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Day. 15 自由という名の難問

数学では、“無限”を甘く見ると、大変なことになります。無限を扱うときは、用法・用量を守って正しく使いましょう。


 時はまさに、夏の盛りに突入したばかり。つばき学園高校の周囲に広がる森林からは、アブラゼミの鳴き声がひっきりなしに響いている。真昼の高く昇った太陽から射し込む光は、容赦なくじりじりと校舎に照りつけて、陽炎を立たせている。

 そんな暑さの厳しい七月の後半に、つばき学園高校では一学期最後のイベントとして、終業式が執り行われた。全校生徒を収容できる大講堂に集まって、学園長や生徒会長の退屈な話に耳を傾ける。中学までの終業式と違い、ここの大講堂は椅子が並べて設置されているので、暑い中で立ったまま延々と話を聞き続けるという拷問にはならない。座面は固いけど、まあまあ快適な環境で、退屈な話を聞き続けると……。


「……ねむねむ」


 微睡(まどろ)んでそんな擬音(?)が口をつくくらいには、わたしの意識は途中から朦朧としていて、学園長の話はほとんど記憶に残らなかった。

 ちなみに式の最中にうとうとした生徒は、わたし以外にもいたようで……。


「学園長の話ねぇ。なかなかありがたいお話だったよ~……覚えてないけど」

「ありがたい話がカタナシだなぁ」


 あっけらかんと笑って言った瑠衣に、わたしは呆れて突っ込んだ。覚えてないのに話の何がありがたいと分かるのだろう。

 終業式が終わって生徒たちがめいめいに大講堂を出て行こうとする中、出入り口近くの隅っこでわたしと瑠衣は談笑をしていた。今日は終業式だけで授業はもうないので、終わったら好きに動いていいということになっている。もちろん夏休みの課題というものもあって、これらは終業式の前にすでに配布済みである。

 終業式なので大講堂には当然、他の学年の生徒も集まっている。辺りを見回してみたけど、マス部の先輩二人の姿は見つからなかった。とっくの昔に引退して二度も留年している誰かさんのことは、そもそも探そうともしていない。


「せっかく快適な所で話を聞くなら、もうちょっとユーモアとか交えて退屈しない内容にしてくれたらよかったんだけどねぇ。学園長も堅物な人だから」

「…………」

「さっきから何をキョロキョロしてるの」

「いや、別に……」

「ああ、マス部の先輩方を探してたのね。しばらく休みで会えなくなるからって、もう恋しくなったの~?」

「違うから」


 ニマニマと笑って瑠衣がからかってきたけど、わたしはきっぱりと否定した。蘭子と杏里を探していたのは違わないけど、別に恋しくなったわけじゃない。


「そもそも夏休みでもマス部には顔を出す予定だから、会えなくなるわけでもないし」

「えっ」瑠衣の顔が引きつる。「夏休みなのに学校に来てまで数学トークするとか、マジモンの変態じゃん」

「それは蘭子先輩だけに言って」


 ささやかな怒りを込めて言った。わたしまで蘭子と同類の数学オタクだと思われるのは心外というものだ。……いやまあ、事情があるとはいえ、マス部に在籍している時点であまり説得力はないが。


「そうじゃなくて、来月の科学研究発表会にわたしが参加するから、追い込みで発表の練習をするんだよ。狭いけど、パソコンもプロジェクターもあるから、練習環境は一番いいんだよね」

「あー、そういうこと。大変だねぇ、入部して四ヶ月かそこらなのに、大役を任されちゃって」

「大役っていうほどたいした活動じゃないよ。マス部はほぼ毎年参加しているし、高評価がもらえなくても困るわけじゃないからね。でも、パソコンの操作とかタイムキーパーとか、基本的な所でつまずいたら話にならないから、そこはちゃんと練習しなきゃなんだよね」

「まあ、全国規模の研究発表会なんて、茉莉は初めてだもんなぁ」


 瑠衣は腕を組んでうんうんと頷く。彼女は確か中学の時に、フェンシングで地方大会を経験したと言っていたけど、たぶんスポーツの試合とかとは、違った緊張感というものがあるのだろうな。ちなみに、瑠衣は高校に入ってからはテニスに転向し、大学に行ったらラクロスとテコンドーに挑戦してみたいと言っていた。……節操なさすぎである。


「ああもう、思い出したらなんか早くも緊張してきたよ」

「本番って8月の半ばでしょ? 緊張するにしても気が早すぎだって」

「……ところで、さっきからずっと気になっていたんだけど、瑠衣の後ろに隠れている子、どちら様?」


 そう、言ってなかったけど、今この場にいるのはわたしと瑠衣だけじゃない。瑠衣の後ろに隠れて、会話にも全く参加していない生徒が一人いる。割とタッパのある瑠衣の、肩の高さくらいの背丈で、お下げ髪にほんのり桃色に頬を染めた女の子が、瑠衣の背後からひょっこりと顔を覗かせていた。


「あぁ、この子は本庄(ほんじょう)乃々美(ののみ)。わたしと同じく、テニス部の一年生だよ」

「えっと、四組の本庄です……たぶん、初めましてですよね」

「そうだね……一組の鈴原茉莉です」


 乃々美の方がぺこりと頭を下げて挨拶してきたから、なんかわたしもつられて頭を下げてしまった。


「引っ込み思案なんだよね、この子。そんな自分を変えるために、高校に入ってからテニスを始めた新人ちゃんってわけ」

「おー、殊勝なことだ」


 たった四ヶ月だとあまり効果は現れていないみたいだけど。

 そんな未だに引っ込み思案な乃々美は、何に緊張しているのか真っ赤になって、覚束ない口調でわたしに話しかけようとしている。


「あ、あの……実は、鈴原さんに、お尋ねしたいことがあって……」

「わたしに聞きたいこと?」

「えっと……鈴原さんは、す、数学研究クラブの、部員、なんですよね」

「まあ、一応……」

「それで、その……及川蘭子先輩って、どんなものが好きかとか、分かりますか……?」


 蘭子の好きなもの? そんなものは一つしか思い浮かばないが、それよりも、なぜその質問をわたしにするのだろう。引っ込み思案な乃々美が、本人に訊けない理由とは……ああ、そうか。色々と察したわたしの脳天で、電球がピコーンと光った(リアクションが古い)。


「乃々美さん、蘭子先輩のファンなんだ」

「ファッ!? は、ふぁい……」


 ファンとはいが混ざって、ギリシャ文字の名前みたいになった。ちなみにφは数学だとトーシェント関数に使われたりします。

 それにしても、沸騰したみたいに真っ赤になるくらい、乃々美は蘭子にご執心のようだ。まああの人、黙っていればお淑やかな深窓の令嬢って雰囲気があるから、直接話す機会がない生徒からは、憧憬の念を抱かれることが結構あるらしいけど。


「及川先輩のお好きなものを贈って、少しでもお近づきになりたくて……でも、これまで一度も話したことのない後輩に、いきなりこんなことを聞かれたら、ドン引きされてしまうかもしれないじゃないですか……!」

「発想が完全に陰キャコミュ障のそれだよ」


 瑠衣が笑ってそんなことを言うものだから、ちょっと分かるかも、って言い出せなくなってしまった……。

 それはともかく、蘭子のファンであれば無下にはできまい。質問には誠実に答えるとしよう。


「まあ、蘭子先輩の好きなものなら、たぶん分かるよ」

「ホントですか? 先輩の好きなものって……」

「数学」

「えっ?」

「だから、数学」

「まあ、()もありなんだわな」


 蘭子の本性を知っている瑠衣は当然ながら納得したけど、一度も話したことがないという乃々美は困惑していた。


「プレゼントなんてなくても、数学が分かる人なら仲良くできるよ。マス部……数学研究クラブはそういうところだし」

「類は友を呼ぶ、ですか?」

「おっ、確かに呼んだかもねぇ」

瑠衣(あんた)のことじゃねぇよ」


 おどけてニヤリと笑う瑠衣に、わたしは冷静に突っ込んだ。こんなつまらない洒落がツボに嵌まる人もいるのか、どこからか失笑して吹き出す声が聞こえた。


「まあ確かに似たような人たちばかりだけど、類は友を呼ぶというより……“同病相憐れむ”かな」


 と、調子に乗って言ったら、後ろから誰かに頭をがっしりと掴まれた。


「私の数学好きを病気扱いする不届き者はどちらかな?」

「……さーせんした」


 笑ったまま固まったわたしは、とりあえず軽く謝ることにした。でも、病的な数学好きという意味では間違ってないと思うので、引っ込めはしないが。

 いつの間に近くまで来ていたのか、蘭子だけでなく杏里もわたしの後ろにいた。どうやらさっき、瑠衣のボケに失笑したのは杏里だったらしい。


「お二人とも、いつからここに?」

「つい今し方だよ」

「なんか、瑠衣ちゃんや知らない子と楽しそうに話してるのが見えてね」

「どうも、ちょっと振りですね、先輩方」


 すでに二度も蘭子や杏里と顔を合わせていて、フランクに挨拶する瑠衣の後ろで、乃々美はまた小動物のように隠れた。憧れの蘭子が目の前に現れて、緊張が一気に爆上がりしたようだ。


「あばばばばばばばっ……! ほ、ほほ本物ぉぉ……!」

「反応が完全に限界オタクのそれだよ」


 瑠衣は呆れながらも微笑ましそうに言った。さながら乃々美の保護者だ。


「それで、この子は?」

「本庄乃々美さん。蘭子先輩のファンだそうですよ」

「ファンねぇ……特に慕われるような事をした覚えはないが、悪い気はしないな。気持ちは嬉しいよ、本庄さん」


 なんだこれ。たぶん無意識だろうけど、蘭子はファンに誠実に接する芸能界のスターみたいに、柔らかく包み込むような素振りで乃々美に告げた。こんな蘭子、マス部ではほとんど見たことがない。

 恐らくはオタク特有のフィルターがかかって、神々しいほどキラキラして見えている蘭子に、こんな言葉をかけられたものだから、乃々美は浄化でもされたかのように言葉を失って……後ろ向きに倒れた。なけなしの理性で瑠衣の肩を掴んだおかげで、床に背中を打たずに済んだが。

 限界オタクの過剰な反応に、この手のことに疎い蘭子は狼狽えた。


「な、なんだ? どうした、君?」

「大丈夫ですよ、蘭子先輩。卒倒するほど感激しただけだと思います」

「卒倒の仕方が器用すぎる気もするけど……」


 同じくこの手のことに疎い杏里は苦笑していた。瑠衣の肩をがっしりと掴みながら、力なくふらりと倒れていく様は、確かにある意味では器用かもしれない。乃々美は真っすぐ斜めの姿勢のまま、恍惚の表情でうわごとを漏らしている。


「推しに……認知された……ファンサえぐし……尊み秀吉……」

「語彙が乱れまくってるが、本当に大丈夫なのか?」

「一部の界隈では普通に通じる語彙なので大丈夫ですよ」


 と、がっしりと肩を掴まれている瑠衣が事もなげに言う。明らかに乃々美の指先が食い込んでいるけど、瑠衣こそ大丈夫なのだろうか。


「鈴原さんはこんなにも麗しき方と毎日顔を合わせていて平気なのですか……? どのような鍛錬を積んだのですか」

「いや、わたしは乃々美さんと違って、特に蘭子先輩を推してはいないから」

「知ってはいたが堂々と言われると腹立たしいな」


 別に嫌ってはいないし、なんだかんだ一緒にいて心地よいとは思っているけど、数学が絡んだ普段の言動を見ていれば、靡くものも靡かないというものだ。あまりに歯に衣着せない物言いだからか、蘭子は機嫌を損ねたけど。


「そうだ、蘭子先輩。乃々美さんがお近づきの印に何かプレゼントしたいそうですけど、欲しいものとか好きなものとか、何かありませんか」

「プレゼントねぇ……誕生日でもないのに貰うのは気が引けるが」

「数式や定理がプリントされたTシャツとかどうですか?」

「球技大会のクラスTシャツよりも普段使いに向かないなぁ」


 わたしの提案に瑠衣がツッコミを入れてきた。確かにクラスTシャツって、その年のクラス対抗イベント以外で着るのは度胸がいるよね。蘭子へのプレゼントだったら悪くないと、わたしは思うけど……。

 乃々美の反応は芳しくなかった。


「わたし、定理なんて三平方の定理しか知りません……」

「いや他にも色々習ったと思うよ?」


 さてはこの子、数学ができる方ではないな?

 一方で、蘭子の方も反応は芳しくなかった。腕組みして難しい表情をしている。


「数式や定理をプリントしたTシャツか……申し訳ないけど、私もそれは貰えないかな」

「どうしてですか?」

「デタラメな英語をプリントしたシャツみたいに、いい加減な内容の数式が書かれたシャツだったら、とても身につける気になれないし、オイラー師匠の公式や定理みたいな素晴らしい式が書かれていたら、祭壇に飾って着ないままになりそうだし!」

((やりかねない……))


 わたしと杏里は同じことを思った。


「そういうわけで、数式をプリントしたらろくに使わなくなるから、普段使いするものだったら普通のもので頼むよ」

「おお、愚かにも数学に疎い私なんかのために……神」

「卑下しすぎじゃないかな?」


 目を輝かせて蘭子を崇める乃々美の行動に、だんだん慣れてきた蘭子は冷静に突っ込んだ。たぶん、蘭子は乃々美に気を遣ったつもりはないと思うけど。

 まあプレゼントの件はひとまずおいておくとして、わたしは気になっていたことを杏里に尋ねた。


「ところで、お二人はどうしてここに?」

「茉莉ちゃんを探しにきたんだよ。これから発表練習しなきゃいけないから」

「あ、そうだった」

「忘れてもらっちゃ困るな、今年の主役なんだから」


 蘭子はそう言って、わたしの制服の、ブラウスの襟をがっしりと掴んで、わたしを引きずりながら大講堂を出ようとする。引っ張られた襟が首に食い込んで、わたしは「ぐえっ」と蛙のような声を出した。


「じゃあちょっと茉莉を借りていくよ。茉莉の分も夏休みを満喫したまえ」

「なんでわたしの夏休みが潰れたみたいに、って、ぐえぇぇ……」

「おー、頑張ってくださいね。茉莉もご苦労さん」


 瑠衣と乃々美に見送られて、わたし達マス部の現役部員は大講堂を出て行った。残された二人は、わたし達が去ってからこんな話をしたという。


「科学研究発表会って……?」

「ああ、それね。全国から学生が集まって、科学研究の成果を発表するイベントがあるんだよ。茉莉が参加するのは高校生の部になるね」

「数学の研究を、科学研究の発表会で紹介するの……?」

「それはわたしも疑問だけど、なんか毎年参加しているみたいでね。まあ伝統みたいなものだよ。ちょうどテニス部の練習もお休みだし、せっかくだからわたしは見に行こうと思うけど、乃々美はどう?」

「興味がなくはないけど、参加するのは鈴原さんだしなぁ……」

「蘭子先輩たちも、たぶん付き添いで会場に行くと思うよ」

「だったら行きます!」

「食いつきがやべぇ」


 目を輝かせて詰め寄り、わたしの発表を見に行く、もとい蘭子とお近づきになると即答する乃々美。鮮やかな手のひら返しに瑠衣は笑って呆れた。

 そんな二人のやり取りを、少し離れた所から見ている生徒が一人いたが、二人とも気づいてはいなかった。


  * * *


 さて、お昼までに一学期の掉尾を飾るイベントは終わり、後は昼食も含めて生徒たちの自由時間となる。半分くらいの生徒は学校を後にして、遊びに行ったり家に帰ったりしたが、残りの半分は学校に残り、夏休みに向けた部活動や委員会の最終調整をしている。我らがマス部も例外でなく、8月12日の発表会本番に向けて、唯一の参加者であるわたしへの指導に、一層熱が入っていた。

 アブラゼミの大合唱が響き渡る、お昼の2時過ぎ、文化部棟の二階にあるマス部の部室を、顧問の荒川千百合先生が尋ねてきた。アイスの入ったビニール袋を手に。


「お疲れ。差し入れにアイス持ってきたわよ……って、若干一名が本当にお疲れみたいだけど、大丈夫?」


 荒川先生が驚いて心配してしまうほど、わたしはぜいぜいと息を切らしてテーブルに突っ伏していた。お昼ご飯を食べてから二時間近く、リテイクの嵐に見舞われながら発表練習を続けたものだから、もう身も心も疲労困憊である。ちなみに、リテイクの嵐の発生源は主に蘭子で、ごくたまに杏里がチクリと指摘するくらいだった。


「おっと、もうこんな時間か」

「そろそろ休憩して、アイスでも食べよっか、茉莉ちゃん?」

「うぇぇい……」


 へとへとになったわたしに、杏里の呼びかけにまともに応えるだけの気力は残っていなかった。

 まあ、冷たくて甘いものを食べたら、割とすぐに回復したけどね。やっぱり夏に疲れたときはアイスに限るよ。カロリーに糖質? 知ったこっちゃないね。


「ひやぁ~……うまぁ~……」

「アイスと一緒に茉莉ちゃんも溶けてる」

「それで、練習の方はどうなの? 順調?」


 一緒になってアイスを食べながら、荒川先生は蘭子に訊いた。その蘭子だけはアイスを手にしていない。


「だいぶ仕上がってきたと思いますよ。時間配分のコツも掴めてきたみたいですし。後はスライド資料をもう少し手直しして、もう少しすらすらと話せるようになればOKですね」

「それが結構厳しいんですけどね……」

「でも、蘭子ちゃんからの質問にもちゃんと答えられるようになったじゃない。研究発表会で一番対策するべきなのは、どんな質問が来るかだからね」

「そうですよね……正直、意地の悪い質問をする沼倉先輩みたいな人がいたら、どうしようかと……」

「君はあの先輩のことを何だと思って……言っておくけど、質問者は決して、発表者に意地悪をしたくて厳しく細かい質問をするわけじゃない。第三者や素人の視点から見て、疑問や不明点があるから、それをただ純粋に解消したいだけなんだ。この研究を一番よく理解しているのは発表者なんだから、きっと疑問に答えてくれると期待して質問するんだよ」

「それは分かりますけど……」

「どんな質問が来るかを想定しておくのは無駄じゃないけど、そもそも自分の研究を深く理解していれば、想定にない質問が来ても慌てなくて済む。発表練習で色々と質問をするのは、研究内容への自分の理解を深めるためでもあるんだ」

「なんかそれ、大学で学位論文の発表をするときに、教授に似たことを言われた気がするわね」


 荒川先生も大学の教育学部を卒業しているから、論文を書いてどこかで発表した経験があるのだろう。わたしももし大学に進んだら、今回の経験が糧になったりするのだろうか……。


「理解しているつもりでも、突き詰めて考えてみると色んな疑問点が湧いてくるものだ。19世紀以降の数学なんかは、その最たるものと言えるだろう」

「現代数学、ってやつですか」

「まあ時代による線引きは曖昧になりがちだし、私はあまり好んで使わないけど。19世紀に入ると数学を専門的に研究する機関が世界中に増えて、それに伴って数学の研究者も増えたために、それまでの数学の常識にメスを入れる人も増えた……。本やネットで調べてみるといい。18世紀までは、著名な数学者なんて世紀単位で見ても両手で数えられる程度だけど、19世紀に入ってからは一気に数が増えているから」

「それだけここ200年の数学の発展は飛躍的なんですね……」

「全く新しい概念を生み出す数学者の方が多いけど、その根底にあるのは、常識を検証して浮かんだ疑問を、どうやって解消するかという事に尽きる。例えば、茉莉も二年生になれば微分・積分をいずれ学ぶことになるけど、高校数学の微積分の概念はだいぶあやふやだ。大学の理学系なら、もっときっちりとした定義を学ぶことになるよ」

「へー」


 たぶんそっちの道には進まないので、わたしは生返事に留めた。どうせ大学で学ぶまでもなく、マス部にいたら嫌でも知ることになるだろうし。

 ちなみにこの時、学生時代からずっと数学に苦しめられてきた荒川先生は、(えっ、そうだったの……?)と思ったそうだ。高校で微積分の端っこだけでも教わったはずだけど、その概念が実は曖昧だったと気づかないくらい、微積分への理解が足りなかったようだ。


「常識を検証して浮かんだ疑問かぁ……なんか、前にもそんな話を聞きましたね。ほら、沼倉先輩からパラドックスの話を聞いたときに」

「確かにパラドックスの解消も、19世紀以降に進んだものが多いかもね」

「その時にも話したと思うが、特に“無限”が絡むと、感覚的な理解だけでは説明できないパラドックスが多く生まれる。それらを解消するには、19世紀に考え出されたアイデアが必要になって……」


 と、ここで蘭子の説明が途切れ、真顔になって虚空をぼうっと見つめだした。何か妙なことを思案しているようだが……。


「…………」

「蘭子先輩?」

「今日はいつもより時間があるし、せっかくだから休憩がてら、カントールのアイデアの話でもしようか」

「何かと思えば……それって休憩になるんですか? 別にいいですけど」

「いいの?」


 休憩中に数学の話が始まることに、嫌そうな表情を浮かべたのは荒川先生だけだった。なんかもう、わたしはね、唐突に数学の話題に移ることに慣れてしまったよ。やっぱりマス部に染まってるな、わたし。


「ゲオルク・カントールは、19世紀の半ばにロシアで生まれ、11歳で移住したドイツで数学を学び、集合論の基礎を作ったとされている。それまで“集合”とは、漠然と“何かの集まり”としか認識されていなかったが、カントールはその自由な発想力で、その曖昧な認識に一石を投じた……」

「あまりにも自由かつ斬新な発想で、同時代の他の数学者は受け入れるのにかなり苦労したみたい」

「まさに究極の自由人たる所以ですね。それがマス部にも連綿と受け継がれていると……」

「別にカントールの時代からマス部があるわけじゃないからな?」


 知っている。数学好きのフリーダムな性質は、カントールの頃から変わらないのだな、と思っただけだ。とはいえ、実際にマス部がいつから存在するのか、わたしはよく知らないのだが。


「さて、前にも沼倉先輩が話していたが、例えば自然数の集合と偶数の集合でどちらが大きいかを比較した場合、偶数の集合は自然数の集合の一部だから自然数より少ないと見るか、自然数を全て2倍すれば偶数の集合になるから同じだけあると見るか、二通りの考え方がある」


①{1,2,3,4,5,6,...}⊃{2,4,6,...}

 だから自然数の方が多い?


②{1,2,3,4,5,6,...}

  ↓全て2倍

 {2,4,6,8,10,12,...}

 だからどちらも同じ?


「あのガリレオも解けなかった難問ですよね」


 ※実際にガリレオが自著で取り上げたのは、自然数と平方数の比較です。


「でも確か今は、無限集合だと部分が全体より小さいとは限らないってことで、②の方を採用していますよね」

「そうそう」杏里が頷く。「個数を比較する時の、最も確実な方法は“一対一の対応”だからね。運動会の玉入れ競技が分かりやすいかな」

「玉入れ?」

「複数のカゴの中に入った玉の個数を比較するとき、カゴから1個ずつ、同時に取り出していくでしょ。この時、一緒に取り出された玉は一対一で対応しているといえるわけ」

「そうやって取り出していって、先にカゴが空っぽになった方が少ない、ってことになりますよね」


 今は少なくなったけど、運動会の定番競技の一つである、紅白対抗の玉入れ競技では、生徒たちがカゴに紅白それぞれの玉を投げ入れた後、一斉に1個ずつ、声を出しながら取り出すのが恒例だった。全部一気に取り出してから数えるより、分かりやすくて誤魔化しがきかないという利点があったのだろうと、今なら理解できる。


「この数え方を数学的に見ると、例えば赤の玉を基準にした時、赤の玉と白の玉の個数が一致していれば、赤の玉の一つ一つが、白の玉のどれか一つと、漏れなくだぶりなく対応する……すなわち“全単射”が存在するといえる」

挿絵(By みてみん)

「一方で、赤の方が少なければ、赤の玉のどれとも対応しない白の玉が必ず存在するので、“単射だけど全射でない”となって」

挿絵(By みてみん)

「逆に赤の方が多ければ、同じ白の玉に対応する赤の玉が2個以上存在する場合があって、“全射だけど単射でない”対応関係までしか作れない」

「つまり、全射が存在すれば、赤の方が白と同じか、または白より多くて……」

「単射が存在すれば、白の方が赤と同じか、または赤より多い、ってことですね」


 赤の玉から白の玉への対応関係をどんなふうに作っても、だぶりがあれば赤の方が多くて、漏れがあれば白の方が多く、漏れもだぶりもない対応を作れたら、赤と白は同じ個数だと分かる。言われてみれば当たり前だけど、深く突っ込んで考えたことはなかったかもしれない。

 ということで、わたしはもう少し深く突っ込んで考えてみた。


「ということは、自然数の個数と偶数の個数を、玉入れ競技の要領で比較すると……自然数の書かれた赤の玉を入れたカゴと、偶数の書かれた白の玉を入れたカゴを用意して、赤の玉に書かれた自然数を倍にした偶数が書かれた白の玉を、同時にカゴから取り出すようにすれば、漏れもだぶりもない対応関係になるってことですね!」

「まあそうなんだけど、どっちも無限個あるから、永遠に数え上げは終わらないんだけどな」


 それもそうだ。しかも無限個の玉を入れられるカゴって何だ。四次元ポケットならぬ四次元バスケットか。


「とはいえ、考え方としては間違っていない。無限集合の大きさを比較するには、全単射……漏れもだぶりもない一対一の対応関係を作れるか調べればいい。特に、自然数の集合と比較することは、全ての要素に自然数で“番号付け”をすることと同じだ」

「偶数の集合でいえば、半分にしてできる自然数で番号付けをすれば、漏れもだぶりもありませんね」

「同じことは奇数や平方数……あらゆる無限部分集合でいえるよ」杏里が言う。

「さらに、0や負の数も含めた“整数”の集合も、自然数で残らず番号付けができる。中心の0を起点として、正の整数と負の整数を交互に数えていけば、全ての整数に自然数の番号を付けられる」

挿絵(By みてみん)

「そうなると次に考えたいのは、有理数……つまり(整数)/(整数)で表される数の集合が、自然数の集合より大きいか否かだ(※ただし分母は0以外の整数)」


 有理数の集合か……0と1の間だけでも無数にあるし、さすがに自然数の集合より大きいと思うけど……。


「……と、思っただろう?」

「人の心を見透かしてニヤニヤしないでくださいよ、気味が悪い」


 たぶん数学の素人がやりがちな勘違いなのだろう。テレパス蘭子はわたしが同様の勘違いをしでかしたと察して、意地の悪い笑みを浮かべた。ムカつく人だよ、本当に。


「結論から言うと、全ての有理数には、自然数の番号を残らず付けられるので、集合の大きさは同じだ。どうやって番号を付けるかというと……こうすればいい」


 そう言って蘭子はホワイトボードに、分数を縦横に並べて書いた。横並びは分母が揃うように、縦並びは分子が揃うように書いている。そして端っこの1/1を起点に、斜め向きのジグザグを描くように矢印を書き入れていった。

挿絵(By みてみん)

「なるほど! こんな数え上げ方があったんですね!」

「これもカントールって人が思いついたの? すごいのね」

「あれっ!? 荒川先生が寝てない!」


 不意に荒川先生の声が聞こえて振り向いたら、数学の話を聞くだけで眠くなるとか言っていたはずの先生が、普通に起きて話について行っていたから、わたしは思わず声を上げて驚いた。

 わたしの反応が失礼に思えたようで、荒川先生は不服そうに眉をひそめる。


「いつも寝ているみたいに言わないでよ」

「いやいや、数学の話が始まったら割といつも寝てますよ、先生」と、杏里。

「今回は大丈夫! 1から順に数え上げることができるなら、自然数と同じだけあるってことでしょう? 完璧に理解したわ!」

「マス部の顧問ならこの程度で得意気にならないでほしいものですけどね……」


 ようやく数学オンチの自分でも理解できる話が巡ってきて、荒川先生は誇らしげに胸を張っている。そんな先生に蘭子が向ける眼差しは冷ややかだ……。

 と、ここでわたしは気づいた。


「あれ? でもこの数え方、変じゃないですか?」

「え?」怪訝な顔になる荒川先生。

「これだと、1/2と2/4みたいに、約分したら同じ値になる分数を何度も数え上げるから、だぶりが生じていません?」

「いいところに気づいたね、茉莉ちゃん」

「完璧に理解した先生は気づきませんでしたか?」


 さっきわたしにも向けた意地の悪い笑みを、皮肉も込めて蘭子に向けられて、荒川先生は悔しそうにぐぬぬと唸った。調子に乗って考えるのを怠るから……。


「でも茉莉ちゃん、その場合は、すでにカウントした分数と等しいものを飛ばして数え上げるようにすれば、問題ないでしょ?」

「あっ、それもそっか」

「それに、重複して数えること自体は問題じゃない。有理数が自然数より少ないのはありえないから、重複した分を除けば自然数より少なくなる、とはならないからな」


 なるほど、重複して数えたとしても、自然数より多くなる可能性を消すだけで、最初から自然数より少なくならないと分かっていれば、どちらにしても自然数と有理数が同じだけあるということに変わりはないわけだ。全単射が一つでも存在すれば、集合の大きさは等しいということになるから、数え上げ方の一つに問題があるなら、別のやり方を考えればいいだけなのだ。


「さて、ここまで無限集合の大きさを比較する話をしてきたが、大きさ、つまり集合の要素の個数のことを、無限個の場合も含めて『濃度』と呼ぶ。すでに調べたように、自然数の集合、偶数の集合、整数の集合、有理数の集合は、全て濃度が等しいといえる」

「また日常語と使い方の違う数学用語が出てきましたね……」


 普通、濃度といえば、溶液とか混合気体に含まれる特定の物質の割合、という意味で使う。これは数学というより算数だろうか?


「でも……わざわざ新しく言葉を作ったってことは、自然数とは全く違うタイプの無限集合もあるってことですかね」

「……というと?」

「だって、どんな無限集合も自然数の集合と同じだけあるなら、“無限個”という表現一つで充分じゃないですか。有限個と無限個は明らかに区別がつきますし、ひっくるめたとしても新たに言葉を作る必要はないと思うんです」

「……フッ、本当に茉莉は、興味深い視点を持っているよな」

「それ……褒めてます?」


 蘭子は何だか楽しそうだけど、褒めるなら素直に褒めてほしいものだ。

 すると蘭子はホワイトボードに、二本の横向きの直線を縦に並べて書いた。ご丁寧に両方の直線上に、0と1の数字を、上下で揃うように書き加えて……おっと、“直線”は端点がないから、“線分”と言わないと蘭子に怒られそうだ。

挿絵(By みてみん)

「茉莉、この2本の線をどう見る?」

「どう、とは……?」

「実はこの2本の線、上は有理数だけを並べた“有理数線”で、下は実数を並べた“実数線”……要するにただの数直線だ。違いが分かるか?」

「分かるように書いてないですよね?」

「まあな」


 蘭子は違う種類の線を書いたつもりかもしれないが、端から見たらどっちも、黒いマーカーで書かれた線分にしか見えない。違う種類の線なら、違いが分かるように書いてほしいものだけど。


「実のところ、有理数線をそのまま書こうとすると、普通の数直線と区別するのが難しくなる。有理数の“稠密性”と実数の“連続性”の違いを、目視できる図形で表現するには限界があるからな」

「ちゅうみつせい……?」


 今度は日常でも馴染みのない単語が登場した。なんだか漢字も見たことないものが使われているし。


「ある空間の部分集合について、どれだけ小さい範囲を指定しても、必ずその範囲と部分集合が重なっている、という性質だ。例えば数直線上でみると、整数の集合は、異なる実数の間に整数がいつもあるとは限らないが、有理数の集合は、異なる実数の間に必ず有理数が存在するので、稠密であるといえる。無理数の集合も実数全体も、同じ理由で稠密だ」


・整数の集合……

 異なる2つの実数aとbの間に、整数があるとは限らない

 → 稠密でない

 ※1と2など、隣接する整数の間に別の整数はない


・有理数の集合……

 異なる2つの実数aとbの間には、有理数が必ずある

 → 稠密である

 ※a<bとして、1/(b-a) < Nを満たす十分大きな整数Nを使うと、ある有理数k/Nはaとbの間に存在する


・無理数の集合……

 異なる2つの実数aとbの間には、無理数が必ずある

 → 稠密である

 ※a-√2とb-√2の間には有理数k/Nがあり、k/N + √2という無理数はaとbの間にある


・実数の集合……

 有理数と同じ理由で、稠密である


「どんなに狭い隙間にも必ず仲間がいれば、稠密といえるわけですか」

「だから例えるなら、整数は一定の間隔で整列しているが、有理数線は無数の有理数が一直線に並んで押しくらまんじゅうをしているようなものだな。これも正確な比喩とは言い難いが」

「数が押しくらまんじゅうかぁ……」

「想像するだにシュールな光景ですね」


 しかも一ヶ所に固まるのではなく、一直線に整列してぎゅうぎゅうに詰めているから、まんじゅうというより羊羹とか外郎みたいだけど。


「ただ、ぎゅうぎゅう詰めになっていても、有理数線には隙間がある。幅0の隙間だけどな」

「それは隙間と言っていいんですか?」

「大きさ0の点が入る隙間だからな。ところで茉莉、0+0はいくつになる?」

「え? 0ですよね?」

「そう。0はいくつ足し合わせても0のままだ。たとえ無限個足し合わせたところで、0以外の数になることはありえない」

「何がおっしゃりたいんですか?」

「つまり、大きさ0の点をいくらぎっしり並べても、その線の長さは0になるのよ」

「んっ!?」


 蘭子の説明を聞いて、わたしは自分でも信じがたい考えが浮かんだ。ホワイトボードに書かれた2本の線を指差して、わたしは恐る恐る尋ねる。


「じゃあもしかして、この線の長さって……」

「気づいたか。実数線の場合、0から1までの長さはもちろん1だ。しかし有理数線の場合は、0から1までの長さは0になる。というか全体の長さも0だ」

「うっそでしょ……!」

「えっ、ちょっと待って。この2つの線が違うものだっていうのは分かるけど、片方の長さが1でもう片方が0って……見た目じゃ分からないし、どこからそんな違いが生じるの?」


 これまた信じがたいことに、まだ起きていた荒川先生が、ホワイトボードの前で眉間にしわを寄せてボードを指差している。今回はかなり頑張ってついてきているようだ。


「さっきも説明したとおり、有理数の濃度は自然数の濃度と同じなので、ぎっしり点が詰まっているように見える有理数線も、実は大きさ0の点が自然数と同じだけ並んでいる状態なんですよ」先生相手なので少し丁寧になる蘭子。「つまり、有理数線を構成している有理数の点の一つ一つに、自然数の番号をつけて、番号順にその長さである0を足していけば……結局、有理数線の長さは0になるしかないわけです」


 ここでいう“長さ”は、厳密には“測度”という概念として再定義する必要があります。


「それって、実数線では同じことが言えないんですか?」

「言えない」蘭子は断言した。「実数線は実数に対応する点を並べたものだが、実数の点の一つ一つの長さである0をいくら足しても、実数線の長さを求めることはできない。なぜなら、全ての実数に自然数の番号を付けるのは、()()()不可能だからだ」

「お、おお……言い切りましたね」


 これまで一度もなかったわけじゃないが、蘭子が数学に関して、ここまで力強くきっぱりと断言するのは珍しい。彼女の放つ圧がすさまじくて、わたしは思わず気圧されそうになった。

 わたしの背後で、荒川先生はまだ腑に落ちていないらしく、首をかしげている。


「えっと……自然数の番号を漏れなく付ける方法が一つでもあれば、自然数と濃度が同じだと言えるのよね。実数にはその方法が一つもないってこと?」

「そうです」

「えー……? 思いついているわけじゃないけど、無理だと思ってた有理数ですら、番号を付ける方法があるんだから、実数にもありそうだけど……」

「カントールも最初はそう思ったかもしれません。でも、そんな方法があると仮定すると、おかしな事が起こるんです」


 あると仮定すると、おかしな事が起こる……身に覚えのあるフレーズに、わたしの表情は酸っぱいものでも食べたみたいな渋いものになる。


「それはもしや……背理法ですか」

「そう。厳密には対角線論法というが、やることは背理法そのものだ」


 やっぱり……マス部で何度もわたしを苦しめた背理法だったか。いや、わたしが個人的に苦手意識を持っているだけで、数学の有用な証明法だとは承知しているが。


「仮に、何らかの方法で、0以上1未満の全ての実数に自然数の番号を付けられたとしよう。その番号順に実数を並べると、こんな感じになる」

挿絵(By みてみん)

「0以上1未満の実数だけでいいんですか?」

「簡単な関数を使って、全ての実数と一対一の対応を作れるから大丈夫だよ」

「この実数を番号順に並べたリスト(仮)を使って、ある実数aを作るんだけど、その際にこういうルールを設ける」


 リストのn番目の実数の、小数点以下第n位の数値が、

・偶数ならば1を、

・奇数ならば2を、

 実数aの小数点以下第n位の数値とする


「このルールに従って、新たにこんな実数aを構成する」


 a = 0.221211122…


「さて、最初に仮定したとおり、全ての実数はこのリスト(仮)の中に必ずある。ならばこの実数aもまた、このリスト(仮)のどこかにあるはず。さあどこにあるかな?」


 ……そんなリストは作れないと分かっているからか、蘭子は徹底して(仮)を付けようとする。

 実数aはリストのどこにあるのか。少し考えたらわたしにも分かった。


「……どこにもありませんね」

「どうしてそう思った?」

「だってこれ、リストのn番目の実数と比較したら、必ず小数点以下第n位が異なっていますから、リストにあるどの実数もaとは別の数ということになります」

挿絵(By みてみん)

「そういうことだ」


 ちなみに実数aを構成するルールは一例です。実際には、n番目の実数の小数点以下第n位と異なる数値を、aの小数点以下第n位に当てはめて構成するやり方であれば、どんなルールでも構いません。


「つまり、全ての実数に自然数の番号を付けられると仮定すると、どの番号も付けられない実数が必ず現れてしまう。これは明らかな矛盾だな」

「だからどんな方法を使っても、全ての実数に自然数の番号を付けるのは不可能ってことなんですね」

「リストの対角線上の数値に着目するから、対角線論法っていうのよ」

「たまにネット上には、“無限”という言葉を、本来の定義を無視して濫用して、やれ『対角線論法はインチキだ』とか『実数に自然数の番号を付ける方法はある』とか抜かす逆張り野郎がいるけれど……大抵は、自然数の本来あるべき構成を恣意的に崩しているか、番号付けした実数に抜けがあるかで、証明と呼ぶのもおこがましいレベルだ」

「ホントにね。そんな画期的な方法があるなら論文にまとめて発表すればいいのに、ネットに上げて満足している時点で、専門家の検証を受ける気がないのは明らか。誰からも間違いを指摘される機会がないせいで、中途半端な理屈をひけらかして悦に入ってるだけの、数学好きの風上にも置けないような……」

「杏里先輩、もうその辺で」


 マス部の人たちって、この手の人間にものすごく厳しいんだよなぁ……前に沼倉も、『客観的な根拠と検証を伴わない理屈は妄想と同じでゴミ同然』なんて言っていたし。別に間違った証明に対して攻撃的なわけじゃなく、間違いがあるなら修正すればいいというスタンスだけど、間違いを認めず修正もしない身勝手な人間が、数学ができると自負する事が許せないのだ。

 マス部に入ってから、わたしもつくづく思うけれど、学問というのは、着想と検証と修正の繰り返しと積み重ねだ。特に数学はその傾向が強い。そうして、誰の目から見ても確かな事実を積み重ねるから、数学への信頼は永遠に色褪せない。思いつきだけでどうにかなるほど、数学は甘くないのだ。


「あのぉ~……逆張りをしたいわけじゃないけど、ちょっと思いついたことを言ってもいい?」

「……聞きますのでどうぞ」


 対角線論法に否定的な人間を蘭子と杏里がボロクソに言ったばかりなので、恐らく何か疑問を呈しようとしている荒川先生は、戦々恐々としながら弱々しく手を挙げている。そんなに恐がらなくても、この二人は、間違ったら修正すればいいと考えているから、素人意見に怒ることはないと思うけど。


「実数って要するに、小数で表せる数全般のことでしょ? だったら、小数点以下の桁数が少ない順に、自然数の番号を付けていけばいいんじゃない?」


(1)0.1

(2)0.2

(3)0.3

 :

(9)0.9

(10)0.01

(11)0.02

(12)0.03

 :

(107)0.98

(108)0.99

(109)0.001

(110)0.002

 :


 なるほど、パッと見た感じでは、あらゆる実数を桁数の少ない順にカバーしているように見える。だけど、先生が相手だからか、蘭子と杏里は言いにくそうに顔をしかめる。まあ杏里は笑顔のままだけど。


「それと似たような主張は、ネットでもよく目にします。ただ……」

「残念ながら先生、それだと全ての実数に自然数の番号を付けたことにはならないんです」

「あれ、そうなの?」

「茉莉、先生のこの考え方は、どこに穴があるか分かるか?」

「うーん……」


 蘭子に訊かれて少し考えてみた。というか想像してみた。荒川先生の考え方に従ったとき、どんな実数にどんな番号を付けることができるか……。


「……この場合、無限小数にはどんな番号を付けたらいいんでしょうか」

「え?」

「はい、正解だ」


 わたしの解答は的を射たようで、蘭子は心なしか嬉しそうに言った。でも荒川先生はまだ納得していないみたいだ。


「いや、それは“無限番目”ってことにすればよくない?」

「無数にある無限小数全てに、同じ“無限番目”を付けるんですか? 有理数の時は、同じ大きさの有理数に違う番号を付けても問題なかったですけど、違う数に同じ番号を付けるのはさすがにおかしいんじゃありません?」

「そ、それは……」


 畳みかけるように問題点を指摘したら、先生の口調はだいぶ覚束なくなってきた。そこに蘭子がさらに追い打ちをかける。


「そもそも、無限番目なんて番号を付けるのは無理ですよ、先生」

「え?」

「なぜなら、無限という数など存在しないからです」

「数学では原則として、無限を数の仲間には入れないことにしているんです」

「えーっ?」荒川先生は眉をひそめた。「だって、無限大の記号(∞)とか、普通に数式の中でいっぱい使われているじゃないの!」

「確かに、便宜的に無限大を数の集合に追加して、議論をやりやすくすることはあります。でもこれは逆に言えば、無限大は本来数の仲間ではないってことでもあるんです」

「例えば、微積分を学ぶときに、こんな感じの“極限”の式を見ることがあると思うが……」


 n→∞ のとき、1/n→0


「これを、『1/nのnに代入する数を無限大まで大きくすれば、いつか0になるんだな』と考えるのは誤りだ」

「えっ、そうなんですか?」

「“無限”というのは文字通り、()りが()いという意味で、数そのものではなく、数や集合などの“状態”や“性質”を指す言葉なんだ。だから『n→∞』という表記も、nに入れる数を、上限を設けずに大きくしていく、という意味の慣用的な表記に過ぎず、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「では、『いつか0になる』という解釈も間違いなんですか?」

「そうだ。現代の数学では、無限を始めとした“極限”の扱いは、このような論理式を用いるのが原則となっている」


 n→∞ のとき、1/n→0

  ↓現代風に書き換え

 ∀ε>0, ∃N>0 s.t. n≧N ⇒ |1/n-0|<ε


「何これ!? こんな数式、見たことないけど!?」

「うわー……」


 ほぼ原形を留めていない書き換えに驚愕して、不慣れな荒川先生は発狂した。一方わたしは、数式の意味こそ分からないが、前半の特殊な記号には見覚えがあった。


「最初の∀とか∃は、確か束縛記号ですよね。∀が『全ての◯◯について』で、∃が『ある◯◯が存在して』という意味だったかと」

「そんな……」愕然とする荒川先生。「鈴原さんは私と同類だと思っていたのに……」

「同類にされた覚えはありませんけど?」


 わたしはマス部の先輩たちと比べたら素人同然だろうけど、荒川先生ほど数学に苦手意識があるわけじゃない。勝手に仲間扱いされるのは御免だ。


「細かい解説はまたの機会にやるけど、この論理式が言いたいのは、どんなに小さい正の実数εを選んでも、1/nと0の間隔をεより小さくできる、ということだ。この考え方に従えば、1/nと0がどこかで一致する、ということは()()()()()()()()()()。だから1/nがいつか0になるという解釈は、適当とは言えない」


 いま蘭子が使った“適当”は、適切という意味の数学用語、もとい数学弁かな……。


「“無限”に関しても考え方は同じ。例えば無限集合は、『どんな正の整数εを選んでも、集合の要素の個数がεより多い』という意味で、“無限個”という言葉も、実は厳密には不正確な言い方なんだよね」

「そうなんですね……」

「つまり」蘭子は荒川先生を見て言う。「先生の言った方法で実数に自然数の番号を付けようとしても、無限小数には、『有限小数に付けた番号のどれよりも大きい自然数』を付けることになります。でもそれは不可能です。どんな自然数も、1を足すだけでもっと大きい自然数が得られるので、『どんな自然数よりも大きい自然数』なんてものは存在しえません。もちろん有理数でも実数でも理屈は同じ。だから無限大を数に含めることはできないし、まして“無限番目”なんて番号の付け方もできません」

「そ、そうなのね……」荒川先生は髪の毛をくしゃりと掻いた。「ハア……とりあえず、数学では“無限”を甘く見てはいけないということが、よく分かったわ」

「それが分かっただけでも上出来だと思いますよ」と、杏里。「世の中、本当に“無限”を甘く見て、好き勝手に濫用して、先人たちが苦労して作り上げた“無限”の扱い方を無下にする輩が多いこと」

「たぶん正確な扱い方を知らないだけだと思いますよ、杏里先輩」

「知らないだけならまだしも、知りもしないくせに賢しらに数学を語る輩もいるからな。本当にカントールの爪の垢を100倍に煎じて飲ませてやりたいよ」

「普通の濃度で勘弁してあげてくださいよ、蘭子先輩」


 よほど数学への無知に無自覚な人に、ひどく振り回されたのだろうか。杏里も蘭子も、無限を軽はずみに扱う人への嫌悪感が凄まじい。


「とにかく、カントールの発案した対角線論法によって、自然数の無限と実数の無限には、本質的に違いがあるということが明らかになった。それ以前の数学者たちは、どんな“無限”も一括りにしていたために、無限がもたらす不可思議な性質に説明をつけることができず、無限そのものを避けて通るしかなかった。だが、カントールは論理を武器に“無限”の世界に切り込み、曖昧だった概念の輪郭を明らかにしたんだ」

「バートランド・ラッセルと同じように、厳密な論理で数学を紐解く、そのきっかけを作ったんですよね」

「そう」蘭子は頷く。「それ以前の数学は、哲学と密接に関わる学問だったそうだ。論理に重点を置いて数学を研究した人物は、ユークリッドなどごく少数で、大抵は数学の理論に神秘性を求めた結果、哲学的な解釈に結びつけていた」

「でも、ラッセルとカントールの仕事によって、数学の基礎を論理で固めることが主流になり、それ以降、数学と哲学はほぼ完全に切り離されるようになったの」

「カントールのアイデアは、数学への向き合い方も変えてしまったんですね……」

「自由な発想は、見える世界を広げる方向に変えていく。だがそれは、“特効薬”にして“劇薬”といえるものだ」


 特効薬にして劇薬……なんか、蘭子の口からかなり物騒な言葉が飛び出したな。わたしはちょっと身構えた。


「カントールが次に考えたのは、自然数と実数の“中間の濃度”を持つ無限集合が存在するかどうかだった」

「まあ、自然な疑問ではありますね」

「カントール自身は、そのような無限集合はないと予想しつつも、それを検証するために様々な『特殊な無限集合』を考案した。中でも有名なのは、0以上1未満の実数線から『3分割して真ん中を取り除く』という作業を無限に繰り返して作る、カントールの三進集合だ」

挿絵(By みてみん)

「これは、0と1と2だけであらゆる実数を表記する3進法で、どの桁にも1を含まないような実数を集めた集合だ」

「ナントカ進法って、小数にも適用できるんですね」

「10進法の小数が1/10の分割の繰り返しで表されるように、n進法は1/nの分割の繰り返しで表記するんだよ。だから例えば3進法だと、1/3は0.1になって、1/2は0.111…という無限小数になるわね」


 10進法だと1/3の方が無限小数になるのに……そう考えると、有理数を小数にした時に有限になるか無限になるかは、どんな進法を使うかに依存するから、集合として見る場合、本質的にあまり重要ではないのかもしれない。


「この三進集合だが、構成する過程で取り除く部分の長さを合計すると1になる。まあここは無限等比級数の知識が必要だから詳細は省くが……つまり三進集合全体の長さは0になる。しかし、対角線論法を使うと、三進集合と自然数の間に全単射を作ることができないと分かるので、集合の濃度は自然数より大きいといえる。これによって、自然数の集合より確実に大きく、実数の集合より小さい可能性のある集合を、構成できたことになる」

「おー、すごいことを考えますね、カントールって……あれ? 実数の集合より小さいかどうかは、可能性だけなんですか」

「残念ながらね」蘭子は肩をすくめる。「0以上1未満の範囲で、有理数線の長さは0で実数線の長さは1だと分かっているが、同じ範囲での線の長さが0だからといって、実数より少ないとは言い切れない。それに三進集合は、3進法で0と2だけを使った実数の集合だから、2を全て1に置き換えてできる2進法の小数に対応させれば、実数の集合との全単射が作れる。つまり濃度は実数の集合と同じなんだ」


挿絵(By みてみん)

「そっか、2進法だと0と1だけで全ての実数を表記しますからね。つまり自然数と実数の中間にあたる集合では、なかったということですか……」

「そういうことになるな」


 面白いアイデアではあったけれど、カントールが探し求めていた集合ではなかった。こんな奇天烈な集合でもご所望に沿わないとは、もしかしてこれは、かなりの難問なのではないか?


「ひょっとしてこれ、数学の未解決問題の一つだったりします?」

「いや? この問題はある意味で解決済みだ」


 ある意味で?


「自然数と実数の中間の濃度をもつ集合は存在しない--いわゆる『連続体仮説』と呼ばれる数学の予想は、ヒルベルトが提唱した『無矛盾で完全な数学の体系を構築する』プロジェクトの一環として、23の重要な予想の一つに加えられた。だが、のちに連続体仮説は、このプロジェクトに深刻な影響を与える問題であることが、クルト・ゲーデルとポール・コーエンによって示されてしまった」


 ゲーデル……その名前はごく最近聞いたことがある。そして、無矛盾で完全な数学の体系という言葉にも聞き覚えがある。どんな命題にも、証明または反証が必ず存在するのが『完全性』で、それは数学の理想的な形だとされてきた。だけど、その理想は永遠に実現できないことを、ゲーデルは証明してしまった。それはすなわち……。


「不完全性定理!」

「そう。連続体仮説は、ゲーデルの不完全性定理によって、現状の数学の体系では証明も反証も不可能だと示された。正確には、ゲーデルが示したのは反証不可能性だけで、証明不可能性を示したのはコーエンだけど」

「ポール・コーエンはこのジャンルの専門家ではなかったんだけど、たまたま大学で専門外の講義を請け負って資料を作ったとき、『強制法』という新しい手法を思いついたそうよ。コーエンはこの業績によって、フィールズ賞も受賞しているわ」

「確かそれ、数学界のノーベル賞と言われる、ものすごく権威ある賞ですよね」

「たとえ専門外であったとしても、きちんと調べて学んで理解することで、専門家すら気づけないようなアイデアに辿り着くこともある。これもある種、専門外ならではの自由な発想と言えるだろうな」

「すぴー……」


 どこからか急に寝息の音が聞こえてきた。言うまでもなく、ついに力尽きて机に突っ伏した荒川先生の寝息である。やはり長くは続かなかったか……と、呆れた目で先生を見下ろすわたし達。


「……まあ、専門外の人が理解できなければ、自由な発想もありはしないのだが」

「…………」


 理解が追いつかずドロップアウトした荒川先生は置いといて、わたし達は話の続きを始めることにした。


「それじゃあ、前に沼倉先輩が言っていた、証明も反証も不可能な命題って、連続体仮説のことだったんですね」

「ああ。連続体仮説は既存の数学の体系とは独立していて、肯定と否定、どちらを仮定しても矛盾を生じない、極めて稀有な命題だといえる」

「現在では、連続体仮説に証明を与えるための新たな数学の体系を、世界中の数学者たちが模索し続けているわ」

「ゲーデルの不完全性定理が見出した希望の光を、掴み取ろうとしている最中なんですね」

「まあ困難な道なのは間違いないし、無理はするべきじゃないだろうな。カントールは連続体仮説をなんとか証明しようと試みたが上手くいかず……仕舞いには頭を使いすぎて精神が衰弱し、サナトリウムにぶち込まれてそのまま死んでしまったからな」


 うわあ……究極の自由人のあまりに悲惨な最期に、わたしは開いた口が塞がらなかった。頭がおかしくなるまで考え続けるとか、これはもう、無限に魅入られたというか、取り憑かれたようなものなのでは。


「まあ、何事もやり過ぎはよくないってことだな」

「カントールの場合はかなり極端な気もしますけど……」

「亡くなり方は悲惨だけど、カントールの仕事は、現代的な関数論の基礎にも繋がっているから、苦労して考え続けた甲斐はあったと思うよ」

「そうだな。コーシー、ボルツァノ、ワイエルシュトラスによって、論理式を用いた極限の定義が考案され、デデキントが有理数と実数の橋渡しをして、ヒルベルトやハウスドルフによって、集合の空間をより一般化した“位相”の概念が編み出された。現代数学の基礎を完成させる一連の研究の中で、カントールの発明が重要な役割を果たしたのは論を()たないところだ」


 ……よくもまあ、専門家しか知らないような数学者の名前がポンポン出てくるものだ。


「もっとも、カントールのアイデアだけで、整数・有理数・実数のことを理解した気になるのは尚早だけどな」

「……と言いますと?」

「恐らくカントールの理論に逆張りをしたがる人間の誰もが感じていると思うが、自然数・偶数・整数の濃度が等しいことは直感的に納得できそうだけど、有理数まで濃度が同じというのは不思議じゃないか?」

「まあ確かに、数直線上での分布の仕方が全然違いますからね……」

「整数は飛び飛びの値をとる『離散集合』だが、有理数は点がぎっしりと詰まった『稠密集合』となっている。濃度は同じなのに、なぜこのような違いが生じるのか。そのヒントは、同値類別を使った整数と有理数の構成法にある」

「自然数のペアを、同値なもの同士でパッキングするやつですか?」


 同値類別を使って、自然数から整数や有理数を構成する方法については、Day.9を見てね。


「そうだ。自然数のペアたちを、同値なものたちで分類して作った各パッケージは、こんな具合に整数と対応していたでしょ」

挿絵(By みてみん)

「あー、沼倉先輩が書いていたやつですね」

「そして、自然数のペアから正の有理数を構成するときは、こんな同値関係を使ってパッキングする」


 (a,b)~(c,d) ⇔ ad=bc


「そして、各パッケージと正の有理数を対応させようとすると、こうなる」

挿絵(By みてみん)

「狭い範囲にぎっしり詰まってますね」

「有理数に自然数の番号を付けることは、自然数のペアの同値類に番号を付けることと同じだが、平面座標の格子点に並べて数えれば単調で規則的でも、数直線上の有理数に置き換えると、同じ数え方でも一気に複雑になる」

「なるほど、平面上では単純な数え方でも、直線上でも同じように単純になるとは限らないんですね」

「つまり、自然数と有理数は、集合としては同じものと見なせても、分布や構造は異なるものといえる。数の本質を読み取るには、集合として見るだけでは足りない。同様に三進集合も、濃度は実数の集合と同じだが、分布や構造は全く違うでしょ?」

「確かに、三進集合の長さの合計は、有理数と同じで0ですからね」

「カントールのアイデアは確かに、数と無限を知る上で、大きな実を結んだ。だけどそれは、数が持ついくつもの側面の一つに過ぎない。有理数は、集合として見ると自然数と同じだが、別の側面から見ると実数と同じものが見えてくる。『数とは何か』……ともすれば哲学的にも思えるこの疑問に数学で答えるには、あらゆる側面から数を観察する必要があるんだ」

「…………」


 わたしは蘭子の、力強く説得力のある語り口に、圧倒されて言葉も出なかった。

 自然数、整数、有理数、実数……どんな数なのか何となく理解していて、何の気なしに使い続けていたけど、突き詰めて考えると、実に多様な側面が見えてくる。裏を返せば、一面的な見方しかしなければ、数のことを分かったつもりになるのがせいぜいということだ。

 たかが数、されど数。侮ってはいけない。


「んっ……んん~、あー、みんな。話は終わった?」


 カントールにまつわる話が終盤に差しかかったタイミングで、机に突っ伏して寝ていた荒川先生が目を覚ました。数学の話をしている間だけ眠っているとか、ある意味で器用な人だ。


「まあ、カントールのアイデアに関することは、大方説明したと思いますけど」

「じゃあ私はそろそろ職員室に戻るわね。他の仕事も残ってるし」


 寝ぼけ眼を擦りながら、荒川先生はおもむろに部室を後にしようとする。まだ仕事が残っているのに、こんな所で惰眠を貪っていたのか……様子見がてらアイスの差し入れに来ただけのはずなのに。

 そのまま部室を出るかと思いきや、その前に先生は振り返ってわたし達に言った。


「ああ、そうだ。例の科学研究発表会だけど、峯田(みねた)先生も見に行くって連絡が来たわよ」

「げっ、マジか」


 その名前が出た途端、蘭子はものすごく嫌そうに表情を歪めた。わたしは聞き覚えのない名前だったので、杏里に聞いた。


「峯田先生って……?」

「マス部の前の顧問だった先生よ。わたしと蘭子ちゃんが入部する前に退職されたんだけど、去年の研究発表会に来ていて、蘭子ちゃんの研究発表も見てくれていたの」

「へえ……で、なんで蘭子先輩はあからさまに嫌そうな顔を?」

「ちょっと去年の研究発表でひと悶着があってね……」

「茉莉、ひとつ忠告しておく」蘭子は険しい表情でわたしに言った。「あの先生はものすごくしつこく質問してくる。本人に嫌がらせの意図はないだろうが、あれは充分嫌がらせの領域だ。入念に質問対策をしておくように」

「あっ、はい……」


 質問者は純粋な興味関心だけで質問するものであって、発表者に意地悪をしたいわけじゃないと、他でもない蘭子が言っていたと思うのだが……あまりに圧が強くて、わたしはとりあえず曖昧な返事をするしかなかった。

 蘭子は気を引き締めるように、パンと両手を叩く。


「よしっ、休憩は終わりだ。ここからは私も本気で、意地の悪い質問をたくさん考えてやるから!」

「質問者は発表者に意地悪はしないんじゃないんですか!?」

「好奇心からひねくれた質問をする人はどこにでもいる。カントールだってひねくれた自問自答を繰り返して、数の真理に到達したんだ」

「その結果精神を病んでサナトリウム送りになりましたけど?」

「とにかく、どんな意地の悪い質問がきても対処できるように、時間が許す限り質問対策をしていくわよ!」

「もうこれが嫌がらせみたいなもんじゃないですか! 杏里先輩、助けて~」

「……やり過ぎだと思ったら止めるね」

「半殺し状態になるまで放置ですか!?」

「無理せず頑張りなよ~」


 修羅場になることが確定したマス部の部室から逃げるように、荒川先生はそう言い残して去って行った。


  * * *


 マス部の部室を出た後、外にいても聞こえるほど騒がしくなったマス部を一瞥して、荒川先生は峯田先生と電話で交わした言葉を思い出していた。

 数学が不得手なのに数学を研究する部活の顧問に宛がわれ、しかも部員は(頻繁にやって来る元部員も含め)揃いも揃って変わり者ばかりで、勝手が分からず必死の手探り状態が続いていた荒川先生は、去年の科学研究発表会で前任の峯田万里枝(まりえ)先生と出会った。マス部の扱いについて、その時に色々と教わって、二人は連絡先を交換することになった。

 そして先日、久しぶりに荒川先生へ電話をかけてきた峯田先生は、今年もマス部が科学研究発表会に参加すると聞いて、ならば今年も見に行くと言い出した。還暦を目前に教職を辞して、悠々自適の生活を送る日々にあって、若い生徒の頑張りはいい刺激になると語っている。


『またいらっしゃるんですね……あまり生徒を質問攻めで困らせないでくださいね』

『あら、困らせているつもりはないわよ。数学で大事なのは、いかに常識や思い込みに囚われず、自由に物事を考えられるかだもの。マス部は頭のいい変わり者ばかりだから、ごく普通の素人の視点が欠けているのよ。そういうマス部に足りない視点を、私が補ってあげているの』

『ごく普通の素人……でしたら、今年は少し違うかもしれませんよ』

『そうなの? 楽しみにしておくわね』


 類は友を呼ぶ、とはよく言ったものだけど、マス部は数学の理解者ばかり集まったがゆえに、どこか凝り固まった集団になっていた。だけど今年は、一人の異物が加わったことで、去年までとは違う自由の風が吹いているように思える。去年までが、好き勝手に振る舞うだけの無秩序な自由ならば、今年は一人の素人を中心に動く、多様で地に足のついた自由というべきか。


「私ではマス部のために何もできないけど……あの三人なら、難題にぶつかっても乗り越えられそうね」


 荒川先生はそう呟いて、今度こそマス部の部室を後にした。今頃、扉の向こうでは、新入部員の晴れ舞台に向けて、三人で激論を繰り広げているだろう。

 ふと、先生は気づいて立ち止まり、部室を出る前に無意識で手に持ったビニール袋に目を落とした。


「あっ! アイス一本残ってる! しかも溶けてる!」


 自分も含めて人数分持ってきたのに、一人だけ食べなかった蘭子の分のアイスが、ビニール袋の中でぐちゃぐちゃに溶けていた……。

 まだ、暑い夏は始まったばかりである。


検証は大事。何事も。

誰かに与えられた事実に疑問を持って検証することは大事ですが、逆張りをしたいがためにいい加減な考え方をして、既存の考え方を否定した気になっていると、マス部の先輩たちに叱られます。逆張りの考え方もまた、きちんと検証する必要があることも、忘れてはなりません。

ここで紹介したカントールのアイデアは、一般向けに要約されています。実際のカントールの理論は、ペアノの公理を発展させて構成する“順序数”を元にしています。後書きでは詳細に説明できませんが、これもまた相当に自由な着想です。初めて触れる方は、もしかしたら混乱するかもしれません。そのうち本編でじっくりと説明します。

さて、夏休みに突入して、何やら新キャラも登場して、本格的に物語として動き出しました。ここから先は、本当に何が起こるか分かりません。なぜなら、作者自身がまだ何も考えてないから……。でも、これから何かが起きる予定です。お楽しみに。

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