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Day. 13 変人たちのパラドックス

恋人たちのパラドックス、ではありません。そんなロマンティックな話じゃないです。

前回までがっつりと数式を使ってきましたが、ちょっとここらでクールダウン、今回は数式少なめでお送りします。数学がどのようにして生まれて、どんな壁にぶち当たって、どうやって乗り越えて現在の数学になったのか、あのエキセントリックな先輩が解説します。


 つばき学園高校は私立なので、公立と異なる特徴はいくつもあるが、定期的に学校全体で学力テストが行われるのは、公立高校と変わらない。都会の私立進学校とは違い、元が淑女教育のための学校ということもあって、定期考査は学期に一度の頻度でしか行われない。

 一学期のテストは6月の中旬に実施され、採点された解答は下旬に返却される。つまり今の時期に、授業で次々とテスト用紙が返却され、各々の試験勉強の成果が明らかにされるわけだ。かくして、一学期の定期考査は完全に終了となる。


「ふいぃ~~、ようやくテストが全部終わったねぇ」


 昼休み、少し騒がしい廊下を、わたしと並んで歩いている瑠衣が、腕を上に伸ばしながら言った。ついさっきの授業で、最後のテスト返却がされたばかりで、今は二人でお昼ご飯を食べる場所を、ぶらぶら歩きながら探している最中だ。


「成績が悪すぎると追試だって聞いたけど、瑠衣は大丈夫なの?」


 勉強全般が苦手で、小テストでは赤点の常連である瑠衣のことを、わたしは心配している。が、当の本人はあっけらかんと答えた。


「平気へーき。どの教科も赤点はギリギリで回避できたからな! 追試も補習もナシだ!」

「ドヤ顔で言うことじゃないよ?」

「そういう茉莉はどうだったのさ」

「わたしはほとんど平均ちょい上だったけど、数学は結構いいところまでいけたよ」

「おお、さすがマス部で鍛えられてるだけはある」

「というか、マス部の部員なのに下手な成績だったら、蘭子先輩とか二留先輩辺りにどやされそうだから、必死になって勉強したんだけどね……」

「うわあ……」


 いざテスト期間が迫ってきた頃に、蘭子や沼倉から言外にプレッシャーをかけられ、寝る間も惜しんで特に数学に偏重して勉強し続けた日々を思い出して、沈鬱な気分になるわたし。あれで体重が一キロくらい減ったんだよなぁ。

 そんな痩せ細るほどのわたしの努力に、瑠衣は若干引いていた。


「よかったぁ、わたしはマス部に入らなくて。そんなプレッシャー絶対耐えられんわ」

「瑠衣だったら最初から諦められて、プレッシャーもかけてこないと思うけど」

「ひどくね?」


 さらっと瑠衣の学力が期待に値しないと言われて、笑い顔が歪む瑠衣。


「まあでも、ホントにテスト期間は苦痛の日々だったよ。ほぼ唯一の癒やしである杏里先輩にも、部活動が休止されるから会えなかったし」

「学年が違うと、部活以外で関わることってほとんどないもんね」

「だからテストの最終日、部活が再開されたら真っ先に、杏里先輩にハグしてもらって、労いの言葉をかけてもらって、HPとMPを回復したんだよ……」

「杏里先輩って回復術士(ヒーラー)か何かなの?」

「強ち間違ってない」


 伝統的に数学の猛者、もとい変人が集まりやすいマス部で、まあまあ常識的に接してくれる杏里の存在は、素人同然のわたしにとっては、癒やし以外の何物でもない。そんな彼女をゲームキャラに例えてしまうあたり、わたしもゲーム好きな先輩たちに毒されているようだ。


「そうだ、今ならマス部の部室に誰もいないし、そこでお昼にしない?」

「……数学アレルギーの奴が卒倒するようなものとか、飾ってないよね?」

「そんなのないよ。……たぶん」


 別に数学アレルギーがあるわけでもないわたしでは、部室に雑多に置かれている物に、拒絶反応を起こす事があるかどうか、自信を持って断言することはできない。そもそもどんな物が置かれているのか、全部を把握しているわけでもないし。

 まあ、お昼ご飯を食べるだけなら、たいして問題はないだろう。瑠衣だって決して、数学の全てに苦手意識を持っているわけではないはずだ。

 というわけでわたしと瑠衣は、校舎から絶妙に離れた所にある文化部棟の、二階の奥から二番目という半端な位置にあるマス部の部室に出向き、そこでお昼ご飯を食べることにした。

 文化部棟の階段を登りきったところで、瑠衣が訊いてきた。


「そういえば、部室って鍵かかってないの?」

「あ、そうだね。誰もいないなら施錠されたままかも……大体いつも先輩たちが先に来てるから、そこまで考えてなかったよ」

「あれ? でもなんか人がいる気配するよ」


 気配って……実際にそういうのが分かる人って、なかなかお目にかかれないけど、変なものを感知するセンサーが鋭い瑠衣だから、そういうこともあるかもしれない。

 どこから人の気配がするかといえば、奥から二番目の部屋、つまりマス部の部室だった。誰かが事務室で鍵を借りて、部室に入り込んだようだが、いったい誰だろう。蘭子も杏里も、普段は教室でお昼ご飯を食べているはずだが。

 瑠衣と目を合わせてから、恐る恐る部室のドアノブに手をかける。案の定鍵は開いていて、ドアノブは引っかからずに回った。ゆっくりとドアを開けて、部室の中を覗くと……。


「ん……?」


 見覚えのある先輩が、カップ麺を啜っていた。わたしに気づくと、素早く麺を吸い込み、咀嚼して嚥下してから声をかけてきた。


「なんだ、キミもここでお昼かい?」

「…………」


 そうだった。マス部に気兼ねなくやって来る人間は、蘭子と杏里だけじゃない。とっくに部を引退したくせに、ちょくちょく遊びに来ては場を引っかき回すこの人物も同様だった。

 あまりに風貌や言動が怪しすぎるせいか、初対面である瑠衣も、彼女に怪訝な表情を向けている。そしてわたしに耳打ちしてきた。


「……不審者か?」

「うん、不審者」

「ちげーだろ。何度も会ってるだろーが」


 冗談はさておき、この不審者……もとい沼倉先輩を、ようやく瑠衣に紹介する機会が訪れた。別に紹介しなくてもいいと思っていたけど、出くわしてしまったものは仕方がない。


「へー、マス部の元部員かあ」

「沼倉純だ。よろしく」

「あ、どうも初めまして。越谷瑠衣です」

「一応三年生だから、蘭子先輩や杏里先輩よりも年上だよ。もっとも、今年で三回目の三年生だけど」

「ん? どういうこと?」

「授業がつまらなくなってサボり続けた結果、二回も留年したんだよ、この人」

「あー、さっき茉莉が言ってた二留先輩ってこの人のことかあ」

「ちょっとその辺詳しく聞かせてもらっていいかなぁ?」


 沼倉が怒気を込めて言った。留年したこと自体は少しも気にしていないくせに、揶揄されるのは気に入らないみたいである。まあ、わたしもそれが分かっていて、あえて二留先輩と呼んでいるのだが。


「ということは、うちらより結構年上になるんですね」

「そうとも」なぜかドヤ顔になる沼倉。「今年誕生日を迎えたら二十歳になる。酒も馬券も買えるようになるんだ。どうだ、羨ましいか?」

「羨む要素が微塵もないッスね」


 沼倉の年齢マウントを、あっさり払いのける瑠衣。


「そもそも沼倉先輩、誕生日を迎えたところで、お酒も馬券も買うつもりないでしょ。数学にしか興味のない変人なんですから」

「ふふっ、まあな」

「変人と言われて喜ぶのが変人たる所以か……」

「無敵かよ」短く突っ込む瑠衣。「数学好きの変人って言ったら、蘭子先輩もそうだよね」

「沼倉先輩は蘭子先輩をも凌ぐ変人だよ。だからいくらぞんざいに扱っても問題なし」

「んなわけあるか」


 沼倉はそう言って怒るが、普段から先輩たちからもぞんざいな扱いを受けていて、それでも平然としているのだから、あまり説得力はない。


「それより沼倉先輩、いつもここでお昼を食べてるんですか」

「いつもではないが……たまにお邪魔してるぞ。なんだかんだ、ここが一番落ち着くからな」

「一番落ち着く所でカップ麺って……(笑)」

「悪いかよ(怒)」


 早速沼倉への扱いがぞんざいになる瑠衣であった。

 お昼休みの時間も決して長くはないし、沼倉には構わずさっさと食べてしまおう。わたしと瑠衣もパイプ椅子に座って、テーブル上にお弁当を広げる。

 すでにテーブルの片側を沼倉が使っていたので、ごく自然にわたしと瑠衣はもう片側で、並んで椅子に腰かける。だからお互いの弁当箱に、簡単に箸が届く。


「あっ、そのハンバーグ美味そう。一口くれる?」

「じゃあ瑠衣のエビフライも一口ちょうだいよ」

「一口だけだよ? わたしだってエビフリャー食べたいし」

「それインチキ名古屋弁……」


 ということで、わたしは瑠衣のエビフライを、瑠衣はわたしのハンバーグを箸で取って、それぞれ一口かじった。美味かった。


「「…………」」


 自分の箸でつままれた、食べかけのエビフライとハンバーグを、じっと見つめるわたしと瑠衣。これ、弁当箱に戻すのもアレだな。同じことを考えたわたし達は、箸をそのままお互いの口元に運んだ。


「「あーん」」

「仲良いな、キミたち」


 女子校ならではの距離感で、ダブル“あーん”をやってのけるわたし達を、テーブルの向かいにいる沼倉が呆れた目で見ていた。


「そりゃまあ友達ですから」

「沼倉先輩はこういうことする友達いなさそうですね」

「キミも初対面の先輩に失礼過ぎないかい?」瑠衣のひと言に苛立つ沼倉。「わたしは友達を必要としていないから作っていないだけだ」

「……なんかこの人が言うと強がりに聞こえないなあ」


 恐らく本当に強がりじゃなく、友達を作る気が一ミリもないのだろう。下級生に一切見栄を張らないところも変人らしい。

 ちなみに瑠衣は、数学は苦手だけど(というか勉強全般が苦手だけど)、変なものは好きなので、沼倉にもそれなりに興味があるらしい。テーブルの上に少し身を乗り出して、沼倉に話しかける。


「沼倉先輩もやっぱり、数学を研究したくてマス部に入ったんですか?」

「正式名称が数学研究クラブだからな、歴代の部員は大抵そうだと思うよ。まあ中には、ろくすっぽ詳しくもないくせに誘われるまま入部する変な奴もいるけどな」

「…………」誰のことかな。

「変人の巣窟に変な奴が入っても別に不思議じゃないのでは?」


 瑠衣も言いたい放題言ってくれる。沼倉が誰を引き合いに出して言っているのか、分からなくはないだろうに。


「そんなにマス部が気になるなら、キミも入部してみるかい?」

「あっ、全身全霊でお断りさせていただきます~」

「そこまで全力で拒否るなよ……」


 沼倉からの勧誘を、瑠衣は満面の笑みで断った。札束を積まれても入る気にならないとか言っていたくらいだからな。

 瑠衣はパイプ椅子の背もたれに思い切り寄りかかり、ひっくり返りそうなくらい頭を仰け反らせて、愚痴をこぼし始めた。


「だって数学って別世界っていうか……わたし達の感覚と地続きになっている気がしないもん。やたら文字ばかりこねくり回すし、証明とかになるといちいち細かいし」

「まあ、数学って曖昧さをとことん嫌うフシがあるからねぇ……」

「だが、数学は決して、最初から厳密で曖昧さを嫌っていたわけではない」と、沼倉。「数学の起源はエジプトなどの古代文明の頃まで遡るが、当時の数学は実用一辺倒で、現代から見れば全く厳密ではなかった」

「そうなんですか?」

「特に顕著なのは、平面図形の面積の計算だ。小学校までに習う基本的な図形の面積は、こういう公式によって厳密に計算される」


 長方形……縦×横

 平行四辺形……底辺×高さ

 三角形……底辺×高さ÷2

 台形……(上底+下底)×高さ÷2

 菱形……対角線×対角線÷2

 円……半径×半径×円周率


「しかし、古代エジプトの当時の文献には、これらの図形の面積に関する記述はあるものの、かけ算を使って面積を求める手法は一切書かれていない」

「えっ!?」

「かけ算を使わずに面積を求めたんですか?」

「現在の面積の定義は、一辺が1の正方形を単位としているから、かけ算を使わないと面積を計算できないが、古代エジプトでは、大体同じ大きさの長方形や直角三角形に帰着させることで、大雑把に面積を計算することにしていたんだ」

「なんつーアバウトな……」


「元々面積は、ナイル川の度重なる氾濫で滅茶苦茶になった土地を、整理して配分するために考え出されたものだ。だから多少厳密さに欠けていても、揉め事にならない程度の誤差は意識してなかったんだよ」

「なるほど、大体の形と大きささえ記録しておけば、川の氾濫で滅茶苦茶になっても、配分するのに困らないということですね。あれ? それなら長方形や直角三角形の面積はどうやって計算したんですか?」

「まあ当然の疑問だわな。最初の頃は、細長い帯状の長方形を一単位として、この長方形が何個集まっているかを記録していたんだ。だから扱う長方形はいつも、縦と横のどちらか一方が常に一定で、この細長い長方形一個分を“ペイケス”という単位で表していた」

「使い勝手が悪すぎません?」

「土地を平等に配分するならこれで充分だったんだよ。だが、配分する人数が増えていくと、この方法はだんだん不便になっていく。縦あるいは横の長さが常に決まっているのだから当然だ。しかし同時に古代エジプト人は分数も発明していたので、この不便を解消することに成功する」


 そういえば、分数の歴史は小数より古くて、古代文明の時代にはすでに発明されていたと、前に蘭子が話していたような。詳しい話は聞かなかったが。


「それってつまり、帯状の長方形“ペイケス”を何等分かに短く区切って、横方向に何個、縦方向に何個あるのか数えて記録した……ということですか」

「現代人の感覚だとそう思うよなぁ。でも古代エジプトの分数って、分子が1で分母が全て異なる分数の組み合わせで表していたから、横方向に何個、という概念はなかったと思うぞ」


 例えば、(現代の分数) = (古代エジプトの分数)として……

 4/7 = 1/2 + 1/14

 2/5 = 1/3 + 1/15

 7/9 = 1/2 + 1/4 + 1/36


「「めんどくさっ!」」わたしと瑠衣の声がハモった。

「まあそれはそう」沼倉も同調した。「これも、物や土地を平等に配分するときに、揉め事が起きないように単純な配分を繰り返した結果だから」

「正確性や統一性よりも、揉め事を避ける方が大事だったんですか……」

「4000年前の時代だよ? 人権意識や倫理観なんて今と比較にならないほど低いし、トラブルが起きたら絶対血の海ができてしまうでしょ」

「古代人に対する偏見が酷い……」


 とはいえ、そんな大昔の文化や社会通念なんて、現代のわたし達に知れるのはほんの一部だろうし、沼倉の偏見が事実だった可能性だって否定はできない。


「とにかく、古代エジプト人にとって面積を求めることは、土地の測量の手段でしかなかった。しかし文明が発達するにつれて、様々な図形に関して、面積を求めるためのメソッドが確立されるようになり、同時に図形の性質も経験的に見つけられていく。それら幾何学のメソッドの集大成が、ピラミッドの建造だと言えるだろう」

「確かにあの規模と美しさは、古代人の知恵の結晶って感じがしますよね」

「実際には権力と奴隷労働の象徴だけどな」

「なんてこと言うんですか」


 確かにそういう側面だって無きにしもあらずだろうが、余計なひと言ではなかろうか。こういう身も蓋もない事を平然と言ってのけるところも、蘭子に通じるものがある。やっぱり類は友を呼ぶのだな、マス部って。


「さて、エジプトなどの古代文明の中で生まれた数学、特に幾何学は、実用性を重視していて厳密さに欠けていた。だがその潮流は、ある出来事をきっかけに徐々に変化していく。それが、エジプトやメソポタミアなどから少し遅れて、高度な文明が興った、ヨーロッパ、特にローマやギリシャなどの地中海沿岸地域に、交易によって数学の知識が流入したことだ」

「地中海や紅海を通ってエジプトやメソポタミアと交易をして、商人などから教わった数学の知識で、ヨーロッパも文明を発展させたんですね」

「まあ文明の発展には色んな要素が絡むものだけどな。しかし、古代ギリシャの著名な学者たちは、経験則に基づいた数学の知識を整理して、万人が納得できる学問に仕上げることにこだわった。有名なところでいえば、タレスやピタゴラス、プラトンなどが挙げられるな」

「……プラトンって、哲学者の?」

「そう、イデア論というトンチキ思想で有名な、あのプラトンだ」

「教科書にも載ってる有名な思想をトンチキ呼ばわりですか……」

「ごちゃごちゃ考えるのは勝手だけどね、どんなにそれっぽい理屈を並べて思想を組み立てたところで、客観的な根拠と検証が伴ってなけりゃ、それはただの妄想と同じだよ。数学の整然とした美しさに比べたらゴミ同然だね」


 色んな思想家や宗教家を敵に回しそうな発言だなあ……過激なまでの数学好きも考えものである。


「とにかく、古代ギリシャの学者たちは、曖昧で厳密さに欠けていたエジプトの数学を徹底的に検証し、科学の一分野としての数学を確立することに心血を注いだ。具体的にはこんなふうに考えていた」


・問題を解くために必要十分な条件は何か?

・この解法はどのように導かれたか?

・この解法が最初の条件下で常に正しいことをどう証明するか?

・そして、この解法が常に正しくなるように一般化するにはどうするか、あるいは問題をさらに一般化すると解法はどのように修正されるべきか?


 瑠衣は思い切り顔をしかめた。


「うっわ、えらく細々と考えるものですね、古代ギリシャの学者さんって……」

「だけど、これって現代の数学の考え方にも通じますよね。蘭子先輩も杏里先輩も、いつもこういう考え方を大事にしていますし」

「そうだな。当時の考え方と完全に一緒ではないが、基礎であることに違いはないだろう。もっとも、古代ギリシャの数学だって、その根本にあるのは常識的な経験則であって、万人が疑いを持たないと確信できる程度の事実だけを、理論の土台としている。ユークリッドが編纂した『原論』の中で、そうした根本にある事実は“公準”あるいは“公理”と呼ばれている」


 公準と公理の違いについては諸説ありますが、主に幾何学に関する前提を公準と呼び、幾何学のみならず学問全般に共通する概念を公理と呼びます。ただしこれは『原論』での扱いであり、現代数学の“公理”とは意味合いの異なる場合があります。


「前に蘭子先輩が言ってました! 数学は公理を土台にして、論理で事実を積み重ねる学問だって」

「その通りだ。数学のそのスタイルの先駆けが、ユークリッドの『原論』にあると言えるだろう」

「へえ~……今の数学の考え方って、そんな大昔にすでに考えられていたんスね」


 腕を組みながら感心する瑠衣。こういう歴史的な側面は、数学の教科書ではほとんど扱わないから、瑠衣には新鮮に見えるのだろう。


「まあ、『原論』に書かれている大前提も、19世紀に入ってから再検証が進められて、決して完全ではないことが分かったんだけどな」

「つまり2000年もの間、誰も『原論』の公準や公理を疑わなかったんですね……」

「なんつーか……スケールが違うな」

「そのおよそ2000年間、数学はあくまで数を操り、数の性質を探るのが主体だった。たまに図形の性質を探るときに、少し利用することはあったけどな。そうした数学の捉え方を根本的に変えたのが、バートランド・ラッセルと、ゲオルク・カントールだ」

「ラッセルと、カントール……」


 マス部に入ってもうすぐ三ヶ月になるが、まだ聞いたことのない名前だった。


「そう。この二人こそ、数学が厳密な論理で紡がれるきっかけを作った人物だ。有名なのが、ラッセルの提唱した『床屋のパラドックス』で」


 ガランガラーン、ガランガラーン……!

 お昼休みの終了を告げる、鐘の音が鳴った。沼倉の言葉を容赦なく遮るように。

 強制終了の合図に固まった沼倉は、ひと息置いてから、フッとかっこつけて笑う。


「よしっ、続きは部活動の時間にやろう。興味があるなら、そこの新入りの友人もここにまた来るといい」

「瑠衣です」

「わたしだけならまだしも、瑠衣の名前も巻き添えで忘れないでくださいよ(怒)」


 本当にこの二留先輩、意地でもわたしを名前で呼ばないつもりか。さすがに友達まで巻き込まれたら怒るよ?

 そういうことで、マス部が活動する時間まで、話はお預けとなった。ちなみに昼食のお弁当は、話を聞きながらちょくちょく食べ進めていたけど、結局少し残ってしまったとさ……。


  * * *


「……で、これはどういう状況なの?」


 放課後、部活動の時間になって、マス部の部室に来た蘭子と杏里は、思いがけない光景に呆然としていた。

 なぜか現部員の誰よりも先に部室に来て、ホワイトボードを勝手に使って数学の話を繰り広げている、沼倉と瑠衣の姿があった。まあ、数学アレルギーの瑠衣はたぶん、沼倉の数学話を聞きたいのではなく、沼倉が何かやらかすのを期待しているのだろうけど。


「変人と変なもの好きが意気投合した結果です」

「それじゃあお昼の続き、『床屋のパラドックス』について説明しよう!」

「よっ、待ってました!」

「落語か講談でもやりそうな勢いだな……」


 無駄にテンションが高いやり取りを見て、逆に冷静になっていく蘭子。普段のマス部はなんというか……漫才のかけ合いみたいな雰囲気だけど。


「ところで」瑠衣が挙手する。「パラドックスって何スか?」

「そこからかい!?」


 沼倉が大仰に突っ込む。なんか既視感のあるツッコミだなあ……と思ったら、最初の頃に蘭子がわたしに似たような反応を見せていたっけ。

 無知に呆れながらも、さすがにマス部の部員でない瑠衣を責めることはせず、沼倉はホワイトボードで説明を始めた。これがわたしからの質問だったら、ネチネチと嫌みを言ってきただろうな。


「パラドックス……日本語では“逆理”と訳されるが、こっちを使う人はめったにいない」

「いないんだ……」

「古い本とか辞典くらいだな、使うのは」と、蘭子。

「その意味は、大きく分けて二つある。一つは、論理的に導かれた“正しい”結論が、日常的な感覚にそぐわないもの。誕生日のパラドックスや、バナッハ・タルスキの定理などが有名だな」


 誕生日のパラドックス……

 一つのクラスに同じ誕生日の生徒が一組以上いる確率が50%を超えるとき、このクラスの生徒は何人以上か?(正解:23人)

 バナッハ・タルスキの定理……

 (きゅう)を有限個(5個以上)の部分に分割し、上手く組み替えることで、元の球と同じ半径の球を2つ作ることができる(ただし分割された部分は通常の意味の体積を定義できない特殊な形)


「…………」しばし無言になる瑠衣。「……いやっ、どっちもおかしくない? ありえないでしょ」

「そう思うのも無理はないが、どちらも数学的に正しい。もっともバナッハ・タルスキの方は現実的には不可能な話をしているが……」

「他にも、トリチェリのトランペットとかモンティ・ホール問題も、常識的な感覚にそぐわないという意味で、パラドックスの一種だと言えるな」

「確率とか無限・極限が絡む問題だと、時々こういう感覚的なパラドックスが生まれるのよね」

「???」


 蘭子がついでにパラドックスの例を追加で挙げたけど、全くついていけない。そもそもわたしも瑠衣と同様、ホワイトボードに書かれたパラドックスの具体例が、どうしても正しいとは思えない。数学的に正しいというなら、当然ながらきちんとした証明が存在するのだろうけど……。


「そしてもう一つは、論理的に“正しそうに見える”形で導かれた結論が、矛盾している場合。古代ギリシャのゼノンという学者が、その代表的なパラドックスを世に送り出している。まずはその中でも有名なものを紹介しよう」


 沼倉はホワイトボードに、数式ではなく絵を描き始めた。……微妙に下手な、走る人間と亀の絵を。


「これは、駿足の英雄アキレスと、鈍足の亀が競走する話だ。ただし、アキレスは亀よりもだいぶ後ろからスタートする」

「変な絵……じゃなくて、そんなのアキレスがすぐに追いつきそうですけど。つか、亀と競走して負ける人間なんて、の○太くらいのものじゃないですか?」

「……それはさすがに漫画のキャラでも失礼だと思うが?」


 はん、と鼻で笑う瑠衣のひと言は、沼倉ですら笑えないものだった。まあ確かに、某有名漫画の作者に気を遣うわけではないが、さすがに○び太でも亀と競走して負けるなんてことはないだろう。……たぶん。


「ところが、こう考えると話は違ってくる」


 沼倉はさらに書き込んでいく。アキレスと亀が競走している地面に見立てた水平な線の下に、またアキレスと亀を描いた。ただし、一段目の亀の真下にアキレス、その少し先に亀が来るように。


「亀がスタートした地点A0にアキレスが来たとき、亀も少しは進んでいる。この地点をA1とおく」


 沼倉はさらにその下に、アキレスと亀を描き込む。やはりその前に描いた亀の真下に、アキレスが来るように。


「そしてA1にアキレスが来たとき、やはり亀はさらに少し進んでいる。この地点をA2とおく」


 沼倉はさらにその下に、アキレスと亀を描き込む。ほとんど接近しているが、まだわずかにアキレスと亀の間には距離がある。


「さらにA2にアキレスが来たとき、やっぱり亀は同じように進んでいて、アキレスはまだ追いついていない。こういうことが無限に繰り返されるので、結局アキレスはいつまで経っても亀に追いつけない」


 わたしと瑠衣はたぶん、目を丸くしてぽかんとしているだろう。狐につままれた気分とは、まさにこのことだ。


「……うん、想定どおりの反応だ」

「えーっと、これはあれですか……? 感覚的には間違っているように見えるけど、数学的には正しいってことですか?」

「何言ってんだ。こんなの数学的にも間違ってるに決まってるだろ。常識で考えろべらぼうが」


 口悪すぎだろ、この人……というか、普段から常識なんてくそ食らえとか思っているような人に、常識で考えろなんて言われるとは思わなかった。


「純先輩、それはアリストテレスを始め、多くの哲学者が議論の対象にしてきた話ですよ? 確かに結論は間違ってますけど、だからって初心者の茉莉ちゃんたちを責めるのはどうかと……」

「ああ、癒やし……」

「これがマス部の回復術士(ヒーラー)……」

「えっ? 何の話?」


 わたしと瑠衣を擁護する杏里の言葉に、すっかり絆されたわたし達は、両手を組んで杏里を拝んだ。当の本人は困惑しているけど。

 一方、回復術士(ヒーラー)ならぬ悪役(ヒール)のような扱いをされた沼倉は、表情を歪めながらも話を先へ進める。


「……まあ、アキレスと亀のパラドックスについては、別の機会に改めて説明するとして、とにかく古代ギリシャの頃から、特に“無限”に関していくつかのパラドックスが提示され、それらは長い年月をかけて数学的に解消されてきた。ところが、従来の数学やその延長ではどうしても解消できない、超厄介なパラドックスが、20世紀の初頭に編み出された。それが、論理学者バートランド・ラッセルが提唱した、『自己言及のパラドックス』だ」

「ようやく最初の話に繋がってきましたね……あれ? さっきは『床屋のパラドックス』って言ってませんでした?」

「うん、床屋のパラドックスは、自己言及のパラドックスの一種だよ」


 わたしの疑問に、杏里が代わりに答えた。


「回り道が長くなったが、床屋のパラドックスとはこういう内容だ。とある村には床屋が一軒しかなく、唯一の店員である男性が、ある時こう言った」


『私はこの村に住んでいる、自分で髭を剃らない男性の髭を剃ることにする。自分で髭を剃る人の髭は剃らない』


「村の人はその発言を、特におかしいとは思わなかった」

「まあ、床屋としては間違ってないっスね」

「しかしこの床屋の発言には、一つ致命的な問題があった。それが何なのか分かるかい?」


 沼倉からの質問に、わたしと瑠衣は揃って無言になり、考えを巡らせる。恐らく答えを知っているであろう、蘭子と杏里は、そんなわたし達を見守っている。

 先に答えを出したのは、わたしだった。


「……その床屋の男性の髭をどうするか、ですね」

「正解」

「あーっ、先越された!」


 悔しがる瑠衣を横目に、わたしは続きを説明する。


「もし剃るなら、その男性は“自分で髭を剃る人”になるので、そういう人の髭は剃らないという言葉と矛盾します。逆に、剃らないなら、その男性は“自分で髭を剃らない人”になるので、そういう人の髭を剃るという言葉と矛盾します。つまり、剃っても剃らなくても矛盾してしまう、という状況になります。まさに前門の虎、後門の狼です!」

「そこまで深刻に捉える問題でもないと思うけど……」


 前方を虎に、後方を狼に塞がれて、身動きが取れない……そんな感覚に陥った床屋の男性に感情移入してしまったけど、そんなわたしに杏里は苦笑しつつ突っ込んだ。うん、確かに大袈裟だったかも。


「まあ床屋の男性はいくらでも言い逃れできるだろうから、たいして深刻な話ではないな」

「言い逃れって……」口を挟む瑠衣。

「ただ、数学者にとってはかなり深刻な問題だといえる。というのも、これは集合に関するごく当たり前に思える性質が、厄介な問題を孕んでいるということを示していたからだ」

「集合……そんな話してましたっけ?」

「数学Aの教科書を開いてみなさい。集合と論理が不可分な領域だと分かるはずよ」沼倉は呆れてため息をつく。「これは教科書にも書かれている事だけど、集合を表記するとき、その方法は二つに分けられる」


 外延的定義(要素をそのまま記述する)

  {1,3,5,7,9}

  {2,3,5,7,11,…}

 ※一目でどんな集合か分かるが、要素が多すぎると省略せざるを得ないので、曖昧さが残る


 内包的定義(集合に属するための条件を記述する)

  {n|nは0以上10以下の奇数}

  {n|nは素数}

 ※要素が多くても明確に書けて曖昧さもないが、簡潔な文で書けるとは限らない


「数学で扱う集合は、“属している”か“属していない”か、この二者択一が基本で、いわゆるグレーゾーンは認めていない。だから特に内包的定義では、記述する条件は必ず、YESかNOのどちらか一方で答えられるものでないといけない」

「有無を言わさず、人によらず、時代によらず、場所によらず、きっちりとYESかNOに決まる。それが数学の魅力であり、決して色褪せることなく信頼され続ける所以なのよ」


 蘭子はしきりに頷きながら、今までに何度も聞いたことのある言説を語っている。オタクって似たような話を何度も喋るところがあるからなぁ。聞いているこっちはすでに耳タコである。


「そういう論理的できっちりとした条件を使って、逆に集合を作ることだってできる。これを『内包公理』と言って、20世紀初頭まで普通に使われていた。だが、この公理に根本的な問題があることを、ラッセルによる『自己言及のパラドックス』が示した。床屋のパラドックスを一般化した、自己言及のパラドックスは、内包的定義でこのように書ける」


 R = {x|x∉x}


「つまり、自分自身を要素に持たないような集合を、要素として集めたものだ。高校の教科書に実例はないが、集合を集めた集合というのもあるんだよ」

「自分自身を要素に持たない、ですか……」

「むしろ自分自身が要素になっている場合っていうのが想像つかないな……」


 ちなみに現在主流の集合論では、“正則性公理”により、自分自身を要素に持つような集合は認められていません。


「この集合Rは、R自身が要素として属するかどうかでパラドックスが生じる。つまり……」


・R∈Rだったら……

 集合Rの条件を満たしていないので、R∉Rとなって矛盾。

・R∉Rだったら……

 集合Rの条件を満たしているので、R∈Rとなってやっぱり矛盾。


「……ということだ」

「なるほど、床屋のパラドックスと考え方は同じですね」

「不思議だなあ……」と、瑠衣。「自分自身を要素に持たない集合なんて、普通にあり得るはずなのに、そういう集合を全部集めたらパラドックスになるなんて」

「でも、その状況を放置したら、集合がまともに使えなくなってしまいますね」

「そう、まさに由々しき事態だ。そこで、エルンスト・ツェルメロとアドルフ・フレンケルという、ドイツの二人の数学者によって、矛盾を起こさない集合論が初めて編み出された。いわゆる“ZFC集合論”だ」


 ここで、Zはツェルメロ、Fはフレンケルの頭文字で、Cは選択公理(axiom of choice)からきています。ただし厳密には、ツェルメロが選択公理を含む集合論を最初に作り、後からフレンケルが欠陥を埋める形で公理を追加した結果がZFCです。


「この中に含まれる『分出公理』が、自己言及のパラドックスを避けるために加えられた公理だ。これは、条件を満たす要素を無制限に集めるのではなく、最初に与えられた集合の中だけで集める、つまり部分集合を作ることができると主張している」


 分出公理……

 集合Aと、その要素xに関する論理式P(x)が与えられたとき、次のようなAの部分集合を作れる。

 {x∈A|P(x)が真}


「部分集合からなる集合を新たに作ることは可能だが、部分集合が元の集合に要素として属することは基本的にない。一部の部分集合を最初から要素として入れておくことはできるけど、好き勝手に作った部分集合が、元の集合の要素になることはないわけだ」


 例えば、{1,2,3,{1,2}}という集合は、部分集合である{1,2}を最初から要素として持っている。しかし、それ以外の部分集合は属していない。


「つまり、分出公理に従って、“自分自身を要素に持たない集合”からなる部分集合を作っても、それ自身が元の集合に属さないので、パラドックスは起きないというわけだ」

「うーん……」

「ちょっとピンとこないかも……」


 わたしと瑠衣は揃って首をかしげる。沼倉の言いたいことは要するに、部分集合は要素にならないから、自己言及している集合を部分集合の形にしてしまえば、さっきみたいな八方塞がりの状況を作らずにすむ、ということなのだろうけど……どうも自分の頭に馴染んだ気がしない。


「さっきの床屋の例で言えば……」蘭子が口を開く。「村に一人しかいない床屋の男性が、『この村に住む全ての、自分で髭を剃らない()()の髭だけを剃る』と言ったからおかしなことになったが、『この村に住む全ての、自分で髭を剃らない()()()の髭だけを剃る』と言えば、矛盾は生じない」

「なるほど! お客さんという集合の中だけの話なら、店主自身はお客さんじゃないから、剃らなくても矛盾はしないんですね!」

「これがさっき沼倉先輩が言ってた、床屋さんの言い逃れっスか?」

「いやー、実際は他にいくらでも言い逃れの余地はあると思うよ。店は村にあるけど住んでいるのは余所の町だからセーフ、とか、染色体異常で髭が生えない体質だから関係ない、とか」

「もはやトンチの領域っスね……」


 確かに、これが数学の問題でなければ、いくらでも言い逃れの余地はあるといえる。言い逃れがこうもポンポン思いつく沼倉も大概ではあるが。


「まあとにかく、ラッセルが指摘したパラドックスをきっかけに、集合論ないしは論理学全体で、矛盾が生じないように再構築する動きが加速した。その意味で、数学の確かさを支えるために論理を強固にする、という考え方の端緒を開いたと言えるだろう」

「その、ZFC集合論というのが作られたことで、集合と論理の矛盾は完全になくなったってことでいいんですか?」

「いや、実のところZFC集合論も、現在の数学の主流ではあるが、完全ではない。というのも……ZFC集合論の中で、証明も反証も不可能、つまり正しいことも間違っていることも永久に示せない、そんな命題が存在するからだ」


 !!?

 わたしと瑠衣の表情が、一瞬で固まった。

 正しいことも間違っていることも示せない。それも技術的な問題ではなく、どうやっても絶対に、永遠に示すことができない。未解決ではなく、解決不可能。そんな数学の問題が存在すると沼倉は言う。

 そんなバカな、と思って蘭子と杏里のいる方を振り向くと、わたしが何も言わずとも察したのか、二人は無言で頷いた。……本当なのか。


「二人が驚くのも無理はない。証明も反証も不可能であると“証明された”問題なんて、私でもほとんど聞いたことがない。もちろん当時の数学界でも、この事実は衝撃的であると同時に、多くの数学者を絶望させた」

「そりゃそうですよ……絶対に解けないと証明されてしまったなんて」

「この証明不可能な問題の一つを世に出したのが、数の世界を“集合”の観点から解き明かし、多くの数学者が避け続けた“無限”に最初の光を当てた、究極の自由人と呼ばれた数学者、ゲオルク・カントールだ」

「究極の……」

「自由人……」


 マス部(ここ)の先輩たちのことかな……と思ったわたしと瑠衣であった。言わないけどね。

 そんなふうに思われたとは知ってか知らずか、沼倉は眉をひそめながらも説明を続ける。


「かつて数学者の間では、無限という概念はある種タブー視されていた。実体が掴みにくいというのもあるが、さっきのアキレスと亀のパラドックスのように、解消しがたい問題をいくつも孕んでいたからな」

「そのくせ人間は節操なく無限を使うけどね。昔も今も変わらず」

「無限を正しく捉えないまま安易に使えば、すぐに矛盾が生じてしまうんだけどね」


 蘭子と杏里は呆れたように苦笑して言った。二人とも、だいぶ主語がでかいように聞こえるが、そのくらい無限を安易に使う人が多いということだろう。


「無限にまつわる有名な問題に、『ガリレオのパラドックス』というものがある。物理学者のガリレオはさすがに知っているね?」

「『それでも地球は青かった』って言った人でしたっけ」

「……誰の言葉だよ、それ」


 どこぞの宇宙飛行士の名言が混ざった瑠衣の迷言に、沼倉は真顔で固まった。言うまでもないが、正しくは『それでも地球は回っている』である。本当にガリレオがそんなことを言ったのかは定かでないが。

 気を取り直して、沼倉は説明を続ける。


「まずは君たちに質問だ。“自然数”と“正の偶数”では、どちらが多いと思う?」

「そりゃあ、どっちも無限にあるから、どっちも多いってことでよくないですか?」

「……君ねぇ、考えなしに脊髄反射で答えているのが丸わかりだよ」


 考えなしに脊髄反射で答える瑠衣とは違い、わたしはちゃんと考えてから答えを口にした。


「普通に考えたら、自然数の方が多いのでは? 正の偶数は、自然数の一部にすぎないわけですし」


 1、②、3、④、5、⑥、7、⑧、……


「まあ、普通の人はそう考えるだろうな。だが、もう一押し考えてみたまえ。正の偶数というのは、2で整除される自然数だ。つまり2で割れば必ず自然数になるし、逆にどんな自然数も2倍すれば必ず正の偶数になる」

「!」沼倉に言われて気づいた。「ということは、全ての自然数を2倍すれば、自然数の集合はそのまま正の偶数の集合に変わるから、どちらも同じだけあるということになりますね」


 1 → 2

 2 → 4

 3 → 6

 4 → 8

 5 → 10

  :

  :


「えっ? 結局どっちなのさ?」眉をひそめる瑠衣。

「これが、天才ガリレオをも悩ませたパラドックスだ。ごく単純な対応関係によって、“全体”と“部分”が一致するという、ユークリッド以来の数学の常識と食い違う結果が出たわけだ。ガリレオは存命中にこのパラドックスを解消できなかったが、19世紀に入ると、カントールによって、思いがけない形で解消されることになる」

「どうやって解消したんですか?」

「これもごく単純な発想の逆転だよ。『“全体”と“部分”が一致する()()()()()』……それが無限集合であると定義したんだ」

「まさかの常識改変!?」


 数学に不慣れな瑠衣はかなり驚いているが、マス部に入って以来、それまでの常識を何度も覆されてきたわたしは、その程度の発想の逆転には驚かない。……たぶん思いつきはしないけど。


「要するに、“部分”が“全体”より常に小さくなるのは有限集合だけで、無限集合の場合は必ずしもそうではない、ということですね」

「冷静に受け入れてるだと……!?」表情が歪む瑠衣。

「簡単に言えばそうだな。より厳密に言うと、有限集合の場合、全体集合から部分集合への全射、つまり漏れのない対応関係は作れても、単射、だぶりのない対応関係は作れない。ゆえに“部分”は“全体”より少ないと常に言える。だが無限集合の場合は、ガリレオのパラドックスのような、漏れもだぶりもない対応関係が存在して、“全体”と“部分”が量的に一致することがある」

「お、おお……?」

「分かったような分からないような……?」


 沼倉の脳内から溢れてくる言葉の洪水に、気圧されそうになるわたしと瑠衣。数学的に厳密な説明って、なんでこんなに飲み込むのが難しいのだろう。


「つまり、カントールはそれまでの数学の常識に不備があると考えて、集合間の対応関係、すなわち写像を使って、無限集合と有限集合の違いを明確にしようとしたわけだ。まさに、究極の自由人ならではの、自由な着想だといえよう」

「それだけでなく、整数の集合や有理数の集合、実数の集合に対しても、自然数の集合と対応関係が作れないか、カントールは考えていったんだ」

「その辺りの発想も、さすがは究極の自由人って感じがするわよね」


 蘭子と杏里にそこまで言わせるとは、カントールはどれほど自由なアイデアを世に送り出したのだろう。なんだか無性に気になってきた。次はカントールのアイデアの話をするのかと思ったが……。

 なぜか部室内に突然、尺八と三味線の旋律が流れ始めた。


「何だ、この音?」

「おっと、もうこんな時間か。そろそろお話は終わりにした方がよさそうだ」


 沼倉がスマホを取り出して一回タップすると、古風な旋律はぴたりと止んだ。さっきの音楽、沼倉が設定したスケジュールアラームだったのか。やっぱりこの先輩も、カントールに劣らぬ自由人だよ……。


「もう帰るんですか、純先輩?」

「ああ。夕方のタイムセールと食パンの限定販売がちょうど重なる時間だからね」

「主婦か」蘭子が短く突っ込む。

「そうだ、せっかくだから帰る前に、後輩たちに問題を出しておこう」


 カバンを手に持って、今にも帰ろうとする足を止めて、沼倉は言った。帰り際に後輩へ宿題を出すのは、マス部の伝統なのだろうか……。


「さっき説明した、自己言及のパラドックスの例として、床屋のパラドックスの話をしたけど、実はもっと短くて簡単な自己言及のパラドックスがある」

「もっと短くて簡単な……?」

「それを二人で考えてみたまえ」


 自己言及のパラドックスか……シンプルな式で表せるくらいだし、確かにもっと短い文章で実例を作れそうではある。とりあえず、帰り道で瑠衣と相談しながら考えるとして……と思っていたら。


「制限時間は一分だ。よーいスタート」

「今から!? 宿題じゃないんですか!?」

「宿題だと言った覚えはない。私はスーパーに行きたいんだ、早く答えたまえ」


 無慈悲にも沼倉は、一分に設定したスマホのタイマーをすでに動かしていた。別に制限時間を過ぎてもペナルティとかはないと思うけど、こうもあからさまにカウントダウンを見せられると焦る。……いや、本当にペナルティはないのか?


「ちなみに、答えられなかった場合に罰とかは……」

「ん? んー……別に、たいしたことはしないよ、うん、しないしない」

「目が泳いでますけど? 本当なんでしょうね?」

「うん、ホントだよー。ウソなんかつかないよー」


 絶対ウソだな、と思った。

 というか、早くスーパーに行きたいなら帰り際に問題なんか出すなよ……なんて言っても今さらどうにもならないので、とにかく考えることにした。


「ねえ、さっきの沼倉先輩の言ったことだけど……」

「なに? 瑠衣」

「『自分の言ったことは本当である』って、これも自己言及にならない?」

「まあ、確かに……でもそれって、本当でもウソでも成立するものであって、パラドックスとは違うんじゃない?」

「あ、そっか……」

「あれ? だったら逆に、自分の発言がウソだと言っているとしたら……?」

「その場合だと、本当だったらウソになって、ウソだったら本当になって……どっちにしても矛盾する」

「ということは……」


 わたしと瑠衣は声を揃えて、沼倉に答えをぶつけた。


「「わたしのこの発言はウソである!!」」


 直後、一分経過を告げるアラーム(銅鑼の音)が鳴り響いた。……いや、なんで銅鑼?

 沼倉はしばらくニヤついた表情を固まらせていたが、やがて不機嫌そうに眉根を寄せて、プイッとそっぽを向いた。舌打ちしながら。


「ちっ。せいかーい」

「自分から絶妙なヒント出しておいてなんつー態度だよ……」呆れ果てる蘭子。

「あーあ、答えられなかったら代わりにスーパーへ使い走りさせようと思ったのに、結局私が行くしかないのかぁ。じゃあね」

「どこがたいしたことないペナルティですかっ! もう先輩は二度と問題出さないでください!」


 わたしの怒りなどどこ吹く風、沼倉は億劫そうな物言いでぶつくさこぼしながら、ナチュラルに部室を後にした。何なんだ、本当に。

 特に気を悪くした様子もない瑠衣が、蘭子と杏里に尋ねた。


「いやー、絵に描いたような変人でしたね。マス部って伝統的にあんな人たちばかりなんスか?」

「どうなんだろ……」と、蘭子。「去年卒業した先輩たちも、まあまあ変わっていたとは思うけど」

「変わり者ばかりが集まると、自分が変わっているという認識すら持たないかもね」

「変人の度合いというパラメータがあるなら、マス部は分散および標準偏差が小さすぎて、全員が偏差値ほぼ50になるわけだな」

「よく分かんないけど、説得力が大仕事してますね」

「それよりも、沼倉先輩が途中で話を打ち切ったせいで、続きを話したくてうずうずしてるんだ。明日はカントールについて語り明かそう。瑠衣もぜひ……」

「あっ、全身全霊でお断りさせていただきます~」

「早ぇよ」


 本当に何なんだ、こいつらは……。

 カントールも恐らくドン引きするレベルの自由な変人が集まるマス部。必死に食らいつこうとしても、なかなか追いつけないわたしは、延々と亀に追いつけないアキレスみたいだ。

 とはいえ、同類の変人と思われるのは御免なので、追いつこうとは思わないが。パラドックスにもならない不毛な追いかけっこは、続く。


蘭子はカントールのアイデアを話したくて仕方がないようですが、残念ながら次回のエピソードでその話はやりません。次回は、私もミステリを書くうえでいつも大事にしている、論理の使い方です。悲しいことに、論理の使い方を間違っている人が世の中に結構いるので、一度ここらで、数学の話を理解するのに絶対必要な、数学と論理の作法を知っておきましょう。


……それにしても、変な人はやっぱり書いていて楽しいなぁ。

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