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Day. 10 流されてトーシェント

トーシェントって何やねん。そう思われた方々へ。

これのおかげで整数はめちゃくちゃ面白くなります。まずはさらっと体感してみましょう。

そして本編は夏真っ盛り、いつメン+1でプールへ行きます。つまり水着回です。この話が投稿された時期は冬なのですが……。


 私立つばき学園高校のあるこの町には、ちょっと規模の大きい市民プールがある。つばき学園の敷地の半分くらいの面積に、通常の25mプールの他に、子供用の浅いプールや、全体を囲んでいる流れるプール、飛び込み台にウォータースライダーもあって、ちょっとした遊園地みたいになっている。

 本格的な夏が迫っていたある日曜日、わたし達マス部の三人は、その市民プールへ遊びに来ていた。


「着きましたよ、市民プールです!」


 バスを降りて、すぐ目の前にあるプールの出入り口を見て、わたしは気持ちが昂ぶっていた。プールの敷地は高い壁と生け垣に囲まれていて、外の駐車場から様子を見ることはできないが、たくさんのはしゃぐ声と水飛沫の音が、壁の向こうから聞こえてくる。

 頭のサンバイザーを少しくいっと上げて、蘭子は入り口を見上げる。


「ここに来るのはずいぶん久しぶりだな。小学校以来か?」

「そうかも。まさか高校生になって、また来ることになるなんてね。茉莉ちゃん、今日はもう一人来るって言ってなかった?」


 杏里がわたしに尋ねる。

 そうなのだ。バスのルートが重なっていたわたし達は、同じバスでここまで来たが、もう一人の参加者は自転車で来ると言っていた。バスが到着する時刻から逆算して、同じくらいのタイミングで合流できるように家を出るということだが……。


「もうそろそろ着いていてもおかしくないですけど、どこでしょうね……」

「おーい茉莉、こっちこっち」


 わたしに声をかけながら手を振る女の子が、駐輪場の方角から現れた。

 ちなみにもう一人の参加者は、マス部の関係者ではない。次の日曜日に先輩たちとプールへ行くと話したら、面白がってついていくと言い出した、わたしの数少ない友人である。

 ……そのはずだけど、駆け寄ってきたその女の子は、アロハシャツに迷彩柄のキャップと五芒星レンズのサングラスを身につけ、アバンギャルドなデザインの浮き輪を左腕に抱えていた。


「いやぁ、楽しみだねぇ、プール」

「いや、誰?」


 こんな一昔前のウェイ系みたいな女など、わたしの知り合いにはいないはずだが。


「ちょっとー、数少ない友達の顔も忘れたのかー? 平日は毎日教室で会ってるじゃん」

「数少ないはともかく、派手なグラサンで人相隠されたら、分かる顔も分かんないって」

(パリピ……)

(わあ、パリピだ……)


 蘭子と杏里が全く同じ印象を受けているとも知らず、そのパリピ……もといわたしの数少ない友達は、サングラスを額の上に挙げて、顔を見せた。キャップのせいで分かりにくいが、髪型は綺麗なぱっつんにおかっぱである。

 奇矯すぎる登場の仕方に呆れながら、わたしは先輩たちに彼女を紹介する。


「えーと、この子がわたしのクラスメイトで友達の、越谷(こしがや)瑠衣(るい)です」

「どうも、瑠衣です。わたしの友達がお世話になってます」


 瑠衣は格好が奇抜なだけで、意味もなくふざける性格ではない。マス部の先輩たちに対しても、固くなりすぎず、適度に丁寧な口調で挨拶した。

 そんな態度は、一つしか歳が違わず、普段から先輩風を吹かすことのない蘭子と杏里には、まあまあ好印象に映ったらしい。二人とも、いつもわたしに見せているような物腰で瑠衣に言う。


「ああ、及川蘭子だ。よろしく」

「わたしは軽部杏里。よろしくね、瑠衣ちゃん」

「なるほど、お二人とも茉莉から聞いていた人物像そのままですね」

「どういうふうに私たちのことを話してるんだ、茉莉は」


 別に、わたしは見たまんまのことしか瑠衣に話したことはないが。


「それにしても瑠衣、アロハシャツはちょっとはしゃぎすぎじゃない? まさかそれが普段着」

「な訳あるかい」遮って突っ込む瑠衣。「プールとか海に行くときの仕様だよ。下に水着を着ておいて、汗とかで濡れても絶対に透けない、通気性もあるアロハシャツを羽織ってるわけ」

「んー、合理的なのか横着なのか微妙なところ」


 確かにアロハシャツのあの模様は、濡れても下が透けて見えることはないだろうけど、そんな自慢げにドヤ顔で言うほどのことなのか。


「ところで、茉莉や先輩方も水着は持ってきたようですけど……」

「そりゃプールだから持ってくるでしょ」

「まさかスク水じゃないよね? もしスク水だったら全力で他人のフリするからね」

「そこまでやる?」


 しかもそう言っている瑠衣、笑っているのに目からハイライトが消えている。これマジだな。

 だが瑠衣の心配も分からなくはない。なぜならこの中で約一名、そのまさかをやらかそうとしていた人がいるのだ。


「私は学校指定の水着でもよかったんだがな……動きやすいし、デザインもシンプルで目立たないと思ったのだが」

「幅広い世代が使う市民プールで、スクール水着の女子高生はかえって悪目立ちするからやめておきなさい、って言っておいたの」

「おかげで昨日は、蘭子先輩の水着を選ぶのに丸一日を使っちゃったよ」

「うわあ……」ちょっと引いている瑠衣。

「そういえば、君は何か部活に入っているのか?」

「わたしはテニス部ですよ。中学からの経験者ということもあって、夏の大会に出られることになったんですけど……今日は練習の合間のリフレッシュに来ました」

「ここまですでに上り坂だらけの長い距離を、自転車で来ていたみたいだが……リフレッシュになっているのか?」

「汗を水で洗い流して、火照った体を水で冷ます、それがリフレッシュです」

「マッチポンプじゃないか」


 人並み程度の体力しかない蘭子に、運動部女子の発想は理解できなかったようだ。正直、わたしも分からん。スポーツが好きな杏里はどうだろうか。


「わたしはあんまり、汗をかくのは好きじゃないんだけど、たくさん体を動かした後にシャワーとかを浴びるのは気持ちいいわよ」

「そういうものですか」

「あっ、そういえば茉莉から聞きましたよ。杏里先輩って、色んなスポーツを観るのもやるのも好きなんですよね。水泳以外は」

「…………(ぷちっ)」


 あっ、地雷踏んだな。

 と思った時にはすでに遅く、瑠衣は左右のこめかみを杏里の拳でぐりぐりと捻りながら押しつけられ、「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛~~~」と金切り声を響かせるハメになった。そんな二人を放置して、わたしと蘭子は先に受付へ。


 暑さが厳しくなり始めた時期の休日というだけあって、市民プールは特に親子連れで賑わっていた。あちこちに小中学生とその保護者らしき大人がいて、その中に混じって高校生や中高年が、25mプールの専用レーンで泳いでいる。さらに、プールサイドの端にある売店で、ソフトクリームやジュースを買っている人もいる。これだけの規模の市民プールだから、楽しみ方も色々あるのだ。

 先に着替え終わった蘭子と杏里がプールサイドに出てきて、その賑わいを眺めている。


「盛況だな」

「六月でも真夏日は当たり前になってきたし、こういう所で涼みたい人が多いのね」

「まあ中には食べてばかりで一向に水に入らない人もいるみたいだが」

「あはは……そういえば、蘭子ちゃんの水着、よく似合ってるよ」


 杏里は少し前屈みになって、上目遣いで蘭子の水着姿を覗き込む。蘭子が昨日購入した水着は、紺色のワンピースタイプで、すらりとした体型にフィットしつつ露出を抑えたデザイン。スク水をおしゃれにしたみたいだ、と蘭子は言っていた。

 一方で杏里は白のビキニで、上下共にフリルがあしらわれている。大きめのバストやヒップが目立ちすぎないように、全体のバランスを整えるためにフリルつきを選んだが、それでもしっかりと膨らんだ白のビキニは、なかなかの破壊力を備えている。


「……杏里は、ナンパされても確実に逃げられるようにしなよ」

「ナンパされるのは確定なの?」

「先輩方、お待たせしましたー!」


 少し遅れて、わたしと瑠衣も水着に着替えてプールサイドに出てきた。なぜか瑠衣はわたしの背後に回って、わたしを前面に押し出してくる。


「ちょっと瑠衣、あんまり押さないでよ、転びそうになるじゃん」

「見てくださいよ、お二人とも! 茉莉が今日のために新調したそうですよ」

「もう、言わないでよ、瑠衣!」


 白状するとわたし、先輩たちとプールで遊ぶことが決まった時から、浮かれて水着を新しくしようと考えていて、蘭子の水着を選んだ前日の金曜日、一人でこっそり自分の水着を買いに行っていたのだ。ちなみにその現場を瑠衣に見られたために、今日のことを話す羽目になり、結果瑠衣も一緒に行くことになった。

 そんなわたしが選んだのは、露出控えめのビキニで、ピンク色の花びらを散りばめた、落ち着いた模様の水着である。すぐ近くにあったストライプのビキニにも一瞬心惹かれたけど、とてもそんな強気な格好になる度胸はなかった。

 とはいえ、自分に似合いそうな範囲で一番綺麗なものを選んだ結果は、先輩たちにも好評だった。


「わあ、茉莉ちゃん可愛いぃ~! いいわ、すごく似合ってるわよ~!」

「おー……」


 杏里は目を輝かせて褒めちぎった。蘭子は気の利いた事を言わなかったけど、珍しく目を大きく開いて、ほんのり頬を朱色に染めていた。言葉はなくても、蘭子にもいい感じに思われたようで、わたしは非常に満足している。

 ちなみに瑠衣もビキニではあるけれど、上下とも、黄緑の蛍光色の細長いヒラヒラを大量に纏っていて、遠目には南国の樹の細長い葉で作った、即席の水着に見えそうだ。……こんなものどこで売っていたのだろうか。


「先輩方ぁ、わたしの水着はどうですか?」

「…………」

「……南の小島だとよく映えそうだね」

「日本のプールだと、ヨルダンの死海よりも浮いてしまいそうだけどな」

「あははっ、上手いこと言いますねっ」

「…………」


 今日の瑠衣とは他人のフリをさせてもらおうかな、割とマジで。

 さて、全員の水着お披露目が済んだところで、いよいよプールを楽しむ時間だ。四人でプールサイドをぶらぶらと歩きながら、最初に遊ぶところを探す。


「さてと、まずはどこから行こうか」

「あっ、あれやりましょうよ、ウォータースライダー!」


 瑠衣が指差した先には、五メートルくらいの高台から下の遊泳プールへと伸びている、絶えず水が流れているハーフパイプ。真っ直ぐ伸びているのではなく、途中で一回だけ、360度ぐるりと円を描いている。……なんて言うと、蘭子あたりから、厳密な円の定義に合わないとか言われそうだから、黙っているが。

 その蘭子は、ウォータースライダーをじっと見つめて、あごに手を添えながら何やら考えている。


「ふむ……真上から見ると、ギリシャ文字のφみたいだな。小文字の筆記体の」

「ウォータースライダーをそんな視点で見るやつ、なかなかいないですよ」


 と言いつつ、蘭子の視点を面白がっているのか、瑠衣は口元が緩んでいる。

 まあ確かに、スライダーは入り口から見て左側にカーブしているし、着水地点も入り口より左側にずれている。上からなら、φの形に見えなくもない。


「よし! これを今日から『トーシェントスライダー』と名付けよう!」

「勝手に命名しないでください」

「そうよ。名前をつけるなら、ここを管理している役場と交渉して、ネーミングライツを獲得しないとね」

「現実的なアドバイスやめて」


 なんだろう、今日はボケ役が三人もいるせいか、いつもよりツッコミが忙しい気がする。泳ぐ前からすでに疲れ始めているわたしに、瑠衣が疑問を投げかける。


「つか、トーシェントって何? どこから来た?」

「蘭子先輩が言うならたぶん数学絡みだよ。知らんけど」

「ふうん。まあいいや、さっさと滑りに行くよ!」

「ちょっ、引っ張らないでよ!」


 瑠衣に強く手を引かれて、わたしはウォータースライダーの入り口の高台へ向かった。先輩たちは出口で迎えるためにプールへ入っていく。


「大丈夫か、杏里?」

「足がつく深さなら大丈夫だよ」


 ポンプで引き上げられた水が、スライダーの入り口の手前から噴き出して流れを作っている。その水流のすれすれの位置に架けられたセッティング台に腰かけて、心の準備ができたらパイプの中に足から滑り込ませるわけだが、瑠衣はわたしの背中に掴まって、くっつきながら一緒に滑り出した。

 別に体を密着させても滑る速さは変わらないが、瑠衣が後ろからわたしの肩を引き寄せているせいで、抵抗が弱くなったのか、体感的にスピードが上がったように思えた。


「うおおおお―――っ!!」

「ちょっ、これちょっと速すぎ、ってか、わああっ!!」


 慌てていて受け身の姿勢をとれなかったわたしと、調子に乗ってしがみついていた瑠衣は、出口でピョーンと投げ出され、お尻から着水した。派手に水飛沫が散る。


「これって、K点越えってやつ?」

「K点は斜面の曲率が変化する地点のことだろう? 危険な限界点なら、現在はL点と呼んで、そこまでの距離のことをヒルサイズと呼ぶ」

「あー、そういえばそうだった」

「水面で腰を強かに打った後輩に言うことはないんですか」


 ツッコミが普通にできるなら問題ないと思われたのか、特に二人から気遣われることはなかった。危険な着水を見て、真っ先に連想するのがスキージャンプって……季節感が逆になっている。

 そんな先輩たちも、わたしと瑠衣に続いてスライダーの入り口に向かった。なぜかわたし達と同じように、杏里が蘭子の背中にしがみついている。


「……羨ましいなあ、蘭子先輩」

「確かに、あの豊満な胸に包まれたいと思えるのは、人間の本能だよね」

「そんな本能知らんがな」


 それにわたし、何度かあのふくよかな胸を押しつけられた事があるから、そこは別に羨んでいない。こういう時に杏里から密着されるのが羨ましいのだ。幼馴染みの蘭子がどう思っているのかは知らないけど。

 ところで、なぜ杏里が蘭子の背中にしがみついているかというと、着水後に沈んで溺れることを怖がっていたからだ。純金製のカナヅチである彼女は、水に沈むことを極端に恐れている。

 ウォータースライダーの着水で沈む事なんて、まずないと思うけど……なんて考えているうちに、目の前で二人が飛沫を上げて滑り落ちた。

 すぐに蘭子が水面から顔を出す。


「ぷはっ。いやぁ、なかなか楽しいものだな、トーシェントスライダー」

「勝手に名付けて既成事実化しないでください」

「あれっ、ところで杏里先輩はどちらへ……?」

「「えっ?」」


 瑠衣に言われて振り向くと、白いフリルをあしらった薄だいだい色の大きな桃が、少しだけ水面に顔を出してぷかぷかと浮かんでいた。


「「杏里(先輩)ぃ―――っ!?」」


 わたしと蘭子の悲痛な叫びが響き渡った。……確かに沈みはしなかったけど!

 何とか助け出された大きな桃……もとい杏里は、真っ青な顔でイートインスペースの席に座っている。極端に体が冷えたわけでもないのに、凍えるように体をプルプルと震わせている。


「また水へのトラウマが増えちゃった……」

「話には聞いてましたけど、杏里先輩ってホントに水に沈みやすいんでむにゅ」


 余計なことを言おうとした瑠衣の口に、売店で買ったソフトクリームが杏里の手で突っ込まれた。こいつは地雷原を爆走する趣味でもあるのか……。

 ということで、わたし達は早くもイートインスペースで休憩する事になった。全員まだ二回しか水に入っておらず、ついでに言えば泳いですらいないのに。水の苦手な杏里に楽しんでもらうためのプール遊びだったが、まさかの逆効果だった。

 四人で一つのテーブルを囲み、ジュースやソフトクリームやアメリカンドッグを食べていると、近くを通りかかった親子の会話が聞こえてきた。


「お母さん、次あれやりたい」

「あれって?」

「“とーしぇんとすらいだー”ってやつ」


 ブフッ! 思わずわたしはジュースを吹き出した。

 案の定、娘の意味不明な言葉に困惑する母。


「えっと……ウォータースライダーのことかな。どこで聞いたの、それ?」

「知らないお姉ちゃんが言ってたー」


 どこのお姉ちゃんが言っていたのか、よく知っているわたし達は、楽しげに手を繋いで歩いていく親子を、呆然として見ていた。否、一人だけ、この珍妙な名前を考えた張本人だけは、なぜか得意満面だ。


「ふっ……ネーミングライツを獲得しなくても、問題なく浸透し始めているみたいだな」

「むしろそれが問題なんですけどね」

「というか、結局トーシェントって何なんですか」


 数学絡みだということは容易に想像できるだろうに、瑠衣は無謀にも訊いてしまった。札束を積まれてもマス部には入らないと言い切るくらい、数学が苦手なくせに……。


「そうだな……例えば、分母が10の分数は、全部で10通りあるだろう。ただし範囲は、0より大きく1以下だとする」

「まあ、そりゃそうですね」

「この10通りの分数の中で、約分できないものは4通りある。それはすなわち」


 1/10, 3/10, 7/10, 9/10


「この4つだ。トーシェントというのは、ある自然数を分母にもつ分数のうち、約分できないものの個数を示しているんだ。だから、10のトーシェントは4である、といえる」

「へぇ……なんだ、仰々しくカタカナを使うから難しい数学だと思ったけど、中身は小学生でも理解できますね」

「単にふさわしい日本語がないだけだよ」と、杏里。

「それに、これは本来のトーシェントの定義とは少し異なる。小学生でも理解できるような表現に置き換えただけだ」

「わたし小学生レベルですか?」


 蘭子から小学生と同レベルの扱いをされて、顔を歪ませる瑠衣であった。


「さて、先ほどの説明から、より本質的な定義を推測できるのだが、茉莉ならトーシェントをどう定義する?」


 わたしに振られるとは思ってなかった……が、よく考えてみれば、以前に聞いた話を利用できそうだと気づく。慎重に言葉を選んで答えた。


「たぶんですけど……自然数nに対して、nと互いに素な、n以下の自然数の個数、でしょうか」

「うん、それでいいよ」


 蘭子からOKをもらって、わたしはひとまず安堵した。数学好きは些細な言葉の綾にも厳しいからなぁ。

 ちなみに、自然数は場合によって0を含める時と含めない時がありますが、0はどんな自然数でも割り切れるから、1以外の自然数と互いに素にはならないので、トーシェントの定義に影響はありません。

 そして案の定、互いに素という言葉を初めて聞いた瑠衣は、わたしに尋ねてきた。


「茉莉、互いに素って何?」

「二つの自然数を同時に割り切る自然数が、1以外にないことだよ。最大公約数が1である、という言い方もできるね」

「最大公約数。うっわ、懐かしいなぁ。小学生の時に分母の違う分数の足し算や引き算で、えらい苦労したんだよねぇ」

「通分で使うのは最小公倍数だよ」


 数学の話が始まって調子を取り戻した杏里の指摘で、その場がしんと静まり返る。

 テーブルを両手でバンッと叩いて、杏里に苛立ちをぶつける瑠衣。


「こちとら小学生の時から算数・数学苦手ですけどなんか文句ありますかっ!?」

「ええっ!?」


 逆ギレかよ。わたしは内心で突っ込む。理不尽な怒りを向けられた杏里が哀れに思えてきたよ。


「文句はないけど、恥じるべきだとは思うぞ」


 蘭子にバッサリと言われて、瑠衣は一つも反駁できず、敢えなくテーブルに突っ伏した。まあ、高校生が小学生の算数の、それもかなり基本的な所を間違えたなら、大いに恥じるべきだろうな。

 それでも念のために書いておくと、最大公約数は、二つの自然数を同時に割り切る自然数のうち最大のもので、最小公倍数は、二つの自然数の両方で割り切れる自然数のうち、最小のものである。


「話を戻すが、トーシェントは関数の形で表される。例えばさっきの、『10のトーシェントは4である』はこのように表す」


 蘭子は紙コップの水を指先につけて、テーブルに式を書く。……ばっちいなぁ。


 φ(10)=4


「この関数を、西洋で最初に発明したオイラー師匠の名を冠して、『オイラーのトーシェント関数』と呼ぶ」


※オイラーのφ関数、または単にオイラーの関数と呼ぶこともある。


「またオイラーさんですか……」

「数論を勉強していれば、何度でも彼の名を目にすることになるさ。では具体的な計算の話に移ろう。茉莉、φ(7)はいくつになる?」

「えっと、7以下の自然数で、7と互いに素になるのは……分かりました! 7より小さい自然数すべてが、7と互いに素なので、6です!」


 7と互いに素な自然数 … 1,2,3,4,5,6

 φ(7)=6


「うん、正解。じゃあ次は、小学生の時から算数・数学が苦手だという瑠衣に問題だ」

「その枕詞(まくらことば)いりますぅ?」


 苛立ちのこもった瑠衣の不平を、蘭子は無視した。


「φ(15)はいくつになるでしょうか?」

「えっと、ちょっと待てよぉ……あーでもないこーでもない……よしできた! 8です!」


 瑠衣は指折りながら必死の形相で数えていき、体育会系らしく腹から出る声で答えた。


 15と互いに素 … 1,2,4,7,8,11,13,14

 φ(15)=8


「うん、正解。茉莉と比べるとだいぶ時間がかかったけどな」

「数が大きくなったらもっと大変になるに決まってるじゃないですか!」

「まあそれはそうだけどね」と、杏里。「でもコツさえ知っていれば、今の問題は一秒で答えられるよ」

「は? そんなに早く?」

「瑠衣、この人たちが特殊なだけだよ」


 そりゃあ、計算のコツの一つや二つくらいあるのだろうけど、一秒はさすがにサバを読み過ぎだ。先輩たちならともかく、わたしではたぶん、無理。

 すると瑠衣は、意地の悪そうな笑みを浮かべて、蘭子に言った。これはつまり、先輩たちに気を許したということだ。


「だったら先輩方……φ(125)はいくつですか?」


 わざともっと大きな数を出して、時間をかけさせようと企んだようだ。もちろん瑠衣は適当に大きな数を言っただけで、答えなんて知らないだろうけど。

 ところが。


「「100」」

「なんでだーっ!!?」


 蘭子と杏里は同時に、それも二秒で答えた。あまりにも想定外のスピード解答に、瑠衣は発狂する。そして再びテーブルに突っ伏す。


「もう何なのこの人たち……MENSAの会員かなんかッスか」

「そういうんじゃないよ。たまたま計算しやすい数が出てきただけだし」

「そうだな。おかげでこの後の話がとてもやりやすくなった」

「と言いますと?」


「トーシェントの値は、素因数分解を使った公式で計算できる。わざわざ互いに素かどうかを一つ一つ確かめる必要はないんだ」

「そんな便利な公式があるなら、先に教えてくれてもよかったのに……」

「公式なしで苦労した方が、より公式のありがたみが分かるだろう?」


 肩を落として睨む瑠衣に、蘭子は事もなげに言う。なんか、一度無くすことでありがたみを理解させる、という感じのひみつ道具を、どこかで見たような。


「ところで、トーシェントの公式を説明する前に確認しておきたいんだが……瑠衣は、素因数分解を知っているのか?」

「さすがに見くびりすぎじゃないですかね!? あれでしょ、素数のかけ算に分解するってやつでしょう?」

「正確には、自然数を素数の積に分解する、と言った方がいいかな」

「……茉莉、だんだんこの先輩方に似てきたな」


 瑠衣も滅多なことを言ってくれる。以前に蘭子が面倒くさく指摘したことを、そのまま拝借しただけであって、わたしはまだこの二人の足元にも及ばない。


「よし、分かっているなら先へ進もう。トーシェントの値を求める公式は、三段階に分けた方が分かりやすい。まずは素数。素数は、自分より小さい自然数とは必ず互いに素になるから……」


 ①素数pに対して、φ(p)=p-1


「……となる」

「さっきわたしが求めたφ(7)も、7-1で6でしたね」

「次に、素数の累乗を考える。p^nで表される自然数の場合、これはp以外の素因数を持たないから、pの倍数以外の自然数と互いに素になる。p^n以下の自然数の中で、pの倍数は(p^n ÷ p)個あるから……」


 p^n-(p^n ÷ p) = (1-1/p)×p^n

  = ((p-1)/p)×p^n

 よって、

 ②φ(p^n)=((p-1)/p)×p^n


「試しに、さっき私たちが解いたφ(125)を、この公式で計算してごらん。125は5の3乗だよ」

「ということは、125に4/5をかけるわけだから……確かに100になりますね!」


 125×(4/5) = 25×4 = 100


「続いては、互いに素な自然数の積に分解できる場合を考える。実はとてもシンプルな関係になっていてね……自然数nが、互いに素なlとmの積に分解できる時、そのトーシェントはこうなる」


 ③lとmが互いに素で、n=lmのとき、

  φ(n)=φ(l)φ(m)


「あっ、これって“乗法性”ってやつですね!」

「さすが茉莉ちゃん、よく覚えてたね」


 もちろんちゃんと覚えている。メルセンヌ素数を使った式の値が完全数になることを、杏里の力を借りながら、約数関数の性質を使って示したことがある。約数の和を求める関数、約数関数には、互いに素な自然数をそれぞれ関数に入れた値の積と、元の自然数の積を関数に入れた値が等しい、乗法性という性質がある。詳細は第4話を見てね。


「自然数って、いつも都合よく互いに素な数に分解できるんですか?」と、瑠衣。

「素数の累乗以外は必ず分解できるよ。なぜなら、異なる素数同士は必ず互いに素だからね。素数を二種類以上含んでいる自然数なら、両方に同じ素因数が含まれないようにすればいい。例えば20は、2を2個、5を1個含んでいるから、片方を2だけ、もう片方を5だけにすることで、互いに素な数の積に分解できる」


 20 = 2^2 × 5 = 4 × 5

 24 = 2^3 × 3 = 8 × 3

 36 = 2^2 × 3^2 = 4 × 9

 60 = 2^2 × 3 × 5 = 12 × 5 = 4 × 15 = 20 × 3


「もちろん他の自然数でも同じことがいえる」

「なるほど……」

「ではここまでの話を踏まえて、さっき瑠衣が解いたφ(15)を、もう一度計算してごらん」

「えっと、15は3×5で、素数は1引くだけだから……」


 φ(15)=φ(3)×φ(5)=2×4=8


「ホントだ! 簡単に計算できた! やっぱ公式ってすごいですね!」

「はっはっは、そうだろう」


 数学オンチの瑠衣が公式のありがたみを理解したおかげで、蘭子はいたく上機嫌だ。ただ、わたしにはひとつ気がかりなことがあって……。


「あの……約数関数の乗法性を示すときは、式の展開の応用でいけましたけど、たぶん今回、同じ手は使えないですよね」

「そうだな。個数の一致を示すわけだから、違うやり方が必要だ」

「どうやって示すんですか? パッといい方法が思いつきませんが」

「ああ、それはだな……」


 蘭子はさっきと同じように、紙コップの水を指先につけて、テーブルに書こうとした。だが、テーブルに指先を当てる前に、ぴたりと止まる。そしてなぜか仏頂面になった。

 諦観したような顔で椅子から立ち上がり、蘭子はくるくると踊りながら席を離れようとする。


「ちょっと複雑な話になるから、続きは遊び終わってからにするよー」


 なるほど、ちょっと複雑な数式展開が必要だけど、テーブルに水で複雑な数式は書けそうにないから諦めたわけか。プールに筆記用具なんて、普通は持ち込めないからなぁ。

 お勉強タイムが終わって急に張り切り出す、体育会系の瑠衣。


「よしっ、じゃあ次は向こうの流れるプールに行きましょう、杏里先輩!」

「流されるプールの間違いじゃないのぉ……?」

「杏里先輩、手を繋いであげますから」


 まだ水への恐怖が薄れていない杏里の手を引いて、わたし達は流される、もとい流れるプールへと向かった。一文字加わっただけでえらい違いだ。

 ちなみに今度は、杏里が水に沈むことはなかった。ウォータースライダーでは使えなかったけど、瑠衣が浮き輪を持ってきていたから、流れるプールではそれが使えた。アバンギャルドなデザインの浮き輪に乗っかって、杏里はぷかぷかと浮きながら、ゆっくりと流されていく。わたしと瑠衣は立ち泳ぎでついていく。


「どうですか、杏里先輩。わたしの浮き輪」

「まあまあ快適だけど……この模様はやっぱり目立つわね」

「そうですか? 迷彩柄とかペイズリー柄もありましたけど、そっちの方がよかったですかね」

「なんでそんなとち狂ったような浮き輪ばかりあるのよ……」


 もっとありふれたデザインの浮き輪を持とうとは思わないのだろうか。とりあえず瑠衣のセンスは当てにしないようにしよう。


「それにしても、互いに素な数がいくつあるか、なんてことまで考えるんですね、数学者って」

「オイラー以前に考えた人はたぶんいないけどね」

「常人にはない発想ですよねぇ……」


「あぁでも」杏里は何かを思い出す。「確か江戸時代の日本に、オイラーより前にトーシェントの概念に辿り着いていた人がいたんだっけ」

「えっ、そうなんですか?」

「誰だったかな……蘭子ちゃんならきっと知ってると思うんだけど」

「蘭子先輩が崇拝するほどの天才であるオイラーに先んじて、こんな独創的な発想に辿り着いた日本人がいたとは……」

「日本の数学者も棄てたものじゃないねぇ」


 蘭子先輩が特に崇めている数学者の神7に、日本人は含まれていない。だけど、特筆すべき成果を上げた日本人数学者も確かにいたのだ。何百年も昔の事とはいえ、ちょっと誇らしい気分になる。


「江戸時代の日本の数学は『和算』といって、中国から伝わった数学に独特のアレンジを加えて発展させたものなの。トーシェントだけでなく、円周率の計算、ベルヌーイ数、行列式など、西洋に先駆けて生み出された発明がいくつもあるのよ」

「おー、言葉の意味は分かんないけど、とにかくすごいってことは分かった」


 瑠衣の感想は完全に小学生レベルである……。


「そうそう、合同式も和算で研究されていたのよ。しかも今日教えたトーシェントは、合同式とも深く関わっていてね……」

「合同式と?」

「そう、トーシェントを使うことで、合同式の世界は一気に広がるのよ。今度は部室で教えてあげるね」

「…………はい」


 杏里は合同式の話になると、別人みたいに生き生きとする。その姿が可愛いから、わたしもつい夢中になって聞いてしまう。まあ、気づかないうちに何度も、合同式の恩恵を受けていることもあって、単純に興味が湧いている、というのもあるが。

 流れるプールはそろそろ一周する。入ってきた地点が近づいてきたところで、瑠衣が声をかける。


「おーい、そろそろ次に行こうよ」

「そうだね。他のプールも回ってみたいし」

「えっ? ちょっと?」


 瑠衣が岸に上がったので、わたしも続けて岸に上がろうと、流れを横切りながら岸に向かう。


「今度は浅めのプールに行くか? 膝までしか浸からないやつ」

「それ子ども用だし……さすがに嫌ですよね、杏里先輩、って……」


 ふと目を向けると、浮き輪に乗っかったまま、どんどん流れて遠ざかっていく杏里の姿が。乗っかっているということは、腰だけを浮き輪の穴に入れて寛ぐ姿勢だから、泳ぐことはもちろん、流れに逆らうこともできない。つまり……。


「助けてぇ~~、茉莉ちゃ~~ん……」

「「わあああっ!!」」


 なすすべなく流されていく杏里に気づいて、わたしと瑠衣は面食らって叫んでしまった。


  * * *


 一方その頃、蘭子は子ども用プールでぷかぷかと浮いたまま、ぼうっと空を眺め、トーシェントのことに思いを馳せていた。


「オイラー師匠は当然すごいけど、久留島(くるしま)義大(よしひろ)も素晴らしいよなぁ……」


 それは、オイラーに先んじてトーシェントの概念に言及しながら、公表することに無頓着だったゆえに成果を残さず、亡くなってから周囲の人たちの手でその功績が広められた、ある和算家の名であった。


作中のプール施設に、特にモデルはありません。全部想像です。

プールや水着、そしておバカなやり取りに分量を割きすぎて、数学の話は後半だけになりましたし、筆記用具を持ち込めないから解説も難しい。数学とコメディのバランスにはいつも苦慮します。

トーシェントのお話はまだ続きます。乗法性の証明と、プール編のオチは、この後のafterにて。

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