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Day. 17 黄金へ到る旅

まだ作中は夏真っ盛りですが、今回はひたすら部室内での数学トークなので、季節感0です。あるいは、ほとんど0です。

本日のお題は『パスカルの三角形』です。前回のあとがきでお知らせした通り、色々取り上げた結果、ものすごい長旅になりました。二度目の登場となるあの子と一緒に、ゆったりとお付き合いください。


 伝統ある名門女子校、私立つばき学園高校は、夏休みの真っ只中にある。しかしそれでも、生徒の声が聞こえないわけではない。一部の部活では、夏や秋に大事な大会を控えているため、夏休み期間中でも定期的に学校へ来ては、部活動に打ち込んでいる。

 わたしが所属するマス部こと数学研究クラブも例外でなく、間もなく開催される科学研究発表会に向けて、発表練習を連日のように続けている。だけど、この日は少し違っていた。


「先輩方、本庄(ほんじょう)さんが来ましたよ!」

「お、お邪魔いたします!」


 わたしに背中を押されながらマス部の部室に入ってきたのは、テニス部の一年生、本庄乃々美(ののみ)。わたしの数少ない友人である瑠衣と同じ部活で知り合い、終業式の日にわたしやマス部の先輩たちとも顔を合わせている。わたしより少し背が低く、お下げ髪がチャームポイントの彼女は、自身の引っ込み思案を克服するために運動部に入ったのだが、克服は難儀しているようである。

 先日、高校テニスの全国大会が閉幕し、監督が交代して強化されたつばき学園高校テニス部は、ベスト8まで躍進した。大会を終えたテニス部はこの日、練習が午前中で終了し、わたしは午後から発表練習をすることになっていたので、瑠衣と待ち合わせて一緒にお昼を食べるつもりでいた。そこに乃々美も加わって、昼食が終わってから瑠衣だけが所用で帰ってしまい、予定のなかった乃々美がわたしに付き添う形で、マス部を電撃訪問することになったのだ。

 先輩たちにはすでにLINEで知らせていたので、部室で乃々美のことを迎え入れてくれた。まあ、二人とも特に構えることはなく、パイプ椅子に腰かけて待っていただけだが。


「あら、確か蘭子ちゃんのファンだって言ってた……」

「終業式の日以来だね、本庄さん」

「はうぅぅ~……! 推しに、推しに認知されていりゅぅぅ……!」


 出たよ、限界オタクの反応。言い忘れていたが、乃々美は蘭子の、超がつくほどの大ファンである。さっきまで緊張で声が裏返り気味だったのに、蘭子が名前を覚えていただけで、途端に腑抜けたような口調になった。


「それで? 今日はマス部の見学に来たのか?」

「見学といいますか、及川先輩が普段どんなところで活動されているのか気になったもので……そもそも、私ごときの数学の成績では、先輩とお近づきになるためにマス部に入ることすら烏滸(おこ)がましい限りでありまして、入部前提の見学など以ての(ほか)……!」

「何も顔面全体で悔しさを露わにせんでも……」


 マス部で蘭子に近づけないという現実に、どれだけ忸怩(じくじ)たる思いを抱いているのか、乃々美は表情を歪ませて下唇を噛んでいる。資金力の問題で推しに会ったりグッズを集めたりするのが難しいオタクって、たぶんこんな顔をするのだろうな……。推される側の蘭子は若干引いているが。

 さて、今日のマス部はいつものように、わたしの発表練習がメインとなる。というわけで、乃々美にはしばらく、わたしの発表練習を見学してもらうことになった。


「……このように、偶数を二つの素数の和で表すパターン数に着目すると、大雑把に見て増加していることが分かります」


 ここ何週間もの特訓のおかげで、ほとんど噛まずに説明できるようになった。何度も同じ説明をして、自分が始めた研究への理解も深まって、聞く人が増えても緊張することはなくなった。

 そんなわたしの発表を、乃々美は感心して見ているようだった。緊張しなくなったとはいえ、まだつまずかずに説明するのに必死なので、乃々美がどんな様子でいるのか、目を配る余裕はない。


「……以上で、発表を終わります。ご静聴ありがとうございました」


 締めのひと言を告げると同時に、杏里がストップウォッチの計時を止めた。


「9分34秒。このくらいなら、質問の時間を含めても、規定時間に収まりそうね」

「だいぶスラスラと話せるようになったな」

峯田(みねた)先生が見に来ると分かってから、練習が一層厳しさを増しましたからね……嫌でも鍛えられますよ」

「だが峯田先生の底意地の悪さが発揮されるのは、この後の質問タイムだ。想定される質問はじゃんじゃんぶつけていくからな」

「……むしろ蘭子先輩の方が底意地の悪さを発揮してません?」

「私は後輩を荒波に負けないよう鍛えているだけだが?」

「うーん、たぶん峯田先生も、同じ理由で厳しく質問してきているだけだと思うけどなぁ……」


 恐らくは杏里の言うとおりだろうし、蘭子もきっと頭では理解している。ただ、厳しくされている最中は、そのありがたみを実感するのが難しいだけなのだ。そして、よしんば実感を伴ったとしても、つらい目に遭った記憶はそう簡単に薄れないから、苦手意識がありがたみを上回ることは珍しくない。

 もっともわたしの場合、普段から蘭子の意地の悪さを目にしているので、重箱の隅をつつくような質問をされても、今さら苦手意識が強まるわけでもないが。


 さて、蘭子はまあまあ底意地が悪いので、練習の度に毎回違う質問をぶつけてくる。どんな質問が来ても対処できるようにする訓練だけど、単に原稿どおりに説明するだけの発表と比べて、格段に精神へのダメージが大きい。規定時間が終わった頃には、お約束のように息も絶え絶えの疲労困憊(こんぱい)状態になるわたし……。


「はい、とりあえずこのくらいにして、休憩に入ろう」

「あの……大丈夫ですか?」


 テーブルに突っ伏しているわたしに、乃々美が心配そうに声をかけてきた。最初の頃は杏里も同じように声をかけてくれたけど、近頃は冷たいお茶を出して労うくらいで、心配する素振りは見せなくなった。まあ、大体いつも、冷たいものを口にしたら爆速で回復するから、心配する必要がないと思われているのだろう。とはいえ、やはり気を遣ってくれるのはありがたい。


「あー、大丈夫。いつもこんなだから」

「研究発表って結構大変なんですね……」

「というか、本庄さんこそどうなの?」

「え?」

「マス部にいるときの蘭子先輩って、普段と違ってお淑やかさの欠片もないから、幻滅とかしてないかなって……」

「本人のいる前でそれを言うか」


 と、蘭子本人が不服そうに突っ込む。まあ、聞こえないように言ったつもりはなかったけども。

 乃々美はマス部以外の場所で、淑女然として振る舞う蘭子を見ていて、彼女の熱烈なファンになったから、イメージとまるで異なる蘭子の姿に落胆した可能性もあったのだが……。


「後輩の晴れ舞台のために自ら悪役を買って出る姿勢……ますます推せます!」

「あ、そう……」


 この程度では幻滅などありえないようで、乃々美は拳をぐっと握りしめて目を輝かせた。ガチのオタクって、推しのどんな言動も好意的に解釈するところがあるからなあ……ただ、言わせてもらうなら、蘭子に恐らく悪役を演じているつもりはない。


「それにしても、どんな偶数も2個の素数の足し算になるって、不思議ですね。わたし全然知りませんでした」

「本当にそうなのかは、まだ分かってないんだけどね。現時点で反例が見つかってないだけで」

「数学を研究する部活って、どういうものか想像つかなかったですけど、同じ一年生でここまで本格的にやっているとは思いませんでした……敬服します!」


 ほとんど強制みたいなものだったし、普段は研究よりも、とりとめない数学トークの方が多いけどね……尊敬の眼差しを向けている乃々美には、とても言えないが。


「先輩方は、どのような研究をされているのですか?」


 乃々美が蘭子たちのいる方を振り向いて尋ねた。答えを聞いたところで理解できるのか、とは思ったけど、ひとまずなるように任せてみることにした。


「わたしは、ガウス整数環における一意分解可能性の再検証を、テーマにしてみたわ」

「ん? がう……?」

「私は、三次元版シェルピンスキーのギャスケットの整数論的性質と、一般次元への拡張可能性について研究していたな」

「あー、えっと……そうなんですね」


 完全に思考がフリーズしている……案の定乃々美は、蘭子と杏里の返答を全く理解できず、感情の消えた受け答えになった。先輩たちもこの反応が返ってくることは想定していたようで、慌てることなく気を遣い始めた。


「無理に理解しようとしなくていいんだよ? どっちも高校数学の範疇外だし」

「まあ、シェルピンスキーのギャスケットを、単なるフラクタル図形として見れば、確かに高校数学の範疇外ではあるな。ハウスドルフ次元や相似次元を計算するなら高校数学で事足りるが」

「蘭子ちゃん……」


 違った。蘭子に関しては、数学の素人に気を遣う能力など備わっていない。専門用語で追撃しようとする蘭子を、杏里は静かに(たしな)めた。


「だけど、シェルピンスキーのギャスケットは、高校一年生で扱う数学とも深く関係している。概念そのものは、その気になれば小学生でも理解できる代物だ」

「小学生でも?」

「理解できなかったら恥ずかしいってことですか……?」


 乃々美はすでに恥じ入りそうになっている。数学が不得手という自覚があるからか、聞く前から理解できないと決めてかかっている節がある。


「卑下するのが早いよ、君。別に難しい話ではない。1以上の自然数を、三角形の形に並べるだけの話だからな」

「え? 自然数って、普通1以上では……?」

「数学の一部の分野では、0から始まることもあるんだよ」


 これも数学に詳しくないと、違和感を覚えることもあるのだろう。なんか最近は、わたしばかりがその説明をしている気がする。

 自然数が0から始まることもある事情を、蘭子自ら説明するつもりはないらしい。何やらロッカーの上に放置されている筒状に丸められた紙を、蘭子は手を伸ばして掴んだ。その紙の幅は三メートルくらいありそうで、かなり大きめの紙だというのは想像に難くない。


「刮目したまえ。これが、(いにしえ)より数学者を魅了してきた数の秘術……その名も、『パスカルの三角形』だ!」


 丈夫な紙の縁には細い棒とフックが付いていて、蘭子はホワイトボードの上部にそのフックを引っかけ、丸めていた紙を下向きに広げた。

挿絵(By みてみん)

 紙にはこんな具合に、1を頂点にしてピラミッド型に自然数を並べたものが書かれていた。

 ちなみに紙の下側の縁にも細い棒が付いていて、そのおかげで紙は曲がることなくピンと伸ばされている。……これ、幅広の掛け軸かな?


「えーっと……これって、何がそんなにすごいのでしょうか……?」

「あれ? 分からない?」

「あー、やっぱり初見だとただの数字の羅列にしか見えないのかな……」


 パスカルの三角形なる自然数の配置の、何が秘術めいているのか分からない乃々美は、頭に疑問符をいくつも浮かべている。彼女が数学を不得手としていることは先輩たちも承知しているから、致し方ないかもと思っているようではある。

 わたしは……以前ならピンと来なくて蘭子あたりにどやされたけど、だいぶ数学に慣れたおかげで、この三角形の配置にすぐ規則性を見出せた。


「これ……左右で隣り合っている数を足した値が、すぐ下の数になっていますね」


 例)15 + 20

    ↓

    35


「さすが、茉莉ちゃんはすぐに分かったね」

「おおっ……!」乃々美も感心した。

「でも、そういう数の配置に何の意味があるかまでは……」

「確かに配置の法則はシンプルだが、なかなかに奥の深い性質を秘めている。例えば、パスカルの三角形の数値を、奇数と偶数で色分けすると、こんな図形が現れる」


 蘭子はピンク色の水性ペンを使って、奇数の所だけを四角く塗り潰した。

挿絵(By みてみん)

「へえ……レース模様の三つ鱗(北条氏の家紋)ってところですかね」

「この図形を無限大に拡張したものが、蘭子ちゃんの研究していた、シェルピンスキーのギャスケットよ」


 研究していた、という過去形の言い方に、乃々美はかすかに違和感を覚えたみたいだった。わたしは別の気になったことを杏里に訊いていて、乃々美の反応は気に留めなかったが。


「ギャスケットって何なんですか?」

「気密性を作るためのシール材らしいけど、なんでその名前にしたのかは、よく分からないのよね」

「シェルピンスキーのギャスケットは、フラクタル……つまりハウスドルフ次元が通常の位相次元より大きく、整数でない実数値をとるような図形の一種だ。まあこの辺は事前知識がいくつも必要なので、詳細は割愛しておこう」

「ありがたいでーす」


 もうすでに蘭子の言っていることが一つも理解できないから、省いてくれるのは正直助かる。乃々美なんか見るからにショートしかけているし。


「ざっくり言うと、図形の一部が、図形全体とほぼ相似になっているのが、フラクタルの特徴だ。例えばパスカルの三角形から作った図形は、上、左下、右下の三角形がそれぞれ、図形全体と同様に、中央部分が逆三角形に空いているだろう?」

「なるほど……」


 ちなみに、図形の一部が図形全体とほぼ相似になっていることを、『自己相似』と言います。以前に蘭子が紹介した『カントールの三進集合』も、自己相似のフラクタルの一種です。


「正確なシェルピンスキーのギャスケットは、三角形を用意して、『各辺の中点を結んでできる逆三角形を取り除く』という作業を無限に繰り返すことで構成する。だから実際には、厳密なシェルピンスキーのギャスケットを作図するのは不可能なんだ」

挿絵(By みてみん)

「こんな複雑な図形が、奇数と偶数で色分けするだけで現れるなんて、不思議ですね……」


 数学が不得意な乃々美だけど、複雑で綺麗な図形には心惹かれるようだ。レースみたいに精緻な幾何学模様は、たとえ数学に暗くても、心に馴染む美しさがある。

 ただ、マス部で様々な理屈を見せられてきたわたしは、そうした“不思議”をそのままにせず、なぜそうなるかということに考えが及ぶようになった。


「仕組みが気になりますね……逆三角形の空白ができるということは、どこかの列が両端を除いて偶数だけ並んでいる、ということですよね」

「んん……?」表情が固まる乃々美。

「しかもその一つ上の列は奇数だけが並んでいることになるわね」

「必ず奇数だけが並ぶことは、数式で説明がつくんでしょうか……」

「…………」


 乃々美は、唐突に始まったわたしと杏里の会話に、戸惑いを隠せない。


「あの……いつもそうやって数式の話に持っていくのですか? こういう、不思議っぽいものが出てきた時って」

「いつもではないけど、割と、かな」と、杏里。

「数式で表すことで仕組みが見えて、不思議の向こうにあるものが分かるようになるんだよ」

「うむ、茉莉もマス部らしい考え方が身についたな」


 わたしの回答に、蘭子はご満悦そうに何度も頷く。見た目の壮観さやイメージはもちろん大事だけど、数学であるからには、数式で仕組みを読み解こうとする姿勢も大事になる。マス部での様々な数学トークを通して、わたしが学び得た感覚だ。

 もっとも、教科書の数学しか知らないような人は、そうした感覚があまり馴染まないのだろう。乃々美もその一人だった。


「わたしなんかは、こういう不思議な性質があると聞いたら、そういうものだと思って、あまり深く考えないです……やはりマス部に入るなら、そういう物事の裏側にも目を付けるようにするべきなんですね」

「いやいや」わたしはかぶりを振る。「わたしだってマス部に入るまでは、そこまで深く突っ込んで考えたりしなかったよ?」

「え? そうだった?」


 なぜ疑問形?

 杏里にはかつてのわたしも、物事を裏側まで見て考えるタイプに見えたのだろうか。自分ではそう思えないけれど……。


「だが、数学のあらゆる性質は、必ず論理的に証明することが可能だ。というか、証明された事実しか“性質”とは名付けない。だから何かしらの数学的性質があれば、その性質が成り立つ理由に目を付けるのは、数学を学ぶ上で至極自然だと言える」

「マス部にふさわしいかどうか以前に、数学を学ぶなら、その性質がどうして成り立つのか考えることを、癖として身につけておくべきだと思うよ」

「なるほど、分かりました……では教えてください! パスカルの三角形からシェルピンスキーのギャスケットが作れるのはどうしてなのですか?」

「……なるべく自力で考える努力もしてほしいところだけどな」


 蘭子は少し苦笑気味に言う。とはいえ、浮かんだ疑問点を積極的に質問する姿勢を、悪く言うつもりはないらしい。


「というか、私がその理由を全部話しても、ためにならないだろう。必要なヒントは教えておくから、その後は宿題として自力で解いてみるといい」

「えっ! マス部って宿題も出るんですか?」

「たまに先輩方の気まぐれでね……」


 テニス部の乃々美にとって、部活関係で個人に課題が与えられることは珍しくないはずだけど、同じような課題がマス部でもあるとは思わなかったみたいだ。端から見れば数学は学業の一環で、数学を研究する部活で出される課題となれば、宿題と言っても語弊はない。とはいえ、授業の宿題と違って、特に提出期限などはなく、あくまで誰に教えられるでもなく自力で問題を解くのが主眼だから、比較的緩い課題ではあるが。


 さて、ヒントを教えると言った蘭子は、ホワイトボード用のイレーザー(マーカー消し)を使って、パスカルの三角形に書き加えたピンクの水性ペンの跡を消していく。あの幅広の掛け軸みたいな紙は、数字を書いた上からコーティングされているらしい。……変なところに金と手間をかけているなあ。

 そして蘭子は、黒の水性ペンで全ての数字を〇で囲み、斜めに隣り合っている数同士を線で結んでいく。

挿絵(By みてみん)

「実はパスカルの三角形は、単なる自然数の配列という以上に、数学的に重要な意味を持っている。例えば、斜め45°に傾けた格子模様の各交点に、パスカルの三角形の数値を当てはめると……一番上の①からスタートして、各交点に到達するまでの、最短ルートの個数を表している」

「例えば、上から6段目にある⑩の位置に到達するまでの最短ルートは、全部で10通りあるということね」

挿絵(By みてみん)

 杏里はパスカルの三角形の⑩を指差して言った。6段目に⑩は2つあるが、そのうちの左側を指差している。

 本当にそうなのか、わたしは実際に、頂上の①から6段目にある⑩までのルートがいくつあるか数えてみた。一番上から下りていくわけだから、斜め下向きの移動だけで辿り着かなければならない。このことに注意して、重複もしないように慎重に数え上げると……。


「確かに、全部で10通りですね」

「これにも理由があるんですよね、及川先輩」

「もちろん。今、茉莉が頭の中で⑩までのルートを数え上げたと思うけど、10通りあるそれらのルートが、左側と右側で分類できることに気づいたかな?」


 左側と右側で分類、と言われて、わたしはすぐに気づいた。気づいてみれば実に簡単な理屈だ。


「あっ、そっか! 一番上の①から⑩へ行くためのルートは、左上にある④まで行って⑩に行くものと、右上にある⑥まで行って⑩に行くものに分けられるんですね」

「なるほど! 左上の交点を経由する場合と、右上の交点を経由する場合を合計すれば、最短ルートの個数が分かるってことなんですね」

「つまり、最短ルートの個数の求め方が、そのままパスカルの三角形の作り方と同じだから、パスカルの三角形の数値と最短ルートの個数が一致するってことですね」

「それと、各段の両端にある点は、頂上からのルートが1つしかないから、というのも追加でね」


 ああ、そうか。両端の点に関しては、左上か右上のどちらか一方しかないから、わたしと乃々美が言ったような法則は成り立たない。両端の点までのルートは、頂上からの一直線しかない、いわば“自明”なパターンだけということも、必要な条件だったわけだ。


「では、ここからさらに考えを進めよう」蘭子は人差し指をピンと立てる。「今までの方法だと、パスカルの三角形の数値は、上から順に足し算を繰り返して求めるしかなかった」

「下の方に行くほど、その方法だと計算が大変になっていきますよね……」

「だが、パスカルの三角形の数値が、頂上からの最短ルートの個数であるなら、それを一発で求める方法は確実に存在する」


 蘭子はものすごいキメ顔で言い放った。その刹那、普段は見せない蘭子のイケメン風の表情に、乃々美はズキュンと心臓を射貫かれて、恍惚の表情でぐらりと倒れかけた。

 一方、わたしは平気だった。


「一発で求めるって……それこそ地道に数え上げるしかなさそうですけど」

「うーん、この反応の落差」苦笑する杏里。

「地道に数え上げる必要はない。ちょっとした共通点に気づけば、計算で求めるのは意外と簡単だ」

「共通点……?」

「頂上の①から⑩までの最短ルートは、左下への移動と、右下への移動の組み合わせだけで表せる。すると、10通りある最短ルートはこのようになる」


 (1)↙↙↙↘↘  (6)↙↘↘↙↙

 (2)↙↙↘↙↘  (7)↘↙↙↙↘

 (3)↙↙↘↘↙  (8)↘↙↙↘↙

 (4)↙↘↙↙↘  (9)↘↙↘↙↙

 (5)↙↘↙↘↙  (10)↘↘↙↙↙


「さて、共通点が何なのか、分かるかな?」

「…………」


 あまりに分かりやすすぎて、わたしは思わず絶句してしまった。頭の中だけで10通りのルートを思い浮かべても、ぐちゃぐちゃにしかならないが、こうして、左下と右下の移動の組み合わせとして見たら、答えはもう明白だ。


「左下への移動3つ分と、右下への移動2つ分、その全ての組み合わせになっていますね」

「そのとおり。これは結局、3×2の格子状の長方形の、対角に位置する頂点から頂点への最短ルートと同じ……x方向に3マス分、y方向に2マス分進むことに変わりはなくて、後は組み合わせ次第ってことだ」

挿絵(By みてみん)

「では、その組み合わせのパターンはどうやって数えるのですか?」


 あ、乃々美が復活してる。


「2種類の移動をどういう順番で並べているか、という点に注目するんだ。先ほど矢印で表した、頂上の①から⑩までのルートを、1~5の数字に置き換え、右下への移動に相当する数字に〇をつけると……」


 (1)123④⑤  (6)1②③45

 (2)12③4⑤  (7)①234⑤

 (3)12③④5  (8)①23④5

 (4)1②34⑤  (9)①2③45

 (5)1②3④5  (10)①②345


「このようになる」

「これって要するに、1~5の数字の中から2つを選んで〇をつけることと一緒なんですね」

「そうなるわね。すると、全てのパターンを数え上げるのに有用なのは……?」

「“樹形図”ですね!」


 杏里がわたしに答えてほしそうに目配せしてきたので、わたしはノリよく答えてみせた。さすがにこれくらいは、高校生なら普通に知っている。


「樹形図……って何でしたっけ」


 乃々美の一言にわたしはずっこけた。マジか……これはたぶん中学レベル、下手したら小学校レベルだと思うのだけど。眉間にしわが寄るのを感じながら、わたしは乃々美に言う。


「忘れたの? 枝分かれみたいな図で、あらゆるパターンを漏らさず数え上げるっていうの、やったでしょ。例えばこの場合だと、最初に選ぶのが1~5の5通りあって、次に選ぶのは残りの4通りだから、こんな図になるってこと」

挿絵(By みてみん)

「あー、こういうのか。そういえば見たことあるかも。これって樹形図って言うんだ」

「ああでもこの場合、順番の違いは関係ないから、どの組み合わせも2回ずつ現れることになりますね」

「そうよ。だから最後に2で割る必要があるわね。樹形図を使って求めると、順番が異なるものを重複して数えた結果が、5×4で20通り。順番の違いを除けば、その半分で10通りになるわね」

「なるほど、確かに一致してますね!」


 (5×4)/2 = 10


「パスカルの三角形の他の数値も、同じようにして計算できるんですね?」

「そうだ」蘭子が言う。「頂上を0段目として、各段の左端を0番目とすれば、n段目の左からm番目の数値は、1~nの数字の中からm個を選び取るパターンの個数に等しい。順番が異なるものを重複して数えれば、パターンの個数は、nから降順にm個分の整数をかけ合わせた値になり、順番が異なるだけで同じ組み合わせになるものは、1~mまでかけ合わせた数だけある。つまり……」


 1~nの数字の中からm個を選び取るパターンの個数……

 {n×(n-1)×(n-2)×…×(n-m+1)} / (1×2×…×m)

※nまたはmが0の時は、1と定める。


「こういう計算式で求められると分かる」

「結構複雑ですね」

「どっちにしても数が大きくなったら計算が大変そうです……」

「それはパスカルの三角形に限った話じゃないし、愚直に足し算だけで求めるよりは断然マシだよ。一応、階乗とか下降階乗(べき)の表記を使えば、見た目はスッキリするけどな」

挿絵(By みてみん)

「おー、下降階乗冪っていうのは初めて見ましたけど、やっぱ記号を使うとスッキリしますね」

「そして、n個の中からm個を選び取る組み合わせの個数は、このように表記することが多い。他にも色々あるけど、私が知る限りで特に多いのは、この二つだな」

挿絵(By みてみん)

「括弧を使った表記は、前にも見たことがあります!」


 以前に教わった、二項定理の式の中に、括弧を使った組み合わせ総数の表記が含まれていたことを、わたしは思い出した。詳しくは、Day.16を見てね。


「このCというのは……?」

「Combination(組み合わせ)とかChoice(選択)の頭文字と言われているわね」

「えっと……つまりパスカルの三角形の数値は、全部この記号で表せる、ってことですか?」


 乃々美は手を挙げて訊いてきた。不慣れなのに、寝ないで話についていこうとするとは、偉い。うちの顧問にも見習ってほしいものだ。


「そういうことになる。そして、パスカルの三角形の各段の数値は、二項式の累乗を展開したときの係数になることから、別名『二項係数』とも呼ばれている。実際、(x+1)^nを展開すると……」


 (x+1)^0 = 1

 (x+1)^1 = x + 1

 (x+1)^2 = x^2 + 2x + 1

 (x+1)^3 = x^3 + 3x^2 + 3x +1

 (x+1)^4 = x^4 + 4x^3 + 6x^2 + 4x +1

 (x+1)^5 = x^5 + 5x^4 + 10x^3 + 10x^2 + 5x + 1


「ホントだ、確かに係数がパスカルの三角形になっていますね」

「x+1をかけるとき、x^mの係数は、かける前のx^mの係数とx^(m-1)の係数の和になるからね」と、杏里。

「なるほど、パスカルの三角形の作り方と一緒ってことかぁ……」

「このことから、(x+1)^nの展開式に1を代入すると、n段目の二項係数の総和は、2^nとぴったり一致することが分かる」

挿絵(By みてみん)

「まあ、パスカルの三角形を作るときに、一つ上の段の隣接している数値を足しているわけだから、段を一つ下げれば総和が倍になると考えたら、当たり前のことだけどな」


 言われたら当たり前だと分かるけど、事前知識なしでこんなことを言われたら、不思議に思うかもしれない。どんな不思議も、当たり前の積み重ねに置き換えられる……数学はそういうものだと知っているけど、やっぱり奇妙な感覚がする。

 あれ? なんでパスカルの三角形について、色々探っていたんだっけ。


「そういえば蘭子先輩、パスカルの三角形からシェルピンスキーのギャスケットが作れる理由はどうなったんですか」

「ああ、それね」


 蘭子は特に平静を装う素振りもなく答えた。話が脱線することの多い蘭子だけど、忘れていたわけではないらしい。


「証明には、二項係数に関する色んな性質が必要になる。その性質が確かに成り立つと納得してもらうために、二項係数を求める一般式の話をしてきたんだよ」

「つまり、一般式を使って二項係数の性質を証明しておくってことですか」

「ああ。例えば、パスカルの三角形の作り方から、こんな関係式が直ちに導出されるわけだが……」

挿絵(By みてみん)

「これも、二項係数の一般式を使えば、こんな具合に示せる」

挿絵(By みてみん)

「なるほど……ちょっと複雑ですけど、やっていることは単なる分数の足し算ですね。……ん?」


 ここでわたしは、大変なことに気づいてしまった。恐らく問題はないのだろうと思われるが、どうしても不安を拭えないポイントがある。


「蘭子先輩、ちょっといいですか」

「ん?」

「二項係数の一般式って、分数になっていますけど、これって、必ず整数になるという保証はあるんですか?」

「あっ!」言われて乃々美も気づいた。「確かに、組み合わせの個数なら、整数にならないとおかしいですよね」


 この問いかけに、蘭子と杏里は少し考える時間を要した。


「うーん……まあ、さっきの二項係数の性質がそのまま、自然数1を起点とする漸化式(ぜんかしき)になるから……」

「ちょっと天下り的だけど、これだけでも必ず整数になると言えなくはないよね」

「天下り?」


 数学特有の言い回しに慣れていない乃々美は、一般にはあまり語感のよくない言葉が急に使われて首をかしげた。ちなみに、数学の世界での“天下り的”とは、結論が先に分かっていて、それに誘導するように議論を進める、という意味である。


「だがそれでも、約分によって必ず整数になるかどうか、不安が残るのも分かる。ここは漸化式に頼らず、必ず約分で整数にできることを確かめよう」

「そもそもわたし、漸化式というのをよく知らないので、そっちに頼られるとむしろ困ります」


 まだ一年生なので授業でも教わっていないが、漸化式は数列を扱うときのテクニックの一つらしい。

 蘭子はパスカルの三角形の掛け軸を少し横にずらし、ホワイトボードに書き込んだ。


「二項係数の一般式が整数になると言い切るには、この事実を示せばいい」


『連続するn個の自然数の積は、n!で割り切れる』


「一般式の分子がまさに、連続するm個の自然数の積なので、これが分母のm!で割り切れたら、この分数は整数になると言っていい。さて、どうすればいいと思う?」

「…………」

「及川先輩が説明してくれるのでは……なかったのですか?」


 マス部の活動中の蘭子が数学の話をするときは、授業みたいに一方的なものでなく、部員と雑談するように話すことをモットーとしている。こうやって唐突に質問を振られるのは割といつものことだ。大抵は無茶振りもいいところなので、される側は閉口することも少なくない。

 とはいえ、何かしら答えないと先へ進めない。わたしは思いつくまま言った。


「そうですね……まずは1~nのそれぞれで割り切れるかどうかを、確かめてみてはどうですか?」

「そうね、焦らず見ていきましょ」


 杏里からお墨付きをもらったので、わたしはとりあえずこの方法で確かめてみる。実のところ、今までに整数の性質を山ほど見てきたおかげか、すでに考え方は思いついている。


「n以下の自然数kについて、kの倍数でない自然数は、どんなに多くても、連続でk-1個までしか現れません。ということは、連続するn個の自然数全てが、nの倍数でないことはありえないので、nの倍数が必ず1個含まれています。よって、連続するn個の自然数の積は、nで割り切れます」

「ふむふむ」頷く蘭子。

「同じことがn以下の自然数全てに言えるので、連続するn個の自然数の積は、1~nの全ての自然数で割り切れます」

「よろしい。ではこのことから、n!で割り切れると断言していいか?」


 ……と訊かれると、返答に窮する。蘭子もこうなると分かっているから、意地が悪そうにほくそ笑んで問うているのだ。


「……いえ、これだけだと言えないです」

「なんでですか?」と、乃々美。

「ここから言えるのは、1~nの自然数の最小公倍数で割り切れる、ってことだけなので。n!で割り切れると言うためには、これだけだと足りないんですよね」


「そうね、これだけだと足りないかな」

「でも茉莉は、かなり惜しいところまでいってるよ。割り切れるかどうか、という純粋なかけ算・割り算の問題は、素数を絡めて考えるとやりやすいよ」

「鈴原さんが研究しているものですね」

「まあ……広い意味ではそうなのかな」


 ずっとPythonに計算を任せっぱなしだから、わたしの中では素数を研究している感覚が希薄だけど。


「n!もそうだけど、連続するn個の自然数の中には、茉莉がさっき示したように、n以下の各自然数で割り切れるものが必ず1個は含まれている。では、連続するn個の自然数の全体に、“n以下の素数”はそれぞれいくつ含まれているだろうか?」

「いくつ含まれているか、ですか?」

「最低でも1個は必ず含まれていることは、すでに茉莉が示した通りだが、具体的にいくつ含まれているかを、ここで考えたいわけだ」


 ……少し考えてみる。

 例えば、10!の中に素数2が何個含まれているか、計算するにはどうすればいいか。10個の自然数全てを素因数分解して数え上げるのは、さすがに馬鹿みたいだ。数が増えたら手間も増えるし、もっと効率的に数えたい。そのためには……。

 もう少し簡単な問題に置き換えよう。例えば、1~10の中に、2の倍数はいくつあるか、という問題だったらどうだろう?


「……n以下の各素数で割った商を出す、という作業を繰り返せば、分かると思います」

「どういうことですか?」と、乃々美。

「例えば10!の中に、素数2が何個あるか数えるときは、まず2の倍数がいくつあるかを数えるために、全体の個数10を2で割って、5個という答えを出す……」


 1~10の中に、

・2の倍数は、10÷2で5個

・2^2の倍数は、5÷2で2個(余りは切り捨て)

・2^3の倍数は、2÷2で1個

 よって素因数2は合計で5+2+1=8個


「今度はその5個の中から、2を2個以上含む、つまり4の倍数が何個あるかを求めるために、5を2で割って、2個という答えを出す……こういう作業を、商が0になるまで繰り返して、最後に全ての商を合計すれば、10!の中に2は8個含まれていると分かります」

「そのとおりだ。同じように10以下の他の素数……3と5と7も、それぞれいくつあるかを計算できる」


 10!に含まれる素因数の個数は……

・2が8個

・3が4個

・5が2個

・7が1個


「これで10!を素因数分解できたことになる。そして、これと全く同じ方法で、連続する10個の自然数にも、10以下の素数が最低でもこれだけ含まれていると示せる。例えば、17から26までの、10個の自然数の積を考えると……」


(素因数2の個数)

・2の倍数は、{18, 20, 22, 24, 26}の5個

・2^2の倍数は、{20, 24}の2個

・2^3の倍数は、{24}の1個

 →最低でも5+2+1=8個

(素因数3の個数)

・3の倍数は、{18, 21, 24}の3個

・3^2の倍数は、{18}の1個

 →最低でも3+1=4個

(素因数5の個数)

・5の倍数は、{20, 25}の2個

 →最低でも2個

(素因数7の個数)

・7の倍数は、{21}の1個

 →最低でも1個

※場合によっては、3の倍数が4個、3^2の倍数が2個、7の倍数が2個あることもあるが、いずれにしても素因数3は4個以上、7は1個以上であることに変わりはない。


「実際に素因数分解すれば、もっと多く含まれているけれど、最低でも、10!を素因数分解した時の個数以上は含まれている。どの素因数の個数も、10!のときの個数を下回らない、ということは……?」

「10!で確実に割り切れる、ということですね!」

「そう。同じことが一般のnでも言えるから、連続するn個の自然数の積はn!で割り切れるので、二項係数の一般式は必ず整数になる……というわけだが、本庄さんは理解できたかな?」

「た、たぶん、なんとか……」

「たぶんかぁ……」


 必死に話についていこうと脳を無理に回転させているのか、乃々美は目の周りにパチパチと火花を散らしている。努力しているのは確かだけど、理解できたと断言するまでには至らず、蘭子もちょっと残念がっていた。


「まあとにかく、これで二項係数の計算に問題はないと分かったわけだし、いよいよ最初の疑問……シェルピンスキーのギャスケットが現れることを示すための、ヒントを授けよう」

「毎度のことながら回り道が多くなっちゃいますね……」

「些細な疑問でも解消するのは大事だよ。まず、すでに何となく気づいていると思うが、二項係数、というかパスカルの三角形は、左右対称になっている」

「そういえばそうですね」


 乃々美はパスカルの三角形が書かれた幅広の掛け軸を、じっと見て言った。そしてじっと見ているうちに、乃々美もあることに気づく。


「あっ、でもそれって、考えてみたら当たり前なんですね。真ん中を軸にして反対側にあるもの同士は、頂上の①からの最短ルートを反転させたらぴったり一致するから、結局最短ルートの個数は一緒になる……」

挿絵(By みてみん)

「うん、その考え方で合っているよ」

「はうぅっ!」


 推しの蘭子に考えを認められて、乃々美は歓喜のあまり奇声を上げた。感情の忙しい人だな……。


「他にも、二項係数の一般式から導く方法もあるし……」

挿絵(By みてみん)

「『n個の中からn-m個を選ぶ』ことは、『n個の中からm個を選ばない』ことでもあるから、『n個の中からm個を選ぶ』パターン数と一致する、という考え方もできる」

「色んな方面から証明できるんですね」

「そしてもう一つ、シェルピンスキーのギャスケットの証明に必要な二項係数の性質として、“左上の”二項係数との関係を示したものがある」

挿絵(By みてみん)

「これは二項係数の一般式から導くことができるから、ついでにこれも宿題として証明してみるといい」

「しれっと宿題を増やさないでくださいよ」


 と、文句は言ってみるけど、これまで通用した試しがないので、半ば諦めている。たぶんさほど難しくはないと思うし、やれるだけやってみるつもりだ。


「悪く思わないでくれ。パスカルの三角形には、まだまだ色んな秘密が隠れているから、とても全部を細かく説明することはできなくてね」

「このうえまだ秘密があるんですか?」

「まずは秘密その②、斜めに辿ると自然数の列や三角数の列が現れる!」

挿絵(By みてみん)

「三角数は、正三角形に点を並べたときの点の数になる整数のこと。自然数を1から順に足し合わせた値でもあるよ」


 杏里が補足説明をしてくれた。

 ところで、蘭子が秘密その②と言ったのは、シェルピンスキーのギャスケットが秘密その①だからなのかな……。


「秘密その③、pを素数として、上からp段目にある二項係数は、両端を除いて全てpの倍数である!」

挿絵(By みてみん)

「二項係数の一般式で、分子の最大の因数がpだけど、分母にpが含まれないから、約分すると必ずpが残って、結局pの倍数になるってことだね」

「秘密その④、上から2n段目の中央にある二項係数は、n段目の二項係数を全て2乗して足し合わせた値に等しい!」

挿絵(By みてみん)

「2n段目の中央の二項係数は、2n個の中からn個を選ぶ組み合わせの総数だけど、これはn個とn個に分けて、片方からk個、もう片方からn-k個を選ぶことと同じで、そこから証明することができるよ」

「秘密その⑤、パスカルの三角形の中に“ダビデの星”と言われる六芒星を書いたとき、二つの三角形のそれぞれで、頂点に位置する二項係数をかけ合わせた値は、常に等しくなる!」

挿絵(By みてみん)

「これも二項係数の一般式から示せるからやってみてね」

「なんか先輩方、息ぴったりです……!」


 蘭子と杏里による息の合ったプレゼンに感動して、乃々美は目をキラキラ輝かせている。幼馴染みという以上に、数学への理解の深さも一緒だからこそ、なせる業だと言えるだろう。

 それにしても、まだまだ色んな秘密があるという蘭子の言葉は、決して過言ではなかった。まさかここまで怒濤の秘密公開大会になるとは……。


「そして秘密その⑥!」


 まだあるんかい。


「ちょっと変わった方法で斜めに辿ると、超有名な数列が現れる!」


 しかもなんだかえらくぼんやりした説明になっているし。


「パスカルの三角形を、今までの二等辺三角形ではなく、直角三角形になるように並べてから、斜めに辿って足し合わせると……」

挿絵(By みてみん)

「“フィボナッチ数列”という有名な数列が現れるんだ」


 あれ……なんかこの数列、どこかで見たような気がする。どこで見たんだろう。

 すぐに思い出せなくてしばらく首をかしげていたけど、ふと、何かが視界の隅に見えた気がして、後ろを振り返る。そこにはマス部の過去の遺物を死蔵しているロッカーがあって、扉には色んなシールやらポスターやらが貼られていて……。

挿絵(By みてみん)

「あっ! ポスターかと思ったらこれ、数式を書いたただのコピー用紙じゃないですか!」

「ずっと前から貼られていたけど、気づいてなかったの、茉莉ちゃん?」

「気づいてませんでした!」


 もう完全にその辺のゴミと化した段ボール箱やロッカーと同化していて、一見してそんなに重要な事が書いてあったと気づかないくらいだ。数学アレルギーの瑠衣が何度か部室に来たのに、全く気づかず卒倒することもなかったほどだ。数式を書いた紙が貼られていても紛れて目立たないって、それはそれでマス部らしいけれど……。


「そのフィボナッチ数列……というのは、何か特別なものなんですか?」

「そうだね……かなり興味深い特性を持った数列だと思うよ。その前に本庄さん、フィボナッチ数列がどんな規則で整数を並べたものか、分かるかな?」

「うーん……」


 蘭子がホワイトボードに改めて横向きに書いたフィボナッチ数列を、乃々美はじっと見つめて考え始めた。この数十分だけで、苦手な数学への向き合い方が、着実に変化しているように思える。

 乃々美は並んだ数字の間に記号を書き込んだ。


 1 1 2+3=5 8 13 21


「隣り合っている数を足した答えが、次の数になっている……でしょうか」

「うん、合ってるよ」

「やった!」


 乃々美はぴょんぴょんと飛び跳ねながら、両手をぐっと握りしめた。些細な事でも自力で答えに辿り着けたら、やっぱり嬉しくなってしまうよね。わたしも先輩方からの宿題が解けたときは、こんなふうになるからなぁ。


「フィボナッチ数列を生成すること自体は簡単だが、なぜかこの数列に属する整数は、自然界にたびたび出現する。パイナップルや松ぼっくり、ヒマワリの種の並びなど、向きの異なるつむじを重ね合わせたような形に粒が並んでいる植物は、つむじの本数がフィボナッチ数になっている。左向きと右向きで本数は異なるけど、どっちもフィボナッチ数だ」

「へぇー、今度数えてみようかな」

「これにも数学的な理由があるのですか?」

「まあ、芽が生えたり種ができたりするときは、螺旋状にほぼ等間隔で生じるんだけど……すでに生えている芽や種とぶつからないような場所を探した結果、隣接するフィボナッチ数の比率で一周を分割した時の間隔が丁度よくて、自然とそうなった……ってところかな。あくまで諸説あるうちのひとつだけど」

「自然現象は必ずしも、数式どおりになるわけじゃないものね」


 ()もありなん、だと言えよう。数学は自然現象を解明する道具のひとつだけど、自然は様々な要素が複雑に絡み合うものだから、数式ひとつで自然現象を完璧に説明できる道理などない。


「フィボナッチ数による比率って、そんなに都合のいいものなんですか?」

「黄金分割と非常に近いから、芽や種をバランスよく配置するなら好都合だと思うよ。たぶん」

「黄金分割?」乃々美が訊く。

「古代の西洋人が経験的に見つけた、最も調和の取れた分割のひとつだよ。このような比で表される」


 1 : (1+√5)/2


 このように表される、と言われても……わたしも乃々美もピンと来なくて、首をかしげるばかりだ。


「これが、最も調和の取れた分割……?」

「昔の人たちはこの分割にどんな魅力を感じたというのでしょう……?」

「まあ、その話は追々と、ね」蘭子はひらひらと手を振る。「今はフィボナッチ数列と黄金分割の関係について説明させてよ。たぶんそっちの方が気になるでしょ」

「片方は整数の列で、もう片方は明らかに無理数ですけど、そんなに深く関係しているんですか?」

「ああ。大いに関係している」


 言い切った……よほどその話がしたくて仕方がないのか、蘭子の鼻息は荒い。


「じゃあまずはこっちから……」


 蘭子は例の100/89の式が書かれたコピー用紙を、ロッカーのドアから剥がし、わたし達に見せた。


「見ての通り、フィボナッチ数列を順番に位下げして足し合わせると、100/89になる。このことはどうやって示そうか?」

「……フィボナッチ数列って無限に続きますよね。無限個の足し算はできないのでは?」

「実はこの紙の裏側に、大雑把ながら計算の方法が書かれていたりする」


 ピラッと紙を裏返したら、こんな数式っぽいものが書かれていた。

挿絵(By みてみん)

「早々にタネ明かししてきた……」

「これは要するに、途中までの和を計算しておいて、その結果の極限を求めることで、実質的に無限個の和を計算しているわけだ」

「無限個の足し算、いわゆる“無限級数”は基本的に、途中まで足した“部分和”の極限を計算することで求めるの」

「極限って、前に無限の話をした時に出てきた……」

「ああ。変数を特定の値に近づけたり、無限に大きくしたりした時に、式の値がどう変化するかを考えるものだ。ただ、実はここに書かれた証明には、その極限に関して問題がある。何だか分かるかな?」


 蘭子が胸の高さに掲げたコピー用紙を、わたしはじっと見つめて、どこに問題があるか探してみた。極限に関するというから、どの式がどんな値に近づいているか、という点に問題があると思うのだが……。


「これ……ラスト直前の極限のところ、Fn/10^nが、nを無限に大きくしたとき、0に近づくのは確かなんですか?」

「そう、そこだ」蘭子は嬉しそうに言う。「以前にも話したが、例えば1/nという分数の式は、分母のnを限りなく大きくすると、0に限りなく近づく。限りなく、の所はもう少し厳密に定義できるが、今はやめておこう。分子の変化よりずっと速く、分母の値が増大するなら、分数はものすごく小さい正の数になるからな」


 n→∞ のとき、1/n→0


「だけどFn/10^nの場合、分子も分母もnが大きくなれば増大するが、どっちの増加スピードが速いのか分からないと、どんな値に近づくのか、あるいは無限に大きくなるのか、判断がつかない」

「つまり0に限りなく近づくのは自明じゃないんですね……まあ、表側に書かれた式を見る限り、0に近づくと考えて差し支えはなさそうですが」

「まあそうなんだけど、これより先の方ではどうなるか分からないからね」

「フィボナッチ数列を一発で求められる式があれば、すぐにでも分かりそうなんですが……」


 確かに乃々美の言うとおり、フィボナッチ数の一般式が分かれば、Fnと10^nのどちらが速く増えるかすぐに分かる。乃々美もだんだんマス部の思考が備わってきたみたいだ。


「一般式ならあるし、比較すれば、10^nより遅いことはすぐに分かるよ。ただ、式も導出の過程も複雑だから、すっ飛ばして結論だけ言っても、キツネにつままれた気分になるだけだと思う」

「じゃあ、わたし達がすっと納得できるような説明はできないのですか?」

「いや、できるよ」


 できるんかい。キツネに化かされた気分だ……。


「要は、これよりもっと簡単で、かつ0に限りなく近づくような式で、常にFn/10^nを上から押さえることができればいい」

「上から押さえる……?」

「nがある程度大きい時に、必ずFn/10^nより大きくなる式を求める、ってことだよ」


 新たに登場した数学弁を、杏里が解説してくれた。以前に聞いた、上から評価する、と似たような意味の言葉か……。


「つまり、0と、0に近づく式で挟み撃ちにすれば、問題の式も0に近づくといえる、ということですか」

「そう、理解が早いじゃないか」

「鈴原さん、推しに褒められました!」


 そう言って喜色満面でわたしに迫り寄ってくる乃々美。なぜわたしに報告してくるのかねぇ……。


「えーと……じゃあどんな式だったら、上から押さえられるんですか?」

「そうだねぇ……」蘭子は顎に手を当てニヤリと笑う。「分母が10の累乗の形だし、やっぱり累乗を使ってみたらいいんじゃないか?」

「累乗かぁ……では試しに、2の累乗と比較してみますね」


(フィボナッチ数列)

 1 1 2 3 5 8 13 21 34 55…

 2 4 8 16 32 64 128 256 512 1024…

(2の累乗)


「どう見ても2の累乗の方が大きい! というか、先に行くほどどんどん差が開いていますよ!」

「ということは、フィボナッチ数は2の累乗で上から押さえられるから、こんな不等式が常に成り立つことになるわね」


 Fn/10^n ≦ 2^n/10^n = 1/5^n


「1/5^nの極限は0だから、0との間に挟まれているFn/10^nの極限も、同じく0になるってことね」

「ほぉー、なるほど……」杏里の説明に乃々美は納得、しそうになって踏み留まった。「いえ、まだです! フィボナッチ数がいつも2の累乗より小さいことは、最初の10個を確かめただけじゃ分かりません!」

「本庄さん、ナイス!」


 わたしも指摘したかったことを、誰に言われることもなく気づけた乃々美に、わたしは思わず称賛を込めてサムズアップを差し向けた。すごい、着実に力をつけてきている。

 蘭子も期待を込めて乃々美に尋ねる。


「じゃあ、どうやってそのことを示したらいいかは、分かるか?」

「ぐっ……分かりません」


 あ、ダメだこりゃ。

 乃々美が心底悔しそうに唇を噛んで、そんなふうに答えるものだから、わたしは脱力して、立てた親指がカクリと傾いた。


「茉莉ちゃんならどうする?」

「そうですねぇ……わたしならオーソドックスに、数学的帰納法に頼りますね。最初に、n=0の時は、F0=1かつ2^0=1なので、Fn≦2^nが成り立ちます。それから、n=kの時にFk≦2^kが成り立つと仮定すると、その次のn=k+1は……」


 F(k+1) = Fk + F(k-1) ≦ …


「あれ? F(k-1)はどうしたら……」

「結局つまずいたか」肩をすくめる蘭子。「フィボナッチ数列みたいに、二つ以上の項を組み合わせて表される数式に、数学的帰納法を適用するなら、それに合わせて、帰納法の出発点や仮定の部分も、二つ以上用意するといい。この場合、出発点はn=0とn=1の二つを確認する」


 n=0: F0=1, 2^0=1 なので成立。

 n=1: F1=1, 2^1=2 なので成立。


「次は、n=k-1とn=kの両方で不等式が成り立つと仮定して、n=k+1の時にどうなるかを見ると……」


 F(k-1) ≦ 2^(k-1) および Fk ≦ 2^k が成り立つと仮定すると、

 F(k+1) = Fk + F(k-1) ≦ 2^(k-1) + 2^k

    ≦ 2^k + 2^k = 2^(k+1)

 よってn=k+1の時も成り立つ。


「したがって、全ての自然数nに対して、Fn≦2^nが成り立つ」

「そっか……数学的帰納法って、こんなやり方もあるんですね」

「他にも、変数を2種類以上使った数式の場合でも、変則的なやり方になるわね」

「えっと……」乃々美は見るからに混乱していた。「よく分からないんですが、これで証明されたことに……なるのですか?」


 ああ、そうか。わたしは早い段階で先輩たちに教わったから知っていたけど、数学的帰納法はまだ授業でやっていないから、乃々美が知らなくても無理はない。


「すまん、その辺は来年にでも学校の授業でやるはずだから、今はそういうものだと思ってくれ」

「蘭子ちゃん、学校の授業で教わることの説明はすっ飛ばしがちだから……」

「とにかくこれで、100/89にフィボナッチ数列が現れるのは必然だと分かったわけだが、ここでもう一度、フィボナッチ数と2の累乗を比較したところを見てくれ。茉莉は比較対象として2の累乗を選んだが、それでも先へ行くほど、差が大きく開いていっている」


 1 1 2 3 5 8 13 21 34 55…

 2 4 8 16 32 64 128 256 512 1024…


「10番目なんか、20倍近く差が開いていますよね……」

「だが、一次式や二次式と比べると、最初はさほどでもないが、先へ行くほどフィボナッチ数の方が大きく上回っている」


(フィボナッチ数)

 1 1 2 3 5 8 13 21 34 55…

(自然数)

 1 2 3 4 5 6 7  8  9  10…

(奇数)

 1 3 5 7 9 11 13 15 17 19…


(フィボナッチ数)

 1 1 2 3 5 … 55 89 144 233 377…

(平方数)

 1 4 9 16 25 … 100 121 144 169 196…


「実は、どんなに次数の高い多項式と比較しても、必ずどこかを境にフィボナッチ数の方が上回って、その後はひたすらフィボナッチ数が引き離していくんだ。たとえるなら、序盤は割とゆっくりなのに、先へ進むほどペースが速くなって、しまいには全てのランナーを引き離してどっかへ行ってしまう、次元を超えた駿足ランナーだな」


 なんじゃそりゃ。

 例えが下手すぎて、数字がゼッケンをつけてジョグする光景しか思い浮かばない。例えと言うにはあまりにそのまま過ぎるような……。


「要するに、フィボナッチ数列の増え方は累乗と似ているってこと。数学ではこういう変化を、『指数関数的』っていうの」

「指数関数……」

「累乗の、底の部分が決まっていて、指数の部分が変数になっている関数のこと。y=2^xとかがそうね……指数関数的な変化は、増え方が指数関数に似ているのよ」

「数列が指数関数的かどうかは、隣り合う2つの項の比を見ると分かる。例えば2の累乗の場合、隣り合う2つの項の比は、常に2となる。まあ順に2倍しているから、当たり前だけどな」

挿絵(By みてみん)

「つまり、指数関数的だと、隣り合う2つの項の比は、常に等しくなるんですか?」

「等しいとは限らないが、先へ進むほど極めて近い値になる。純粋な指数関数なら、2項の比は常に等しくなるけど」

「じゃあちょっとやってみますね」


 わたしはスマホの電卓を使って、隣接するフィボナッチ数の比を計算してみた。すぐに分かる最初を除くと……。

 3/2 = 1.5

 5/3 = 1.6666…

 8/5 = 1.6

 13/8 = 1.625

 21/13 = 1.61538…

 34/21 = 1.61904…

 55/34 = 1.61764…

 89/55 = 1.61818…

 144/89 = 1.61797…


「なんというか……」乃々美が呟く。「上下にブレながら、だんだん決まった数に近づいている感じですね」

「つまり、隣り合う2つの項の比は、バラバラではあるけど、先へ進むほど、ある特定の値にかなり近いものになる……だから指数関数的になるんですね」

「では、その“特定の値”とは、具体的にどんな値だろう?」


 挑発するような口調で問うてくる蘭子を、わたしはジト目で見返した。


「……数列をどこまで辿って計算しても、正確な値なんて分かりませんよね?」

「まあね。残念ながら、どんな数列の極限でも求められる万能のツールというのはないが、今回なら“連分数”を使えばシンプルに求められる」

「連分数……初めて聞きました」

「教科書でも深掘りして扱うことは滅多にないからね」と、杏里。「連分数は、分母の中に分数を含んでいるような分数のこと。例えばこういうのね」

挿絵(By みてみん)

「実数は全て連分数で表せるんだけど、無理数は分母が無限に深くなる“無限連分数”になるの。例えば√2を連分数で表記するとこんな感じ」

挿絵(By みてみん)

「わあっ、綺麗に2だけが並んでます!」


 普通に小数展開したら、不規則に数が並ぶだけなのに、何なら普通の分数で表すこともできないのに、連分数だとこんなに綺麗に同じ数が並ぶなんて……不覚にもちょっと感動してしまったよ。

 ちなみに、連分数の分子には特に制約はありませんが、分子が全て1であるような連分数は“正則連分数”または“単純連分数”と呼び、連分数としてこちらが好まれることの方が多いようです。


「この連分数が√2に等しいことは、分母の中に全体が含まれていることを利用して、二次方程式に変形すれば示すことができる」

挿絵(By みてみん)

「循環する無限連分数は、同様の変形によって必ず二次方程式を導けるので、その値は必ず二次方程式の解になるんだ」と言ったところで蘭子は気づく。「ああ、そういえば卒業した先輩が、整数の平方根を無限連分数で表した時の、循環周期について研究していたな。あれはなかなか興味深かった」


 そして、ロッカーを開けてごそごそと漁り始める蘭子。


「確かこの辺に印刷した資料が……」

「蘭子ちゃーん、戻っておいでー」


 説明を放り出してあらぬ方向に脱線しそうになっている蘭子を、杏里が呼び戻した。気を抜くといつもこれだから……。というか、先輩が作った大事な資料を、ロッカーに仕舞っているのか。しかも整理されているようにも見えないし。


「この連分数を、隣接するフィボナッチ数の比にも使うわけですか?」と、乃々美。

「そう。例えば21/13は、こんな具合に連分数展開ができる」

挿絵(By みてみん)

「こっちは綺麗に1だけが並んでますね……」

「フィボナッチ数列の定義に従えば、隣接するフィボナッチ数の比を連分数で表すと、1だけが並んだものになり、数列の先へ進むほど、この連分数は深くなっていく。つまり、この比の極限は、1だけを並べた無限連分数ということだ。これをφで表すことにする」

挿絵(By みてみん)

「これも、分母が全体と同じだから、二次方程式に変形できますね」

「そう。後はその二次方程式を解けば、フィボナッチ数の比がどんな値に近づくのか分かるんだ」

「では、解の公式を使って解きますね」


 わたしはホワイトボードに書き込んで、最後に出てきた二次方程式を解いていく。高校受験で何度も使った公式なので、しっかり頭の中に刻まれていて、すらすら解くことができた。

 そして、導かれた答えに、わたしは目を見張った。

 φ = (1±√5)/2


「あっ……これって、黄金分割?」

「えぇー……! ここで黄金分割が関係してくるんですか!?」

「そう。二次方程式だから解は2つあるけど、そのうち正の数の方が、黄金分割の片方になるわけだ。実際、これを小数で表せば、さっき求めた、隣接するフィボナッチ数の比が、少しずつこれに近づいているのが分かる。手持ちの関数電卓を使って、ぜひ確かめてくれ」

「蘭子先輩、普通の高校生は手元に関数電卓なんてないと思います」


 もちろん蘭子は普通に持っているし、何ならいま手元にある。

 この小説を読んでいる皆さん、いま手元にあるスマホやPCに電卓があれば、ぜひ確認してみてくださいね!


「黄金分割、あるいは黄金比と呼ばれるこの比率は、色んな所で見られるんだよ」杏里が言う。「正五角形の辺と対角線の長さの比も黄金比だし、ミロのヴィーナス像やダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図に描かれる人体は、頭頂から足先までの長さがへそで黄金分割されているのよ。つまり西洋人の感覚では、美しいプロポーションの人体は黄金比でできている、ということになるんだ」


 と言いながら、杏里は両手を水平に広げて、両脚をぴたりとくっつけて直立する。その後ろでは蘭子が、両手をぴんと伸ばして頭の高さまで上げて、両脚を少し開いて立っている。……ノリのいい先輩たちだなぁ。

 すると、杏里の後ろから蘭子がひょっこりと顔を出した。


「まあ、黄金比を実際に作図しようとしても、ミリ単位の誤差は当然あるから、現実にあるのはどれも『黄金比もどき』だけどな」

「だから身も蓋もないですって……」


 ちなみに、ウィトルウィウス的人体図には円と正方形が描かれていて、円の半径と正方形の一辺が黄金比だという説がありますが、実際には5:3の整数比の方が近く、現在その説は否定されています。また、身近な黄金比として名刺やカードや煙草の箱が取り上げられることもありますが、これらも厳密には黄金比ではありません。


「それにしても、思えば遠くまで来たものですね……」


 乃々美はまるで来た道を振り返って、遠くを見るような目で言った。確かに、ここまでの話を振り返ると、途方に暮れそうになる。


「そうだねぇ……シェルピンスキーのギャスケットから始まって、パスカルの三角形と二項係数……」

「そこからフィボナッチ数列に繋がって、最後は黄金比ですからね。長い旅でした」

「しかもその旅の最中に、色んな概念と関わり合いになったよね。フラクタル、樹形図、下降階乗冪、連続する自然数の積の性質、三角数、ダビデの星、無限級数と部分和の極限、数学的帰納法の別バージョン、指数関数的、連分数……」

「まさか今日一日、パスカルの三角形だけでここまでやるとは思いませんでした……ただ足し算だけ使って三角形に数を並べただけなのに、こんなに沢山の要素が絡んでいるんですね」

「これこそ、古より数学者たちを魅了してきた数の秘術たる所以だよ。たぶん、その気になれば私が説明した以上の秘密が、まだまだ見つかるかもしれないな」


 この上まだ秘密があるかもしれないのか……数の秘術への興味は留まるところを知らず、蘭子はワクワクを抑えきれずうずうずしている。


「茉莉ちゃんたちも、新たな秘密に挑戦するつもりで、さっきの宿題をやってみて。パスカルの三角形からシェルピンスキーのギャスケットが作れる理由」

「そういえばそんな話もありましたね……もうすでに満腹ですけど」

「というか、え? わたしもやらなきゃダメなんですか?」


 乃々美が自分を指差して尋ねた。マス部の部員でない彼女に、マス部の宿題をやる義務はないはずだけど、よく思い返したら、シェルピンスキーのギャスケットができる理由を、乃々美も蘭子に質問していて、その時に宿題にすると言われていた気がする。つまり乃々美も自動的に宿題に参加したことになっている……のか?


「まあ、期限も罰則もないし、やるかどうかは自由だけどな。せっかくだから、茉莉と一緒に挑戦してみるといい」

「頑張ります!!」

「…………」


 推しに言われたら瞬く間に張り切り出すのか……乃々美、チョロい女である。


「あっ、そうだ!」乃々美は何かを思いついた。「及川先輩、今度の誕生日プレゼント、シェルピンスキーのギャスケットをプリントしたTシャツなんてどうですか? 日常でも映えると思います!」

「パスカルの三角形を色分けしてプリントするのか?」

「いえ、普通の三角形から三角形をくり抜いたやつで……」


 数字を三角形に並べてプリントしたTシャツなんて、痛シャツより着て歩くのが恥ずかしいだろうに……しかも蘭子の場合、ダメになると分かって言っているのだからたちが悪い。

 まあでも、シェルピンスキーのギャスケット自体はレース模様みたいで、シャツのデザインとしては悪くないはず。普段使いにも耐えうるし、数学絡みでも蘭子が祭壇に飾ることもないだろう。

 ただ、わたしが言い出したこととはいえ、乃々美があそこまでTシャツに拘るのは何なのか……というか、蘭子への誕生日プレゼントの話、まだ続いていたのか。


「まあ、くれるのは嬉しいが、私の誕生日まで一週間くらいしかないよ。間に合うのか?」

「間に合わせます!」

「気炎が凄まじいな」


 初対面時の引っ込み思案はどこにいったのか、憧れの蘭子とお近づきになれた途端、乃々美はぐいぐいと距離を詰めるようになった。あれで正気を保っているのか、極めて怪しいものである。

 …………ん?


「蘭子先輩……誕生日まで一週間くらいって、どういうことですか」

「え? 言葉どおりの意味だが? 私は8月7日生まれだし」

「8月7日ぁ!?」


 蘭子が事もなげに言った日付に、わたしは軽くショックを受けた。


「わたしの誕生日より3日も早いじゃないですか!」

「えっ、鈴原さんも8月生まれなんですか?」

「うん、茉莉ちゃんの誕生日は8月10日、水曜日生まれだよ」


 なぜか杏里がわたしの誕生日を乃々美に教えた。生まれた時の曜日というどうでもいい情報も添えて。


「じゃあ、今度鈴原さんの誕生日にもプレゼントを用意しますね。これも何かの縁ですし」

「あ、ありがとう……いや、それよりも! 前にわたしが8月10日生まれだって話したとき、ささやかだけど(うち)に招いて誕生日会をしようってことになりましたよね? なんでその時に、自分も誕生日が近いって教えてくれなかったんですか?」


 すると蘭子は、またしても事もなげに答えた。


「忘れてた。自分の誕生日を」

「ホント数学以外への興味が金箔並みに薄いですね!」

「本庄さんからプレゼントの話を聞くまで、全く頭になかったからなぁ」


 それはそれで蘭子らしいといえば蘭子らしいけれども……先輩の誕生日が先にあると知らずに、自分の誕生日に先輩を招いたら、まるでわたしが不敬な薄情者みたいじゃないか。

 ちなみに、杏里の誕生日は間接的に、10月10日だと聞いている。その杏里は、わたしが蘭子の誕生日を今まで知らなかったことに、(こと)(ほか)驚いている。


「蘭子ちゃん、茉莉ちゃんに誕生日のこと言ってなかったの……? 蘭子ちゃんがわたしの誕生日を教えたようなものなんだから、ついでに自分のも教えちゃえばよかったのに……」

「杏里の方から教えてもよかったんじゃないか?」

「自分の誕生日を教えることくらい人任せにしないで!」


 ぷんぷんと怒る杏里、全く迫力がなくてかわいい。


「まあ、せっかく私の誕生日も知ることになったんだ。3日しか違わないし、茉莉の誕生日会でついでに祝うってことにすればいいんじゃないか?」

「3日の差は合同でやるにはちょっと離れすぎだと思いますけど」

「この人は自分の誕生日を何だと思って……」

「茉莉の誕生日にはちょっといいものを贈るつもりだけど、私には特にいらないよ。発表会での成果をプレゼントにしてくれたら充分」

「それだと5日遅れになるけどいいんですか……? あと、たいしたプレゼントにならない可能性もありますけど」

「立派なプレゼント、期待してるぞ☆」


 そう言って蘭子はパチッとウィンクを決めて、わたしに容赦なくプレッシャーをかけてきた。かっこよさとお茶目が混ざったその仕草は、わたしに向けられたものだけど、流れ弾が乃々美に当たって吐血するに到った。わたしは、無傷だった。


「ゴフゥゥッ!」

「…………」

「うーん、この反応の落差」


 もはや蘭子の挙動に対する反応の違いを楽しんでいるフシさえある杏里だった。

 何だかんだありつつ、今日もマス部は平和です。だけど、いつもと違う何かが起こる日は、着実に近づいているのでした。


近いうちに何かが起きます。いつになるかは分かりませんが。

蘭子が自分の研究内容を打ち明けた時から、いつかはパスカルの三角形やフィボナッチ数列の話をしたいと思っていましたが、あまりに魅力的な性質が多すぎて、かなり要素を絞ったつもりが、絞った要素について深掘りをし過ぎて、めっちゃ長文になりました。毎度のことながら、数学に関するトークを優先するあまり、終盤に差し掛かるまでオチを考えないという、ひどい作り方をしています。だからいつもオチを書くのに一番苦労します。一応ジャンルはコメディのはずなんですが……。

それと、専門書やウィキペディアに書かれている証明は、シンプルでエレガントなものを採用していることが多いため、物語に使うとあっさりしすぎる所があります。シンプルでエレガントなのは結構なんですが、一応小説なので、試行錯誤のプロセスを見せて人間味を演出することにこだわっていて、そのためにあまりエレガントじゃない方法を採用することもあります。二平方和定理の時もそうでした。あと、他の本や記事と内容が被ってもいけないので、その辺でも気を遣います。結果として寄り道が滅茶苦茶多くなって、この有様です。いいじゃないか、数学が好きな人間だもの。

冗談はさておき、パスカルの三角形からシェルピンスキーのギャスケットが作られる理由については、この後のafter Day.17にて、茉莉が頑張って解き明かします。こっちも見てね。

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