Day. 2 素朴で素敵な素数
タイトル通り、今回のテーマは大雑把に“素数”です。でもそんなに難しい話はしてないはずです。
私立つばき学園高校は伝統ある女子校である。しかし時代の流れとともに、一部を除いて伝統は廃れつつある。かつての、男性優位の社会で重宝される淑女を育てるような文化はなくなり、独立志向や個性が尊重される校風へと変化していった。
制服は細かく厳しい規定がなし崩しに廃止され、現在は、10年くらい前にOGがデザインした、チャコールグレーで落ち着いた雰囲気のブレザーになっていて、着用も原則自由としている。禁止されているのはせいぜい、改造と、必要以上に乱れた着用だけだ。
とはいえ、元がお嬢様学校ということもあって、素行に問題があると見なされる生徒は、入試の面接の時点で落とされるから、そんな校則違反をやらかす生徒はそうそう現れないのだが。伝統が廃れつつあると言っても、学校全体の品位まで落ちているわけではないのだ。
さて、つばき学園高校には、いくつものおかしな部活動が存在する。その中のひとつが数学研究クラブ、通称『マス部』である。今日も今日とて、わたし、鈴原茉莉は放課後になるとこの部室を訪れ、二人の個性的な先輩とともに、部活動に励んでいる……。
「前から思ってましたけど、マス部って、駄弁ってるだけで活動してなくないですか」
ふと疑問に思って尋ねたら、部長の及川蘭子は愕然としてあんぐりと口を開け、副部長の軽部杏里はバツが悪そうに口を一文字に閉ざした。ちなみにわたしがいま嗜んでいる温かいお茶は、杏里が淹れたものだ。
これ、片方は阿形で、もう片方は吽形だよな。仁王像とか、狛犬とかにあるやつ。なんだか縁起が良さそうだから、とりあえず二礼二拍手一礼……。
「いや御神体もないのに拝むな!」
「よく茉莉ちゃんのボケの意味が分かったね……」
一礼する直前で蘭子が突っ込んできたから中断した。数学が絡むと暴走するから忘れがちだけど、学年主席というだけあって、頭はいいんだよな。
「言っておくが茉莉、このマス部の活動実態は決して名前負けしてないからな。すでに去年、それなりの実績を残している」
「“それなり”で終わっているところがうちの高校っぽいけどね」
「杏里、シャラップ」
余計なひと言を付け加えた杏里に、蘭子は顔をしかめてぴしゃりと言い放つ。まあ確かに、つばき学園高校は部活がそれほど活発じゃないせいか、どの分野でも強豪と言われることはないけど。
「何ですか、実績って」
「もちろん数学の研究成果よ。私と杏里と、卒業した先輩と一緒に、三次元版シェルピンスキーのギャスケットの研究をして、科学研究発表会の高校生部門で銀賞を獲得したのよ!」
ものすごく自慢げに言っているけど、なんだか微妙な成果だなぁ。どのくらいすごいのかよく分からん。それ以前に研究の内容もよく分からんが。
眉をひそめるわたしに、杏里が優しく話しかける。
「銀賞でもいい結果だと思うわよ。発表会には全国の高校生が集まるし、金賞はめったに選ばれないらしいから」
「割と厳しいコンクールなんですね……でも、科学研究の発表会なのに、数学の研究ってアリなんですか?」
「数学は科学の女王なのよ? ナシだなんて言わせないわ!」
蘭子の物言いがまさに女王様みたいだけど……というか、前は整数論が数学の女王だとか言っていたような。
「とはいえ、数学の研究がメインの部活が、活躍できる場面なんてそうそうないから……うちの高校は、特に目立った実績がなくても廃部にはならないけど、活動実態が不明瞭だと部費は削られるのよね」
「世知辛いですねぇ……」
「だから部活動の定期報告に書ける何かを残すためには、何かしら大会や発表会には出たいのよ。去年の発表会も、その一環ってわけ」
「でも数学なら、数学検定を受検するっていう手もあると思いますけど」
「私もそう思ったけど、蘭子ちゃんは前向きじゃなくてね」
そう言って肩をすくめる杏里。どういうことだろう。わたしは蘭子に視線を向けて、無言で尋ねた。
「単純に、個人の能力を評価するだけの資格試験に、本腰を入れるほどの魅力がないというのもある」
「なかなか手厳しいこと言いますね」
「だがそれ以上に、ああいう資格試験の類いは実践的な計算問題がほとんどで、しかも対策用の参考書とかで傾向がほぼ研究され尽くしているから、数学を研究するというこの部活の主目的にまったくそぐわないのよ!」
ぐしゃぐしゃと自分の長い黒髪を両手で掻き乱しながら、蘭子は思いの丈を天に叫ぶ。
なるほど、数学を“勉強”するのでなく“研究”するのがメインだから、資格試験に挑むのはその活動内容に当てはまらないということか。どことなく詭弁っぽい気もするけど、分からないでもない。
というか、自分で言っておいてアレだけど、部活でも数学の勉強するのは、はっきり言って苦痛だ。別に数学は嫌いじゃないし、さほど苦手でもないけど、部活が学業の延長だなんて勘弁してほしい。
杏里の淹れたお茶をまたひと口味わって、わたしは一息つく。
「はあ……ここが研究と称して駄弁ってるだけのユルい部活でよかった」
「安堵しながらよくも悪し様に言ってくれるな。駄弁ってるだけで活動してないとか言っておいて」
「別に悪いとは言ってないですよ。ただ……」
「ただ?」
「不毛な時間が長く続くと、このままでいいのかという危機感に襲われそうで、不安になります」
「それ、悪いって言ってるのと大差ないような……」
杏里が苦笑いして呟く。まあわたしも、自分で言っておいて、そうだなと思ったけど。
「まったく、そんなにこの時間が不毛だというなら、君も研究の一つ二つ、やってみればいいじゃない」
「そんな無茶な……先輩方みたいに数学が得意なわけじゃないわたしに、数学の研究なんて……そういうのって本来、大学とかでやるものですよね」
「いや? 知り合いに聞いた話だと、大学の数学科でも研究なんてろくにやらないそうよ。大体は本を読んで終わり。大学院だと少しはやるらしいけど」
「数学科だと卒業論文とかもないのがほとんどだっていうわね」
蘭子も杏里も、高校生ながら大学の事情にずいぶんと詳しい。大学の数学科事情を聞ける知り合いというのが気になるけど、そこは置いといて。
「へえ……大学って、研究もするし論文も書くものだと思ってましたけど」
「他の学科はそうよ。数学科は数少ない例外」
「なんでですか」
「学生ごときが目新しい成果を出せるような分野じゃないから」
「…………」
「と、知り合いが言ってた」
身も蓋もない話だなぁ……ある意味で楽ではあるだろうけど。まあ、わたしにとって数学は、勉強や部活で片手間程度に触れるのがちょうどいいし、数学科でガチの勉強をすることはないだろうから、たぶん関係のない話だ。
「とにかく、別に大層な成果を期待して、研究をしてほしいわけじゃない。ただ気楽に、調べたいことを調べればいいのよ。私たちだって、去年の研究で何か新しい理論を発明したってわけでもないし」
「そうなんですか?」
「既存の理論を追加で検証してみました、みたいな研究でもいいのよ。そこは高校生だから広く許される」
なんだか小学校の自由研究みたいだ。そのくらいの方が気楽ではあるけど。
ただし現状、研究を始めるにあたって、わたしには重大な問題がある。元からそれほど数学に興味関心があったわけじゃなく、この部にも入って間もないわたしには……。
そう、題材がない。
「何を調べたらいいですかね」
「そうだな……初心者ならやっぱり、素数を題材にしたらいいんじゃない?」
「いいわね、素数」杏里もニコニコ顔で賛成した。「シンプルだけど奥が深いし、今でも世界中で盛んに研究されているし、茉莉ちゃんに数学の面白さを知ってもらうにはぴったりかも」
素数かぁ……わたしはぼんやり物思いに耽る。
教科書にも一応、素数という言葉は載っている。だけど、方程式とか関数などと比べると、申し訳程度の扱いしかされていない。教科書に載らない素数の性質などは、マス部に入って初めて知ったものも多い。
そうそう、未だに忘れられないのが、入部三日目あたりで蘭子が言い放った、あの言葉だ。確か何か、素数にまつわる話になったとき、諸手を広げて天を仰ぎながら、キラキラした目で言ったのだ。
「そうだろう? 何しろ素数は、素朴で、素敵で、素晴らしい! ゆえに素数なのだ!」
あ、ちょうど本人が再現してくれたよ。手の動きや表情までそっくりに。
「ほんとは全ての自然数の素になる数だから、素数って言うんだけどね。あれ、これ前にも言ったっけ」
「あらゆる物質の素になる粒子だから素粒子って言うのと同じですね……って、これも前に言った気がする」
「蘭子ちゃん、何度も同じこと言うからね」
「さすがに覚えちゃいますよねぇ。あははは」
「うふふふ」
「そこ、私を放置してイチャイチャすんな」
杏里と仲良く喋っていただけなんだけどな……蘭子は置き去りにされるのが不満らしい。ビシッと指先を向ける蘭子に、杏里が首をかしげて告げた。彼女の内巻きの髪がするっと揺れる。
「蘭子ちゃんもイチャイチャしたいの?」
「なんでそうなる。別に私は独りでも平気だけど、語っている最中に蚊帳の外にされるのは業腹だ。振りでも話に付き合うくらいはしてくれ」
「ごめんごめん。何だっけ……茉莉ちゃんに素数の研究を勧めるって話だったかな」
そうそう、わたしまで忘れるところだったよ。素朴で素敵で素晴らしい素数を、研究テーマにしてはどうか、だったね。どう見ても盛りすぎだよなぁ。
「素数は知れば知るほど面白いよ。2000年以上前から研究が始まっているのに、未だに謎や新たな発見があるからね」
「2000年以上って……そんなに前から?」
「ヨーロッパの古代文明が最盛期を迎えた頃ね。その後は戦争や疫病による混乱の時代に突入して、数学の歴史の、長い空白期間があったわけだけど」
世界史は高校に入って本格的に学び始めたから、古代文明以降のヨーロッパのことはよく知らない。それでも、ヨーロッパの長い暗黒時代について、聞き覚えがなくもない。疫病というのは、たぶんペストのことだろう。
数学の研究も、教科書に載るこうした歴史の流れと密接に繋がって、影を落とすことがあったのだ。
「16世紀に入って以降は、ヨーロッパでの数学の研究は飛躍的に進んだ。もちろん素数もね。中でも特に大きな成果は、ガウスが予想した、素数の個数の増え方に関する性質かな。ガウス自身は証明を完成させられなかったけど、のちに様々な方法で証明されることになったのよ」
「そしてその延長には、有名な未解決問題、リーマン予想もあるわね」
「他にも、素数の分布や、特殊な素数が無限個あるかどうか、という未解決問題もある。双子素数とかメルセンヌ素数とか……」
「6番目のフェルマー素数が存在するかどうか、という問題もあるわね」
「フェルマー素数は正多角形の作図可能性にも関わる重要な素数だから、発見できれば大きなニュースになるはずだ。あー、夢が膨らむ」
「……でも、茉莉ちゃんは気が抜けて縮んでるね」
「うわあっ!」
先輩たちの会話について行けないわたしは、ぷしゅう~、と音を立ててしぼんでいた。心なしか、頭のてっぺんから煙が上がっている気がする。
わたしを放置したのはさすがにまずいと思ったのか、蘭子は珍しく慌てた様子で、わたしへのフォローを始めた。
「いや、まあ、つまりだ、素数なら新しく研究する余地はいくらでもあるってことだ。茉莉みたいな初心者でも、まあまあ取っつきやすいと思うぞ」
「……さっきお二人が話していたことは、初心者でも取っつきやすいのでしょうか」
「それについてはすまん……専門用語を使いすぎた」
蘭子はがっくり項垂れて、かなりの反省をにじませて謝ってきた。まあ、彼女が数学絡みで調子に乗るのは毎度のことだから、たいして気にしてないが。
ただ、重箱の隅をつつくようなレベルの違和感が、わたしにはあった。
「だけど、話を聞く限りだと、素数に関しては未解決問題ばかりで、新しい発見と言えるものはほぼなかったみたいですが……」
「いやいや、未解決問題そのものは立派な発見よ。最初に誰かが、こういう性質があるかもしれない、と考えなければ、問題は生まれてないわけだし」
「それに、とっくに解決された問題でも、後になって別の解法が見つかるってパターンもあるのよ。素数が無限個あることを証明せよ、という問題だって、21世紀に入ってからも、新しい解法が見つかっているし」
「そうなんですか?」
「確かに、あの証明は新しいうえにシンプルで、なぜ今まで見つからなかったか不思議なくらいだ」
杏里の言う“新しい解法”に、蘭子はいたく感心したらしく、しきりにうんうんと頷いている。
「茉莉ちゃん、素数が無限個あることは知っているわよね」
「教科書にちらっと載ってた気がします。確か、背理法を使うんですよね。素数が有限個だと仮定して、全部かけ合わせて1を足した数は、どの素数でも割り切れない。つまり素数でも合成数でもない数ができてしまって、これはおかしい……だから最初の仮定が間違っているので、素数は無限個ある」
ちなみに、素数のかけ算で表せる数のことを、合成数と呼ぶ。自然数は素数と合成数の二つに分けられるわけだ。あ、1だけは例外で、素数と合成数のどちらでもないけど。
「こんな感じですよね」
「うん、大体そんな感じね」
「厳密には、有限個ある素数をかけ合わせて1を足した数が、素数でないことの説明が欠けているけど、それは大きさを比較すれば明らかだから、ここは不問に付しておきましょう」
証明の話になると蘭子は厳しいなぁ……。
「いま茉莉が説明したのは、2000年以上前にユークリッドが編纂した『原論』という書物に記された証明を、現代風にアレンジしたものだ。当時はまだ、背理法という手法が確立されていなかったからね」
「ということは、その『原論』って本に書かれていた証明は、背理法を使ってないんですか」
「ええ。実際には、素数を有限個だけ用意して、全部かけて1を足した数は、用意した素数のどれでも割り切れないから、最初のリストにない、新しい素数が必要になる……そうして次々と素数を新しく作ることができるから、素数は無限にあると考えたのよ」
なるほど……次々と無数に生み出すことができるから、素数は無限にある、か。全部かけ合わせて1を足すというアイデアは共通しているけど、背理法みたいに遠回しなやり方ではなかったのだ。これはこれで面白いかもしれない。
「それから長い間、素数が無限個あることの証明は放置されていたけど、18世紀になって、かの有名なレオンハルト・オイラーが、調和級数の発散性を用いた別証明を示した。それ以降、多種多様な証明法が次々と発明されている」
「あら、ゴールドバッハの証明は1730年だから、オイラーとほぼ同時期じゃない?」
「そうだったっけ。でもゴールドバッハの証明は、互いに素を利用した証明の一例にすぎない。オイラーの証明はゼータ関数のオイラー積表現を使っていて、解析学の方面にも応用が利く。証明に優劣はつけられないけど、私はオイラーの証明のほうが好きよ」
また懲りもせず専門用語を連発している蘭子。おかげでわたしは、話の内容がほぼ理解できていない、が、証明の好き嫌いはこの際どうでもいい気がする。
「まあそれは置いといて、18世紀以降に示された別証明の中には、ユークリッドにも匹敵するシンプルなものがある。どれだけシンプルかというと……」
蘭子は一瞬だけためて、閉じた口の端を上げ、指を3本立てて見せた。
「……3?」
「そう。3行で終わる」
「はいぃっ!?」
予想外の数字に、わたしは思わず大声で反応してしまった。
数学の証明は中学で、図形の性質から始めているが、正確を期したら長々とした文章になる、という印象があった。それは高校に入ってからも同様だった。少なくとも今まで、3行で終わる証明なんて見たことがない。
素数が無限個あることを、たった3行で証明することなんて、本当にできるのだろうか。恐らくはユークリッド以上に短い証明になると思うが。
「まあ3行と言っても、数論の基礎知識があることを前提にしているから、初心者の茉莉に説明するには、たぶん3行じゃ足りないかな」
「数論の基礎知識、ですか? その説明も加えたらどのくらいになります?」
「10行もいらないんじゃないか?」
初心者への説明でもそんなに短いなんて……これで理解できなかったら、わたしの数学センスは絶望的というしかない。
「それで、どんな証明なんですか……?」
「なんか顔がえらく険しいぞ、茉莉」
「初心者相手でも10行もいらない証明を、理解できないのはさすがにまずいので……」
「そんなに身構えなくても、ちゃんと丁寧に説明するから、大丈夫よ」
杏里がふわっと微笑みながら、落ち着かせるようにゆったりと言う。百合の花のように淑やかで柔らかい微笑みに、わたしの緊張は瞬時にほぐれた。
「素数より素朴で素敵な笑みだ……」
「えぇ?」
「数と人の笑顔を比較するのはどうかと思うが、素朴で素敵なことは否定しない」
「ちょっ、蘭子ちゃんまで……」
「話を戻そう。茉莉、“互いに素”という言葉は知っているか?」
恥じらいながら苦笑する杏里をよそに、蘭子はあっさり数学の話に戻した。
互いに素……さっきの、ゴールドバッハの証明とやらに出てきた用語だけど。
「ちらっと聞いたことがある程度ですね……」
「整数論における超重要な言葉だから、この機会にぜひ覚えておいて。互いに素とは、最大公約数が1であるような、2つの整数の関係のこと」
「最大公約数が1……例えば」
12と14 ← 最大公約数が2、互いに素でない
12と15 ← 最大公約数が3、互いに素でない
12と17 ← 最大公約数が1、互いに素
「という感じですか」
「うん、それでいいよ。ではなぜ、互いに素が重要とされるかというと、このように言い換えることができるからだ」
互いに素 ⇔ 共通の素因数を持たない
「互いに素という条件があれば、素因数分解したとき、両方の数に共通する素数が存在しない、という強い制約を与えることになる。整数の性質を証明するとき、この制約は強力な武器になるんだ」
「強力な、武器……」
「ゲームでいうなら、どんな扉や箱もたちどころに開けてしまう万能の鍵だな」
鍵は武器と呼ぶには抵抗があるけど……というか、蘭子もゲームするのか、意外だ。
「さて、素数が無限個あることを証明したいわけだが、その前に、ある事実を確認しておきたい。茉莉はさっき、互いに素な2つの整数の例を挙げたけど、他にはどんな組み合わせが思いつく?」
「いや、急に言われても……」
「では杏里、お手本を見せてやって」
蘭子に指名された杏里は、コホンと軽く咳払いをした。杏里ならいくらでも思いつけそうだと思ったが、彼女の口から飛び出した、“互いに素な整数の組”に、わたしは軽く衝撃を覚えた。
「2と3、3と4、4と5、5と6、6と7、7と8……」
「ああっ!」
「そう、隣り合う整数同士は、必ず互いに素になる。2つの整数の両方を割り切る数、これを仮にdとおくと、2つの整数の差もまたdで割り切れる。隣り合う整数同士の差はもちろん1だから、2つの整数を割り切れる数は1しかない」
なるほど……こんな簡単に、互いに素な組み合わせを見つけられるのか。思いがけず感動してしまったよ。
「では、この事実を踏まえたうえで……まずは2以上の自然数nを適当に選びます」
「……“適当”は数学だと“適切”って意味ですけど」
「おや、覚えていたか。でも今回は、“好き勝手に”という意味で使ってるからね」
適当だな、このひと。
「すると、nとn+1は互いに素なので、共通の素因数を持ちません。だから、この2つの積n(n+1)は、少なくとも2種類以上の素因数を持っている、といえる」
「うん、確かに」
「同様に、n(n+1)とn(n+1)+1も互いに素なので、後者は、前者とは違う素因数を含んでいる。だからその積n(n+1){n(n+1)+1}は少なくとも3種類の素因数を持っている」
「……これって」
「そう。この作業は無限に続けることができる。そのぶん素因数の種類も無限に増え続ける。だから、素数は無限にある。キュー・イー・ディー」
最後のQ.E.D.だけ妙にかっこつける蘭子。
それにしても、聞けば納得だし、互いに素に関する予備知識のある人が相手なら、確かに3行くらいで記述できそうだ。互いに素というのは本当に、強力な武器なのかもしれない。
「このシンプルな証明は、サイダックという数学者が2006年に発表したものだ」
「つい最近じゃないですか!」
「そうなんだ。これだけシンプルで、専門知識もほとんど使わない証明が、21世紀に入るまで誰も思いつかなかったなんて、衝撃的でしょう?」
うん、呆然としてしまう……衝撃的だし、不思議だ。
以前に聞いた話だが、19世紀以降に確立された、現代数学と呼ばれるものは、大学の理工系でないとまず触れることはなく、とにかく高度で複雑化した数学なのだという。
だから、最近になって見つかった証明も、とにかく高度で複雑なものだと思っていた。でもサイダックの証明は、ごく最近の発見にもかかわらず、驚くほどシンプルな内容だ。
数学の底知れない奥深さを、まざまざと見せつけられた気分だ。そんな感じで衝撃の冷めやらないわたしの、かすかに震えている手を、そっと包み込む温もりがあった。
「茉莉ちゃん。数学の新しい発見や発明は、確かに簡単じゃないけれど、その中身まで難しいとは限らないのよ。誰も思いついてないような、素朴で素敵な答えが、どこかにあるかもしれない」
「杏里先輩……」
「だからね、少しは肩の力を抜いてもいいと思う。まずは自分にできる範囲で調べてみて、そうしているうちに、新しい発見に出会えるかもしれないから」
ああ……杏里の優しい表情と声で紡がれる言葉と、羽のようにわたしの手を包む、彼女の両手の温もりに、言われるまでもなく肩の力が抜けていく。
そうだよな、身構えなくてもいいよな。簡単ではないけれど、わたしにだってきっと、誰も気づかないようなシンプルな答えを、見つけ出すことができるんだ。そういう希望だって、あるんだ。
「結局杏里が一番おいしい所を持っていくんだな」
「だって蘭子ちゃん、数学の話に夢中になりすぎて、ちっとも言いたいことを言わないから。茉莉ちゃんに、数学の研究に前向きになってほしいって、早く言えばいいのに」
「説得力も少しは必要だろう? これでもなんとか本筋から逸れないよう、必死に説明したつもりなんだけど」
そっか、二人とも純粋に、わたしにマス部の活動を楽しんでほしかったんだ……蘭子の場合、不器用にもほどがあるけど。
蘭子と杏里。いつも隣にいる二人は、共通点なんてないように思える。まるで、隣り合う整数同士に、共通の素因数がないみたいに。
でも本当は、心のどこかで通じ合うものがあって、同じように、ただ一人の後輩であるわたしのことを、思っているのかもしれない……。
わたしも、そんな先輩たちの思いに、応えたくなってきた。
よし。わたしは決意を込めて椅子から立ち上がる。
「わたし、素数のこと研究してみます。まだ素人だから、先輩方の助力が必要だと思いますけど、いつか、素朴で素敵な答えを見つけられるように、頑張りますね!」
「茉莉ちゃん……!」
「いいよ、その意気だ」
感極まる杏里と、激励する蘭子、二人の先輩に応援されて、わたしのやる気はどんどん上昇していく。今ならどんな数学の研究でも、楽しくやれそうな気がするよ。
とはいえ、具体的な題材が決まっているわけじゃない。沸き立つ勢いそのままに、わたしは期待を込めて蘭子に尋ねた。
「それで、素数の何を研究すればいいですか!?」
「え? そんなの自分で考えなよ」
しーん……。
急速に冷めた蘭子の返答に、部室は水を打ったように静まり返る。
わたしは杏里に泣きついた。
「杏里せんぱぁ~い! 蘭子先輩がいじわるするぅ~」
「あらあら。よしよし、泣かないで」
さながら聖母の如く、杏里はわたしを胸に抱擁し、あやすようにわたしの背中を撫でてくれた。今度から嫌なことがあったら、彼女に慰めてもらおう。
それはさておき、わたしが泣き出したことで、狼狽えたのは蘭子だ。
「待て待て待て! まるで私が後輩をいじめたみたいじゃないか!」
「意地悪なこと言ったらだめよ、蘭子ちゃん」
「違うから! てか、私の真意くらい杏里も分かってるでしょ!」
「何のことか知らないけど、真意があるなら分かるように話した方がいいよね~」
あさっての方を向いて、杏里はすっとぼけた。幼馴染み相手だと、聖母じゃなく小悪魔になるらしい。
杏里に冗談で意地悪されるなら、それはそれで悪くないかも……なんて思ってしまったわたしは、この部活に染まってきているんだろうなあ。
後輩を泣かせたのだから釈明くらいしなさいと、遠回しに告げられた蘭子は、どこか覚束ない口調で話し出した。
「だから、何というか……小学校の自由研究でもよくあっただろう? 何を研究すればいいか分からなくて、とりあえず本とかでおすすめされたネタをやったけど、予想どおりの結果しか出なくて、つまらない内容になってしまった経験が」
「分かる分かる。スライム作りとか何の意味があったんだろうって」
「スライム……まあ要するに、他人から提供されたネタに飛びついても、実のある研究にはならないってこと。これは茉莉の研究なんだから、茉莉自身が興味を持つような題材を自分で選ぶべきなのよ。じゃないと、途中で飽きるのがオチだから」
「確かに、自由研究は自由なようで、宿題ゆえに義務感だけでやっている所があるから、途中で飽きたり挫折したりするのは必然なのよねぇ」
慈悲深い笑みを浮かべながら、辛辣なことを口走る杏里であった。
「……教育関係者には耳の痛い言葉だろうがそれはさておき。私から茉莉に、題材の候補を提供することはできるが、決めるのはあくまで茉莉だ。私としては、素数という取っかかりを与えられたから、後は興味のある問題を茉莉自身で見つけてほしいと、そう思ったわけであって……」
自主的に題材を見つけることで、途中で挫折することなく、関心を持って研究してほしかった、ということか。なるほど、蘭子の真意は分かった。ならばわたしは自力でテーマを決めた方がいいのだろう。
しかし、それにしたって……。
「だったら最初からそう言えばいいのに。蘭子ちゃんも言葉足らずだよねぇ」
「ねぇー」
「嘘泣きかよ! 何だったんだ、さっきの茶番劇!」
はい、途中からわたし、泣くフリをやめていました。だって杏里の胸が心地よくて、蘭子を困らせてやろうとか、どうでもよくなったから。
そういうわけで、わたしも部活動の一環として、数学の研究をすることになった。ひとまず目標は、夏休みに行われるという科学研究発表会に、発表者として参加すること、だという。活動した事実さえ残せればいいから、気楽に臨むといいと先輩たちは言っていたが、わたしもぜひ気楽にやりたいと思っている。
だって、マス部はそういう気楽な場所だから、わたしはここに入ると決めたんだもの。
素数はあまりに魅力的な題材が多いので、名前だけ出して済ませたものが多かったですね。双子素数、メルセンヌ素数、フェルマー素数。どれも本当に奥が深いので、初めて聞いたという人はぜひ調べてみてください。今後この作品でテーマに取り上げる時、予習にもなりますし。
さて、先週に引き続き、金曜の夜10時に更新しましたが、今作は不定期更新の形式をとる予定なので、来週の更新はたぶんありません。ゆったりペースで書きますので、何卒ご容赦を。




