Day. 18 贈り物に小細工はいらない
あなたは、騙されずに真実を見破れますか?
……なんてね。
わたしの誕生日は8月10日なので、いつも夏休みの期間中ということもあり、学校でおめでとうと言われることはほとんどない。数少ない登校日と重なっていれば、同級生に祝われる機会もあったのだろうが、生憎そうなったこともなかった。友達がいないわけでは断じてない。ただ、休みの日によその家に行ってまでお祝いするほど、親しい間柄の友人がいなかっただけだ。
だから、この日に家族以外の誰かが、わたしの誕生日を祝うために、わたしの家に来ること自体、初めてのことになる。
「ここで合ってる?」
「うん、大丈夫。表札も『鈴原』だし」
事前にわたしから聞いていた自宅の住所を頼りに、地図アプリで調べながら、蘭子と杏里の二人は二階建ての一軒家の前まで辿り着いた。
「なんかドキドキするね。蘭子ちゃんの家には何度も行ったことあるけど、他の人の家に遊びに行くなんて、いつ以来かな」
「私は杏里以外の人の家に行った記憶が全くない」
「全く……? じゃあ、蘭子ちゃんはわたし以外の誕生日会に行くの、今回が初めてなんだね」
そう言いながら杏里は呼び鈴を鳴らした。
「そうだな……ひょっとしたら、これが最初で最後になるかもしれないくらいだ」
「何言ってるの」杏里はふわりと笑う。「来年もこういうことやろうよ。茉莉ちゃんのためにも、ね?」
「……鬼が笑うぞ」
と言いながら、笑っているのは蘭子も同じだった。
さて、二人がそんなやり取りをしていたとは露知らないわたしは、呼び鈴の音にバタバタと慌てて玄関に出た。慌てていたのは、誕生日会の準備が間に合っていないからではなく、もっと別の理由で……。
玄関のドアを開けたら、紙袋を手に提げている先輩たちがいて、一瞬笑みを浮かべたと思ったら、その笑みが固まった。
「あっ、いらっしゃい、先輩方! すみません、今から姉を叱るところなので、どうぞ中に入ってお待ちください!」
((何があった!?))
ボール紙で作られた歪な形の王冠を被って、鼻とヒゲのついたおもちゃの眼鏡をかけて、新品のワンピースの上に“本日の主役だよ”と書かれたタスキを肩にかけているわたしの姿に、先輩たちは唖然としていた。やりたくもないのにこんな恰好をさせられて、文句の一つでも言おうとしたタイミングで二人が来てしまったので、こんな恰好で出迎えるしかなかったのだ。
困惑したままの二人が家に上がったところで、諸悪の根源たる姉の八重子が、満面の笑みで二人に挨拶してきた。
「いらっしゃい! お二人がもんちゃんの部活の先輩たちですね。初めまして、姉の八重子です。今日はもんちゃんのために来てくれてありがとうねぇ」
「いえ……」
「あのさ、お姉ちゃん! 浮かれるのはいいけど、調子に乗って妹に変な恰好をさせないでくれる? 今どき忘年会でもこんなことしないよ!」
ボール紙の王冠とおもちゃの眼鏡を床に叩きつけながら、わたしは姉を叱りつけた。そんな、喧嘩にすらならない姉妹のやり取りを見せられている先輩たちは、呆然と突っ立ったままだ。
「えー? せっかく夜なべして作ったのに」
「だったらもっとマシなもの作ってくれない? この王冠とか、クオリティが幼稚園児レベルじゃんか!」
「ひどい! 妹の誕生日を華々しく飾りたかっただけなのに!」
「もういい。お姉ちゃんは今日一日、これ肩にかけてて」
わたしはすでに肩から外していた“本日の主役だよ”タスキを、押しつけるように姉に渡した。
「えっ? 私が本日の主役になっちゃっていいの~?」
なぜか押しつけられて喜んでいた姉は、タスキに書かれた文字を見て、スッと笑顔が消えた。いつの間にか油性ペンで“主”に二重線が引かれ、その横に“端”と書き加えられていた。
「…………」
「どうぞ、先輩方。もう食べるものとかは用意してありますので」
「あ、ありがとう……お邪魔するね」
「なんというか、あらゆる意味でユニークな家庭環境だな」
杏里と蘭子はドン引きして苦笑いを浮かべている。ちなみに後から教わったことだが、数学で“unique”は“一意性”を意味する言葉らしい。
リビングのテーブルの上には、ピザと簡単なオードブルと、四人分のケーキが並べられている。姉はさらに、この部屋に盛大な飾り付けをしようと言い出していたが、ささやかなお祝いで済ませたかったわたしは却下した。テーブルの周りに、普段使っていないおかげでふかふかのクッションを三枚置いて、来客の座る場所も確保している。
まあ、このクッションの一つに腰かけるはずだった約一名は、さっきめでたく“本日の端役”となって、リビングの隅っこに立ち尽くしているが……。
「好きなところに座ってください」
「明らかにホスト用と思しきソファーの席があるけど……」
「蘭子ちゃん、そこはさすがに今日の主役に譲ってあげよう?」
「そういえば、来るのは私たちだけなのか? 瑠衣も来ると思ったのだが」
「瑠衣なら昨日の朝早くに来ましたよ。テニスの大会の振り返りや反省会を兼ねた、二泊三日の合宿が昨日からあって、今日はどうしても来られないから先に渡しておく、と言ってプレゼントを置いていきました」
「サバサバした友人関係だなぁ……」
瑠衣は友達だけど、常日頃ベタベタするほど仲がいいわけじゃなく、丁度いい距離感で自然と接している関係だから、誕生日プレゼントを前日にポンと渡すくらいはよくあることだ。まあ、当日になってからLINEでおめでとうとメッセージを送るという、律儀な面もなくはないが。
そうそう、誕生日といえば、ついこの間知ったばかりなのだが、蘭子も三日前に誕生日を迎えて17歳になっている。同じ日にこの事実を知ったもう一人の人物が、憧れの蘭子にプレゼントを渡したいと息巻いていたのだが……。
「それはそうと、蘭子先輩はちゃんともらったんですか? 本庄さんからのプレゼント」
「そういえば、シェルピンスキーのギャスケットをプリントしたTシャツを渡したいって言ってたわね、あの子」
「ああ、ありがたくもらったよ。明後日の科学研究発表会に着ていって、峯田先生に見せびらかす予定だ!」
「……発表者と関係者の生徒は、制服を着用する決まりじゃなかったっけ」
親指を立てて自慢げに言う蘭子に、杏里は首をかしげながら告げた。もちろん制服の下にTシャツを着ることは、校則に照らしても可能だけど、そうなったら誰にも見せびらかすことが出来ないんだよなぁ。
……というか、わたしだけまだ会ったことがなくてよく知らないけど、マス部の前の顧問である峯田先生って、そんなTシャツを羨ましがる人なのだろうか?
まあ徒し事はさておき、そろそろお祝いを始めるとしよう。本日の主役であるわたしと、ゲストである蘭子と杏里、そして本日の端役である姉の八重子で、めいめいに飲み物を注いだコップを片手に……。
「では茉莉ちゃんの16歳の誕生日を祝しまして……生まれてきてくれてありがとう! 乾杯!」
「かんぱーい」
「乾杯……って、杏里先輩、それは赤ちゃんに向けたお祝いの言葉では」
なぜか音頭役を買って出た杏里が、どこかおかしいひと言を放ち、全員でコップを掲げてカチンと鳴らした。
「まあでも、ありがとうございます。杏里先輩と蘭子先輩のおかげで、今までで一番賑やかな誕生日祝いになりました」
「うちで誕生日のお祝い会なんて、そもそも一度もやったことなかったしね」
「シャラップ、お姉ちゃん」
「あはは……」苦笑する杏里。「今日って平日ですけど、お姉さんは学生さんなんですか?」
「そうだよ。大学の三年生。そろそろ就活とか考えなきゃいけない時期なんだけど、このモラトリアムな時間が心地よくてね……うちの教授の助手になるのも悪くないかと思い始めてるところ」
「研究助手の仕事ってそんなに稼げないと思うけど……」
それ以前に、常に実家でゴロゴロしている自堕落な姉に、まともな勤め人が務まるのかどうか……まあ、わたしの知ったことではないけれど。
ところで、さっきから蘭子は無言でピザを切り分けているみたいだが、視界の端にちらっと見える限りでも、明らかに妙なことになっている。
「というか蘭子先輩、さっきから気になっていたんですが……ピザを正五角形&五芒星に切り分けるところなんて初めて見ましたよ!? しかもかなり正確に! ホント変なところで器用ですね!」
「褒めてもピザしか出ないぞ」
「褒めてませんし、ピザ以外にも出せるものありますよね!?」
ああ、ダメだ……せっかく今日は特別な日になると思ったのに、結局いつものマス部のノリになっている。誕生日というイベントをあまり特別視しない蘭子は、変わらずマイペースなままだ。
綺麗な正五角形と五芒星の形に切られた結果、ピザはほぼ細切れ状態となった。ハーフ&ハーフとかじゃなく、一種類だけのピザだからまだよかったけど……。杏里もピザの惨状に呆然としている。
「これ、結構細かく切り分けられちゃったね……ほぼ外側のクリスピー部分だけのピースもあるし」
「私はクリスピー好きだからこれでも全然いいよ~?」姉だけは呑気だった。
「全部で16ピース……茉莉の年齢、しかもこの場の人数である4の倍数。ちょうどいいじゃないか」蘭子は事もなげに言う。
「誕生日ケーキに立てるロウソクじゃないんですから……わざわざわたしの年齢に合わせて切り分ける必要ないですよ。ピザなら普通に、放射状に切り分けたらいいじゃないですか」
「色んな切り分け方を試して数学的な可能性を広げるから面白いんじゃないか」
びっくりするほど質疑応答が噛み合わない。これだから生粋の数学好きは……わたしは頭痛がしてきて目頭を押さえる。ケーキは最初からカットされたものを買ってきてよかったと、心底思う。
「あははっ、話には聞いていたけど、もんちゃんの先輩たちって本当、語り草に事欠かなそうって感じで面白いね!」
本日の端役扱いされたから、姉は言いたい放題だ。……いや、いつもこうだな。
そして言いたい放題の巻き添えを食った杏里は、不愉快と言わんばかりに唇を尖らせている。かわいい。
「わたしまで蘭子ちゃんと一緒にしないでくださいよ……というか、さっきの挨拶の時から気になっていましたけど、なんでお姉さん、茉莉ちゃんのことを“もんちゃん”って呼ぶんですか?」
「茉莉→マリリン→モンロー→もんちゃん、という具合に、だんだん呼び方が変わっていった結果です。姉のネーミングセンスなんてこの程度ですよ」
「えー? かわいいと思うけどなぁ」
かわいいかどうかはあえて明言を避けるけど、ニヤニヤと笑って揶揄いながら使うあだ名に、いい印象を抱くわけがない。だから呼ばれているわたし自身は気に入っていない。
それなのに……蘭子はボソッと呟いた。
「…………もんちゃん」
「ピザとケーキ没収しますよ!?」
使われたくない呼び名を平然と使われて激怒するわたしと、没収されないようにピザとケーキの皿を手に持って遠ざけようとする蘭子が、ぎゃあぎゃあと言い争いを始めると、まるでそれを肴にするように、姉と杏里が和やかに語り合い始めた。
「妹は学校で楽しくやっているようだね。これもお二人のおかげかな」
「わたし達はたいしたことをしていませんけど、こっちも茉莉ちゃんがいると楽しいですよ」
「しかし、数学を研究する部活に誘われて入ったと聞いたときは驚いたなぁ。意外というか、似合わんというか」
「似合わんって……まあ確かに、茉莉ちゃんを知っている人から見たら、意外かもしれませんけど」
「でもまあそれでも、心地よい居場所を見つけられたのは何よりだよ。つばき学園の制服が着たいから、なんて理由で入学したけど、そんなんでまともな学校生活を送れるのか不安だったし」
八重子は珍しく、妹を本気で案じる姉の表情を見せたが、生憎、蘭子との言い争いに夢中だったわたしは見ていなかった。
「へえ、茉莉ちゃんもつばき学園の制服に憧れて入ったんですか。わたしも実は、制服目当てで入学した部分もあるんですよ」
と、杏里は恥じらいながら言っているが、もっと大きな理由は、女子校のつばき学園にかわいい女の子がたくさんいるから、だったりする。かわいい女の子が好きな杏里にとっては、まさに天国のような空間だろう。それはもう、想像するだけで頬が緩むほどに。
「かわいいですよね、うちの制服。生徒たちもかわいいから毎日が眼福なんですよ」
「……貴女は制服よりも別の何かに心惹かれてない?」
初対面ですぐ、後輩の姉に本性を悟られる杏里であった。
コップのジンジャーエールを一口飲んでから、八重子はちょっと伏し目になって呟く。
「まあ、あの子の場合は、憧れもなくはないけど、使命感とか義務感みたいなものの方が強いからなぁ。だからこそ、この調子でやっていけるのか不安だったんだけど」
「使命感? どういうことです?」
「悪いけど、妹の内面に関わることだからね、こればかりは本人から直接聞くべきだと思うよ。こんなに気の置けない関係を築いている二人なら、たぶんそのうち話してくれるんじゃない?」
八重子のその言葉に、杏里はほんのりと頬を染めた。そして、ジンジャーエールのボトルを持って、八重子のコップにお酌を始めた。
「お姉さん、もう一杯いかがですか」
「おやまあ、苦しゅうない」
「なんかあの二人、時代劇の悪代官みたいなことしてますね」
「どっちかというと、キャバクラとかホストクラブの光景じゃない? 実際に見たことはないけど」
言い争いの熱が冷めてきたわたしと蘭子は、いつの間にか仲良くなっている二人のやり取りを、不思議がって見ていた。確かに、綺麗な女性にお酌をしてもらってゲストが鼻の下を伸ばすのは、そういう類いのお店の光景かもしれない。実際に見たことはないけど。
「ところで、服といえば……私服の茉莉ちゃんって、結構おしゃれなワンピースを着てるのね。前にみんなでプールに行ったときもそうだったけど」
「まあ、こういうの好きなので。今着てるのは、昨日瑠衣にもらったプレゼントですけど」
「えっ、それが!?」本気で驚く杏里。「あの瑠衣ちゃんが選んでプレゼントしたのがそれなの!?」
「めっちゃ驚きますね……」
だいぶ失礼極まる驚き方だけど、分からなくもない。それこそこの間のプールに行ったときも、瑠衣はかなりアバンギャルドな恰好で現れて、わたしや先輩たちを唖然とさせていた。そんな瑠衣が選んだにしては、ずいぶん普通にかわいいというか、奇を衒った感じが一切ない。
「言っておきますけど、瑠衣は変なものを変だと分かった上で好んでいるのであって、決してセンスがおかしいわけじゃないんです。人へのプレゼントは普通に、その人に似合うものを選びますよ」
「センスはともかく、変だと分かっていて選ぶなら、相当変わった趣味嗜好じゃないか?」
「というかぶっちゃけ、この辺のセンスは瑠衣の方が上回っているんですよね。このワンピースだって、わたしが持っているどれよりもわたしに似合っていますし。いや、嬉しいんですよ? 普通に嬉しいし、だから今日着ているわけですし? だけどなんかこう……女子として負けた気分になるというか、素直に喜べないというか」
「傍目に見ても素敵なプレゼントをもらって複雑な気分になる人、初めて見た……」
「デデンッ、問題です。もんちゃんは友人の女の子から、誕生日にとても素敵なワンピースをもらって、好んで身につけているのに、なぜか複雑そうにしている。それはなぜでしょう?」
「唐突にウミガメのスープが始まったよ」
言うまでもないが、これは姉のジョークである。わざわざクイズ番組での出題時のSEまで再現するとか、無駄に凝り過ぎだろう。
「それよりも、プレゼントの話題が出たなら丁度いいタイミングだな。グダグダになってしまったけど、そろそろプレゼントを渡す段階に入るとしようか」
「誰のせいでグダグダになったと……」
「じゃあわたしからは、これ、あげるね♡」
そう言って杏里が手渡してきたのは、小さな花の細工をあしらった髪留めだった。異なる種類の花の細工を飾った髪留めが三個、プラスチックのケースに収まっている。わたしは一目で気に入った。
「わああっ! キレイ、かわいい。絶対このワンピースにも似合いますよ!」
「水着も花柄だったし、茉莉ちゃん、こういうの好きかなって思って」
「まさにこういうの好きです! 嬉しい……もうこのまま額に入れて飾りたい」
「うん、飾るなら自分の前髪にね?」
感激も一入のわたしは、両手に包んでいる髪留めのケースを穴があくほど見つめて、ちょっと興奮気味に率直な気持ちを口にした。杏里には突っ込まれてしまったけど。
すると、蘭子は顎に手を当てて何やら思案を始めた。
「ふむ……ここまで喜ぶとは。私もアクセサリーの類いを選んだ方がよかったか」
「蘭子先輩はこういうの分かるのですか」
「ろくすっぽ分からん」
黙っていればこういうアクセサリーも似合うくらいの美人なのに……この人は本当に数学以外への興味がからっきしだからなぁ。
「とはいえ、全くの別ジャンルだが、いいものを持ってきた。なかなかの力作だよ」
蘭子はたいして大きくないカバンを開けて手を突っ込み、ごそごそと探り出した。
力作……つまり蘭子が作ったのか。ふとわたしの脳裏に浮かんだのは、合同式を説明するときに蘭子が使った、“スパイラルカレンダー”なる、手作り感が凄まじい円筒形のカレンダーだった。あまりに実用性に乏しくて、死蔵されるに至ったそれを作ったのは、恐らく蘭子だと思うのだが……うん、どうも嫌な予感がする。
「さあご覧あれ! 手作り工作研究部、通称“クラ部”と共同で作り上げた、数学的トリックパズルだ! 写真立てみたいに立てて飾ることもできるのよ!」
自信満々に取り出して見せたのは、両手にギリギリ収まるくらいのサイズの、長方形のジグソーパズルだった。ピースを嵌めているフレームは木の板でできていて、一回り大きいプラスチックのケースに収められ、写真立てと同じ器具がケースの裏側に付いている。ケースはパズル面の部分が蓋になっていて、ケースに入れたままパズルを楽しめる仕様のようだ。それだけならまあ、手の込んだ手作りジグソーパズルなのだが、その模様がこんな感じである。
ピースの形状はそれなりに複雑なのに、表面は一色でベタ塗り。要するに板の切り出しは手が込んでいるが、模様は手抜き。
「……まあ、期待どおりですね。悪い意味で」
「悪い意味で!?」
本気でこれが“いいもの”だと思っていたのか、白けたような口調でわたしが漏らした率直な感想に、蘭子は信じられないと言わんばかりに驚いた。数学以外への興味がからっきしな蘭子に、素敵なプレゼントなど期待するだけ無駄だと分かっていたから、そういう意味では期待どおりだ。
まあ、それなりに苦心して作ったのは理解できるし、捨てたり突き返したりするのも悪いし、くれると言うならもらうが。手作り感が満載のジグソーパズルを収めたケースを、わたしはひょいとつまんで受け取った。
「なんですか、この見るからにヘンテコなジグソーパズルは」
「君はこのパズルの数学的な深淵が分からんのか!」
「逆になんで分かって当然だと思ってるんです?」冷静にツッコミを返すわたし。「というか、手作り工作研究部なんて部活もあるんですね。初めて聞きましたよ」
「つばき学園って、運動部は割と普通だけど、文化部は本当に変わった所が多いから……手作り工作研究部も、元は工作部とDIY部と手芸部が合併してできた部活で、とりあえず手作業で作れる物なら何でも守備範囲になるから、だいぶ活動内容が大雑把なんだよね」
同じく変わり種の文化部の誼なのか、杏里はよその変な部活の事情にも明るいみたいで、苦笑しながら詳しく説明してくれた。
「ちなみに“クラ部”は“クラフトアート部”を略した名前なんだって」
「結果的にすごく紛らわしい愛称になってますね」
というか、マス部もそうだけど、うちの文化部ってお堅い正式名称にカタカナ二文字の愛称をつけるのが通例なのか。クラ部にしても、そんな略し方をするくらいなら、クラフトアート部を正式名称にしてもいいだろうに。……たぶん、合併の際に各部の意見をすり合わせた結果、よく分からない名前に落ち着いたのだろうな。
さて、まるで期待どおりの反応を見せてくれないわたしに、蘭子は面白くなさそうに口を尖らせている。
「何だよ、せっかく苦労して作ったのに……なんでみんな、私が作ったモノを見て微妙な表情になるんだか」
「蘭子先輩こそ、似たような前例を経験してるのに、どこからその自信は湧いて出るんですか」
「数学が全てだと思っているフシがあるからなぁ、蘭子ちゃん……」
「まあいいですけど、とりあえずこのおもちゃは引き出しの奥に仕舞っておくとして……」
「飾れるから飾って!?」と、蘭子。
「飾るにしてもちょっと気になる所があるんですけど、これ、なんでここだけ隙間が空いてるんですか」
わたしが指差した場所は、二枚のピースの階段状になっている部分が噛み合っているのだが、その間に、なぜか大体1cm四方の正方形に穴が空いている。まるで、ここに嵌まる小さなピースがどこかに消えてしまったように。
「ホントだ……」姉も横から覗き込む。「ここに嵌まるやつ、どっかに無くしちゃったの?」
「いや、用意したピースは、そこにある7枚で全部だ。その正方形の空白に嵌めるものは最初からない」
「え? なんでそんな中途半端なジグソーパズルにしたんですか」
「言っただろう。そのパズルには数学的な深淵があるんだよ。その正方形の穴は、7枚のピースを上手く組み替えることで、埋めることができる」
蘭子は怪しげな笑みを浮かべて、一言一句をゆっくり唱えるように、そんなことを言ってのけた。
…………。
わたしは、そして姉も、手元のパズルと蘭子を交互に見つめて、視線が二往復くらいした後に、蘭子に向かって言い返す。
「……本気で言ってます?」
「私が数学に関して冗談を言ったことがあるかい?」
「わたしが理解している範囲では、たぶんないと思いますけど……」
言外に、たまにあなたの話していることは理解できないから、その中に冗談が紛れていても分からない、と答えている。まあこの人は、数学に関しては度を超えて真剣だから、冗談の類いは言わないだろう。洒落の類いで杏里を失笑させることはあるけど。
しかし、蘭子がそういう人だと知らない姉は、かぶりを振りながら嘲るように笑って言った。
「いやいや、ありえないでしょ。ちょっとごちゃごちゃしてるけど、ピースを組み替えただけじゃ全体の面積は変わらないんだから、組み替えても穴は埋められないでしょ?」
「本当に?」
「え?」
「図形を組み替えても全体の面積は変わらないって、どうして言えるんです?」
今日会ったばかりの後輩の姉に対して、蘭子は真っすぐじっと視線を向けて、試すように強気の口調で問いかける。いつもは能天気に振る舞う姉も、さすがに困惑して返答が覚束なくなっている。
「いや、だって、図形ってそういうもの、でしょ……?」
「どうでしょうね。バナッハ・タルスキの定理にあるように、図形の組み替えは必ずしも大きさが不変とは限りませんから。まあ百聞は一見に如かず、実際にやってみようじゃないですか。というわけで杏里、検証は任せた」
蘭子はわたしの手からケースを掠め取って、杏里に差し出した。それ、わたしへのプレゼントのはずでは……?
「なんでわたしが? それに、そのパズルは今日初めて見たんだけど……」
「杏里なら原理を知っているだろう? それで充分だよ。それに、設計して作ったわたしが解いたら、インチキを疑われそうだからな」
「……疑われるも何も、それって元々インチキだよね」
「えっ!? インチキなんですか?」
珍しくジト目で蘭子を見返しながら告げた杏里のひと言に、わたしは衝撃を受けた。しかも蘭子は、杏里のインチキ発言を否定することなく、楽しそうに笑ったままであった。
「そのタネ明かしも含めて、杏里に任せたいんだよ。頼むよ」
「もう、しょうがないなぁ……」
蘭子に差し出されたインチキパズルを、ため息をつきながら杏里は受け取った。幼馴染みからの頼みには甘いのだな……。
そして杏里はケースの蓋を開けて、迷わずさくさくと、パズルのピースを組み替えていく。今日が初見だと言っていたが、やはり蘭子の読み通り、要領は押さえていたようだ。7枚しかないし、杏里なら目を瞑ってもできるかもしれない。
「はい、できたよ」
そう言って杏里は完成形(?)をわたしに見せた。
まさかの光景だ。本当に、ピースを組み替えただけで、小さな正方形の空白が埋まってしまった。信じがたい。
「うそっ……!」
「マジで!? 本当に組み替えただけで大きさが変わっちゃったの?」
「もちろんそんなわけはないよ」杏里が言う。「これは、誤差を利用したトリックだよ。蘭子ちゃんも最初に、これはトリックパズルだって言ってたでしょ」
「トリック……?」
「まあ、蘭子ちゃんのことだから、恐らくこの辺りに……」
杏里はパズルのケースをカチャカチャと弄って、ケースの裏面を外した。写真立ての器具が付いている面も全体が蓋になっていて、ここを開けるとパズルのフレームごと出し入れができるみたいだ。そして、フレームの裏側には、板の木目の模様を印刷した、フレームと同じサイズの紙が仕込まれていた。
「あっ、やっぱり……」
「こんな所に紙が隠されていたんですか」
「なるほどねぇ、フレームと同じサイズ、同じ色調の紙を裏側に宛がって、透明なケースの中に入れてしまえば、簡単には見つけられないって寸法か。確かにこいつは力作だよ、蘭子くん!」
「ありがとうございます、お姉さん!」
ぐっとサムズアップを見せ合って、蘭子と八重子は揃ってニヤリと笑った。何やら通じ合うものがあったらしい。杏里に続いて蘭子とも、初対面で意気投合するなんて……コミュ力は姉の方が上だと分かっていても、どことなくモヤモヤする。
「それより杏里先輩、なんでその紙が隠されているって気づいたんですか」
「蘭子ちゃんなら、意地の悪い問題に見せかけて、何かしらヒントを潜ませていると思ったの。これも、蘭子ちゃんは数学の問題として用意したはずだから、考えれば絶対に解けるようにしているってね」
「まったく、杏里は私のことを理解しすぎだな」
「長い付き合いだからね。そういうわけで、茉莉ちゃんならこのヒントを見れば、きっとトリックに気づくと思うよ」
杏里はそう言って、例の紙を裏返してわたしの前に差し出した。木目の模様を印刷した面の裏には、こんな図が書かれていた。
これは……空白がある並べ方と、空白のない並べ方の両方に、グリッド線を加えているのか。この図のおかげで、各ピースの正確なサイズが分かる。全体の長方形の大きさは、縦が13cm、横が21cmで、空白はちょうど1cm四方の正方形みたいだ。
…………ん? なんか、変だな。
「これ、よく見たら妙ですね」
「おっ、どこが妙なのかな」
「一見すると、直角三角形や階段状のピースが組み合わさって、13×21の長方形ができているようですけど……3枚ある直角三角形のうち、2枚は底辺と高さの一方が偶数なので、面積は整数になりますが、一番大きい直角三角形は底辺も高さも奇数なので、面積は整数になりません。他のピースはどれも、1×1のマス目だけで構成されているので、明らかに面積は整数……つまり7枚のピースの面積は、合計で整数にはならないはずです!」
「ふむ、ということは……?」蘭子は微笑みながら期待の眼差しを向ける。
「杏里先輩が作った完成形は、長方形のように見えて、実は隙間が空いているんじゃありませんか?」
「隙間が空いてる?」姉が尋ねる。
「このジグソーパズルって、取り外しがしやすいように、ほんの少しだけピースを小さめにして、ところどころに“遊び”の空隙を作っているんだよ。だから、ほんの少しの誤差で、実際にはぴったりくっついていなくても、元からある“遊び”と区別がつかないから、見ただけでは分からないんだよ」
「じゃあ、最初の正方形の空白は、並べ替えて消えたわけじゃなく……」
「パッと見ただけじゃ分からないような、細長い隙間に形を変えただけ。たぶん……この対角線の部分がミソじゃないかな。くっついているように見えるけど、よく考えたら、そうなるはずがないんだよね。だって、13と21は互いに素だから、これ以上簡単な整数の比に変えることはできない。だったら、これより小さい8×13や5×8の直角三角形と、斜辺の傾きが一致するはずがないから」
直角三角形の斜辺の傾きは、底辺と高さの比率で表される。比率が同じなら斜辺の傾きも同じになるが、逆に比率が異なれば斜辺の傾きも異なる。
「うん、見事だ」蘭子は満足そうに頷く。「このトリックは、各図形の外枠を太くしたり、このジグソーパズルのように、気にならない程度の隙間を作ったりすることで、誤差を見えにくくしていることが肝になる。ちゃんと面積を計算すれば、0.5㎠分だけ、隙間があったりだぶったりしているはずだ」
「要するに錯覚を利用したインチキってわけですね……」
「おいおい。ただのインチキで済ませるのはもったいないぞ。茉莉もマス部の部員なら、そのヒントの紙を見て、このトリックが成立した理由を読み解きなさい」
トリックが成立した理由? わたしはもう一度、ヒントの書かれた紙をじっと見て、何が隠されているか考えた。とはいえ、書かれている情報はグリッド線と、縦と横のマス目の個数が一部だけ。たぶん、2個とか3個なら一目で分かるから、数字をたくさん書いてごちゃごちゃにならないよう、比較的多めの個数だけ書いているのだろう。
個数……書かれている数字は、5と、8と、13と、21……
「あーっ! これ、フィボナッチ数だ! そっか! だから斜辺が一致しているように見せかけられたんですね!」
「そういうことだ」
「どゆこと?」
ただ一人、フィボナッチ数列のことを知らない姉はピンと来ていないようなので、毎度のことながら、わたしがかいつまんで説明した。1、1から始まって、隣接する2項の和が次の項になること、隣接するフィボナッチ数の比率が、黄金比という比率にかなり近くなることを。
「つまり、数列の先へ行くほど、隣り合うフィボナッチ数の比率は非常に近くなるわけ」
「うんうん、それで?」
「直角三角形の斜辺の傾きは、ざっくりいえば、底辺と高さの比率で決まる。つまり、ここにある3つの直角三角形は、どれも底辺と高さが、隣り合うフィボナッチ数の組み合わせだから、傾き具合がほぼ一緒になるんだよ。もちろん微妙に違うけど」
「なるほどねぇ……ってことは、隣り合うフィボナッチ数を使えば、似たようなトリックパズルを作れるってことなのかな」
「隣り合っている必要はないですよ」と、杏里。「間にある項の個数が一致する、つまり同じだけ離れているフィボナッチ数の組み合わせなら、比率はどれも、その分だけ黄金比を累乗した値に近くますから」
例えば、3項分離れたフィボナッチ数の組み合わせは……
(2,8) → 8/2 = 4
(5,21) → 21/5 = 4.2
(13,55) → 55/13 = 4.2307…
(21,89) → 89/21 = 4.2380…
※((1+√5)/2)^3 = 4.2360…
「一般に、比率の近い整数のペアを探すのは簡単じゃないが、フィボナッチ数列特有の性質を使うことで、いくらでも見つけることができる。ちなみにこの性質は初期値に依存しないので、『隣接する2項の和が次の項になる』数列なら、なんでもOKだ」
「これ、もっと大きなフィボナッチ数を使えば、斜辺の一致率が上がりそうですね」
「理論上はそうなんだけど、直角三角形以外のピースを作るのが非常に面倒でね。私も色々試してはみたんだが……」
蘭子はそう言って、カバンから一枚のコピー用紙が入ったクリアファイルを取り出し、わたしに見せた。
「もっと大きい数になると、こんなふうに階段状のピースがどうしても複雑になるんだ。驚きだろう?」
「……こんなものを後輩の誕生日会に持ってきている事の方が驚きです」
マス部の活動と全く関係ない日なのに、蘭子は後輩の誕生日を祝うことより、プレゼントに絡めた数学の話に力を入れていた。まさに筋金入りの数学好きだ。
まあ、こんな図を作るだけでもひと苦労だろうとは、素人目にも分かるけど。姉もこの図を見て驚嘆の声を漏らした。
「すごい複雑な凸凹……整備が行き届いてない山道の階段みたい」
「でも、一つ一つの段の幅が1と2だけっていうのは、いかにもフィボナッチ数から作った感じがありますよね」
「どゆこと?」
「1と2の足し算だけで自然数を表すとき、順序の違いも含めたパターンの総数は、フィボナッチ数になるんですよ」
「へぇ~」
「あっ、そうだ」
杏里は何かを思いついて、カバンからノートとペンケースを取り出して、定規とシャーペンでノートに何やら図を描き始めた。
「蘭子ちゃんの作った図を見て思いついたんだけど……」
「ああ、杏里先輩まで、すっかりいつものマス部のノリに……」
今日は先輩たちに目いっぱいもてなされるはずだったのに、なぜかいつものマス部と何ひとつ変わらない。これはもう、変人の巣窟に迷い込んだ者の宿命なのだろうか……。
「ざっくりした図だけど、正方形を4枚の図形に分割して、長方形に作り替えるパズルを作ってみたよ」
「これは、どちらも目立つ穴が空いていませんね」
「だけど、面積を計算してみると……」
(左) 21×21=441
(右) 13×34=442
「ほほう、右の長方形の方が、1だけ大きくなっていますね。これも要するに、斜線の部分がくっついているように見えて、実は隙間があったり重なったりしているんですよね」
「蘭子ちゃんの作った図で、階段状になっている所を真っすぐにしても、実は同じトリックが成立すると思ったんだ」
「ほう……こういうパターンもあったか」
蘭子は口元に手を当て、感心したように呟いた。数学に関しては色々知っている蘭子でも、これは知らなかったらしい。
「蘭子先輩もご存じなかったんですか」
「正方形を切り接ぎして、1だけ増えたり減ったりした長方形に作り替える、別のパターンは知っているけどな。これは、一つ飛ばして隣り合うフィボナッチ数の比率が、非常に近いことを利用している」
「ここまでくると、他にもフィボナッチ数の比率を利用したトリックパズルがありそうですね」
「そうね、きっとどこかにあるわ」
「それにしても……数学的な理由がちゃんとあるとはいえ、こういう擬似的なパラドックスを生み出すトリックもあるんですね。作図の曖昧な部分を上手いこと利用しているというか……」
「本職の数学者よりは、パズル作家が発明したものが多いかな」と、杏里。「図形消滅パズルで有名なサム・ロイドとか、切り接ぎや最短距離の問題で有名なヘンリー・アーネスト・デュードニーとか」
「本職の数学者の中では、生涯で様々な数学パズルを発明した、マーティン・ガードナーとかも有名だよな」
有名だと先輩たちは言うが、残念ながらわたしはあまりピンときていない。もちろん姉も同様に首をかしげている。数学好きは数学者だけでなく、パズル作家も守備範囲に入れているみたいだ。
「そうそう、作図の曖昧な部分を利用した擬似的パラドックスといえば、正方形の外周と対角線を使って、2=√2を示すという話もあるな」
「はあ?」
蘭子の発言に、わたしは「何を言ってるんだコイツ」と言わんばかりに眉根を寄せた。擬似的パラドックスだからもちろん嘘なのだろうけど、何をどうしたら、そんな頓珍漢な等式が示されると言うのか。
蘭子は杏里のノートとシャーペンを借りて、さらさらと図を書き始めた。それは、正方形の右上の隅を次々と、小さな正方形に取り除いていくというものだった。
「見てごらん。こんなふうに正方形の外周を次々と凹ませていくわけだが、こうすることで外周の長さは変化するだろうか?」
「辺の一部を平行移動しているだけですから、もちろんどれも同じです」
「だよな。だけど、これを無限に繰り返したらどうなるだろうか?」
「無限に?」
実際に無限の繰り返しはできないから、大体のイメージになってしまうが、それでもどうなるかは容易に想像できる。
「ジグザグの線は対角線に、限りなく近づいていきますね」
「そうだね。ジグザグの線は常に、正方形の辺2本分の長さを保っているから、つまり対角線の長さも、正方形の辺2本分の長さと等しい……故に、この正方形の一辺が1だとすれば、2=√2が成り立つ」
「……そんなわけないですよね」
「そんなわけないな」
言いたいことは分かったし、こんなふうに考えれば、2=√2なんてふざけた結果になりそうに思える。でも、そんなもの、認められるわけがない。正方形の辺2本分の長さと、対角線の長さが一致するなんて、どう考えてもありえない。だから絶対どこかに致命的な嘘があるはずだ。
しかしこれは、無限を正しく使い慣れていないと、嘘を見抜くのは難しそうだ。現に姉は反論が思いつかず首を捻っている。
「んん……? そんなわけないなら、なんでこんなことになるの?」
「茉莉ちゃんがさっき言った、対角線に限りなく近づく、というのがポイントですよ」
そう、まさに杏里の言うことがポイントになる。わたしは以前、無限や極限に関して、蘭子が教えてくれた大事なことを、今でもちゃんと覚えている。だからここでも、対角線に“なる”ではなく“限りなく近づく”と表現したのだ。
「この方法だと、ジグザグの線は確かに、対角線にかなり近づきます。でも、決して対角線と一致することはないんですよね」
「そう。図を書くと一致しているように見えるけど、実際はどんなにこの操作を繰り返しても、ジグザグの線はジグザグのままで、決して真っ直ぐな線にはならない。非常に細かいジグザグにはなるけどね。対角線と一致することがない以上、2=√2という式も当然成り立たないわけだ」
ちなみにここでは直角二等辺三角形を使いましたが、他の三角形でも同様のトリックが成り立ちます。例えば正三角形を使えば、あたかも1=2を導けるような偽の説明ができます。
「んー、でもなあ……」姉はまだ釈然としていない。「無限に繰り返したら、その果てに対角線と一致するわけだから、やっぱり2=√2になりそうだけど……」
「お姉さん」蘭子が肩をすくめる。「無限っていうのはつまり“果てがない”ってことだから、“無限に繰り返した果て”という言葉はそもそも矛盾してます」
「あれっ!? 確かに!」
「この場合でいう“無限に繰り返す”は、ジグザグを増やすという操作の回数に上限を設けず、いくらでも繰り返していい、という意味しかないので、“どこに近づくか”と考えることはできても、“最終的にどうなるか”なんて問答は成立しないんです。早い話、そんなものは論理を無視した妄想の中にしかありません」
「モウソウ……」
自分の考えを妄想扱いされて、姉は真顔になった。数学好きって、論理を無視した主張にはとにかく厳しいからなぁ……。
「でもまあ、無限って使い慣れていないと混乱しやすいし、改めて無限の定義を考える機会がないと、勘違いしたままになるのも無理はないというか……」
「おぉ、慰めてくれるのか妹よ!」
「慰めてないし、あと先輩たちが見てるから抱きつくな」
わたしにフォローされて、感極まって抱きついてきた姉を、わたしは必死に突き放そうとするが、かなり強くしがみ付いていて離れない。しまいには口を窄めてわたしの頬に吸い付きそうな勢いだ。
そんな姉妹のやり取りを目撃した先輩たちは、こう思ったそうだ。これが鈴原家の姉妹の日常か、と。
「まあとにかく、こういうトリックに騙されないようにするには、曖昧な部分をはっきりさせることが大事なんですね。図に惑わされず、ちゃんと論理的に考えれば、トリックは見破れるはずです。……ホントいい加減離れて、お姉ちゃん」
「ふうん……」不敵な笑みを浮かべる蘭子。「論理的に考えればトリックを見破れる、ねえ……だったら茉莉、この証明に隠されたトリックは見破れるかな?」
蘭子はまた、杏里のノートにさらさらと何かを書いていく。今度は図ではなく、図形に関する証明を綴った文章だ。
「これは、任意の三角形が正三角形であることを示した証明だ」
「……任意の、ってことは、どんなに好き勝手に三角形を書いても、それが必ず正三角形になるというのですか」
「ここに書かれた証明に従えばそうなる」
「そんなわけないですよね……!?」
あまりに斜め上を行く不可思議な証明(?)に、わたしは愕然として表情筋が固まりかけた。蘭子はそんなわたしの反応さえ楽しんでいるみたいだが。
「もちろんそんなわけないけど、ならばどこに問題があるかを特定してもらいたい」
「うーん……」ノートを凝視して考える。「角の二等分線と、反対側の辺の垂直二等分線が交差する点があって……」
「もんちゃん、完全に自分の誕生日会そっちのけ」
なんだか姉が言わずもがなの余計なことを口にしたみたいだが、わたしにだってマス部の部員としてのプライドはあるし、図形の性質なんて中学レベルの数学で苦戦するわけにはいかないのだ。……塵芥のようなプライドではあるが。
「三角形APDとAQDはどっちも直角三角形……斜辺が等しくて、直角以外だと、角Aが二等分線で分けられているから、角PADと角QADも等しいので、合同条件は確かに満たしてる……三角形BMDとCMDも、二辺と挟まれている角がそれぞれ等しいから合同だし、三角形BDPとCDQの方も、確かに合同条件を満たしている。つまり最後のAB=ACも成り立つから……」
いや、まさかそんな。ここに書かれている合同条件の適用は、どこにも問題が見当たらない。絶対どこかに問題があるはずなのに、どこを探しても見つからず、わたしは焦燥感に襲われている。
「あれぇ……? これ、全く問題が見当たりませんよ……? 合同条件の適用は間違いなくできていますけど……?」
「あー、やっぱりまだ荷が重かったかなぁ……」
「中学の数学で、図形の性質を証明する方法は習っても、証明の間違いを指摘する方法は習わないからなぁ。茉莉、実際に作図して確かめてみるといい。フリーハンドでもいいけど、なるべく正確にね。そうすればすぐに気づく」
「はあ……」
慣れている人はフリーハンドでも綺麗な円を描けると言うけど、生憎わたしはそこまで手先が器用ではない。まあでも、杏里の持っている定規を使えば、それなりに正確に近い作図はできるだろう。角の二等分線については、感覚に頼るしかないけど……。
だが、感覚頼りでもすぐに分かった。そして、こんな簡単なことがすぐに分からなかった自分に、改めて愕然とした。
「これって……!」
「気づいた?」
「角Aの二等分線と、辺BCの垂直二等分線……交わらないじゃないですか!」
「そう。その二つの線は、三角形ABCの内部では交わらない。つまりこの証明に書かれているような交点Dなど存在しない」
「この証明は、存在しない点が存在するという前提で書いたから、間違った結論が導かれたのね」
「なんか、分かってしまえば簡単な話でしたね……気づけなかった自分が情けないです」
肩を落として苦笑するわたしに、蘭子は追い打ちをかけるように告げた。
「まあ、実際に作図しなくても、角Aの二等分線と辺BCの交点が、辺BCをAB:ACに内分するという性質を踏まえたら、交点Dが存在しないことはすぐに分かるけどな」
「それ、今になって言いますぅ……?」
この性質は有名ですが、念のため、証明に必要な図をここに置きます↓
「だがどちらにしても、正確な図を頭の中に描けていれば、点Dが内部に存在しないことはすぐに分かるし、証明の穴にも気づける。文章の中であたかも、当然のように“交点をDとおく”と書いていたせいで、脳内で存在しない点を勝手に作ってしまったわけだな」
「文章で騙して、図を書くことで気づけるトリックもあるんですね……」
「ちなみに、角Aの二等分線と辺BCの垂直二等分線は、三角形ABCの外で交わる。このことを前提にすると……やっぱり任意の三角形が正三角形であることが示される」
蘭子はノートの隣のページに、再び証明の文章を綴った。
「では、この証明の問題点がどこにあるか、分かるかな?」
「うーん……」
わたしは、証明(?)の書かれたノートをじっと見て考える。隣のページには、さっきわたしがフリーハンドで書いた三角形の図がある。
「今度は点Dがちゃんと存在している。合同条件を確認するくだりは、点Dの存在が前提だからこれも大丈夫なはず。点Dは三角形ABCの外側にあるんだから、半直線ABとACに下ろした垂線が交わる場所も辺の外側で……ん?」
今、心に引っかかりを覚えた。点Dが三角形ABCの外側にあるから、点Dから半直線ABとACに下ろした垂線との交点PとQも、辺ABとACの外側に……あるのか?
もとい、そうじゃない。
「もしかして、最後の、ABとACが等しいと示す式が間違っているんじゃ?」
「というと?」
「ここには、AB=AP-BPとAC=AQ-CQと書かれていますけど、片方は引き算じゃなく足し算になると思います。点Pと点Qのうち片方は、三角形ABCの外側じゃなく、辺ABまたは辺BCの上にあるから……つまり、AP-BPとAQ-CQの片方は足し算になるので、この等式は成り立ちません」
「正解だ」嬉しそうに歯を見せて笑う蘭子。「今度はちゃんと正確な図を頭の中に描けたみたいだな。三角形ABCの外接円Oを書き加えると、辺BCの垂直二等分線はこの円Oの中心を通ることが言える。この事実と、円周角の定理およびその逆を使うことで、点Dが円Oの周上にあることが示される」
「辺BCの垂直二等分線と円Oの交点のうち、Dでない方をEとおくと、円周角の定理から、角EBDと角ECDはともに直角となる。もし頂点Aが、Eから見てB寄りにあるなら、角ABDは鈍角、角ACDは鋭角になる。AがC寄りにあったらその逆だ。角ABDが鈍角なら、点Dから半直線ABに下ろした垂線は、辺ABの外で交わるが、逆に鋭角なら、垂線は辺ABの中で交わる」
「角ABDと角ACDは片方が鋭角でもう片方が鈍角だから、点Pと点Qが両方とも外側にくることはありえない、ということですね!」
「どうだろう? この証明の間違いを指摘するには、中学レベルの図形の知識があれば充分だけど、高校生でも意外と手こずる人は多いと思うよ」
「そもそも証明を組み立てる訓練はしていても、間違った証明を修正する訓練をしている高校生は少数でしょうからね」
「でもそういう訓練は、この先ちゃんと数学を学ぶなら必須だし、論理的思考を身に付けるにも役立つはずだよ」
論理的思考か……まだわたしには難しく感じるけど、マス部で活動している最中に、先輩たちが幾度となく口にしていた言葉が、今でも耳の奥に残っている。
『数学の発明は、実験と閃きで仮説を立て、論理で検証と修正をする、その繰り返しの末に生まれる』
論理的思考で一番大事なことが『検証と修正』なら、確かにこの訓練は、論理的思考を養うのに役立つのだろう。
「すごいなぁ、もんちゃんは……今の証明の間違いを見つける問題、私にはさっぱり分かんなかったよ。さすが、部活で数学の猛者たちに鍛えられているだけあるね」
「猛者?」
「誰のことです?」
先輩たちのことだよ、とわたしは突っ込みたくなった。わたしから見たら二人ともかなりの猛者だと思うけど、本人たちは自覚していないらしい。たぶん、去年の一年間で同様の猛者に囲まれ続けて、感覚が鈍っているだけだろうけど。
そんな二人に向けて、姉はコップのジンジャーエールを片手に、普段は見ることのない柔らかな笑みを浮かべた。
「まあ、色々突っ込みたいところはあるけど、妹の誕生日をお祝いに来てくれたのは、姉として嬉しいし、なんだかんだいい誕生日になったと思うんだ。今後も妹のことをよろしくしてやってねぇ」
「お姉ちゃん……」
わたしも先輩たちも、八重子のその言葉を呆然として聞いていた。姉らしからぬ気遣いに満ちた言葉……いや、本来ならむしろ姉らしいと言うべきか。普段の姉が姉らしくないからなぁ。
ところが、なぜか杏里と蘭子は俄に慌て始めた。
「そうだよ、今日は茉莉ちゃんの誕生日をお祝いしに来たんだよ! なのにいつもみたいに数学の話に夢中になって!」
「いや、でも私と杏里で誕生日のお祝いをするときもこんな感じで……誕生日会ってどんなことをすればいいんだ?」
「プレゼントはもう渡しちゃったし、どうしよっか……」
「君たち、そんなんで人付き合いとかやっていけんの?」
今頃になって、誕生日会なのにいつも通りだと気づいて慌てる二人の姿に、姉は呆れた目を向けている。こういう人たちだと分かっているわたしは、やれやれ、と思いながらケーキを一口戴いた。うん、美味しい。
* * *
いつも通りすぎてグダグダになった誕生日会を終えて、蘭子と杏里は帰路につく。八重子は研究発表会の壮行会も兼ねていると言っていたが、それらしいこともしていない。当日も会場まで付き添うことになっているし、後輩への励ましの言葉は部室に集まる度にかけているから、特にこの場でないと言えないことはなかったのだ。
「何というか、世の誕生日会の勝手がまるで分からなくて、空回りばかりしていた気がする……」
「まあ、それがわたし達らしいといえば、わたし達らしいんだろうけど」
「いよいよ明後日だな。まあ、学校の単位がかかっているわけでもないし、気負わずにやればいいと思うんだが」
「当日になれば大勢が見に来るから、それだけでも充分緊張しそうだけどね、茉莉ちゃんなら」
「きっと前日のギリギリまで、一人で発表練習とかするんだろうな」
「一度始めたらのめり込むところがあるよね。そこは意外と研究者向きかも」
四ヶ月ほどの短くて、しかし濃密な付き合いの中で、二人は後輩のことを深く理解するようになっていた。自宅でも発表練習に悪戦苦闘する光景が、簡単に目に浮かぶくらいに。
「あっ、そうだ。忘れないうちに……」
杏里は何かを思い出して、蘭子の前に一歩踏み出して、朗らかな笑顔で振り向いて告げた。
「蘭子ちゃんも、お誕生日おめでとう。そして、生まれてきてくれてありがとう」
「……遅れ馳せだなぁ」
三日前に誕生日を迎えている蘭子は、その祝辞に呆れながらも、内心の嬉しさを隠しはしなかった。誕生日を迎えられたこと、生まれてきたことで二人に出会えたことは、蘭子にとって特別な意味がある。
「でもまあ、こっちこそありがとうだよ。この頃になると、生まれてきてよかったと心底思う。特に今年はね」
「うふふっ」杏里は微笑んだ。「わたしの誕生日には、ちゃんとしたプレゼントをお願いね♡」
「……もうそろそろネタ切れになりそうなんだが」
普段からディープな数学の話で盛り上がる関係なので、蘭子は杏里の誕生日に、数学絡みの物をあげたことがない。しかし、センスが微妙なのに苦労して毎年色んなプレゼントを選んで渡していることもあり、蘭子にはだんだん限界が近づいていた。
だけど、杏里にとっても、蘭子が誕生日を祝ってくれることには、特別な意味がある。
「だーめ、茉莉ちゃんと同じくらいお祝いして♡」
「……善処するよ」
幼馴染みの頼み事に弱いのはお互い様だな、と蘭子は思った。10月に入ったら覚悟を決めなければなるまい、とも。
蘭子のことを知りすぎている杏里に、小細工や誤魔化しは通用しないのだから。
フィボナッチ数列を紹介したからには、この図形トリックの話もやりたかったので、茉莉の誕生日に合わせて無理くりねじ込みました(笑)
正しく論理的に証明を組み立てるには、論理的に間違いを見つけて指摘する力も必要です。数学に限ったことじゃないですが、私は論理を、「答えを導き出す道具」というより「出した答えを検証する道具」だと思っています。論理だけで問題は解けませんが、論理を無視しても問題は解けません。解いたつもりになるのが関の山です。検証は大事、何事も。
さて、今回はこれで終わりじゃありません。お馴染みのafterシリーズをまたやります。ようやく本編デビューを果たしたのに本日の端役扱いをされた八重子が、茉莉と一緒に、フィボナッチ数のある不思議な関係を探ります。続けてどうぞ。




