使いますね。スライスの真ん中をa番目として、両端は真ん中から左右にb+1だけ離れていて、両端から2番目は、真ん中から左右にbだけ離れている、という形にします」

挿絵(By みてみん)

「つまり式④の中身は、nをa-bに、mを2b+1に置き換えるわけです。この設定を踏まえて、式⑤を使って式④を計算していくと……」

挿絵(By みてみん)

「…………あれ?」


 ペンの動きがピタリと止まった。途中までは、差し引きゼロで消える項があったり、-1にかかる指数を、偶奇の一致性を使って置き換えたりして、順調に式変形が進んでいたが、ここに来て、どう変形すれば分からない状態にぶつかった。


「これはどうしましょう……括弧の中がF(2b+1)と等しければ、式④と結果的に一致すると示せるのですが……」

「茉莉は本当に、全速で走り出した途端につまずくよな」

「悪かったですね(怒)」

「まあ、式④の正しさはすでに示されたようなものだから、式を比較することで、括弧内がF(2b+1)に等しいと示す、という流れでもいいと思うけど?」


 そう言う蘭子はニヤニヤと意地が悪そうに笑っている。……経験的に分かっていた。こういうときは、真に受けない方がいい。


「……手掛かりはあるんですね。だったら自分で探します」

「ちっ」


 蘭子は目を逸らして舌打ちした。これでわたしが真に受けて流れを変えたら、実はこんな方法で示すことができたのでした、という展開に持ち込んで揶揄う算段だったのだろう。そうは問屋が卸すか。

 さて、どこに手掛かりがあるのだろうか……要は、この関係が成り立つことを示したいわけだが、一体どこから導出できるのか、ノートを見つめながら考える。


 F(n)^2 + F(n+1)^2 = F(2n+1)


 今のところ、わたしが自力で手に入れた材料は、番号⑤をつけたこの式くらいだけど……。


 F(m-n)F(m+n) = F(m)^2 - (-1)^(m+n) × F(n)^2


 ああ、なんだ、そうか。分かってしまえば簡単な話じゃないか。


「式⑤のmに、n+1を代入すれば……」

挿絵(By みてみん)

「……こうやって簡単に示せたんですね。蘭子先輩なら一目見て気づいたでしょうに、すっとぼけるとか意地が悪いこと」


 何とか自力で解決できたので、お返しにわたしも意地の悪い顔になって、冷笑しながら蘭子を見返した。蘭子は明後日の方を向いて、かすれた口笛を吹いている。……最早取り繕うつもりもないらしい。

 ちなみにこの式は、式②のmにn+1を入れることでも求められます。


「さて、これで2乗+2乗の所が計算できたので、最終的にこうなって……」

挿絵(By みてみん)

「nをa-b、mを2b+1と置き換えたことを踏まえれば、最後の式は④の右辺と一致していると分かります。つまり、スライスの幅が奇数のときに限りますが、スライスの真ん中を基準として計算しても、同じ結果を出せると証明されました!」

「おー、やったね、茉莉ちゃん!」

「ようやく小規模でも研究らしくなってきたじゃないか」


 杏里は拍手で祝福してくれて、蘭子も少しずつ楽しさを表情に滲ませてきた。先輩たちに喜ばれるのはもちろんだけど、こういう、数が持つ不思議な“繋がり”を自力で見つけられて、わたしは心が踊り出しそうにドキドキしている。

 だけど、まだこれで終わりではない。わたしが示したのはあくまで、スライスの幅が奇数の場合だけだ。偶数の場合にはどうなるか、確かめる価値は充分にあるはず。


「じゃあ次は、スライスの幅が偶数の場合を検証してみましょう!」

「真ん中を基準にした式はそのままだと使えないが、どうする?」

「使えるようにするために、スライスの中の添字を都合よく設定すればいいんですよ!」


 わたしはウィンクして親指を立てた。真似するつもりはなかったけど、結果的にさっきの、ベンチャー企業の惹句みたいなことを言い放った蘭子の真似になった。


「これ、さっきの蘭子ちゃんの真似かな」

「……人がやっているのを見たら、割とイマイチな気がするなぁ」


 思ったより先輩たちの反応が芳しくなかったので、わたしは何もなかったように話を進めることにした。


「えーと……スライスの幅が偶数の場合は、真ん中にあたる項を2つ用意します。式④では左端がn-1番目とn番目なので、それに合わせて、真ん中をa-1番目とa番目の2つにします」

挿絵(By みてみん)

「そしてスライスの左端と右端は、このa-1番目とa番目をペアごと左右にbだけ移動させたと考えます」

「なるほど、設定としては綺麗に整っているな。式④の設定にある、nはa-bに、mは2bに置き換えられるから、最終確認がやりやすくなる」


 わたしは蘭子みたいに、ラストの展開まで想定して設定を考えたわけじゃないが……言われてみれば、文字の置き換えが楽になれば、最後の一致も確認しやすい。数学の証明って、先の展開まで考えて最初の設定を決めることで、結果的に分かりやすくなることもあるなぁ。


「まずは、両端から2番目同士の積を計算します。F(m-n)とF(m+n-1)の積ですね」

「しかし、これは何となく、共通項が少なくて複雑な式変形を求められる気がする。ただの計算に時間をとられるのはもったいないし、ここは杏里にバトンタッチだ」

「えぇー……?」


 どうしようもなくなった時だけ手を貸すように、と言われたはずなのに、面倒事をしれっと押しつけてきた蘭子に、杏里は不愉快そうに口をへの字にした。蘭子が自ら計算の代行を買って出る、という発想は残念ながらないらしい。

 しかし、杏里は不満そうにぶつぶつと呟きながら、蘭子の差し出したペンを受け取って、ノートにさらさらと数式を書き始めた。


「まったくもう……こういうのって基本茉莉ちゃんに任せながら、わたし達が横からアドバイスするものじゃないの?」

「文句言いつつ、いとも容易く計算していきますね、杏里先輩……」

挿絵(By みてみん)

「うーむ……展開して、まとめて、因数分解して、定義に従って置き換えて……なんか複雑になるだけで、綺麗な形に収まる気がしませんけど」

「まあ、複雑にはなるけど、こうすることで後々、差し引きゼロになる項がいくつも出てくると思うのよね」


 そう言って杏里は計算を続行した。確かにその後の式変形は複雑になったが、杏里の目論見どおり、差し引きゼロになる項がいくつも現れて、最終的にはこうなった。

挿絵(By みてみん)

 まだ長めの数式に慣れていないわたしのために、差し引きゼロで消える項にはアンダーラインが引かれている。


「こんなに上手くいくものなんですね」

「どこかで式①を使うことを見越して、2乗を含む項が現れるように式変形したからね」


 すごいな……どんだけ数式操作の経験を積んでいるのか、蘭子も杏里も、どんなに複雑な式変形でも的確に未来予測をして、簡単な形へ導く方法を考え出す。慣れの差って恐ろしいな……。


「さて、準備は整った。最後の仕事を果たしたまえよ、茉莉」

「あ、はい……杏里先輩が導いた式⑥を使えば、最終的に現れてほしいF(2n)を分解する式を作れます。実際に現れるのはF(2b)ですが……。そして、式④のnをa-bに、mを2bに置き換えて、式⑥を使って変形していくと……」

挿絵(By みてみん)

「最後はやはり、(-1)^n × F(m)と一致するので、スライスの幅が偶数であっても、同じ要領で同じ結果を出せると証明されました。めでたしめでたし」


 おー、と感心して、蘭子と杏里は拍手でわたしの成果を讃えた。なんとか望んだとおりの結果になってくれて、安堵したと同時に快感すら覚える。これがひと仕事終えた達成感というものか……。

 ちなみにF(2n)を分解する式は、式②のmにnを入れることでも求められます。

 椅子の背もたれに寄りかかり、全身で安堵と達成感に浸っていると、蘭子がノートを見ながらボソッと言った。


「……興味深いな」

「何がですかぁ~?」

「すっかり休憩モードだな、茉莉。F(2n)を分解する式だけど、これをさらに変形すると、こうなるんだよ」

挿絵(By みてみん)

「へぇ、F(2n+1)を分解する式に似ているけど……」

「こっちは2乗同士の引き算になるんですね」

「つまり、どのフィボナッチ数も、直前の2項だけでなく、添字を約半分にしたフィボナッチ数の2乗を使うことでも、計算することができるんだ。例えば、F(50)を求めるときは……」


 蘭子は愛用の関数電卓じゃなく、スマホの電卓を駆使して、F(50)の値を計算した。なんでも、愛用の関数電卓だと、10桁までしか正確に表示されないという。確かに実際、結果は11桁もあった。

挿絵(By みてみん)

「こんな感じで計算できる」

「うひゃあ……50番目って簡単に計算できそうですけど、こんなに大きな値になるんですね。指数関数的だとすごい速さで増えていくとは聞いていましたけど」

「2乗の計算は人間の手だと大変だけど、コンピュータにこの計算をさせたら、普通に順番に足していくより速く答えを出せるのかな」

「どうだろう……F(1)とF(2)だけそのまま値を返す形にしたら、再帰呼び出しの回数は入力値nとほぼ等しくなるし、2乗の計算をする手間を含めたら、かえって時間が増えるかもしれない」

「うーん、クイックソートみたいにn log nまで減らすのは、やっぱ難しいか……」

「あれも基準値選択を工夫しないとn^2まで増えるからな」


 なんか二人だけで難しい話をしている……たぶん、コンピュータで計算問題を解くときの面倒くささ、とかの話だと思うけど、Pythonでコードを書くだけで悪戦苦闘していたわたしでは、まだとても理解が追いつかない。

 これ以上置いてけぼりになりたくなくて、わたしは口を挟んだ。


「……あの、刻限も近いですし、そろそろまとめに入りましょうよ」

「ああ、そうだな。私たちの調べにより、前提として知っていた2つの関係式に加えて、新たにこれらの式を導き出した」

挿絵(By みてみん)

「特に4つ目の式は、別方向から二種類の証明方法が見つかっている」

「こうしてみると、フィボナッチ数だけを使った計算式は、添字だけである程度分かってしまうほど、シンプルになることが多いですね」

「4つ目の式も、添字だけ取り出して同じ計算をしたら、やっぱりmだけになるものね」


 (n-1)(n+m) - n(n+m-1) = -m


「最初に先輩方が事前知識として挙げた式の中にも、フィボナッチ数同士の整除関係が、添字同士の整除関係と同値というものがありましたし……添字を見るだけで色んなことが分かるというのは、やっぱり不思議な気がしますね」

「そうだな。フィボナッチ数が何百年も人々を魅了してきた所以は、ただ自然界に頻出するというだけでなく、こうした不思議な性質をいくつも備えていて、数学者の好奇心を無限に駆り立てるという所にもあるんだろう」

「そういう意味では、同じくたくさんの不思議な性質を持っているパスカルの三角形と、繋がりがあるのは必然なのかもしれませんね」


 こういうのも数学ならではのロマンなのかな……と感じ入っていたら、情緒を踏み荒らす発言が聞こえてきた。


「そうか? 不思議な性質を持つ数学的概念なんていくらでもあるし、フィボナッチ数とパスカルの三角形は作り方が似ているから繋がりやすいだけじゃないか?」

「容赦なくロマンをぶち壊しますね……」

「数学にロマンを感じるのは勝手だが、証明の役には立たないからなぁ」


 蘭子は肩をすくめて真顔で言う。蘭子らしいと言えば蘭子らしいが……数式による証明が数学の要だと頑なに信じる彼女は、数の持つ神秘性に心を動かされることはあっても、自明な繋がりやこじつけに感動することはないみたいだ。


「じゃあ、簡単に計算結果をまとめて、峯田先生に見せに行こっか」

「今さらですけど、こんな内容で峯田先生は満足するでしょうか……?」

「初心者が二時間で作り上げたもの、という前提で判定してくれることを祈ろう」


 その前提で、果たしてどこまで情状酌量してくれるのか……まだ発表会も本番が来ていないのに、本番さながらの緊張感に襲われるわたしだった。


  * * *


「なるほどねぇ……一つの関係式に、二種類の証明を見出したのね」


 峯田先生は老眼鏡越しにノートを見ながら、呟くように言った。

 県民文化会館に併設されているラウンジで、荒川先生と話していた峯田先生の元に、わたし達はノートを持って集まった。先生によるチェックが終わったら、すぐにお昼ご飯の時間になるので、この建物内で飲食ができるラウンジを待ち合わせ場所にしたという。

 ノートを受け取った峯田先生は老眼鏡をかけて、乱雑に式が書かれたページからじっくりと黙読する。できるならページをめくった先にある、丁寧な字で清書した式の方を見てほしかったのだが……。

 結局、清書したページを見ないまま、峯田先生は顔を上げてわたしに視線を向けた。


「最初の式の一般化と、その証明の過程で見つけた式と、それらを使って、より大きなフィボナッチ数を見つける方法ね。これならギリギリ及第点くらいはあげられるわ」

「ギリギリ及第点ですか……」


 たくさんの計算をしてへとへとになったのに、平均よりちょっと上程度の評価で終わってしまい、わたしは疲労と徒労感で肩をがっくりと落とした。


「まあ、そんなもんだよな。峯田先生から及第点をもらえただけでも上出来だ」

「高得点なんて滅多に出ないし、満点評価に至ってはSSRだからね」


 今度はソシャゲを引き合いに出してきた……。高オッズのガチャみたいな扱いをされた峯田先生は、特に意に介することもなく、ノートを閉じてわたしに返してきた。


「どうだった? 短時間でも研究をするのは大変だったかしら?」

「そりゃあ、設問が曖昧でしたからね……何か面白い事実を見つける、なんて」

「うふふ、そりゃそうでしょう」峯田先生は柔和な笑みを浮かべる。「研究というのは、あるかどうか分からない答えを、あると信じて探すものだもの」

「!」


 先生の言葉にわたしは、思いがけず蒙が啓かれた気がした。言われてみれば当たり前のはずなのに、まるで意識になかった。峯田先生の問いかけは、つまり有り体にいえば、「研究しなさい」という意図によるものに他ならない。


「鈴原さん。あなたはこの短い時間の中で、苦労して見つけたこれらの事実を、面白いかもしれないと感じて私に見せたでしょう。未発見なのか、魅力的なのか、人にどう思われるか分からなくても、あなたが“面白い”と感じたことが全てなのよ」

「わたしが……?」

「それまで自分が知らなかったことを、他人に誘導されることなく、自分の力で見つけ出すのは、とても楽しい経験だったんじゃない? 他人が見つけた事実を、後追いで理解して自分の物にするのは楽だけど……自力で何かを発見する快感は、“研究”をすることでしか味わえないわ」


 自力で発見する快感。蘭子が先に導き出した式を、できるかどうか分からなくても、別の方法で見つけ出せるか試して、実際に上手くいった時、わたしは確かに快感を味わっていた。それは、研究だからこそ味わえるものだ。結論が実はたいしたことじゃなくても、他では味わえない独特の快感を得られるのが、研究というものだと……わたしも実感していた。

 もし、マス部に入っていなかったら、授業でしか数学に触れていなかったら、わたしはきっと、この快感を一生知らないままだったかもしれない。もしかしたらそれだけで、マス部に入った意味はあったのかもしれない。


「どう、鈴原さん? 数学の研究は、楽しいかしら?」

「……はい。楽しいです」


 自信をもって、わたしは答えられた。こんな、心臓に悪いほどの、毒薬のような快感を知ってしまったら、知らない頃の自分にはもう戻れない。


「そう。素直なのはいい事だわ。数学の沼に最初からどっぷり浸かっている及川さんと軽部さんだと、こういう大事な初心を、改めて実感させるのも難しいから。語られる数学の話が面白くても、人間性はつまらないのよね。教師としては」

「え、えーと……」

「悪かったですね、つまらない人間で」


 初心者のわたしをダシにして、さらっと先輩たちをディスる峯田先生に、蘭子は頬筋をピクピクと引きつらせて皮肉交じりに言った。杏里は……満面の笑みに影が差している。うわあ、無言の怒りの方がむしろ怖いよぉ。


「だからこそ、初心者の鈴原さんと一緒にいるのは、二人にとってもいい刺激になるわ。研究の本当の楽しさを思い出せれば、数学はもっと面白くなるもの」

「言われるまでもありませんけど?」

「そのつもりでわたし達は茉莉ちゃんを受け入れたんですよ?」

「あ、あの、先輩方……?」


 何のつもりなのか、蘭子はわたしの肩に手を回し、杏里は横からわたしの胴を両手で包み、二人で両側からわたしに抱きついてきた。これ……わたしを取られまいとしている? なんだろう、この微妙にときめかない両手に花状態は。

 そんな光景が微笑ましく映ったのか、峯田先生と荒川先生は生温かい表情に。


「仲がいいのね、あの三人」

「ええ、出会って四ヶ月くらいとは思えないくらいに」

「さて、いい時間だし、午後の発表に備えてお昼ご飯にしましょうか」

「そうですねぇ……先輩方、そろそろ離して」


 結局何がしたかったのか、わたしがお腹を鳴らすまで、蘭子と杏里はわたしにしがみ付いたままだった。心配せずとも、わたしだって二人が卒業するまでは、二人とマス部で一緒にいるつもりなのだが。


 そんなこんなで、わたし達は峯田先生と一緒にラウンジで昼食を済ませ、発表の準備のために控え室へ向かった。すでに午後の発表は一人目が始まっていて、峯田先生は一足先に講堂へ入って来客用の席についているという。他のお客さんも講堂に戻っているようで、控え室へ向かう途中の廊下は、人気がなくて静かだった。

 わたしの発表は三番目だから、実はあまり時間的余裕はないけれど、焦るほどでもないので、わたしと杏里と蘭子で、ゆったり歩いて移動している。


「それにしても、改めてフィボナッチ数って、知れば知るほど面白いですね。もっと早く知ってたら、自分の研究のテーマにしていたかもです」

「ああ、気持ちは分かるよ。でも確か、フィボナッチ数は去年卒業した先輩が研究テーマにしていたから、たぶん部室のどこかに研究資料が残っているんじゃないか?」

「……前から思ってましたけど、過去の研究資料の管理が杜撰すぎません? なんでどこにあるか把握してないんですか」

「みんな好き勝手に研究してるからね。大学の研究室と違って、やらないと単位が取れないわけでもないし」

「資料の管理も個人に任せているから、他の部員がどこに資料を仕舞っているか、知らないことの方が多いのよね」


 うーん、まさにフリーダムここに極まれり。色んなものが段ボールに死蔵されて、部室の片隅に放置されるのも納得だ。せめて体裁の整った備忘録を、共用PCにでも保管すればいいのに。


「卒業した先輩は確か、ゼッケンドルフの定理について調べていたわね」

「一般のリュカ数列にまで拡張して、定理が成立するような初期値を探すという試みだったな。なかなか興味深かった」

「ゼッケンドルフの定理? リュカ数列?」


 聞いたことのない数学用語に首をかしげるわたしに、先輩たちは楽しそうに口角を上げて言う。


「興味が湧いたら、自分で調べてみるといいよ。フィボナッチ数列の奥深さを、改めて実感することになるはずだ」

「楽しみだよね」杏里がスキップで一歩踏み出した。「わたし達が初めてゼッケンドルフの定理に触れたときの、あのドキドキを、これから茉莉ちゃんも味わうんだと思うとね」


 そうか、先輩たちがすでに経験して、恐らくもう経験できない、数学の奥深さに触れたときの感動は、わたしならこれからまだ味わえるのか。そう思うと、なるほど先輩たちが楽しみにする理由も分かる。わたしも、自分で調べるのが楽しみになってきた。

 先を進む杏里を追うみたいに、わたしも歩みを速めていく。早く、早く、二人が味わった気持ちを、わたしも共有したい。

 ……まあその前に、やらないといけないことがあるから、急ぐ必要があるのだが。


 控え室に入ると、高さのあるパーティションで仕切られているから見えにくいが、発表を控えている生徒たちのガヤガヤとした声が聞こえてくる。わたし達の荷物は、入り口からほど近いテーブルの上に置いてある。

 そろそろ一人目の発表が終わる頃だ。わたしはテーブルに駆け寄って、発表に必要なものをカバンから取り出していく。スライド資料は運営がデータから印刷して、すでにお客さんに配布しているはずなので、わたしが壇上に持ち込むのはPCと、御守り代わりの発表メモくらいだ。初めての研究発表だし、緊張でとちったりど忘れしたりする可能性もあるので、発表内容の枝葉末節を記録した用紙を持ってきたのだ。


「ノートPCと、マウスと、それから……あれ? あれれ?」


 必要なものをテーブルに並べている最中に、わたしは違和感に気づいた。カバンの中をどれほど手探りで漁っても、最後のアレだけが見つからない。

 様子のおかしいわたしに気づいて、蘭子が声をかける。


「どうした、茉莉?」

「……ないんです」

「え?」

「発表メモが、どこにもありません……」


 さっきまでの宙に浮かぶような快感が瞬時に吹き飛んで、わたしの声は、愕然として震えていた。


  * * *


 同じ頃、会場の出入り口には、瑠衣と乃々美が揃って来ていた。二人とも、二泊三日のテニス部合宿から、昨日帰ってきたばかりである。


「県民文化会館なんて、わたし初めて来ましたよ……」

「わたしもだよ。全国にある会場をオンラインで結んでいるって聞いたけど、ここの会場だけでも結構お客さん来てるね」

「今日のイベントは科学研究発表会だけじゃないみたいですしね……」


 乃々美は事前に公式サイトからプリントしておいた案内図を手元に広げて、発表会の行なわれる場所を確認する。


「場所は講堂……二階の西側ですね」

「大中小のホールや展示スペースもあって、結構迷いそうな造りだよねえ。はぐれないように、しっかりわたしに付いてくるんだよ」


 瑠衣はごく自然な流れで、ハスキーボイスとカッコいい素振りで乃々美に手を差し伸べた。瑠衣がこうすると、大抵の女子はキュンとときめくのだが……。


「あっ、階段あっちですね。行きましょう、越谷さん」

「…………」


 蘭子にしか心奪われていない乃々美は一切見向きもせず、スタスタと階段へ向けて歩いていく。瑠衣はかっこつけたポーズのままで固まった。

 先に階段を上がり始めた乃々美は、その途中で、二階から早足で駆け下りてくる私服の女の子とすれ違った。その一瞬だけ、視界の端に見えた彼女の横顔に、乃々美は気を引かれて立ち止まった。


「…………えっ?」


 すれ違った女の子の方は気づかなかったようで、そのまま脇目も振らず駆けてゆき、建物の外へ出て行った。

 後れて階段を上がってきた瑠衣は、乃々美の視線の先にいる少女の後ろ姿をちらっと見てから、階段の途中に立ち尽くしている乃々美に声をかける。


「どうしたの?」

「今の子、確か……」


 乃々美がよく知るその少女は、今日ここに来ていてもおかしくないが、今この時間に帰るはずのない人だった。

 どういうことだろう……あの少女をよく知っている乃々美は、そこはかとなく嫌な予感を抱えていた。


  * * *


 嫌な予感なんて全くなかった。それ故、目の前で起きた事態に、わたしは頭の中が真っ白になった。先輩たちも、努めて冷静であろうとしているが、予想外のトラブルに動揺を隠せていない。


「発表メモがないって……家にでも忘れてきたのか?」

「いえ、さっきカバンからノートを出したときは、確かにありました。クリアファイルに入れていて、中身もちゃんと……」

「でも、カバンの中にはクリアファイルもないわね……誰かが間違って持っていったのかしら」

「間違えるものなのか? カバンの口は閉めていたはずだし、メモの内容を見れば自分のものじゃないのはすぐに分かる。そう簡単に取り違えないと思うが……」

「どうしよう……」


 じわじわと、脚の力が抜けていく。視界がぐらぐらと揺らぐ。テーブルに両手を置いたまま、膝から崩れていく。


「ただでさえ緊張で、ちゃんと話せるかどうかも分からないのに、頼みの綱のメモがないと、わたしは……」


 練習は目一杯してきた。質問もたくさん想定して対策した。先輩たちも、大丈夫だと背中を押してくれた。立派な成果を出せなくても、経験することに意味があるのだと教わっていた。それでも……なるべく失敗はしたくなかった。

 それなのに。

 頼みの綱が一つなくなっただけで、上手くいきそうな展望はたちまち消え失せた。こんなに脆い状態で、本番に臨もうとしていたなんて。

 蘭子と杏里はしばらく無言で、膝を突いて項垂れるわたしを見ていた。やがて、片方が意を決した。


「わたし、スタッフさんと一緒に探してみる!」

「ちょっ、杏里!?」


 杏里が踵を返して控え室を飛び出した。蘭子が呼び止める間もなく。探す人手を増やしたところで、見つける当てなどないし、本番までの時間も残されていない。冷静にそこまで考えられないほど、杏里はかなり動揺しているようだ。

 冷静になり切れないのは蘭子も同様だった。二人きりで取り残されて、蘭子は呆然と立ち尽くしている。控え室には他にも人がいるが、みんな同じように発表を間近に控えているので、他の発表者が何かを紛失しても、気にする余裕はないみたいだ。

 失意でうずくまるわたしの背中を見つめて、蘭子は奥歯を強く噛みしめた。


「くっ……!」


 突然、蘭子はわたしのPCを開いて立ち上げて、ホーム画面が現れるまでの間にノートを開き、ペンケースからシャーペンを取り出して芯を出した。


「先輩……?」

「時間がないから粗削りになるが、発表で重要な部分だけは書いておく。杏里たちがメモを見つけるのを、待ってはいられない!」

「えっ……今からメモを作るんですか?」

「私はメモの内容までは把握していない。だから、茉莉の理想通りにはならないかもしれない。だけどな……」


 ようやくホーム画面が表示されたので、蘭子は大急ぎでスライドと資料のデータを開き、じっと見比べながら、手元のノートにシャーペンの先を滑らせていく。その手を止めることなく、ノートとPCから目を逸らすことなく、蘭子はわたしに力強く言った。


「茉莉の研究を一番よく知っているのは茉莉だが、私だって何度も、茉莉の発表練習に付き合ってきたんだ。茉莉の次くらいには、茉莉の研究を理解していると自負している!」


 いつになく真剣そのものの面持ちで、放たれたその言葉が、澱みかけたわたしの心臓をぎゅっと掴んだ。普段から、そして今日も、飄々としていて数学以外には不真面目な蘭子が、後輩であるわたしのために、ここまで必死になるなんて……。

 まだ、脚に力は入らない。だけど、うずくまってばかりではいられない。


「よし、こんなところか」蘭子はノートのページを丁寧に破りとった。「スライドに書いていない重要なポイントと、発表時の心構えはひと通り書いておいた。とりあえず本番はこれで切り抜けて……茉莉?」


 破りとったページを二つ折りにして、蘭子はわたしに手渡そうとして止まった。

 わたしはテーブルに片手を突いて、震える両足でかろうじて立っている。呼吸は何とか整えて乱れを抑えているが、深呼吸をしないとまた荒れてしまいそうだ。大事なものを紛失して、一度かき乱されたメンタルは、元々の緊張もあって、そう易々と回復してくれない。

 でも、蘭子がここまで必死に頑張ってくれたのだから、わたしも自分のメンタルくらい、自力で修復できるようにしないと……。


「ありがとうございます、蘭子先輩……ハァ、先輩方の協力は、絶対無駄にしません。わたしも、頑張りますから……」


 わたしは笑う。筋肉が攣るほどに、口角を上げる。これ以上、この不器用で優しい先輩に、心配をかけたくない一心で。

 本当に、ただそれだけだったのに。


「…………っ!」


 蘭子に、悲痛な表情をさせてしまった。


  * * *


 その頃、杏里は二人のスタッフと共に、消えた発表メモを探して館内を奔走し、思わぬ所で捜索の成果を得た。

 場所は二階の女子トイレの前にある、目立たずに置かれているゴミ箱。杏里はゴミ箱の蓋を外して、その中身を確認して、息が止まりそうになった。


「そんな……」


 ゴミ箱の中には、クリアファイルと、細かくバラバラに千切られた発表メモ。どの欠片もしわくちゃになっていて、本番までに繋ぎ合わせて判読できるようにするのは、難しいかもしれない。

 それでも杏里には、これを放置するという選択肢はなかった。杏里は出来る限り紙片を拾い集めて、クリアファイルに挟んでいく。いつもなら、ゴミ箱に手を突っ込むなんて不潔な事は避けるが、後輩の晴れ舞台を目前に、そんなことは言っていられない。


「せめて、少しでもメモの内容が分かれば……よしっ!」


 粗方拾い終えると、困惑しているスタッフたちを一瞥もせず、杏里は駆け出した。もう本番まで時間がない。まだ控え室にいると信じて、杏里の足は躊躇いなく急ぐ。

 息を切らして、杏里は控え室の前に辿り着いた。


「はあっ、はあっ、茉莉ちゃ……あっ」


 杏里の掠れた声は、まだ控え室にいた二人の耳に届かなかった。届いていたら、杏里は、こんな光景を目にすることはなかった。

 血の気が引く。心臓が激しく脈打つ。そのどちらも、杏里にとって初めての経験だった。

 大きく開かれた杏里の双眸に、映し出されたのは……。


 わたしを正面から抱擁している、蘭子の姿だった。


いよいよ、タグに入れておきながら微妙なラインをうようよしていた『百合』が、本格的に動き出すようです。茉莉の研究発表の行方はどうなるのか。そして、マス部の三人の関係はどうなるのか。

ということで、後編へ続く!

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