Day. 16 0なんて割に合わない
もう全国のどこでも夏休みは終わったのに、作中はまだ夏休みの真っただ中です。皆さんは熱中症になったりしていませんか?
今回は、少し前にネット上で議論を呼んだ、『0で割る』に踏み込んだ話です。さらに、昔から議論の尽きない『0の0乗』についても踏み込みます。マス部でみっちり鍛えられた茉莉が、小学生を相手に頑張って説明しますので、見守ってあげてください。
私立つばき学園高校は一ヶ月半の夏休みに突入し、普段は勉学や部活動に勤しんでいる生徒たちも、思い思いに自由な夏を謳歌している。もちろん、夏休みでも部活動に勤しんでいる生徒はいる。間近に大会を控えているテニス部の瑠衣もその一人だし、発表会を控えているわたしも、マス部の部室に連日やって来て、より厳しくなった発表練習に励んでいる。
しかし、この日は違った。わたしも瑠衣も部活に参加せず、二人でのんびりと町歩きを楽しんでいた。……炎天下だというのに。
「あっち~……わたしら何でこんな暑い日に外を出歩いているんだか」
「瑠衣が誘ったからでしょ」
「そうだけど~」
団扇代わりに手をパタパタと扇いで、申し訳程度の風を浴びている瑠衣に、わたしは呆れながら突っ込んだ。ちなみにわたしは、冷凍庫で冷やしたネッククーラーを首に巻いているので、なんとか暑さは凌げている。それでも汗はかくけど。
「今日は珍しく暇な日がかぶったから、バッセンにでも行こうかと思ったけど、ここまで外が暑くなるとは……」
「猛暑日になりそうって天気予報で言ってた、ってお姉ちゃんが言ってた」
「お姉さんからの又聞きかい」
決まった時刻にテレビで放送している天気予報を欠かさずチェックするのが、わたしの姉のルーティンである。大学生の姉はまだ夏休みに入っていないけど、実家から大学にかよっているため、休日はいつも家でゴロゴロしている。これで二ヶ月近い夏休みに入ったら、毎日のように惰眠を貪ることになるのだろう。不健康女子大生ここに極まれり、だ。
自堕落で不遜な姉はおいといて、わたしは今、瑠衣からの誘いでバッティングセンターに向かっている。夏休みに入ってからほぼ毎日、マス部で発表練習をしているわたしとしては、たまの休日くらいゆっくりしたいところだけど、瑠衣の頼みだし、体を動かすのもいい気分転換になると思って誘いに乗った。姉に言われて暑さ対策をしっかりして、わたしは炎天下の屋外を歩いている。
バッティングセンターへ続く道の途中、住宅街の真ん中にある公園の近くを通りかかる。
「あと、水分補給も大事ってことで、糖分控えめのスポドリもくれた。冷凍庫で凍らせたやつ」
「うわあ、いいなあ。わたしも持ってくればよかった。後でひと口くれない?」
「やだ」
「えー、つれないぞ親友」
「バッティングセンターにも自販機はあるでしょ。自分で買いなよ」
「着く前に喉がカラカラになったらバッティングどころじゃないんだって。熱中症になったらどうすんの、って……」
「…………」
なんか、視界の隅にまずいものを見たような気がして、わたしと瑠衣は無言になって立ち止まった。そして、公園の方をハッと振り向く。
公園の中、ブランコのすぐ隣にある、日差しが容赦なく降り注ぐベンチの上で、座ったままぐったりと横たわっている、小学生くらいの女の子がいた。
「ちょっ、女の子……? なんであんな所で寝てるの?」
「まずくない? 寝てるのか気絶してるのか分かんないけど、あのままだと熱中症になるかも!」
「救急車!?」
「いや、まずは日陰に連れていこう。涼しいところで安静にするのがいいって、前にコーチから聞いた!」
さすが屋外での活動が多いテニス部、熱中症への対処はわたしより詳しい。瑠衣の指示に従いながら、わたしは一緒に女の子を木陰まで運び、スポーツタオルとハンカチを敷いた地面に横たえた。近くの自販機で買った水のペットボトルと、わたしが持ってきたスポーツドリンクのボトルを、女の子の両脇に挟んでおいた。太い血管が通っている脇の下を冷やすと、効率よく体を冷やせるという。
幸い、女の子は寝ていただけのようで、すぐに目を覚ましたけど、炎天下で寝ていたこともあって、決して万全とはいえない状態にあった。
「んっ……?」
「あっ、起きた?」
「大丈夫? わたし達のこと、はっきり見える?」
熱中症になると意識が朦朧として、視界がぼやけることがあるという。瑠衣は女の子の顔を覗き込んで問いかけた。
「あれ……? ここって?」
「君が寝ていた公園の、隅っこの木の下だよ。こんなに暑くて太陽の光も強いのに、日当たりのいいベンチで寝てるのは危ないよ。熱中症になっちゃう」
「休むなら日陰になる所でね。冷たい水、飲める?」
「うん、飲む……」
「えっ、わたしにはひと口もくれなかったのに」
女の子の脇の下に挟んでいたスポーツドリンクのボトルを、わたしは女の子に差し出した。瑠衣は不満げだけど、女の子はかなり汗をかいているし、糖分の少ないスポーツドリンクの方が水分補給には適している。緊急事態だからしょうがない。
少しぼうっとしているので、誤嚥して喉を痛めないよう、ゆっくり落ち着いて飲むように言って聞かせた。女の子は言いつけ通り慎重にスポーツドリンクを飲んでいき、ある程度を飲み終えて落ち着いてから、事情を話し始めた。
「ぷはっ……えっと、ありがとうございます。お姉さんたちは……」
「わたしは鈴原茉莉、高校一年生」
「同じく高一の、越谷瑠衣だよ。君は?」
「小渕茅子……小三です」
「茅子ちゃんか。この辺りに住んでるの?」
「そ、そうです……」
「じゃあ、休んだら早くお家に帰って、涼しい部屋でゆっくりするといいよ。もちろん水分を摂るのも忘れずにね」
「…………」
怪しい人と思われないように、瑠衣はかなり慎重に言葉を選んで茅子に話しかけている。たかが女子高生とはいえ、小学生から見たら大人と変わらないだろうし、女の子を狙う変質者もいるという情報もあるから、変に怪しまれて警戒される恐れもある。それはそれで色々と困る。
茅子は特にわたし達を警戒する様子はない。が、瑠衣の言葉を聞いて、不機嫌そうに頬を膨らませた。ちょっと可愛い。
「やだ。帰りたくない」
「……なんで?」
「だってわたし、お母さんとケンカして家を出たんだもん。だから帰らない」
「あー、それで身一つで外にいたのか」
「親子ゲンカした勢いのまま家を飛び出したってことね……」
「それで走ってここまで来て、疲れたからベンチで休んでたら、いつの間にか寝てました」
「水分も摂らないであのまま寝ていたら、マジで大変なことになっていたよ。気づいてよかったぁ」
確かに、誰もこの公園を通りかからなかったら、茅子は誰にも気づかれず深刻な事態になっていたかもしれない。休みの日とはいえ、猛暑日の予報が出ているうえに昼食の時間帯だから、公園の周囲もあまり人が出歩いていない。こんな日に歩いてバッティングセンターに行こうとするわたし達の方が珍しいのだ。
しかし、どうしようか……これからまだ暑くなるだろうから、木陰でも長時間居続けるのはよくないけど、この年代の子どもが親子ゲンカして帰りたくないと言い出したら、帰るよう説得するのは困難だ。放っておくわけにもいかないし……。
「しょうがないな。屋外にいても暑さで体が弱るだけだし……少し距離があるけど、バッティングセンターに行って休まない?」
「バッティングセンター……?」
「わたし達、これからそこへ行くところなんだ。打撃練習をするところ以外はクーラーも効いているし、蕎麦の屋台もあるからお昼ご飯も食べられるよ」
「なるほど、ここよりは熱中症の心配もないし、いいんじゃない?」
瑠衣もわたしの案に賛成してくれた。後は茅子がどうするかだ。
見知らぬ女子高生二人に連れられて、行ったことのない場所に行くのは、さすがに気が引けるかもしれない。茅子はしばらく逡巡していた。だが、この辺りもじわじわと暑さが強くなってきて、他に選択肢はないと悟ったらしい。
「……行きます」
「よしよし」
「ああでも、お母さんには行き先をメールとかで知らせておいてね」
「……スマホ忘れた」
「「…………えっ」」
* * *
バッティングセンターに到着すると、瑠衣は水分を補給してすぐにバッティングを始めた。ちなみに瑠衣が水分補給に使ったのは、さっき茅子の脇の下を冷やすために公園の自販機で買った、ペットボトルの水である。
さっきまでだらしない顔で「暑っちい~」とぼやいていたのに、水を飲んで回復したら、打って変わって軽快なスイングを見せている。しかもボールの狙いも的確で、長打を連発している。
あ、また打った。
「フゥ~、かっ飛ばすと爽快だねぇ」
「すごいですね、瑠衣お姉さん。これでホームラン四つ目ですよ。あの人って野球部なんですか?」
「ううん、テニス部」
「…………えっ」
わたしと茅子はバックネットの裏手のベンチに並んで座り、豪快にボールをかっ飛ばしている瑠衣を眺めていた。テニスと野球では球の打ち方が全然違うはずなのに、なんで瑠衣はあんなにバットの扱いが上手いのだろう。案の定、瑠衣がテニス部と聞いて、茅子は疑問符を浮かべていた。
さて、わたし達が勝手によその女子小学生を連れ回すわけにはいかないので、とりあえず彼女の母親にはきちんと事情を話しておく必要があった。茅子はスマホを家に置いてきてしまったが、幸い自宅の固定電話の番号を覚えていたので、わたしのスマホで連絡を取ることになった。
茅子の母親はまだ自宅にいて、すぐに電話に出てくれた。公園のベンチで寝ていたところを見つけて、熱中症の危険があると思って日陰で休ませ、すぐに帰宅した方がいいと言ったら、帰りたくないと言われてしまったと話した。もちろん、母親は無言で呆れていた。電話口でも分かるくらい。
『外に放置しておくわけにもいかないので、わたし達が行く予定だったバッティングセンターに連れてきて休ませています。お手数かけますけど、迎えに来ていただけませんか』
『わざわざすみません、見知らぬ方にご面倒をおかけして……ただ、夫は休日出勤で動けませんし、私も今、在宅の仕事で手が離せなくて、まだ迎えにいける状況じゃないんです。今もリモート会議を離席している最中でして……』
その重い口調からも、母親がなかなか切羽詰まっているのが読み取れた。共働きも在宅勤務も今どきは珍しくないけど、こんな状態での子育ての苦労は察するに余りある。
『二時くらいには終わると思いますけど……』
『じゃあ、それまでわたし達で茅子さんの面倒を見ておきますよ』
『重ね重ねすみませんね……』
『……あの、時間がないでしょうから、手短に答えてくれたらいいんですけど、茅子さんとお母さんは、なんでケンカになったんですか?』
わたしは電話の最後に、気になっていたことを訊いた。迎えが来る二時までに、家に帰りたがらない茅子をなんとか説得しておくために、少しでも事情を知っておきたかったのだ。まあ、よその家庭のことは話しにくいこともあるだろうし、答えられないなら無理に聞き出すつもりはないが。
茅子の母親は、ごく短い言葉で答えてくれた。そのことを、わたしは瑠衣のスイングを眺めながら思い出していた。
「…………さん。聞いてますか?」
「えっ? ああ、なに?」
ぼうっと回想に浸っていたせいで、茅子に声をかけられていたことに気づくのが遅れた。
「ずっとわたしに付き添ってますけど、茉莉お姉さんはアレ、やらないんですか?」
「くうぅ……!」
純真な眼差しで小さな女の子が放ってきた“お姉さん”呼びに、わたしは悶絶して胸をぎゅっと押さえた。姉はいるけど、弟妹も年下の親戚もいないので、自分がお姉さんと言われた経験がほとんどないのだ。
いけない、無垢な少女に女子高生が醜態を見せるわけにはいかない。わたしは呼吸を整えてから答えた。
「ああ、バッティングのこと? わたしは後でいいよ。お昼ご飯を食べ終わってからにするから」
「食べてすぐに体を動かすとお腹痛くなりませんか?」
「……ちゃんと一休みしてからやるし」
女子小学生から耳の痛いことを言われて、わたしはスッと目を逸らした。正直に言えば、バッティングセンターは瑠衣が来たかった場所であって、わたしはさほど気が向いていたわけじゃない。ちょっとした気分転換ができたら、と思っただけだ。
とはいえ、そろそろお腹も減ってきたし、瑠衣に声をかけてお昼ご飯にしようか……と思った矢先に、瑠衣がバッティングルームから出てきた。全身汗だくで。
「はあ~っ、気持ちよかったぁ。茉莉、茅子ちゃん。そろそろ蕎麦食べにいかない?」
「さっき補給した水分がドバドバと漏れ出しとる」
「…………」
これも蘭子が言うところのマッチポンプなのだろうか。ひび割れた水槽みたいに汗を無駄に流しておいて、爽やかな笑顔を向ける瑠衣を、わたしと茅子は苦笑しながら見ていた。
瑠衣のスイングが一段落したので、わたし達は併設されている屋台で三人分の冷やしとろろ蕎麦を購入し、すぐ近くのイートインスペースで頂くことにした。
「とろろ蕎麦って初めて食べます……」
「体が弱っている時にはいいと思うよ。あっ、今さらだけど、蕎麦とかにアレルギーはないよね!?」
「大丈夫ですけど……本当に今さらですね」
茅子は困ったように笑う。蕎麦を食べた経験がほとんどないなら、アレルギーがあっても知らないままの可能性がある。本当なら購入する前に聞けばよかったのに、まったく今さらである。
わたしと茅子の向かいの席に座った瑠衣が、合掌して元気よく言い放つ。
「じゃ、みんなで手を合わせて~」
「「いただきます」」
瑠衣に合わせて茅子も、合掌して一礼しながら言った。こいつ、普段はいただきますなんて絶対に言わないのに……小学生の前だから、礼節を重んじていい人ぶっているな。
さて、茅子にとって初めてのとろろ蕎麦だが、いたく気に入ったようで、とろろの絡んだ麺を、満面の笑みでつるつると啜っている。機嫌がよさそうだから、わたしは茅子と話しておきたいことをこの場でぶつけることにした。
「ねえ、茅子ちゃん……お母さんと、算数の宿題のことでケンカしたって本当?」
「!」
茅子はぴたっと箸を止めて、頬を蕎麦で膨らませたまま、表情を固まらせた。丁寧な食べ方をちゃんと教わっているようで、口の中のものを一旦飲み込んでから、茅子はわたしに聞いてきた。
「んくっ……お母さんから聞いたんですか」
「あんまり詳しくは聞けなかったけどね。そもそもお母さんも、事情がよく分かってなかったみたい。今の仕事が忙しすぎて、心の余裕がなかったせいで、茅子ちゃんに聞かれたことに、ついいい加減な答え方をしてしまったって、謝ってたよ。お母さんのこと、許してあげて?」
「…………」
今度は不服そうに頬を膨らませる茅子。母親の多忙を理解できないことはないと思うけど、それでもケンカしたことについては簡単に引き下がれないらしい。
「……でもお母さん、わたしのこと全然探しに来ないし」
完全に構ってちゃんの決まり文句だ。
「だから、外せない仕事があるんだって」
「お腹がすいたらそのうち戻ってくるとでも思ったんじゃないの?」
瑠衣はやや投げやりに言った。母親はそこまで言ってなかったが、たぶんそれもあるのだろう。家出した子どもが戻ってくる理由のほとんどはそれだろうし。ただ、熱中症の危険がある屋外に出て行った子どもを、そのうち帰ってくると放置しておくのは、さすがに呑気すぎる気もするが。
それはともかく、茅子は算数の宿題で母親に聞きたいことがあったのに、おざなりな対応をされたせいで怒ったのだから、その相談事を解決しておけば、茅子と母親が仲直りするきっかけになるかもしれない。小学校の算数の宿題なら、高校生のわたし達でも何か分かるはず。お節介と言われようが、これも乗りかかった船だ。茅子がちゃんと家に帰れるように、解決できることは解決しておこう。
「それで、宿題のどんなことを相談したかったの? そこまでは聞いてなくて」
「えっと……割り算の問題で、12÷0っていう計算なんですが……」
うわ、出た、ゼロ割り。
思わずそんな台詞が飛び出しそうになった。よく見たら、瑠衣もまたわたしと同様に引きつった笑みを浮かべている。数学が苦手な瑠衣ですら、ゼロ割りがまずいということは知っていたらしい。
確か茅子は小学三年生と言っていたから、ちょうど割り算を習った頃合いだ。ゼロ割りのことは教科書でもあまり触れなかった気がするけど、どうやら茅子はそのことで困った事態に陥ったらしい。
「一学期にやった算数の宿題、夏休みの前に全部返されたんです。その返された宿題の中に、12÷0って計算式があって……」
「茅子ちゃんはどう答えたの?」
「どうって……なんか、変な感じしませんか? 12÷0なんて」
おっと? てっきり0と答えたのかと思っていたけど、茅子はその計算式の違和感に気づいたらしい。
「だって、例えば12÷3とかだったら、12個のリンゴを3人で分けたら、1人分は何個になるでしょう、ってなって、1人4個だと分かるじゃないですか。でも0で割るってことは……」
「そうだね。1人あたり何個なのか求めたくても、元から1人もいないのだから、求めようがないよね」
「だからわたし、“答えなし”って書いて提出したんです。でも……返ってきた答案には間違いって書いてあって、0が正解だって書いてあったんです! そんなの絶対おかしいですよ!」
「あー……」
それはモヤモヤしても仕方がない。大声で不満を吐き出す茅子を見て、わたしは思わず苦笑した。
マス部に入ってからつくづく思うが、小学校の算数は、どんな問題にも必ず形のある答えがあると考えがちで、そのせいで理屈や正確さを蔑ろにする人がたまに現れることがある。きっと茅子の答案を採点した先生も、思考が算数レベルで止まっていて、思い込みだけでバツをつけたのだろう。よく考えれば、0が答えであるはずがないと分かりそうなのだが。
「もう夏休みだから先生に聞くこともできなくて、それでお母さんに聞こうと思ったんだけど……『先生が間違ってるって言うなら、間違いなんじゃないの』って、突き放されるみたいに言われて……それでケンカになって家を飛び出しました」
「なるほどねぇ……いくら心の余裕がなかったとはいえ、それは確かにお怒り案件かも」
「ですよね」
「でも茅子ちゃんも、お母さんが仕事で忙しくてバタバタしていたのは分かっているんでしょ? 喧嘩両成敗って言葉もあるんだし、茅子ちゃんもお母さんにちゃんと謝るんだよ」
「はい……」
茅子はしょんぼりとして頷いた。母親とケンカしたことを後悔して引きずっていたみたいだったし、自分も謝るべきだと、頭では理解しているのだろう。この分だと、仲直りは無事にできそうだ。
ただ、それはそれとして、わたしは茅子の話の中で一点、腹立たしく思ったことがある。
「まあ先生には怒っていいと思うけどね」
「なんでお姉さんが怒るんですか」
「茉莉はね、数学を研究する部活に間違って入って以来、計算の正しさにとても厳しくなったんだよ」
間違って入ったとは心外だ。成り行きとはいえ、わたしが自分で選んで入部したことに変わりはない。
「確かあれでしょ、ゼロで割る計算はやっちゃいけないんだよね」
「そう。ゼロ割りは不能か不定になるから、ちゃんと決まった答えを出さないといけない場面では、避ける必要がある」
「不能? 不定?」
小学生だと耳慣れない言葉に、茅子は首をかしげた。
「要するに、答えが一つに決まってくれないってこと。0を含むかけ算や割り算は、答えがいつも0になると思い込んでいる人がいるけど、“÷0”という計算だけは違っていて、0どころかどんな数も答えにはならないの」
「あー、やっぱりそうなんですね。わたしもずっと納得がいってなくて……でもなんで答えがないのか、上手く説明できないんです」
「じゃあ茅子ちゃん。15÷3はいくつ?」
「5です」
「おお、迷わず答えたね。じゃあ、どうやってその答えを出したのかな?」
「簡単です。3をかけたら15になるような数を見つければいいんです。九九の3の段の中で答えが15になるのは、3×5=15ですから」
15÷3=□ ⇔ 3×□=15
だから、□=5
「いいね、茅子ちゃんは割り算の基本をちゃんと覚えているね。そう、割り算の式はかけ算の式に置き換えることができる。だから例えば、0÷5という割り算も……」
0÷5=□ ⇔ 5×□=0
だから、□=0
「という具合に答えを出せる。だけど、宿題に出たという12÷0を計算しようとすると……」
12÷0=□ ⇔ 0×□=12
「この虫食いのかけ算が成り立つような数を、□に入れることになるけど、そんな数はあるかな?」
「そっか! 0は何をかけても0にしかならないから、0をかけて12になる数なんてあるはずないんだ!」
「そう。だから12÷0は“答えなし”で合ってるんだよ」
「なるほど~、納得しました。割り算の基本に戻ってみれば、0で割る割り算に答えがないのは当たり前に思えますね」
「その感覚は大事だよ。どんなに不思議に思えることも、きちんと順序立てて考えることで、当たり前に思えるようになる……これから算数や数学を学ぶとき、そうした物事に何度も出会うことになるよ」
「そうなんですか?」
「例えば茅子ちゃん、0÷0はどうなると思う?」
「……0で割るんですから、やっぱり“答えなし”では?」
「本当にそう思う~?」
ちょっと面白くなってニヤリと笑って言ったら、瑠衣から「嘲り方が蘭子先輩に似てきたな」と言われてしまった。いけない、こんな所までマス部の先輩たちに毒されなくてもよかろうに。
わたしが両手で顔をムニムニと捏ねて、ニヤついた表情をほぐしている間に、茅子はわたしの出した問題を考えていた。
「これも割り算の基本に戻って考えてみればいいんですかね……0÷0をかけ算にすると……」
0÷0=□ ⇔ 0×□=0
「あれ、0は何をかけても0になるから、□にはどんな数でも入りますね」
「気づいたね、茅子ちゃん。そう、0÷0は逆に、あらゆる数が答えになるの。答えが一つに決まらないって意味では、これもやってはいけない計算の一つだね。ちなみに、普通のゼロ割りみたいに答えが存在しない計算は“不能”と呼んで、0÷0みたいにどんな数でも答えになる計算は“不定”と呼ぶんだよ」
「さっきの言葉って、そういう意味だったんですね」
「要するに、不能は“できない”という意味で、不定は“決まらない”という意味なんだね。レ点を付けたら腑に落ちるわ」
「レ点?」
瑠衣が唐突に漢文の知識を持ち出して来たものだから、小学生の茅子は首をかしげていた。まあ確かに、不能や不定の、文字の間にレ点を入れれば、すぐに言葉の意味は分かるけども。
「答えが一つに決まらないって、さっきも言ってましたけど、そういうことってよくあるんですか?」
「わたしもつい最近まで知らなかったけど、意外とあるみたいだよ。茅子ちゃんはまだ知らないと思うけど、同じ数だけを何個もかけ合わせる時は、“累乗”って言って、かけ合わせる回数を数字の右上に書いて表すんだよ」
「ちなみにわたしは“瑠衣嬢”だ」
「……例えば、2×2×2というかけ算は」
ツッコミもなしかーい、という瑠衣の嘆く叫びもまとめて、わたしは無視することにした。
「2の右上に小さく3を書いて、“2の3乗”という言い方をするんだよ」
「じゃあ例えば、4×4だったら、4の右上に小さく2を書いて、“4の2乗”ですか」
「そうそう、新しいことを知ったらまずは例を作って、ちゃんと理解したか確かめるのが大事。茅子ちゃんは賢いね」
「そ、そうかな……」
照れくさそうに茅子は笑う。ゼロ割りに違和感を覚えたり、0÷0の答えを一瞬間違えてもすぐに考え直したり、まだ自覚は希薄みたいだけど、茅子はちゃんとした賢さを身につけていると思う。こっちは教えることに関して素人だけど、それでも教え甲斐があるというものだ。
「じゃあ茅子ちゃんに問題。2の4乗はいくつになるかな?」
「2の4乗……えっと、2を4回かけるから、2×2×2×2で、2×2は4、4×2は8、8×2は16だから……16です!」
「うん、正解。じゃあ2の3乗は?」
「さっきやりました。8です」
「2の2乗は?」
「4です」
「2の1乗は?」
「えっ、1乗っていうのもアリなんですか?」
「もちろんアリだよ。要するに1個しかかけていないわけだから……」
「あ、そうか。そのまま2でいいんだ」
「ここまでの計算をまとめるとこうなる」
わたしはスマホのメモ帳アプリに書き込んだ式を茅子にも見せた。
2^4=2×2×2×2=16
2^3=2×2×2=8
2^2=2×2=4
2^1=2
「この小さなとんがり帽子みたいな記号は何ですか?」
「累乗を表す別の書き方だよ。メモ帳アプリだと小さな文字は書きにくくて……それより、ここに並んでいる答えを見て、何か気づかない?」
「何か、ですか? そういえば、右上に小さく書く数が一つ減ると、答えは半分になっているみたいです」
「そうだね。あっ、言い忘れていたけど、右上に小さく書く数のことは“指数”って呼ぶんだよ。指数を載せている方の数は“底”って呼ぶよ」
「指数……つまり、指数が一つ減ると、答えは半分になる、ってことですね。でも考えてみたら、2をかける回数が1個減るってことは、答えは2で割ったものになるんですね」
「そういうことだね。だから“3の累乗”だったら、指数が1個減ると、答えは3で割ったものになるね」
たぶん累乗には今日初めて触れたはずだけど、なかなか飲み込みが早い。なんだか茅子に教えるのが楽しくなってきたな。
「じゃあそれを踏まえると、2の0乗はどうなると思う?」
「0乗って……1個もかけてないのに、答えなんて求められるんですか?」
「確かに、累乗を“同じ数だけを1個以上かけ合わせる計算”と考えると、0乗なんて計算はできないけど……できないなら、計算の仕方を変えてみたらいいんだよ!」
「ええ……? そんなことしていいんですか?」
「もちろん好き勝手に変えるのはダメだよ。2乗とか3乗とか、0乗以外の計算の結果と食い違いが起きないように、別の計算方法を考えるんだよ。さっきもやったように、2の累乗のときは、指数が一つ減ると答えは半分になる、だったよね」
「はい」
「2の1乗は2だと分かったけど、そこからさらに指数を1個減らしたら?」
「!」
茅子はわたしの言いたいことに気づき、興奮して椅子からガタッと音を立てて立ち上がった。
「分かりました! 指数を1個減らしたら、答えは半分になるんですから、2の1乗から指数を1個減らして、2の0乗にすれば、答えは2を半分にするから、1になります!」
2^3=8
2^2=4
2^1=2
2^0=1
「正解!」
「すごーい! 0乗なんて絶対無理だと思ったのに、本当に計算できた!」
無理だと思っていた計算が、ちょっとした工夫でできるようになると分かって、茅子は嬉しそうにキャッキャとはしゃいでいる。こういう些細な成功体験が、算数や数学への苦手意識を減らしていくのだろう。
本当はここからさらに、指数を負の数まで拡張すれば、答えが分数になることも示せるのだけど……小三だとたぶん、負の数も分数も知らないから、説明してもかえって混乱するだけだ。ここから先の話とは関係ないし、説明はしなくていいだろう。
「同じように考えるとね、3の0乗とか4の0乗も、同じく1になるんだよ」
「確かに、3の1乗は3で、この場合は指数を1個減らすと3で割るから、やっぱり3の0乗も1になりますね」
「そしてここからが本題……0の0乗はどうなるかな?」
「0の0乗!?」
「なるほど、こいつは難題だ」瑠衣が頬杖をつきながら言う。「0乗したら何でも1になりそうだけど、0しか使ってないのに答えが1なのはしっくりこないな」
「これも計算できるんですか?」
「0の1乗が0であることを使ってみて」
「えっと……2の累乗だったら、指数が一つ減ると2で割って、3の累乗だったら3で割っていたから、0の累乗だと、0の1乗を0で割るから、0÷0で……あれっ!? これってさっきやった、どんな数でも答えになるってやつですか?」
「そう、不定だね。0の0乗は0÷0と同じ計算になるから、結局答えが一つに決まらないのが答えってことになる。指数が0なら1になるし、底が0なら0になるから、そういう意味でも、0の0乗に決まった答えはないってことになるね」
「確かに……」茅子は頻りに頷く。「今まで0なんて、あってもなくても同じじゃないかって思ってましたけど、実は案外奥が深いんですね」
「まあ、元々は位に何もないことを示す記号だったからね。こういう記号がないと、書き方次第ではとても紛らわしくなるから、0という“数字”は必要なんだよ」
もし0がなければ…
1 1 ← これは“十一”なのか“百一”なのか分かりにくい!
「確かに、何もないことを示す記号は必要ですね」
「ただ、何もないことを示すだけの記号を、数の仲間に入れていいのか、昔の偉い学者さんの間でも意見が割れていたみたいだね。0という文字は古代のインドで生まれて、アラビアを経由してヨーロッパに伝わったんだけど、それでも数として受け入れるにはかなり時間がかかったそうだよ。人によっては0を、『悪魔の数』と呼んで嫌っていたこともあったみたい」
「悪魔の数……! なんか、カゲキですね」
「どっちかっていうと、宗教的な意味の方が大きそうだけどね」
たぶん瑠衣の言うとおり、当時のヨーロッパはキリスト教の力が強かったから、悪魔信仰の一種と見なされて、忌み嫌われていた一面もあったのだろう。0をかければ何でも0になる、0を右肩に載せれば何でも1になる、0で割ることは実質的に不可能……当時の人たちからすれば、数の常識から大きく外れていた0を、数の仲間と認める必然はなかったのかもしれない。
「そういえば、うちのクラスの男子の中にも、0なんていっそ滅びればいい、なんて言ってる子がいますよ。あの子も0を悪魔の数だと思ってるんですかね」
「そりゃ赤ペンでその数字が書かれる度に親御さんに怒られてるからだよ」
瑠衣は呆れて苦笑しながら、恐らく人生で全問不正解の答案用紙を一度も見たことがない茅子にそう告げた。まあ、そんなものは一生無縁の方がいいに決まっているけど。
なんて話をしていると、イートインスペースの入り口から、駆け足で入ってくる女性の姿があった。入ってきてすぐに茅子を見つけて、息を切らしながら声をかけた。
「茅子、ここにいたの!」
「あっ、お母さん……」
どうやらこの女性が、茅子の母親みたいだ。上半身は襟元まできっちりと決めたよそ行きの服なのに、腰から下に穿いているのは古びたデニムのパンツ……このアンバランスな恰好から、恐らくさっきまで自宅でリモート会議をしていたのだろうと察した。
「あら、お蕎麦食べていたの?」
「うん。お姉さんたちがおごってくれた」
「お財布とか全然持ってなかったみたいなので……」
「まあすみません、うちの娘が本当にご面倒をおかけして……お蕎麦の代金、払わせてください」
「いえいえ、六百円の安い蕎麦を割り勘で払ったから、たいした負担じゃないですよ。それより喧嘩のこと、早くお互いに謝った方がいいですよ」
脇目も振らず駆けつけて、茅子の頭に優しく手を載せる母親に、わたしはそう言っておいた。お金のことよりも先に、親子の和解を優先した方がいい。
茅子と母親は少し気まずそうに目を合わせたが、すぐに母親の方が頬をぽりぽりと掻きながら口を開いた。
「その……さっきは、仕事に気を取られて、茅子のことをちゃんと見てやれなくて、突き放したようなこと言っちゃったけど……ママが悪かった。ごめん」
「…………」
母親が素直に頭を下げて謝ったところを見て、茅子も申し訳なさそうに視線を落として、控えめにぺこりと頭を下げた。
「わたしも……心配かけて、ごめんなさい」
「ん、いいよ。無事で元気そうなら何より」
「あっ、でもね。お母さんに聞こうと思ってた算数の宿題のこと、茉莉お姉さんに聞いてスッキリしたから、もう大丈夫だよ」
「あら、そうなの?」
「もしもーし。もしかしてわたし、ハブられてる?」
特に茅子の宿題に関して役に立つことを言っていない瑠衣は、さらっと蚊帳の外に置かれた。茅子の意識の外で、蚊帳の外……この場に杏里がいたら吹き出していただろうな。
もっとも、わたしは再びの“茉莉お姉さん”呼びのおかげで、むず痒さに悶絶しそうになる所を抑えるのに必死で、瑠衣のことなど見ていなかったが。
「何から何まで、うちの娘がお世話になったようで……」
「いえ、このくらいは全然、たいしたことはしてないですよ。普段から部活でやっている内容が高校レベルを超えているので……それに比べたら楽な方ですよ」
「茉莉お姉さんは、スーガクをケンキューするブカツに入ってるんだって」
「そんな部活もあるのね……」
茅子はまだ小三だからよく分からないみたいだが、数学を研究する部活自体は、割とあちこちにあるようだと、以前に蘭子が言っていた。とはいえ、進学校にあるようなガチの研究をするわけでもなく、基本的にのほほんと駄弁っているだけの緩い部活だから、わたしみたいな素人でもやっていけるのだ。……たまに高度な内容を扱うから、今のわたしみたいに、思い出すだけでスタミナ切れになることもあるけど。
「じゃあ、お蕎麦を食べ終わったら帰ろうか、茅子」
「うん。あっ、でもせっかくだから……」
遅めの昼食が終わったら、茅子の母親は家に帰るつもりでいたみたいだが、茅子の提案で、もう少しここに残ることに決まった。母親もリモートでの仕事が一段落していたので、一時間くらいなら大丈夫と了承してくれた。
茅子にとって初めてのバッティングセンターということもあって、茅子もバッティングを体験してみたいと言うのだ。キッズ向けのコースに入って、瑠衣のアドバイスを受けながら、茅子は初めてのバッティングに挑戦することになった。
「そう。バットは根元をしっかりと掴んで、振るときは腕だけじゃなく、体全体を動かすイメージで」
「は、はい!」
瑠衣の懇切丁寧なアドバイスを受けて、茅子が挑んだ最初のスイングは、見事に空振りとなった。
「えいっ!」
「あちゃあ……ボールをちゃんと見ないと、当てられないよ。じゃあまずは、バットを振らずに、ボールがどんなふうに来るのか見てみようか」
「は、はい……!」
心なしか、瑠衣の距離感が近いせいなのか、茅子はどこか緊張気味だ。普段の言動がアレだから忘れそうになるけど、瑠衣はざっくばらんなのに面倒見がいいから、同級生や後輩の女子からの好感度は高いらしいのだ。
「あの子、教え方が丁寧ね……ソフトボールでもやってるの?」
「いえ、テニス部です」
「…………えっ?」
またこのやり取りである。さすが親子、反応がよく似ている。
わたしと、茅子の母親である宮子は、並んでベンチに腰かけて、茅子の初バッティングをバックネットの後方から見守っている。わたしも少し休憩したら一緒にやろうかと思っていたけど、なんか茅子のことが気になって、結局宮子さんと一緒にいた。
「それにしても、0で割ったら答えがなくなるから、そういう計算はしちゃいけない、か……割り算なんて、分数の割り算を乗り越えたら敵なんていないと思ってたけど……」宮子さんはハッと気づく。「そもそも私、0で割ったらいけないなんて、学校で習った記憶がないわ」
「わたしも具体的にどこのタイミングで教わったか覚えてないです……まあ、0で割る計算なんて、普通に暮らしていたらまず出くわさないですから、よほど数学を深く学ぼうとしないと、考える機会すらないでしょうし」
「勘違いして覚えている大人がいても不思議はないわけか……確かに、0を0で割る計算なんて、実際にやる必要に迫られることはないだろうし、ちゃんと考えたら“どんな数でも答えになる”と分かるけど、考えなければいくらでも変な答えを出しそう」
そうなのだ。数学に限らず算数にも言えることだが、きちんと筋道を立てて考えなければ、正しい答えは導けないし、運よく導けても、そこから得られるものは何もない。あるとしたら、根拠のない自信と、無意味な経験則くらいのものだ。どちらも、数学を学ぶ上では害悪にしかならない。
けれども、茅子はたとえ先生から間違った答えを教えられても、簡単に納得することなく考え続けていた。大人からすれば聞き分けのない子どもに見えるかもしれないが、茅子のこうした姿勢は、これから数学を学ぶときに、大いに役立つことだろう。
何しろ、マス部がわたしに求めている姿勢が、まさにそういうものだからね!
「それに、0の0乗だっけ? そんなの普通考えないでしょ」
「数学をやる人はごく普通に考えるんですよ。現実ではまずお目にかかれない特殊な例とか、本来の定義を超えた使い方をするための方法とか、色々考えるんです」
ちなみに、日常で使われることがほとんどなく、直感的に正しいと思われがちな性質を満たさない、非常に特殊な例のことを、数学では“病的”と形容します。
「本当に数学をやる人って、考え方から浮世離れしているのね……」
「ただ、茅子ちゃんにはまだ難しい話なので黙っていたんですが、0の0乗をどう定義するかは、数学者の間でも“立場の違い”があるんです」
「立場の違い?」
「例えば、わたし達は『自然数』と聞けば1から始まると考えることが多いですけど、数学の中でも集合論や代数学を研究する人は、0から始まると考えることが多いんです」
「そうなの?」
「言葉の定義や解釈が、同じ数学でも分野によって変わることがあるんですよ。同じように0の0乗も、組合せ論という分野では、“不定”ではなく“1”に限定しています」
「ふーん? それはつまり、本当はどんな数でも答えになるけど、組合せ論では1以外の答えを認めていない、ってこと?」
理解が早い……いやまあ、さっき宮子さんにも一から説明したから、“不定”がどういう意味なのかは把握しているはずだが、それと言葉の本質を理解しているかは別の話だ。特に数学に興味があるわけではなさそうだけど、茅子の賢さは母親譲りなのかもしれない。
「そうですね。組合せ論だと、0の0乗は1である方が好都合なので、そう定義することが多いそうです。というのも……」
わたしはスマホを操作して、ブラウザである数式を検索した。宮子さんは首をかしげて、スマホを操作するわたしの手元を覗き込む。
「組合せ論の世界には、二項定理という有名な式があるんです。いくつかバージョンはありますが、その中に……こういうものがあります」
「んと……これはどういう数式なの?」
宮子さんは近眼みたいに眉間にしわを寄せて、スマホに映された数式を見て尋ねてきた。高校数学レベルだけど、大人になって忘れている人もいるのだろう。ちなみにわたしはまだ授業で習っていなくて、蘭子から0の0乗を教わる過程で知った。
ただ、今は片手間でちょろっと説明する程度に留めたい。茅子がバッティングを終えるまでの時間しか使えないし、数学に慣れていない宮子さんに細かい説明をしても、たぶん混乱するだけだ。
「まあひと言で言うと、左の式を展開したら右の式のように表せる、ということなんですけど、いま考えたいのは、この式のnに0を代入した形です。するとこんな式になるんですよ」
わたしはブラウザを閉じてメモ帳アプリを開き、ささっと数式を入力する。
(1+x)^0 = x^0
「ふーん……さっきよりはだいぶ簡単そうな式になったけど。あれ? でもこの式、xを0に置き換えたら……」
「はい、そうなんです。この式が示しているのは要するに、0乗の値は、底の値を1ずつ増やしたものと常に一致する、ということです。ならば、0の0乗は1の0乗と等しい、ということなので……」
「0の0乗は1になる、ということね」
「はい。組合せ論の基本となる二項定理から自然に導かれるので、そう定義することにしているんです」
「なるほどねぇ……」宮子さんは顎に手を添えて呟く。「文字を使った数式なんて、確かに茅子にはまだ早いわね」
「累乗すら覚えたばかりなのに、文字を使って式を書いて色んな数に置き換える、なんて話を始めたら、だいぶ混乱させてしまいますから……」
トランプのジョーカーみたいに色んな数で置き換えられるもの、と言えば、茅子ならピンとくるかもしれない。だけど、短時間で新しい概念をたくさん教えたら、茅子くらいの年齢だと簡単にパンクしてしまうだろう。わたしですら大変なのに。
一方その茅子は、だいぶコツを掴めてきたみたいで、バットにボールを当てて飛ばせるようになっていた。まだスイングの勢いが弱くて、長打とまではいかないが。
「あと、集合論の世界でも、0の0乗は1とされることが多いですね。空集合から空集合への写像が、“空写像”の1種類しかないので」
「どういうこと?」
「えっと……写像というのをごく簡単に言うと、テストやクイズでよく見る、二つのグループで対応するもの同士を、正しく線で結ぶというやつです」
「あー、子ども向けのクイズ本にも、こんな問題がよくあるわね」
「こういう、二つのグループの要素を線で結ぶとき、結び方が何パターンあるかを数えるんです。例えば、要素が2つのグループAから、要素が3つのグループBへ線を引くとき、結び方は全部で9通りあります」
「ふむふむ」
わたしの説明を頭の中で咀嚼するように、宮子さんはしきりに頷く。
「Aの要素を一つ一つ見ると、Bの要素へ引かれる線は3通りありますよね。Aの各要素について3通りの線の引き方があるなら、線の引き方は全体で、3×3で9通りになる、ということです」
「その要領でいくと、例えばAの要素が3つで、Bの要素が4つなら、線の引き方は全部で4×4×4になるわけ?」
「その通りです。つまり、グループAの要素がn個で、グループBの要素がm個とすると、AからBへの線の引き方は、m^n個だといえるわけです」
「へえ……線で結ぶクイズなんて何度も見たことあるけど、線の引き方が何種類あるかなんて、考えたこともなかったわ」
「さて、ここで0の0乗について考えます。線の引き方の総数が累乗で表せるとすると、0の0乗は、要素が0個のグループ同士で線を結ぶときのパターン数、ということになります?」
「……要素がなかったら、結びようがないんじゃないの?」
「普通はそう思いますよね。でも集合論では、要素が一つもない集合、つまり空集合同士の間には、“空写像”という結び方が一つだけあると考えるんです。だから、0の0乗はここでも1になります」
「そんなのアリなの?」
「写像の要件は一応満たしているので、アリといえばアリみたいです……」
確か蘭子が以前に、写像は『入力と出力のペアを集めた“直積集合”の“部分集合”で、入力側が重複しているペアが存在しないもの』と見なすことができて、空写像はこの“部分集合”に要素が1個もないので、ある意味写像の要件を満たしている、と話していた。いわゆる“空虚な真”である、とも。わたしがちゃんと理解しているか怪しいので、この辺は説明しないことにした。後で蘭子から詳しく説明してもらおう。
「とまあ、色々考え方はあるんですが、この定義が成立するのは、数学のごく狭い範囲での話です。組合せ論や集合論は基本的に、0以上の整数しか扱わないので、これをもって0の0乗が1だと断定していいわけじゃありません」
「ってことは、他の分野だったら、0の0乗が違う数値になるってこと?」
「はい。わたしもまだ詳細は知らないんですが、関数の極限や微積分を扱う“解析学”だと……1になったり0になったり正の無限大になったり、やり方次第では0以上のどんな実数にもなりうるそうです」
「まさに“不定”なのね……」
「挙げ句の果ては、そもそもどんな数になるか分からなくなるパターンもあるみたいですよ」
「うーん……」宮子さんは難しい顔になった。「なんだか0って、突き詰めて考えると本当に面倒な存在なのね。何もないことを示すだけの数が、ここまで厄介だとは……」
「だからこそ、0の扱いは慎重さが求められるんです。数学は文字を使いますけど、使う文字に0が入る可能性があったら、その文字は絶対、分数の分母には使えませんからね」
「文字だけでそんなことを判断するのって、難しくない?」
「難しいですけど、それをやらないと証明が不完全になるので。本当に……」
わたしは急に気が遠くなって、ベンチにもたれかかって天を仰ぐ。
「0って、割り算と相性が悪いんですよ」
「数学にもあるのね、相性……」
「そりゃありますよ、いくらでも」
数学は例外を作ることをあまり好まないけれど、どうしても不都合が生じるようであれば、やむを得ず例外を置く。0で割る、というのもその一つだ。相性の悪さはどんなに工夫を重ねても解消できない。だから例外を設けて除外するしかないわけだ。
ただ、それは必ずしもネガティブなことではない。明確な例外を置くことで、混乱を避けて、問題を整理することができると思えば、数学は前に進める。時には割り切ってしまうことも、前進するために必要なのだ。
「でもまあ、相性がいいか悪いかなんて、やってみないと分からないところはありますよ。わたしだって、自分がそれほど数学と相性がいいとは思いませんけど……」
その刹那、空気を一直線に裂くような、鋭い金属音が響いた。
「相性が悪いかどうかは、もう少し保留してもいいかなって、最近思うようになったんです」
バックネットの向こうで、茅子と瑠衣がはしゃいでお互いの体にしがみつきながら、遠く彼方に目を向けている。ホームランを告げるファンファーレは聞こえないが、それでも初心者の茅子にとって、満足のいく打球だったみたいだ。
「……って、すみません、急にわたし個人の話になって」
「いいえ、いい話が聞けたわ。そうね……相性が悪ければ無理だと割り切ってもいいけど、いいか悪いか分かるまでは、好きなだけ粘ってみてもいいわよね」
弾けるばかりの笑顔を浮かべる茅子を、宮子さんは慈しむような目で見つめている。これから先、どんな大人にもなりうる我が子のことを、優しく見守ろうとする、母親の眼差しだった。
* * *
規定回数のピッチングが終わったので、茅子は宮子さんと一緒に自宅へ帰ることになった。初めてのバッティングは満足のいく結果になって、茅子は達成感と名残惜しさがない交ぜになっている様子だった。
宮子さんが運転してきた車に乗り込む前に、茅子はわたしと瑠衣に何度も手を振っていた。
「茉莉お姉さん、瑠衣お姉さん! 今日はありがとうございましたー!」
「うん、また縁があったら、一緒にバッティングしようねぇ」
「はい! その時は瑠衣お姉さんに連絡しますねー!」
茅子は今日スマホを家に忘れてきていたけど、瑠衣にはスマホの番号を教えて登録させていた。この短時間ですっかり、茅子は瑠衣に首ったけとなったようだ。まあ、わたしはわたしで、何度目かの“茉莉お姉さん”呼びのおかげで、むず痒さに内心悶絶していたけど。
茅子を乗せた車が遠ざかっていき、バッティングセンターの入り口前には、わたしと瑠衣が残される。車が見えなくなるまで、わたし達は手を振り続けた。
そして、車が見えなくなったところで、瑠衣が振り向くことなく告げる。
「……結局、茉莉は一度もバット持たなかったな」
うぐっ。痛いところを不意打ちで突かれて、わたしは変な声が漏れそうになった。
「しかも初対面の人に、バッティングセンターで数学の話って……マス部に染まりすぎ」
「そんなに難しい話はしてないし!」
「難しくなけりゃいいってものでもないでしょ。まあ、幸いわたし達はまだ時間がたっぷりあるし、夕方まで目一杯遊んでこうぜ、親友!」
そう言って瑠衣はわたしの肩に手を回し、施設の中へとエスコートしていく。これがその辺の女子が相手なら、無駄に距離感を詰めてくる瑠衣の言動にドギマギするところだろうが、生憎わたしは女子同士の過度なスキンシップに慣れている上に、瑠衣の奇矯な一面を知っているので、何とも思わない。
まあ、元々少しは体を動かすつもりでいたから、遊びに連れ込まれること自体は悪い気がしない。友達と一緒ならなおさらだ。バッティングが女子高生の遊びとして健全かどうかはさておき。
「……夕方まで暑いからほどほどにさせてよ」
「えー? 汗かくまで激しい運動をしようじゃないの」
「語弊過多……」
そうしてわたしはようやく、かなり久しぶりのバッティングに挑むことになった。
結果、安打数、0本。
「ちくしょー! 全然バットに当たんねぇー!」
「これはもう相性が悪いと割り切るしかないね」
「400円払って結果0本とか割に合わないんだけど!」
「……お客さま、備品は丁寧に扱ってくださいね」
不甲斐ない結果に苛立って、備品のバットを地面に叩きつけたわたしに、スタッフの人から注意が言い渡された。
本当にもう、0なんてたくさんだ。
数学って、矛盾さえなければ基本的に何をしても許される学問なので、同じ言葉や問題でも、立場や解釈によって答えが変わることはよくあります。ただ、何をしても自由という割に、数学者たちの間で市民権を獲得するのは大抵、洗練されて無駄のないシンプルな解釈や概念なので、そうした背景を知らない人から見たら、腑に落ちない考え方を押しつけられているように感じることもあるでしょう。
だからこそ覚えていてください。数学者だって人間なので、面倒なことはしたくないんです。たとえ専門家が主張する数学の考え方が、今の時点では腑に落ちないものだとしても、捻じ曲げたら後でもっと面倒なことになると分かっているから、専門家の人たちはその考えを支持するのです。0で割った答えが0になる、そう解釈できなくもない場面はきっとあるでしょう。でも、それが全てだと決めつけると、後で大変なことになるのです。0で割る計算は出来ない……それが最も洗練された、シンプルな解答です。
ところで、0で割ってはいけない、というのはどこで習うのでしょうか? 私もいつの間にか当然のように飲み込んでいて、最初にどこで見たのか思い出せません。割り算を習いたての段階で、その事実を飲み込むことができた茅子は、紛うことなく幸運と言えるでしょう。
さて次回は、様々な神秘に彩られた、あの有名な“三角形”についてのお話です。あまりに言いたいことが多すぎて、シンプルな構成にできる自信がありません。今のうちに謝っておきます。




