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after Day. 10

afterシリーズに初めて、マス部の他のメンバーが登場します。茉莉の姉は出てきません。

今回はひたすら数学の話です。ゆっくりついて来てください。


「それでは!」蘭子がパンッと両手を叩く。「これより先ほどのお話の続き、トーシェントの乗法性について説明いたしましょう!」


 ここは市民プールの休憩スペース。受付カウンターの真正面にあって、自販機と、座面の柔らかいベンチが四つ置かれている。

 ひとしきりプールで遊んだ後、わたし達は更衣室で水着から元の服に着替えて、休憩スペースのベンチに座っていた。ところが、蘭子がどこからかホワイトボードを持ってきて、わたし達の前で数学の話の続きを始めたのである。


「えぇっと……色々突っ込みたいことはあるんですけど、まず、そのホワイトボードはどこから?」

「ん、これか? 受付カウンターの隣にあったぞ。プールの使用状況などを書き込んだり、イベントのポスターやチラシがマグネットで貼られていたけど、裏面は使われてなかったから、ひっくり返した」

「なんてことしてるんですか……」

「緊急性のあるお知らせはなかったから問題ないだろ」


 そういう問題じゃなくて、勝手にホワイトボードをひっくり返して私用で使うのがまずいのであって……ああもう、なんかどうでもいいや。


「話には聞いてましたけど、蘭子先輩ってホントにやることなすこと大胆ですよね」

「アロハシャツとか蛍光色の水着とか着てくる瑠衣ちゃんには言われたくないと思うなぁ」


 ごもっともである。

 さて、市民プールの休憩スペースで、何やら唐突に数学の授業っぽい話が始まって、当然ながら周りは何事かと視線を向けてくる。中には関わることを避けるためか、小さな子どもに「しっ、見ちゃダメよ」なんて言い出す親もいる始末。そんな状況など意に介さず、蘭子は話を始めた。


「まずは軽くおさらいしておこう。トーシェントとは、与えられた自然数nと互いに素な、n以下の自然数の個数のことだ。ここまで、素数やその累乗に関して、トーシェントの値がどうなるかを調べた」


 pを素数として、

 ①φ(p) = p-1

 ②φ(p^n) = ((p-1)/p)×p^n


「ここまでは比較的簡単に導けただろう。そして、トーシェントには乗法性……つまり互いに素な自然数の積に分解して、それぞれのトーシェントの値をかけることで計算できる性質がある。しかし、この性質は自明ではない。よってきちんと証明する必要がある」


 l,mを互いに素な自然数として、

 ③φ(lm) = φ(l)φ(m)


「まずは具体例として、先ほど求めたφ(15)を考えよう。結論から言うと、この値はφ(3)とφ(5)をかけたものに等しい。ならば、15と互いに素な自然数はすべて、『3と互いに素な自然数』と『5と互いに素な自然数』の組み合わせと、何らかの形で対応していると考えられる」

「どういうことっすか?」

「だって考えてもごらん。15と互いに素な自然数って、3や5と互いに素にならないことがあると思うかい?」

「そっか、ならないはずがありませんよね」


 互いに素という概念に何度も触れているわたしはすぐに気づけたが、瑠衣はまだピンときていない。


「なんで?」

「もし自然数aが、5と互いに素でないなら、1の他に共通の約数があるってことでしょ。だったら、5の倍数である15だって、その数で割り切れるはずだから、aと15には1以外の公約数があるってことになって……」

「そっか、15と互いに素じゃなくなるのか」

「その通りだ。15と互いに素な自然数は、3とも5とも互いに素になる。これは、3や5で割った余りもまた、3や5と互いに素になるということでもある」

「もしかして、ここで合同式を使うんですか!?」

「あー、前に茉莉が話してくれた、余りが同じ整数を繋ぐ式だっけ」


 マス部で合同式のことを教わってから少しのちに、マス部での近況を瑠衣に話す機会があって、その時に合同式のことも軽く説明していたのだ。


「きちんと証明する段階になったら使うけど、今は具体例で確かめてみたいから後でだな。さて、15と互いに素な自然数は8個あるが、それぞれ、3および5で割った余りはこうなる」


挿絵(By みてみん)


「この表を見ると、3および5と互いに素な余りの組み合わせが、一度ずつ、漏れなく現れているだろう?」

「確かに……!」

「ホントに上手いこと対応してますね」

「この表を書き換えて、3と互いに素な数を縦に、5と互いに素な数を横に並べた表にして、15と互いに素な数を、対応するマスの中に入れると、こうなる」


挿絵(By みてみん)


「なるほど、この表を見れば、15と互いに素な自然数の個数が、φ(3)とφ(5)をかけたものと一致することが一目で分かりますね」

「要するにマスの個数を求めるわけだから、簡単なかけ算だよな」

「では、今の話を一般化して、どんな自然数でも同じことが成り立つのか確かめよう。自然数nが、互いに素な自然数lとmに分解できるとして、同じように表を作る。lと互いに素な数は縦に、mと互いに素な数は横に並べてみよう。すると、nと互いに素なある自然数cは、この表のどれか一つのマスと対応しているはず」


挿絵(By みてみん)


「15の時みたいに、今度はlおよびmで割った余りを考えるんですね。余りだからlやmより小さいし、しかもそれぞれlおよびmと互いに素になります」

「うん。つまりcをlで割った余りは、この表の縦に並べたφ(l)個の自然数のどれかだ。それをajとおく。mで割った余りも同様で、横に並べたφ(m)個の自然数のどれかなので、それをbkとおく。このことを合同式で書くと、このようになる」


 c≡aj (mod l) … ajとlは互いに素

 c≡bk (mod m) … bkとmは互いに素


「このことから、nと互いに素な自然数cは、lと互いに素なajと、mと互いに素なbkの組み合わせと、対応しているといえる」

「これがnと互いに素なすべての自然数にいえるから、この表のマスに全部入れられる。つまり個数はφ(l)×φ(m)になるってわけっすね」


 おおっ、数学オンチの瑠衣が話についていけているとは。やっぱり具体的な数で先に確かめておいて正解だったみたいだ。

 しかし……やはり数学に慣れていないからなのか、その結論が早すぎることには気づいていない。


「まあそうなんだけど……ここまでの話だけだと、φ(n)=マスの個数、とは言い切れないぞ」

「えっ、なんで?」

「瑠衣、15の場合は、互いに素な数が全部マスの中に収まったけど、他の場合もそうだとは限らないよ。空白のマスがあるかもしれないし、異なる数が同じ組み合わせと対応するかもしれないし」

「そんな可能性まで考えないといけないのか……」

「細かい可能性まで考えるから、数学は信頼できるんだよ」

「すっかりマス部に染まってるなあ」


 染まってるかどうかは分からないが、こういう細やかさが数学の信頼を下支えしていると、マス部の活動を通して、わたしも理解してきている。少し前のわたしだったら、ただ面倒くさがっていただろうから、着実に変わっているのは間違いない。……それが染まっているってことなのか。


「とはいえ、茉莉が挙げた二つの可能性は、実はどちらもあり得ない。このことを示すために合同式が役に立つんだ。まず、組み合わせがだぶる可能性だが、nと互いに素な数を二つ、cとc'を用意して、どちらも同じ(aj,bk)と対応していると仮定する。つまり」


 c≡aj (mod l) …①

 c≡bk (mod m) …②


 c'≡aj (mod l) …①'

 c'≡bk (mod m) …②'


「……ということだ。ここで、①と①'、②と②'を、左辺同士、右辺同士で引き算する」


 ①-①'… c-c'≡0 (mod l)

 ②-②'… c-c'≡0 (mod m)

 ※合同式でこの変形ができることは、第8話で示している。


「つまりc-c'は、lの倍数であり、かつmの倍数なので、lとmが互いに素であることから、結局l×m=nの倍数でもある。しかし、cもc'もnより小さい自然数なので、その差も当然nより小さい。nより小さいnの倍数とは、何だと思う?」


 蘭子が問いかける。そんなもの、考えるまでもなく一つしかない。


「0……つまり、c-c'は0だから、cとc'は結局同じ数ってことですね!」

「要するに違う数が同じ組み合わせと対応することはないってわけか……」

「次に、表に空白のマスがある、つまり対応する自然数が存在しない(aj,bk)の組み合わせがあるかどうかだが……これは結局、この二つの合同式を同時に満たす自然数cが、n以下に必ず存在することを示せば否定できる」

「いわば連立合同式ね」


 c≡aj (mod l)

 c≡bk (mod m)


 杏里の言葉は言い得て妙で、確かに連立方程式みたいな見た目の合同式だ。


「lとmが互いに素のとき、この連立合同式の解は必ず存在する。『中国剰余定理』という定理から言えるのだが、これも少々複雑な話なので、詳しい説明はまた今度」

「あっ、はい……」


 名前からしてハイレベルな雰囲気のある定理だ。理解できるかはさておき、この場で詳細な説明に移らなかったのは賢明だろう。


「大事な定理の証明を後回しにして使ったら、沼倉先輩に文句言われそうだけどな。今日は来てなくてよかった」

「沼倉先輩って誰?」

「瑠衣は知らなくていいよ~」

「…………」


 とっくにマス部を引退して、しかも二年連続で留年している先輩の存在は、瑠衣にもまだ話していない。たぶんこれからも話すことはない。たとえ杏里がどれだけ無言で呆れようとも。


「ただ、中国剰余定理からすぐに示せるのは、連立合同式の解がn以下に必ず一つ存在する、ということだけで、ajとl、bkとmがそれぞれ互いに素の時、唯一解cがnと互いに素であることまでは示せない」

「cがnと互いに素でないと、表の中にnと互いに素でない数が混じって、φ(n)=マスの個数、という関係が成り立たなくなりますね」

「じゃあどうするのさ……」


 口を尖らせる瑠衣。答えをくれたのは杏里だった。合同式が本格的に絡んできて楽しそうである。


「具体的にcを構成して、nと互いに素であることを示してもいいけど、ここは合同式の基本に返ってみるといいんじゃない?」

「合同式の基本、ですか……?」

「まずは、唯一解cがnと互いに素で()()と仮定します」

「あ、背理法ですね」

「すると、n=l×mなので、cはlとmの少なくとも一方と、1以外に共通の約数を持っていることになるわよね。lとmのどっちを選んでも結果は同じだから、ここはlと共通の約数dを持っているとしましょう。つまり、」


 杏里もベンチから立ち上がって、ホワイトボードの前まで来る。そして数式を書き始めた。

 c=d×c' l=d×l' (d≠1)


「すると、合同式はこんな等式に変形できるので……」


 c≡aj (mod l) ⇔ c-aj = l×s (sは整数)

 aj = c-l×s = d×c'-d×l'×s = d×(c'-l'×s)


「ajもまたdを約数に持っているので、ajとlは互いに素でない、ということになります」

「なるほど、ajとlが互いに素だという前提と矛盾しますね」

「つまり、表のマスの中に入る自然数は、全てnと互いに素である、ということが示せた。もれなくだぶりなく、nと互いに素な自然数が表の中に収まると確定したので……これにて、トーシェントの乗法性は証明されました!」


 わー、ぱちぱちぱち。

 ひと仕事終えて蘭子が拍手を始めたので、つられてわたし達も、そしてずっと遠巻きに見ていた他のお客さんたちも、一斉に拍手し始めた。はたから見たら完全に奇妙な光景だ。


「では最後に、ここまでに示したトーシェントの求め方をひとまとめにしよう。すでに言ったように、異なる素数同士は互いに素なので、乗法性を用いて次々に分解することが可能だ。すると、一般に自然数nのトーシェントは、素因数分解することでこのように表される」

挿絵(By みてみん)

「複雑そうに見えますけど、どんな素数を含んでいるかだけが、結局重要になるんですね」

「この公式は『オイラーの公式』と呼ばれることが多いが、わたしは、オイラー師匠より先にトーシェントの概念を発明した和算家の名を冠して、『久留島(くるしま)・オイラーの公式』と呼んでいる」

「そうだ、久留島義大(よしひろ)よ! さすが蘭子ちゃん!」

「な、なんだ、どうしたいきなり」


 杏里が唐突に大声を上げたので、何も知らない蘭子はたじろいだ。そういえばオイラーより先にトーシェントを考案した和算家がいたと言っていたが、杏里は結局その名前を思い出せていなかった。確かに蘭子はちゃんと知っていたけど、名字だけで思い出せる杏里もなかなかだね。


「あぁ、よかった。やっと思い出せた。これですっきりして帰れそう」

「???」

「そうですね、バスの時刻も近いですし、そろそろ帰りましょうか」

「わたしは自転車だからいつでも帰れるけどねー」


 トーシェントを計算する公式が無事に完成したので、なんか全部終わったような気分になったわたし達は、そのまま帰り支度を始めた。未だに何の話か分かっていない蘭子を横目に。

 ところで、解説に使ったホワイトボードは、裏に書いた数式と表は全て消して、ひっくり返して表の面を出してから、受付の脇に戻された。もちろん蘭子の手によって。


「よしっ、ちゃんと元通りになったな。これで何事もなかったように(かえ)


 何事もなかったように帰ろうとした蘭子の肩に、市民プールの女性職員の手がポンと置かれた。……いやまあ、受付の真ん前にある休憩スペースで、堂々とホワイトボードを使って数学の話を繰り広げておいて、何事もなかったことにできるはずもないわけで。


「ちょっと事務室まで来てもらえますかね、お客さん。ホワイトボードの件でお話があります」

「えー、ちゃんと元通りに戻したのに……」


 文句を垂れる蘭子の腕を掴んでズルズルと引きずりながら、女性職員は奥へと連れて行く。彼女の足取りといい口調といい、腹に据えかねているのは確かだ。実害は特になくても、無断で勝手にホワイトボードを使ったことに、お叱りを与えないわけにはいかないのだろう。

 取り残されたわたし達は、その様子を呆然と見ていた。


「天才とバカは紙一重、ってあの人のためにあるような言葉ですねぇ」

「つまり数学の天才は数学バカってことだね」

「数学バカは嬉しがりそうなんだよなぁ、蘭子ちゃん」


 口々に呟いた後、わたしと杏里はバスに乗って、瑠衣は自転車で、それぞれ帰路についた。蘭子は結局最終便の時間までお叱りを受けることとなった……。

 なお、休憩スペースでの数学談義に感銘を受けた一部のお客さんから、またやってくれないかと市民プールに問い合わせが来たそうだが、それはまた別のお話である。


中国剰余定理、なんていやにカッコつけた名前の定理が出てきましたが、証明をすっ飛ばしてしまいました。本当に、ちゃんと証明しようと思ったら色んな準備と長い手間がかかるので、証明は別の回でやろうと思います。

瑠衣は書いていて楽しいキャラなので、またどこかで出したいですね。

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